大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録6章1~15節

2020-07-26 15:46:34 | 使徒言行録

2020年7月26日大阪東教会聖霊降臨節第9主日礼拝説教「神を写す者」吉浦玲子

【聖書】

そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。

【説教】

<祈りと御言葉の実践>

 教会の中心には祈りと御言葉があります。祈りと御言葉によって、人を救い、恵みへと導く、それが教会の働きです。教会の中心に祈りと御言葉以外のものが入ってくると教会は教会ではなくなってしまいます。一方で教会には、種々雑多な実務的なことも発生します。人と人の間の問題も起きてきます。使徒言行録の時代の教会には、言語も育った背景も異なる多様な人々がいました。今日の聖書箇所では、ギリシャ語を話す人々から、ヘブライ語を話す人々への苦情が出た、とあります。食べ物の分配で不公平が生じたというのです。当時の教会は財産を共有し、必要なものを入手して人々に分配していました。その分配で不公平が生じたということは、祈りと御言葉を中心とした教会で、財産・お金の使い方の問題で揉めたということで、ひどく生々しい話です。

そこで、使徒たちは、教会内の実務的なところを治める人を立てることにしました。当時はまだ教会の中の職制が今日のようにはかっちりと定められておらず、今日と違うところもありますが、ここでは今日でいうところの執事にあたる人々が立てられたのです。これは、教会の本分である祈りと御言葉、つまり礼拝を司る牧師や司祭と、教会内のさまざまな実務を行う人々を分けて、教会内の分担を明確にしたということだけではありません。起業したばかりのベンチャー企業が、徐々に大きくなるにしたがって組織を細分化して、さまざまな部署や役職を整えていくということとは少し違います。

「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」と使徒たちは言っています。それは食事の世話をなにか下世話な仕事とみなして、そういうものは使徒でない者にやらせようと言っているわけではないのです。そもそも1節に「仲間のやもめたちが軽んじられていた」とあります。つまり神の家族である教会において身分や立場による差別が起こっていたのです。そしてまた背景に文化や慣習の違いがありました。ギリシャ語をしゃべる人々はもともと外国にいてエルサレムに戻ってきた人々といえます。それに対してヘブライ語を話す人々はもともとイスラエルの領内にいた人々です。両者には、文化や習慣の違いがかなりあったようです。おそらくどちらかというとヘブライ語を話す人々の方が、自分たちは純粋なイスラエル人だという自負があったと思います。彼らからギリシャ語を話す人々は低く見られていたかもしれません。そのギリシャ語を話す人々から不満が出たのです。

神の言葉によって、神の家族とされたはずの人々の間に、分裂が起こりました。それはお金の分配や物資の供給システムの問題ではなく、祈りと御言葉が、現実の教会の中に定着していないということです。礼拝で神の言葉を聞きながら、その言葉を現実のものとしていないということです。御言葉と現実が分離していたのです。神の愛の言葉を聞きながら、教会の現実の中で愛ではないことがなされているのです。そもそもやもめたちが軽んじられていた、ということは、やもめや寄留者といった弱い立場の人々を大事にするよう諭しているモーセの律法が実践されていないということです。さらに、「神を愛し、隣人を愛しなさい」とおっしゃった主イエスの教えも実行されていないということです。

そのような礼拝と現実の分離をつなぐ役割を担って実務的なことを治める人々が立てられました。「あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい」とあります。ここで、聖霊に満たされた、神の知恵を持った人を選びなさいと使徒たちは言っています。単に実務をするだけなら、実務能力の高い人を選べばよいのです。宗教団体だからちょっとそれらしく<“霊”と知恵に満ちた人>という徳の高い人を選びましょうと言ったわけではありません。神からの霊の力と知恵によって、教会の中を治めることのできる人々を立てようということなのです。

ある方はこの部分で7人という数字に着目されています。ギリシャ語を話す人々、ヘブライ語を話す人々の間で問題が起こっているなら、両者から同数の人を立てて調整したら良さそうなところを、あえて7という絶対に同数にならない人数を使徒たちが指定しています。つまり教会は、そもそもここで人間的な調整や実務を求めているわけではないということなのです。政治的な解決を求めてはいないということです。あくまでも神の霊と知恵によって問題を解決することを選んだということです。そしてその結果選ばれた人々は、名前から見ると、ギリシャ語を話す人々ばかりだったと考えられます。共同体を構成する二つのグループの内、片方からだけ人が選ばれたのです。これはこの世の常識からは考えられないことです。

教会の中の一つ一つの事象を、聖書と主イエスの教えに沿って判断していくリーダーとして新たに7人は立てられました。やもめを軽んじながら、すべての人を愛しておられる神のことを伝道はできません。言ってみれば新たに立てられた7人は、使徒たちの言葉を教会の内外で実現していくリーダーでもあったのです。神の愛といいながら弱い立場の人を軽んじたり、逆に、聖書を軽んじて人間的ななれ合いのなんでもありの無秩序に教会が陥らないように、聖書と信仰に基づいて治めていくための人々が立てられました。教会のすべての実務が聖書と信仰に基づいたものとなり、教会がまことの愛の共同体となるためのリーダーでした。

<殉教に選ばれる>

 その新たなリーダーたちの一人がステファノでした。ステファノという人は信仰と聖霊に満ちた人であると記されています。「恵みと力に満ち、素晴らしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」とあるように、ステファノは執事として奉仕をしながら伝道をしていました。そのステファノは、生まれたばかりの教会における最初の殉教者として有名です。信仰と聖霊に満ちた人がなぜ最初に殺されてしまったのでしょうか?これまで使徒たちが逮捕されたりはしました。牢に入れられたり鞭打ちにあったりはしましたが、その都度、助けがあり、解放されたのです。しかし、信仰と聖霊に満ちた人ステファノは命を失いました。

これは迫害する人々の質が異なっていたことが一つ影響をしています。これまでは祭司といった権力者たちが教会に敵対をしていましたが、民衆は教会の味方でした。ですから権力者たちも手荒なことはできなかったのです。今日の聖書箇所で記されている「解放された奴隷の会堂」に属する人々やキリキア州とアジア州出身の人々というのは、おそらくステファノと同様、外地から帰ってきたギリシャ語を話す人々であったようです。ステファノは自分の出自の近い人々に伝道をしようとしたのです。しかし、彼らはステファノの語る福音を信じることはできませんでした。しかし、議論ではステファノに打ち負かされ太刀打ちできませんでした。そこで「彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。」とあるように、ステファノをイスラエルの神の冒涜者に仕立て上げました。13節にも「聖なる場所と律法をけなした」と訴えたとあります。つまり神殿と律法を冒涜したというのです。さらに、民衆をも扇動したのです。こうなりますと、祭司たちも律法学者たちも黙っていません。神と律法と神殿を冒涜したという訴えが、今回は民衆側から出たのです。これはかつて使徒たちが最高法院の席に立たされた時とは異なる状況です。

しかし、ステファノが殺されたのはそのような外的要因だけに因しているいるのではないと考えられます。使徒言行録を読み進めますと、実際のところ、ステファノの殉教は、エルサレムの教会への大迫害の号令となりました。これを契機に弟子たちはエルサレムから散っていきました。それは一見、エルサレムの教会の分裂・崩壊の出来事のように見えます。しかし、8章を見ますと、散っていった弟子たちはそれぞれの場所で福音を告げ知らせたのです。つまりエルサレムで大きくなった教会は、さらに広い地域に広がっていくために、むしろ細胞分裂したような形で、あるいは植物の種が風に乗って遠くに広がっていくように、各地に広がっていったといえます。使徒言行録の1章で主イエスが、あなたがたは「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃったことが、まさにステファノの殉教を契機に実現したと言えるのです。

つまり、ステファノは教会の成長のために特別に選ばれた器でした。殉教に選ばれたのです。殉教に選ばれたというと、なんだか違和感もあるかと思います。しかし、実際のところ、ステファノは神に選ばれて殉教をしたのです。そもそも、神に選ばれるということは十字架を担うということでもあります。クリスチャンはみなそれぞれに十字架を担うのです。私たちはおそらく殉教はしないでしょう。殉教ということには選ばれていないのです。しかし、やはり一人一人、十字架を負って歩みます。その十字架は、単に重荷を負って人生の坂を上るというようなものではなく、誰かを生かすための歩みを為すということです。そのように神が導かれるということです。ステファノの殉教によって教会は広がり、多くの人が福音を知らされ、永遠の命を与えられました。私たちもまた、一人一人、誰かを生かすために、神に選ばれて十字架を担って歩みます。それがキリストの弟子として生きるということです。キリストの弟子として生きるとき、私たちはそれぞれに十字架を負い、それぞれの歩みにキリストを写す者とされていきます。

<本当の平安>

さて、ステファノは自分の置かれた状況を十二分に分かっていました。使徒たちが逮捕された時とは異なり、自分は殺されるかもしれないという思いがあったでしょう。敵対する者たちは偽証人を立ててきて、抜かりはありません。絶体絶命の状況です。しかし、聖書は「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」と書きます。

これは殉教したステファノを美化するための表現ではありません。実際、天使のようなとしか言いようのない顔つきをステファノはしていたのだと思います。実際、ステファノへの怒りと憎しみに満ちたまなざしのなかにさらされながら、ステファノは天使のような顔をしていたのです。それは死を覚悟した悲壮な顔でもなく、理不尽な裁判への怒りや悲しみに満ちた顔でもなく、自分を陥れる者たちをさげずむような顔でもなく、平安に満ちた顔だったのだと思います。次週の説教箇所になりますが、7章の56節で「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」とステファノは語っています。ステファノは聖霊によって、天と繋がれていました。肉体には死の危険が迫っていましたが、彼にはすでに天におられるキリストへの信頼があったのです。しかし、その信頼は、キリストが自分の肉体の危機を救ってくださるという信頼ではなく、死を越えた命に生きる祝福をすでにいただいているということへの信頼でした。

そしてまた、ステファノは平安を得て、どうぞ後は御心のままに、となすがままに運命に身をゆだねたのではありません。ステファノは最高法院で大胆に語ります。それは憎悪に満ちた反対者の中にあってステファノをさらに窮地に陥れる行為でした。ステファノの説教は次の7章にあるようにとても長いものでした。旧約の時代からの神の約束を語り、人々が神の聖霊に逆らっていることを訴えました。

十字架を担い、天に結ばれた者は最後まで大胆に戦います。神の御心を語ります。天使がかつてザカリアやマリアに神の恵みの出来事を伝えたように、ステファノもまた神の恵みの出来事を大胆に語りました。神を信じる者は、輝くような平安の中で、最後まで戦うのです。


使徒言行録5章17~42節

2020-07-19 12:23:58 | 使徒言行録

2020年7月19日大阪東教会聖霊降臨節第八主日礼拝説教「神に由来するものは滅びない」吉浦玲子
【聖書】
そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、 
使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」 
この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たちのことで思い惑った。 そのとき、人が来て、「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」と告げた。そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。 
彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。 
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」 
これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。 
それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。
【説教】
<死へと向かう心>
 3章ではペトロとヨハネが逮捕された記事がありましたが、今度は、使徒たちが全員逮捕されるという事態になりました。教会が勢いを増せば増すほど、権力者たちの迫害は強まってきました。「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた」とあります。「ねたみに燃えて」というのは生々しく人間臭い言葉です。しかし、ねたみという言葉は新約聖書のここ以外にも出てきました。
 マタイやマルコによる福音書で、主イエスを死刑にするために、権力者たちがローマ総督ポンテオピラトのもとに主イエスを連れて来た時、ピラトは主イエスを釈放しようと努めた記事がありました。「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」とありますように、ピラトは主イエスが罪を犯したわけではなく、宗教指導者たちはねたみのゆえに主イエスを殺そうとしているということが分かっていました。厳密にはギリシャ語の原文で使われている単語は今日の聖書箇所と福音書のポンテオピラトの言葉では異なりますが、ねたみ、そねみ、嫉妬という同様の意味をもった言葉が使われています。
 つまりこの場面は、かつて主イエスに向けられていた権力者たちのねたみが今や、弟子たちに向けられている場面といえます。それにしても宗教指導者たちが、主イエスや弟子たちをねたんでいるのです。普通に考えますと高徳であるべき宗教指導者がねたみの心にとらえられるなんてありえないように思います。しかし、ねたみという感情というのは、根本的に神から離れた罪から生まれてくるものです。徳を積んだり、修行したり、心を鍛えても、神を知らない限り、人間は罪から離れられません。ねたみの心から自由になることはできません。宗教指導者は聖書は知っていたかもしれませんが、生きて働かれる神は知らなかったのです。彼らもまた神から離れた罪の中にありました。ねたみという感情に捉えられていたのです。今日の聖書箇所で「ねたみに燃えて」という言葉は「ねたみに満たされて」という意味です。神を知らないとき人間はねたみに心を満たされてしまうのです。そしてまた聖霊に満たされていない時、神が見えず、心はねたみに満たされるのです。
 ねたみや嫉妬という感情はほんの小さな子供でも持っているものです。小さな子供であってもねたみや嫉妬によってびっくりするような行動をします。嫉妬に駆られた人間がどれほど醜いことをするかというのは私たちは経験によって知っていますし、聖書にも記されています。聖書に記された最初の殺人は有名なカインとアベルの物語でした。弟アベルが神に目を留められたことを妬んだ兄カインが、アベルを殺してしまいます。ねたみは人を殺す負、マイナスのエネルギーを持っているのです。ねたみによって、かつてアベルの血が流れ、さらに主イエスの血も流されました。ねたみは死を呼ぶ感情だと言えます。
<命の言葉を語る者は守られる>
 そのようなねたみに満たされた権力者たちから使徒たちは逮捕されましたが、不思議なことが起こります。「主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った」とあります。主の天使が使徒たちを救うということは不思議な奇跡的な出来事ではありますが、流れとしてはなるほどと思うことです。しかし、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という言葉には驚きます。使徒たちが捕らえられているのは、まさに福音を告げ知らせたからにほかなりません。使徒たちに助けるのであれば、「さあ、遠いところに逃げなさい」という方が普通のように感じます。にもかかわらず、さらに権力者たちの怒りを買うであろう行為をせよと神はおっしゃるのです。
 さきほどねたみを死を呼ぶ感情だと申し上げました。その感情から守られるのは「命の言葉」を告げ続ける者です。命の言葉、福音を告げる者は守られるのです。キリストの死と復活、そして罪からの救いを語り続ける者は守られます。こののち、さらに教会には大きな迫害が起こります。さすがにエルサレムで伝道をすることが難しくなる事態が起こります。しかし、弟子たちは遠くへ逃げて息をひそめていたわけではありません。逃げながら、なお命の言葉を告げ続けたのです。むしろ迫害が起これば起こるほど、命の言葉は告げ知らされ、教会は広い範囲に広がっていったのです。使徒言行録はエルサレムに起こった小さな新興宗教に過ぎなかった教会が、やがて当時の世界の中心であったローマにまで伝えられたことを記しています。そしてさらに使徒言行録の時代ののち、命の言葉は、ヨーロッパ全域、世界中へと告げ知らされました。死を呼ぶ罪を打ち破って命の言葉は広がっていったのです。
<助ける者>
 神殿で教えていた使徒たちはふたたび捕らえられます。最高法院に使徒たちは立たされます。しかしそこでも使徒たちはキリストの十字架と復活の証人として恐れずに大胆に語ります。かつて十字架の出来事の時、主イエスを置いて逃げ出した弟子たちが、いまや、最高法院で命の言葉を大胆に語っているのです。当然、聞いていた人々は激しく怒ります。「使徒たちを殺そうと考えた」とあります。
 しかしそこに意外な助け手が与えられます。ファリサイ派のガマリエルという人です。律法の教師とあります。ファリサイ派のリーダーと言える人でした。権力者のなかでサドカイ派は神殿を司る人々で、議会においても多数派でした。それに対してファリサイ派はまじめに律法を守る人々で、議会においては少数派でした。しかし、民衆から人気があったのはサドカイ派ではなく、ファリサイ派の方でした。ファリサイ派は福音書では主イエスと対立する悪役のような形で登場することが多いのですが、実際のところは、まじめな宗教家たちであったのです。多数派のサドカイ派でありましたが、議会においては、民衆に影響力を持つファリサイ派の賛同を得ることは重要なことでした。
 そのファリサイ派のリーダーであるガマリエルは使徒言行録の後半で活躍することになるパウロの律法の先生でもありました。パウロ自身が使徒言行録22章で「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け」たと語っています。このパウロが語るガマリエルと、今日の聖書箇所で出てくるガマリエルが同一人物かということに関して議論がないわけではありませんが、歴史的には同一人物とみなされています。
当時、誰に律法を学んだかということは大きなことでした。現代でいえば学歴のようなものでした。パウロがガマリエルに学んだとあえて語っているのは、ファリサイ派であった自分のかつてのステータスを示すためのことでした。
 いずれにせよ、キリスト教の神学基盤を打ち立てたパウロのような優秀な人物の師であったガマリエルは民衆からも尊敬されていたなかなかの人物であったようです。彼は、使徒たちから手を引けと語ります。
 その語った内容も実に理にかなったことでした。彼はかつて民衆から支持されたテウダやガリラヤのユダたちがやがて滅んでいった例をあげ、「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、滅ぼすことはできない。」と語ります。ガマリエルは使徒たちが言うキリストの十字架と復活の出来事は信じていないと考えられます。福音を信じることのない律法主義者でありました。この場面は、キリスト教徒ではない人に使徒たちが助けられた場面であると考えられます。
 実際、その後2000年に渡り、教会やクリスチャンは、キリストを信じてはいない人々によって助けられるということが往々にしてありました。ローマの時代、激しい迫害に教会が耐えられたのは、特にその迫害の後半においては教会が社会にあって一定の理解と信頼を得ていたからだと言われます。教会には、クリスチャンではない人々と良好な関係があり、場合によっては助けられてきた歴史があります。もちろんそれは教会の外に神が助け手を備えてくださっていたとも言えます。
 さらに歴史をさかのぼりますと旧約聖書の時代にも、聖書の神を信じない異教の人々にイスラエルの民が助けられる場面が描かれています。代表的な出来事は、バビロンに敗れてイスラエルが滅んだのち、ペルシャのキュロス王によってイスラエルが解放されたことです。バビロン捕囚となっていた人々は解放され、故国に戻ってくることができました。イスラエルを再建し、崩壊していた神殿を立て直すことができたのです。神はそのように不思議なあり方で、ご自身を信じる人々を守られます。今日の聖書箇所のガマリエルもまたそのように神から用いられた人物であったと考えられます。
<神の前での態度>
 私はここで少し疑問に思いました。たしかにガマリエルはこの場面で使徒たちのために神から用いられました。彼自身の本心はどこにあったのでしょうか。彼は「もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」と語っています。ここを読むと、彼は福音を完全には信じていなかったかもしれないけれど、彼自身は神を畏れる人であったのではないかと感じられるかもしれません。私自身、判断がつきかねるところがありました。しかし、彼は「あの者たちから手を引きなさい。ほおっておくがよい」とも言っています。本当に神を畏れ、神に逆らう者になるかもしれないと感じているならば、「ほおっておく」ことはできないと思います。いてもたってもいられず、使徒たちの話をさらに聞くなり、聖書を調べるなりすると思います。しかし、彼がそうしたとは書かれていません。実際、彼はほおっておいたのです。
 神を畏れる者は、ほおっておくことはできないのです。ペンテコステのとき、ペトロの説教を聞いた人々は、ペトロの言葉は、自分たちへの罪の告発の言葉であったにも関わらず心を打たれて、回心して、洗礼を受けました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と彼らはペトロたちに聞いたのです。
 神を畏れ、神の前に立つ者は、望むと望まざるとに関わらず、態度を決めざるを得ないのです。「わたしたちはどうしたらいいのですか」と問い、一歩を踏み出さざるを得ないのです。ガマリエルはそうしませんでした。彼にはおそらく勝算があったのです。すでに使徒たちのリーダーである主イエスは死んでいる、テウダやガリラヤのユダと一緒だと考えていたのでしょう。そして残されているこの使徒たちもやがて自滅すると考えていたのではないかと思われます。
 そういう意味でガマリエルの弟子であったパウロの態度は異なっていました。回心前、彼はキリスト教徒たちをほうっておくことはできず、徹底的に迫害していました。彼はキリストを知らず、結果的には間違ったことをしていましたが、神を畏れ熱心に求めていたのです。ですから当時の彼にとって神を冒涜していると考えられたキリスト教徒のことをほおっておくことはできなかったのです。そのパウロを神ご自身がほおっておかれませんでした。間違った行為を為していたにもかかわらず、赦し、ご自身のもとへと迎えられました。求める者には神は確かにそのご自身を与えられるのです。
<喜びをもって>
 しかしまたガマリエルの言ったことには深い意味もあります。「人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものであれば、滅ぼすことはできない」これはガマリエルの口を通して神が語られた真実の言葉です。
 ただこれを短絡的にとらえてはいけません。例えば今日の聖書箇所からののち教会は迫害の中で殉教者も出していきます。殉教した人は神に逆らったから亡くなったわけではありませんし、殉教者を出した教会が神から出ていなかったということでもありません。さらにはせっかく立った教会が継続できなくなるところも多くありました。ガマリエルが見たらまさに自滅しつつあると思えるような事態も多々あったのです。今日においても、教会の教勢が増えたら神の祝福があり、減れば神に祝されていないと単純に考えられることもあります。しかし、短期的にそういうことを考えることは控えなくてはいけません。しかし、神のご計画は人間が考えるよりとても深く長期的なものです。人間の目には滅びつつあるように見えても、しっかりと根を張り、やがて大きく繁栄することもあります。実際問題として、この世界においては、この世と迎合して、現代の人々に受けることをマーケッティングリサーチをして上手にパフォーマンスをしていけば、ひとときは繁栄することができるのです。しかしそこに残るのは虚しさと壮大な廃墟です。
 大事なことは、私たちが神の御手を信じ、喜びをもって命の言葉を聞き、伝えているかということです。そこには、かならず豊かな種が蒔かれるのです。荒れ野のように見える殺伐としたところにやがて芽が出て、大樹になっていきます。私たちは喜びをもって小さな一粒の種を今日も蒔きます。神からいただいたけっして滅びることのない希望の種を私たちは蒔いていきます。


使徒言行録5章1~16節

2020-07-12 12:38:22 | 使徒言行録

2020年7月12日大阪東教会聖霊降臨節第七主日礼拝説教「神を欺くことはできない」吉浦玲子

【聖書】

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。

それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、

ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。

人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

【説教】

<神は厳しいお方か?>

 生まれたばかりの教会に試練が降りかかりました。それは教会の外からは、ペトロたちの逮捕に象徴されるような迫害という形を取りました。しかしまた教会の内側にも問題が起こりました。それは教会員の不信仰という問題でした。使徒言行録に記されている教会の外と内の両面からの試練は、この地上にある教会が2000年に渡り経験してきたことでもあります。キリスト教の歴史の長い地域にある教会であっても、日本のようにまだ開拓期といえる歴史の短い地域の教会においても、たえず外から内から試練が起こります。

 アナニアとサフィラは教会内部の不信仰者として最初の不名誉な名を残しました。ちなみに今日の聖書箇所の前、4章の最後の部分を読みますと、経済的に豊かな多くの信徒たちが自分たちの土地や家を売って教会に捧げていたことが記されていました。今日とは教会の置かれている状況がいろいろな意味で異なっていましたので、このような原始共産制のようなあり方は今日ではできないわけですが、心からなる捧げものを当時の信徒たちがなしていたことが分かります。しかし、それはけっして強制ではなくあくまでも自発的なものでありました。そしてまたそれは、多く捧げて教会内で名誉や地位を得るためというような名誉欲・権力欲に基づいたものでもありませんでした。ただ彼らは心を一つにして、豊かな者も貧しい者もそれぞれのあり方で神に仕えていたのです。

 そのような教会のあり方の中で、アナニアとサフィラという夫婦は売った土地の代金の一部を教会に捧げました。先ほども申し上げましたように、土地を持っている者はそれを売って全額を教会に献金しないといけないというような強制はなかったのです。代金の一部であれ全額であれ、それぞれの都合に合わせて捧げれば何の問題もなかったのです。

 しかし、今日の聖書箇所を読むと、どうも彼らは、土地の代金全額を偽って献金をしたようです。ペトロは言います。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」

 翻って、アナニアとサフィラにしても、正直に、土地代金の一部であることを言って献金したら何の問題もありませんでした。金額の大小、すべての代金をささげたかどうかが問題ではありませんでした。彼らの心がどこにあったのかということが問題でした。彼らは、神に誠実に捧げるという心ではなく、他の信徒たちに「自分たちは土地代金全額を捧げた」と見栄をはりたい心で献金を捧げたのです。神への誠実ではなく人間への見栄による行為でした。

 アナニアは神への罪のためにその場で息絶えてしまいます。さらには、遅れてペトロの前にやってきた妻のサフィラもまた息絶えてしまいます。ここで少し考えてしまいます。人間への見栄があったにせよ、曲がりなりにも、捧げ物はなされたのです。一部ごまかしがあったとしても、彼らが神に向かって捧げたことは事実です。彼らのしたことは、ずるいといえばずるいし、100%誠実なことではありませんでしたが、そこまで悪いことだったのでしょうか。命まで絶たれるほどのことなのでしょうか?

<心の中をご覧になる神>

 以前、「信徒の友」という雑誌だったかと思うのですが、ある牧師の文章が載っていました。お読みになった方もあるかと思います。ある日の礼拝のあと、その牧師は、どうも自分は千円札のつもりで一万円札を間違って席上献金の袋に入れて献金してしまったようだと焦っていたそうです。いまさら献金袋を取り返して千円に変えることなどはできないし、牧師がどうしようどうしようと、うろたえていたら奥さんが平然とおっしゃったそうです。「心配しなくていいわ。神様はあなたから今日、ちゃんと千円を受け取られたわ」献金袋に実際に入っていた金額に関わらず、あなたが神に捧げた金額は間違いなく千円なのだと奥さんは牧師であるご主人に痛烈におっしゃったのでした。奥さんは神の前における姿勢をしっかりと理解しておられたのでした。献金袋に仮に一万円が入っていたとしても、捧げる心が千円であったのであれば、それは千円を神に捧げたことなのだと奥さんはおっしゃって、牧師であるご主人はその言葉を肯わざるを得なかったと書かれていました。

 福音書には有名なレプトン献金の話があります。ある貧しいやもめの婦人が当時の貨幣でいうともっとも少額のレプトンという銅貨を二枚献金しました。一日の平均的な給与の128分の一が1レプトンです。2レプトンは、今日の感覚でいうと100円ちょっとの金額です。しかしそのお金はその婦人にとって生活費全部でした。当時の神殿の献金箱は良く響く作りになっていたそうです。献金箱にお金持ちたちは多くの金額を入れました。献金箱の音を聞けば周りの人はたくさん献金されたことが分かったのです。お金持ちたちは盛大に献金箱を響かせて誇らしげに献金しました。一方でレプトン銅貨2枚だけを入れた婦人は目立たないようにひっそりと献金をしたと思われます。しかし、その献金の様子をご覧になった主イエスは、「この婦人は誰よりも多くの献金をした」とその婦人をほめたたえました。お金持ちたちはあり余るほど持っているものの一部を捧げ、この婦人はわずなな持っているもののすべてを捧げました。しかし、注意しないといけないのは、主イエスはこの婦人が有り金全部を入れたことをほめたのではないのです。その婦人が神に信頼して、いまここですべてを捧げたとしても神が自分を顧みてくださることを知っていることを見抜いておられたのです。おそらくその婦人はこれまでもいくたびも神に助けられてきたのでしょう。その感謝の思いを捧げたのです。実際のところ、2レプトンのうち1レプトンを捧げてもう1レプトンを持っていたとしても、もちろんそれはけっして悪いことではありません。持っているものの全部か半分かが問題ではなく、その婦人の神への信頼の深さを主イエスはご覧になっていたのです。

 土地の代金をごまかして捧げたアナニアにペトロは言います。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」アナニアは正直に土地代金の一部ですと言って捧げれば何の問題もなかったのです。アナニアは神をごまかすことは容易なことだと考えていたのです。神の力を見くびっていたのです。千円を献金した牧師の心も、生活費すべてを捧げた婦人の心も神はご存知でした。自分の心の内を神はすべてご存知であることをアナニアは知らなかったのです。容易に神などは欺ける、騙せると思っていたのでした。それは神への決定的な冒涜でした。

<キリストと共に>

 アナニアとサフィラは神を冒涜したため命を失いました。こういう記事を読みますと、恐ろしい思いになります。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とありますが、たしかに怖いことです。私は神の前で誠実であるかと、自分を顧みてびくびくする思いにもなります。あからさまに神を欺くつもりなどは毛頭なくても、どこかで神様を軽んじたり結果的に欺いていたりしないか不安になります。

 ところで今日の聖書箇所の後半は使徒たちによって多くの奇跡がなされたということが書かれています。多くの病人が癒され汚れた霊に悩まされている人々が救われました。これは使徒たちが超人的な力をもって奇跡をなしたというわけではありません。心を一つにして祈り、奉仕をする教会にはイエス・キリストの力が及ぶということです。3章でペトロやヨハネがイエス・キリストの名によって足の不自由な人を癒したように、ここでも使徒たちの人間の力ではなく、キリストの力が働いていたのです。心を一つにしたキリストを信じる群れにはキリストの力が及ぶのです。キリストの力が及ぶところには素晴らしいことが起こるのです。それは教会という共同体においてもそうですし、私たち一人一人の日々にあってもそうです。

 難病で幼い娘さんを失ったお母さんがありました。最初難病であるとは病院でも診断がつかず、お母さんは娘さんがわがままを言って大げさなことを言っていると思っていたそうです。やがて、さすがに様子がおかしいことに気づき、いくつかの病院をまわってようやく診断がつきました。厳しい治療を娘さんは頑張りましたが、やがて天に召されました。お母さんは、ずいぶんと自分を責めました。もっと早く娘の苦しみを分かってあげればよかった、ああすればよかった、こうしたらよかった、自分は母親失格だったと嘆いたそうです。しかし、しばらくして思い出しました。天に召される直前、幼い娘さんはとても明るくむしろ残されるお母さんのことを心配していたのです。お母さんは洗礼を受けたクリスチャンだったのですが、娘さんの闘病の時は看病で精いっぱいで心に余裕がありませんでした。でも後から振り返るとたしかに娘さんはイエス様のことを信じていました。そしてまた、イエス様が娘さんと共におられたことを確信しました。娘さんは幼くてまだ死の意味を知らないから明るくふるまえたわけではなく、娘さんの傍らにたしかにイエス・キリストの臨在があり、娘さんを支えておられたことをはっきりと思い起こしたのです。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」という詩編51編の言葉がありますが、ただキリストが私たちと共にいてくださる、そのことのゆえに、私たちは力づけられ、どのように困難な時でも、平安に歩みます。その時は余裕がなく、怒涛のように感じても、たえず苦しみや不安に襲われているように感じても、実はそこにキリストが共にいてくださり、いつも励まし、支えてくださっていたことを振り返ると分かるのです。

 私たちは弱く、また、罪深き者です。アナニアとサフィラのように神をも欺く心を持っています。神ではなく人間ばかり見る者です。しかしそのような私たちのためにキリストは来てくださり、いまも共にいてくださいます。聖霊として私たちの内側にいてくださいます。私たちは聖霊を軽んじることなく生きるとき、神を欺くことはできなくなります。聖霊によってキリストの臨在を感じる時、私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神と隣人に対して誠実な者と変えられます。そして祝福を与えられます。レプトン銅貨二枚も捧げることのできない、神への信頼の薄い者であっても、なお、私たちからキリストは離れられません。献金袋に間違って一万円入れてしまったとしょんぼりする牧師のように情けない信仰であっても、なお神は軽んじられません。

 神への信頼薄く小さな信仰しか持てない私たちのためにキリストは来てくださいました。十字架にかかり死んでくださいました。私たちの信仰を豊かなものとしてくださいました。そしていまもキリストは共におられます。キリストの奇跡の力を私たちにも与えてくださいます。聖書に記されている教会の姿は過去のものではありません。弟子たちの姿は私たちの姿です。いま、キリストの力は私たち一人一人に及んでいます。私たちもまたキリストの名によって豊かに神の栄光を顕すことができるのです。そして聖霊によってキリストの力を少しずつ知らされていくとき、私たちの神への信頼はさらに増し加えられていきます。私たちは恐れることなく平安に喜びをもって神と共に生きていきます。


使徒言行録4章23~37節

2020-07-05 13:01:20 | 使徒言行録

2020年6月28日大阪東教会聖霊降臨節第六主日礼拝説教「祈りの生活」吉浦玲子
【聖書】
さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。 
地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』 
事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 
そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。 
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

【説教】
<神のなさることを見つめる>
 4章ペンテコステの日に立ちあがった教会に最初の試練が訪れました。教会の中心的人物であったペトロとヨハネが逮捕されてしまいました。幸い、民衆の反応を恐れた権力者たちは、ペトロとヨハネを厳しく罰することはできず、脅しただけで釈放をしました。しかし、当然ながら、弟子たちは釈放されたからといって、胸をなでおろすわけにはいきません。かつて主イエスを十字架につけて殺してしまった権力者たちのことです。今後も、何かにつけてイエス・キリストを信じる者を迫害してくる可能性は高いと考えられます。
 その状況の中で、釈放されて帰ってきたペトロとヨハネを迎えた教会の様子は少し異様かもしれません。自分たちの身に危険が及ぶかもしれない状況で、彼らは自分たちが置かれた事態を悲観したり、身を守るための方策を一生懸命に練ったということは記されていません。
 「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」とあります。つまり、まず人々は祈ったのです。まあ教会だから祈るのは当たり前だろうと思われますでしょうか。たしかにそうです。私たちもまず祈ります。今日の聖書箇所における弟子たちもまず祈ったのです。
 しかし、彼らの祈りは、「自分たちを守ってください」とか「教会を支えてください」という祈りではありませんでした。彼らは詩編二編の言葉をもって神の御前に立ちました。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか/地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して,/主とそのメシアに逆らう。」これは新共同訳では「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか」と訳されている詩編です。そもそもこの詩編2編はメシア預言の詩編と言われます。引用されている箇所は、メシア、つまり救い主として神から油注がれたお方に、人々が逆らうということが記されています。それはまさにヘロデやポンテオピラトによって救い主であるキリストが十字架にかけられたことを預言しています。
 さらに詩編二編を読みますと、「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲(あざけ)り/憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。/「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」」とあります。王とはキリストであり、神が王としてキリストを即位おさせになられました。「わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。」と続きます。救い主である主イエスは絶対的な王ですから、ひととき、人間はその王に逆らいえたとしても、それはむなしいことなのです。「お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く」騒ぎ立ちむなしいことをしても、結局、まことの王によってくだかれるのです。
しかし、砕かれることが怖いから人間はこの救い主である王を畏れ敬うのではありません。「畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び踊れ。」この王はまことの正義を作りだしてくださる喜びの源であるお方です。喜びの源である方なので人間はこのお方を慕うのです。ひととき反逆する者は騒ぎ立ちむなしいことは起こっても、まことの王によって、まことの喜びが与えられます。「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」このまことの王を王としてあがめる人にはまことの幸いが与えられます。
初めての試練に遭った教会はこの詩編に力づけられました。今、自分たちが直面している試練が神のご計画の内にあり、自分たちが主を避けどころとしている限り幸いであることを確認したからです。神のなさることに信頼し、力を与えられたのです。教会の祈りは神を避けどころとするところに立つのです。そしてまた教会に連なるすべての者のそれぞれの祈りもまた、喜びの源であるお方に信頼する所に立つのです。
<礼拝共同体とは>
 さて、今、全世界の教会が危機に陥っています。春からコロナの禍のために全世界の礼拝や集会が開けなくなりました。しかも、キリスト教最大の祝祭である復活祭の時期に礼拝ができなくなりました。日本においては、多くの地域で、ここ数週間の間に少しずつ礼拝が公開され始めました。しかしその活動はまったく春以前の元通りに戻ったのではありません。地域差や教会ごとの差はありますが、まだ完全にはすべての集会が再開していない教会がほとんどです。2月以降の爪痕はどこの教会にも大きく残っています。その傷跡はたとえば財政面での落ち込みや、実施できなかったさまざまなことによる実務的な抜けだけではありません。教会における礼拝というものそのものが傷ついたということが大きなことでした。共に礼拝をする恵みを奪われたとき、信仰者はどうするのか?それぞれの場所でそれぞれに礼拝を捧げながらなお信仰共同体として教会は生き残っていくことができるのか?それは教会という共同体にとって本質にかかわるたいへん大きな試練でした。
 一方、この時期、多くの教会でネットを使って礼拝や説教を配信しました。それまでネット配信をしていなかった教会でも配信を開始しました。それはリアルタイムの配信であったり録画・録音であったりしました。さらにネット環境のないところへは郵送やファックス等で説教を送るということもなされました。しかし、技術や労力でどれだけ補完できたとしても、共に集って礼拝をする本質的なところを補うことはできません。それは単に、会堂で生で説教を聞いたり、オルガンの音を聞いて賛美をする、そういう臨場感や、顔と顔を合わせる一体感だけからくることではありません。そもそも神を中心にした礼拝共同体につながっているということの意味をどれほど大事に考えていたかということが問われたのです。ある意味、各教会の礼拝の底力が問われたのです。それぞれの教会の礼拝の底力がなければ、礼拝共同体としての意識がなければ、礼拝はそもそもネットだけで十分だということになります。リアルの礼拝はその意義を失っていくことになります。
 ある大教会では今回あえてネット配信はしませんでした。もともとインターネット対応は他教会に先駆け早い時期からしていた教会です。リアルタイムで礼拝を配信するスキルも体制も十分にありながら、あえて止めたのです。説教者として大変有名な牧師のおられる教会でしたから、ネット配信をしたら、教会員外からの相当数の再生も見込めました。しかしあえてそれをせず、ただ毎週の家庭礼拝の手引きを頼りに教会員が各自で家で礼拝を守ったのです。各自でそれぞれに自宅で礼拝を守りながら、なお、その礼拝が礼拝共同体につながる礼拝であることを皆が体験をしたのです。
<心を一つに>
 今日の聖書箇所24節で「これを聞いた人たちは心をひとつにし」とあります。心を一つにする、とは、共に神を向くということです。彼らは権力者たちへの反感で心を一つにしたのではありません。あるいは教会のリーダーたちへの信頼感によって一致したのでもありません。人間的な共感で心を一つにしてもそれは長続きしません。教会は神に向かって心を一つにするのです。そこにまことの祈りの共同体ができます。そこにまことの礼拝が立ち上がります。礼拝はただ聖書のお勉強をする場ではありません。心を一つにして神を向き、神からの愛と力と知恵の言葉をいただくところです。しかし、それは急にできることではありません。
 毎週毎週、礼拝共同体として心を一つにして神に向かう礼拝を捧げていくことを積み重ねていったとき、たとえば今回のような礼拝が公開できないないような事態が起こっても、ばらばらにされてもなお信仰共同体、礼拝共同体としての命を教会は持ち続けることができます。礼拝ができないというようなことだけでなく、さまざまな困難が教会にはあります。しかし、心を一つにして神に向かう礼拝を捧げる共同体は強いのです。皆が神の方を向いているのです。神を向いているのであって、皆が互いの思惑を気にしているのではないのです。あの人の声、この人の考えを聞いているのではありません。ただ神に向かっているとき、おのずと心は一つになるのです。そこにまことに強い共同体が生まれます。どのような試練のなかでも揺るぎない喜びの共同体が生まれます。喜びの共同体につながっていくとき、私たち一人一人の信仰生活もまた喜びが増し加えられます。まことに主にある親しい交わりと、まことの祈りの生活が与えられます。礼拝共同体が強くなる時、一人一人の信仰生活もまた豊かにされるのです。
<宣教へ向かう>
 さて、神に向かって心を一つとした共同体は、おのずと宣教へと向かいます。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」弟子たちは、<彼らの脅しに目を留め、その脅しをやめさせてください>とは祈りませんでした。<脅す者を懲らしめてください>とも<脅しからまもってください>とも言いませんでした。「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈ったのです。これは一般的に言う、組織防衛とは真逆のあり方です。当局から目をつけられないように、しばらくは息をひそめるというのではありません。
これで思い出すのはこの大阪東教会の太平洋戦争時代の牧師である霜越牧師のことです。霜越牧師は、当時、無実の罪で当局に拘束されました。キリスト教が迫害されていた時期でした。当時の最大拘留期間である三ヶ月拘留され取り調べを受けました。しかし、罰すべき罪は出て来ず、釈放されました。霜越牧師は釈放される時、官憲から「貴様もこれからは心を入れ替えて、キリスト教の布教などはいっさいやめろ」と言われ、それに対して「これからますます伝道に励む所存です」と答えられたそうです。それに対して官憲が「馬鹿者!」と怒鳴ったという逸話があります。いかにも霜越牧師らしい逸話です。しかし、それは単に霜越牧師の信仰が強く、立派だったということではありません。霜越牧師もまた、使徒言行録の中の使徒たちと同様に「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」と祈られたのだと思います。
単なる空元気ややせ我慢ではなく、まことに私たちに力を示してくださる神への信頼があったのです。「どうか御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」そう彼らは祈りました。神は御手を伸ばしてくださるお方であることを知っていたのです。神は私たち一人一人に御手を伸ばし、まことに力を振るってくださるお方です。神を求めることはむなしいことではありません。神を求める時、現実的な力が与えられます。
「祈りが終わると、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」とあります。ここでは、ペンテコステの日のように、ふたたび聖霊に人々が満たされ、言葉が与えられたことが語られています。「マザー・テレサ」という映画の中で、マザー・テレサと共に働いていた女性が病気になってしまい、その治療のためにインドでの働きをやめて自分の国に帰らざるを得なくなりました。しばらくたって、マザーの行っていた事業にたいへんな逆風が起こりました。マザーはすでにインドでの働きを止めて病気療養していた女性に電話をします。「あなたの祈りで天国を揺らしてちょうだい」と。電話を受けた女性は、すでに直接には働きをやめていましたが、遠い国から祈りました。そして実際に天は動いたのです。マザーの事業は成功したのです。
私たちの祈りも天を揺らすことができます。一人一人の祈りは小さなものです。しかしなおそこに聖霊が働くとき、偉大な力が起こります。私たちの場所が揺れ動き、天も揺れます。天も地もお造りになったお方が揺らしてくださいます。現実を乗り越える力が私たち一人一人に、そしてまた信仰共同体に与えられます。