大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書10章1〜21節

2018-11-12 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年11月11日 大阪東教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)「良い羊飼い」吉浦玲子

<門はひとつ>

 救い主イエス・キリストのことが羊飼いに例えられています。その羊飼いは門を通ってくるのです。あっちの柵を乗り越えたり、こっちの裏口から入ってくることはないというのです。つまり救いはあちらからもやってくるし、こちらからもやってくるということではないのです。自分の羊の名前を知っている羊飼いのようなただお一人の救い主が、正しい門を通って人間のもとに来てくださり、救いへと導き出してくださるのです。

 この世界には、人間に喜びを与えるもの、癒しを与えるものがたくさんあります。ここにきたらリラックスできる、これを信じたら幸せになれる、そういったものが世界には満ち満ちています。そしてあちらからもこちらからもそういったものがやってくるのです。テレビのチャンネルをいじっていても、インターネットを見ていてもそうです。これはいいですよ、これはためになりますよ、これをやらなければ幸せになれませんよ、そのような声であふれています。しかし、人間をまことに救ってくださる救い主は、門から入って来られるのです。

 このたとえ話は当時のイスラエルの人々にはとても分かりやすいものでした。実際、羊飼いは門を通って羊の群れのところにやってきて、羊を外に連れ出し、牧草を食べさせます。そしてまた門を通って羊たちを安全な柵の中に戻します。もともと野生の羊も群れで行動する性質があり、導くものについていく性質があるそうです。まして家畜として飼われている羊である場合、羊飼いがいなければ食事をすることもできません。羊の命は羊飼いにかかっているのです。羊飼いがいなくては移動するにも迷ってしまいます。<迷える小羊>というのは、世間において、多少茶化すような感じで語られることもある言葉です。そもそも羊は弱い動物です。獰猛な肉食動物に襲われたらひとたまりもありません。そして恐れを感じたらパニックを起こしやすい性質があるそうです。一匹がパニックを起こすと、それが群れ全体に連鎖して、大混乱になるそうです。そのような羊を導く羊飼いの仕事は相当に熟練を要するものだそうです。そして、当時、羊飼いたちは羊一匹一匹の名前を呼んだようです。羊一匹一匹のことを羊飼いはよく知っていたのです。そして一匹一匹の名前を呼んで門の中から出し、また門の中へ入れるのです。神戸の六甲牧場に行きますと、多くの羊が放し飼いされています。一般の人間から見たら、羊はどの羊も同じように見えます。せいぜい体の大きさが少し違うというくらいしか差は分かりません。しかし、羊飼いは一匹一匹を良く知っているのです。その性格も癖も良く知っているのです。そんな羊飼いのように救い主は私たちのことをご存じなのです。一人一人のことをご存じなのです。私たちが自分では気づいていない自分の心も、あるいはすでに忘れ去っているような過去も、その喜びも悲しみも知っておられるのです。

 その羊飼いと例えられている救い主が入って来る門はどこなのか、それは教会であり、聖書の言葉です。<羊は羊飼いの声を知っている>と書いてあります。しかし、私たちは羊飼いの声を知っていたでしょうか?私たちは異なる声について行っていたことはなかったでしょうか?私は、長い間、違う声に従って歩んできました。門を知らなかったのです。そして私は門ではないところから入ってくる盗人についていく羊でした。しかしそのような羊をも羊飼いである救い主は安全な柵の中にやがて導いてくださいました。

 いまや、すべての人のために救い主が来られたからです。それがクリスマスの出来事でした。その救い主の声を聞きとって、ついていく者は迷わないのです。今日は逝去者記念礼拝です。かつてこの教会に在籍され、いまは神の御許で眠っておられる人々は、門から入って来られる羊飼いである救い主と共に生涯を歩まれました。時に迷いつつ悩みつつも、その長い道のりを、終わりまで羊飼いであるイエス・キリストから離れることなく歩まれたお一人お一人です。キリストにそのすべてを知っていただいていたお一人お一人です。

<救いの門と罪>

 さて、7節には「わたしは羊の門である」と主イエスはおっしゃっています。1節からの譬えでは、主イエスご自身が門から入ってくる羊飼いであるというように読めるのですが、ここでは今度はご自身が門であるとおっしゃっています。さらに読み進んでいきますと、主イエスはご自分が良い羊飼いであると語っておられます。「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に私は来たとおっしゃっています。さきほど、門は教会であり、聖書の言葉であると申しました。聖書の言葉とはキリストそのもののことです。聖書という書物、そして聖書に書かれているさまざまな文章は、一般的な物語や詩や歴史書として読むことも可能です。しかし、私たちに神の力が及ぶとき、つまり聖霊の力が及ぶとき、その聖書の言葉はキリストそのものとなります。では教会とは何でしょうか?聖書の内容の講義を受ける場でしょうか?そうではありません。共に礼拝をするとき、まさにキリストがおられる場となるのです。そしてさらに言えば、門は十字架を指します。門を通って私たちは命を受けます。キリストの十字架によって永遠の命を受けます。

 良い羊飼いは羊のために命を捨てると主イエスは語られています。つまり良い羊飼いである救い主ご自身が十字架にかかり命をお捨てになる、そう語っておられます。良い羊飼いが命を捨てられるゆえに、十字架におかかりになるゆえに、私たちには命への門が開かれました。十字架こそが命への門だからです。

 いまや命への門が開かれましたた、、、、しかし、私たちは思います。現実に、私たちの愛する家族は、そして兄弟姉妹はこの地上から去って行ったことを。私たちは、かたわらでさっきまで感じられていた呼吸が止まり、体からぬくもりが失われていくことを身近に体験しています。死はまぎれなくこの世界にあります。むしろこの世界は死に覆われているといってもよいのです。なぜこの世界は死に満ち満ちているのでしょうか。それは人間の罪のためです。伝道者パウロは「罪の報酬は死」であると言いました。神への背き、神から離れていること、それが罪です。その罪の報酬として死はこの世界に入ってきました。それはアダムとエバの時代からでした。アダムとエバの時代から人間は神から離れ神に背いて来たのです。しかしまた私たちは思うのです。特に日本で生まれ育ったものは、多くの場合、神を知らなかった、と。だから神から離れるも何も、そもそも神を知らないのだから、神から離れることが罪だと言われても困ると。

 しかしまた一方で感じるのではないでしょうか?クリスチャンホームで育った方も、わたしのように身近にクリスチャンがいない環境で育った者も、心の中に、どうしようもない渇きのような、満たされないような思いがあることを。順風満帆なときも心のどこかに不安があります。まして困難な時、挫折したとき、孤独な時、私たちの心の奥には渇きがあります。私たちは迷える小羊ではなく、自分で道を歩み、自分で生きてきた、そう思おうとします。しかし一方で、心の奥にはなにか不安がありました。希望がついえるようなときがありました。絶望とまでは言えなくても、満たされない思いがありました。私たちは自分は迷える小羊などではないと考えようとしてきましたが、やはり迷っていたのです。私たちは自分だけで完結できない、完ぺきではないことを知っていました。まだ神と出会う前、良き羊飼いと出会う前から知っていたのです。完ぺきではない、それは私たちの内側に潜在する罪によって私たちには欠けたところがあった、そのかけたところをどうにかして埋めたい、そういう願いを無意識のうちに持っていたのです。

 私たちは気づいていないようでぼんやりと気づいていたのです。自分たちのうちに罪があることを。罪という言葉では知らなかったかもしれません。しかしまた、ぼんやりとは気づいていても、キリストと出会わなければ、永遠にはっきりと気づくことはなかったのです。漠然と感じてはいても自分たちのなかの欠けたところを、それが罪の故であると、知ることはなかったのです。そして迷いながら歩んでいたのです。

 しかし、キリストは私たちと出会ってくださいました。私は門である、命への門である、豊かに命を与えるとおっしゃっています。この門はあっちにもあるこっちにもあるという門ではありません、ただ一つの門です。そしてまたこれは気休めの言葉ではありません。なぜなら2000年前、たしかに十字架の出来事は起こったからです。歴史的事実として主イエスは十字架にかかられました。そして三日目に復活をなさいました。キリストは肉体を持って復活されました。もちろん2000年後の私たちは、肉体を持って復活されたキリストを肉眼で見ることはできません。しかし、出会うことはできるのです。信仰において出会うのです。信仰において出会うということは単なる思い込みや心の中での思い出として出会うというようなことではありません。私たちは確かに出会うのです。はっきりと生きておられる復活のキリストと出会うのです。まだこの中には出会ったことのない方がおられるかもしれません。しかし必ず出会えます。

 なぜなら良い羊飼いは自分の羊を知っているからです。そしてまだ出会っていない、つまり囲いに入っていない羊をも導く、そうおっしゃっているからです。ですから、まだ出会っておられない方も、必ず出会うのです。必ず、その救いの囲いの中に入れていただけるのです。救いとは罪の赦しでありました。十字架によって私たちの罪は赦されました。キリストが私たちの代わりに罪の罰を父なる神から受けてくださったからです。それが十字架でした。十字架の門を入って私たちはいま憩いのうちにあります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と詩編23編にありましたが、羊飼いに飼われる羊である私たちは、内側も外側もいまや欠けることがないのです。

<あふれる恵みは死を超える>

 すでにこの地上を去られた兄弟姉妹もその欠けることのない恵みのうちにありました。しかしそれは、ただ生きているときの心の安らぎや支えであったということではありません。キリストは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」とおっしゃいました。ここで語られている<豊か>とはありあまるほどの豊かさをあらわします。あふれている状態なのです。そのあふれる豊かさ、ありあまるほどの豊かさとは、良き時も悪い時も変わらぬ豊かさです。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。」そう詩編にありました。死の陰と思えるようなところを歩むときも、羊飼いに導かれるならば恐れることはない、困難の時、苦しみの時もなお注がれる豊かさがあるからです。

 ところで、多くの教会が長く親しんできました信仰問答というものがあります。問答の形で信仰の教えが書かれたものです。そのひとつにハイデルベルク信仰問答があります。129の問答からなっています。その最初の問いが、「生きるときも死ぬ時もあなたのただひとつの慰めは何ですか?」です。慰めについてはいくたびか語ってきたことですが、日本語のニュアンスでは「慰めなんていらない」というように消極的な感じです。しかし、この問答でいう慰めはもっと強いものです。力を与えるというニュアンスがあります。生きているときも死ぬ時も、私たちに力を与えるもの、それは私たちがキリストのものとされているという事実だと信仰問答は答えます。つまり私たちが羊飼いのものとされている羊であるということがほんとうの慰めであるというのです。キリストの羊であることが、私たちの力の源であるというのです。死の陰の谷を行くような危機の時も本当に力になる、それがキリストと共にあること、キリストのものとされていることなのです。キリストが門であり、門であると同時に、最後の砦でもあるからです。

 今年は関西も地震があり台風がありました。これからも大きな自然災害が来るかもしれません。そしてまた世界はどうなっていくのかそれもわかりません。しかし、どのようなときでもキリストはただ一つの門であり、最後の砦なのです。私たちが生きるときも死ぬ時も砦なのです。それはキリストが死を超えて復活をなさったからです。良き羊飼いは死を超えて私たちを招かれます。今日も招かれます。永遠の命へと開かれた門へ私たちは入っていきます。


ヨハネによる福音書9章24〜41節

2018-11-11 15:39:54 | ヨハネによる福音書

2018年11月4日 大阪東教会主日礼拝説教「あなたには見えていますか」吉浦玲子

<なお「なぜ」と問う人>

 主イエスの業によって一人の人間が救われました。神殿の外で来る日も来る日も物乞いをしていた生まれつき目の見えない人の目が開かれました。目が見えないゆえに神殿に入ることもゆるされず、信仰共同体からはじき出されていた人が、神殿へ入ることができるようになったのです。この人は視力が回復したのみならず、神との交わり、人々との交わりをも主イエスによって回復していただいたのです。主イエスのなさった素晴らしい業によって、癒していただいた人とその周りの人々の間にはさぞ喜びがあふれただろう、というと、まったくそうではなかった、それが今日の聖書箇所の少し前から記されています。

 そもそも9章の最初に、「ラビ、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という弟子たちの不躾な問いが記されていました。しかし、主イエスの時代のみならず、今日においても因果応報的な考えというのは人間を支配しています。因果応報と明確に意識はしなくても、私たちは想定外の事態に遭遇したとき、「なぜ」という問いを発さずにはいられないものなのです。大災害や事故に巻き込まれた人が、「なぜ」自分が?と思うこともあるでしょう。逆に大災害や事故に巻き込まれてどうにか自分は助かったのち、「なぜ」あの人は助からなかったのに、自分は、自分だけが助かってしまったのかという自責の念にかられる場合もあるそうです。もちろん「なぜ」と問うても答えは出ません、出ないけれども問わずにおられない、その問いにとどまって、未来を見ることができない、そういうことが往々にしてあります。

 9章の目が癒された人の周りにも、「なぜ」を問う人が多くいました。この生まれつき目の見えなかった人の目が見えなかった過去の「なぜ」を問うだけでなく、癒された理由も問われました。癒された喜びではなく、「なぜ」がまだ問題とされているのです。9章13節ではファリサイ派の人々のところにこの人は連れていかれて尋問をされています。目の見えなかった人の上に起きた素晴らしいことを喜ぶことなく、癒された日が安息日であったことから、この目の見えなかった人を癒した人は、つまり主イエスは<神のもとから来た人ではない>という人がいました。でも<こんなことを行う人が罪のある人だろうか>という人もいました。そこで人々は納得しませんでした。執拗に「なぜ」と問うたのです。目の見えなかった人の両親まで呼び出して尋問をしました。そして再度、目の見えなかった人を呼び出して人々は尋問をしました。

 「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」とユダヤ人たちは目の見えなかった人に告げています。<私たちは知っている>そうユダヤ人たちは言うのです。実際は、目を癒したお方がどこから来たかも、どういうお方かも知らない人々が、<自分たちは知っている>と語っているのです。「なぜ」と問いながら、実はもうすでに自分たちで結論を出してしまっているのです。生まれつき目の見えなかった人を癒した人間は罪人である、そう決めつけているのです。これはある意味、バカげたことのように思えますが、人間は、けっして理由が分からない事柄に関して「なぜ」と問う一方で、自分たちにとって合理的な理由を見つけたがるのです。「なぜ」と問うてもわからない、そのわからないところにとどまり未来に向かえないこともあれば、勝手に答えを出してしまうこともある、それがまた人間のありようです。

<癒された人が変えられていく>

 この物語の展開の中で、興味深いことは、目を癒された人が、おそらく最初は自分の目を癒してくださった方がどのような方かはっきりとは分かっていなかったのですが、いろいろな人とやり取りをしていくうちに、この人自身が主イエスについての確信を徐々にもっていっているということです。最初にファリサイ派の人々から「お前はあの人をどう思うのか」と聞かれたとき、この人は「あの方は預言者です」と答えています。これは、ヨハネによる福音書4章で、ヤコブの井戸の前で主イエスと会話をしたサマリアの女性が最初に主イエスに関して言った言葉と同じです。女性は「あなたは預言者とお見受けします」と主イエスに語っています。預言者というのは神の言葉を預かる人ですが、当時の人々の感覚でいうと神から特別な力を与えられた人だということです。この目の見えなかった人は、自分を癒してくださった方のことをはっきりとはわからないけれど、神からの特別な力を持った人だと感じていたのです。その目の見えなかった人が25節になると、大胆な物言いをするようになっています。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」と問われたとき、「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。」と反発をするような答えをしています。権力者から尋問をされていながら、この目の見えなかった人は、はっきりとものを言うようになっていたのです。この人の両親が20節で、はっきりとユダヤ人たちに答えず、「本人にお聞きください」と責任回避するような答えをしたのと対照的です。両親は、権力者たちの怒りを買い、不利益を被らないようにという考えがあったからです。しかしこの目の見えなかった人は、いまやはっきりと権力者たちに抵抗する姿勢を見せているのです。人々とのやり取りの中で、この人は、今目の前にいる権力者には真実がないことをはっきりと感じたからでしょう。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、きこうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」<あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。>というのは、かなり侮蔑的なニュアンスを持った言葉です。自分たちこそが、正しくて、人を教える資格がある人間だと思っている人々に対して、挑発的ともいえる言葉です。よりによって、権力者たちがあいつは罪人だと断定している人間の弟子になりたいのかと聞いているのです。当然、ユダヤ人たちは怒ります。そして目の見えなかった人を罵倒します。われわれは神がモーゼに語られたことは知ってるが、あの者がどこから来たのかは知らないと言い放ちます。それに対して、「へえ、あなたたち知らないのですか?」とさらに目の見えなかった人は応酬します「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。」と実に理にかなったことをこの人は語ります。「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と決然として目の見えなかった人は語るのです

 主イエスによって目を開かれた人は、変えられていきます。この生まれつき目の見えなかった人は、肉体の目のみならず霊の目も開かれました。そして変えられました。私たちもそうです。イエス様を信じても、洗礼を受けても、自分は変わり映えしない、そんなことはないのです。それまで絶対に敵に回してはいけないと考えてきたユダヤ人たちを前に臆することなくこの人はしっかりと言葉を発しているのです。いくら目が見えるようになったと言っても、権力者の前では、この世的な力関係から見たら非力な人間にすぎません。しかしなお、すでに新しく生き始めた人は大胆に変えられて、当時の常識から考えたらありえない行動をしているのです。キリストによって変えられたのです。しかしその人にユダヤ人たちはいうのです。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」<お前は全く罪の中に生まれた>お前は盲人であった、それはお前が罪人だったからだ、まだその因果応報にユダヤ人たちは縛られています。そしていうのです。その罪の中にあったお前が何を言うのか?すでに新しく生き始めている人に対して、あくまでも過去に縛り付けようとする言葉です。

 しかし、先週も申し上げましたように、キリストと出会った者は、過去ではなく、未来に向かって生きはじめます。出身や過去がどうであろうとも、若かろうが歳をとっていようが、新しく生きる者とされるのです。まさに自分自身に神の栄光が現れる、そのような生き方ができるようにされるのです。

 目の見えなかった人は、外に追い出されました。会堂の外に出されたのです。つまりユダヤ人の共同体から追放されたのです。ヨハネによる福音書が成立した時代、ユダヤ教とキリスト教が決定的に分離する時代でした。それまで主イエスを信じる人々もユダヤ教の会堂であるシナゴークに入ることをゆるされていました。しかし、ヨハネによる福音書が成立した時代、キリスト者は会堂から追放されました。この目の見えなかった人が外に出されたという記述は、厳密にいえば、主イエスがまだ生きておられた時代にはなかったことかもしれません。しかしあえて外に出されたと記述されていることには、福音書が成立した時代背景もあると考えられます。

<見える者とされて生きよう>

 その人が追放されたことをお聞きになった主イエスは、ふたたび目の見えなかった人と出会い、会話をなさいます。「あなたは人の子を信じるか」そう主イエスは問われます。<人の子>とはヨハネによる福音書においては、天から来られた救い主という意味になります。目の見えなかった人は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と答えます。ここに信仰者の原点の姿があります。信じたい、でも、その対象がはっきりと見えていない、なにかもどかしいようなところにこの人は立っているのです。それに対して、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と主イエスはお答えになります。この目の見えなかった人は、自分を癒してくださった主イエスの顔は見ていなかったのです。「あなたと話しているのが、その人だ」という言葉に対して、「主よ、信じます」と言ってひざまずきます。不確かなぼんやりとした信仰への思いが、主イエスの言葉によって、新しい一歩へと押し出されました。私たちは私たちの力で信仰を得るわけではありません。主イエスと出会い、主イエスご自身に押し出されて信仰を与えられるのです。そしてまた、主イエスと出会い続け、主イエスの言葉を聞き続けるとき、信仰はさらに養われていくのです。

 主イエスはおっしゃいます。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」この言葉には、みなさん、あれ?と思われませんでしょうか。ヨハネによる福音書3章には「神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とありました。主イエスは裁くためではなく、救いのために来られたのではないのか?しかしここでは、主イエスご自身の口から「裁くために来た」と語られています。しかし、これは矛盾しているわけではありません。主イエスご自身が裁かれるのではなく、主イエスが来られることによって、主イエスへの態度によって人々はすでに裁かれるということです。主イエスご自身が裁きの手をくだされる前に、すでに人間は裁かれているのです。

 しかし、すでに裁かれていた人間は、現実的にはイエス様を裁いて十字架につけました。イエス様ご自身が裁かれたのです。自分たちは見えると思っていた人々によって、主イエスは十字架につけられました。「なぜ」と問いながら、本来は分からないことに対して、自分たちで勝手に理由をつけて、自分たちは見えると考えていた人々に主イエスは殺されました。

 自分たちは見える者、分かっている者、そう考えていた者には、主イエスが天から来られた救い主であること、神の御子であることが見えていませんでした。「その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と自分には天から来られた救い主が分からない、自分には見えないと言っていた人が、救い主が見える者とされたのです。

 私たちも見える者とされました。私たちは見えない者だったからです。罪のために本当の自分の姿が見えませんでした。なにより救い主の姿が見えませんでした。しかし見える者としていただきました。見える目を与えらえたのです。イエス様ご自身から与えられたのです。しかし人間はすぐに自分は見える者だと傲慢になるものです。自分が見える者だと思ったとたん、私たちは主イエスを見失います。そのたびに主イエスのお声を聞くのです。み言葉を聞くのです。見えない者として主イエスの言葉を聞きます。私たちの霊の目はそのときふたたび開かれます。