2022年2月27日大阪東教会主日礼拝説教「愛ゆえの殺意」吉浦玲子
ふたたび安息日のことです。主イエスと弟子たちは会堂に入りました。主イエスは、その宣教の初めの時から、安息日に礼拝をしている会堂に入り、巡回伝道者のような形で、御言葉を語り、神の国の宣教をなさっていました。この時も、同じように、御言葉を語るために会堂に入られました。そこには、主イエスが何をおっしゃるか、注目していた人々がいました。純粋に主イエスのこれまでの素晴らしい業や言葉のことを聞き知っていて、期待をもって主イエスの言葉を待っている人々もいたかもしれません。しかしそうでない人々もいました。彼らは別の意味で期待をしていたのです。徴税人や娼婦たちと一緒に食事をし、断食もしない、そして安息日も守らない、律法に対して冒涜的だと彼らにとって思える人物に対して、今度こそ、しっかりと律法違反の尻尾をつかまえて、やっつけてやろうと身構えていました。
その会堂には、片手の萎えた人がいました。主イエスを訴えようとしていた人々は、これまでの主イエスの言動から、おそらく、この手の萎えた人を癒すであろうと予想していました。そして癒されたら、安息日違反の現行犯として訴えることができると踏んでいました。前にも言いましたように、安息日であっても、命に関わる病気に関しては治療を行ってもよいことになっていました。しかし、この手の萎えた人に関しては、病ではありますが、一刻一秒を争う命に関わることではありません。なので、安息日にわざわざ癒されなくてもいいという理屈があるのです。
主イエスは当然、自分を訴えたい人々がいることをご存知でした。そしてご自分が手の萎えた人をここで癒したら、どんなことになるのか十分わかっておられました。十分わかったうえで、主イエスは、この人を癒されました。意図的に主イエスは癒されたのです。主イエスであれば、誰にも気づかれずに、こっそりと癒すということもできたでしょう。しかし、主イエスはそうはなさらなかったのです。敢えて、注目を受けている中で、さらに注目を浴びるやり方で癒されました。ここでの主イエスのなさり方は、ある意味、確信犯的であり、自分を批判する人々に対して挑戦的でした。
実際、イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」とおっしゃいました。会堂の真ん中には律法を読む場所があったようです。その真ん中にきなさいと主イエスはおっしゃったのです。そう言われた手の萎えた人も、その場にいた人々もたいへん驚いたことでしょう。敢えて注目を浴びながら、主イエスはおっしゃいます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」ここで、善悪を主イエスは問われています。善とは何かと実際考え出すとわからなくなるところがあります。哲学的に探究しても話が難しくなります。主イエスを陥れようとしていた人々にとっての善は明解なものでした。彼らの律法の解釈に合うものが善でした。つまり、安息日に手の萎えた人を癒さない、それが彼らの善でした。しかしそうなのか?主イエスはまさに律法が読まれる場所で問われたのです。先週も申し上げましたように、律法は弱い人間のために、人間の心と体と霊的な健康を守るために、神が定めてくださった休むための日でした。神の創造と救いの業を覚え感謝する日でした。それが主イエスの時代には人間の行動を禁止するための掟となっていました。本来は神の創造の業を覚え、神の救いの恵みを覚え感謝して過ごすためにありました。しかし、エレベーターのボタンを押してはいけない、麦の穂を摘んではいけない、あれをしてはいけない、これもいけない、というような人間の行動を禁止すること自体が安息日の目的になってしまいました。もちろん人間が自分の判断で何でもありという風にやってしまうのはよくありません。大事なことは神を覚え、神の恵みにあずかるということです。神の恵みというのはなにか抽象的なこと精神的なことではないのです。そこには空腹であれば食べ物が与えられ、苦しみがあれば取り除かれる、ということも含まれるのです。
手の萎えた人は、苦しみの中にありました。おそらくそれは昨日今日に始まった苦しみではなかったでしょう。しかしまたその一方で、その苦しみは、今日、癒されなければいけなかったでしょうか。安息日の終わった明日でもよかったでしょうか。実際のところ、一日遅れたくらいで大きな差はなかったかもしれません。しかし、ここで考えなければならないのは、今、主イエスがおられるところが会堂であるということです。礼拝の場であるということです。ここに人々は神を礼拝しにやってきているのです。神を讃え、神の御言葉を聞くためにやってきているのです。人間を愛し、救ってくださる、安息を与えくださる神の業を覚え、喜び祝うのが礼拝です。神は苦しむ人の苦しみを取り去り、喜びを与えてくださるお方です。礼拝も喜びの時になるべきなのです。手の萎えた人も喜び、神を祝い賛美する人とされなければならないのです。本来、天の喜びの宴の先取りであるべき礼拝の場であるゆえ、敢えて、主イエスのは手の萎えた人を礼拝の場である会堂で癒されました。この人が本当に心から喜び安息を得られるように。
何が善であり、悪であるか。人間が神の業を喜べることが善であり、神の業を喜べないことが悪なのです。善である神は、人間に命を与えてくださった方です。「命を救うことか、殺すことか」と主イエスは問われました。さきほども申し上げましたように、この手の萎えた人は、生きる死ぬの命の瀬戸際にいたわけではありません。しかし、主イエスがおっしゃる命は単に生物学的に生きているということではなく、心も体も霊的にも生き生きと生きていることをさします。苦しみの中にあって本当の命に生きていない人を救い出すこと、本当の命へと救い出すこと、それこそが会堂においてなされるべきことでした。それこそが律法の目的でもありました。
主イエスは<怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた>とあります。主イエスはご覧になっていたのです。たしかに手の萎えた人も苦しみの中にあり、本当の命に生きていませんでした。しかし、主イエスの問いに答えなかった人々もまた、ほんとうには生きていなかったのです。本来喜びの日であるべき安息日に、人の落ち度を責め、糾弾しようとしていたそのかたくなな心は死んでいたのです。生きていなかったのです。主イエスはその姿に怒り、また悲しまれました。
本当に救われなければならなかったのは主イエスに答えることをしなった人々の方なのです。彼らこそ、本当の命に生かされなければならない人々でした。彼らは、イスラエルの民であり、アブラハムの時代から神を信じて生きて来たと自負している人々でした。しかし、その心は本当の神の善も命も分かっていなかったのです。彼らは自分たちは信仰を持っていると思っていたかもしれませんが、それは冷え冷えとしたものでした。本当に神の命に生かされている信仰は冷たくはありません。霊的なあたたかさがあります。それは人間的なあたたかさや、性格的なおだやかさとは少し違います。ほんとうに神の恵みにあずかっていることを感謝している人は、もともとの人間的なあたたかさとか冷たさとは別のところで、霊的なあたたかさを持っているのです。そのような霊的な心は、神が私たちを憐れんでくださったように、苦しむ人痛む人への愛と憐れみをもって接します。目の前に手の萎えた人を見て、安息日には癒してはならないという心にはならないのです。
さて、目の前にいる苦しむ人の苦しみが見えず、ただただ人の揚げ足を取ろうとしていた人々の貧しさ、ぞっとするような霊的な冷たさを主イエスは悲しまれました。憐れまれました。悲しみつつ、主イエスは会堂で、まさに礼拝の場で、愛の業をなさいました。神の愛を示されました。しかし、そのことのゆえに、主イエスに殺意を抱く人々が起こされました。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。かたくなな心は、神の愛を退けるのです。まことの愛に対して殺意すら抱くのです。神を信じていると自負しながら、神の愛を目の当たりにしたとき、喜びではなく反発を覚え、殺意すら抱くのです。ここで滑稽なのは、ファリサイ派というのは、本来は、まじめに律法を研究する人々で、ユダヤ人中のユダヤ人という自負のある人々でした。そのファリサイ派の人々がヘロデ派と組むということはあり得ないことです。ヘロデ派というのはローマ帝国の傀儡のような人々で、ユダヤの律法や伝統を重んじる人々からは嫌われていたのです。ファリサイ派からはもっとも軽蔑されていた人々といっていいでしょう。しかし、憎しみというのは人々の心を狂わせるのです。大義や建前を失わせ、節操ない態度を取らせるのです。そして共通の敵を持つことで結びつきます。憎しみと憎しみは本来の大義と関係なくつながっていくのです。
主イエスを殺そうと思った人々は、安息日を形式的に守るという、自分の行為を大事にしていました。神の恵みではなく自分の行為を信じていたのです。神の愛を感じることのできなかったゆえです。不思議なことですが、神の愛を感じることのできない人々は、むしろ神の愛を目の当たりにしたとき、憎しみを感じるのです。自分の行為が軽んじられるように感じるのです。カインとアベルの物語では兄のカインが自分の捧げ物に目を留められなかったゆえに弟アベルに嫉妬をしてアベルを殺してしまいました。カインは捧げ物をした自分の行為を認められなかったと考え、憎しみを感じたのです。カインしても、ファリサイ派の人々にしても殺意までいただくなんてちょっと極端すぎるのではないかと感じられるかもしれません。しかし、人間の罪深さを思う時、自分の行為を否定された、自分が評価されなかったと感じたとき、人間の思いはとんでもなくどす黒いものになっていくのです。その思いはだれしも思い当たるところがあるのではないでしょうか。
私たちは日々の手の業をやめ、いま、この会堂にいます。ネットを介して共に礼拝を捧げておられる方もいらっしゃいます。文書で礼拝を捧げておられる方もいらっしゃいます。今日、この場で、皆の目に見える形で奇跡は起こらないかも知れません。しかし、一人一人に奇跡は起こっています。それはたとえ話的な奇跡ではなく、一人一人の心と体と霊において現実的に起こっているのです。神の愛を感じ、神の恵みを覚える時、それが分かります。今週の水曜日は「灰の水曜日」です。キリストのご受難を覚える受難節が始まります。「律法で許されているのは命を救うことか、殺すことか」主イエスはそうおっしゃっています。その主イエスの思いは理解されずご自身は殺されました。お苦しみにあわれました。私たちすべての命を救うためでした。受難節は、身を慎んで過ごしますが、けっして、受難を覚えるからと暗くなって過ごすのではありません。キリストの死によって私たちの命が生かされていること、救われていることを覚えて歩んでいきます。