大阪東教会 2014年7月13日主日礼拝説教
マタイによる福音書5章5節
「地を継ぐ人」 吉浦玲子伝道師
「柔和な人」と今日の聖書箇所にあります。この柔和という言葉は穏やかなという意味でもあります。つまり、ここで言われているのは柔和な人あるいは温和な人、そういうことになります。普通、柔和な人、あるいは温和な人の前では、なんとなくほっとできます。厳しく叱られたりしない、責められたりしない、仮にこちらに非があっても、やわらかく諭してくれるというイメージが、柔和な人や温和な人に対してはあります。
私たちはまた主イエスに対してもそのようなイメージを持っています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と、主イエス・キリストご自身がご自身のことを柔和で謙遜な者とおっしゃいました。
これはイエス様がおっしゃるから、なるほど、と思えることです。現実に、柔和な人がいたとしてその本人が私は柔和な者です、といったら変な感じを持つでしょう。でも、たしかに聖書を読むとき、主イエスは柔和な方だと感じられるのです。もちろん偽善者や弱い者を苦しめる権力者たちには時に厳しい言葉を語られました、弟子たちに対しても時にお叱りの言葉をかけられました。しかし、主イエスの言葉やまなざしは基本的に柔和でした。偽善者や権力者、弟子たちに対しても、その底にあるのは柔和なまなざしでしたし、まして弱い者、社会の底辺にいるもの、苦しんでいる者、自らの罪のために苦しんでいる者に対しては、たいへんに柔和に接されました。
「わたしは柔和で謙遜な者だから」この言葉は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という有名な聖句に続く言葉です、この聖句にどれほど多くの人間が慰められたでしょう。私たちはこの世界において、嫌というほど厳しい視線にさらされ、評価をされ、自分をときに否定されます。しかし、主イエスはそんな私たちに柔和に接してくださる。私たちにどれほどの悪いところがあっても、切って捨ててはしまわれない、主イエスがそのように私たちを切って捨ててしまう方ではないと私たちは知っています。そのような方であるからこそ、わたしたちはその方の前で重荷をおろし、休むことができるのです。
主イエスは、おかかりになった十字架の上で、苦しみのさなかにあっても、同じく十字架にかかっている隣りの犯罪人に対して「あなたは今日わたしとともにパラダイスにいる」との言葉をおかけになる方でした、自分を罵り侮辱する者たちに対しても「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」とおっしゃる方でした。肉体と精神の極限の苦しみの中でも柔和でありました、徹底的に柔和な方でした。
そんな主イエスのことを思う時、どのように周囲の人から「あなたは柔和ですね」「温和な方ですね」といわれている方であっても、ご自身が主イエスのように徹底的に柔和であり続けることができる自信はないのではないでしょうか。
まして、そもそもけっして柔和なタイプではない人間である場合、わたしもそうですが、とてもそんな主イエスのように柔和になんか、はなからなれないと思うのではないでしょうか。しかし、主イエスは今日の聖書箇所で「柔和な人々は幸いである」とおっしゃっています。わたしたちはこの柔和というのはどう考えたらよいのでしょうか?
人間が努力してせいいっぱいできる限りの柔和な人になりなさいということでしょうか?
しかし、そもそも柔和な人とはどういう人を指すのでしょうか?さきほど主イエスが柔和であると申し上げましたが、具体的にはどういう人が柔和なのでしょうか。
柔和というのは何より相手がそう感じる態度や雰囲気です。自分は柔和なつもりでも相手は全然そう思っていない、そういう場合は柔和ではありません。
相手の人が柔和と感じるとはどういうことか。それは最初に申し上げましたように相手が自分のことを否定されたような感じをもたない、つまり自分が受け入れられている、理解されている、そのように感じられる態度や雰囲気を持っている人に対して柔和な感じを人は持つのではないでしょうか。
主イエスは柔和でした、それは私たちを受け入れてくださったからです、私たちは罪びとでありながら、悪い者でありながら、主イエスは招いてくださる、見てくださる、聞いてくださる、そこに柔和さがあるのです。
私たちはどのように柔和でありたいと願っても、主イエスのようにはできません。
無制限に人を受け入れるということはできないのです。それは肉親や親しい人に対しても残念ながらそうなのです。もちろん赤の他人に比べたら私たちは親しい人へは柔和になれます。しかし、それも限りのあることです。
もちろんそれは私たち自身の時間的な制約、体力的な制約がありゆえでもあります。忙しい時に、ややこしいことを言ってくる人に対して柔和な態度はなかなかできません。体調が悪い時に嫌味を言ってくる人に柔和にはできません。こちらがいっぱいいっぱいのときには柔和どころか、ぎすぎすした対応をしてしまいことだってあります。
しかしわたしたちの置かれている環境や条件以上に、柔和になれない原因は、やはり私たち自身、私たちの内側にあるのです。
私たちは自分に執着するものです。自分の考え、自分のやり方があり、どうしてもそこにとらわれます。そのとらわれの中から私たちは人を見ていきます。私のやり方と違う、私の思いと違う、そのようなことをする相手に対して、自分のやり方を否定する相手に対して柔和になれません。私たちはそのような相手に対して自分を守ります。
この世にあって、それは大事なことでもあります。致し方ないことでもあります。私たちは、自分の築いてきたものを手放すことはできません。不用意に相手にあわせると、私たち自身の生活や精神がぐらついて不安定になってしまいます。人間として当然の防衛本能として私たちは自分を守るのです。守るために自分のやり方、考え方にとらわれるのです。
一方で、主イエスは御自分を無にされた方です。フィリピの信徒への手紙2:6-8に「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした」とあるように、自分を完全に神にゆだねられたお方でした。神にゆだねきっておられたので、神に従順であったので、自分のやり方に固執することはなく、相手を受け入れることができたのです。実際、この柔和なというギリシャ語は謙遜なという意味にも訳せます。権力のないという意味でもあります。ただここで注意をしないといけないのは、謙遜な、という言葉を、倫理的なあり方として、ここで勧めているわけではないということです。謙遜でありなさい、へりくだりなさいということを戒律として語られているわけではないのです。あくまでも神との関係においての心からなる謙遜がここでは言われています。私たちも聖霊によって、満たされている時、神に従順になれます。謙遜になれます。自分に固執するのではなく、神に自分を明け渡す時、私たちは従順になれます。自分に執着することが少なくなります。そのとき私たちは人に対して柔和になれます。
たいへん活発で熱心なクリスチャンの先輩がありました。その方はやや熱心すぎて、少し厳しい方でもありました。けっして叱りつけられたりしたわけではないのですが、なんとなく言い方がきつくて、ちょっと押しつけがましい感じがあって、私はその方の話を聞く時、ときどき内心カチンと来ました。周囲の方はみな彼女に対してそう感じておられたようです。その方は自分のペースを相手に求めるという点において、つまり相手を受け入れていないということにおいて柔和でありませんでした。が、もちろんカチンときていた私もまた柔和ではありませんでした。
その方は、その後、がんになり、当時まだ50代だったのですが、進行の早いがんで余命半年以内と診断されました。私はその方にお見舞いの葉書を送ったことがあります。何と書いていいのか分からず、さしさわりのない言葉を書いて送ったと思います。いただいた返事の葉書に書かれていたことを思い出します。「わたしは、これまでしっかりとクリスチャンとして働くことが、神様に仕えることだと思っていました。でもいま、もう自分がなにもできなくなってしまって、自分の信仰はなんだったのかと思い返しています」そして書かれていた言葉はマタイによる福音書の有名な聖句でした「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、此花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
その方は、身動きできないベッドの上で、主の本当の恵みに触れられたのだと思います。痛みや苦しみ、無念さももちろんあったでしょう。激しい思いもあったでしょう。しかしなお、それをすべて彼女は主にゆだねられたのだと思います、彼女は当初の余命宣告より一年ほど長く生きられ、主のもとに帰られました。柔和な人とされて主のもとに行かれたと思います。
わたしたちもまた、一生をかけて、主によって柔和な人とされていくのだと思います。自分たちの努力ではなく、聖霊によって導かれ、みことばによって養われ、少しずつ執着をそぎ落とされていきます。ときに砕かれることもあるかもしれません。改めて自分の罪に愕然とし、打ち負かされ、そこから立ち直っていく。そのプロセスの中で、少しずつ少しずつ、主に従順なものとされていきます。
少しずつ少しずつ主に自分を明け渡していき私たちは柔和になっていきます。
そしてそのように柔和になった私たちは幸いなものとされます。それは地を受け継ぐものとされるのです。
地はどなたのものでしょうか?創造主なる神です、そしてその神の右に坐しておられる主イエスが天と地のすべてのご支配をゆだねられています。つまり地をお継になるのは主イエスなのです。
しかし、いま私たちは主イエスの十字架と復活の業によって神の子とされています。主イエスの神への従順のゆえに成し遂げられた贖いの御業によって、わたしたちは主イエスと等しい者とされています。主イエスのゆえに、神から主イエスと等しい者とみなしていただいているのです。そして主イエスと同等の権利を私たちは受けるのです。つまり地を継ぐのです。これは驚くべきことです。
この地を継ぐというのは未来形です。その約束の未来まで、私たちは柔和なものとされていくのです。いやいや、わたしなんて全然だめです、柔和になんてなれっこありませんと不安に思う必要はありません。いえ不安に思ってはいけません。
主にできないことはないのです。信頼してゆだねましょう。ゆだねられる自分にしていただきましょう。
私たちはこの新しい週も、一歩一歩主によって新しくされていきます。少しずつ柔和なものとされるのです。主に信頼し、安心し、その中で少しずつ柔和な温和なもの、神にさらに信頼するものとされていくのです。そんな私たちに神は御子イエスと同じ祝福をあたえてくださいます。