大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 8章1~17節

2017-08-28 11:08:52 | ローマの信徒への手紙

2017年8月27日 主日礼拝説教 「神の相続人」吉浦玲子

<霊に従う生き方>
 私たちは生きていくうえでさまざまな義務を負います。家族や社会やその他もろもろのものに対して、義務を負い、責任を果たして生きていきます。幼い子供であれば、通常は親や家族が身の回りのことを世話してくれて、生きていくための必要を満たしてくれます。養ってもらえます。だから子供は楽かというとそうでもないようです。全くの赤ん坊でもないかぎり、幼い子供は幼い子供なりに、家族の中で、ある種の自分が果たすべき役割というかそういったものを無意識のうちに感じ取って、その役割をはたして生きています。子供は大人に養ってもらわなければ生きていけないわけですから、大人が養ってくれるように周りの大人たちから自分が望まれている役割を無意識に果たしつつ生きていきます。つまり子供は子供なりに意識はしていなくても、ある種の義務を果たしていくといえます。大人も子供も人間である以上、何らかの義務は負うのです。
 ローマの信徒への手紙8章12節でパウロは「兄弟たち、わたしたちには一つの義務があります」と語りかけます。さっき申しましたように、わたしたちには生きていくとき、さまざまな義務を負います。責任を負います。しかし、キリストに結ばれて生きていくとき、その義務は肉に対する義務ではないのだとパウロは語ります。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」とパウロは言っています。罪に支配された肉の必要に従って生きていくとき、わたしたちは命を得ることはないのです。死ぬのです。
すぐる週の礼拝で、心では善を行いたいと願っていながら、わたしたちは悪の性質を持つ体をどうすることもできない、という言葉を読みました。善をなそうとする意思はあっても体がいうことをきかない、心と体が分裂しているような存在であることを読みました。しかしもう、わたしたちはキリストによって救われている、だから心と肉が分裂したような苦しみの中に、もういないことを共にお読みしました。
 そして今日読まれました8章1節からは「従って、今や」とパウロは続けています。「今や」わたしたちは救われて、心ではしたくない悪を体がなすことから免れているというのです。<キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません>とパウロは語ります。かつては、心では善をなしたいのに、体が言うことを聞かない、つまり「罪と死の法則」に縛られていたわたしたちは、せっせと肉に対する義務を果たしていたといえます。それにたいして「今や」わたしたちは霊に従って歩む者とされました。「霊の法則」によって歩んでいるとパウロは語っています。5節に霊に従って歩む者は、霊に属することを考えるとあります。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」とパウロは語っています。洗礼によってキリストと結び付けられた者は、すでに霊に従って生きている、おのずとその生き方は命と平和へ向かう歩みとなるのだというのです。
 人間は、まだキリストを知らなかったときは、罪に支配された体に対しての義務を果たしていました。そして死に向かっていました。もちろんまじめに生きてきたのです。子供だって義務や役割を果たしていると申し上げましたが、もちろん、大人であればもっともっと大きな義務を果たして生きています。時に、あまりの重荷でおしつぶされそうになりながら、一生懸命生きてきました。
 しかし今や、私たちを支配している法則が変わりました。私たちは肉への義務を果たすのではなく、霊に従って歩む日々に生きています。
 でも、じゃあ洗礼を受けたら、霊に従う生き方をしていたら、現実的な生活が変わるのでしょうか?子供の養育費がかからなくなるのか、住宅ローンが無くなるのか、残業が減るけど収入が増えるのか、年金額が増えるのか、いやな人間関係がなくなるのか、介護の負担が減るのか、突然宝くじに当たるように大金が入ってくるのか。そういうことは通常はありません。もちろん、奇跡はあります。しかしそれは人間の願うことが単純に叶う、いわゆるご利益のようなものとしてはないのです。
 パウロが言う「従って今や」という生き方、霊の法則によって歩む歩みというのは、すべてを神の働きとして見ながら生きていくということです。わたしたちの日々に働かれる神の働きを、キリストによって結ばれたときに与えらえた霊によって教えていただきながら歩むということです。かつてと同じように大変な毎日だけど、毎日のすべてのことが神の導きの中にある、それが見えてくるようになる歩みだということです。そのとき、私たちはこれまでおってきた義務、責任を神にゆだねて生きていくことができるようになります。

 主イエスがおっしゃった「疲れた者、重荷を負った者はわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう。」という言葉がまさに真実であることを知らされるのが「霊の法則」に従って歩む日々です。これは単にちょっと精神的に楽してあげる、リラクゼーションさせてあげるとかそういうことではありません。わたしたちは確かに現実の日々に義務を負っている、責任を負っている、主イエスの言葉で言えばくびきを負っている、これまではそれらを自分一人が歯を食いしばって担っていると考えていました。でもそうではない、神が共に担ってくださっている、それが分かったとき、私たちは解放されます。最近、よくワンオペということを聞きますね。終夜営業の店舗などで、働いている人がひとりしかいないくてその人はトイレに行くこともできない。労働のたいへんさもさりながら、一人ですべてを担わねばならないとき、人間は追い詰められます。ワンオペ育児などということも最近は良く言われます。私自身、システム開発をしていたとき、仕事がたいへんでもチームで仕事をしているときはまだよかったのです。ただ、場合によって、小さな開発などを自分一人でやらないといけないことがありました。そういうときは仕事そのものの難易度以上に追いつめられる感じがありました。つまり、わたしたちの義務を重いものにしていたのは、すべてを自分でやらなければならないという感覚によるところが多くあると考えられます。しかし、人生ということで考える時、そもそも、わたしたちにすべてはできないのです。どんなに偉大な人間であっても、すべてをやり遂げることはできません。歴史上の偉大な人物もその人生の最後においては「道半ば」であるのです。
 しかし、そもそも人間は、自分で自分の体をどうしようもなかった、「罪の法則」の中に生きていたのです。やりたいことをできず、やりたくないことをやらざるをえない状態でした。「罪の法則」に生きていた時、私たちの責任は重く、かつままならない状態でした。しかし、キリストと結ばれて生きていくとき、わたしたちは罪の性質を持った体に支配されていません。11節に「霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」とあります。それまでは心の願うことをやることのできなかった肉の体をも主イエスを私たちに遣わし復活させてくださった神は生かしてくださるのです。生かしてくださるために神は働いておられます。私たちももちろん働きます。しかし私たちが寝ている時も、落ち込んで何も手につかない時も、もうおしまいだとうずくまっている時も、なお神は働いてくださいます。霊に従って歩む時、そのことが分ってきます。すべてを自分で責任を取らねばならない、そうではないんだと安心ができます。ワンオペの人生ではないのです。ある方は、最後に責任を取ってくださるのは神なのだとおっしゃいました。私たちの日々に、そして人生に、最終的に責任を負ってくださるのは神なのです。そのことが、霊に従って歩む時、わたしたちは少しずつ分かっていきます。そのとき私たちの日々は画期的に変わってきます。神が変えてくださるのです。

<神の相続人>
 さらにパウロは素晴らしいことを語ります。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」キリストに救われ、キリストと共に歩み、神の霊をいただいているものは皆「神の子」なのです。教会学校の子供たちが「みんな、神様の子供だよね」というのはなんとなくほほえましく、わかりますが、大の大人が「子供」と言われると少し違和感があるかもしれません。しかし、それでもわたしたちはもれなく「神の子供」なのです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」とあります。
 しかし、実際のところ私たちは「わたしは神の子です」と胸をはって言えるでしょうか。神の子とする霊を受けたと言われても、霊に従って生きていると言われても、依然として、罪も犯せば、失敗もする人間です。こんなことで「神の子」と言えるのか?どうしてもそう思ってしまいます。
 しかし、妙な言い方になりますが、わたしたちがどう思うかということではないのです。私たちが自分のことを、あるいは、他の人のことを、「神の子なんかじゃない」「ありえない」と思っても、神の方は、「あなたにすでに霊を与えた」「あなたは神の子なのだ」とみなしておられるということです。
 逆に、わたしたちが、わたしが神の子なんてとんでもない、と思ったとしたら、すでに神が私たちの内に与えておられる霊を侮辱しているということになります。最近、ある牧師先生から、「聖書の黙想の仕方」のメモ書きをいただきました。聖書のみことばを良く味わうための簡単な手順書みたいなものです。別にむずかしいことはないのです。ポイントは聖霊に、私たちが御言葉を理解できるように求めるのです。これは礼拝の時の祈りでも祈りますし、私たちの日々においても良く祈られることではないでしょうか?しかしはっとしたのは、<大事なのは聖霊を意識することだ>という1文でした。
 わたしたちは、自分の中におられる聖霊、神の霊を、あ、ここにおられると明確に意識することはできません。しかしなお、心を鎮め、霊が与えられていることを信じて、意識をするとき、たしかに聖霊、神の霊が私たちを導かれることが感じられるようになります。霊をあえて意識的に意識するというと妙な言い方になりますが。そのとき、まことに働いてくださる神の霊を感じることができます。
 それと同様に、私たちが<神の子>とすでにされている、そのことも心素直に受け入れていくのです。本当に自分はもう<神の子>なのだと意識をするのです。感謝をするのです。それは勝手に思い込むということではありません。そもそも<神の子>なのですから、そのことを心鎮めて感じるのです。
 ここで一つ申し上げますと、ここで言われている<神の子>というのは厳密には養子であるということです。神の実子はキリストおひとりです。それに対して、キリストと結ばれている者は養子なのです。しかし、養子であっても、その法的な権利は実子となんら変わりません。つまり神は、私たちをキリストと同等の者として招いてくださっているということです。これは考えようによってはおそるべきことです。私たちはキリストと同じ神の相続人として神から招かれているのです。
 私たちはアダムとエバの子孫であり、生まれながらにして罪に支配されて生きて来ました。そして神を知らず神に反抗して生きてきました。その、いってみれば神にはむかって生きてきた私たちを神は御子と等しいものとして招いてくださる、そして実子と同等の相続権も与えてくださる、というのです。ここからわかる神の愛というのは、人間の感覚では理解ができないほど大きなものです。
 <あなたは価高く貴い>とイザヤ書に語られる言葉があります。罪によって壊れ、神に反抗していた人間に対して、なお、「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛する」とおっしゃる神の愛はとてつもないものです。それは単なる甘やかしではないのです。ただのだらしない人間の親とは違うのです。裁きを背景にした愛です。御自身の御子の血を流す愛でした。愛のゆえ、御子にして神なるキリストを十字架にかけられました。そして今や、わたしたちにはキリストと同等の相続権、そして将来の栄光まで与えられました。その神の愛と恵みを感謝しながら神の子ども、神の相続人として、この一週間も歩みたいと思います。


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