大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録4章1~22節

2020-06-28 11:43:46 | 使徒言行録

2020年6月28日大阪東教会聖霊降臨節第五主日礼拝説教「誰に従うのか 」吉浦玲子

【聖書】

ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、 二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。 しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、

今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、

/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/

です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

【説教】

<夜と昼>

 聖霊降臨の日に立ちあがった教会に最初の試練が降りかかりました。神殿で人々にイエス・キリストのことを話していたペトロとヨハネが逮捕されてしまったのです。祭司や権力者は、ペトロやヨハネが、自分たちが策略をめぐらして殺したイエスのことを話しているので「いらだった」と書いてあるようにじりじりした思いを持ちました。一方で、ペトロとヨハネの話を聞いて信じた人は多く男の数が5千人にもなったとありますから、その人々の雰囲気に押されて祭司たちもその場では手荒なことはできませんでした、彼らをとりあえず、牢に入れました。「既に日暮れだったからである」とあります。

 日暮れということで、振り返りますと、主イエスを死刑にするための裁判は夜中に行われました。裁判は当時の決まりでは夜には行えなかったにもかかわらず、権力者たちは違法に裁判を行ったのです。今日の聖書箇所の場面では、議員たちがエルサレムにいなかったということもあり、夜の裁判とはなりませんでした。しかし、日暮れ、夜、闇というのは人間の罪を象徴するものです。人間の罪の本性は、明るい人目のある昼ではなく、夜にうごめきだすのです。イスカリオテのユダが主イエスを裏切り出て行ったのも夜でした。権力者たちが軍隊を引き連れて松明を掲げて主イエスを逮捕するためにやってきたのも夜でした。人間の罪が明らかとなる夜へと向かう頃、ペトロとヨハネは牢に入れられました。

 そして夜が明け、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まり、また大祭司の一族も集まりました。サンヘドリン、最高議会と呼ばれる会が招集されたのです。ペトロとヨハネは、今日でいえば最高裁判所にいきなり引き出されたようなものです。田舎者で、無学な漁師に過ぎない彼らは、本来ならば一生目の前でその姿を見ることはなかったであろうユダヤの権力者たちの真ん中に立たされました。これはそれだけで震えあがるような出来事です。かつて彼らの先生であった主イエスがまさに権力者たちによって裁判にかけられている時、裁判の行われている屋敷の外でペトロは「イエスなど知らない」と言いました。直接、権力者に問われたわけではなく、一緒にたき火にあたっていた人に問われただけでペトロは震えあがったのです。そのペトロが今日はぐるりと周りを権力者たちに取り囲まれています。しかし、今日のペトロは震えあがりませんでした。イエスなんて知らないとは言わなかったのです。

 「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った」とあります。かつて主イエスが「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。(ルカ12:11-12)」とおっしゃったように、ペトロは聖霊から言うべきことを示されました。罪の闇の前で、聖霊によって、神の光の守りの中に置かれたのです。

<大胆な答弁>

 まずペトロは「今日わたしたちが取り調べを受けているのは病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば」と語りだします。単刀直入に自分たちがしたことは<良い行い>であると言うのです。自分たちはなんら悪いことはしていないというのです。実際彼らがやったことは生まれながらに足の不自由だった人を癒したということだからです。しかし、聖霊は単にペトロに自分の身の潔白を語らせているわけではありません。いえむしろ、それを語るとペトロの今後には不利となることがらも語らせます。つまり権力者たちが最も聞きたくないイエス・キリストの出来事を語らせます。ペトロは自分の潔白を越えて、その善い行いである生まれつき足が不自由だった人に起こった癒しが、イエス・キリストによるものであることを語りました。そしてさらにペトロの目の前に今いるあなたたちはそのイエスを殺したが、イエスは復活をなさった、そして救いはそのイエス・キリストからしか得られないことを一気に語りました。

 これはこれまで使徒言行録で読んできたこれまでの二回のペトロの説教と主旨としては同じです。しかし、語っている相手が、主イエス殺害の首謀者たちであることが異なります。たしかにこれまでのペトロの説教を聞いていた民衆たちも、指導者たちに扇動され、あるいは自分たちのローマからの独立という希望を裏切られたという怒りから主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。しかし、違法な裁判を主導して、最終的にはローマ総督のピラトまで巧みに脅し利用した権力者たちのイエス殺害への加担の度合いは民衆に比べてとてつもなく大きなものといえます。

 であるからこそ、彼らはそのイエスという男に関わることは、すべて抹消してしまいたいのです。イエスの残党たちの口はなんとしても封じたいのです。ですから彼らはペトロとヨハネを逮捕したのでした。彼らは、この二人を見くびってもいたのでしょう。イエスはたしかに多くの奇跡をなしました。議論においても律法学者もサドカイ派も主イエスには太刀打ちできませんでした。しかし、ペトロとヨハネはそのイエスの手下に過ぎず、たいしたことはないと思っていたのです。実際、この裁判の場で、ペトロもヨハネも無学な普通の人であることを改めて彼らは知ったのです。そのような連中はかるくひねりつぶせる、そう思っていたところ、予想外に、大胆な言葉を語るペトロに面食らいました。しかも、実際に足をいやしていただいた人がそばに立っており、権力者たちは何も言えませんでした。

 人間はたしかな真理を突きつけられて、それを受け入れることができないとき、黙りこくるか、嘘に嘘を重ねて反対をするかどちらかです。権力者たちはこの場面ではひと言も言い返せなかった、つまり黙りこくったのです。一般的にも、自分に突きつけられた真理を受け入れられない時、人は往々にして黙秘をするか偽証をします。私たちは神から示されることに対して、それが正しいことはうすうす分かっていても聞こえないふりをすることがあります。聞こえないふりをして何も答えないのです。あるいは、それは違うとあれこれ言い返す時もあります。いずれにしてもそのようなとき、心に平安のない、なにか重いものが残ります。そのことに気づかないふりをしていても、やがて、そのことに遅かれ早かれ、私たちは結局のところ向き合うことになります。神がそのように導かれます。

<神の前に正しいか>

 さて、言葉に窮した権力者たちは、いったんペトロたちを退出させて相談をします。権力者たちはペトロたちを罪に問うことはできないことは分かっていました。「彼らが行った目覚ましいしるしはエルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定できない。」彼らの頭にあることは、それが真実であるかどうか、良いことか悪いことかではなく、自分たちの立場でした。聖書や神にもっとも詳しいはずの彼らの判断基準は神ではなく、人びとからどう見られるかであり、自分たちの既得権益を守れるかどうかでした。生まれつき歩けなかった人が歩けるようになった、その素晴らしい出来事をなさった神の方に彼らは顔を向けていませんでした。自分の立場が第一でした。人間は、神を見ていなければ、人間だけを見て、判断するしかないのです。

 「しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後、あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」民衆の反応にうろたえている権力者の姿は、滑稽ではありますが、一方でそれでも彼らは自分たちの力を信じていました。自分たちが脅せば一介の無学な田舎者に過ぎないペトロたちは黙るだろうと考えたのです。しかし、ペトロたちは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください」と堂々と答えます。

 私たちは、ここで、ペトロたちを脅そうとした権力者たちのことを愚かに感じます。一方で、<神の前に正しいかどうか>という言葉の前で、自分のことを問う時、いつも胸をはって自分は正しいとは言えないのではないでしょうか。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください」この力強いペトロのように、たしかに私たちは神に従いたいのです。しかし、この地上に生きていくとき、ペトロたちが堂々と権力者たちに対峙したようには生きていけない時もあるのではないでしょうか。実際のところ、生きていくとき、会社や組織やさまざまなこの世のしがらみのなかで、これは神に従うことなのかどうなのかということがらに遭遇して、判断に苦しむ時もあるのではないでしょうか。日々の生活の中で、判断に苦しむこと、あるいは判断に苦しみながらやらざるをえないこともあるのではないでしょうか。

 私が大学を卒業して最初に入社した会社で新入社員研修を受けていた頃、入社して三ヶ月目くらいでしたが、ある日、会社に報道陣が押し掛けてきました。当時勤めていた会社の幹部がアメリカで産業スパイとして逮捕されたのです。手錠をかけられ腰縄をつけられ連行される姿がテレビに映っていました。社会人になったばかりの私にはショッキングな映像でした。日本のマスメディアにも大きく取り上げられました。コンピュータの基本ソフトを巡るかなりきわどい企業間の駆け引きの中での事件で、単純な意味での産業スパイとはいえないところもありました。ただ、逮捕された人、関係した人々は、当時、それが正しいことと思ってやっていたのかどうかは分かりません。当時、同期の新入社員もこの事件を受けて会社に不利にならないようにソフトの書き換え作業をさせられた人もいます。そこには正しいかどうかと問われたとき、まっ黒とはいえないまでもグレーの状況があったと思います。当時、もし私がその作業を担当させられていたらどんな気持ちだったかと思います。そのとき私はまだクリスチャンではありませんでしたが、クリスチャンであったなら、「あなたは神の前に正しいのか」と問われてどう答えていたかと思います。

<かならず助けは来る>

 ここで、もう一度ペトロと権力者たちのやり取りを振り返ってみます。ペトロたちは、ここで語ったのは、イエス・キリストの証でした。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」救いはイエス・キリストから来る、他からは来ない、ペトロが権力者の前で語った言葉を集約するとこの一点になります。自分たちを不当に拘留し、憎しみを向ける権力者たちにペトロは自分たちの正当性よりも、まず救いを語ったのです。たしかにあなたたちは罪を犯した、しかし、あなたたちもまたキリストへの信仰によって、救いに入れられるのだと語ったのです。

 もとより無学な田舎者であったペトロは、天下のすべての宗教を知っていたわけでも、神学的な高度な理論を持っていたわけでもありません。しかし、彼は確信を持っていました。かつてイエスなんて知らないと言った彼は、復活のキリストと出会い、聖霊をいただきました。そして、自分がまことに神に愛され、罪を赦され、かつての情けない弱い自分を聖霊によって変えていただいたという確信があったのです。それは揺るがない確信でした。聖霊によって与えられた確信でした。単なる知識や経験則や宗教的訓練から来るものではありませんでした。内側からわき出る力によるものでした。

 そしてその力は、愛と救いへの力でした。ペトロは権力者たちに彼らの犯した罪を語りましたが、それは彼らを裁くためではありませんでした。彼らをも、キリストの救いへと導きたかったのです。彼らにも神の素晴らしい業を知ってもらいたかった。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」とペトロは言いました。彼らにも自分と同じように復活のキリストと出会い、聖霊をいただく素晴らしい歩みをしてもらいたかったのです。だから話さずにはいられなかったのです。もちろんその言葉は耳触りの良い言葉ではありませんでした。甘い優しい言葉ではありませんでした。罪を指摘する言葉でもあったからです。しかし同時にそれは愛と救いへの言葉でした。

 私たちもまた聖霊に満たされる時、愛と救いへの言葉を聞きます。不当な目にあっても、判断に苦しむような局面に立たされても、力ある言葉を聞く時、必ず助けがきます。愛と救いの神は私たちを悩みや不安の中に孤立させられません。私たちを愛と救いによって包んでくださいます。


使徒言行録3章11~26節

2020-06-21 12:02:39 | 使徒言行録

2020年6月21日大阪東教会聖霊降臨節第四主日礼拝説教「あなたへの祝福 」吉浦玲子

【聖書】

さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。

聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。

あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。

あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。

こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

 

【説教】

<癒しの奇跡以上のもの>

 私たちは神からの祝福や恵みというものを実際のところ過少に考えています。もちろん、病が癒される、経済的に助けられる、目標としていたことが達成できた、等々、そこに神の助けや祝福を感じ、感謝をするということはあります。時に奇跡としか思えないようなことが起こることもあります。しかし、神の祝福の本質は、自分の切実な願いが叶うとか、奇跡的な体験をする、といったところには、ありません。病が癒された、とんでもないことが起こって助けられた、じゃあそのような奇跡的な体験をしていない人は祝福を受けていないのか?そうではありません。今日の聖書箇所でペトロは、人間が考える以上の神の祝福、恵みについて語っています。

 さて、ここに一人の男性がいます。その男性はペトロとヨハネにつきまとっていたとあります。この男性は今日の聖書箇所の前のところで、<イエス・キリストの名>によって、足を癒された人でした。その箇所は二月に説教をした箇所です。男性は神殿の「美しい門」のところで物乞いをしていた人でした。その人が癒されました。ペトロが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」とこの男性の右手を取って立ちあがらせると、生まれながらに足が不自由だったこの人の足やくるぶしがたちまちしっかりして、躍り上がって立ち歩き出したのです。男性は生まれて初めて、大地を自分の足で踏みしめて立ち、歩きました。それもよろよろとおぼつかなく歩いたのではなく、神を賛美して歩き回ったり踊ったりしたのです。

 その歩き出した男性がペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に入ってきたのが今日の場面です。神殿に来ている人々は、その男性が毎日、門のところで物乞いをしているのをよく知っていました。その男性が歩き回って神を賛美しているのですから、人々はたいへん驚きました。今日の聖書箇所の前のところでは「我を忘れるほど驚いた」と記されています。この生まれつき足の不自由だった人にしてみれば、歩けるようになった、それは当然、大いなる祝福であり、恵みでした。その姿を見て人々は集まってきたのです。「集まってきた」の箇所は「走り寄ってきた」と訳されている聖書もあります。「なんだ?!なんだ?!」と多くの人々がこの男性とペトロたちのところへ駆け寄ってきました。医学の進んでいなかった当時、生まれつき足が不自由な人が歩き出すなどということは信じられないとんでもないことでした。足の不自由だった人に注がれた神の祝福が、この男性自身を変えたと共に、人々をも引き寄せたのです。足の不自由だった人に注がれた祝福がさらに他の人々を神の祝福に向かって導いたのです。本当の祝福は、一人にだけとどまらないのです。周りに伝播していくのです。人々は表面上は、センセーショナルな出来事に驚いて集まってきました、奇跡の出来事に我を忘れて走り寄ってきました。しかし、人々を集められたのは神です。人々に祝福を与えるために集められました。足を癒していただいた男性は、自分では分からないままに人々を祝福へと導く者と変えられていました。そして、これからペトロが語るのは、この男性の身の上に起こったことを越える祝福についてであり、恵みについてでした。

<無知とは>

 集まってきた人々にペトロは説教をします。2章に記された聖霊降臨の日に続いて、聖書に記されているペトロの説教です。2章の説教と同様、まずペトロは、主イエスが神から来られたお方であることを語ります。そのお方をあなた方は十字架にかけて殺してしまったと語ります。ここで特にはっきりと語られていることは、「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。」とありますように、人々が主イエスを殺したのは無知のためだということです。

無知とは何でしょうか?主イエスを「十字架につけろ!」と叫んだ人々は、神への知識がなかったのでしょうか?けっしてそうではありません。彼らはむしろしっかりと聖書を学び、律法を守ってきた人々です。十分に神や聖書への知識はあったのです。15節に「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが」とあります。<命の導き手>とは命の創始者、命の先頭を行く者というような意味です。主イエスは、死ではなく、命へと人々を向かわせるために来られた方でした。しかし、人々は、その命への導き手、命の創始者を殺しました。人々は「命」というものを知らなかったのです。「命」に対して無知だったのです。聖書や神への知識はあっても、そこに<命>がなかったのです。神との生き生きとした愛の交わり、喜び、まことの平安のなかに<命>があります。彼らは<命>に無知であるゆえに、杓子定規な硬直した心を持っていました。まことの神の愛を知りませんでした。

足の不自由だった人は<命>を知っていたでしょうか?彼も知らなかったのです。4章を読みますとこの男性は40歳を過ぎていたとあります。40年以上、この人もまた<命>を知りませんでした。しかし、彼は、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」と右手を取った時、その手を握って立ちあがったのです。馬鹿なことをいうなと拒否をしなかったのです。それは一瞬のことだったかもしれません。しかし彼は、イエス・キリストの名を信じたのです。名とは聖書においては実体そのものを指します。差し出された手を握り返し、イエス・キリストその人を信じて、立ちあがったのです。<命>に向かって、キリストによって導かれて立ちあがったのです。ペトロが「自分の力や信心によって、この人を歩かせ」たわけではないと語っているように、足の不自由だった人はペトロによって足を癒されたわけではありません。ただキリストを信じる信仰によって、キリストその人から命が与えられました。足の不自由だった人に手を差し伸べたのは、実際のところキリストその人であり、彼はキリストの手を取って立ちあがったのです。

キリストからの手を取り立ちあがる、それが命への道です。しかし、人々は、キリストからの手を拒否しました。彼らは<自分は自分の力で立っている>と思っていたからです。キリストの手など必要ではないと考えていたからです。キリストの手を取るには、まず心が変わらなければ無理なのです。

<悔い改めによって開かれる未来>

 ですから、ペトロは言います。「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」と。これは足が不自由だった人のように、差し出されたキリストの手を握り返しなさいということです。自分のプライドを捨て、自分のこれまでの生き方を捨て、自分の頑迷な思いを捨て、キリストの導きに従いなさいということです。知識の信仰ではなく、命の信仰へと、聖霊の導きによってキリストへと向きを変えなさいということです。そしてキリストの手に自分の全体重をかけて立ちあがるのです。キリストのこの教えは良いな、でもこちらはスルーしよう、というように、自分が主体的に取捨選択してキリストと向かうのではなく、全体重、全存在においてキリストにゆだねるのです。

 そこから新しい命に生かされる日々が始まります。喜びの日々が始まります。神との愛の交わりに生きる日々が始まるのです。足の不自由だった人は、立ちあがって、神を賛美しました。単に足が癒されてうれしいというだけではないのです。そこに神の力を彼は知ったのです。神の愛を知り、喜びを知ったのです。そして希望が与えられたのです。希望がなければ、神は賛美できません。カチカチの固い心では神は賛美できません。彼は40年、希望のない日々を送っていたのです。しかし今や希望が与えられました。希望というのは未来が開かれたということでもあります。うつむいて過去にとらわれるのではなく、未来へと心が開かれたとき希望が与えられます。そしてその未来は、神が備えられた未来です。

<契約の子として>

神は、私たち一人一人に大いなるご計画をお持ちです。私たちの生まれる前から、私たちがキリストと出会う前から、すでに神はわたしたちへの計画をお持ちでした。24節「預言者は皆、サムエルをはじめ、その後に預言した者も、今の時について告げています」とペトロは語ります。これはキリストの到来と、救いの成就について、旧約聖書の預言者たちによって預言されているということです。「今の時」とは、まさにキリストの十字架と復活によって救いが成就した今の時です。「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。」と続きますが、契約の子とはイスラエルの人々を指します。ペトロの話を聞いている人々は、無知のゆえに命への導き手である主イエスを殺しましたが、なお救いに定められている契約の子でありました。では、イスラエルの民ではない私たちは契約外なのでしょうか。ペトロはさらに続けて「すべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」と語ります。あなたから生まれる者とは、アブラハムの子孫であるイエス・キリストです。イエス・キリストのゆえにイスラエルの民ではないすべての民族もまた祝福に入れられるのです。 預言者たちに預言された「今の時」はすべての人々に救いが開かれた時でありました。

 今ここにいる私たちもまた、信仰において、アブラハムにつながる「契約の子」です。神の壮大なご計画の内に、祝福を与えられる者です。そしてその祝福は、ひとときのものにとどまりません。足の不自由だった人が、歩けるようになったところで、その人の救いの物語が終わるのではないように、私たちもまた、未来に向けて祝福の中にいます。

 何年も病で寝たきりだった方を知っています。若い時に5年ほど寝たきりで、治療薬の進歩によって、回復することができました。しかしその方は言われました。病の時より、むしろ癒されてからの方がしんどかった、と。なぜ若い貴重な時間を自分は寝たきりで過ごさなければならなかったのかと悶々としたのだそうです。失った時間が悔しくて悔しくてならなかったそうです。取り返しがつかないような損をした気持ちになったそうです。そんな中、その方は教会に行き、信仰を得られました。その方は、自分が病気になった意味が分かったから信じたわけではないそうです。寝たきりで過ごした時間の意味が分かったわけではない、ただ分かったのは、新しい未来がある、ということだったそうです。過去の意味は今の自分には分からないけれど、それもいつかは神が示してくださるときが来るかもしれないけれど、ただただ自分には未来があると分かったそうなのです。過去も未来もすべてを支配されている神が、愛によって自分に未来を開いてくださることが分かった、だから、洗礼を受けたそうなのです。

 今日の聖書箇所の足の不自由だった人も40歳を過ぎていました。当時の平均年齢からいいますと、この年で癒されても、普通に考えますと、これからの人生で、失った40年間を補うことは難しいように思います。しかしなお、この人は神を賛美しました。失った40年を恨んだのではありません。神と共に生きる、神と愛の交わりの中に生かされることの素晴らしさを知り、神によって開かれる未来に希望を持ったのです。

 私たちも命に生かされます。神の未来へと導かれます。そこに希望があります。いま、私たちも心を柔らかにして差し出されたキリストの手を取ります。キリストの手は私たちの上にあります。地面ではなく、目の前の現実ではなく、上を見る時、聖霊によってそのキリストの差し出された手が見えてきます。その手をつかみます。全体重をかけてつかみ、新しい命を得ます。


使徒言行録2章37~47節

2020-06-14 11:47:56 | 使徒言行録

2020年6月14日大阪東教会聖霊降臨節第三主日礼拝説教「悔い改めの実り」吉浦玲子

【聖書】

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 

【説教】

<心打たれて>

 ペトロが聖霊に満たされて、説教をしました。イエス・キリストは神のもとから来られた方であった、イエスは主である、つまり神その人である、その主を殺したのはあなた方だと語りました。そう語られたら、通常、神を信じるイスラエルの人々は、神を冒涜していると怒り狂うところです。不思議な業はしたかもしれないが、人間であって、十字架で死んでしまったイエスという男を神扱いするなど、たしかに神を冒涜した行為です。

 しかし、不思議なことが起きました。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに「兄弟たち、わたしたしはどうしたらよいのですか」と聞いた」のです。たしかにエルサレムにいた人々からしたら、田舎者で、学識もないナザレの人間であったイエスを、主だと言い、そしてその主をあなたがたは殺したと言うような輩は、おおいに糾弾されるべきです。しかも、そのイエスは復活をしたというのです。ペトロたちは<私たちは主イエスが復活したことの証人だ>と言いますが、聞いていた人々は、もちろん復活のイエスと会っていないのですから、復活など、通常は信じられないことです。神を冒涜し、また、荒唐無稽な作り話をする連中だと、かつてイエスを殺したように、人々はペトロたちを殺しても不思議はありませんでした。

 しかし、人々は「大いに心を打たれ」たのです。ここの部分について、いろいろな訳を読みましても、ほとんどの訳は、ここは「心を打たれ」と訳されています。しかし、文語訳聖書では「心を刺され」と訳されていました。いずれにせよ、単に、知識としてペトロの説教を理解したのではないのです。心が揺さぶられたのです。「大いに心を打たれた」そして「心を刺された」のです。それはペトロ自身の弁舌が見事だったからではありません。語るペトロにも、聞く人々の上にも聖霊が働いたからです。

 先週、洗礼式がありました。司式者として、もちろん私は感動しました。涙を流しました。心打たれました。でも私だけではありませんでした。信徒の方のみならず、未信徒の方も涙ぐまれたと聞きました。未信徒の方が、「なぜかうるうるしてしまいました」とおっしゃっていました。洗礼式はもちろん厳粛な儀式です。しかし、そこにただ厳粛な雰囲気だけがあったのであれば、緊張感はあっても、「うるうる」はしないと思います。そこに神、ことに聖霊が働いて、私たちの心に語りかけてくださるものがあったのです。私たちの心に刺さるものがあったのです。

そして、心打たれ、心刺され、心動かされた者は、そこにとどまりません。心打たれたゆえに問うのです。「わたしたちはどうしたらよいのですか」と。

<悔い改めなさい>

 どうしたらよいのですかと問う人々に対して、ペトロは言います。「悔い改めなさい」と。主イエスがこの地上で、かつて宣教をはじめられた時の言葉がマルコによる福音書にはこう書かれています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」。

 キリストが来られた、ということは、それはつまり私たちが悔い改めることができるようになったということでした。私たちは罪の上に罪を重ねて生きてきました。しかし、その罪を悔い改めることができるようになりました。時は満ちたからです。神の国は近づいたからです。それまで神の国は遠かったのです。人間の罪ゆえ、神の国は遠く隔てられていました。しかし、キリストの到来によって神の国は近づきました。それがキリストの到来の恵みでした。そしてさらに十字架と復活によって神の国は私たちに開かれました。キリストが開いてくださいました。私たちは悔い改めることができるのです。悔い改めとは神の方を向くことです。遠かった神の国が開かれ、神は、神の方を向く私たちをうけいれてくださるのです。

 悔い改めは恵みです。もう一度やり直すことができるのです。キリストの十字架がなければ、私たちはやがて神の審判において罪を問われて滅びます。しかしいまや、私たちはキリストによって、やり直すことができるようになったのです。洗礼によってそれまでの罪をすべて赦され、そののちも犯した罪を悔い改めることができます。いくたびもやりなおすことができるようになりました。

<洗礼>

 そのペトロの言葉を聞き、その日、3000人ほどが洗礼を受け、仲間に加わったとあります。3000人というのはとても多いように思われると思います。初めてのペンテコステの日であり、それは特別の出来事であったと思われるかもしれません。

 しかし、こういうことは、この使徒言行録の2章に描かれた日だけの特別なことでもありません。私はかつて、中国に伝道をしている方の話をお聞きしたことがあります。中国では公にはキリスト教は認められていません。しかし、伝道は進んでいて、地下教会、政府非公認の教会がとても多くあって、実際のところ、数千万人、あるいは億と言われるくらいのクリスチャンが存在するようです。その中国での伝道の様子の写真のなかに、洗礼式の写真があって、そこにはおびただしい数の人々が洗礼のために川に降りていました。10人、20人ではありません。何百、あるいは千人を超えた人々が、川で洗礼を受けているのです。クリスチャンになることは、かの国にあっては、かなり危険なことでありながら、信仰告白をして、おびただしい人々が洗礼を受けるために川の水の中へ入っていくのです。そういうことは現代においてもあるのです。

 しかしまた、何百人とか3000人ということ以前に、一人の人が、心を打たれ、また心を刺されて、信仰告白をして、洗礼を受けるということは聖霊の業です。聖霊による奇跡が起こったということです。今ここにおられるクリスチャン一人一人の上に、聖霊による奇跡が、かつて、たしかに起こったのです。私の上にも起こりました。聖書は興味を持って、教会に行きましたが、当初は絶対に私は宗教などは信じないと確信していました。そのかたくなな私の心もまた動かされました。心打たれ、心刺されました。

 大阪東教会の歴史を見てもそうです。ヘール宣教師が兄弟で大阪に来られ、民家を借りてキリスト教の講義をするようになったのが1879年でした。これは大阪西教会の前身です。キリシタン禁制が解かれて6年の後でした。まだまだキリスト教やクリスチャンへの偏見は強く、クリスチャンは耶蘇と言われ、一般の人々は近づくと恐ろしいものと思っていたようです。クリスチャンでない一般の人々が教会で結婚式をあげるような現代とはまったく世間の感覚は違っていました。キリスト教への恐怖もありましたが、当時の日本には、個人とか人格の概念がなかったので、キリスト教を理解することは難しい面があったようです。現代では普通に私たちが持っている近代的概念を当時の人々は持っていなかったからです。ただお一人の神がおられ、その神が個人的に自分に関わってくださる、つまり人格的な交わりをしてくださる神ということがまったく理解できなかったようです。宣教師たちは説教をしながら、一言一言、聞いている人々にどういう風に理解したか確認しないといけなかったようです。聞くたびにまったく違うように解釈されていて、そのつど宣教師たちは説明をしなおしたようです。しかしそのようななかでも、1879年に開設されたキリスト教の講義所から、翌年には2人の受洗者が出ました。3000人ではありませんが、しかし、これも当時の状況を考えると、奇跡的なことだと思います。さらに伝道のために大阪東教会の前身である講義所が1882年内本町に開かれるときには、すでにヘール宣教師たちの弟子となっていた複数の日本人が、宣教師たちを助けるほどに成長していました。これもまたひとつのペンテコステの出来事だと思います。

<邪悪な時代から>

 洗礼を進めるペトロはさらに力強く語ります。「邪悪なこの時代から救われなさい」と。<邪悪なこの時代>とは何でしょうか?この使徒言行録の時代、イスラエルはローマに支配されていました。主イエスがお生まれになったのもローマ皇帝による人頭税聴取のための人口調査が行われていた頃でした。お金も労力もローマに搾取されていました。しかしまた「ローマによる平和」も保たれていた時代です。戦乱の世ではありませんでした。ローマによって道路や町などのインフラも整備されました。植民地であっても、自治は認められていました。ローマに表立って逆らいさえしなければ民族の伝統や慣習、自由はそれなりに守られる時代でもありました。

 しかし、ペトロは言います。<邪悪な時代>と。別の訳では「曲がった時代」と訳されている言葉でもあります。神から曲がった時代なのです。本来、神に造られた人間は、まっすぐに神へ向くべき存在でした。しかし、神から曲がってしまった。罪に落ちてしまいった。アダムとエバ以来、この世界は曲がってしまったのです。邪悪な時代なのです。現代もまたそうでしょう。ヘール宣教師たちが神の救いを説いて140年ばかり過ぎた今日においても、私たちは時に神を見失い、神から曲がっていきます。

 一方で、イエス・キリストが十字架にかけられた2000年前のイスラエルは、神から来られたお方を十字架につけたということにおいて、邪悪さが極まった時代であったといえます。アダムとエバ以来、ノアの時代の洪水のころ、バベルの塔の時代、バビロン捕囚の時代、人間の罪は深まっていきました。そして、十字架において人間の罪が極まりました。人間の邪悪さが最も明らかにされました。その罪の極み、邪悪さの深みにおいて、救いがやってきました。

 私たちは救われるのです。救われる、というのは受け身のことです。災害地に救援隊がヘリコプターやボートでやってきて、孤立していた人々を救い出します。そのように私たちも救われたのです。迫りくる水や炎や、周りを埋め尽くすがれきの中で、どうしようもないとき、救いがやってきます。私たちは邪悪な時代、罪の禍のなかから、ただただ救われました。神が救ってくださったのです。曲がっていた私たちであったのに、神ご自身が私たちを救ってくださいました。

<救われた者>

 洗礼によって救われた人々は「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」に熱心であったと書かれています。パンを裂くことは今日でいうところの聖餐です。つまり人々は今日における教会生活と同様の信仰生活を守っていたということです。むしろ逆で、私たちが使徒言行録の時代からの信仰者の生活を守っているといえるでしょう。しかし、少し違うところもあるようです。生まれたばかりの教会は、財産なども共有化していたようです。このことの背景にはいろいろなことがありますが、現代においては現実的なことではありません。

 しかし、「毎日ひたすら心を一つにして」信仰生活を送っていたのです。心を一つにしてというのは神によって一つにされてということです。人間は一つの目的のためにひととき一致団結することはあります。共通の敵と戦うために、会社の売り上げを伸ばすために、子供を育てるために、さまざまに目的があります。しかしその目的が果たされたとき、心は離れます。そもそも心は一つではなかったからです。目的によってつなぎ合わされていただけだったのです。しかし神によって一つにされた心は異なります。まことに一つなのです。「民衆全体から好意を寄せられた」とあります。単に伝道にギラギラしている新興宗教の集団なら人々から嫌がられたでしょう。しかし、人々は好意をもったのです。そこに通常ではありえない熱心と平和な姿を見たからです。

 内本町に講義所ができて138年たった今、大阪東教会は心を一つにしているといえるでしょうか。先日、コロナ禍のなかの教会のことを話をしているとき、ある先生がおっしゃいました。この時こそ、教会が一つにされているかどうかが分かる、と。神殿を失いエルサレムから散らされたイスラエルの民が散らされながらも神の民として一つの心に歩んだように、今、私たちも会堂に集う人集えない人それぞれに心を一つにできているでしょうか?コロナの禍が起こってから、ばらばらになっても一つになりましょうと言っても無理な話です。もともと、心を一つにして集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美する、そのようなまことの兄弟姉妹の交わりをしていたなら、どのようなことがあっても心は一つであり、物理的に散らされても離れることはないでしょう。単にお固くお勉強するように教会に来ていたなら、離れたらそれまででしょう。それはコロナの禍の時だけではありません。やがて誰でも教会に集えなくなる時が来ます。病や老いで物理的に教会から隔てられる時が、多くの人にやってきます。しかしその時でも心を一つにできるのです。神が心を一つにしてくださいます。聖霊なる神は交わりの神でもあります。人と人とをつなぐ神です。救われた者は、その神によって一つにされるのです。


使徒言行録2章22~36節

2020-06-07 11:48:15 | 使徒言行録

2020年6月7日大阪東教会聖霊降臨日礼拝説教「キリストを殺したのは誰か」吉浦玲子

【聖書】

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 ダビデは、イエスについてこう言っています。

『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。

そして、キリストの復活について前もって知り、

『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/

と語りました。 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。

『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。

わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』

だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

【説教】

<大胆に語りだすペトロ>

 聖霊降臨の日、弟子たちに言葉が与えられました。そして、あの臆病で「主イエスなんて知らないと」かつて三度も言って主イエスを裏切ったペトロが立ちあがり、説教を始めます。その説教は今日お読みした聖書箇所の前の部分になる最初のところは、聖霊に満たされてしゃべりだしている自分たちの姿を見て「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言われたことに足して、自分たちは新しいぶどう酒に酔っているのではない、聖霊に満たされて語っているのだ、そもそもこの出来事は旧約聖書で預言されていたことなのだと語りました。

しかし、さらにペトロは語り続けます。あろうことか、つい50日ほど前に起こった主イエスの十字架の出来事について語りだすのです。ペトロの説教を聞いていた人々は、50日前、過越し祭の熱気の中で、神を冒涜した罪で死刑判決を受けたイエスという男のことをよく知っていたはずです。その男が、鞭打たれ血まみれになって、十字架を背負ってビアドロローサをよろめきながら歩いていったことも、ゴルゴダの丘でみじめな姿で十字架にかけられたことも知っていたでしょう。そんな人々へ、ペトロは語りだします。そのような話をすれば、50日前、主イエスが十字架にかけられたように、弟子たちもまた、権力者たちに逮捕され、殺される危険もあるなか、よりによって、その主イエスが神から遣わされた者であることを語り出しました。これはたいへん危険なことでありました。そのような危険を冒してペトロが語りえたのは、かつてイエス・キリストを否定したペトロが心を入れ替えて、勇気を出したからではありません。まさに聖霊が語らせていたのです。

 ペトロは「イスラエルの人たち」と語りかけます。実際のところ、聞いていた人々には一部イスラエル人ではない異邦人もいました。そこにいたのはモーセ以来の律法を信じる、ユダヤ教徒のイスラエル人と、ユダヤ教に改宗した異邦人でした。現代におけるユダヤ教でも同様なのですが、ユダヤ教に改宗した異邦人は神の民であるイスラエル人とみなされます。つまり皆、聖書の神を信じる「神の民」であるということで、「イスラエルの人たち」すなわち「神の民であるみなさん」とペトロは語りかけたのです。この語りかけはのちの言葉と関連してきます。

<神の民が神から遣わされた者を殺した>

 さて神の民であるあなたたちに伝えます、と話し始めたペトロは「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と単刀直入に主イエスが何者であるかを語ります。神ご自身が主イエスを通して、奇跡や不思議な業をなさった、そのことをあなたたちは見たはずだというのです。生まれながらに目が見えない人が見えるようになり、病の人が癒され、悪霊が追い出された、それらのことを聞いたり、見たりしたはずだ、神の民であるならそれが神から遣わされた者であることの証明だということを分かっているはずだというのです。「不思議な業と、しるしによって、そのことをあなたがたに証明なさいました」という「証明」とは単に主イエスがなさったことが人間業ではないすごいことだというだけではなく、そもそもそれが聖書に、神から遣わされた者の預言として書かれているということをパウロは説明しているのです。これは前の聖書箇所19節で預言者ヨエルを通して語られた言葉の中で「地に徴を示そう」と言われている「徴」ということでもあります。決定的な神からの出来事があるとき、しるしがなされることはユダヤ教において、もともと言われていたことなのです。

 それなのに、そういうことを知っていながらあなた方は「律法を知らない」つまり神を知らないローマを利用してその神から遣わされた者を十字架につけて殺したのだとペトロははっきり語ります。神の民であるはずのあなたがたは神から遣わされたキリストを、神を知らぬものを利用して殺したのだと語るのです。聞いていた人々にとってこれは息を飲むような言葉であったでしょう。

<キリストの証人>

 そののちペトロはダビデが作った詩編16編を引用して語っています。詩編16編はメシア、つまり救い主を預言した詩編です。やがて来られる救い主はダビデにとって「主」と告白すべきお方としてこの詩編で語られています。「主」という言葉はギリシャ語でキュリオスといいます。この主という言葉は、旧約聖書においては、神を指す言葉として使われました。十戒に<みだりに神の名を唱えてはならない>とあるため、イスラエルの人々は神の名を直接には呼ばず主と呼んだのです。そしてダビデは、その主という言葉でやがて来る救い主をこの詩編において預言したのです。

ここでわざわざダビデを引き合いに出しているのは理由があります。そもそも、イスラエルにおいて救い主はダビデの子孫から出るとされていました。「彼から生まれる子孫の一人を王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださった」というのは詩編132編からの引用です。しかし、その王座に着くべき救い主は単純にダビデの血縁としての末裔というだけではないということをペトロは語っているのです。それはダビデにとっても主と呼ぶべきお方、つまり神その人であるお方なのだというのです。

その、神その人であるお方は、ひとたび十字架におかかりになって死なれましたが、復活をされた、とペトロは語ります。その復活もまた、「彼は捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない」と旧約聖書で預言されていたことを示します。そもそも、ペトロたちの時代、29節に語られているように、ダビデの墓というのは存在したようです。その墓は2世紀くらいに戦争で破壊されたようですが、1世紀に生きていた人々にとって、ダビデが実在の人物でその墓もあるということは周知の事実でした。ダビデは偉大な王であったけれど、死んで今は葬られている、それに対して、ダビデが主と呼んだ救い主は復活なさったのだとペトロは説明しています。

32節で「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」とパウロは力強く語ります。使徒言行録1章で天に昇られる前、主イエスがおっしゃっていた「あなたがたは、わたしの証人となる」という言葉が今ここで成就したのです。

しかし、不思議ではないでしょうか?主イエスはこの場面のほんの10日前に天に昇られました。主イエスが復活なさったことを証明するなら、復活なさった主イエスご自身が姿を現されて、この場で語られた方が説得力があったのではないでしょうか。ここにいる人々は十字架の出来事を良く知っているのです。主イエスを見たことのある人もいたでしょう。それなのになぜ主イエスご自身が証しをなさらなかったのでしょうか。これは前にも申し上げましたように、神は人間に聖霊を注ぎ、人間をキリストの証人とすることに決められたからです。聖霊が注がれているゆえに、「死人が復活した」などという普通に考えたらばかげたありえないことが、力強い証言として伝わっていくのです。

<私たちも証人とされる>

 さて、今日、お一人の方が洗礼をお受けになります。キリストをご自身の救い主として受け入れられました。十字架と復活の救いの業がその姉妹の上に成就したのです。ダビデの詩編で28節に語られている「あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」このことが姉妹の上に実現するのです。

 洗礼というのは教会への入会式ですが、それは単なる手続き上の儀式ではありません。命に至る道のスタート地点に立つということです。今ここにおられるクリスチャン皆がそうだったのです。それまでは死んでいたのです。罪によって死んでいた私たちが新しく命に生かされる、それが洗礼の出来事です。

 私自身は、ペンテコステで洗礼を受けました。洗礼式のときはなにがなんだかよくわからず実感がなかったのですが、いま思い返すと、そのときから人生が大きく変わりました。別に怒りっぽい性格がなおったわけでも、がさつな行いが変わったわけでもありません。しかし、たしかに大きく神によってその日々は変えられました。もちろん私の場合、会社を辞めて、牧師になってしまったという、かなり大きな変化があったので分かりやすいのですが、実際のところ変えられるという点ではだれでもそうなのです。洗礼を受け聖霊を受けた者は変えられていくのです。洗礼を受けた時だけ変えられるのではありません。聖霊によって、生涯に渡って変えられていくのです。臆病だったペトロが劇的に変えられたように私たちは変えられていくのです。変わらない者があるとしたら、自分中心の思いが強すぎて聖霊を軽んじているのです。

 変えられた者は、キリストを証しするのです。良く教会では伝道ということをいいます。教会は伝道のためにこの地上に建てられているのですから伝道というのは当たり前のことです。教会は教会員が楽しくお茶を飲んでおしゃべりする場所ではありません。親睦のためのサロンやコミュニティセンターではないのです。まず第一にキリストを証しするのです。もちろんそれは肩ひじ張って、証しをするのではありません。日々、キリストに救われたことに感謝しながら生きていくとき、つまりまさにダビデが語るように神の御前で喜びに満たされて生きていくとき、おのずとその人の生き方自身が誰かに対してキリストを証しすることになるのです。

さきほど、教会は教会員が楽しくお茶を飲んでおしゃべりする場所ではないと申しました。しかしまた聖霊による神の家族としての交流、交わりはだいじです。これは矛盾したことを言っているわけではありません。まことに支え合う愛の交わりは、おのずとキリストを証しするのです。世間話や噂話で終始するこの世の交わりとは全く異なるのです。そこには新しい命に生かされた者の喜びが満ちているのです。その喜びのうちに、あらたなキリストの証人として立てられた姉妹をお迎えしたいと願っています。

<まことの愛に生きる>

さてペトロは36節でこう語っています。「だから、イスラエルの全家ははっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 主とは神を指す、と申しました。イエス・キリストを殺した、ということは単に無実の人間を陥れて殺したということにとどまらないのです。神から遣わされた救い主を殺した、端的に言えば神を殺したということなのです。

 これは心して覚えるべきことです。私たちはクリスマスの時、神の御子の歌を喜んで歌います。飼い葉おけに眠る神の御子の話をおとぎ話のようにほのぼのと聞きます。イエス様大好き、イエス様は素晴らしい方とほめたたえます。しかし神の御子は、神そのものなのです。三位一体の神その人を人間は殺したのです。主イエスを神そのひとだと認めない異端的な考えは2000年前から現代に至るまで、この世界にはあります。キリスト教の装いをして、しかしキリスト教ではない宗教としてあるのです。その異端の宗教でもイエス・キリストは神の御子とされています。しかし、神とは区別されています。つまり異端においては三位一体ではないのです。

 大阪東教会は正統的なキリスト教の教会です。ですからここにおられる方は神の御子とであられるイエス・キリストが神その方なのだと、しっかりと繰り返し覚えていただきたいのです。ぼんやりと神の御子であるお優しいイエス様が私たちの身代わりに十字架にかかってくださったと考えていては、神の裁きの厳しさは理解できません。そして救いも理解できません。神の御子は神その人であり、私たちは神を十字架につけて殺したのだと知らなければ、神の救いの素晴らしさを知ることはできません。そこにまことの救いも平安もないのです。神の愛も分からないのです。そこには、<優しい優しいイエス様大好き>という自己愛の延長のようなヒューマニズムしかないのです。

 わたしたちは神を殺しました。私たちの神への背きの罪によって殺しました。しかし、復活なさった主イエスによって赦されました。そこにまことの神の愛が示されています。驚くべき愛です。神が私たちのために死んでくださったのです。それほどに私たちは愛されているのです。いま、コロナの災いで先の見えない世界です。その不安な世界で、私たちが今たしかに手にしているものは神の愛だけです。しかしそれで十分なのです。病を老いもさまざまな試練も神が共におられ、愛を注いでくださる、その一点において私たちは喜びのうちに新しい命に生きます。