2024年10月6日大阪東教会主日礼拝説教「誰が種を蒔くのか」吉浦玲子
<覆いを取る>
今、聖書研究祈祷会や聖書を読む会で「ヨハネの黙示録」を読んでいます。「ヨハネの黙示録」はたいへん分かりにくく、神学者によっても解釈が大きく異なったりする書物です。「ヨハネの黙示録」を読まれる時、多くの方はもう少しスカッと分かりやすく書かれていればいいのにと思われるのではないでしょうか。しかし、「ヨハネの黙示録」は神の終末の時までのご計画が書かれている書物であり、そもそも神のご計画というのは人間の理性や思いをはるかに越えたものです。何月何日にどこそこにこういうことが起こりますよ、というように人間が知りえるものではありません。本来人間が知りえない事柄を、不可思議なイメージなどを駆使して語られたものが黙示録です。そもそも黙示という言葉の原語には、「覆いを取る」という意味があります。隠されたものが明らかにされるという意味です。ギリシャ語の原語では啓示と訳される言葉と同じ意味です。黙示は啓示の中で特に終末について語られたことを指すことが多いようです。
神の出来事や神の国については、神御自身が覆いを取ってくださらなければ人間には分かりません。今日の聖書箇所に「たとえ」を用いる理由を主イエスが語られています。9節で「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」と主イエスはおっしゃっています。あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている、と主イエスは弟子たちにおっしゃいますが、「悟り」というと修行したり、いろいろと励んで、悟りの境地に達するような感じがありますが、聖書の神の事柄についてはそうではありません。神の方から「覆いをとって」示してくださるから悟ることができるのです。
私たちは今日これから、聖餐にあずかりますが、今、聖餐のパンとぶどうジュースは今はまだ布と器の中に隠されています。これは埃をかぶらないようにするためとか、荘厳なイメージ出すために、こうしているのではありません。パンとぶどうジュースによって示されるイエス・キリストの死と救いの出来事、つまり聖餐式に起ころうとする神の出来事が今はまだ隠されているということです。聖霊によって聖餐式が導かれる時、覆いがとられ、神によって主イエスの死と救いの出来事が示されるのです。
<耳ある者は聞きなさい>
主イエスが弟子たちにおっしゃっているのは、弟子たちには神の国の秘密が隠されていないということです。もちろん隠されていないといっても、弟子たちとて、すべてのことを知らされるわけではありません。しかし、主イエスご自身が覆いを取って示してくださるということです。
福音書には、多くの人々に対して主イエスが語られている言葉もあれば、弟子たちに対して語られている言葉もあります。どうして弟子たちにだけお話になる話があるのでしょうか。弟子たちは伝道のための奉仕をしてくれるから特別待遇だったということではありません。弟子たちは主イエスと共に生きようと決め、実際、主イエスと歩みを共にしているのです。主イエスに心を向けているのです。その弟子たちに対して主イエスは覆いをとって神の国のことを語ってくださるのです。
一方、主イエスに心を向けていない権力者たちや、病気を治してもらったらもうそれで結構という人々に対しては覆いはかかったままなのです。それは主イエスが人によって態度を変えるとかケチだということではないのです。心を向けていない人に無理に神の国のことを語っても、それは反発や憎しみを買うからです。神の国の出来事は、冒頭で申し上げた『ヨハネの黙示録』のように、人間には本来理解できない事柄です。人間の常識を超えたことです。安息日に腕の不自由な女性を癒しただけで主イエスは命を狙われるほど権力者から憎まれました。そのような主イエスのある意味、当時の常識から外れた業の向こうに神を感じることができる人にのみ主イエスは覆いを取ってくださるのです。8節で主イエスは「耳ある者は聞きなさい」と大声でおっしゃっています。肉体の耳はあって音や言葉を聞きとる聴力はあっても、主イエスのお語りになる言葉を神の言葉として聞けない者は耳はないのです。主イエスは大きな声で耳ある者へご自身の言葉を届けようとなさいました。そして耳ある者に対して覆いをとってくださるのです。
翻って私たちは毎週礼拝で御言葉を聞きます。あるいはいろいろな集会で御言葉と接したり、またそれぞれに日々御言葉と接して神からの恵みを受けています。もちろん、聖書が語る救いについての基本的なことや歴史的背景を理解していたら、聖書を読みやすくなるという側面はあります。でも本当に御言葉が私たちに語りかける神の言葉となるのは聖霊なる神の導きであり、神御自身が御言葉の奥にある真理を、覆いを取ってくださって私たちに示してくださるからです。そして今日、私たちに与えられている御言葉は聖書に親しんでおられる方にはなじみぶかい「種を蒔く人」の話です。この話が今覆いを取られて私たちに神の国を示してくださるようにと願います。
<私はどんな土地>
このたとえ話で「種を蒔く人」とは神のことです。神が種を蒔かれるのです。この種は御言葉、福音を指します。しかし、ある種は道端に落ちてしまった。またある種は石地におちてしまった。さらに茨の中に落ちた種もあります。しかし、良い土地に蒔かれた種もあります。11節以降で、このたとえ話の解説を主イエスご自身がなさっています。道端に落ちた種は悪魔によって奪われてしまって、御言葉を信じて救われることがない場合を指します。石地に落ちた種は根が出なくて、最初は御言葉を受け入れてもすぐに身を引いてしまう場合、そして茨の中に落ちた種は人生の思い煩いやさまざまな誘惑に覆いかぶされて実を結ぶことがない場合だと語られています。そして良い土地落ちた種は御言葉を聞き忍耐して実を結ぶ場合だと言われます。
このたとえ話は、話自体は分かりやすいものですが、日本人の感覚では少し違和感もあります。現代の農業を考えますと、道端や石地、そして茨の中に種は蒔かないからです。しかし、主イエスの時代、どうも種まきはおおざっぱなものだったと言われます。道端や石地にこぼれてしまうような種もあったようです。ですからこの話を聞いていた主イエスの時代の人々にとってはたいへんリアルな話だったのです。
ところで大阪東教会の戦中戦後の牧師であった久保喜美豊先生は、植物を育てることがとても上手だったそうです。「どうしたらそのように植物をうまく育てられるのか」とある人が久保先生に聞いたら「植物をじっと見ていたら、どのようにしてほしいか分かるんだ。植物がしてほしいようにしたら良いんだ」と答えられたそうです。久保先生はそのようにしてうまく植物を育てられたようですが、実際のところ、久保先生以外の者には、土に種を蒔いても、花を咲かして実を実らせるまで育てるのはなかなか難しいことです。教会の庭でもいろいろ蒔いたりしていますが、けっこう失敗することがあります。一方で、雑草はやたらと繁茂します。雑草におされて、せっかく蒔いた種が成長できない、まさに茨に覆われたところに蒔かれた種のようになります。
そのような現実の植物の話を思い浮かべつつ、この話を土地の側の問題として読みますと、自分は良い土地になって立派な心をもって御言葉を聞き、実を結びたいと願います。一方で、思い煩いばかりしている私は茨の覆う土地ではないのか、なかなか信仰が成長しない私は石地ではないのかと思ったりもします。
<たった一粒でも>
しかし、大事なことは種を蒔いてくださるのは神だということです。私たちが整えられた土地になって初めて神が種を蒔いてくださるのではありません。石だらけであろうが茨や雑草が生い茂っていようが、神は種を蒔いてくださるのです。気前よくばんばんと蒔いてくださる。逆に私たちがどれほどがんばって良い土地になったとしても神が種を蒔いてくださらなければ、実は結びません。しかし、神が蒔いてくださらないということはないのです。どんどんと蒔いてくださる、大盤振る舞いをしてくださるのです。そして神が覆いをとってくださるとき、私たちが真実を見えるようになるように、神御自身のご計画によって育てていただくのです。
そしてもう一つ注意したいのはこの土地は一つの畑だということです。イスラエルの土地には多くの石があり畑を作る時もすべてを取り除くことは出来ませんでした。また当時のイスラエルの畑は灌漑を行っていませんから、深く耕すと水が蒸発してしまうので浅くしか耕せず、根の深い茨などが生えやすかったのです。ですから一つの畑の中に石が多くあったり、茨が生えていたりする場所もあったのです。私たちの心や日々もまた、一様ではありません。信仰に熱く御言葉を求める心もあれば、思い煩ったり、他のことに心を奪われたりもします。そんなさまざまな部分を持っている私たちに神はどんどんと種を蒔いてくださるのです。
そのように神が蒔き、神が育ててくださるのです。その種は私たちがどれほど茨や石まみれであっても、ほんの少しの良い土地に蒔かれたら、主イエスに耳を傾けるほんの少しの心があれば、その種は芽を出し、育ちます。たった一粒でも育ちます。その育つ、たった一粒の種のために、神は蒔き続けてくださるのです。そしてまた、私たちはいつまでも石まみれ、茨だらけではありません。神が良い土地へと変えてくださるのです。神は良い土地を広げてくださいます。土地は広がっていくのです。ですから道端に落ちることも少なくなります。
<命を与える種>
ところで、種は、聖書の時代、土の中で死んでいると思われていました。その死んでいた種が芽を出し成長をするということは、人々にはたいへん神秘的なことでした。主イエスはヨハネによる福音書のなかで、御自身が十字架にかけられて死ぬことを一粒の種にたとえておられました。一粒の種は土に蒔かれ、土の中でひとたび死ぬからこそ、多くの実を結ぶのだと主イエスはおっしゃいました。主イエスご自身が特別な貴いたった一粒の種でした。その種が死んでくださったので、私たちの心にとてつもなく多くの種が蒔かれるようになりました。その蒔かれた種によって、私たちに新しい命を与えてくださいました。どんなに石ころだらけでも茨だらけでも蒔いていただき、わずかに出た芽を大事に育ててくださいました。
私たちはこれから聖餐にあずかりますが、主イエスが私たちのために一粒の種として死んでくださり、それゆえに私たちに多くの種が蒔かれたことを感謝しましょう。その種は百倍の実を結ぶ、と語られています。この百倍は当時の農業の常識からすると、とてつもない数です。常識外れの収穫です。今年、たくさんのぶどうが教会で実りました。感謝なことでした。でも、主イエスが蒔いてくださる種は、私たちの中で、あのぶどう棚のぶどうの何百倍、何千倍も、常識はずれなほどに、私たちの中で豊かに実るのです。