大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第7章1~10節

2024-09-03 17:18:50 | ヨハネによる福音書
2024年9月1日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの謙遜」吉浦玲子
<ふさわしい方>
 主イエスは弟子たちに「貧しい者は幸いである」に始まる多くの言葉をお語りになりました。「敵を愛しなさい」「人を裁いてはならない」「人の口は、心からあふれることを語る」このような言葉を語られました。今日の聖書箇所はその後のことです。主イエスは、カファルナウムという、ガリラヤ湖北西に位置する湖畔の町へ向かわれました。この町は主イエスの宣教の拠点となっていた町でもあります。
 このカファルナウムは旧約聖書には出てこない町です。紀元前二世紀ごろに建てられました。今日の聖書箇所には百人隊長が出てきます。この百人隊長は、当時の歴史的な状況からするとローマの軍人ではないようです。ユダヤ人でもなく、異邦人、一説にはシリア人であったと言われます。その百人隊長の部下が「病気で死にかかっていた」とあります。百人隊長から重んじられていた部下でした。またこの「部下」という言葉は「僕」という言葉でもあり、「僕」とは奴隷のことを指します。ですからこの部下と書かれている人物は奴隷であって、たいへん優秀な人であったのかもしれません。「重んじられている」という言葉には、値が高い、高価なという意味もあります。ですからこの部下はとても優秀で高い値段で買われた奴隷であったのかもしれません。その部下の病気に百人隊長は胸を痛めたようです。このあたりの感覚は奴隷制のない現代の日本では分かりにくいことです。ただおそらく、百人隊長は、単に持ち物としての奴隷を惜しんでいるのではなく、この部下と深い交わりがあったのでしょう。ですから、当然、百人隊長は、医者を呼んだり、薬を与えたり、できる限りのことはしていたでしょう。しかし、その部下はどんどん悪化して死の淵をさまよっていたのです。その百人隊長が、主イエスのうわさを聞き、主イエスに部下を助けてもらえないかとユダヤ人の長老たちに頼んだというのです。
 ユダヤの長老たちとは、ユダヤの宗教的な指導者たちです。本来、ユダヤ人は神の特別な民であると自負しているはずの長老たちが、異邦人であるこの百人隊長の願いを聞き入れたというのは不思議な話です。そもそもユダヤ人は異邦人とは食事も一緒にしない、異邦人と交わったら汚れると考えているのです。そんなユダヤ人の宗教的指導者たちが、異邦人である百人隊長のために主イエスに願いに行くというのは、本来は、ありえないはずのことです。
 長老たちは主イエスのもとに来て、熱心に願って言いました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」その百人隊長は、ユダヤ人の信仰に好意をもってくれて、さらには礼拝をするための会堂まで建ててくれたと言うのです。言ってみれば、教会員でもない親切な人が、会堂建築のために、必要なほとんどのお金を出してくれたというようなことです。そういうことを異邦人の百人隊長はやってくれた、だからあの人の部下が癒していただくのはふさわしいことだと頼んだというのです。

<ふさわしくない>
 長老たちの言葉を聞いて、主イエスは長老たちと共に、百人隊長のところへ向かいました。しかし、百人隊長の家の近くで、百人隊長の友人が百人隊長の言葉を伝えます。百人隊長みずからが出てこないなんて失礼な、と思ってしまいますが、むしろ百人隊長は謙遜の思いをもって友人に伝言を頼んだのです。「主よ、御足労に及びません。わたしはなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」いやいや、部下を癒してほしいと頼まれたから主イエスはお越しになったのであって、ここまできて家に来なくていいとはどういうことだと不審に思います。さらに友人の言葉は続きます。「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
 つまり百人隊長は、自分は主イエスを自分の家にお迎えしたり、自分から主イエスのところへ伺うことにふさわしくない者であると友人を通じて言っているのです。ユダヤの長老たちは百人隊長のことを「主イエスの癒しの業をしていただくにふさわしい方だ」と言い、百人隊長自身は「ふさわしくない」と語っているのです。
 なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。百人隊長は謙遜な態度で言っているのです。しかしこれは日本人が一般に考える謙遜やへりくだりとは異なります。日本人は「いえいえ私などはつまらない者で」というとき、自分の徳や実績や地位に対してへりくだることが多いと思います。しかし、この百人隊長は異なるのです。この箇所に関して、横浜指路教会の藤掛牧師はこうおっしゃっています。百人隊長が考えていたことは、「自分は神の民ではない」ということだと。ユダヤ人が神から特別に選ばれた民として神を礼拝して生きているのに対して、自分は神の民ではないということを百人隊長は自覚しているのです。神の民ではない自分は主イエスをお迎えするにはふさわしくないと言っているのです。
 当時、異邦人でも、所定の手続きを行えば、ユダヤ教に改宗することは可能でした。ユダヤ教に改宗をして律法を守れば、異邦人でも神の民として生きていくことはできたのです。しかし、この百人隊長は、改宗はしていなかったのです。神を信仰する姿に心を寄せ、多額の献金までしていたけれど、今一歩、信仰へと踏み込めなかったのです。この一歩踏み込めない、その一歩は大きな一歩でした。
 現代でも、キリスト教に好感をもって、場合によっては礼拝に来られる方もあります。教会に来て、平安な気持ちになったり、あるいは讃美歌を歌って喜びを感じたり、そしてまたいくばくかの献金をお捧げくださる方もあります。しかし、信仰へと一歩を踏み出せない、神の民とならない人々があります。百人隊長もそういう一人でした。そしてこれまではおそらくそれでいい、と思って過ごしてきたのでしょう。一歩、踏み込む必要はない、宗教などにのめりこまず、適度な距離を置いて、宗教的な雰囲気を味わったり、善い行いをしていたらよい、そう思っていたのでしょう。

<迫られる>
 しかし、大事な部下が死の淵をさまよっている、それに対して、もうどうすることもできない、会堂を建てるだけの献金だってできる自分であっても、目の前の死に行く命をどうすることもできない、その無力感の内に、主イエスなら助けてくださるだろうと百人隊長は考えました。しかしまた同時に、そんな自分の姿勢を彼は深く顧みたのです。救いを求めながら、神の民とはなっていない自分の姿をつくづくと顧みたのです。これはある意味、神から百人隊長がその態度について、部下の病気を契機に迫られたことだといえます。そしてつくづく百人隊長は自分が主イエスを迎えるには「ふさわしくない」と考えたのです。ユダヤの長老たちが多額の献金を捧げたから「あの人はふさわしい」とほめそやしていたのとは対照的です。神の前のふさわしさとは、ただ神に従う、神の民として生きるという決断をしているかどうかなのです。
 ここにいる多くの人は洗礼を受け、神に従って生きることを決意された方です。神の民、神の子とされ、神と共に生きておられます。しかしそのように神の民として生きておられても、自分や他の人を、社会的な地位や、献金の多い少ないといったことや、教会の奉仕をしているかどうかということで判断するならば、それは百人隊長をほめそやしたユダヤの長老たちと同じです。人間の側の行いによって「ふさわしい」「ふさわしくない」と決めていることになります。
 そもそも、神の前でふさわしい人間などこの世界には一人もいません。どれほど素晴らしい人物であったとしても、とびぬけた才能を持っていたり、有名人であったとしても、神の前にはふさわしくないのです。神の前で、すべての人間は罪人に過ぎません。その罪人に過ぎない人間が、イエス・キリストの十字架と肉体の復活によって、罪を取り去られ、神の前に立つことのできる者とされました。ふさわしくない者が、自らの力によってではなく、ただただ神の憐れみによって、神の前にふさわしい者とみなされ、神の民とされたのです。私たちの謙遜は、ふさわしくない者が救われた、ふさわしくない者が神の民とされている、そこに根差しています。何か私たちが努力して、人徳を高めて謙遜さを身に着けるのではないのです。そもそも私たちは神の前にふさわしくない者である、そう考える時、おのずと謙遜にならざるを得ないのです。

<神の権威の前で>
 百人隊長は友人を通じて「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と申し上げます。ここに百人隊長の信仰があります。主イエスは、わざわざお越しになって、手を置いたり、あれこれなさることなくても、その言葉だけで癒してくださることの出来る方だと百人隊長は信じていたのです。
 そして「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」と言います。私は軍隊のことはよく知りませんが、軍隊は上下関係の規律によって成立しています。上官の命令に部下が従うからこそ、軍隊は力を発揮できます。部下が勝手なことをしていたら、その部隊は壊滅してしまいます。命令をする上官は部下の命をあずかっているわけですから責任があります。百人隊長は上の立場の責任の重さ、そしてその権威をよく知っています。そして百人隊長自身も、千人隊長やそのほかのさらに上の権威に従って生きている人です。権威と言いますと、権威主義的といったりして、あまり良い印象を与えないこともある言葉です。しかし、好むと好まざるとに関わらず、私たちは権威のもとに生きています。権威あるお医者さんの言葉はありがたく聞きますし、会社員であれば上司や経営幹部の権威には従いますし、国家の権威にも従わなくてはいけません。
 私の母教会に、昔、世界的なソプラノ歌手がコンサートに来られたことがあります。本来は、教会に招けるような方ではない、すごい歌手だったのですが、その方と知り合いの方が教会におられて、来日されたとき、教会でもコンサートを開いてくださったのです。その歌手はクリスチャンで、アメリカの自分の所属教会では聖歌隊に入っておられました。聖歌隊で歌う時は聖歌隊のリーダーの指示に従って歌っておられるそうです。音楽家としての力量は、そのソプラノ歌手の方が聖歌隊のリーダーより、はるかに上でしたが、ソプラノ歌手はリーダーに従って、神を賛美しておられました。別に教会の権威はこの世の権威より上だということを申し上げているわけではありません。しかし、置かれた場所での権威に従うということは大事なことです。この歌手が聖歌隊の秩序に従っているから、その教会の賛美は美しく響くのです。ある分野で権威ある立場の人は、どうしても他の場所でへりくだることができなくなります。この世の権威を持っている人は往々にして神の前にへりくだることができないのです。
 それに対して、自分自身がこの世の権威の中で生きていた百人隊長は、主イエスが大きな権威をもっておられることを分かっていました。「ひと言」おっしゃってくだされば、命すら救うことの出来るお方であることが分かっていたのです。ですから主イエスはこの百人隊長のことをこうおっしゃいます。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
 ユダヤの宗教指導者たちは「会堂を建てる献金をしてくれたから」百人隊長を素晴らしいと考えました。そしてまた目の前の主イエスが病を癒す力を持っていることは評判を聞いて知っていましたが、その力の根源が神の権威によるものであることは分かっていませんでした。それに対して百人隊長が、主イエスの言葉に神の権威があることを分かっていたことを、主イエスは称賛なさいました。百人隊長を称賛された主イエスは、本来ふさわしくない者へ豊かな恵みを与えられるお方です。この百人隊長の部下は癒されました。そしてまた、神の前でふさわしくない私たちもいま、神の恵みの中に生かされています。
 恵みの中に生かされながら、どうしても神の権威を受け入れられないところが私たちにはあるかもしれません。車の運転で例えるならば、自分が運転をしていて、助手席に主イエスがおられます。自分は自分の目的地に向かおうと運転をします。道に迷った時だけ助手席の主イエスにどうしたらいいでしょう?と聞くのです。主イエスをちょっとしたカーナビのように扱うのです。普段は自分が運転をしていて、主イエスを主ではなく僕として扱い、自分が主になっているんです。本来は、行く先も、経路も、まず主であるイエス様にお聞きしてから運転を始めるべきなのですが、なかなかそういうことができません。自分の好きな目的地に向かうことに夢中で、横におられる主イエスのことはあまり頓着しないのです。そんな私たちであったとしても、なお主イエスは危ない時にはブレーキを踏んでくださいますし、道に迷わないように導いてはくださいます。でも本当に主イエスの権威を重んじ、主イエスに従う歩みをするとき、私たちは平安に歩めますし、もっともっと豊かな祝福をいただくのです。
 神はふさわしくない者を招いてくださいます。天地創造をなさった宇宙規模の大いなるお方がちっぽけな罪深いものを招き、愛してくださっています。この世界のすべての権威の上におられるお方が、このふさわしくない者を友とすら呼んでくださいます。人生の傍らに共にいてくださいます。この宇宙において唯一の権威を持っておられる方が、この一週間も私たちを守り、導いてくださいます。私たちはその権威に従いつつ、また親しく友として歩んでいきます。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章43~49節

2024-09-03 17:03:47 | ヨハネによる福音書
2024年8月25日大阪東教会主日礼拝説教「心からあふれ出るもの」吉浦玲子
<実を見る>
 去年、教会の南側のガレージの脇の花壇にポツンと雑草のようなものが生えました。抜かなくちゃと思いつつ、抜かないままにしばらくすると、やたらどんどんとその草は背が高くなるのです。あれ?これ雑草だっけ?と思って見ると雑草というよりひまわりのようです。確信はなかったのですが、抜かずにそのままにしていたら、本当にひまわりの花が咲きました。最初にそれがひまわりだとは分からなかったのは、その年、その場所にひまわりの種はまいていなかったからです。おそらく、前年か前々年にその場所にあったひまわりの種が自然に落ちて芽吹いたものだったのでしょう。教会の庭には種を蒔いたり球根や苗を植えたりして成長している植物もありますが、よく分からない知らないうちに生えているものもあります。鳥などの動物がどこからか種を持って来て、それが根付くこともあるようです。見慣れない植物を調べると毒性のある植物であったり、他の植物を駆逐する危険な外来種であることもあります。植物の専門家であれば、すぐにそういうのは見分けられるのでしょうが、植物に疎い私などはひまわりですら、花が咲くまでよく分からなかったりします。最近はスマホで植物を写すと植物名を教えてくれるアプリもありますが、そのアプリも写す場所や向きによって違う植物名を言ったりします。完ぺきに植物を確定してくれるわけでもありません。
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」こう主イエスはおっしゃいます。主イエスは、この前の聖書箇所になりますが、敵を愛しなさい、とおっしゃり、また、人を裁いてはいけません、とおっしゃった、そのあとにこの言葉を語っておられます。私たちは、ひとときであれば、敵を愛するふりをすることはできるかもしれません。心の中で相手のことを「あんな奴ダメだ」と裁いていながら、それを口には出さないこともできます。でも私たちが本当に敵を愛したり、人を裁かない人間になっているか、そして神から喜ばれる人間になっているかどうかは、結局、私たちが実らせる実によって分かるのだとおっしゃるのです。私たちが茨なのかいちじくなのか野ばらなのかぶどうなのか、それは実る実によって分かるとおっしゃいます。植物に疎くて、それがどんな種類の植物か分からなくても、アプリでも判別できなくても、実によって分かるのです。逆に言いますと判別には時間がかかるということです。
 でもこれは少し恐ろしい言葉でもあります。私たちが長く生きていきながら、私たちが本当に神に喜ばれるような生き方をしているのか?私たちがその人生において、豊かな実を結ぶ生き方をしているのか、それはぱっと見では、短期間では、自分にも人にも分からないということです。自分ではおいしいぶどうの実のつもりが、なんだか苦い嫌な感じの実を結んでしまうということもあるということです。人生の終わりになって、あなたの生き方は間違っていましたねと神様に言われるのは困ってしまいます。
<良い言葉悪い言葉>
 しかし、人生の終わりまで行かなくても、判別できることはあると主イエスはおっしゃっています。それは言葉によってです。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と主イエスはおっしゃいます。

 ところで、「ありがとうございます」とか「すみませんでした」「申し訳ありませんでした」という言葉をあまり言わない方が時々おられます。信仰歴の長いクリスチャンであっても、たまにおられます。相手はその人に別に感謝されたいと思ってやっているわけではないことであっても、やったことに対して「ありがとう」という言葉がなければ、こちらがやったことがむしろ相手に不快な感じを持たせたのかと心配になったりします。あるいはやってもらって当然だと相手は思っているのかと感じたりします。また小さなことでもあってもちょっと迷惑をかけられたとき「すみません」「ごめんなさい」の一言がなければ、いったいどういうことなんだと思ってしまいます。そういうことが続きますと、結局、その人の心には感謝とか申し訳ないという思いが、そもそもないのだと考えざるを得なくなってきます。
 よく、昔は、男性は寡黙な方が良くて、たとえば、夫婦関係でも夫は妻への感謝の言葉は言わないということがあったかもしれません。もちろんそれはご夫婦ごとの関係であって、一概にそれが悪い良いという話ではありません。口には出さなくても、それぞれに相手のことを思いやっていて、そのことを双方が分かっているという場合もあるでしょう。ただ、言葉によって、相手の気持ちが分かる方がやはり良いと言えば良いのです。感謝しているのか、申し訳なく思っているのか、それは相手にわかる形であらわすべきなのです。心の中で感謝しているとか申し訳なく思っているというのは、結局のところ、感謝や申し訳ない思いそのものが大きくはないということなのです。
 ありがとうやごめんなさい、だけでなく、やはりその人の言葉というのはその人の心を表します。そう自分で申し上げつつ、普段の自分の言葉を思う時、冷や汗が出る様な思いもあります。一方で、口ではありがとうと言っておられるのですけど、なんとなくその思いが伝わってこない場合もありますし、別に悪いことはおっしゃってはいなくても、なんとなく冷たさを感じることもあります。でも、こういったからといって「じゃあしゃべり方に気をつけましょう」ということではありません。

 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」そもそもあなたたちの心の中に何があるのか?と主イエスは問うておられます。口先だけでありがとうございますとか感謝していますと言っても、あるいは優しそうな話し方をしても、心の中に良いものがなければ、口から出る言葉も良いものにならないとおっしゃるのです。
 これはさきほどの植物の実の話と同様、ノウハウ的にどうにかなるものではありません。こうすれば、人生で豊かな実が結べますとか、こういう風に話しましょうということではありません。そもそも聖書の言葉そのものが、直接的に、悩みにこたえるとか、生き方を指南するということではないからです。むしろ聖書は私たちに問いかけて来るのです。あなたはどんな植物なのか?あなたの心には何があるのか?と。その問いに答えつつ生きるということが御言葉に生きるということです。表面的なしゃべり方や人との接し方を良くして済む問題ではありませんし、自分の悩み事に適切な言葉でヒントを与えてもらうというものでもありません。もっと深いところから私たちは聖書において神から問われるのです。それは表面的な態度や言葉の問題ではありません。もちろん、ありがとうやすみませんはちゃんと言った方が良いですが。私たち自身が御言葉を聞き、神から問われ、その問いに答える形で変わる、いえ、変えられていくものなのです。

<土台>
 そのような神からの問いに答えつつ生きるということが、御言葉に生きるということです。聖書を単なる生き方指南書、お悩み解決ツール、癒しの言葉集としているときは、御言葉に生きるということはできていません。聖書の話をたくさん知っていても、神学をたくさん学んでいても、御言葉に生きているかというと必ずしもそうではありません。主イエスは「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃいます。「主よ、主よ」と呼ぶということは、表面的な宗教的儀礼として神を呼ぶということです。現代で言えば、普段はまったく神のことを思うことなく、日曜日に教会に来て、なんとなく清らかな癒されたような気持になって月曜からはまったく神のことを思わずに過ごすということです。
 旧約聖書の時代、特に紀元前6世紀にイスラエルが滅びる前、神の言葉を聞き、行う人はほとんどいなくなりました。でも神殿に人々は行き、それなりに礼拝や祭儀はしていたのです。「主よ、主よ」と人々は神を呼んでいたのです。しかし、神を第一とする行いはまったくありませんでした。その結果、国は滅びました。それは現代の一人一人においてもそうです。どれほど聖書を勉強しても熱心に教会の奉仕をしても、御言葉を行わないならば、それはとてもあやうい生き方になるのです。
 しかし、御言葉を行う人はそうではないと主イエスはおっしゃいます。主イエスは御言葉を行う人はどういう人に似ているか示そうと語られます。それは「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」つまり御言葉を行う人は、土台のしっかりした家のようだとおっしゃるのです。
 今、日本には台風が近づいてきています。場合によると大阪にも大きな影響を与えるかもしれません。今朝は大阪市にも大雨警報が出ていました。一方、少し前には日向灘での地震を契機に南海トラフが近づいているというような発表もありました。そもそも、日本は自然災害の多い国です。神を信じていても、自然災害は襲ってきますし、被害にあうこともあります。2018年の台風21号を思い出しても、教会庭のミモザの木が根元から倒れ、物置が倒壊し、会堂の屋根瓦が飛びました。台風だ、南海トラフだと考えているとだんだんと怖くなってきます。災害だけではなく、人生にはさまざまな危機があります。しかし、どのようなことがあっても、御言葉を行う人は土台から崩れることはないと主イエスはおっしゃいます。

 大阪東教会で用いている讃美歌集には載っていない曲で、大阪東教会ではほとんど歌うことのない曲ですが「遠き国や」という讃美歌があります。これは1923年の関東大震災の時、来日していたマーティン宣教師によって作られた讃美歌です。関東大震災は死者行方不明者が十万人という明治以降の地震としては最大規模の被害を出しました。その震災の折につくられました。「遠き国や/海の果て/いずこにすむ/民も見よ/慰めもて変わらざる/主の十字架はかがやけり/慰めもて/汝がために/慰めもて/汝がために/揺れ動く地に立ちて/なお十字架は輝けり」という歌詞です。当時、震災の被災者が明治学院の校庭に避難していましたが、まだまだ余震が続いていました。そのたいへん不安な状況の明治学園の校庭の蚊帳のなかに被災者は避難していたのですが、夜、その蚊帳の中に灯されていたろうそくの灯が、マーティン宣教師には十字架に見えたそうなのです。それでマーティン宣教師はこの讃美歌を作ったのです。どれほど地が揺れ動いても十字架は輝いている、どれほど地が揺れ動いても十字架からの慰めはかわることはない、そうマーティン宣教師は歌ったのです。
 たしかに私たちの生きるこの地上は、物理的に地面が大きく揺れることがあります。また人生においても、生きる土台が揺れる様なこともあります。台風で倒れたミモザのように根っこから倒されるようなことも人生の中にはあります。私たちは自分の足で踏ん張って、倒れないようにがんばるのではありません。私たちが倒れようとも、引っこ抜かれようとも、それでも十字架は輝いているのです。その十字架からたしかな慰めと、新しい力と命が与えられるのです。私たち自身も、この世界も不確かで変動します。でも十字架は変わりません。その変わらざるものを自分の中心としていきていくとき、私たちは時に倒れても、人生の土台は揺るぎません。物理的に建物は倒れても、私たちの生活の根幹が揺らいでも、そして私たちが落胆し絶望しようとも、十字架に照らされている私たちの土台は揺るがず、信仰の家はけっして崩れません。十字架による恵みによって守られているのです。

<御言葉を行う>
 ここでもう一度、御言葉を行うということについて考えてみます。さきほど神からの問いに答えて生きる、と申し上げました。神の問いに答えるためには神を見上げて生きていないと、その神の問いの言葉も聞こえません。神を見上げるということは熱心に祈るということではありません。祈りはどちらかというと私たちの思いを神に伝えることです。そうではなく、静まって神からの言葉を聞くことが神を見上げることです。神の言葉を勉強や解釈ではなく、自分に語られている言葉として聞くということです。そのようにして私たちは日々、神を見上げて歩みます。神を見上げる時、そこに十字架の輝きも見えるのです。ご自分の命を捧げて死んでくださったキリストの愛が見えてきます。その十字架の輝きはさきほども申し上げましたように、どのような時も変わりません。キリストの愛は変わらないのです。その愛を受けて、心から感謝して生きていくとき、私たちの心には良いものが満たされていきます。私たちの生きる土台はしっかりとしたものになります。
 「ありがとう」「ごめんさい」を言うということを申し上げましたが、私たちが心がけて良い言葉を言おうとしたり、しっかり生きていくということではありません。御言葉を行うというと、私たちの行いが問題とされているように感じますがそうではないのです。良いことをしなさいということではないのです。私たちが神を本当に見上げているならば、そこに十字架の輝き、キリストの愛が見えるはずです。そして心には感謝の思いが自然と豊かにあふれてくるのです。そのあふれ出た感謝が、私たちの言葉となり、行いになるのです。逆に言えば、私たちが自分で頑張って生きていくことや、立派な言葉を語ったり、良い行いをすることにとどまっているならば、私たちの心には神への感謝の思いはあふれません。感謝をしようと心がけていても感謝の心は絶対生まれてこないのです。自分ががんばったり心がけていると、むしろ私たちの心は貧しくなるのです。自分がしっかり生きているか、さらには他人がしっかりとやっているか、チェックしてしまう。そして自分や人を「こんなことするなんて自分はだめだ」と裁いたり、ぎすぎすした嫌な言葉しか語れなくなります。
 御言葉を行うということは聖霊によって神の言葉を聞くということであるともいえます。聖霊によって神の言葉を聞くならば、おのずと神の愛、神の恵みを知らされるのです。神の愛、神の恵みが私たちの心の中に豊かに蓄えられるのです。私たちが私たちの力で私たちの心に良いものを蓄えようとしてもぜったいにできません。私たちの心掛けで良いものを心に満たすことはできないのです。ただ聖霊によって御言葉を聞くとき、私たちの心に良いものが満たされ、その満たされたものはおのずとあふれ出るのです。そのあふれ出たものは、良い言葉となり、愛の行いとなっていきます。この一週間もそしてこれからの人生においても、私たちの心に良いものを神が満たしてくださいますように。神が良いものを満たしてくださることを信じ、大いに期待をして、歩んでいきましょう。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章37~42節

2024-08-21 14:55:17 | ルカによる福音書
2024年8月18日大阪東教会主日礼拝説教「偽善者よ」吉浦玲子
<裁くとは>
 「裁く」という言葉は、クリスチャンの間で、クリスチャン用語のように使われることがあります。大阪東教会の皆さんの間ではあまり使われないかもしれませんが。「あの人は、人を裁くよね」と批判的に使われます。たとえば、Aさんの言動に対して、Bさんが「Aさんの言動は良くない」と言ったとします。そうしたら「BさんはAさんのことを裁いている、けしからん」というような感じで使われたりします。今日の聖書箇所で「人を裁くな」と主イエスはおっしゃっています。ですから、たしかに私たちは人を裁いてはいけないのです。ただ私たちは、裁くということの意味をしっかりとわきまえないといけません。Aさんの言動を批判したBさんは、Aさんのことをほんとうに「裁いた」と言えるのでしょうか?
 そもそも「裁く」とか「裁き」とは何でしょうか?聖書において「裁き」は、人間とこの世界の罪に対して、神が最終的な判断をなさる、審判をなさるということです。それは私たちが、毎週告白をしています使徒信条によれば「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」というところになります。今は天におられ父なる神の右に座しておられる主イエスが、ふたたびこの世界に裁きの全権を担って来られ、裁きをくだされるのです。裁きというのは、その後の処遇が決まるということです。聖書で言えば永遠の命に至るのか、滅びに至るのかということです。
 たとえば、この世界でも、ごく大雑把な言い方をしたら、犯罪を犯した人は裁判において正式に有罪とされてはじめて罪が確定します。有罪となってはじめて懲役何年とか執行猶予とかその後の処遇が決まります。
 神の裁きはさきほども申し上げましたように、主イエスがふたたび来られる終わりの日になされます。その神の裁きに先立って私たちが誰かに対して裁くことは許されませんし、そもそも裁くなんてことはできません。裁くということは最終的な判決を下すということです。この世界の刑事事件であれば、資格をもった裁判官、そしてまた適切な手続きを経た裁判員が裁きます。しかし、あきらかに現行犯で犯罪を犯したことがあきらかな人であったとしても、裁判の前に人間が勝手にその人に対して判断を下すことはできません。
 たとえば教会においては「戒規」というものがあります。教会の秩序をはなはだしく乱す者、異端的な考えをする者などにたいして、段階に応じて「訓戒」「陪餐停止」「除名」といったことを行います。「戒規」は懲罰ではなく、あくまでも悔い改めへと導くための訓練としてなされることです。たとえば、その「戒規」で「除名」とされた場合、その人は神の前で退けられるのでしょうか。神から裁かれ神の恵みから切り離されるのでしょうか。そういうことはありません。戒規において除名処分を受けたとしても、それは神の最終的な裁きとは異なります。あくまでもその人が悔い改めへと導かれる手段として戒規はあります。そもそも教会と言えど、誰かを裁くことは出来ません。
<愛ある諭しと裁きは異なる>
 そういう意味で冒頭に語った「Aさんのここが悪い」といったBさんはAさんを裁いているわけではないと言えます。もし誰かが愛をもって「あなたのここはこういう風にした方がいい」と助言するとしたら、それは裁きではありません。罪を犯している人にそれは罪です、その罪から離れなさいと諭すことも愛の行いです。さきほどの教会の戒規も愛の行いの一つです。相手の悪いところを指摘したらなんでもかんでも「裁いている」というのは間違っています。
 しかしまた一方で、愛をもって相手を諭すというのはとても難しいことです。私たちはそもそも自分の勝手な正義に基づいて、相手を判断するからです。あの人のああいうところは良くないなと思うだけでなく、だからあの人はダメなんだと決めつけたり、ああいうことをするあの人は罪人だと考えてしまう、それは、自分が神のように相手を裁いていることになります。
 そもそも私たちはだれ一人として完璧なものではありません。相手の悪いところを見て、それですべてを判断できる者でもありません。主イエスはおっしゃいます。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。」私たちは人の一部分だけを見て、すべて分かった気になって、そしてその人を裁くことがあるのです。それは傲慢な心から出ていることなのです。すべてを分かったような気持で相手を裁くことはむしろ自分が傲慢の罪を犯す罪人になってしまうのです。
<愛と裁き>
 ずっとここまで裁くとか罪とか重いことばかり語ってきて、聞いておられる方も語る私も、少々しんどい気分になります。しかしここで主イエスがおっしゃっていることは、先週、読みました「敵を愛しなさい」と続く話なのです。つまり「愛」ということが語られているのです。
 主イエスはおっしゃいます。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
 自分に悪いことをする敵を愛するように、あきらかに間違っていると思う相手をも愛しなさいと主イエスはおっしゃっているのです。もちろん、先ほども言いましたように愛をもって助言したり諭すということも大事です。しかし、それはなにか相手の欠点をあれこれ取り上げて、くどくど追求する様な形での批判であってはならないのです。
 よく話をすることで、お聞きになったことのある方も多いと思いますが、私が信徒のころ、お世話になっていた先輩の女性は、口の悪い、一貫、厳しい人でした。割とずばずば相手を叱る人でした。ある日、礼拝に遅刻してきて、さらに、やたらと露出の激しい服を着て来た女性に対して、「何という格好で教会に来るのか」と厳しく叱っておられました。その女性はもともといろいろと困った行動をとって少し周囲から浮いていた方でした。また言われたら言い返す激しい感じの人だったので、なかな直接その人に注意をするはいなかったのです。でもその女性に対しても先輩ははっきり注意をされていました。あるとき、教会全体の修養会があったとき、その女性が修養会の場所から姿を消していました。何十人と出席者がいたので、女性がいなくなっていることに、私もほかの人も気づいていなかったのです。でも先輩の女性は彼女がいないことに気づいて、ひとりで教会の中のあちこち探されました。そして体調を崩して別の部屋で座り込んでいた女性を見つけて介抱されました。私は今でもよくそのことを思い出します。その先輩は、一見、口が悪く厳しい人でしたが、ほんとうに愛の人だったなと思うのです。皆のことをよく見て、心に留めておられました。どちらかというとみんなから距離を置かれていた女性のことも本当に心配して気にかけておられました。先輩は時にきびしく批判はされましたが、裁いてはおられませんでした。いつも相手のことを気にかけて、大事にされていたのです。私自身もその先輩には叱られもしましたが、とても心配もしてくださっていたと思います。
 でも私たちはともすれば、愛のない批判に終始してしまうのです。ファリサイ派の人々が、主イエスが安息日に病気を癒すかどうか、律法を破るかどうか、じっと見つめていたように、私たちは人のあらを探しがちになるのです。そのように人を裁くあり方ではなく、安息日に病人を癒された主イエスのように愛を与えるのです。「与えなさい、そうすればあなたがたにも与えられる」とおっしゃいます。愛を失って人の批判ばかりする心は、神の恵みを感じることができないのです。自分の正しさに固執するとき、私たちは神の正しさから離れ、自分中心となり、そして神の愛からも離れます。
<見えるようになるために>
 そして今日の聖書箇所の後半では、3つの話が語られています。盲人が盲人を案内すること、弟子は師にまさるものではないこと、そして人の目のおがくずは見えても自分の目の中の丸太は見えないということ。これらは、すべて「しっかりと見えるようになりなさい」という言葉です。私たちは自分がはっきりと物を見て理解しているように見えて、そうではないことが分かっていないのです。私たちはしっかり見えてもいないのに、いや見えていないからこそ、やたらと人のあらが目につくのです。先生にはかなわないのに、弟子が自分の方がえらいように思ったりするように、自分も分かってもいないのに人を導こうとするのです。目の中に丸太があるというのは、かなり大げさな表現だと思います。でも現実的に自分は実際は何も見えていないのに人の目の中の小さなおが屑をとろうとするのです。それを主イエスは偽善者だと厳しく語っておられます。
 でも、「だれも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とも主イエスはおっしゃっています。ものが見えていなかった私たちも見えるようになるのだと主イエスはおっしゃっています。
 一般的に弟子が先生を越えるには修行が必要ですが、私たちが本当にものが見えるようになるには修行ではなく、主イエスに従うことが必要です。敵を愛し、罪人を赦してくださった主イエスと共に歩むことが必要です。そのとき少しずつ私たちの目は開けていきます。いままで見えていなかったものが見えてきます。何より自分の罪が見えてきます。アダムとエバが知恵の実を食べて、賢くなろうと思っていたのに、賢くなった彼らが見たの、みじめな自分の裸の姿でした。私たちも最初に見えるのは罪人である自分の姿でしょう。しかしまた、同時に、そんな自分を愛して赦してくださった主イエスの姿も見えてくるのです。
 さきほど話をした先輩の女性のことを、実は、私は最初は好きではありませんでした。怖い感じですし、なんだか近寄りたくない人だと思っていました。でもある時、私の未信徒の友人が教会に来られました。教会に来てとても喜んでおられたのです。その後、その友人に深刻なトラブルがあって、教会に来られなくなりました。私はとてもショックをうけて、なぜか私はその先輩に一緒に祈ってほしいと頼みました。そしたら先輩はすぐに一緒に祈ってくださいました。その先輩は自分の直接の友人でもない私の友人のために祈りつつ、涙を流しておられました。私も泣きながら祈りました。その時からその先輩と親しくなりました。それまでわたしの目には、その先輩の本当の姿が見えていなかったのです。クリスチャンのくせに口やかましい、相手にマウント取る人だと思っていたのです。でもそうではない、この人は本当に人のために祈ってくださる愛の人だと思ったのです。
 人間と人間の間でも私たちは多くのことが見えていません。親が子供のことを見えているとは限りませんし、気心の知れた長年の友人のことだって実は分かっていないことも多くあります。そのように私たちの目を曇らせるのは、神のことを分かっていない、キリストを見ていないことに原因があります。
 主イエスは罪人であった私たちを裁くことなく、ご自身が代わりに十字架におかかりになり、裁きをお受けになりました。罪なきキリストが、罪人のために裁きを受けられたのです。それが十字架の出来事でした。私たちが受けるべき裁きをキリストが受けてくださった、そのキリストの十字架を思う時、私たちは人を裁くことはできない者であることを知らされます。もちろん主イエスはふたたびこの世界に来られる時、たしかに裁き主として来られます。しかし主イエスの十字架と復活を信じる者は裁きを免れます。その大いなる恵みを感謝するとき、私たちの目は開かれていきます。自分の罪の重さと神の恵みの豊かさが見えてきます。その時、私たちは人を裁くことなどできなくなります。そしてキリストのように、十字架を担い歩む者とされます。それぞれに十字架を担い歩むとき、神の愛は私たちの目の中の丸太を砕いてくださいます。そしてその時、私たちの目に見えるのは、神の大いなる愛の光なのです。



大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章27~36節

2024-08-13 14:44:35 | ヨハネによる福音書
2024年8月11日大阪東教会主日礼拝説教「あなたは敵を愛せますか」吉浦玲子
<倍返しではなく>
 「敵を愛せ」と言う言葉は新約聖書の中の重要な教えです。クリスチャンでない人々にもイエス・キリストが「敵を愛しなさい」とおっしゃったということはよく知られています。また一方、クリスチャンにとって、この言葉ほど実践しがたい言葉はないのではないでしょうか。自分の敵である人、自分を憎んだり、悪口を言ったり、侮辱する人を愛すると言うのは、なかなかできないと思います。
 実際この世界を見回しても、歴史を振り返っても、クリスチャン同士が敵対して争っています。キリスト教国と言われる国々がそれぞれに従軍牧師や従軍司祭を立てて戦争へと赴き、戦ってきた歴史があります。敵を愛せなかった歴史が厳然とありました。
 では今日の聖書箇所は、人間にはなかなかできないことだけど、できるだけ頑張りましょうと言う努力項目として主イエスは語っておられるのでしょうか。そうではありません。今日の聖書箇所も前の言葉と同じく主イエスの弟子に向かって語られていることです。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」そう主イエスは語りだしておられます。
 語られている内容は、ある意味、相当に過激なことです。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」
 ここを表面的に読みますと、暴力を肯い、泥棒を助長するかのようにも見えます。しかし、ここで描かれていますことは、のちに主イエスご自身が実践されることです。主イエスは逮捕されたとき、兵士たちから暴力を振るわれました。服も奪い取られ、下着まで取られました。それは父なる神のご計画が成就するためでした。だからといって、主イエスがなさったことだからと私たちにできることでしょうか。
 私たちは頬を打たれたら、相手の頬を打ち返したくなります。自分のものを奪われたら、当然、取り返したくなります。少し前に、倍返しだと言う言葉が決まり文句になっていたドラマがありました。やられたらやりかえす、倍返しだといって、あくどい相手を懲らしめる痛快なドラマでした。そのようなドラマが人気を博し、多くの人が、倍返しをされて打ち砕かれる敵をみて留飲を下げるのは、現実の世界では、多くの場合、やられてもやりかえせないからです。
 理不尽に私たちの権利が侵され、不当な扱いを受けることがこの世界にはあります。それらのことに泣き寝入りしないといけないことも多いのです。この言葉が語られていたイスラエルもそうでした。ローマ帝国に支配されたイスラエルで人々はあえいでいました。人々は重税を課され、ローマからの侮辱を受けていました。ですから主イエスの弟子の中には熱心党という武力をもってでもローマを倒そうという考えの者もいたのです。
 そしてまた、こののち弟子たちは伝道をしていきますが、そこには、主イエスを救い主と認めないユダヤ人たちからの迫害、さらにローマ帝国からの迫害がありました。その中で、弟子たちは、ユダヤ人やローマに対して武力蜂起をしたわけではありませんでした。
<悪を増幅しない>
 ここで注意をしたいのは、主イエスは悪をそのままに放っておいていいとはおっしゃっていないのです。自分に対して悪を行う者に抵抗するなとおっしゃっているのです。なぜでしょうか。それは悪を行う者に抵抗をしても、悪はなくならないからです。仮に自分の頬を打つ者に打ち返して、相手をやっつけることができたとしても、それで悪はなくならないのです。相手は、さらに強力な武器を使ったり、仲間を連れて来て報復をするかもしれません。報復はなかったとしても、やっつけられた人間の心にはいっそう憎しみが増し加わっているのです。その憎しみはさらなる悪の行為を引き出していくのです。悪は増幅していくのです。
 むしろ主イエスはおっしゃいます。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」何かこれは当たり前のことのようです。でもこれは敵に対しておっしゃっているのです。自分を苦しめる敵が、喜ぶようなことをしたいとは普通思えません。むしろ、あいつなんて嫌な思いをしたらいいのにと思うことすらあるでしょう。それは人間として普通の感情です。
 しかし、「わたしの言葉を聞いているあなたがた」は、敵がしてもらいたいと思うことを敵に対してしなさい、と主イエスはおっしゃるのです。それはなにか釈然としない納得できないことです。しかし、なお主イエスはおっしゃいます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。」
 主イエスの言葉に聞く者、主イエスの弟子たちは、愛してくれない人を愛し、自分によいことをしてくれない人に善いことをしなさいとおっしゃっています。そこにこそ神の恵みがあるのだと、主イエスはおっしゃいます。ここで注意をしていただきたいのは、聖書で語られる愛というのは感情ではないということです。主イエスは悪人を好きになりなさいとおっしゃっておられるのではないのです。好き嫌いという感情ではなく、愛するという行動を起こすのです。
 さて、罪人たちは自分の愛する者を愛し、自分に良くしてくれる人に善いことする、でもそこには恵みはないのです。敵を憎み、敵に悪を為すのはこの世界一般のことであって、悪を増幅することです。そこには神の恵みはなく、そのような行いは神に喜ばれないと主イエスはおっしゃっています。
 そしてまた「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」とおっしゃっています。これは自分の行いに見返りを求めるなということです。私たちはどうしても見返りを求めてしまいます。何かたいそうな見返りでなくても、やったことに対して一言くらいありがとうといってほしいと感じることもあります。しかし、厳しいことのようですが、愛は相手に仕え、相手のために痛むことですから、愛の本質として見返りは求めないのです。
<私たちの報い>
 しかしここまで読んできまして、やはり敵を愛すること、見返りを求めないことというのは、現実的には難しいことだと感じられます。私たちは歯を食いしばるようにして自分を苦しめる相手に善いことをなし、まったく感謝をしてくれない人に対しても愛を捧げなくてはいけないのでしょうか。
 主イエスは「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」とおっしゃっています。敵を愛したら、たくさんの報いがあるというのです。敵からは感謝されなくても、場合によっては酷い目にあわされたとしても、神様からは良い報いを受けるというのです。じゃあ人間から見返りがない代わりに神様から報いが来ると言うのでしょうか。そうすると結局、私たちの愛や行為というのは自分に何かいいことがあると言うことに基づくのでしょうか。半分はそれは当たっていると思います。私たちはこの世での見返りを期待してはいけないのです。ただ神に喜ばれる愛の行いを実践していくとき、たしかに神から報いを受けるのです。その神からの報いにのみ、期待をして生きていくのが主イエスの弟子であると言えます。そしてその時、私たちは、まことに神の子とされるのです。
 しかしまたそれは、神様の前で点数を稼ぐように、無理をして敵を愛して報いを得ると言うものではありません。神の恵みを受けつつ歩むとき、少しずつ私たちは敵への憎しみや相手からの見返りがどうでもよくなってくるのです。やせ我慢ではなく、ただ神の恵み、報いだけで充分だと思えるようになってくるのです。神の恵みの豊かさにとっぷりと満たされて、敵への憎しみも、見返りを得られない嘆きも書き消えていくのです。
 昔、受洗して間もない頃、教会で少し嫌なことがあって、牧師先生にクリスチャンなのに教会の人はどうしてああいうことをするんですかと不満を言ったことがあります。その時、先生がおっしゃったのは、「そういう嫌なことをする人たちは、心に深い傷を持っているんですよ。クリスチャンになったからといってもその傷が癒されるには時間がかかるんです」ということでした。私自身、たしかに振り返ると、誰かに傷つけられたこと、裏切られたこと、そういったことは傷の大きさは異なっても、やはり心に残っているのです。その傷が痛む以上、傷つけられた相手を赦すことも愛することもできないのです。しかしまた、主イエスの光の中で、その傷はたしかに癒されていくのです。ふと気づくと、それまで心の奥に持っていた相手への憎い思いや、悲しい思いが薄らいだり、消えているのです。そのように神の恵みの内に生きる時、私たちは少しずつ敵を愛することができるようになります
<憐れみ深い者になる>
 そしてまた、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と語られています。いと高き方、神は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いとおっしゃっています。恩を知らない者、悪人とは、そもそも私たちのことではないですか。私たちは神の愛を無視し、恩知らずな者でした。神の前で罪を犯す悪人でした。私たちこそが神にとっての敵だったのです。そのような私たちを見捨てることなく憐れんでくださったのは神でした。その憐れみゆえに、主イエスを十字架につけて私たちの罪を贖ってくださいました。最初に言いましたように、その十字架の時、主イエスは憎まれ侮辱され暴力を振るわれました。下着までも奪い取られました。私たちを救うためでした。主イエスが、神の敵であった私たちのために命を捨ててくださり、私たちは救われました。それだけでなく、いと高き方の子とされるのです。それほどに憐れみを受けた私たちも憐れみ深い者となります。敵であった私たちはすでに神の子とされているのですから、私たちはたしかに憐れみ深い者となれるのです。憐れみ深い者となれるのですから、憐れみ深い者として生きることを決断するのです。愛は感情ではないと申し上げました。憐れみ深くあることも情感的に憐れむのではありません。キリストが私たちにしてくださったように、私たちも憐れみ深く生きるのです。そんな私たちにいっそうの恵みと良き報いと祝福が注がれます。



大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章20~26節

2024-08-06 16:30:13 | ルカによる福音書
2024年8月4日大阪東教会主日礼拝説教「喜び踊る」吉浦玲子
<貧しい人飢えた人>
 先週から引き続き、主イエスのいわゆる「平地の説教」を共に読んでいきたいと思います。今日の聖書箇所では4つの幸いと、その幸いと対照的な4つの不幸が語られています。先週もお話ししましたように、大事なことは、ここで語られていることは主イエスの弟子たちに対して語られていることだということです。一般論ではないということです。神と共に歩む者、キリストを信じる者にとっての幸せが語られています。
最初に貧しい人は幸いであると語られています。この箇所については先週もお話をしました。この貧しい人は幸いであるということと反対に24節では富んでいるあなたがたは、不幸であると語られています。ここで貧しさや富というのは、単に経済的な貧乏、お金持ちというのではなく、自分自身の力ですでに充足しているか充足していないかということです。「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」あなたはすでに自分で自分を慰めることができている、神から慰められる必要はない、そんなあなたたちは不幸なのだと主イエスは語られています。人間の本当の幸いは、神からの慰めに生きることです。神からの慰めを必要としない人は、自分では豊かなつもりでも、いつか失われるひとときの慰めに生きているにすぎません。同様に「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と語られ、25節に「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」と対になって語られています。
 私は子供のころ貧乏ではありましたが、食べるものがないような飢えは経験したことはありません。戦中戦後を生き抜かれた方は、ほんとうに食べるもののない経験をしてこられたと思います。現代でも、この地球上では何億という人々が食べることができず飢えている状態です。そのように飢えた状態が幸いということは、この言葉が最初に申しましたように一般論ではなく、弟子たちに語られたものであったとしても、釈然としないところがあるかもしれません。
 この飢えを、たとえば「魂の飢え渇き」と言い換えたとしたら、少し納得できるかもしれません。それは貧しい人は幸いであるということを「心の貧しい人」と言い換えることと似ています。しかし、主イエスの言葉は、そして聖書の言葉は、いつも申し上げていますように、心の問題、精神的な問題だけについて語っているのではありません。貧しさや飢えということも、心や魂ということだけでなく、もっと人間の存在全体に関わることなのです。
<貧しい人飢えた人を招いているか>
 ある牧師はこの聖書箇所に関係して、日本の教会は豊かな人、社会的にどちらかと言うと恵まれた人に対して伝道をしてきた歴史があることを語っておられました。日本の教会は、経済的に貧しい人、食べるものにもこと欠くような人をあまり教会に招いてこなかった。その結果、教会は、それなりに経済的にある程度豊かな人が集まる傾向にありました。もちろん経済的に豊かな人もキリストの救いにあずからねばならないのですから、それはけっして悪いことではありません。ただ一方で、ある程度豊かそうな人々が集う場に、貧しい人や食べるものにもこと欠く人は来づらい雰囲気となります。結局、教会がまことにすべての人々を招く教会とならなかった。そのためプロテスタント宣教160年を超えてもクリスチャン人口が増えない状況になっていると言われます。その傾向は特に改革長老教会においては強かったと思います。古くからの長老教会は、教会全体もどちらかというとそこそこ豊かな人が多く、長老などは特に社会的な地位の高い人がつとめていたことが多かったと言われます。大阪東教会もかつてはそのような教会でした。そのような過去の歴史を考える時、日本の長老教会はまことに貧しい人、飢えている人を招くということをしてこなかったと思います。信仰の問題を、ただ心の問題、魂の事柄として、狭めて取り扱ってきたと言えます。難しい教理や神学は理解しても、まことの愛の実践や現実の世界へのまなざしやこの世界の弱い人々への現実的な愛に欠ける傾向がありました。いえ、そもそも教会の中にも本当の意味での愛が希薄でした。主イエスは、そうではありませんでした。お腹をすかせた群衆に食べ物を与え、病の人を癒されました。それは主イエスご自身が人間として、日々の生活の中で貧しさを知り、空腹を知り、肉体の痛みを知り、心に悲しみを知っておられたからです。単に精神的に豊かになればよい、心を満たせばよいということではありませんでした。
<神にある未来に生きる>
 しかしそのことを前提としながら、ここで語られていることは、単純に年収が低い人とか、一日三食食べることができない人がどうこうということではありません。ここで語られていることは、「今」と「未来」の話です。今、貧しい人は、神の国を与えられるという未来があります。今、飢えている人はやがて満たされます。反対に今富んでいる人、満腹している人は不幸な未来があると言われています。これは単に今はお腹を空かせていても将来はたらふく御飯が食べられるようになり、逆に今たらふく御飯を食べている人は将来没落して食べるものにもこと欠くようになるという人生の浮き沈みの話ではありません。
 神と共に歩むキリストの弟子たちは、自分の貧しさや飢え渇きの中で神の前に立ちます。その弟子たちには、まことの慰めや神からの満たしが与えられます。キリストと共に歩む者は、もちろんその歩みの途上も神からの恵みや助けを受けて歩みます。しかし、それ以上に、「未来」に生きる者なのです。その未来は神が造ってくださる未来です。それは最終的には終末の時に神が新しく造られる新天新地に至る未来です。しかし、私たち一人一人の人生の未来も神の恵みの内にあります。私たちは主イエスの十字架と復活によって救われながら、いまだ不完全な者です。愛に欠ける者です。しかし、キリストの弟子たちは、その情けない「今」にとどまりません。
 主イエスが12人の弟子を最初に選ばれました。その中の一人のペトロは主イエスが逮捕された時、主イエスのことを知らないと三回も言いました。そのペトロは、そのような弱いままのペトロではなかったことが聖書に記されています。やがて彼は迫害をも恐れず伝道をする者に変えられました。キリストによって変えられたのです。
 私たちも、今の自分を見ると、情けないなあと思うところがあると思います。しかし、私たちは変えられていく未来があります。今は愛に欠けていても愛することの出来る者に変えられる、そういう未来があります。そしてまたそれは、繰り返し言いますが、単に心の問題ではなく、生活全般にも関わってくるのです。私自身を含めて、クリスチャンになって、生活や生き方が大きく変わった人は多くあります。経済的なことに関しても神は不思議なやり方で現実的に助けてくださいます。私たちが神の未来を信じて生きていくとき、その未来は神によって物理的にも心のあり方にしても豊かにされていきます。私たちはキリストの弟子として生きる時、すでに神の未来に生かされています。
 それは次に語られている「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになるということについても同様です。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになると語られています。私たちには悲しみ、苦しみはたしかにあります。しかし、やがて笑う未来が来るのです。それに対して、今の現状に満足して神から離れている時、深い悲しみ涙が訪れるのです。
 もう20年ほど前になりますが、2005年にJR福知山線の脱線事故がありました。100名以上の方が亡くなる悲惨な事故でした。その数年後、あるドキュメンタリーを見ました。その脱線事故で重傷を負い、脳にダメージを受け体の自由がきかなくなりリハビリをしている二十代の女性のドキュメンタリーでした。事故の前、その女性はおしゃれな雰囲気の女性で、明るい感じで、元気に会社員として働いておられました。しかし事故による後遺症で体にひどい麻痺が残りました。その方がリハビリをされている映像がありましたが、最初その表情は暗く、リハビリに対しても投げやりな感じでした。それまでの健やかな生活を奪われてしまったことに絶望されているようでした。それでも家族に支えられながら少しずつ気力を取り戻し、リハビリを続けられました。そしてある春に、車いすで桜の咲いている公園に家族と散歩に行かれている場面がありました。桜を見ながらその女性が「ああ、生きているって感じやなあ」と笑顔を見せておられました。まだ言葉をはっきりと発音することは難しい状態でしたけれど、「生きているって感じやなあ」と笑顔でおっしゃっている姿に感動しました。事故の理不尽さ悲惨さの中で本来なら一番輝くはずの二十代の若い日々を奪われ苦しんでおられた方が今生きていることを本当に喜んでおられました。その映像を見ながら、キリストの弟子である私たちも、とても立ち直れないような悲しみに襲われても、やがて笑うことができる、神が未来をお造りなるゆえ、私たちは、今泣いていてもやがて笑うことができることを感じました。
<人々に憎まれる時>
 ところで「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」という言葉はこれまでの貧しい人飢えている人泣いている人とは少し異質な感じがします。人に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる、こういうことは普通に考えますと、ごめんこうむりたいことです。貧しさや飢えも辛いことですが、人間は社会的な存在ですから、人々から排斥されることは人間の存在の根源を脅かすことです。主イエスがおっしゃる「人々から憎まれる」ということは信仰ゆえに迫害されることです。そして何より、人に憎まれ追い出されののしられるのは、こののち主イエスご自身が十字架につけられることにおいて起こったことです。人々から「十字架につけろ」と叫ばれ、「ユダヤ人の王」と茶化した罪状書きをかかげられ、神を冒涜した者という汚名を着せられました。そしてまた、弟子たちも主イエスの昇天ののちは迫害の中を生きました。
 そういうことを考えますと、ひとまず表立った迫害のない現代の私たちには「人々に憎まれるとき」以下の言葉は関係のないように思います。しかしそうではありません。私たちもある時は信仰ゆえに憎まれるのです。一般的にクリスチャンというのは、日本の社会の中では、それほど悪くは思われていません。この教会を創立されたヘール宣教師が大阪女学院も設立されたように、クリスチャンは教育や医療などの面において社会に貢献してきた実績があるからです。またクリスチャンの一般的なイメージは敬虔で穏やかで愛にあふれているというものです。
 しかし、クリスチャンは、そもそもこの世の価値観で生きてはいません。神を第一として生きていきます。たとえば日曜日に礼拝に出席するということひとつをとっても日本の社会から見たら不思議なことです。クリスチャンになる前、私も信じられないと思っていたことです。日曜に礼拝に出席するため、仕事や家族や地域社会との折り合いをつけなければならないこともあるでしょう。人によってはそこに戦いがありますし、そのことのゆえに人から憎まれるということもあるかもしれません。
 日曜のことだけでなく、まことに神を第一として生きていくとき、大なり小なり戦いがありますから、世間一般で思われている敬虔で穏やかで愛にあふれているクリスチャンのイメージとかけ離れることもあります。クリスチャンは世間一般で思われている良い人とか人格者というところとは根本的に違う存在だからです。
 主イエスはおっしゃいます。「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」私たちはこの世の人々から評価されるために生きていません。ただ天に富を積むために生きています。天に富を積むとは、神により頼み、自分の罪を悔い改めつつ、愛に生きるということです。愛に生きるということは、一般的な意味での善行や奉仕とは違います。主イエスは称賛を受けることなく、ご自分の命までお捧げになりました。それは私たちを永遠の命へと生かすためでした。
 私たちは世間的な評価を受けるためではなく、だれかに命を与えるために生きていきます。私たちの小さな愛の行いによって誰かがまことの命、神と共に生きる命を得るならば、そのこと以上の喜びはありません。私たちはその時、喜び踊ります。いえそれ以前に、今私たちが神と共に生きている、そのことによって、主イエスご自身がお喜びくださっています。天で多くの先人と天使が私たちの今を喜び踊ってくださっているのです。私たちは主イエスの喜びのうちに、喜びの未来に向かって歩んでいきます。