大阪東教会礼拝説教ブログ

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2016年6月12日主日礼拝説教 マタイによる福音書20章1~16節

2016-06-13 10:38:39 | マタイによる福音書

<十字架への歩みの中で>

 マタイによる福音書の19章からは、イエス様がいよいよエルサレムに向かって歩み始められたその流れの中での話が記されています。

 それは十字架への歩みです。主イエスはご自分がこれからエルサレムに向かう、そこで死ぬ、その覚悟をもってご自身の親しんだガリラヤ地方からユダヤの地へと歩みを進めておられます。19章の最初にそのように記述されています。そして今日の聖書箇所のすぐあとにも、主イエスは三度目の死と復活についての予告をなしておられます。主イエスにとって、ご自身に死が迫っていること、事態が切迫していることは明白なことでした。その危険な旅の途中で、なお主イエスは自分を尋ねてくる人々に、そして弟子たちに語り続けられました。天の国とは何か。神はどのようなお方か。熱心に語り続けられたのです。切迫した思いでお語りになったのです。

 先週お読みした箇所では金持ちの青年が登場しました。彼の、どうしたら天の国に入れるのかという問いに対して主イエスは「持ち物を全部売り払いなさい」とおっしゃいました。そして青年がそれをできずに悲しみながら去って行ったのち、「金持ちが天の国に入るよりらくだが針の穴をとおるほうが簡単である」と驚くようなことを主イエスはおっしゃいました。それに対して、弟子たちは、自分たちはすべてを捨ててあなたに従ったのだからどんなに素晴らしい報いを得られるのでしょうか?と主イエスに問いました。

 弟子たちはたしかにまじめに主イエスに従ってきたのです。彼らは決してこの世界での名誉や栄光を得たいと思っていたわけではありません。天の国に入りたいと切実に願っていました。しかし、彼らにとって天の国に入るということは、天の国に入ること自体の価値より、もっぱら天の国でどれほど報われるかという報酬への関心事があったのです。それは十字架への道を切迫した思いで歩んでおられる主イエスの思いとはかけ離れたことでした。それはとりもなおさず弟子たちがまだ神がどのようなお方か、また天の国とはなにかということがわかっていなかったからです。しかし主イエスはそんな彼らになお語り続けられます。それが今日のぶどう園のたとえ話です。

<神は不公平か>

 たとえ話としては、単純な話になります。ブドウ園の主人は夜明けと朝の九時、さらに12時と3時、その上、5時にも出かけて行って、労働者を雇います。「ぶどう園に行って働きなさい」と。

 そして、その労働者に支払われた賃金が、労働時間に比例せず、皆、同一だった、つまり1デナリオン、これは当時の標準的な1日の労働賃金だったのです。

 夜明けから働いていた者たちが不満を言います。

 「最後に来た連中は1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中を同じ扱いにするとは」

 この不満は常識的に考えればもっともなものです。

 これが企業が雇い入れた労働者への賃金の支払いであれば、たしかに不公平なものです。

 ここではこのぶどう園における主人が天の国におられる神に例えられています。では神様は不公平な方なのでしょうか?人間の常識から考えるとたしかに不公平な方です。愚かにすら感じられる方です。

 ところで、ある著名な歌人が10年ほど前に亡くなりました。わたしは直接には面識のない方です。仮にA先生としておきます。A先生は亡くなる少し前に、私が存じ上げているある牧師から病床洗礼を受けました。その洗礼を授けた牧師先生から直接その話を私は聞きました。私が短歌をやっていることをその先生はご存知でしたから私にその話をなさったのです。当時、私はその亡くなったA先生と、もともと深い関係があった、そして晩年は少し距離を置いていた別のある歌人を迎えての短歌の集会に出席していました。この別の歌人を仮にB先生としますがB先生はクリスチャンでした。B先生は親ごさんもクリスチャンでご自身も若い時に洗礼を受けて信仰者であったのです。当時、信仰歴50年くらいの方でした。そのB先生に、短歌の会の休憩時間に先般亡くなられたA先生が、亡くなられる直前に私の知っている牧師から病床洗礼を受けられたんですとお伝えしたら、たいへん驚いておられました。そして半ば冗談でこう言われたのです。「なんかずるいよね。僕なんて何十年もクリスチャンやってるのに、あの方は、死ぬちょっと前に洗礼受けて救われるなんて。なんだか少し悔しいなあ。」と苦笑しながらおっしゃいました。

 この悔しい気持ちはどうでしょうか?みなさんどうお感じになりますか?私などは遅くに洗礼を受けた者ですから、先に洗礼を受けた人から悔しがられても困るのですけど。一人一人それぞれに神の導きがあって、神ご自身がもっとも善き時に洗礼という道を備えてくださるので、若い時に洗礼を受けられることも、また、晩年に洗礼を受けられることも、それぞれに意味があると思います。もっとも、まあ最終的には洗礼を受けるけど、死ぬ前に受けたらいいやというのはまずいと思うのです。それは現時点での神の祝福を否定していることだからです。

 A先生の最晩年での受洗を「悔しい」と言ったB先生も、もちろんほんとうはわかっておられたのです。このぶどう園での労働者のように、長く働いた者も短く働いたものも変わりはない。神の祝福は受洗歴50年だろうが1か月だろうが変わらないことを。その祝福は神が与えられるもので人間がとやかく言うべきことではないことを。わかったうえで、少し冗談で言ってみられたのです。それにしても早く受洗しようがおそくしようがかわらない、それじゃあやはりなるべく短い受洗歴の方が、祝福が同じなら得なのか。効率がいいのか、繰り返しますが、それはそうではありません。

 神の祝福は、そもそも、そのような量的な換算はできないからです。

 かつて病を得た伝道者パウロが自分の身から病を取り去ってほしいと願いました。切実に願いました。伝道者であったパウロはもちろん健康な方がもっと伝道ができる、神への奉仕ができる、それゆえ、自らが癒されることを願いました。しかしそんなパウロに対して与えらえた神の言葉は「わたしの恵みはあなたに充分である」でした。

 神の恵みはいつも私にとって、この私にとって十分なのです。他の誰かと比べて多いとか少ないということではないのです。だれにとっても1デナリオン、適正な恵みなのです。

 ある人は健康で仕事にも恵まれている、ある人は病気がちで十分に働けない、ある人はもともと資産家の家に生まれた、ある人はとても貧しい家に生まれた、ある人は社交的にたくさんの友達がいる、ある人は人間関係が苦手で孤独である、さまざまに違いがあります。しかしなお神を信じるとき、その恵みは「あなたに充分」なのです。

<先の者があとになる>

 ところで、先週の聖書箇所で、どんな報いが自分たちにあるのかと聞いた弟子たちに主イエスは

「先にいる多くの者があとになり、後にいる多くの者が先になる」

とおっしゃいました。後の者が先になる、これは教会ではときどき使われる言葉です。

 本日の聖書箇所の最後でも、人間の目では先に来た者、夜明けから来た者より、もう日も暮れそうな時間帯にやって来た後の者が神の前では先になる、と主イエスは説明されています。

 自分たちの報いをイエス様に聞いた弟子たちもまた、自分たちは主イエスに忠実に従ってきた。他の人々より先に出しになった。だから他の人々より自分たちが上になるに違いないと感じていたと思います。しかし主イエスはおっしゃるのです。後の者が先になる、と。

 今日の労働者のたとえで言えば、ぶどう園の主人に不満を言っている者たちに対して、15節で主人はこう答えています。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか」

ねたむのかという言葉は、原語では、妬みの目を持つのか?ということになります。

最初に先にぶどう園に来た労働者は妬みの目をもって、後に来た労働者を見ていた、そのことにおいて、後の者になったのです。神の祝福から遅れてしまった。だれにも同じように神の豊かな祝福が与えられていた、そんななかで自分に与えられた祝福ではなく、他人のものをねたむ目でみた、そのことにおいて彼らは後の者とされたのです。

<神の主権>

そしてもうひとつここで考えないといけないことがあります。

「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか」

そうぶどう園の主人はいいます。

神の祝福は、神の自由において、神が与えられるものだということです。ある人にはこういう祝福が与えられ、別の人には与えられない。それを人間の側から抗議することはできないということです。それはまったく神の自由にまかされているということです。

こういうと何か私たちは神の不公平の前に立たされているような気もします。しかし、神の自由を侵す、神の判断を批判するということは、つまり神を信頼しないということです。神の判断より自分の判断の方が優れていると考えていることです。そこに私たちの罪があります。パウロに私の恵みはあなたに充分だとおっしゃった神、わたしたちにも十分な恵みをあたえてくださる神、その神に対して不公平だというとき、私たちは自分を神にしています。もちろん、神になぜですか?と問うことは赦されています。パウロも3回祈ったといっています。なぜ願っても叶えられないのか、なぜ私にはあれが与えれないのか、それは幾たびも神に問うていいことです。しかしなお、問いつつも、神に信頼する、神のご計画のなかに自分も置かれて祝福されていることを信頼する、その姿勢が大事です。

そして「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのかそれともわたしの気前良さをねたむのか」とぶどう園の主人がいう「気前良さ」というのは「良いこと」というニュアンスを持つ言葉です。先週お読みした聖書箇所に「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とありましたが、その「良い」という言葉です。そしてまた主イエスがお答えになった「良い方はお一人である」という「良い」でもあります。さらにこの言葉は「完全な」というニュアンスも持っています。

 神は気前よく、完全なのです。ですからここの主人の言葉は「私の完全さがあなたの目には妬ましく見えるのか?」となります。主イエスは神ご自身の完全さを妬みの目で見てはならないとおっしゃっています。神の完全さは人間には理解できないことです。人間には不公平に見えるのです、時として妬ましくすら思えるのです。

 人間には不公平に妬ましく思えようとも、しかし、神は愛において完全です。救いにおいて完全です。

 人間の考える効率とか、平等という概念を突き抜けて、神は愛において、救いにおいて完全なのです。その神の完全を人間はなかなか理解することができません。

<愛をもって呼ばれる方>

もう一度このたとえ話を読み返しますと、このぶどう園の主人は、主人でありながら、実に不可思議な行動をとっているのです。

主人自らが、夜明けから労働者を雇いに出かけて行っているのです。最初に申しましたように、9時、12時、3時、5時と、繰り返しこの主人は労働者に自ら声をかけ、ぶどう園で働くように導いています。

このぶどう園にほかに働く者がいなかったわけではないのです。最後に賃金を払うとき監督へと指示を出しています。ぶどう園には監督のほかにも主人のもとではたらく常勤のやとわれ人がいたと考えられます。しかし、主人は五回もでかけていき、労働者をぶどう園におくります。これは単に労働力が不足していたからではありません。連れてこられた労働者たちは、定職のない言ってみれば日雇い労働者だったのです。その日、仕事にあぶれたら、賃金がもらえない、そのような人々でした。仕事がなければ食べ物にもありつけない、自分の命をつないでいくことの難しい人々でした。その一人一人に主人は声をかけ、命をつなぐようにと計らったのです。3節に広場に何もしないで立っている人々に声をかけたということが書かれています。何もしないで立っていた人たちは、怠けてたっていたわけではありません。仕事がなかったからどうしようもなく何もしないで立っていたのです。不安のなかで虚しく立っていた人々です。その人々に主人は声をかけられた、そしてぶどう園に送り込まれた。命をつなぐようにと呼びかけられたのです。

マタイによる福音書9章36節に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。主イエスは本来神と共にあるべき人々が神から離れ、そのことのゆえに弱り、打ちひしがれているのを見て、憐れまれたのです。その憐みの思いのゆえに人々を救わずにはいられなかった、それは主イエスご自身の十字架への歩みにおいて現されたことであり、また父なる神のまことの愛の現れでもありました。今日のたとえ話の中の主人も、むなしく広場に立っている人々、雇ってくれる人のない弱り果てた人々を憐れみました。そのことのゆえにぶどう園へと彼らを送りました。弱り果てることなく、雇い主のもと、あなたの働きをなして報酬を得なさいと語りかけておられます。その憐みの思いは、非常識な行動を主人になさしめます。夕方近くにまで労働者を求めてこの主人は広場に行くのです。損をしたのは最初に来た労働者たちではないのです。一時間しか働くことができないことは最初からわかっていながら、なおその労働者を招き、賃金を支払ったこの主人です。しかしこの主人はそうせずにはいられなかった。愛があったからです。「わたしは最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」

だれもが救いにあずかるように、命にあずかるように、祝福にあずかるようにと神は呼びかけられます。その呼びかけにこそ、神の愛があります。そこにこそ神の愛の完全があるのです。

神は絶えず私たちを呼ばれます。仮に私たちが神の呼びかけに答えることがどれほど遅くとも、聞く耳を持っていなくとも、神は繰り返し私たちを呼ばれます。夜明け前にも、9時にも12時にも3時にも夕方近くにも。まだ救いからこぼれている者はいないか、命の道から離れている者はいないか、繰り返し繰り返し、呼びかけてくださるのです。それこそが神の気前のよさです。完全さです。

どんなに遅くなっても、その神の呼びかけに答えさえしたらよい。そのとき私たちは私たちに充分な恵みが与えられます。先の者とされるのです。

わたしたちもまた飼い主のもとに来なさいと呼ばれた羊です。ぶどう園に来なさいと呼びかけられた労働者です。かつて私たちは飼い主のない羊でした。しかし今はキリストに養われている羊です。すでに主イエスに呼ばれた者です。神の完全な愛のただなかにある者です。その愛のただなかに、キリストの新しい声をこの一週間も聞きます。