大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2014年7月13日 マタイによる福音書5章5節

2014-07-24 16:15:41 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年7月13日主日礼拝説教
マタイによる福音書5章5節
「地を継ぐ人」  吉浦玲子伝道師
「柔和な人」と今日の聖書箇所にあります。この柔和という言葉は穏やかなという意味でもあります。つまり、ここで言われているのは柔和な人あるいは温和な人、そういうことになります。普通、柔和な人、あるいは温和な人の前では、なんとなくほっとできます。厳しく叱られたりしない、責められたりしない、仮にこちらに非があっても、やわらかく諭してくれるというイメージが、柔和な人や温和な人に対してはあります。
私たちはまた主イエスに対してもそのようなイメージを持っています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と、主イエス・キリストご自身がご自身のことを柔和で謙遜な者とおっしゃいました。

これはイエス様がおっしゃるから、なるほど、と思えることです。現実に、柔和な人がいたとしてその本人が私は柔和な者です、といったら変な感じを持つでしょう。でも、たしかに聖書を読むとき、主イエスは柔和な方だと感じられるのです。もちろん偽善者や弱い者を苦しめる権力者たちには時に厳しい言葉を語られました、弟子たちに対しても時にお叱りの言葉をかけられました。しかし、主イエスの言葉やまなざしは基本的に柔和でした。偽善者や権力者、弟子たちに対しても、その底にあるのは柔和なまなざしでしたし、まして弱い者、社会の底辺にいるもの、苦しんでいる者、自らの罪のために苦しんでいる者に対しては、たいへんに柔和に接されました。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから」この言葉は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という有名な聖句に続く言葉です、この聖句にどれほど多くの人間が慰められたでしょう。私たちはこの世界において、嫌というほど厳しい視線にさらされ、評価をされ、自分をときに否定されます。しかし、主イエスはそんな私たちに柔和に接してくださる。私たちにどれほどの悪いところがあっても、切って捨ててはしまわれない、主イエスがそのように私たちを切って捨ててしまう方ではないと私たちは知っています。そのような方であるからこそ、わたしたちはその方の前で重荷をおろし、休むことができるのです。
主イエスは、おかかりになった十字架の上で、苦しみのさなかにあっても、同じく十字架にかかっている隣りの犯罪人に対して「あなたは今日わたしとともにパラダイスにいる」との言葉をおかけになる方でした、自分を罵り侮辱する者たちに対しても「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」とおっしゃる方でした。肉体と精神の極限の苦しみの中でも柔和でありました、徹底的に柔和な方でした。

 そんな主イエスのことを思う時、どのように周囲の人から「あなたは柔和ですね」「温和な方ですね」といわれている方であっても、ご自身が主イエスのように徹底的に柔和であり続けることができる自信はないのではないでしょうか。
 まして、そもそもけっして柔和なタイプではない人間である場合、わたしもそうですが、とてもそんな主イエスのように柔和になんか、はなからなれないと思うのではないでしょうか。しかし、主イエスは今日の聖書箇所で「柔和な人々は幸いである」とおっしゃっています。わたしたちはこの柔和というのはどう考えたらよいのでしょうか?
 人間が努力してせいいっぱいできる限りの柔和な人になりなさいということでしょうか?
 しかし、そもそも柔和な人とはどういう人を指すのでしょうか?さきほど主イエスが柔和であると申し上げましたが、具体的にはどういう人が柔和なのでしょうか。
柔和というのは何より相手がそう感じる態度や雰囲気です。自分は柔和なつもりでも相手は全然そう思っていない、そういう場合は柔和ではありません。
相手の人が柔和と感じるとはどういうことか。それは最初に申し上げましたように相手が自分のことを否定されたような感じをもたない、つまり自分が受け入れられている、理解されている、そのように感じられる態度や雰囲気を持っている人に対して柔和な感じを人は持つのではないでしょうか。
主イエスは柔和でした、それは私たちを受け入れてくださったからです、私たちは罪びとでありながら、悪い者でありながら、主イエスは招いてくださる、見てくださる、聞いてくださる、そこに柔和さがあるのです。
私たちはどのように柔和でありたいと願っても、主イエスのようにはできません。
無制限に人を受け入れるということはできないのです。それは肉親や親しい人に対しても残念ながらそうなのです。もちろん赤の他人に比べたら私たちは親しい人へは柔和になれます。しかし、それも限りのあることです。
もちろんそれは私たち自身の時間的な制約、体力的な制約がありゆえでもあります。忙しい時に、ややこしいことを言ってくる人に対して柔和な態度はなかなかできません。体調が悪い時に嫌味を言ってくる人に柔和にはできません。こちらがいっぱいいっぱいのときには柔和どころか、ぎすぎすした対応をしてしまいことだってあります。
しかしわたしたちの置かれている環境や条件以上に、柔和になれない原因は、やはり私たち自身、私たちの内側にあるのです。

私たちは自分に執着するものです。自分の考え、自分のやり方があり、どうしてもそこにとらわれます。そのとらわれの中から私たちは人を見ていきます。私のやり方と違う、私の思いと違う、そのようなことをする相手に対して、自分のやり方を否定する相手に対して柔和になれません。私たちはそのような相手に対して自分を守ります。
この世にあって、それは大事なことでもあります。致し方ないことでもあります。私たちは、自分の築いてきたものを手放すことはできません。不用意に相手にあわせると、私たち自身の生活や精神がぐらついて不安定になってしまいます。人間として当然の防衛本能として私たちは自分を守るのです。守るために自分のやり方、考え方にとらわれるのです。

一方で、主イエスは御自分を無にされた方です。フィリピの信徒への手紙2:6-8に「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした」とあるように、自分を完全に神にゆだねられたお方でした。神にゆだねきっておられたので、神に従順であったので、自分のやり方に固執することはなく、相手を受け入れることができたのです。実際、この柔和なというギリシャ語は謙遜なという意味にも訳せます。権力のないという意味でもあります。ただここで注意をしないといけないのは、謙遜な、という言葉を、倫理的なあり方として、ここで勧めているわけではないということです。謙遜でありなさい、へりくだりなさいということを戒律として語られているわけではないのです。あくまでも神との関係においての心からなる謙遜がここでは言われています。私たちも聖霊によって、満たされている時、神に従順になれます。謙遜になれます。自分に固執するのではなく、神に自分を明け渡す時、私たちは従順になれます。自分に執着することが少なくなります。そのとき私たちは人に対して柔和になれます。

たいへん活発で熱心なクリスチャンの先輩がありました。その方はやや熱心すぎて、少し厳しい方でもありました。けっして叱りつけられたりしたわけではないのですが、なんとなく言い方がきつくて、ちょっと押しつけがましい感じがあって、私はその方の話を聞く時、ときどき内心カチンと来ました。周囲の方はみな彼女に対してそう感じておられたようです。その方は自分のペースを相手に求めるという点において、つまり相手を受け入れていないということにおいて柔和でありませんでした。が、もちろんカチンときていた私もまた柔和ではありませんでした。
その方は、その後、がんになり、当時まだ50代だったのですが、進行の早いがんで余命半年以内と診断されました。私はその方にお見舞いの葉書を送ったことがあります。何と書いていいのか分からず、さしさわりのない言葉を書いて送ったと思います。いただいた返事の葉書に書かれていたことを思い出します。「わたしは、これまでしっかりとクリスチャンとして働くことが、神様に仕えることだと思っていました。でもいま、もう自分がなにもできなくなってしまって、自分の信仰はなんだったのかと思い返しています」そして書かれていた言葉はマタイによる福音書の有名な聖句でした「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、此花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
その方は、身動きできないベッドの上で、主の本当の恵みに触れられたのだと思います。痛みや苦しみ、無念さももちろんあったでしょう。激しい思いもあったでしょう。しかしなお、それをすべて彼女は主にゆだねられたのだと思います、彼女は当初の余命宣告より一年ほど長く生きられ、主のもとに帰られました。柔和な人とされて主のもとに行かれたと思います。

わたしたちもまた、一生をかけて、主によって柔和な人とされていくのだと思います。自分たちの努力ではなく、聖霊によって導かれ、みことばによって養われ、少しずつ執着をそぎ落とされていきます。ときに砕かれることもあるかもしれません。改めて自分の罪に愕然とし、打ち負かされ、そこから立ち直っていく。そのプロセスの中で、少しずつ少しずつ、主に従順なものとされていきます。
少しずつ少しずつ主に自分を明け渡していき私たちは柔和になっていきます。
そしてそのように柔和になった私たちは幸いなものとされます。それは地を受け継ぐものとされるのです。

地はどなたのものでしょうか?創造主なる神です、そしてその神の右に坐しておられる主イエスが天と地のすべてのご支配をゆだねられています。つまり地をお継になるのは主イエスなのです。
しかし、いま私たちは主イエスの十字架と復活の業によって神の子とされています。主イエスの神への従順のゆえに成し遂げられた贖いの御業によって、わたしたちは主イエスと等しい者とされています。主イエスのゆえに、神から主イエスと等しい者とみなしていただいているのです。そして主イエスと同等の権利を私たちは受けるのです。つまり地を継ぐのです。これは驚くべきことです。
この地を継ぐというのは未来形です。その約束の未来まで、私たちは柔和なものとされていくのです。いやいや、わたしなんて全然だめです、柔和になんてなれっこありませんと不安に思う必要はありません。いえ不安に思ってはいけません。
主にできないことはないのです。信頼してゆだねましょう。ゆだねられる自分にしていただきましょう。

私たちはこの新しい週も、一歩一歩主によって新しくされていきます。少しずつ柔和なものとされるのです。主に信頼し、安心し、その中で少しずつ柔和な温和なもの、神にさらに信頼するものとされていくのです。そんな私たちに神は御子イエスと同じ祝福をあたえてくださいます。


2014年7月6日 マタイによる福音書5章4節

2014-07-09 14:26:46 | イザヤ書

大阪東教会 2014年7月6日主日礼拝説教
マタイによる福音書5章4節
イザヤ書25章6~10節
「涙はぬぐわれる」  吉浦玲子伝道師

 私は、現代短歌を書いています。57577です。書いていました、というのが正確かもしれません。短歌といえば、俵万智さんのサラダ記念日以降、短歌のポップな面というか、元気で明るい側面も照らしだされていますが、基本的に明治以降の現代短歌は「悲しみの器」と言われます。同じ日本の伝統詩型であります俳句の575は、ある種、言葉のアクロバットと言いますか、言葉が凝縮されていまして、切れが要求されます。が、少し長い短歌は、良くも悪くも人間の感情・情動というのが入りやすいのです。そこに入ってくる感情というのは基本的には「悲しみ」なのです。一見、明るい短歌であっても、そこにはやはり人間の悲劇や世界の喪失感みたいなものが盛られていることが多いのです。そんな短歌の二大絶唱と言いますと、挽歌と相聞です。挽歌、死者を悼む歌と、相聞、恋愛の歌ということになります。恋愛の歌も、うまくいっててハッピーというより、別れやうまくいかないゆき違いのような心理を歌った者の方が人の心に響きやすい傾向があります。つまり短歌という器は悲しみと響き合いやすい生理を持っているのです。そしてその生理は、日本人的な情感と非常によく合うのです。
 「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」
 今日の聖書箇所にも悲しみが出てきます。
 私たちの日々にはいうまでもなく、様々な悲しみがあります。取り組んでいたことの挫折による悲しみ。失ってしまった若さや可能性を思う時の悲しみ。信頼していた人からの裏切り、あるいは人から理解されないことの悲しみ。人との別れ。もっとも大きな別れは死による別れです。短歌になるような出来事というのは身の回りにたくさんあります。もっとも悲しみがあまりに大きすぎると言葉にもできない、一種の失語症のような状態になる、そのようなこともあります。
 私は数年前、自分の母親が認知症になってしまった時、本当に悲しかった。身内の方のことで、御経験された方もおられると思いますが。私の母は、その後、召されました。しかし、今振り返って考えましても、その召された時も悲しかったですが、認知症になった母と対した時の方が悲しみが大きかった。前にもお話しさせていただきましたが、私は母とあまり仲が良くなかった、いつか和解したかった。その和解の前に、母は認知症になってしまった。二度とこの世界で母と意志を疎通させること、気持ちを通じさせることができなくなってしまった、そのときのショックはとても大きかったです。人間である以上、いつかこの世界での別れはあります。しかしせめてこの世界で和解をしたかった。それが適わなかった悲しみというのは今でも癒えません。
 詩編56:9に「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」このような言葉があります。この詩のように、わたしたちの人生には嘆き悲しみ、神に訴える日々があります。<あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください>という言葉は、けっしてセンチメンタルな上っ面の言葉ではないことを、悲しみを経験してきた人はわかると思います。日本に限らず、また時代に関わらず、人々は多く悲しみ嘆いてきたのです。
 一方で詩編はおさめられている個々の詩はさまざまな時代に作られて伝えられてきたものであろうと思われますが、詩編という書物として編集されたのはイスラエルが滅んだあとバビロン捕囚を経たあとであろうと言われています。ですから詩編の詩の悲しみには詩の作者の悲しみと同時に、詩編を編集した人の悲しみ、つまり国家滅亡という国家レヴェルの悲しみも二重になっていると言えます。
 そのような悲しみがあるのなか、しかし、今日の聖書箇所では、その悲しむ人々は幸いであると言っています。なぜならば、その人々は慰められるからだ、というのです。
 でも私たちの悲しむ悲しみというものは、すべてが慰められるものでしょうか?たとえばヨブ記という書物の中でヨブは、子供を全員を失います。その後、神によって新しく子供たちを与えられるのですが、失った子供の倍の数の子供を与えられたからといって、失った子供のことが忘れられるでしょうか。悲しみをすっかり忘れ去ってしまうことができるでしょうか。それは、できません。
 失ったものの代わりに別のもので補うことによって癒されるような悲しみばかりがこの世界にあるわけではありません。ある程度、癒されても、時々、胸の底に疼くような悲しみがあるのです。
 ところで、この聖書箇所の慰められる、という言葉は未来を指しているのです。先週、読みました「貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」というときの天の国はその人たちの者である、という言葉は現在形です。
 そう考えます時、今日の聖書箇所は、私たちはすでに天の国にいる、しかしながら悲しみがある、その悲しみの中にありながら私たちは祝福されている、将来においてその悲しみが完全に慰められるから、と読むことができます。
 なんだ、いま慰められないのか、とがっかりされるかもしれません。
 信仰を持てば、すぐに元気いっぱいにしてもらえるということにはならないようです。しかし、なお、幸いな者とされているのです。ある方がおっしゃいました、「信仰を持つとは安心して悩めるようになること、安心して悲しめるようになること」と。
 私たちはすでに天の国の者、つまり神の支配のもとにある者、神と共に生きるものとされながら、なおふたたび主イエスキリストが来られる日まで、この世界は完全ではありません。その世界の中にあって、私たちは罪の中に生きていきます。わたしたちの悲しみは根源的にいえば、その罪から発したものでもあります。最初に短歌の話をしました。短歌で描かれるように、日本人は、情感的に物事をとらえるところがあります。それ自体は悪いことではありません。しかし、聖書に聞く時、私たちはもう一度、悲しみというものを、聖書の言葉として、神の視点から聞く必要があります。神の視点で見る時。悲しみというのは罪と関連があるのです。この世界にはアダムとイブ以降、厳然と罪がありました。神から離れる罪。神と無関係に生きる罪。そのためにこの世界は壊れてしまいました。いまなお私たちも罪を犯します。そのように、この世界にあって、罪があり、その対価として死があります。別れがあります。失うものがあるのです。罪の表れとして人間の裏切りや無理解があるのです。
ただここで、間違っていただきたくないのは、なにか悲しむべきことがあるのは、つまり不幸なことがあるのは、その人が直接的に罪を犯したから罰があたったというわけではありません。良く大きな自然災害が起こった時、天の裁きだといったりする人がありますが、災害で亡くなった方が罪の罰で亡くなったわけではもちろんありません。
ただし、わたしたちの悲しみということを考える時、根源的には、この世界が罪によって壊れていること、私たち自身も罪の中にあることを考えなくてはいけません。
そのような世界の中に、私たちの悲しみがあります。
聖書に聞く時、悲しみというのは、さきほど言いましたように、人間の悲しみは人間の罪ということと切り離せないということです。
 そしてこの悲しみをもっとも悲しまれた方は、主イエス・キリストです。主イエスは、罪とはまったく関係のない方でした。しかしなお、まつぶさに悲しみを悲しまれた方でありました。罪のない主イエスが、もっとも極悪な罪を犯した者がかかる十字架刑にかかられました。私たちの身代わりとして罪人となられました。かつて主イエスをほめ、ヒーローとして持ちあげていた人々は手のひらを返したように去りました。寝食を共にした弟子たちにも捨てられました。鞭うたれ、あざけられ、孤独の中で死に向かわれました。それは壮絶な悲しみであったと思います。
 その壮絶な悲しみを悲しまれた方が、よみがえられました。ここに希望があります。
 さきほど、慰められるのは未来形である、といいました。しかし、その未来は確実な未来です。主イエスが十字架においてすでに私たちのこの世界の罪をあがなってくださいました。いま、肉の目で見る時、なお世界にも私たちにも罪があります、死があります。悲しみがあります。しかし、それはやがて完全に回復されるものなのです。完全な回復です。中途半端なものではありません。
 ところで、3.11の大震災のあと、さまざまな支援活動がありましたが、そのなかに、「思い出の回復」というものがありました。これは津波の被害にあい、汚れてしまった写真の洗浄をし、もとのように見える状態にする働きだそうです、写真をスキャンしてパソコンにデジタルデータとして取り込んで、できるかぎり、データを調整してもとの形に戻すということのするようです。物質的な回復だけでなく人間の心に寄り添った、大事な思い出を修復するという、被災された方を根底から支えるボランティアだと思います。
 そのような回復作業が私たちにも起こります。それも写真だけではなく、私たちのすべての悲しみからの回復作業、それがやがて私たちのにも起こるのです。
 私たちのすべての悲しみが慰められる、そのようなときが来るのです。それはたしかに未来のことではありますが、天の国がすでに成就している、そのことを考える時、自分たちとは関係のない、遠いことではもうないのです。
 電気屋さんに新しいテレビを注文して、それが明日入荷することになっている、明日配達に来るとします。しかし、ひょっとしたらメーカーの生産ラインで突然トラブルがおこるかもしれません。配送業者の間違いがあるかもしれない、本当に明日配達があるかどうか100%は安心できません。しかし、主イエスのおっしゃる未来は、必ず来る未来です。私たちの上に必ず起こる未来です。私たちの慰めはすでに確実に天の父に予約され、まちがいなく私たちに届けられます。だから私たちはいま、安心して悲しむことができるのです。
 その未来に必ず起こる慰めとはどのようなものでしょうか。
 慰めとはギリシャ語でパラクレーシス、英語ではコンフォートと言います。日本人は慰めという言葉を聞くとあまりいい印象をもちません。表面的に撫でさするような同情のように感じてしまう場合が多いようです。しかし、comfortは、もっと積極的な意味です。Comという言葉とfortという言葉に分けられ、comは十分にということです。Fortは力づけるということです。つまり十分に力づけるという言葉になります。表面的な同情といったこととはまったく違います。
 またギリシャ語でパラクレーシスという時、さまざまな意味がありますが、いまいいましたように力づけるということと同時に、「傍らに呼ぶ」という意味もあります。
 つまり私たちは呼ばれるのです。もちろんイエスさまからです。
 主イエスが私たちをすぐそばに呼んでくださる、そして顔と顔を合わせて私たちの涙をぬぐってくださるのです。今は目に見えない主イエスが、私たちの目から手ずから涙をぬぐってくださる、すべての悲しみから回復させてくださるのです。
 今日、もう一か所お読みしました、イザヤ書の場面があります。これはイザヤの描いた、主の回復の業の様子です。ここにはその回復の様子を神が開かれる祝宴のイメージとして描かれています。良い肉と古い酒が供されるとあります。これは脂肪ののった最上級の肉とおりのある上質のワインということです。最高のものが与えられるということです。7節に「すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布をほろぼし死を永遠に滅ぼしてくださる」とあります。この布は死者を覆っていた布も暗示しています。つまり、すべての悲しみ、死の痛みから回復されるということが書かれているのです。さらに「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」とあります。
 主なる神が私たち一人一人を傍らに呼んでくださり涙をぬぐってくださるのです。自分の罪も、失敗も果たせなかったことも、すべてすべてぬぐいさって回復してくださる。
 これはさきほども言いましたように、すでに神のご計画の中で確定されたことです。
 だから安心して悲しむことができます。いえ悲しんでいるときは、もちろん本当は安心などできません。それでも私たちは希望を持つことができます。その確実な希望のゆえに私たちは現在も幸いなものとされているのです。


2014年6月29日 マタイによる福音書5章3節

2014-07-01 15:15:53 | マタイによる福音書

大阪東教会 2014年6月29日主日礼拝説教
マタイによる福音書5章3節
「幸いな人」    吉浦玲子伝道師

 「心の貧しい人は幸いである」この言葉はたいへん有名です。ルカによる福音書では単に「貧しい人は幸いである」となっています。しかし、マタイによる福音書でもルカによる福音書でも、基本的には同じことを主イエス・キリストはおっしゃっています。
 今日の聖書箇所を含めます5章の3節から12節まではたいへん有名です。しかし、有名ですけどもわかりにくい部分でもあります。
 なぜ心の貧しい人が幸いなのか、心の豊かな人は不幸なのか。悲しむ人はいつ慰められるのか?
 あるいは柔和でなくてはだめなのか?短気で言葉のキツイ人間は不幸になるしかないのか?心が清らかでないと不幸せになるのか、ときどきちょっとずるいことを考えたりする私は天の国には入れないんですか・・・
 そんなことをいろいろと考えさせられるところです。
 これまでご一緒にマタイによる福音書をお読みしてきまして、何度か申しました。主イエス・キリストは、「天の国は近づいた」とおっしゃった、これはもう成就したとおっしゃっていることと同じことだと申しました。天の国、また他の福音書では神の国と書かれていますが、神の支配による世界、罪が許され、私たちが真に自由になれる新しい人間として生きていける世界、もうそれが成就したのだと主イエスは宣言されました。
 その天の国が成就した新しい世界において、主イエスはご自分に従って来た人々と共に山に登り、語られました。その第一声が「心の貧しい人々は、幸いである」なのです。これはある意味、衝撃的な言葉でもあります。
 今日の聖書箇所では、断定的に「幸いである」と書かれています。しかし、ここはむしろ主イエスが人々を祝福されているといえます。新共同訳の日本語ではわかりにくいですけど、文語訳では「幸いなるかな、心の貧しき者」となっておりました。こちらのほうがニュアンスは近いかもしれません。イエスさまがおっしゃっていることは「あなたたちは心が貧しいですね、良かったですね、そんな心の貧しいあなたがたはもう幸せなんですよ、なぜなら天の国はあなたたちのものなんですよ」ということです。
 またこの一文を別に言い換えるなら「霊において、スピリチュアルということです、霊において貧しい人は祝福されています、なぜならば、天の国はすでにその人たちの者だからです」
 ここでは祝福の宣言がされています。なぜ祝福の宣言がされているのでしょうか。それはもうすでに天の国が与えられているです。気をつけないといけないのは、心が貧しいから天の国が与えられる、と読むことです。天の国が与えられることの条件として心が貧しさが提示されているわけではありません。そうなりますと、この聖書箇所は一種の戒律のようになります、律法のようになります。
 実際、ときどき、この山上の説教、特にこの最初の部分を新しい律法あるいは戒律として読んでしまう人がいます。律法的に読むと「心が貧しくならないと幸せになれない」「悲しまない人は慰められない」「柔和でないと地を受け継げない」ということになります。先週、この山上の説教はモーセがシナイ山に上ったことと対比させることができると申しました。たしかにルターもこの心は貧しい人は幸いであるというところを十戒の第一戎と対比させています。しかし、対比できると言っても、ここでは律法が語られているのではありません。そう読むとたいへん浅い言葉になってしまいます。律法を守ることのできなかった人間への新しい主イエスによる祝福が語られています。この11節までの主イエスの言葉は何より祝福の宣言です。さきほども言いましたように、もうあなたは幸せなんだ、良かったね、喜びなさい、という祝福です。ある人は、さいわいであるというのは「何度も何度も祝福を告げる鐘が鳴り響いているようなところだ」と言っておられます。ほんとうに祝福の鐘が美しくキン、コン、カンと鳴り響いているような箇所です。
 ところでこの箇所は先週の教会学校の説教の箇所でもありました。そしてこの箇所について、ある方がおっしゃいました。「心の貧しさとはなんですか?」とお聞きしたら、「飢え渇いている」ということだとおっしゃいました。神の言葉に御言葉に飢え渇いている、神を心から欲している、それが心の貧しさだとその方はおっしゃいました。まさにその通りです。貧しさとはまたその方がおっしゃいましたけど「もう自分には神、イエス様に頼るしか、頼る相手はいないんだ」という思い、そういう貧しさでもあるともおっしゃいました。この「心の貧しい」と聞きますと、一般的にはこの世的には、心が貧しいという時の、性格が悪いとか、思いやりがないとかケチであるとかを指します。しかしここで言われているのは、そういうことではありません。その方がおっしゃったように「御言葉への飢え渇き」や「主イエスの身に頼らざるを得ない」ということです。ほんとに自分の中に何もない、本当にイエス様に頼るしかないという貧しさであるとうことです。
 ところでこういう言葉をお聞きになったことがありましょうでしょうか?Stay hungry, Stay foolish. (ハングリーであれ。愚か者であれ。)これはスティーブジョブスが語った言葉です。
スティーブジョブスは三年ほど前に亡くなった方で、当時アメリカのアップルという会社の責任者をしていた人です。アップルとかスティーブ・ジョブスというと、私自身はソフトウェアの開発をしていたものですから、非常に親しみを持っています。皆さんにとっては余り親しみはないかもしれませんが、いかがでしょうか。
 皆さんの多くはWindowsのパソコンを使われていると思いますけれども、ジョブスの作ったのはWindowsとは全くコンセプトの違うアップルとかマックというパソコンでした。一種芸術的なパソコンでした。実務をするというより音楽家や芸術家等が好んで使いました。さらにipod、そして現在のスマホの原型となったiphoneも彼が作りだしたものです。またいま多くの人がもっているタブレット端末、それも彼が生み出したものです。
 仕事の点では、ある意味、たいへん憎らしい存在でもありました。アップル社と私が勤務していた会社は、ライバルなんて到底言えないほど差がありました。私が勤務していた会社はまったくたちうちできないくらい先進性・業績があったのがアップル社であり、ジョブスの製品でした。
その彼が晩年、スタンフォード大学の卒業式の祝辞の中でのべた言葉がStay hungry, Stay foolish. (ハングリーであれ。愚か者であれ。)でした。
 彼はクリスチャンではありませんでした。むしろ東洋思想、禅などに傾倒した人であり、そういう意味で、彼の言葉を説教に取り上げるのは、ある意味、不適切かもしれません。
 しかし、私は敢えてこの言葉を今日の聖書箇所と関連させて考えてみたいと思います。億万長者であり、あふれるほどの才能と実績を持ったジョブスが、ハングリーであれ、おなかぺこぺこであれ、愚か者であれ、と若者に諭した、そして彼自身も常にそうあろうとしていたことは、意味深いことだと思います。ジョブスは豊かさを語らなかったのです。自分自身が利口になることを勧めなかったのです。ジョブスだけでなく一般にハングリー精神ということは良く言われます。でもそれは時として、平凡な精神論根性論に過ぎないことがあります。
 しかし、ジョブスはこの言葉を語った時、薄っぺらな根性論を述べたわけではないのです。この言葉は自分自身がすい臓がんを発症したのち、死と向き合いながらの言葉でした。命の終わりを見つめながら、なお貧しく腹ペコで愚かであれと彼は語ったのです。飢え渇いていなさいと言ったのでした。飢え渇き、ハングリーさこそ、生きていくうえで大事なことなのだと彼は考えていたのです。豊かであっては賢くあっては、そこになにも新しい者は入って来ない、大きなこともできない、自分のこざかしい知恵に頼っていたら本当の知恵とは出会うことはできないと彼は考えていたのでしょう。
 しかし、その飢え渇きに何を入れるのか、何で満たすのか、そこが聖書の世界とジョブスの在り方は違います。私たちはあくまで神によって満たしていただくのです。そこから私たちは新しい力を得ていきます。
 ところで別のところから考えてみます。飢え渇いているとき、私たちは、辛いのです。クリスチャンの方で好んで「わたしたちに御言葉への飢え渇きをお与えください」と祈る方もいます。わたしもときどき祈ります。その祈り自体はもちろん悪くはありません。しかし、実際問題、飢え渇く、それが肉体的なものでなくても、精神的に飢え渇いているのであっても、そのことは極めて苦しい状況であると思います。御言葉を求める飢え渇き、精神的に追い詰められて聖書のページを繰る、それは辛い状態です。そこには今現在、満たされていない苦しさがあるのです。
また、主イエスしか頼ることができないと思う時、もちろん主イエスが共にいてくださることは喜びです、しかし、主イエスしか頼れない、という状況にある時、やはり人間としては孤立感を感じている時であり、さびしさ、悲しさ、辛さもあるのです。
 心の貧しい人は幸いである、というときの「貧しさ」というのは、辛さやさびしさ、孤独感と共にある貧しさです。しかし、そのような痛みや孤独なところを通って来た人はみな、貧しい人なのだ、逆説的ではありますが、そう主イエスはおっしゃっています。
 私たちは主イエスにより頼むといっても、正直なところ、いつもいつもみことばをくちずさんでいるわけではない、この世的なものにも頼ってしまう、しかし私たちの歩みの中には、多くの痛みや孤独感があった、孤立があった、そのことにおいて、私たちは心を貧しくされた、貧しい人とされました、そして貧しい者として、教会で、教会という山の上で主イエスの言葉を聞いています。そしてこれからのわたしたちの日々の中にも、私たちには折々に飢え渇きがあり、よるべのない寂しさがあります。痛みがあります。そのような日々を送る者を主イエス・キリストは貧しい人と呼んでくださる、そしてそのような私たちに天の国をすでに開いてくださった。だからよろこびなさい、あなたたちはもう幸いなんだ、幸いな人とされている、そう主イエスはおっしゃってくださっているのです。
 いつもいつもみことばをくちずさんでいるわけではない、主イエス以外のところにも目が行ってしまう、でももう一緒に山に登ってみことばに聞いている私たちは貧しいものである、心の貧しいものである、もう祝福されているのだとおっしゃっているのです。
 そしてまた、私たちは貧しいものとされている、それが一番あきらかになるのは救いということにおいてです。主イエスを信じる者はすでに救われています。救われているというのはすなわち天の国に置かれているということです。それは私たちの努力によってそうなったわけではありません。ただただ、神の憐れみによって神からの一方的な賜物としていま天の国に置かれています。私たちが豊かだったから、何かができたら救われたわけではない、天の国に招かれたのではないのです、そのことをしっかりと覚える時、もう一度、私たちは良く良く考えてみないといけません。
 私たちはほんとうに今、貧しいですか?貧しさという言葉は、物乞い、乞食である、という意味でもあります。たいへんに徹底した貧しさです。さきほど私たちはすでに貧しい者とされていると申しました。たしかに主イエスは私たちを貧しい者としてくださいました。しかし私たちは本当に、徹底して私たちの貧しさを知っているでしょうか。その貧しさを見つめているでしょうか。ちょっとは豊かなものだと思ってしまっていないでしょうか。主イエスに頼ると言いながら、ついつい自分に頼っていないでしょうか。私たちは本当に自分を貧しい者と思っているでしょうか。たしかに私たちはいつもいつも御言葉を口ずさむものではありません。そんな御言葉にいつもいつも従うことのできない弱い、霊的に弱い、言ってみれば霊的に乞食であること、他者への配慮を欠いた人間であること、そんな自分の貧しさ、霊において物乞いであり乞食である自分たちの姿をしっかりと見つめているでしょうか。
 なにも持てないなにもない、空っぽである、神様そんな私たちにあなたのものをくださいと乞い願う心を私たちは日々持っているでしょうか。むしろ、そこそこに豊かな人として、そこそこに他の人に親切にして生きていきたいと思っていないでしょうか。その方がこの世にあっては楽なんです。私たちは貧しい者とされ救われているにもかかわらず、その自分自身の貧しさから目をそらして生きていないでしょうか?
一方でさらに言いますと、主イエスと共に歩む者の歩みは、さらに貧しくされていく歩みであるとも言えます。自分自身の貧しさと向き合わされる歩みでもあります。それはこの山上の説教ののちの弟子たちの歩みをみてもわかります。ペテロもそうでした、一番弟子だという彼の自負は、主イエスの逮捕ののちの自らの裏切りによって粉々に砕かれ自分の貧しさを思い知らされました。大伝道者のパウロもそうでした、イスラエル人中のイスラエル人、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に通じた学者であったパウロも、自分の貧しさを知らされました。それぞれの弟子たちの歩みは物心ともにどんどんと貧しくされていく歩みでありました。
このようなことを聞くと、キリスト者であり続けることはしんどいなと思われる方もあるかもしれません。私も時々思います。しかし、ある方がおっしゃっています。「しかし、そのような霊的な貧困の極みにおいて、<主よ、憐れんでください> と求め続ける人生においてこそ、人は生ける神のリアリティを経験するのです。 天の国を経験するのです。自分の内にはなかったはずのものが人生に現れ出てく ることを経験するのです。」
そうです。自分が豊かであると思う時、私たちはもうすでに天の国に置かれていると言っても、その天の国の祝福のほんの一部分しかまだいただいていないんです。まだまだ天の国の現実を知ることはできません。自分の力で生きているとき、そこに見えるのは自分の力の限界だけです。しかし、私たちが本当に貧しい者として神に対する物乞いとして神に求め続ける日々の中に新たに発見するのは神の奇跡です。
私たちは神の奇跡を日々見つめていきたいともいます。私たちは本当に貧しい者としてさらに貧しくされながら、しかし、そこでこそ出会うことのできる神の奇跡、神の大いなる祝福に与りたいと思います。ハングリーで愚かで、ただ神にのみ求める時、そこにあるのは悟りの境地でも、諦めでもありません。祝福の鐘が鳴り響く豊かな喜びと感謝の世界です。私たちがこれまで見たこともない奇跡の世界です。私たちはその新しい奇跡、神の鐘が鳴り響く祝福の中を歩みたいと思います。そしてさらに貧しい者とされながら、神から豊かさを頂きながら歩みたいと思います。