2024年1月14日大阪東教会主日礼拝説教「朽ちない冠を得るために」吉浦玲子
<多くの人の救いのために>
主イエスは、マタイによる福音書の28章において、大宣教命令と言われるお言葉を語っておられます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」主イエスはご自分の弟子たちにすべての民をわたしの弟子にしなさいと命じておられます。この言葉はこの時の弟子たちに対してだけ語られているのではありません。洗礼を受けたすべての者はキリストの弟子です。ですからすべてのクリスチャンは「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命令を受けているのです。
ですから教会はキリストの弟子を得るために宣教をします。教会の存続の意味は、宣教以外にないのです。クリスチャンの楽しいコミュニティセンターとなるのが教会存続の目的ではありません。一人でも多くの人に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ことが教会存続の意味です。それはキリストの大宣教命令にお応えするためであって、教会の規模を拡大したり、財政を安定化することが直接の目的ではありません。
そしてここでまず申し上げたいことは、第一に宣教は、愛の業です。愛の業ですから、高みに立って、クリスチャンではない人を見降ろして、「さあキリストを信じなさい」と教育するというものではありません。ただただ、あなたのために死んでくださり蘇ってくださったお方、イエス・キリストを伝えます。あなたのために死んでくださり蘇ってくださった、そこに愛があることを伝えます。愛を伝える宣教の業は愛の業なのです。そして聖書の言葉を聞くことを通して、それが真実だということを少しずつ分かっていただくように祈ります。今、ここにいる私たち一人一人も誰かに祈られ、イエス・キリストの愛を知らされ、救われたように、まだイエス・キリストを知らない人のために祈り、イエス・キリストの愛、神の愛を伝えます。
神の愛を伝えるあり方は、講演や講義やデモンストレーションではありません。もちろん伝え方にはさまざまな方法があります。でも方法論より何より大事なことは、一人でも多くの人にイエス・キリストを知っていただいて、本当の喜びと平安を知っていただきたいという願いです。
そもそも神の恵みは独り占めするものではありません。私たちが信じる神への信仰は、もちろん、神と私たち一人一人のマンツーマンの豊かな交わりが基本となります。神が私たちを愛してくださり導いてくださる、そのたしかな関係がある、それが土台です。でもその関係は閉鎖的なもの排他的なものではなく、他者へと広がっていくものです。もし他者へ広がって行かないのではあれば、神とあなたの関係は健やかではないと言えます。神とわたしたちの関係が健やかであれば、自然な形で、私たちは私たちの受けた愛や恵みを誰かに伝えたいと純粋に願います。宣教はその願いに立っています。その願いに立つ時、さきほど申し上げましたように、自分が偉い者であるかのように高みに立って、神のことを教えてあげよう、キリストのことを解き明かしてあげようなどとは思えないのです。
<すべての人の奴隷>
パウロは今日、お読みいただいた聖書箇所の最初のところで「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」と語っています。パウロは大宣教者でありました。そのパウロは、自分の宣教者としてのスキルや名声で伝道をしていたわけではありませんでした。できるだけ多くの人を得るため、つまりできるだけ多くの人にイエス・キリストを伝えるために「すべての人の奴隷」になったというのです。
これはかなり大胆な言葉です。少し前の聖書箇所で、偶像に備えられた肉を食べる食べないという論争が教会であることに対して、神学的には偶像に備えられた肉を食べても問題はないけれど、まだ神学的理解の浅い人々が傷つかないように、自分は肉を食べる権利を放棄するとパウロは語っていました。宣教をすることや、信仰者の信仰を養うために、自分のやり方や考えを相手に押し付けるのではなく、むしろ相手の気持ちや立場を重んじていきたい、そのためには自分の自由を放棄する、相手に対して奴隷になるのだとパウロは語っています。
ただ、これはなんでもかんでも相手に合わせるというのではありません。根本的なキリスト教の教理の土台に立った、教会の秩序のなかでの話です。教理や秩序を度外視して、なんでも相手に合わせるとか、教会を無秩序にするということとは別の次元の話です。たとえばパウロは、偶像に備えられた肉を食べたくないという人たちのために自分も肉を食べないと言っていましたが、律法の問題と絡んで、ペトロが異邦人と食事を共にしなくなったことには大変腹を立てて、先輩の伝道者であるペトロを批判しています。けっして何でもありではないのです。そもそも、何でもありで相手に迎合することは楽なことです。しかしむしろパウロが選んだのは困難な道です。
パウロはいまだに律法に支配されているユダヤ人を愚かだと見下すのではなく、その人の立場に立って宣教をし、律法を持たない人に対してはその相手にふさわしく宣教をすると言っています。これはなかなか難しいことです。現代でも教会はそれぞれの教会のカラーを持っています。和やかな庶民的な教会もあれば、知的な固い雰囲気の教会もあります。良くも悪くも教会は、一定の雰囲気をもっていて、そこにはだいたい同じような人々が集まりやすくなります。教会が多様性を持つことは現代でも難しいのです。ある一定の範囲の人々の中での方が話が通じやすく、福音を伝えやすいのです。しかし、パウロは、どのような人にでも自分は宣教をしたい、ユダヤ人にも異邦人にも、弱い人にも強い人にもイエス・キリストを宣べ伝えたい、そう願ったのです。ですからパウロの開拓した教会には実際、ユダヤ人も異邦人もいました。社会的な身分も、王族から奴隷までいたのです。そのためにパウロは自分の家柄とか、学識とか、経歴とか、やり方、考え方に固執しないで相手の奴隷になってきたのです。一人でも多くの魂を救いたいという思い、つまり愛のゆえに、自分のやり方、自由を手放すと言っているのです。さきほど、宣教の根源にあるのは愛だと申しましたが、その方法論においても、パウロは相手への愛を貫いたのです。
<朽ちぬ冠を得るために>
パウロは自分の宣教の働きをよく。走ること、競技にたとえて語っています。今日の聖書箇所でも、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」コリントはオリンピック発祥の地であるギリシャにあり、特に古代オリンピックが行われたオリンピアとコリントは同じ地区にあったことから陸上競技はコリントの人々に親しいものでした。ですからパウロも比喩として走ることを用いたようです。
賞を受けるのは一人だけだとパウロは言います。賞を受けるように信仰の道を走りなさいとパウロは語っています。オリンピアの競技場を走る選手のように走りなさいということですが、それは信仰の道で救われるのは一人だけだということではありません。他の人を蹴落として走りなさいということでもありません。あくまでも比喩として賞を受けるように走りなさいとパウロは語っているのです。
何回かお話をしましたが、私はかじる程度ではありましたが、マラソンをしていたことがあります。私は市民マラソンの大会に出ても制限時間ぎりぎりで完走できるかできないかのレベルでしたが、アマチュアでもそれなりのレベルの人は、練習の仕方はもとより、普段の食事などもかなりコントロールして、体を作り、いよいよ大会直前になるとカーボローディングといって炭水化物を摂取したりして、大会に備えます。大会の上位クラスに入る人は、体つきからまったく違っていました。
マラソンに限らず、なにごとかを為そうとしたら、やはりその目的に向かって努力をします。今話題の大谷選手もそうでしょうし、天才と言われるような並外れた才能を持っている人であっても継続的に力を出そうと思ったら、やはり、努力をするのです。「競技をする人は皆、すべてに節制します」とパウロは語っています。この世の様々な分野においてもそうですし、信仰の道もまた同様なのです。
ただここで勘違いしてはいけないのですが、節制し努力したから、私たちは救われたり、天国に行けるというのではありません。それでは福音ではありません。節制して時間を作って、熱心に祈ったり奉仕をしたら救われるというのであればイエス・キリストの十字架は意味がないことになります。私たちは福音によって、つまりイエス・キリストの十字架によってすでに救われています。救われた者は、最初に申しましたようにイエス・キリストの弟子として歩みます。弟子ですから、キリストに倣い、キリストの御跡をついていきます。主イエスご自身が、神であられながら従順にへりくだり、まさに奴隷のように人々に仕えられ地上を歩まれました。節制をして歩まれました。そして、ついには私たちの救いのために十字架におかかりになりました。ですから私たちも節制をするのです。キリストに倣って節制をするのです。
信仰における節制とは単に禁欲的に生きるとか、他のことは求めずしゃにむに宣教をするということではありません。一番大事なことに集中していくことです。神に従うことに集中していくことが信仰における節制です。私たちの日々にはさまざまなことがあります。為すべきことが山ほどあります。その中で神の事柄を一番大事なこととして生きていくことが節制です。現実的な時間配分では、さまざまな他のやらねばならないことがあるでしょう。でも一番大事なことを見失わずに生きることが節制です。
一番大事なことに照準を合わせて生きていくとき、私たちはいっそう自由になります。やらねばならないこと、解決せねばならないことが山ほどあったとしても、私たちはキリストにあって自由なのです。節制というと禁欲的な苦しいことのようですが信仰における節制はむしろ喜びと自由をもたらします。そしてその喜びと自由の先に、この世ではけっして得られない朽ちない冠が与えられます。オリンピアでは勝利者に月桂冠が与えられました。月桂樹で編まれた月桂冠は神聖なものと考えられていました。賞金を得る競技より月桂冠を得る競技の方が神聖で格が上と考えられていました。しかしその月桂冠も朽ちるものです。この世のどのような誉れもやがて朽ちます。しかし神からいただく賞はけっして朽ちることはありません。私たちは朽ちない冠を目指して信仰を走りぬきます。
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