大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年12月6日主日礼拝説教 詩編51編

2015-12-08 18:45:04 | 詩編「

説教「新しい創造」吉浦玲子

 主イエスは、地上における歩みの中で、普通の人間と同様のさまざまな喜怒哀楽を味わわれました。共に親しい人と交わる喜びもあれば、裏切られる痛み悲しみも味わわれました。肉体的な飢えや乾き、衰弱も経験されました。神の御子でありながら人間と同じような経験をなさいました。ですから主イエスは私たちの痛みも苦しみもよくよくわかってくださる方だと私たちは信じています。

 しかし、受洗して間もないころでしたが、わたしはある時思ったのです。たしかに主イエスは一般の人間と同じように喜びも苦しみも悲しみも味わわれたかもしれません。でも、ひとつだけ味わっておられないことがある、と。それは罪を犯したことの後悔の念は味わっておられない、まったく罪を犯されなかったのですから、なんで自分はあんなことをしてしまったのかという後悔や、ああなんてことをしてしまったんだろうという自責の念はご存じないのではないか、そういう苦しみはご存じではないのではないか、そう考えました。

 人間の人生の中で、だれかのせいで自分が苦しみを受けるということももちろん耐えがたいのですが、自分自身が誤りを犯してしまう、場合によって人を傷つけてしまう。その自責の念、後悔、その苦しみも大きなものです。イエス様はそういう思いはご存じないのではないかと思いました。

 そのことを洗礼を授かった牧師にお聞きしましたら、「後悔という点ではそうかもしれないねと」おっしゃいました。「しかし、後悔というのは罪という本質的なものの影のようなものです。罪が神と切り離されるものであるなら、その結果の影のようなものの一つとして後悔や自責の念があるのだ」とおっしゃいました。主イエスは、十字架の上で、罪人として神と切り離されるという苦しみを受けられました。十字架の上で「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」と叫ばれた、神よどうしてお見捨てになったのかと主イエスは叫ばれました。これはまさに主イエスが罪の報いとして神と切り離されたときの言葉です。罪なきイエスが人間の罪を負って神に罰せられた、神から切り離されたのです。それこそが霊肉共に最大の苦痛なのです。ですから主イエスは罪に起因する苦しみをすべてお受けになったといえるのです。こういう話をいたしますと、いま待降節で、クリスマスの前の時期なのに、少し季節がずれているのではないか、なぜ罪とか後悔とか十字架の話をしているのかとお思いになるかもしれません。

 しかし、罪と十字架のことを抜きにしては、キリストの降誕の出来事はやはり語れないのです。

 本日、詩編51編をお読みしました。悔い改めの詩編として名高い詩編です。ダビデはイスラエルの歴代の王の中では、もっとも神に忠実に歩んだ王であったといえます。しかし、ダビデといえど人間ですから、どんなに神に忠実であったとしても、完全に罪なき人生を送ったわけではありません。大きな罪、小さな罪をいくつもやはり犯したのです。

 本日、お読みした詩編51編は、ダビデがその人生でもっとも大きな罪のひとつを犯した出来事に関わっています。1節にはバト・シェバの名前が見えます。長く教会に来られている方はこのバト・シェバの名前を良くご存知の方もおられるでしょう。バト・シェバはウリヤの妻でした。ウリヤはダビデの部下でした。ウリヤの妻であったにもかかわらずダビデはバト・シェバを自分のものとし、さらにバト・シェバが妊娠した後は策略を使ってウリヤを殺してしまいました。それは人間として赦しがたいことです。人間として赦しがたいことのみならず、権力者が権力を使って部下を殺してしまうという点に置いて、権力者の罪としても大きな出来事でした。その出来事を下敷きにして作られた詩編です。

 さきほども申し上げましたように、ダビデは歴代のイスラエルの王の中でもっとも神に忠実であったとされています。救い主はダビデの血筋から現れるというのも、ダビデという存在がとても大きなものであったことを示します。しかし、人の妻を盗みその夫を殺すような、そのような罪を犯すダビデが本当に神に忠実であったといえるのでしょうか。実際、あるクリスチャンの小説家は、このダビデの不倫と殺人の問題を考えると詩編51編なんて赦せないと、その著書の中に書いておられました。けがらわしい王の悔い改めの詩を良いとは到底思えないとその方はおっしゃっていました。

 しかし、その小説家がなんといおうとこの詩編51編は、詩編のなかで23編などと並んで、世界中で愛されているもののひとつです。多くの教会の礼拝で悔い改めの交読文として読まれることも多いのです。それは、この51編にはやはり神の前で赦しを求める人間のまことの姿が描かれているからです。

 サムエル記11章~12章にダビデとバト・シェバの顛末は出てきます。ウリヤを殺したあともダビデはその罪に気づいていませんでした。預言者ナタンに叱責されてはじめて気づいたのでした。サムエル記には、ナタンが裕福な男が貧しい男のたった一匹の羊を奪ったたとえ話をして、ダビデがウリヤの妻を奪いウリヤを殺したことの罪に気づかせた話が出ています。そして、ようやく自分の罪に気づいたダビデはこう言います。「わたしは主に罪を犯した。」と。

 ウリヤに罪を犯したとか、王としてあるまじき誤りを犯したというのではなく、神に罪を犯したとダビデは言っているのです。

 ちなみに日本であれば、大きな悪事がばれた場合、「世間をお騒がせしてしまった」とか「被害者に申し訳ない」ということが第一に出てくるでしょう。

 しかし、ダビデは、罪というものの本質を良く分かっていたのです。もちろんウリヤに対して、たしかにとりかえしのつかないことをしました。しかし、その罪の本質は、なにより神に刃向った、神と断絶をしたということです。ですからダビデは「わたしは主に罪を犯した」と言ったのです。

 主に罪を犯した、という言葉からも分かるように、神という絶対の存在がなければ、本質的に罪は存在しません。本質的な罪がなければ、バレさえしなければ何をしても良いということになります。せいぜい人間対人間が心地よく暮らせるように相互に欲望をコントロールしてルールを決めて生活をしていく、そのルールから逸脱したものを罰すればよい、そのようなことになります。しかし、聖書の言う罪はそうではありません。ダビデの認識した罪も第一に神に対しての罪でした。

 詩編51編6節に「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御眼に悪事と見られることをしました」とあります。神がなければ罪はないのです。罪がなければ人間だけが心地よく暮らせればよいのです。

 クリスマス商戦がたけなわのこの12月、多くの人はまことの神と神の御子のことを知らず過ごしておられます。もちろん神を知らなくても多くの人はそれぞれに良心に従って実直に誠実に、家族や友人を大事にして生きていかれています。神を知らなくとも人間として誠実に充実した日々を送ることは可能のように見えます。私自身、人生の大半をそのようにして過ごして来ました。

 しかし、罪という問題を本当に解決しなければ、私たちはまことの平安を得ることができないのです。それをこの詩編51編は教えてくれています。ダビデはたいへん力のある王でしたからバト・シェバのことでただちに失脚するようなことはなかったでしょう。しかし、ダビデは悔い改めました。それは罪というものを抱えては人間は本来は健やかに生きていけないからです。神と断絶したままで、まことに生きていくことはできないことをダビデは知っていたのです。

 殺人というような犯罪を多くの人は犯しません。しかし、言葉で人の心を殺すことはあります。痛めつけることはあります。社会的に、抹殺することもできます。普段の付き合いの中でシカトすることもできます。一方で、心の中で姦淫をすることもあります。よからぬことを考えることがあります。私たちは、日々、神に背き、神を悲しませる罪を犯します。その罪をそのままにしているとき私たちの日々はまことの健やかさを得ることはできません。澱のように罪は沈殿していき、私たちを苦しみの中へいざなっていきます。最初に申しました後悔や自責の念が私たちを苦しめます。

 しかし、その罪を神の前に告白する時、私たちは新しく神との関係をやり直すことができます。キリストのゆえに私たちはその罪を払ってもらえます。ヒソプの枝ではらっていただき、私たちはきよいものとされます。キリストのゆえに私たちは自らの咎をぬぐわれ、神はそんな私たちの罪をご覧になりません。

 罪、罪というと心が暗くなるような気がしますが、本当に罪を神の前に告白する時、それはむしろ神の恵みを体験する出来事となります。最初に言いました後悔や自責の念とはまったくそれは違う次元のことなのです。むしろ心の重荷、心の底にたまっていた澱を消していただくことができます。

 「わたしは神に罪を犯しました」そう心から告白する時、私たちは罪の縄目から解き放たれ、まことに自由にされるのです。それは地獄に行かないですむというような問題ではありません。

 「デッドマンウォーキング」という映画がありました。若いカップルを暴行して殺した殺人の罪を問われている青年と、その青年のために奔走するシスターの物語です。共犯のもう一人の青年は有力者の息子で、終身刑になり、もう一人の青年だけが死刑を言い渡されるという状況でした。死刑を言い渡された青年は自分はやっていないとシスターに主張します。しかし、結果的に、その青年は死刑になりました。でも、その青年はシスターとの会話の中で、ようやく自分の犯した罪を認識したのです。最後に彼は罪を告白します。そして被害者の家族に謝罪をして、シスターに「愛をありがとう」と言い残して死刑になります。

 ストーリーだけを語るとたいへん暗い映画ですが、しかし、その罪を犯した青年がはじめて罪を自覚して、そしてなお「愛をありがとう」という言葉を発することができたということは、真に罪を自覚し告白をするということは、心の縄目が解かれ、まことに自由になるということを示しています。その青年の中にあった憎しみや怯え、死への恐怖、すべてを越える愛を知って自由を得たということです。その青年は死刑になりましたが、神の赦しのまなざしの中でヒソプの枝で洗われきよくされたのです。

 しかし罪の赦しは単に、罪をきよくされた、ということにとどまりません。マイナスがゼロになったということではありません。

 「神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください」とあります。まことに悔いあらためた時、それは必然的に新しい心が創造されるのです。そこが単なる反省や後悔と違うところです。この清い心を創造し、というときの創造という言葉は創世記の1章1節に出てくる創造とヘブライ語の原語でも同じです。バーラーという言葉です。英語で言うとcreationです。

 本来なら罪によって神の死刑判決を受けないといけない人間が、神に罪を告白する時、キリストのゆえにゆるされます。そしてそれは必然的に新しい創造へと向かいます。赦されてめでたしめでたしでは終わらないのです。新しい始まりとなるのです。

 今日もう一か所お読みしました新約聖書のヨハネによる福音書の1~5節は、創世記の1章を踏まえ、キリストの到来について記された箇所です。創世記1章の最初の創造の時から御子イエスは父なる神と共におられました。言葉がキリストであり、その言葉は父なる神と共にあったのです。そしてキリストはこの世界に人間の体を伴って来られました。

 私たちが、罪に死んで、ふたたび新しい命に生きるため、生き生きとした命に生きるため、キリストは来られました。

 私たちが新しく創造されるためです。

 まったく新しくされるためです。ヒソプの枝で清められ、雪よりも白くなるためです。詩編の14節に自由の霊によってささえてくださいとあります。私たちは自分の罪のため砕かれますが、しかし、そこには大いなる喜びがあるのです。単に罪を糾弾され懲らしめられただけでは、うつむいて生きるしかありません。しかし、私たちは真の自由を得るのです。奴隷ではなく、神の前で喜んで新しい生活を始めることができるのです。

 そのはじまりがキリストの到来でした。キリストのゆえに私たちは新しく創造され、まことの自由を得ます。

 私たちはこの季節、神から自由の霊をいただき、自由に神の意思を行う者として、喜び踊りながら過ごしたいと思います。