大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年11月15日主日礼拝説教マタイによる福音書14章1~12節

2015-11-20 17:37:50 | マタイによる福音書

説教「悪人は栄える」吉浦玲子

 数年前、大阪城三時間ランという三時間ひたすら大阪城の周りを走り続けるというイベントに出たことがあります。三時間、ただひたすら、ぐるぐるぐるぐる天守閣の周りを走りました。一周二キロ弱だったように思います。私は遅いので、三時間で20キロちょっとしか走れなかったですが、ゴール地点に時間が表示されてて三時間間際になると、最後の一周と表示されます。すると、それまでよろよろ走っていたのが、最後の一周となると、急に力が出てきて、さっきまで足が痛い、腰も痛いと思っていたのに、しっかりと走れるようになります。

 たとえば山登りなどでも、途中しんどくても、あと少しで頂上ということがわかると元気が出るのではないでしょうか?

 また、たとえば、海で漂流したことはないですが、何日も何日もただ海原が見えるだけということが続いた後、だれかが、遠くに遠くにちいさく陸地があるのを望遠鏡で見つけたとします。そしてその陸地を見つけた人が「陸が見えたぞ!」と叫ぶその声で、他の漂流していた人、その人たちにはまだ陸の陰も見えませんが、「陸が見えたぞ」という言葉だけで、その人たちは元気になるのではないでしょうか。

 ところで、洗礼者ヨハネという存在は、少し分かりにくい存在でもあります。イエス・キリストが来られることを、先だって伝えた存在、主イエスの道備えをした人ですが、なぜ神の御子であるイエス・キリストが来られることを前もって指し示さないといけないのでしょうか?偉大な神の御子が来られるのですから、人間の前座みたいな存在なんていらないようにも感じます。しかし、洗礼者ヨハネが旧約聖書にも記されている存在であり、来るべき方の道備えをする役割を与えられたのには、やはり意味があるのです。

 それは、人間の罪があまりにも深かったからだと思います。この世界があまりにも混沌として救いようがない状態だったからだと思います。すぐる週、フランスで同時多発テロがありました。痛ましいことです。もちろんテロはあってはならぬことです。しかし、世界では、世界中の注目を集めるテロの被害の何倍もの規模で、多くの人々が注目されることなく殺されています。銃で、空爆で、先進国の身勝手な環境破壊による飢饉で、おびただしい人々が毎日亡くなっていきます。

 そして、主イエスが来られた2000年前も、やはり変わらぬ、暗澹とした世界だったのです。

 人々は打ちひしがれていました。どこまでもつづく闇のような世界だったと思います。ですから指し示すことが必要だったのでしょう。漂流していて、もうどこへ向かっているかもわからぬ人々へ「陸は近い、あっちだ」と指し示すように、洗礼者ヨハネは、「神の国は近い」「夜明けは近い」ということを示すために、立てられたのでしょう。神の国の方向へ、光の方向へ指し示す指として、また声として彼は立てられたのでしょう。神の国は近い、その指し示す声を聞いた時、深い深い闇の中にいた人々は、はじめて夜明けを待ち望むことができるようになったのです。それまでは希望を持つこともできないくらい混沌とした闇の中にいた人たちがヨハネの指し示す方向を向くことができた、神の国の到来を待ち望むことができたのです。

 疲れていた足でまた走りだしたり、疲れ切っていたのにふたたび山に登ったりできるように、そして、さまよっていた海のうえで陸に向かって新しく漕ぎ出すことができるように。

 その偉大な役割を担った洗礼者ヨハネの最期はあまりにも無残でした。まだ、戦いの末に殺される、あるいは殉教者として刑に処せされて殺されるというのであれば、それも無残ではありますが、まだ少しだけ納得できるかもしれません。

 しかし、本日お読みいただいたように、洗礼者ヨハネは、殉教というにはあまりにも痛ましい、宴会の席での余興の一つとして殺されたのです。首が切られ盆に載せられるという猟奇的な場面でもあり、衝撃的な状況です。この場面は、絵画や文学、戯曲などにも多く描かれています。

 ところで、このことを命じたヘロデは、主イエスがお生まれになったときイスラエルの王であったヘロデ王の子供です。ヘロデ王は、クリスマスの出来事の中で良く語られる三賢人と会った王であり、幼い子供たちを虐殺したとされる王です。その王の子供ヘロデ・アンティパスは父のヘロデ王と違い、ローマ帝国から王と名乗ることをゆるされていませんでした。他の兄弟と共に、ヘロデ王の領地を四つに分割されたもののうちのひとつ、ガリラヤを含む地域を治めるにすぎない小さな領主でした。つまり四分割された地域の領主、四分封領主だったのです。ですから新共同訳聖書には領主と書いてありますが、原語では四分封という言葉で記されています。

 この四分封領主ヘロデは異母兄弟の妻を自分の妻としていました。まだ夫であった兄弟は生きていたのに、妻ヘロディアはヘロデ・アンティパスと勝手に結婚したのです。これは当時の律法からいうと姦淫の罪に当たります。その姦淫について、洗礼者ヨハネが指摘したので、そのことを口実にヘロデは洗礼者ヨハネを牢につないでいました。しかし、調べてみますと、ヘロデ・アンティパス自体は必ずしも、洗礼者ヨハネを嫌ってはいなかったようです。実際、マルコによる福音書にはこの場面はもっと詳細に記されています。そちらには領主ヘロデは洗礼者ヨハネの話を喜んで聞き、保護していたとも記されています。本日、お読みしたマタイによる福音書の箇所にはヘロデは民衆を恐れてヨハネを殺せなかったと記されています。ヘロデの中には、おそらくヨハネが偉大な人物だという意識はあったのです。恐れつつ関心があったのでしょう。しかし、それゆえに逆に自分の罪を指摘されて、憎しみを持ったかもしれません。しかしまた、それでもなお、ヨハネの影響力を恐れてもいたのです。

 妻のヘロディアは自分たちの結婚に意見をするこの洗礼者ヨハネを恨んでいました。そしてヨハネを殺すチャンスをうかがっていたのです。そのチャンスが巡ってきたのがヘロデの誕生日の宴会の席でした。ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ったと書かれています。この娘の名は歴史家の記録によるとサロメでした。サロメと題された絵画などを見ると、この娘はかなりセクシーに描かれている場合もあります。サロメの洗礼者ヨハネへの歪んだ愛といった描かれ方をしている芸術作品もあります。

 しかし、聖書ではこの娘サロメの意思というより母であるヘロディアの意思によって洗礼者ヨハネが殺されたことが分かります。

 聖書にはこのような男性を悪へといざなう女性が、ときどき出てきます。アダムとエバのエバもそうです。食べてはならないと言われていた実を自分も食べアダムにも食べさせます。あるいは預言者エリヤを苦しめたアハブ王の妻イゼベルもそうです。極悪で冷血な女性でした。しかし、今日の聖書箇所では、注目すべきはヘロデ・アンティパスです。まんまとヘロディアの策略にかかってしまうのですが、彼自身は権力を持っていたのです。洗礼者ヨハネを守る力を持っていたのです。しかし、彼はそうしなかったのです。「誓ったことではあるし、客の手前」とあります。彼は権力者でありながら恐れていたのです。何を恐れていたかというと人間を恐れていたのです。彼には神への恐れはなかったのです。ですから、彼は神に頼れなかった。つまり彼には本当のところ、頼るべきものがなかったのです。神を恐れない人間は、人間を恐れるのです。自分の対面、立場が脅かされることを恐れるのです。もちろん世のなかには神も人をも恐れないという人もいますが、そういう人は裁きの日に初めて恐れを知ることになるでしょう。

 人間を恐れた人といえば、主イエスを十字架刑にすることをゆるしたポンテオ・ピラトもそうでした。彼は、主イエスに罪はないことがわかっていました。ユダヤの権力者たちがねたみのために主イエスを殺そうとしていることも知っていました。そして、ポンテオ・ピラトは主イエスを解放しようともしたのです。しかし、最終的には「十字架に付けろ」という民衆の声に怯えたのです。人間を恐れ、自分の立場を失うことを恐れ、ポンテ・オピラトは主イエスを十字架につけることをゆるしました。

 ヘロデにしてもポンテオ・ピラトにしても、あからさまに最初から洗礼者ヨハネや、主イエスを迫害した人間ではなかったのです。むしろ、ある部分、冷静に判断はできていたのです。しかし、神への恐れという根源的なよるべきところを持たない人間は、目の前に起こる出来事にただ流され、怯え、結果的に大きな過ちを犯してしまうのです。そしてまたヘロデにしてもポンテオ・ピラトしても権力者の罪ということもあります。それは特別な地位を与えられている人間の果たすべき責務に背いているという罪でもあります。しかし、その罪の根源になるのはやはり恐れなのです。

 今日の洗礼者ヨハネの死は、奇くしくも、イエス・キリストの死の先駆けとなるものでもありました。人間の罪によって、洗礼者ヨハネは殺され、また主イエスもまた十字架に付けられました。ヨハネだけではありません、旧約聖書の時代から、神の言葉を預かり、神の言葉を伝えた預言者たちもまた多く非業の最期をとげました。神を恐れない人間は、神の言葉を伝える人々を殺し、さらには神の御子まで殺してしまうのです。

 それにしても、今日の聖書箇所を読みますと暗澹とします。

 なにか救いがないようにも思えます。ヨハネほどの人物、高潔で禁欲的で、主イエスに洗礼を授け、主イエスの道を備えたヨハネが宴会の席の余興のざれごとのために殺されてしまうというのは、とても不条理なことです。

 このような不条理は現代においても多く転がっています。

 事件や事故、自然災害ということだけではありません。精一杯がんばって苦労して生活をしてきて、それが報われたようには見えない形で、地上での人生を終えるということは少なくありません。徒労の繰り返しのように見えることがらがこの世界にはたくさんあります。

 この地上での生涯だけを見るならば、人生そのものが徒労とすらいえるようにも感じられるかも知れません。あるいは、悔いのないように頑張った、ささやかな満足と感謝を持って去っていく人も、やがて忘れられていきます。その人を知っていた人もやがてこの地上を去ります。結局、何も残らないではないか、そういう話になります。

 ところで、ヨハネの弟子達はこのことを主イエスに報告したとあります。そもそも主イエスの宣教はマタイ4:12に記されているように、洗礼者ヨハネが捕らえられたときからはじまりました。洗礼者ヨハネの活動と主イエスの宣教は連動していると言っていいでしょう。主イエスは洗礼者ヨハネの死後、みずからが十字架にかかることを弟子達にあかしながら、宣教活動を続けられます。洗礼者ヨハネの死の前まではまだ天の国の到来を主として語られていましたが、こののちは、自らの死と復活を語り始められます。

 そういう意味でヨハネの死は主イエスの働きのひとつの道しるべとなったのです。

 そしてその道しるべの先に主イエスの十字架がありました。そしてその十字架は、十字架の死だけをみたら、むごたらしい、恥にまみれた死以外の何物でもありません。

 しかし、その先に復活があるのです。

 復活を、主イエスの死を嘆き悲しんだ人間の作り話だという人もいます。教会の創作だという人もいます。実際、復活を科学的に証明することはできません。

 しかし、2000年にわたり、おびただしい主イエスの証人が、あかしびとが、主イエスの死と復活の希望を証してきました。そしてそれこそが教会の働きでした。こんにちなお、世界中で主イエスの死と復活の希望のあかしびとは起こされています。

 わたしたちの人生が死で終わるならば、この世界の力を恐れ、なるべく平安に、無事に生きることを願いながら、怯えつつ生きるしかありません。権力を持っても、結局は、ヘロデやピラトのように恐れの中に生きるしかありません。今日の聖書箇所の最初のところに、人々が主イエスのことをヨハネが生き還ったのだと言っているというのを家来から聞く場面があります。そこから実際にヘロデがヨハネを殺したときの状況にさかのぼってこの章は記されているわけですが、おそらくヘロデは民衆の言葉を知って怯えたと思います。自分がヨハネを殺してしまったことへの罪悪感の裏返しでひどく恐れを持ったと思います。マルコによる福音書ではヘロデ自身が主イエスをヘロデの生き返りと考える場面が出てきます。神を知らぬ人間は、神を知ろうとしない人間は、恐れのゆえに罪を犯し、そのみずからの罪のゆえに、さらに恐れる者、怯える者となるのです。その恐れの循環を絶たない限り、つまり神の前に悔い改め、神を知る者とならぬ限り、けっして平安を得ることはありません。

 神を知る者には、そして神を畏れる者には平安があります。神を知る者は主イエスの業を知っています。主イエスのゆえに、死を越えたとこしえの命に生かされている、そのことを聖霊によって、信じさせていただく時、私たちは恐れを乗り越えることができます。それはやせ我慢ではありません。むやみやたらと怖いもの知らずになるのでもありません。

 ただ神のご支配の中に生かされていることを信じ、そこに平安をいただきます。目に見える状況は暗くとも、不条理であろうとも、なおそこに働いてくださる神の業を信じることができます。神のなさることに無駄はなく、それゆえに私たちの日々には徒労はありません。遠回りなようでも、結果が出ないように見えても、そこに注がれている恵みがあります。

 神のなさることは絶望で終わるものではありません。ヨハネの死も、主イエスの道しるべとなり、主イエスの十字架への道を整えました。その道はすべての人間にとっての希望の道です。夜明け前の暗い海で、まだ見えぬ陸地へと、かならず導いてくださる、恐れから解放してくださる、救いの道です。それが神のご計画です。ヨハネもそのご計画の中にありました。おおいなる喜びの計画の中にありました。私たちもまたそのご計画の中にあるのです。


2015年11月8日マタイによる福音書13章53-58節

2015-11-13 10:55:29 | マタイによる福音書

説教「奇跡のみなもと」 吉浦玲子

 主イエスは神であり、そしてまた人間であるということがらは、本来、人間には理解できることがらではありません。しかしながら、聖書の信仰はイエス・キリストをどのように理解するか、その一点によって立っているといってよいのです。完全な人間であり、また完全な神であるイエス・キリストという理解がなければ、聖書に記されている信仰のことがらを正しく読んでいくことはできません。

 2000年前に現れたイエスという立派な指導者の教えを守りましょうというのがキリスト教ではないのです。主イエスが神から遣わされた御子であること、つまりまさに三位一体の神であること、そのお方が地上に遣わされ、人間として生きられた。その地上にある時も、神の業をなされたのだということを信じる、それを受け入れることが信仰の本質であり、聖書の信仰です。実際、ここを誤って考える人々は初代教会の時代から多くいたのです。イエス・キリストは人間ではなかった、つまり神の性質しかもっていなかったと考える人々もいれば、逆に、特別な人ではあったが人間であったと考える人々もいました。洗礼者ヨハネに洗礼を受けた時から神の性質をもち、十字架にかかる直前に神のご性質は飛び去ったのだと考えをする人々もいました。

 このようにキリストをどうとらえるか、そこにこそ、聖書の信仰の基本はあり、しかしながらそこにこそ、理解していくことの困難があります。その困難を最初に体験した人々が、たくさん、新約聖書に出てきます。良く出てくるのはファリサイ派とか律法学者といわれる人たちです。彼らは聖書の専門家であったのですが、その中の多くの人々は、目の前に、生きて神の業をなさる主イエスを見ても、それが神の業であるとは理解できませんでした。

 今日の聖書箇所に出てくるのは、主イエスご自身の故郷ナザレの人々です。彼らは良くも悪くもエリート意識を持っていた律法学者とは違い、素朴な人々ではあったと思います。しかし、なお、その人々もまた主イエスを理解できなかったのです。

 彼らは現実にその耳で主イエスの驚くべき教えを聞いたのです。実際、彼らは「会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。」と記されているように、その主イエスの言葉に驚いたのです。たいへんびっくりしたのです。この驚くという言葉はひどく驚くという意味です。あっけにとられるくらいに驚いたのです。主イエスは他の地方で語られたと同じように、驚くべき教えをナザレでも語られたのです。主イエスが到来されるまではこの地上において語られたことのない言葉を、そこで人々は聞いたのです。旧約聖書の時代から約束されていた天の国がいままさに開かれている、そして律法が成就される、その驚くべき言葉を彼らは聞いたのです。「悔い改めよ、天の国はちかづいた」その喜びの知らせを聞いたのです。また山上の説教で語られたようなこれまで聞いたことのない教えを聞いたのです。しかし彼らは悔い改めず、天の国の福音を理解するにはいたりませんでした。

 「この人は大工の息子ではないか」と彼らは言うのです。

 だれでも、自分の幼いころのことを知っている人たちの前に出ると気恥ずかしいというのがあります。小さい頃、あんないたずらをしていた、おねしょをしていた、ああいうことをして叱られて泣いていた、、そんなことを知っている人たちの前では、成人してそれなりに一人前になっていたとしても、いたずらしてた誰それ、泣きべそだった誰それ、という印象で見られてしまいます。

 しかし、親近感や善意から出たものであったとしても、人間が子供のころのことや、その出自のことで、のちのちもなにか色眼鏡で見られるということと、主イエスが故郷で敬われなかったということは、似ているようで、本質的には違う話なのです。いやむしろ、主イエスが普通に律法の立派な先生になって故郷に帰って来たのなら、故郷の人々は「あの大工のせがれが立派になった」と歓迎したでしょう。多少、子供のころあんなことしてたのに、と茶化されたりはしても、57節にあるように「つまづく」ということにはならなかったでしょう。

 主イエスは、ただ立派な人として故郷に戻って来られたわけではなかったのです。特別な権能を神から授かった者としてのお姿をあきらかにされた、そこに人々はつまづいたのです。

 単に奇跡を起こしてたくさんの人の病を癒された人であれば感謝されたでしょう。しかし、主イエスのなさったことは、それ以上のことでした。そこには神の業があったのです。そしてまたその教えも神の権威によりなされていたのです。律法学者のように聖書を研究してそれを説明したわけではなかったのです。主イエスの語る言葉は、人間の言葉でありながら、同時にそれは神の言葉でありました。そこに人々はつまづきました。人間の業以上のものがあることを、人々は理解できなかったのです。彼らは「このような知恵と奇跡をどこから得たのだろう。」と不思議に思います。たしかに彼らは人間の業以上のものを見たのです。しかし、それがどこから得られたものなのか彼らは分からなかった。

 いつの時代にも奇跡的なことを起こす人はあります。主イエスの時代もあったのです。しかし、その力のみなもとがどこであるか、その知恵と奇跡がどこから来たのかというとき、他の奇跡的なことを行う人々と主イエスは違ったのです。人間の特殊な能力によるものではなく、その知恵や力は神から来たものであった、そのことが彼らには分からなかったのです。

 しかし、そのことを分かることが、一番大事でした。その力が、奇跡の源がどこから来たのかが、それが最も大事なことでした。もっとも、ナザレ以外の場所でも多くの人々は主イエスを理解できませんでした。

 しかし、故郷では一層理解されませんでした。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」とイエス様はおっしゃっています。それはなぜでしょうか?

 故郷の人々は誰よりも、自分たちは主イエスのことを理解していると考えていたと思います。自分たちこそが、主イエスのことを知っていると考えていたでしょう。子供のころから知っている、小さい時はどんなふうだった、彼が少年のときこういうことがあった。自分たちは主イエスについて全部知っている、そう思っていました。そして、彼らは自分たちが新たに知るべきことがあるとは考えなかったのです。その言葉を聞いても、奇跡の業を見ても、それがほんとうは自分たちの命に関わる、救いに関わる、驚くべきことであることを気付けなかったのです。

 ルカによる福音書(4章)には同じ場面が、もう少し違う角度で記されています。こちらでは、主イエスご自身が過激な発言をされています。要約しますとこちらではイエス様は人々に、「あなたがたは自分たちこそが救われると思っている、しかしそうではない、天の国のことがらは、あなたたちではなく、異邦人のもとにいくのだ」ということを、エリヤやエリシャの例をとって、おっしゃっているのです。これは律法学者でなくても、ごく素朴なイスラエルの民であっても、激怒するような言葉です。神に選ばれ救いを約束された民であると自分たちのことを考え、一方で異邦人を汚れた人々、神から遠い人々と見下げていた人々にとって、異邦人の方へ救いが行くのだということは赦しがたいことでした。そこで主イエスはたいへんな怒りを買うのです。

 マタイやマルコによる福音書ではそのような記述はありません。ルカによる福音書のような、主イエスが人々を煽るような、あえて怒りを助長するような言葉を語られたという記述があれば、この場面は少し理解がしやすいかもしれません、しかし、本日お読みしていますマタイによる福音書にはそのような記述はありません。しかし、マタイによる福音書の著者はそのような主イエスの過激な発言がなくても、やはり人間は、特に故郷の人々には、主イエスの奇跡のみなもとを知ることは困難なのだということを伝えたかったのだと考えられます。

 ここで、読みとるべきことは、人々が、イエスさまの力の源を知る、そしてそこにこそ救いというものがあることを理解することはむずかしいということです。ルカのような過激な発言の記事はなくても、主イエスの故郷の人々が、自分たちこそ救われるのだと信じていたことは同様です。つまり、「悔い改めよ、天の国はちかづいた」その主イエスの宣教の言葉にある「悔い改めよ」ということを故郷の人々は受け入れなかったのです。その言葉を受け入れるには、大工のせがれの言葉ではなく、その言葉が神から来た言葉であることを理解する必要があったのです。聞いていた人々は人間的にはまじめで素朴な人々だったかもしれません。しかし、その心の中には、まことの悔い改めの思いはなかったのです。ですから神の言葉を語っておられる主イエスの言葉が、大工のせがれの言葉にしか聞こえなかったのです。その大工のせがれにすぎない奴がなにを権威のある言葉を語っているのか、人々はそこに不信感を持ったのです。理解が出来なかったのです。つまづいたのです。

 「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とあります。不信仰とありますが、信仰とは何でしょうか。それは立派なことをするとか、聖書の勉強をするとかということではありません。そういうことはもちろんやったらいいことですが、信仰の本質のところにあるものではありません。信仰は最初に申し上げましたように、主イエスを神であり人間であると信じるということです。主イエスの言葉を聞いて神の言葉と理解し、主イエスの業を神の業と信じるということが信仰です。言葉そのものは人間の言葉です。人間の言葉でなければ人間には理解できません。しかし同時に、その人間の言葉が、神から来たものであることを知らねばなりません。そして主イエスを主として、主イエスの前にひれ伏すということが信仰です。私たちが礼拝において告白しています使徒信条には「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に続いて、「われはその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」とあります。イエス様を「主」、わたしたちの主人、神、仰ぐべき方として信じている、と告白します。それが聖書の信仰です。

 もし主イエスの言葉を人間の言葉としか理解せず、大工のせがれだとしか理解せず、主イエスの業を人間の業としか理解しないのだったら主イエスの前にひれ伏すことはできないでしょう。「われらの主」とは言えないでしょう、それが不信仰です。その不信仰な人々には結局、神の業も神の業とは見えないのです。そのようななかで、主イエスはあまり奇跡をなさらなかったという結果になったのです。

 私たちもまた、聖書を読んで、これは昔の人が書いた立派な教えの本だとだけ理解しているのなら、それは本当の信仰ではありません。自分の身の回りに起こる神の導きを偶然とか、現実的な力の結果とだけ考えているなら、そこに神の奇跡は見えません。

 そのためには私たちは絶えず、自分が神の前で小さな者であることを覚えないといけません。私たちが絶えず貧しいもの、欠けたものであることを覚えないといけません。ナザレの人々のように主イエスの言葉を新しい言葉として必要としてないと考えてはならないのです。

 そしてもうひとつ重要なことは、今日の聖書箇所で「故郷」というのはどこかということです。聖書の見出しにはナザレと書いてありますが、聖書本文にはナザレとは記してありません。あえて故郷と書かれています。故郷とはどこでしょうか?もちろんそれはナザレでもありますが、ある神学者は、この故郷とはイエスさまが働かれるところだと語られていました。

 イエス様はどこでお働きになるのか?それは私たちの日々のなかです。

 私たちが生活をしているところ、慣れ親しんでいる場で、そこで主イエスは働かれるのです。どこかに特別に祭りたてて、特殊な場所で、イエスさまが働かれるのであれば、イエス様は故郷で働く方ではありません。教会に併設されている幼稚園の園長をされたある牧師がこうおっしゃっていました。キリスト教幼稚園では毎日礼拝をしていて、子供達も神様の話を聞いて讃美歌を歌っていたそうです。子供達にとって神様やイエス様というのはいつも聞いてる親しい存在だったようです。しかし、その幼稚園の園児たちが幼稚園から帰っていく時、何人かの子供たちがなんと言っているか聞いてその牧師はびっくりしたそうです。その子たちは、幼稚園の門を出る時、幼稚園の方を向いて「神様さようなら、また明日」「イエス様、バイバイ」と言って帰っていたそうです。

 神様は幼稚園のチャペルの中にいるように子供達は思っていたようです。イエスさまも幼稚園の中に住まわれていると考えていたようです。

 しかしそうではないのです。私たちが普段いるところに神はおられ、主イエスの力はそこにこそ及んでいます。礼拝が終わって、礼拝堂のほうを見て、「神様さようなら」「イエス様、また来週」ということでは、もちろんないのです。

 でも、それは逆に人間にとってどうでしょうか?自分の慣れ親しんだ領域に神様の支配が及ぶということは必ずしも嬉しくない部分もないでしょうか?それは、自分の普段いる場所で自分の好き勝手にはできないということです。どこか聖なる特別なところにだけイエス様はいてくださって、困った時に相談に行けた方が気軽ではないでしょうか?

 しかし、そうではないのです。イエス様は故郷でお語りになるのです。私たちの一番慣れ親しんでいる場所で共にいてくださるのです。でもそこからこそ、私たちは神を追い出したいという気持ちがあるのではないでしょうか?自分こそが自分の普段の生活の<あるじ>である、主イエスは特別な時の方であってほしい、つまり主イエスを、<普段の生活の主>として、<故郷での主>として認めたくないという気持ちがあるのではないでしょうか。それこそが罪なのです。人間は普通には、自分たちの故郷で神を迎えたくないのです。特別なところに神はいてほしいのです。故郷で主イエスを敬わない人間が、故郷から、つまり自分たちの日常から主イエスを追い出すために、最終的には十字架に主イエスをつけてしまったのです。

 しかし、逆にいえば、主イエスはいつも一緒にいてくださるのです。十字架にかかられることを御存じで、なお、わたしたちの日々に、故郷に来てくださったのです。いつも神の言葉を語りかけてくださるのです。主イエスこそ我らの主と告白し、ひれ伏すとき、故郷で共にいてくださる主イエスをまことに喜ぶことができます。聖霊によってそのことを信じさせて頂きます。主イエスの奇跡の源を信じることができます。そしてその時私たちの上にも、私たちの故郷にも、奇跡が起こります。

 


2015年11月1日マタイによる福音書13章31~35、44~52節

2015-11-03 16:00:50 | マタイによる福音書

「まことの財宝」 説教 吉浦玲子

 本日、11月1日は日本基督教団においては「聖徒の日」とされています。すでに地上の生を終えられた方々のために祈る日です。ですので、この日やこの日の前後に墓前礼拝や逝去者記念礼拝を行う教会も多くあります。教区での合同墓前礼拝もこの11月に行われます。

 11月1日は、もともとローマ・カトリック教会では「諸聖人」と定められていました。「万聖節」(ばんせいせつ)という呼び方を昔はしたようです。すべての聖人と殉教者を記念する日です。これはローマ・カトリック教会においては、現代も大事にされている祝日です。聖公会やギリシャ正教などでも大事にされています。プロテスタントにおいては聖人への崇拝は廃止されましたので「諸聖人の日」や「万世節」ということでは記念いたしません。しかし、さきほど申し上げましたように、日本基督教団においてはすでに地上を去られた方々を覚える日としています。

 ちなみに、この「諸聖人の日」は、ハロウィンと少し関係があります。今年はことにハロウィンは日本においても盛大に行われましたので、皆さんもあちこちでその起源を聞かれてご存知の方も多いと思います。もちろん現代のハロウィンそのものはキリスト教とは関係ありません。7世紀頃、それまで自然崇拝をしていたキルト人がキリスト教に改宗する過程において、もともとケルト人が「死者の日」、あるいは「収穫祭」として祝っていた日をローマカトリック教会が「諸聖人の日」として定めたといわれています。

 ちなみに「諸聖人の日」をハロウといいます。その「諸聖人の日」の前の晩が、ハロウ・イブ、10月31日がハロウ・イブですが、そのハロウ・イブがハロウィンになまったという説があります。ハロウ・イブの日に、もともとの民間信仰的なお祭りがおこなわれていたのがハロウィンの起源で、そのハロウ・イブがアメリカにわたり、もともとの宗教的意味合いはなくなって、民間イベントになったのが現在のアメリカや日本のハロウィンです。

 クリスチャンによっては、このハロウィンを徹底的に否定される方もおられます。ハロウィンの起源である10月31日の行事に、死者の訪問、日本で言うお盆のような意味合いがあったり、魔よけみたいなことがらがあるのでハロウィンを一種の異教信仰の現れと考えられるのです。悪魔崇拝だとおっしゃる方もおられます。しかし、先ほど申しましたように基本的には、現代のハロウィンにはもともとの宗教的な要素はなくなっています。ですので、なにがなんでもいけないとはいえません。節度を持って季節の行事として楽しむのは悪くないと思います。ただ、昨今の日本の、機動隊まで出動したというような悪ふざけの過ぎる過熱状態を見ていますと、やはり神とは遠いところにあるものだと感じます。私たちはとりあえずハロウィンはキリスト教とは関係はないということはしっかりと覚え、深入りはしない、ゾンビとかおばけとか自然崇拝の偶像とかそういうものをお祭り気分で、表に引き出すようなことは慎みたいと思います。

 さてハロウィンとは関係なく「聖徒の日」ということで申しますと、日本基督教団大阪教区の服部墓地には「我らの国籍は天に在り」というフィリピ3章20節の言葉が刻まれています。わたしたちは、この地上で国籍をもっていますが、それはひとときのことです。まことの国籍は天にある、わたしたちはキリスト者としてそのことを覚えます。先に地上を去った人々も、私たちも聖霊によって国籍を天に与えられます。キリストのゆえに、私たちは天に場所を準備していただきますし、まだ地上にある今も、キリストのゆえに信仰のゆえに、すでに天にむすばれています。わたしたちは先に地上での生を終えられた人々といまは相まみえることはかないませんが、やがて神がすべてを完成されるそのとき、復活の体をいただいて天において神の祝宴に連ねていただきます。わたしたちは先人との別れをもちろん悲しみますが、天への希望があるゆえ、いまこの地上にあっても、希望を持って歩むことができます。

 ではこの天とは何なのでしょうか?神のご支配されるところが天です。いわゆる一般的に言われている天国とは違います。死後の世界でもありません。神の支配のなかにあるところです、神の国といってもいいでしょう、その天について、主イエスは本日の聖書箇所で、さまざまにたとえ話によって語ってくださっています。

 からし種のたとえ、パン種のたとえ、そして畑の中の宝や真珠のたとえ。

 からし種やパン種のたとえは、小さなものと見えていたものが、とてつもなく大きくなる、天の国もそのようだと、天の国がやがて大きく広がるのだ、神の支配もそのようになるのだということをお語りになっています。畑の中の宝や真珠については天の国の価値がとてつもなく高価であることが語られています。いずれにしても、今現在は、はっきりとそのことを知ることができない、ということが共通点です。

 目の前にあるのは、小さな小さなからし種であり、パン種です。からし種はごらんになったことありますでしょうか?ほんとうに小さな種です。ゴマ粒よりも小さな小さな種です、そこから鳥が宿れるほどの大きな木が育つ、天の国もそのようだとおっしゃいます。パン種のたとえもとてつもないものです。1サトンは13リットルほどですから3サトンというと40リットル近い量の小麦粉が膨れるほどになるというのです。だいたい百人くらいが食べることのできるパンの量になるということです。神の支配はそれほどに広まっていくということです。しかし、そのパン種はわずかのものです。また一説にはイスラエルではモーセの出エジプトの時に種のないパンを食べたということから、お祭りのときなどには種を入れないパンを食べたのです。ですからここでいうパン種というのは、お祭りの時には顧みられない価値のないものというニュアンスもあったのではないかと言われます。その顧みられない無視されているパン種が豊かにパンを膨らませるということなのです。

 そしてまたからし種やパン種は主イエスのお働きをあらわしているとも考えられます。主イエスの働きは聖書で読みますとすばらしく大きなことのように感じます。しかし、当時の世界的規模から見ますと、イスラエルというパレスチナの一地域で、名もない男性が伝道をしたということであって、世界を揺るがすような大きな出来事ではなかったのです。当時の文献にかろうじてイエスという人間が実在したことを確認できる程度です。地理的にも歴史的にも、パン種のように小さなことであり、パン種のように取るに足らない出来事だったのです。しかし、その出来事は2000年の歴史の中でかき消えることなく、むしろ世界に広がっています。まさに多くの鳥が宿れるほどの木、大きなパンのように膨らんだのです。しかし、最初はだれの目にも小さなものだったのです。

 畑の中の宝にしても真珠にしても、まだその価値は公にはされていないのです。しかし、その価値を知っている人にしてみたら途方もない高価なものなのです。新共同訳では高価な真珠と書いてありますが、これは原語の意味では、とても高価な、というニュアンスになります、とても価値のあるとか、たいへんすばらしいという言葉です。美しい真珠と訳してある場合もあります。それほど価値のあるもの、ということです。

 このようにたとえられている天の国ですが、その価値は多くの人には気づかれていないのです。なぜはっきりと神はその価値をみんなにわかるようになさらないのでしょうか。それは少し前の礼拝でも申し上げましたように、神の真理は論理的には説明できないからです。ただイエス・キリストを通じて、イエス・キリストによってのみ知りうるからです。35節に「わたしは口を開いてたとえを用い/天地創造の時から隠されていたことを告げる」とあります。これは詩編78編からの引用です。まさにキリストご自身が、隠されていた宝としての神の国のことがらをたとえとして語ってくださっている、そのイエス・キリストの言葉に聞く時私たちは天について悟ることができます。

 しかし、一方で、私たちはその価値をどうしてもこの世的にとられてしまいがちなところがあります。

 たとえば、神様を信じて病気が治りました、奇跡的に傾いていた会社が持ち直しました、離散していた家族が和解しました、そういうことがあれば、なんとなくその価値がわかります。もちろん、実際、現実にそういうこともあるのです。しかし、天の国の価値はそのような現実的な価値にとどまらないのです。しかし、だからといって単に精神的なものというわけでもありません。<現世利益ではなく、心の平安が与えられるのだ>と、そういうところにとどまるのではありません。

 この世の価値では測れない価値を与えられるということです。そして、それはまさに他のすべてのものを売り払っても手に入れる価値があると主イエスはおっしゃっているのです。

 実際、すべてのものを天の国のために捨てた人たちがいます。主イエスの弟子達もそうでしたし、パウロをはじめ、最初の教会を支えた人々もそうでした。海を越えて、世界中に宣教の旅に出たおびただしい伝道者たちもそうでした。財産をうちすて、すべてをすてて主イエスに従ったのです。それは修行とか徳を積むための訓練のためではなく、すべてを捨ててもなお余りある喜びがあったからです。天の国の価値を知っていたからです。

 以前にもお話ししましたが、ある方は家を建てたばかりで3800万の住宅ローン残高があり、学校に通っているお子さんが3人ある状態で牧師になるために仕事を辞めて献身されました。畑の中に宝を見つけたからです。かけがえのない真珠を見つけたからです。弟子達のように、パウロのように、2000年にわたってそれぞれに時代に生きた伝道者たちのように。

 その宝は、具体的には、主イエスという宝です。自分のために死んでくださる主イエスというとてつもない宝を見つけたからです。自分の命を投げ捨て、私たちに新しい命をあたえてくださる方、とこしえの命を与えてくださる方、天の父のもとに場所を用意してくださるお方を宝として見つけたからです。

 この大阪東教会の先人たちもそうです。へール宣教師をはじめ、主イエスという宝を見つけ、喜び、そのために身をささげてこられたおびただしい方々がおられました。大阪東教会130年史に名前が記載されている方も、また記載されていない多くの方々もキリストという宝を得てこの地上を生きぬかれました。

 しかし、一方で、130年史を手にとって読みます時、正直、わたしは自分にはこのような素晴らしい先人のような働きはできない、そう感じることがあります。

 みなさんもまた、ひょっとしたら、ご自身が先人たちと同じように働くことができるとは、献身できるとは思えない時も、おりになるのではないでしょうか。

 しかし、そんな私たちに主イエスは語られます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものとを取りだす一家の主人に似ている。」と。この言葉は弟子達に語られた言葉です。しかしまた、私たちにも語られた言葉です。

 ここで言われている学者は、聖書に精通した者という意味です。そしてすべての古いものから新しいものまでの知恵を自在に使いこなせるのだとおっしゃっています。学者というのはたしかにある学問分野のエキスパートですから、その分野においては精通しているわけです。

 またこれは、主イエスにおいて実現されるすべてのことが、けっして、新しいものだけではないということからも言われています。マタイによる福音書の第1章はアダムからイエスに至る系図でした。主イエスは、2000年前に、突然現れ、過去を否定して、まったく新しい教えを広められたわけではないのです。旧約聖書の成就として到来されました、そしてまた律法を完成させられました。

 そのことを踏まえて、古いことも新しいこともすべて自在に取り出せる主人のような学者だと主イエスはおっしゃっています。一般論として「学者は」、と学者の説明をしているようですが、弟子たちとの会話の中で、弟子達に向かって、主イエスは温かく「あなたたちは学者だ」とおっしゃっているニュアンスがあります。

 このとき弟子達はまだ主イエスのことをしっかりとは理解していませんでした。しかし、彼らは主イエスから「これらのことがみな分かったか」と聞かれて「わかりました」と答えています。でも、実際は、分かってはいなかったのです。しかし、そのような弟子達に主イエスは「天の国のことを学んだ学者は」と語りかけてくださっています。けっして学問があったわけでもない、主イエスの言葉の意味をしっかり理解していたわけでもない、そんな弟子達に、あなたたちは学者だとおっしゃられています。いま、わたしの言葉を聞いている、あなたたちはすでに学者だ、とおっしゃっています。

 わたしたちにもまた、古いものと新しいものを倉から取りだす主人のような学者だと主イエスはおっしゃっています。

 私たちはその主イエスによって成就され完成させられたものを倉から取りだし自在に使いこなせるのだと言われています。

 私たちは荒海を未知の大陸へと、東の果ての島国まで漕ぎ出していくわけでも、家を売り払うわけでもないかもしれません。しかしなお、キリストを信じ、いま、御言葉に聞いている、それはすでにキリストという宝を見つけているのだと主イエスはおっしゃっています。

 私たちは、その宝を見つけた者として、喜びながら生きていきます。とても陳腐なたとえになりますが、財布の中に1000円札だけがはいっているときと、一万円札がはいっているときでは気分が違いますね。実際に一万円を使わなくても、なんとなく気分が大きくなります。さらに百万円やら一千万円が入っていたらどうでしょうか。

 私たちはすでに信仰の財布の中にとてつもない大きな金額を得ているのです。そのことを信じて生きていくことが信仰生活です。そしてまた、その信じる生活の中に、ほんとうに宝が見えてきます。これまで見えていなかった豊かさや喜びが神によって与えられていることが見えてきます。

 私にはなにもできない、大きなことはできない、大したものではないと思うのではなく、すでに自分には宝が与えられていることを信じて生きていくとき、ほんとうに宝が見えてきます。既に自分に与えられている宝があることがわかります。そしてその宝にふさわしく生きていくことができます。そこに天につながる者の、天に国籍を持つ者のまことの豊かな生き方があります。