大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第7章36~50節

2024-09-24 18:11:50 | ヨハネによる福音書
2024年9月22日大阪東教会主日礼拝説教「罪深きゆえに愛を知る」吉浦玲子
<罪深い女>
 知り合いで、若い時、暴走族の頭だった方を存じ上げています。暴走族といっても、ただ暴走するだけでなく、限りなくやくざに近い、警察にお世話になるようなかなり悪いことをしていたそうです。その方が、ひょんなことから、教会に通うようになりました。その方は、教会に行ったら、牧師がいつも「罪人、罪人」と罪人について話をしていて、どうしてこの人は自分のことを知っているのか?と思ったそうです。なんでいつも自分のことを話しているんだろうと不思議だったそうです。なんだか不思議に思いつつ教会に通い、やがて回心をして、クリスチャンになったそうです。クリスチャンになったあとも、昔の争っていた敵方の族のメンバーが襲ってくるのではないかと思って、しばらくは、寝る時は護身用にドスを枕元にずっと置いていたそうです。
 神の前での罪というのは、この世界で言う犯罪とか、道徳的・倫理的に悪いこととは違います。神と離れていること、神なしで生きることです。神なしで生きることはつまり自分が自分の神としていきることですが、それが神の前での罪です。神の前に罪を犯している時、その罪のあらわれとして、犯罪となったり、道徳的・倫理的な悪いことになったりするのです。ですからその元暴走族の人が、自分が警察にお世話になるような悪いことをしているから「罪人」だと思ったというのは、完全に間違っているわけではありませんが、厳密にいうと、神の前で罪を犯しているという意味での「罪人」とは異なります。
 さて、今日の聖書箇所で、主イエスはあるファリサイ派の人から家で食事をしてほしいと願われ、その人の家に行かれ食事の席につかれました。ファリサイ派というと多くの場合、主イエスと敵対している人として聖書には登場します。しかしこのファリサイ派の人は、主イエスを食事に招きました。当時のユダヤにおいて食事に招くというのは相手への敬意を示すものでした。このファリサイ派の人は、一応、主イエスを「先生」として家に招いたようです。しかし実際のところ、今日の後半のところを読むと、主イエスが来られても足を洗う水も出さなかったというのですから、丁寧な招き方ではありません。むしろ主イエスを試そうという思いがあったのではないかと考えられます。
 その主イエスを食事に招いたファリサイ派の家に、一人の女性がやってきます。「罪深い女」と書かれていますから、おそらく娼婦であったと考えられます。娼婦は当時、徴税人と並んで、「罪人」とみなされ、人々からさげずまれていました。「この町に一人の罪深い女がいた」と書かれていることから、有名な女性であったのかもしれません。当然、そんな女性をファリサイ派の人は呼ぶはずがなく、女性の方から勝手に入ってきたのです。当時、食事の席にふらっと人が入ってくること自体はあったそうですが、女性は自分が人々からさげずまれていることは知っていたでしょうから、この席に入ってくるのは大胆なことです。
 さらにその女性は異様なことをします。香油の入った壺をもってきて、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらしはじめ、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とあります。ヨーロッパの絵画を見ると勘違いしてしまうのですが、聖書の時代、食事はテーブルに椅子に座って食べていたわけではありません。床に横になって肘をついて食事をしていました。ですから、女性が主イエスの足元に近寄ったというのは、テーブルの下にもぐりこんだわけではなく、さほど不自然なことではありません。近寄ったこと自体は不自然ではなくても、自分の涙を他の人の足にかけるということも、それを自分の髪でぬぐうということも、足に接吻して香油を塗るということも、どれもこれもかなり異様です。この場面で女性は異様な行為をしているのです。これと似た場面にナルドの香油を女性が主イエスにぶちまけるという場面が別の箇所に書かれています。そのナルドの壺の場面も今日の聖書箇所も、主イエスは女性の行為を褒められますが、実際女性たちがしたことは非常識なみっともない行為です。うるわしい物語として美化して語られがちですが、けっして美しい場面ではありません。今日の聖書箇所でも、体を触れる行為が多く、これはファリサイ派の人でなくても、一体何なんだ?と思う光景ではないでしょうか。現代でも、ちょっと目立つあきらかに色っぽい格好をした女性が突然やってきて、その場にいる男性にべたべたボディタッチしていたら、ぎょっとしてしまうと思うのですが、それに近い状況です。まして当時は聖書を教える先生と呼ばれる人は女性と道であっても挨拶もしないようにしていたくらいなのです。
<愛をあらわす>
 それを見たファリサイ派の人は案の定、心の中で「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思います。
 さきほども申しましたように、この当時、徴税人や娼婦は罪人だとさげずまれていました。しかし、神の前で罪人であるということは、職業や生まれといったことでひとくくりにされて決められることではありません。あくまでも、神との関係において人間は罪に定められるのです。
 心の中で、この女性を罪深いと決めつけて、その女性に自分を触らせている主イエスに対してもファリサイ派の人は呆れていました。このファリサイ派の人は、神に遣わされた預言者だという評判もある主イエスが疑っていて、預言者ではないしっぽを捕まえてやろうと思っていたのです。そして、主イエスの様子を見て、「なんだこいつはやっぱり預言者なんかじゃない」と感じたのです。
 そのファリサイ派の人の心の中を分かっていた主イエスはたとえ話をなさいます。それは借金を帳消しにしてもらった人の話でした。とても単純なたとえ話で、500デナリオン借金している人と、50デナリオン借金している人がそれぞれ借金を帳消しにしてもらったけれど、どちらが帳消しにしてくれた金持ちを愛するかという内容です。ファリサイ派の人は躊躇なく「帳消しにしてもらった額の多い方」だと答えます。
 そしてこの女性について主イエスは語られます。女性が涙で足を濡らしたこと、そして髪でぬぐったこと、足に接吻したこと、香油を塗ってくれたこと、そのすべてがこの女性の主イエスへの愛を示すものだったのだと語られました。さきほど、客観的に女性の様子を見ると異様なことのように見えるだろうと申し上げました。しかし、人間の目にはどのように見えようとも、神は人間の感謝の思い、愛の思いを喜んで受け入れてくださいます。この女性が、多額の献金をするとか、教会のために熱心に奉仕をするといったことであれば、この女性の愛や感謝の気持ちは分かりやすかったかもしれません。しかし、今、この女性に出来ることは、涙で足を濡らし、髪でぬぐい、足に接吻し香油を塗ることだけだったのです。人間がそのとき、精一杯できることを通して神に愛を捧げる時、それが仮にこの世の常識からしたら変に思えることであったとしても、神は人間の思いを喜んで受け入れてくださいます。
 私たちは神を愛するというと、とてつもなく壮大なことや立派なことをしないといけないように思います。でもそうではないのです。私たちが本当に感謝をしてささやかな喜びを表す時、神はそれを喜んで受け入れてくださいます。いや、逆に言いますと、私たちが神に近づくということは、神からご覧になったらこの女性のようなものなのです。私たちは今、整った形式で礼拝をお捧げしています。しかし、心においては、この女性と変わらないのです。罪深い者が、感謝の思いでおずおずと主イエスの足元に近寄っていくのです。私たちが神に近づくということはそういうことです。
<多く赦された者>
 そしてまた神への感謝をあらわすとき、それは義務のように、がんばってあらわすものではありません。本当に心にあふれている感謝が自然にあらわれているものなのです。あふれているからおのずと出てくるのです。この女性もそうでした。感謝がとめどなくあふれてきて、他人から見たら異様とも思える行為となったのです。
 ではその溢れる様な感謝はどこから出てくるのでしょうか。主イエスはこうおっしゃいます。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 感謝は、罪を赦されたことに対して出てきます。罪を赦された、ということはたとえ話のように借金を帳消しにされたということです。借金をチャラにされたというと世俗的なことのように思います。自分が作った借金なんだから自分で返せよ、と思ったりもします。でもほんとうのところ、私たちは自分の罪という神への借金を自分で返すことはできません。どれほど善行を積み上げても、私たちの罪の重さはあまりにも重すぎて、罪の借金を返すことはできません。借金を返せない私たちのために、主イエスがご自身の命を差し出して借金を返してくださった、だから私たちは感謝をします。その感謝ゆえに愛があふれるのです。
赦されることの少ない者は、愛することも少ない、と主イエスはおっしゃいます。神が多く赦されたり、少なく赦されたりするのでしょうか?そうではありません。神は主イエスの十字架による贖いと、肉体を持った復活を信じる者をお赦しになります。多く赦したり少なく赦したりはなさいません。すべてを赦してくださいます。それを多く赦されたと考える者は、多く感謝をし、多く愛するのです。主イエスの贖いの話を聞いて理解して、自分の罪も赦されたんだなあとありがたいなあとぼんやり考えている人は多く赦されたという実感がなく、感謝もそれほど湧いてきません。愛も薄いのです。赦されたという自覚は一人一人の罪の自覚と悔い改めによって異なります。多く赦されたと感謝できる人は、自分の罪をそれだけ多く自覚しているということです。
<あなたの罪は赦された>
主イエスはおっしゃいます。「あなたの罪は赦された」。救い主であり、十字架にかかられる主イエスただお一人が、人間の罪をお赦しになることができます。この女性は、赦されました。それはこの女性が立派なことをしたからではありません。さらにいえば懺悔をしたからでも信仰告白をしたからでもありません。懺悔や信仰告白が不要だということではありません。赦しというのはただただ一方的な主イエスからの恵みなのだということを申し上げたいのです。自分で罪の借金を返せない私に、主イエスが「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるのです。そんな主イエスに近寄り、女性は愛を示しました。その行為は非常識でとんでもないことです。それでもなお主イエスは「あなたの罪は赦された」とおっしゃってくださるのです。
これを見てファリサイ派の人は「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた、とあります。おそらくこの人は主イエスへいっそう反発を強めたと思います。罪を赦す権限を持っておられるのは神お一人だからです。目の前にいるどこからどうみてもただの人間に過ぎないこの男が罪の赦しの宣言をおこなうなんて神への冒涜だと考えたかもしれません。しかし、神のもとから来られた子なる神であるキリスト・イエスは、罪をお赦しになることがおできになります。ただキリストゆえに私たちは赦されます。
ところで、冒頭でお話をした元暴走族の方は、その後、牧師になられました。最初は、犯罪と神の前での罪の違いが分かっていないかった方が、本当の自分の罪を知ったのです。そして、どれほど多く赦されたかを知ったのです。その方はそのとてつもない赦しの大きさゆえに、生き方を変え、牧師となられました。敵が襲ってくるかもしれないと恐れ、枕元にドスを置いていた人が、かつての罪の苦しみから解放されて恐れから解放されて、神の愛と赦しを伝える者にされました。
今、礼拝に集っている私たちは、それなりの服装をして、きちんと礼拝をしています。罪深い女とは違うように思うかもしれません。また寝る時にドスを枕元に置くこともしません。しかし、私たちもまた主イエスの足元におずおずと近寄り愛を捧げる者です。そのおずおずとキリストに近寄る場が礼拝です。礼拝を通して主イエスに近づいた私たちに、今日も主イエスは宣言をしてくださいます。「あなたの罪は赦された」と。
そのキリストの赦しの宣言を聞くところが教会であり礼拝です。そのキリストの声を聞いて、教会以外のどこにあっても得ることの出来ない平安と喜びをいただいて私たちはそれぞれの場所に出ていきます。キリストの御守りの内に出ていきます。私たちのちっぽけなたどたどしい愛を、信仰とみなしてくださり、主イエスは喜んで受け取ってくださり、この世へと送り出してくださいます。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」


大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第7章18~35節

2024-09-19 20:25:02 | ヨハネによる福音書
2024年9月15日大阪東教会主日礼拝説教「救い主を拒む者」吉浦玲子
<来たるべき方>
 洗礼者ヨハネは、主イエスに先立ち、救い主メシアの到来を告げ知らせた預言者でした。ルカによる福音書の最初のところには、洗礼者ヨハネの誕生について、そしてその働きについて書かれています。ユダヤにおいて、旧約聖書の時代から何百年も待たれていた救い主がいよいよお越しになる、その前に、洗礼者ヨハネは人々の心を神に向ける働きをしました。当時、ユダヤの人々は、自分たちは神から選ばれた特別な民なので、必ず救われると考えていました。しかし、洗礼者ヨハネは「そうではない、神に心を向け、悔い改めなければ救われないのだ」ということを伝えたのです。
 その洗礼者ヨハネ自身、救い主の到来を誰よりも待っていたと思います。ヨハネは主イエスに洗礼を授けた後、領主ヘロデによって捕らえられてしまいました。このヘロデはクリスマスの物語に出てくる有名なヘロデ大王の息子で、主イエスの時代、ガリラヤ地方を治めていました。洗礼者ヨハネがヘロデに捕えられた理由はルカによる福音書によるとヘロデが律法では許されない義理の姉妹を妻にしていたことを洗礼者ヨハネから非難されたことに腹をたてたからと記されています。背後には人々に絶大な人気を誇っていた洗礼者ヨハネにヘロデは自分の立場を脅かされるかもしれない、もともとあった自分への人々の不満が洗礼者ヨハネの活動を契機に爆発するかもしれないというヘロデの危惧もあったとも考えられています。いずれにしても洗礼者ヨハネは不当な理由で投獄されていたのです。
 そのように獄中にあった洗礼者ヨハネにも主イエスのうわさは耳に入ってきました。素晴らしい業をなしているイエスという男がいる、それを聞いて、洗礼者ヨハネは、自分が洗礼を授けたあのお方が救い主であろうか、どうなのだろうかと思いました。ですから弟子たちを遣わして主イエスに尋ねました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。
 来たるべき方、つまり神から遣わされた救い主はあなたなのですか?どうなんですか? そうヨハネは弟子を介して問いました。
 その問いに対して主イエスは、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子たちにおっしゃいます。
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
 この目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、、という言葉はイザヤ書からの引用です。イザヤはやがて救い主がお越しになる時に起こることを、イザヤ書35章や42章で語っていました。そのまさにイザヤが語っていたことが、あなたたちの目の前で起こっている、その見聞きしたことをそのままヨハネに伝えなさい、そう主イエスは語られています。イザヤが語っていた救い主でなければ、実現できないことが、いま、起きているのだ、と。
<私たちにとっての来たるべきお方>
 これは2000年前、主イエスが地上でその働きをなさっていた時代のことです。その時代、主イエスがおられる地域にいたら、目の前で主イエスのなさることを見て、「ああまさに主イエスはイザヤが預言していた救い主なのだ」と理解することができたかもしれません。
 しかし現代は、主イエスのお体は天にあります。主イエスがこの大阪の地に肉体をもって来られて、目の見えない人を見えるようになさったり、足の不自由な人が歩けるようになさったりはしません。では私たちは主イエスというお方をただ聖書の中にそう書かれているから、教会でそう聞いたからということで救い主として信じるのでしょうか。
 私自身のことをいえば、教会に初めて行った頃、漠然とこの世界には神というような、なにか唯一のお方がおられるのではないかという思いはありました。しかし、よく聞く名前であるイエス・キリストというお方がなんなのかは、謎でした。受洗前に聖書の学びをしたり、いろいろと本を読んだりして、一応、イエス・キリストは救い主なんだ、私たちのために十字架で死んでくださったお方だとは理解しました。しかし理解をするということと、ほんとうに主イエスが、自分のために死んでくださった救い主だということを信じるということは一直線のことではありません。聖霊の働きがなければ分からないのです。
しかし、イエス・キリストがどなたなのか?私にとってどういうお方なのか、それを知らなければ、私たちには救いはありませんし、この世界に生きていく希望もないのです。そしてそれは聖霊によって知らされることです。どれほど勉強しても、どれほど礼拝に来ても、さらにいえば、洗礼を受けたとしても、教会の奉仕をたくさんしたとしても聖霊に導かれなければ、分かりません。何となく神様に守られて感謝とか、イエス様が十字架にかかってくださったことがありがたいことだというぼんやりとした認識はあっても、聖霊によって知らされていなければ、深い感謝や恵みの認識はないのです。
 でも聖霊を信じ、聖霊によって導かれる時、私たちはまさに主イエスによって「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」ということを知らされます。そしてそのような奇跡がほかならぬ自分自身の上にすでに起こっていることを知らされます。ここにおられる多くの方はもともと目が見え、歩くことができ、肉体は生きていますが、私たちの上にもたしかに奇跡が起こったのです。主イエスが私たちに救い主としての業を為してくださったのです。
<つまずき>
 このほかならぬ自分自身の上に主イエスがお働きになったということは、とても大きなことです。実は今日の洗礼者ヨハネの問いもそこに根差しています。洗礼者ヨハネは獄中にあったと最初に申し上げました。彼は神の特別な召しに従って忠実に生きてきました。しかし、暴虐な領主であるヘロデのために捕らえられ、明日の命も分からない身の上です。自分自身の死と向き合っていたのです。その中で「来たるべきお方は、あなたでしょうか」と問うたのです。この問いには、ヨハネがその人生のすべてをかけてきたことへの切実な思いが込められています。ヨハネとて主イエスのうわさは聞いていたし、その業がイザヤによって預言されたことと一致することも分かっていたでしょう。そのうえで、なお問うたのです。
 主イエスは28節で「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」とおっしゃっています。そのように偉大なヨハネですら、その命の危機の中で、主イエスを信じきれないところがあったのです。状況証拠的にはたしかに主イエスが来たるべきお方だと理解はできても、今一歩、信じきれない、主イエスのお言葉で言うと「つまずいて」いるのです。このつまずきは、今、獄中にいる自分にとっての救い、そして救い主とは?という極めて切実なことなのです。
 「しかし、神の国で最も小さな者でも、かれよりは偉大である」という言葉は、洗礼者ヨハネを最初「偉大な者」と持ち上げた後、落としている、非難しているようにも感じます。そうではないのです。洗礼者ヨハネですら主イエスにつまずくのです。そのつまずきを越えるのは、人間自身の大きさ、小ささではなく、ただひたすら、神からの恵みによって、自分自身に救いが来たことを知らされ、信じることなのだと主イエスはおっしゃっているのです。
 洗礼者ヨハネですら、信仰がゆらぎ、つまずきます。私たちも同様です。信仰が揺らぐことなく、確信をもって、最後まで歩めたら幸いですが、人間はそれほど強くありません。特に危機的な状況に自分が置かれた時、揺らぎ、つまずきます。同時に、その危機は私たちの信仰を揺らすために、主ご自身が備えられるという側面もあります。私たちが自分の信仰を過信しないように、私たちの限界を主が示されるのです。そして同時にそれを乗り越えるのは、自分の力ではありません。乗り越える力は神から与えらえるのです。
<今の時代>
 そしてまた、洗礼者ヨハネを「神の国で」は医大ではないとおっしゃっている言葉には別の意味もあります。この世界ではたしかにヨハネほど偉大な者はいないが、「神の国」では違うとおっしゃっています。「神の国」とは、主イエスがお越しになったことで人間に対して開かれたものです。主イエスの到来の前には人間の罪ゆえに人間から閉ざされていました。しかし、主イエスの到来によって新しい時代が来たのです。神の国が私たちに、新しく開かれた、この世界に突入してきたといっても良い時代が来たのです。洗礼者ヨハネは最後の預言者と言われます。洗礼者ヨハネは、言ってみれば、律法と預言によって成っていた旧約聖書の時代から、神の恵みによって神の国が開かれた新約の時代へと引き継ぎをする存在でした。彼によって旧約という古い時代が閉ざされ、新約の新しい時代が始められたのです。その時代の変遷を主イエスは「神の国では」という言葉でお語りになっています。
 今、新しい時代が始まりました。その時代にあって、主イエスに先立って現れ、神に向けて悔い改めを為すことを説いた洗礼者ヨハネを拒む人々がありました。ファリサイ派や律法の専門家です。彼らは自分の知識や行いに自信を持ち、自分中心の生き方をしていました。神のことを語りながら、実際のところは、自分が正しいと考え、神の愛と救いを求めていませんでした。そして洗礼者ヨハネを拒みました。洗礼者ヨハネを拒む者は、「来たるべきお方」である主イエスをも拒みます。新しい時代の到来を知ることなく、ただただ、自分のこれまでのあり方に固執しているならば、そこに救いも希望もありません。ただむなしく自分の正しさに固執して、神の国を知ることなく、永遠の命からこぼれ落ちてしまいます。
 洗礼者ヨハネは救い主を指し示しました。そして、実際に救い主が来られたのに、ファリサイ派や律法学者たちは、自らのかたくなさのゆえに、それを知ることができませんでした。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」洗礼者ヨハネと主イエスは、その生き方、生活のあり方は一見、異なっていました。しかし、共に神からの働きをしたのです。そのどちらのあり方もかたくなな者には見えません。
 私たちには聖霊が与えられています。ですから聖霊によって私たちは主イエスが来たるべきお方であることを知らされています。時に信仰が揺らいだとしても聖霊は私たちを主イエスのもとにとどめてくださいます。洗礼者ヨハネは自分自身の危機の中で信仰が揺らぎました。私たちも揺らぐことがあるかもしれません。命の危機という人生上の重大なことでなくても、ささやかなことでも揺らぐことがあるかもしれません。たとえば、クリスチャン同士の対立を目にするとか、あるいはクリスチャンから理不尽な目に遭わされるということがあったりすると、なぜ信仰者にこういうことが起こるのかと考え込みます。実際、私自身、なんで?と思うような理不尽なことを、周囲から立派だとみなされているクリスチャンにされたことがあります。しかしまた逆に自分自身が他のクリスチャンにつまずきを与えているのではないかと考える時もあります。
 結局のところ、私たちはどこまで行っても不完全な者です。その不完全な者が聖霊に導かれつつ、主イエスの御跡を歩んでいくのです。私たちの歩みは不完全で、時に人から傷つけられ、人を傷つけるような歩みです。しかし、その歩みは主イエスの到来によってたしかに「神の国」へと向かっているのです。私たちは私たちの歩みの正しさのゆえではなく、キリストが共にいてくださる、聖霊がキリストを示してくださる、ただそのことのゆえに「神の国」へとたしかに導かれている。そこにキリストによって開かれた新しい時代に生きる私たちの喜びがあります。


大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第7章11~17節

2024-09-12 14:19:45 | ルカによる福音書
2024年9月8日大阪東教会主日礼拝説教「起きなさい」吉浦玲子
<神は憐れんでくださる>
 カファルナウムで異邦人の百人隊長の部下をお癒しになったあと、主イエスはナインという町に行かれた、とあります。「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とあります。弟子たちはともかく、群衆まで一緒でした。群衆は主イエスに期待していたのです。これまでも数々の奇跡を起こされた主イエスがまた素晴らしい奇跡を起こされるのではないか、ぜひその奇跡を見てみたいと思ったのです。群衆は熱狂していたと言えます。しかし、主イエスの御心は、そのような群衆の思いとは異なったところにありました。すごい業を見せて人々を感服させる、そのような思いを主イエスはお持ちではありませんでした。今日の聖書箇所では、たしかに結果的には主イエスは奇跡を起こされました。しかしそれは群集を熱狂させるためのものではありませんでした。
 さて、そのナインという町の門に近づくと棺が担ぎ出されるところでした。誰かが亡くなったようです。主イエスは病を癒し、悪霊を追い出されてきましたが、さすがにすでに息絶えている亡骸を入れた棺を前にしてはどうすることもできないと誰もが考えました。いえ、どうこうするということすら、誰も思わなかったでしょう。ここではだれも主イエスに何かをしてほしいと願ってはいません。死というものの厳然とした現実を前に人間は沈黙するか嘆くかしかできません。
亡くなった人は、やもめである女性の一人息子でした。愛する息子を失った母の嘆きは時代が異なっても変わりません。この女性の嘆きはいかばかりだったでしょう。さらに当時、女性は一人では生きていけませんでした。生きていくためには夫や息子に頼るしかありませんでした。同時に、家を保つということも大きなことでした。しかし、この女性は家を継ぐべき子供を失ったのです。旧約聖書の『ルツ記』には夫を亡くし、また息子たちをも亡くしてしまい、絶望して、故郷に帰るナオミという女性が出てきました。ナオミはこのように嘆きます。「出ていくときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。(略)主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに」。女性が、家を継ぐ存在を失うということは、物理的にも精神的にも絶望へと落とされる厳しいことでした。
ですから、このナインの町の一人息子を失った女性の嘆きは極めて大きかったと思います。同情した町の人々が大勢そばに付き添っていました。しかし、どれほど多くの人から同情され、慰められても、女性の嘆きは消え去ることはありません。大勢そばにいたということは、おそらく、この女性も一人息子も町の人々に好感を持たれていたのでしょう。女性が夫を失ったのはどのくらい前なのかは分かりません。ひょっとしたら、夫の死後、やもめとなった女性は大変苦労をして、ただ一人の息子を大切に育てたのかもしれません。そんな親子のことを町の人々はよくよく知っていたのでしょう。
主イエスは、その様子をご覧になり、「母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」とあります。主イエスでなくても、この様子を見たら、誰もが同情をするでしょう。実際、町の人がたくさんそばにいたのです。しかし、ここで「憐れに思い」と訳されているギリシャ語の原語は「スプランクニゾマイ」という言葉です。この言葉についてお聞きになったことのある方もおられると思いますが、この言葉は「スプランクノン」という「内蔵」を表す言葉から派生したものです。つまり「憐れに思った」というスプランクニゾマイ」は「内臓がねじれる」、「はらわたよじる」という言葉なのです。
主イエスは、人間の苦しみに対して、「ああかわいそうに」と思われるだけではなく、御自身の内臓がねじれるような痛みを覚えられるということです。私は七年ほど前、大腸憩室炎で緊急入院しました。憩室は、大腸にできるポコッとした袋で、憩室炎は、その憩室の炎症です。憩室自体は右わき腹の上付近にあったのですが、炎症の膿が腸の下腹部までたまっているような状態で、かなりの痛みがありました。胃の前にエプロンのように垂れている大網というものは炎症などが起こったところを保護するそうですが、その大網がねじれていたようです。実際の体の中でねじれが起こるとたいへんなことになるのですが、主イエスは人間の苦しみを、ご自身のそのような肉体の痛みのように感じてくださっているのです。そして「もう泣かなくともよい」とおっしゃってくださるのです。
苦しみは、苦しみ自体でも苦しいのですが、その苦しみが自分にしか理解できないものであるとき、余計苦しみが増します。誰にもわかってもらえない苦しみはいっそう苦しいのです。でも、ただお一人、主イエスはそんな苦しみもご自身の苦しみとして共に苦しんでくださいます。
場合によっては、自分は気づいていない苦しみもあるかもしれません。自分ではまだ頑張れる、とか、たいしたことない、と思っていても、実際は心や肉体に大きな負担となっているような苦しみもあるかもしれません。そしてメンタルや肉体がむしばまれていきます。そのような苦しみをも主イエスはご存じです。そしてご自身の内臓がよじれるほどに痛んでくださるのです。
<もう泣かなくてもよい>
そのように私たちの苦しみをすべてご存じの主イエスは、おっしゃるのです「もう泣かなくてもよい」と。主イエスは苦しみを共に苦しんでくださるのみでなく、涙をぬぐってくださる方でもあります。私が共にいるのだから、「もう泣かなくてよい」そうおっしゃってくださるのです。
そしてそれは口だけの慰めのお言葉ではありません。主イエスは、この一人息子のなきがらが納められている棺に手を触れられました。棺を担いでいた人々は驚いて立ち止まりました。葬列の中に主イエスは入り込まれたのです。通常であれば、それは妨害行為であり、人々は怒ったでしょう。しかし、この時、人々は、主イエスのご様子に息を呑むように立ち止まったのです。そもそも葬列というのは生きている者の場所から、死者の場所である墓へと棺を運んでいくものです。命から死という方向は一方通行であり、そのけっして反対へは向かえない歩みを棺を担いだ人々は歩んでいたのです。その一方通行の歩みを主イエスは止められました。
「若者よ、あなたに言う。起きなさい」
驚くべき言葉です。起きなさいも何も、この若者は死んでいるのです。それをさらりと「起きなさい」と主イエスはおっしゃいました。ここには主イエスの確信と権威がありました。今ここで、蘇生のための特別な業をする必要もなく、こともなげに主イエスは若者を起こされました。さきほどまで、心臓も止まり、体が冷たくなっていた亡骸でした。大勢の人がそばに付き添っていたのですから、大勢の人がたしかにこの若者が死んだことを知っていたのです。
死人は起き上がってものを言い始めたとあります。ちょっと怖い場面でもあります。でも若者はゾンビのように起き上がったのではありません。亡くなる前、母親と共にいたときのままの若者として生きかえったのです。そして主イエスは「息子をその母親にお返しに」なりました。主イエスは、御自身の凄い能力を皆に見せるためにこの奇跡をなさったのではありませんでした。ただただ、この母親を憐れに思い、もう泣かなくてよい、とその涙をぬぐうためにこの驚くべき奇跡をなさいました。激しく嘆いていた母親、心がうつろになっていた母親に、若者の命をお返しになりました。そしてその母親のうつろになっていた心に豊かな恵みを満たされました。
<神はこころにかけてくださる>
 それを見ていた人々は「皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』」と言ったとあります。主イエスの凄い業を期待していた群衆は、主イエスのなさったことが、神の力によるものであると気づいたのです。人間の業ではない、神から特別の力をいただいた大預言者でなければこのようなことはできない、そう思ったのです。実際旧約聖書に出てくるエリヤやエリシャといった預言者は死者を生き返らせるという奇跡を行っていました。ですから主イエスもエリヤやエリシャのような預言者だと人々は思ったのです。
 この時点でまだ人々は主イエスが神から来た救い主であることは分かっていませんでした。ただそのなさったことは神の力によるものだとは分かったのです。そして言いました。「神はその民を心にかけてくださった」。<心にかけてくださった>という言葉は口語訳聖書や新しい聖書協会共同訳では「顧みてくだった」と訳されています。神がそのまなざしをご自分の民にたしかにむけてくださった、というのです。そしてまた神が訪れてくださったということです。
 神の人間の間には罪という隔ての壁がありました。その壁がある限り、神と人間の間は遠いのです。しかし、主イエスはその壁を破り、神と人間をつないでくださるお方でした。主イエスが2000年前にこの世界に来られたということは、神と人間の間に新しい時代が始まったということです。主イエスがこの世界に来られたゆえに、神が人間を心にかけてくださる時代が始まったのです。神が私たち一人一人のことを顧みてくださるのです。それはけっして当たり前のことではありません。主イエスが来られ、そして十字架にかかってくださったゆえに、神と人間の間の罪の壁が壊されました。今日の聖書箇所は、まだ十字架の前の出来事です。しかし、主イエスが来られたということは、すでに新しい時代が始まったということです。そのさきぶれとして、病は癒され、悪霊は追い出され、若者は生き返りました。今日の聖書箇所で「死者は起き上がり」というところの「起き上がり」という言葉は「復活する」という意味の言葉でもあります。主イエスは十字架において死なれ、そして復活をなさいました。死んでいた者が生きかえったのです。墓場へと向かっていた葬列は、命の方向へと返されました。若者が生きかえった出来事は主イエスの復活の先触れでした。
 しかしまた思います。私たちの愛する者たちは帰ってきただろうか、と。この地上を去った人々は生き返ったでしょうか。昨年、大阪東教会でも愛する姉妹を天に送りました。今日の聖書箇所のように、現代において死者が息を吹き返すことはありません。じゃあこのお話は現代の私たちには関係のないことでしょうか。そしてまた今日の聖書箇所で生き返った青年も、その後、死なずに生き続けたわけではありません。ふたたびやがて死んだのです。
 では主イエスがなさったことは、ひととき、母親を慰めるためだけの業だったのでしょうか。そうではありません。さきほども申し上げましたように、たしかに死が打ち破られ、永遠の命が人間に与えれるさきぶれの出来事だったのです。単に死者が蘇生した、ということがデモンストレーションされたのではありません。まさに神が人間を顧みてくださる、涙をぬぐってくださる、死をも打ち破ってくださる、永遠の命を与えてくださる、そのことの先触れの出来事でした。
<失望では終わらない>
 詩編37編に「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。/人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」という言葉があります。私たちの日々には、打ち捨てられたように感じる時もあります。しかしそのような時も、神はかならず私たちを心に留め、顧みてくださり、手をとらえていてくださいます。その恵みは主イエスの到来によって実現しました。棺を運ぶ葬列を止め、死をも打ち破るお方である主イエスが来てくださった。だから私たちは打ち捨てられないのです。主イエスの十字架と復活の業ゆえに、今も、神は私たちを心に留めてくださっている、だから私たちは絶望しないのです。私たちの希望は失望で終わらないのです。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第7章1~10節

2024-09-03 17:18:50 | ヨハネによる福音書
2024年9月1日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの謙遜」吉浦玲子
<ふさわしい方>
 主イエスは弟子たちに「貧しい者は幸いである」に始まる多くの言葉をお語りになりました。「敵を愛しなさい」「人を裁いてはならない」「人の口は、心からあふれることを語る」このような言葉を語られました。今日の聖書箇所はその後のことです。主イエスは、カファルナウムという、ガリラヤ湖北西に位置する湖畔の町へ向かわれました。この町は主イエスの宣教の拠点となっていた町でもあります。
 このカファルナウムは旧約聖書には出てこない町です。紀元前二世紀ごろに建てられました。今日の聖書箇所には百人隊長が出てきます。この百人隊長は、当時の歴史的な状況からするとローマの軍人ではないようです。ユダヤ人でもなく、異邦人、一説にはシリア人であったと言われます。その百人隊長の部下が「病気で死にかかっていた」とあります。百人隊長から重んじられていた部下でした。またこの「部下」という言葉は「僕」という言葉でもあり、「僕」とは奴隷のことを指します。ですからこの部下と書かれている人物は奴隷であって、たいへん優秀な人であったのかもしれません。「重んじられている」という言葉には、値が高い、高価なという意味もあります。ですからこの部下はとても優秀で高い値段で買われた奴隷であったのかもしれません。その部下の病気に百人隊長は胸を痛めたようです。このあたりの感覚は奴隷制のない現代の日本では分かりにくいことです。ただおそらく、百人隊長は、単に持ち物としての奴隷を惜しんでいるのではなく、この部下と深い交わりがあったのでしょう。ですから、当然、百人隊長は、医者を呼んだり、薬を与えたり、できる限りのことはしていたでしょう。しかし、その部下はどんどん悪化して死の淵をさまよっていたのです。その百人隊長が、主イエスのうわさを聞き、主イエスに部下を助けてもらえないかとユダヤ人の長老たちに頼んだというのです。
 ユダヤの長老たちとは、ユダヤの宗教的な指導者たちです。本来、ユダヤ人は神の特別な民であると自負しているはずの長老たちが、異邦人であるこの百人隊長の願いを聞き入れたというのは不思議な話です。そもそもユダヤ人は異邦人とは食事も一緒にしない、異邦人と交わったら汚れると考えているのです。そんなユダヤ人の宗教的指導者たちが、異邦人である百人隊長のために主イエスに願いに行くというのは、本来は、ありえないはずのことです。
 長老たちは主イエスのもとに来て、熱心に願って言いました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」その百人隊長は、ユダヤ人の信仰に好意をもってくれて、さらには礼拝をするための会堂まで建ててくれたと言うのです。言ってみれば、教会員でもない親切な人が、会堂建築のために、必要なほとんどのお金を出してくれたというようなことです。そういうことを異邦人の百人隊長はやってくれた、だからあの人の部下が癒していただくのはふさわしいことだと頼んだというのです。

<ふさわしくない>
 長老たちの言葉を聞いて、主イエスは長老たちと共に、百人隊長のところへ向かいました。しかし、百人隊長の家の近くで、百人隊長の友人が百人隊長の言葉を伝えます。百人隊長みずからが出てこないなんて失礼な、と思ってしまいますが、むしろ百人隊長は謙遜の思いをもって友人に伝言を頼んだのです。「主よ、御足労に及びません。わたしはなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」いやいや、部下を癒してほしいと頼まれたから主イエスはお越しになったのであって、ここまできて家に来なくていいとはどういうことだと不審に思います。さらに友人の言葉は続きます。「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
 つまり百人隊長は、自分は主イエスを自分の家にお迎えしたり、自分から主イエスのところへ伺うことにふさわしくない者であると友人を通じて言っているのです。ユダヤの長老たちは百人隊長のことを「主イエスの癒しの業をしていただくにふさわしい方だ」と言い、百人隊長自身は「ふさわしくない」と語っているのです。
 なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。百人隊長は謙遜な態度で言っているのです。しかしこれは日本人が一般に考える謙遜やへりくだりとは異なります。日本人は「いえいえ私などはつまらない者で」というとき、自分の徳や実績や地位に対してへりくだることが多いと思います。しかし、この百人隊長は異なるのです。この箇所に関して、横浜指路教会の藤掛牧師はこうおっしゃっています。百人隊長が考えていたことは、「自分は神の民ではない」ということだと。ユダヤ人が神から特別に選ばれた民として神を礼拝して生きているのに対して、自分は神の民ではないということを百人隊長は自覚しているのです。神の民ではない自分は主イエスをお迎えするにはふさわしくないと言っているのです。
 当時、異邦人でも、所定の手続きを行えば、ユダヤ教に改宗することは可能でした。ユダヤ教に改宗をして律法を守れば、異邦人でも神の民として生きていくことはできたのです。しかし、この百人隊長は、改宗はしていなかったのです。神を信仰する姿に心を寄せ、多額の献金までしていたけれど、今一歩、信仰へと踏み込めなかったのです。この一歩踏み込めない、その一歩は大きな一歩でした。
 現代でも、キリスト教に好感をもって、場合によっては礼拝に来られる方もあります。教会に来て、平安な気持ちになったり、あるいは讃美歌を歌って喜びを感じたり、そしてまたいくばくかの献金をお捧げくださる方もあります。しかし、信仰へと一歩を踏み出せない、神の民とならない人々があります。百人隊長もそういう一人でした。そしてこれまではおそらくそれでいい、と思って過ごしてきたのでしょう。一歩、踏み込む必要はない、宗教などにのめりこまず、適度な距離を置いて、宗教的な雰囲気を味わったり、善い行いをしていたらよい、そう思っていたのでしょう。

<迫られる>
 しかし、大事な部下が死の淵をさまよっている、それに対して、もうどうすることもできない、会堂を建てるだけの献金だってできる自分であっても、目の前の死に行く命をどうすることもできない、その無力感の内に、主イエスなら助けてくださるだろうと百人隊長は考えました。しかしまた同時に、そんな自分の姿勢を彼は深く顧みたのです。救いを求めながら、神の民とはなっていない自分の姿をつくづくと顧みたのです。これはある意味、神から百人隊長がその態度について、部下の病気を契機に迫られたことだといえます。そしてつくづく百人隊長は自分が主イエスを迎えるには「ふさわしくない」と考えたのです。ユダヤの長老たちが多額の献金を捧げたから「あの人はふさわしい」とほめそやしていたのとは対照的です。神の前のふさわしさとは、ただ神に従う、神の民として生きるという決断をしているかどうかなのです。
 ここにいる多くの人は洗礼を受け、神に従って生きることを決意された方です。神の民、神の子とされ、神と共に生きておられます。しかしそのように神の民として生きておられても、自分や他の人を、社会的な地位や、献金の多い少ないといったことや、教会の奉仕をしているかどうかということで判断するならば、それは百人隊長をほめそやしたユダヤの長老たちと同じです。人間の側の行いによって「ふさわしい」「ふさわしくない」と決めていることになります。
 そもそも、神の前でふさわしい人間などこの世界には一人もいません。どれほど素晴らしい人物であったとしても、とびぬけた才能を持っていたり、有名人であったとしても、神の前にはふさわしくないのです。神の前で、すべての人間は罪人に過ぎません。その罪人に過ぎない人間が、イエス・キリストの十字架と肉体の復活によって、罪を取り去られ、神の前に立つことのできる者とされました。ふさわしくない者が、自らの力によってではなく、ただただ神の憐れみによって、神の前にふさわしい者とみなされ、神の民とされたのです。私たちの謙遜は、ふさわしくない者が救われた、ふさわしくない者が神の民とされている、そこに根差しています。何か私たちが努力して、人徳を高めて謙遜さを身に着けるのではないのです。そもそも私たちは神の前にふさわしくない者である、そう考える時、おのずと謙遜にならざるを得ないのです。

<神の権威の前で>
 百人隊長は友人を通じて「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と申し上げます。ここに百人隊長の信仰があります。主イエスは、わざわざお越しになって、手を置いたり、あれこれなさることなくても、その言葉だけで癒してくださることの出来る方だと百人隊長は信じていたのです。
 そして「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」と言います。私は軍隊のことはよく知りませんが、軍隊は上下関係の規律によって成立しています。上官の命令に部下が従うからこそ、軍隊は力を発揮できます。部下が勝手なことをしていたら、その部隊は壊滅してしまいます。命令をする上官は部下の命をあずかっているわけですから責任があります。百人隊長は上の立場の責任の重さ、そしてその権威をよく知っています。そして百人隊長自身も、千人隊長やそのほかのさらに上の権威に従って生きている人です。権威と言いますと、権威主義的といったりして、あまり良い印象を与えないこともある言葉です。しかし、好むと好まざるとに関わらず、私たちは権威のもとに生きています。権威あるお医者さんの言葉はありがたく聞きますし、会社員であれば上司や経営幹部の権威には従いますし、国家の権威にも従わなくてはいけません。
 私の母教会に、昔、世界的なソプラノ歌手がコンサートに来られたことがあります。本来は、教会に招けるような方ではない、すごい歌手だったのですが、その方と知り合いの方が教会におられて、来日されたとき、教会でもコンサートを開いてくださったのです。その歌手はクリスチャンで、アメリカの自分の所属教会では聖歌隊に入っておられました。聖歌隊で歌う時は聖歌隊のリーダーの指示に従って歌っておられるそうです。音楽家としての力量は、そのソプラノ歌手の方が聖歌隊のリーダーより、はるかに上でしたが、ソプラノ歌手はリーダーに従って、神を賛美しておられました。別に教会の権威はこの世の権威より上だということを申し上げているわけではありません。しかし、置かれた場所での権威に従うということは大事なことです。この歌手が聖歌隊の秩序に従っているから、その教会の賛美は美しく響くのです。ある分野で権威ある立場の人は、どうしても他の場所でへりくだることができなくなります。この世の権威を持っている人は往々にして神の前にへりくだることができないのです。
 それに対して、自分自身がこの世の権威の中で生きていた百人隊長は、主イエスが大きな権威をもっておられることを分かっていました。「ひと言」おっしゃってくだされば、命すら救うことの出来るお方であることが分かっていたのです。ですから主イエスはこの百人隊長のことをこうおっしゃいます。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
 ユダヤの宗教指導者たちは「会堂を建てる献金をしてくれたから」百人隊長を素晴らしいと考えました。そしてまた目の前の主イエスが病を癒す力を持っていることは評判を聞いて知っていましたが、その力の根源が神の権威によるものであることは分かっていませんでした。それに対して百人隊長が、主イエスの言葉に神の権威があることを分かっていたことを、主イエスは称賛なさいました。百人隊長を称賛された主イエスは、本来ふさわしくない者へ豊かな恵みを与えられるお方です。この百人隊長の部下は癒されました。そしてまた、神の前でふさわしくない私たちもいま、神の恵みの中に生かされています。
 恵みの中に生かされながら、どうしても神の権威を受け入れられないところが私たちにはあるかもしれません。車の運転で例えるならば、自分が運転をしていて、助手席に主イエスがおられます。自分は自分の目的地に向かおうと運転をします。道に迷った時だけ助手席の主イエスにどうしたらいいでしょう?と聞くのです。主イエスをちょっとしたカーナビのように扱うのです。普段は自分が運転をしていて、主イエスを主ではなく僕として扱い、自分が主になっているんです。本来は、行く先も、経路も、まず主であるイエス様にお聞きしてから運転を始めるべきなのですが、なかなかそういうことができません。自分の好きな目的地に向かうことに夢中で、横におられる主イエスのことはあまり頓着しないのです。そんな私たちであったとしても、なお主イエスは危ない時にはブレーキを踏んでくださいますし、道に迷わないように導いてはくださいます。でも本当に主イエスの権威を重んじ、主イエスに従う歩みをするとき、私たちは平安に歩めますし、もっともっと豊かな祝福をいただくのです。
 神はふさわしくない者を招いてくださいます。天地創造をなさった宇宙規模の大いなるお方がちっぽけな罪深いものを招き、愛してくださっています。この世界のすべての権威の上におられるお方が、このふさわしくない者を友とすら呼んでくださいます。人生の傍らに共にいてくださいます。この宇宙において唯一の権威を持っておられる方が、この一週間も私たちを守り、導いてくださいます。私たちはその権威に従いつつ、また親しく友として歩んでいきます。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章43~49節

2024-09-03 17:03:47 | ルカによる福音書
2024年8月25日大阪東教会主日礼拝説教「心からあふれ出るもの」吉浦玲子
<実を見る>
 去年、教会の南側のガレージの脇の花壇にポツンと雑草のようなものが生えました。抜かなくちゃと思いつつ、抜かないままにしばらくすると、やたらどんどんとその草は背が高くなるのです。あれ?これ雑草だっけ?と思って見ると雑草というよりひまわりのようです。確信はなかったのですが、抜かずにそのままにしていたら、本当にひまわりの花が咲きました。最初にそれがひまわりだとは分からなかったのは、その年、その場所にひまわりの種はまいていなかったからです。おそらく、前年か前々年にその場所にあったひまわりの種が自然に落ちて芽吹いたものだったのでしょう。教会の庭には種を蒔いたり球根や苗を植えたりして成長している植物もありますが、よく分からない知らないうちに生えているものもあります。鳥などの動物がどこからか種を持って来て、それが根付くこともあるようです。見慣れない植物を調べると毒性のある植物であったり、他の植物を駆逐する危険な外来種であることもあります。植物の専門家であれば、すぐにそういうのは見分けられるのでしょうが、植物に疎い私などはひまわりですら、花が咲くまでよく分からなかったりします。最近はスマホで植物を写すと植物名を教えてくれるアプリもありますが、そのアプリも写す場所や向きによって違う植物名を言ったりします。完ぺきに植物を確定してくれるわけでもありません。
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」こう主イエスはおっしゃいます。主イエスは、この前の聖書箇所になりますが、敵を愛しなさい、とおっしゃり、また、人を裁いてはいけません、とおっしゃった、そのあとにこの言葉を語っておられます。私たちは、ひとときであれば、敵を愛するふりをすることはできるかもしれません。心の中で相手のことを「あんな奴ダメだ」と裁いていながら、それを口には出さないこともできます。でも私たちが本当に敵を愛したり、人を裁かない人間になっているか、そして神から喜ばれる人間になっているかどうかは、結局、私たちが実らせる実によって分かるのだとおっしゃるのです。私たちが茨なのかいちじくなのか野ばらなのかぶどうなのか、それは実る実によって分かるとおっしゃいます。植物に疎くて、それがどんな種類の植物か分からなくても、アプリでも判別できなくても、実によって分かるのです。逆に言いますと判別には時間がかかるということです。
 でもこれは少し恐ろしい言葉でもあります。私たちが長く生きていきながら、私たちが本当に神に喜ばれるような生き方をしているのか?私たちがその人生において、豊かな実を結ぶ生き方をしているのか、それはぱっと見では、短期間では、自分にも人にも分からないということです。自分ではおいしいぶどうの実のつもりが、なんだか苦い嫌な感じの実を結んでしまうということもあるということです。人生の終わりになって、あなたの生き方は間違っていましたねと神様に言われるのは困ってしまいます。
<良い言葉悪い言葉>
 しかし、人生の終わりまで行かなくても、判別できることはあると主イエスはおっしゃっています。それは言葉によってです。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と主イエスはおっしゃいます。

 ところで、「ありがとうございます」とか「すみませんでした」「申し訳ありませんでした」という言葉をあまり言わない方が時々おられます。信仰歴の長いクリスチャンであっても、たまにおられます。相手はその人に別に感謝されたいと思ってやっているわけではないことであっても、やったことに対して「ありがとう」という言葉がなければ、こちらがやったことがむしろ相手に不快な感じを持たせたのかと心配になったりします。あるいはやってもらって当然だと相手は思っているのかと感じたりします。また小さなことでもあってもちょっと迷惑をかけられたとき「すみません」「ごめんなさい」の一言がなければ、いったいどういうことなんだと思ってしまいます。そういうことが続きますと、結局、その人の心には感謝とか申し訳ないという思いが、そもそもないのだと考えざるを得なくなってきます。
 よく、昔は、男性は寡黙な方が良くて、たとえば、夫婦関係でも夫は妻への感謝の言葉は言わないということがあったかもしれません。もちろんそれはご夫婦ごとの関係であって、一概にそれが悪い良いという話ではありません。口には出さなくても、それぞれに相手のことを思いやっていて、そのことを双方が分かっているという場合もあるでしょう。ただ、言葉によって、相手の気持ちが分かる方がやはり良いと言えば良いのです。感謝しているのか、申し訳なく思っているのか、それは相手にわかる形であらわすべきなのです。心の中で感謝しているとか申し訳なく思っているというのは、結局のところ、感謝や申し訳ない思いそのものが大きくはないということなのです。
 ありがとうやごめんなさい、だけでなく、やはりその人の言葉というのはその人の心を表します。そう自分で申し上げつつ、普段の自分の言葉を思う時、冷や汗が出る様な思いもあります。一方で、口ではありがとうと言っておられるのですけど、なんとなくその思いが伝わってこない場合もありますし、別に悪いことはおっしゃってはいなくても、なんとなく冷たさを感じることもあります。でも、こういったからといって「じゃあしゃべり方に気をつけましょう」ということではありません。

 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」そもそもあなたたちの心の中に何があるのか?と主イエスは問うておられます。口先だけでありがとうございますとか感謝していますと言っても、あるいは優しそうな話し方をしても、心の中に良いものがなければ、口から出る言葉も良いものにならないとおっしゃるのです。
 これはさきほどの植物の実の話と同様、ノウハウ的にどうにかなるものではありません。こうすれば、人生で豊かな実が結べますとか、こういう風に話しましょうということではありません。そもそも聖書の言葉そのものが、直接的に、悩みにこたえるとか、生き方を指南するということではないからです。むしろ聖書は私たちに問いかけて来るのです。あなたはどんな植物なのか?あなたの心には何があるのか?と。その問いに答えつつ生きるということが御言葉に生きるということです。表面的なしゃべり方や人との接し方を良くして済む問題ではありませんし、自分の悩み事に適切な言葉でヒントを与えてもらうというものでもありません。もっと深いところから私たちは聖書において神から問われるのです。それは表面的な態度や言葉の問題ではありません。もちろん、ありがとうやすみませんはちゃんと言った方が良いですが。私たち自身が御言葉を聞き、神から問われ、その問いに答える形で変わる、いえ、変えられていくものなのです。

<土台>
 そのような神からの問いに答えつつ生きるということが、御言葉に生きるということです。聖書を単なる生き方指南書、お悩み解決ツール、癒しの言葉集としているときは、御言葉に生きるということはできていません。聖書の話をたくさん知っていても、神学をたくさん学んでいても、御言葉に生きているかというと必ずしもそうではありません。主イエスは「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃいます。「主よ、主よ」と呼ぶということは、表面的な宗教的儀礼として神を呼ぶということです。現代で言えば、普段はまったく神のことを思うことなく、日曜日に教会に来て、なんとなく清らかな癒されたような気持になって月曜からはまったく神のことを思わずに過ごすということです。
 旧約聖書の時代、特に紀元前6世紀にイスラエルが滅びる前、神の言葉を聞き、行う人はほとんどいなくなりました。でも神殿に人々は行き、それなりに礼拝や祭儀はしていたのです。「主よ、主よ」と人々は神を呼んでいたのです。しかし、神を第一とする行いはまったくありませんでした。その結果、国は滅びました。それは現代の一人一人においてもそうです。どれほど聖書を勉強しても熱心に教会の奉仕をしても、御言葉を行わないならば、それはとてもあやうい生き方になるのです。
 しかし、御言葉を行う人はそうではないと主イエスはおっしゃいます。主イエスは御言葉を行う人はどういう人に似ているか示そうと語られます。それは「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」つまり御言葉を行う人は、土台のしっかりした家のようだとおっしゃるのです。
 今、日本には台風が近づいてきています。場合によると大阪にも大きな影響を与えるかもしれません。今朝は大阪市にも大雨警報が出ていました。一方、少し前には日向灘での地震を契機に南海トラフが近づいているというような発表もありました。そもそも、日本は自然災害の多い国です。神を信じていても、自然災害は襲ってきますし、被害にあうこともあります。2018年の台風21号を思い出しても、教会庭のミモザの木が根元から倒れ、物置が倒壊し、会堂の屋根瓦が飛びました。台風だ、南海トラフだと考えているとだんだんと怖くなってきます。災害だけではなく、人生にはさまざまな危機があります。しかし、どのようなことがあっても、御言葉を行う人は土台から崩れることはないと主イエスはおっしゃいます。

 大阪東教会で用いている讃美歌集には載っていない曲で、大阪東教会ではほとんど歌うことのない曲ですが「遠き国や」という讃美歌があります。これは1923年の関東大震災の時、来日していたマーティン宣教師によって作られた讃美歌です。関東大震災は死者行方不明者が十万人という明治以降の地震としては最大規模の被害を出しました。その震災の折につくられました。「遠き国や/海の果て/いずこにすむ/民も見よ/慰めもて変わらざる/主の十字架はかがやけり/慰めもて/汝がために/慰めもて/汝がために/揺れ動く地に立ちて/なお十字架は輝けり」という歌詞です。当時、震災の被災者が明治学院の校庭に避難していましたが、まだまだ余震が続いていました。そのたいへん不安な状況の明治学園の校庭の蚊帳のなかに被災者は避難していたのですが、夜、その蚊帳の中に灯されていたろうそくの灯が、マーティン宣教師には十字架に見えたそうなのです。それでマーティン宣教師はこの讃美歌を作ったのです。どれほど地が揺れ動いても十字架は輝いている、どれほど地が揺れ動いても十字架からの慰めはかわることはない、そうマーティン宣教師は歌ったのです。
 たしかに私たちの生きるこの地上は、物理的に地面が大きく揺れることがあります。また人生においても、生きる土台が揺れる様なこともあります。台風で倒れたミモザのように根っこから倒されるようなことも人生の中にはあります。私たちは自分の足で踏ん張って、倒れないようにがんばるのではありません。私たちが倒れようとも、引っこ抜かれようとも、それでも十字架は輝いているのです。その十字架からたしかな慰めと、新しい力と命が与えられるのです。私たち自身も、この世界も不確かで変動します。でも十字架は変わりません。その変わらざるものを自分の中心としていきていくとき、私たちは時に倒れても、人生の土台は揺るぎません。物理的に建物は倒れても、私たちの生活の根幹が揺らいでも、そして私たちが落胆し絶望しようとも、十字架に照らされている私たちの土台は揺るがず、信仰の家はけっして崩れません。十字架による恵みによって守られているのです。

<御言葉を行う>
 ここでもう一度、御言葉を行うということについて考えてみます。さきほど神からの問いに答えて生きる、と申し上げました。神の問いに答えるためには神を見上げて生きていないと、その神の問いの言葉も聞こえません。神を見上げるということは熱心に祈るということではありません。祈りはどちらかというと私たちの思いを神に伝えることです。そうではなく、静まって神からの言葉を聞くことが神を見上げることです。神の言葉を勉強や解釈ではなく、自分に語られている言葉として聞くということです。そのようにして私たちは日々、神を見上げて歩みます。神を見上げる時、そこに十字架の輝きも見えるのです。ご自分の命を捧げて死んでくださったキリストの愛が見えてきます。その十字架の輝きはさきほども申し上げましたように、どのような時も変わりません。キリストの愛は変わらないのです。その愛を受けて、心から感謝して生きていくとき、私たちの心には良いものが満たされていきます。私たちの生きる土台はしっかりとしたものになります。
 「ありがとう」「ごめんさい」を言うということを申し上げましたが、私たちが心がけて良い言葉を言おうとしたり、しっかり生きていくということではありません。御言葉を行うというと、私たちの行いが問題とされているように感じますがそうではないのです。良いことをしなさいということではないのです。私たちが神を本当に見上げているならば、そこに十字架の輝き、キリストの愛が見えるはずです。そして心には感謝の思いが自然と豊かにあふれてくるのです。そのあふれ出た感謝が、私たちの言葉となり、行いになるのです。逆に言えば、私たちが自分で頑張って生きていくことや、立派な言葉を語ったり、良い行いをすることにとどまっているならば、私たちの心には神への感謝の思いはあふれません。感謝をしようと心がけていても感謝の心は絶対生まれてこないのです。自分ががんばったり心がけていると、むしろ私たちの心は貧しくなるのです。自分がしっかり生きているか、さらには他人がしっかりとやっているか、チェックしてしまう。そして自分や人を「こんなことするなんて自分はだめだ」と裁いたり、ぎすぎすした嫌な言葉しか語れなくなります。
 御言葉を行うということは聖霊によって神の言葉を聞くということであるともいえます。聖霊によって神の言葉を聞くならば、おのずと神の愛、神の恵みを知らされるのです。神の愛、神の恵みが私たちの心の中に豊かに蓄えられるのです。私たちが私たちの力で私たちの心に良いものを蓄えようとしてもぜったいにできません。私たちの心掛けで良いものを心に満たすことはできないのです。ただ聖霊によって御言葉を聞くとき、私たちの心に良いものが満たされ、その満たされたものはおのずとあふれ出るのです。そのあふれ出たものは、良い言葉となり、愛の行いとなっていきます。この一週間もそしてこれからの人生においても、私たちの心に良いものを神が満たしてくださいますように。神が良いものを満たしてくださることを信じ、大いに期待をして、歩んでいきましょう。