大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年7月5日 マタイによる福音書9章27~34節

2015-07-10 12:23:54 | マタイによる福音書

 今日、ここには目の不自由な方はおられないかと思います。私は近視で乱視でしかも老眼で、見えにくい眼ではありますが、コンタクトレンズを入れてどうにか見えています。私を含め、見え具合は別としてまったく肉体の目が見えない方は今日はおられません。一方で霊的な目はどうでしょうか?私も皆さんも霊の目は見えているでしょうか?今日の聖書箇所には、霊的に目が見えている人と見えていない人が出てきます。

 霊的に目が見えている人というのは、前半にでてくる目の見えない二人と、後半に出てくる悪霊に取りつかれて口のきけない人です。

 肉体的な目の見えてない人が霊的に見えているというのは皮肉な話です。

 一方で、霊的に目が見えていない人というのは最後に出てくるファリサイ派の人々です。肉体の目は見えながら、霊的には目が見えない、それが今日の聖書箇所に出てくるファリサイ派の人々です。

 主イエスは山上の説教を終えて街々を巡られ、宣教の業をなしておられます。先週お読みした箇所では、12年間出血の続いていた女性を癒し、指導者の娘を生き返らせられました。繰り返し繰り返し奇跡の話が出てきて、ああまたか、と思われるかもしれません。 たしかに似たような奇跡の話しが続いているのですが、一つ一つのエピソードには、やはりそれぞれ固有の意味があります。だからこそ2000年間、教会は大事にこれらの話を語って来たのです。

 ですので、今日の御言葉から私たちは聞きとるべき言葉をいっしょに聞いていきたいと思います。

 二人の目の見えない人たちは、主イエスの後ろから、叫んでいました。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と。でも、彼らが主イエスの後ろから叫んでいる時には主イエスは何もなさらなかったのです。少し冷たいようにも感じる対応です。しかし、ここに関して多くの解釈者は、あえて主イエスはふたりを家の中に招き入れたのだろうと推測しています。大勢の人の中で彼らと対応するのではなく、家の中で、他の人の注目から切り離されたところで、二人と直接話をして、癒されようとされたのだと考えられます。

 先週お読みしましたところに出てくる指導者はひれ伏して明確に願いを主イエスに申し上げました。12年間出血していた女性は、主イエスの服の房を必死の思いで触るという形で主イエスへ思いを伝えました。

 ひとりひとりかたちはさまざまですが、主イエスはしっかりと相手の願いを聞くことを大事になさったのです。それぞれの信仰をしっかり確認することを大事になさったのです。この二人の場合は、家の中で話をするという方法でこの二人の信仰をご覧になりました。

 しかし、話と言ってもここに記されているのは簡単な内容です。「わたしにできると信じるか」とイエス様はお問いになります。

 私にできると信じるか、という言葉は、英語で言うと、Do you believe that I am able to do this? つまりわたしができるということを、信じるか、ということです。「何々ということを」信じる、という言い方です。Do you believe me「私を信じるか」とおっしゃっているわけではありません。私を信じるか、ではなくわたしができると信じるかとおっしゃっているのです。これはなにげない言い方ですが、信仰というものを考える時、とても重要なことです。

 わたしたちは、神を信じるとかイエス様を信じると良く言います。こういう言い方そのものはけっして悪いことではないのです。私は神を信じます。私はイエス様を信じます。もちろん悪くはないんですけれど、私たちの信仰というものを正確に言い表すならば、漠然と神や主イエスを信じているということではないのです。神が私たちを救ってくださるという「ことを」信じるんです。あるいはここで主イエスご自身がおっしゃっているように、主イエスがそれをできる、「ということ」を信じるのです。~ということを信じる、それがわたしたちの信仰です。

 信仰というのは、いわしの頭を信じるような曖昧なものではないということです。現実に神が力を発揮される、またイエス・キリストが私たち自身に働きかけられ私たちのためになにかをしてくださるということを、具体的に信じるということです。「~ということを」信じるということです。そのことを、主イエスは、二人の目の見えない人に問われたのです。

 そして二人は何と答えたかというと、「はい、主よ」です。ギリシャ語でもNai,Kurieという短い言葉です。文語訳の聖書では「主よ、然り」となっています。 はい、信じますという答えではないのです。ただ「はい、主よ」なのです。

 これはただイエスのお言葉を聞いて、「はい」と答えただけです。子供が先生から「宿題してきなさいよ」と言われて「はい、先生」と答えるように答えているわけです。あるいは外国の映画の場面で、上官が何か言ったことに対して、部下が「Yes、Sir」と答える、そのような感じです。言ってみれば、言われたことに対して、ごくごく素朴に素直に「はい」と答えているということです。従順に答えているということです。受け身で答えているということです。その二人に対して、主イエスは「あなた方の信じている通りになるように」とおっしゃいます。そしてその言葉と共に、イエスさまが触れてくださり二人は目が見えるようになったのです。

 先週、12年間出血の止まらない女性はおそらく主イエスのことをはっきりとはわかっていなかったであろうと申し上げました。神学的に明確にイエスのことをわかっていたわけではない、ただ、わらをもすがる思いで、主イエスが自分を治してくださるということを信じていたのです。「治してくださるということを」信じていた。その女性に対して主イエスはあなたの信仰があなたを救ったと言われました。今日の聖書箇所でも、やはりおそらくイエス様のことを深くは理解していなかったであろう、二人の目の見えない人の信仰を主イエスはご覧になったのです。そして「あなたがたが信じている通りなるように」とおっしゃった。ふたりの、ただただ「はい、主よ」と答えるだけの素朴な受け身の信仰を良しとされたのです。

 そして二人は目が見えるようになったとありますが、原文の言葉では、「目が開いた」openという言葉です。つまり彼らは彼らの素朴な信仰によって肉体の目が開かれたということです。「はい、主よ」と答えることができた、そのような素朴で受け身の、しかし霊の目は開いていた彼らの肉体の目は開かれたのです。

 しかし、最初に申し上げましたように、このような主イエスの業を見ながら、霊の目の開かれていない人は別のように解釈をするのです。今日の聖書箇所の最後にあります。ファリサイ人は、悪霊を追い出されたのをみて、主イエスが「悪霊のかしらのちからで悪霊を追い出している」というとんでもないことをいうのです。主イエスがまさに神の力で、神の権威によってなされたことを、霊の目でみることができないとき、人はむしろ、悪意を感じるのです。「はい、主よ」という素朴な信仰がない時、受け身の信仰がない時、人は自分が表に出てきます。自分の信仰が受け身ではなく表に出てくる。自分の力、自分の行いが主体的になってきます。ファリサイ人はそんな自分たちの信仰に自信を持っていました。その信仰は「はい、主よ」という受け身の素朴な信仰ではありませんでした。聖書のことを誰よりもよく知っている、律法を守っている、そんな自分の行いへの信頼のうえにある信仰でした。自分への信仰と言ってもいいものだと思います。

 主イエスが良き業をなせばなすほど、霊の目の開いていない人々はイエスを憎みました。主イエスの中に、悪を見ました。もちろん主イエスの中に、一ミリたりとも悪はないのです。ただそこにあるのは愛と憐れみでした。「はい、主よ」と答えることしかできない、まだ自分の十字架と復活の救いの意味も知らないそんな素朴な信仰をもった人々への限りない愛によって、主は癒しの業をなさったのです。

 ファリサイ人には決定的に愛が欠けていました。仮に神学的に主イエスを信じられなかったとしても、目の見えない人が見えるようになり、口のきけなかった人がきけるようになった、そのことを素直に共に喜ぶという愛に欠けていました。主イエスのことを理解できなくとも、目の前の出来事に素直に驚き、救われた人々と心を通わせようという思いがあれば、主イエスの中に悪を見ることはなかったと思います。私たちは愛がない時、排他的になります。保守的になります。自分たちのやり方、自分たちの考えが前に出てきます。「はい、主よ」という素朴な受け身の信仰を失います。霊の目が閉ざされます。それは教会という共同体のあり方としても同様です。霊の目が開いている時、わたしたちは素朴に素直に人を受け入れ、寛容にふるまうことができます。

 それができないファリサイ派の人々は、こののちもイエスへの憎悪を募らせていきます。いっそう排他的で保守的になります。主イエスの行動の中に、愛や憐れみではなく、神への冒涜や悪魔との連携を見てしまいます。ほんとうは愛のゆえに自由で革新的なイエスを、愛のない保守主義、律法主義、愛のない不寛容によって意地悪く裁いていきます。

 そして主イエスはご自身が多くの人々からそのように誤解されることをご存知でした。ですから今日の聖書箇所の30節に「このことを誰にも知らせてはいけない」と戒められる言葉がありますが、こうおっしゃったのは主イエスの業が多くの人々の誤解に晒されることをわかっておられたからでもあります。そしてまた、逆に主イエスの業が単なるこの世的な力としてとらえられるのを恐れられたからでもあります。

 今日の聖書箇所の最初に目の見えない人々が主イエスに対して「ダビデの子よ」と叫びます。このダビデの子というのは、イスラエルの正統的な王を指します。救い主ということもさします。ローマに支配されていたイスラエルは、やがて救い主がきて、自分たちを解放してくださることを待っていました。主イエスをダビデの子という人々は、まだ本当の主イエスの救い主としてなさることがなにかわかっていません。ですから主イエスがこの世的な政治的な力でローマから救ってくださる方だと思い込んでいました。もちろん主イエスはそのような政治的な救い主、王になるお気持ちは持っておられませんでした。ですから、主イエスはそのような誤解が広がることも恐れられたのです。

 悪意を持った誤解も、善意での誤った意味での救い主とされる誤解も、主イエスは広まらないように、二人に諭されたのです。しかし、この二人はよほどうれしかったのでしょう。主イエスに口止めされながら、その地方一帯に主イエスのことを言い広めたのです。

 そしてこのような噂が広まれば広まるほど、主イエスは、憎しみを買っていかれます。主イエスをこの世のヒーローのように扱う人々、一方で悪意に満ちて敵対する人々の中で、主イエスは孤独に宣教の業を勧められます。誤った熱狂と、冷酷な悪意の中を、主イエスは十字架に向かって歩まれました。しかし考えてみますよ、人間の中には誰にでも、誤った熱狂と、神に対する冷酷さがあります。なんでもかんでも信じていたらうまくいくというやみくもな熱狂的な信仰は、なにかうまくいかないことがあったら、一気に神への不信へ至る信仰でもあります。一方で、ファリサイ人のように、目の前に奇跡を見ながら信じることのできない冷酷さも私たちは時々持つのです。

  数年前、プロテスタント宣教開始150年記念のイベントの一つとして、超教派でウォークウィズジーザスというイベントが開催されました。これは東京の日本橋をスタートして京都までの東海道53次を伝道チラシを配りながら歩くというイベントでした。

 もちろん一日では歩けません。一日20キロから30キロ程度、20日ほど歩いて東京から京都まで歩く行程でした。日曜は礼拝ですから、それぞれの教会に戻って礼拝をして、平日は歩くという形でした。私自身は、当時、会社員でしたので、夏休みの期間の二日程度と、出発と到着のときに部分参加しました。

 その夏休みに参加した時、静岡を歩く区間だったのですが、その日の早朝、東海地方を中心に地震がおこりました。静岡でも震度4くらいだったでしょうか。わたしは新大阪から静岡に向かおうとしていたのですが、東京方面へ向かう列車は軒並み、運休になりました。地震の方は落ち着いていて、予定通りウォークウィズジーザスは実施されるとの連絡は受けましたが、新大阪駅のホームの表示を見たら、「運休」、「運休」とたくさんでているのです。ところがふしぎなことに一本だけ定刻に発車する列車があったのです。それは私が乗車の予約をしていた列車でした。ラッキーと思って飛び乗りました。ただ飛び乗ったものの、行先は、静岡の富士のすその当たりで、途中で、いくたびか在来線に乗り換えないといけません。震源地に近い静岡の在来線の状況がどうなっているのかわかりませんでした。最悪、途中で足止めになってしまう可能性もありました。実際、名古屋や静岡で、在来線乗り換えの時、列車の復旧の状況が最初はわからぬままに待たされました。ネットやラジオでの運行状況と駅員さんの言われる情報が異なっていて、結局駅員さんも良く分からなくてすったもんだしたこともありました。静岡あたりの在来線の路線はわかっていない土地勘もないので、どういう経由でいくべきか、急行や普通の乗り換えタイミングとか、運行止めになっている区間とのかねあいもあって良く分からない中でした。でも、どの区間でも結果的には再開した最初の列車を乗り継いでどうにかウォークウィズジーザスのメンバーと落ち合うことができました。もともとかなり早めに着くように予定してたのですが、結局、もともとの落ち合う予定時刻ちょうどに着いたのです。あとから考えると、一番最短の乗り継ぎで、綱渡りのように、でもとんとん拍子で乗る区間乗る区間が運行再開してたどりついたのです。わたしはそれは神さまの守りだったと思います。

 そういうことを言っても偶然と片づける方は多いのです。わたしは神の守りだったと信じています。それはやみくもな熱狂的な信仰ではないと思っています。しかし、私たちの信仰は往々にして揺らぎます。やみくもな熱狂から、冷酷な悪意の間を行ったり来たりするのです。

 しかし、その行ったり来たりしてしまう信仰からどうにか踏みとどまらせてくださるのは神の力です。揺れ動く信仰を、「はい、主よ」という素朴で素直な信仰へとどまらせてくださるのは主イエスご自身です。「わたしにできるということを信じるか?」と主はひとりひとりに問いかけてくださいます。揺れ動く私たちに「はい、主よ」という信仰を与えてくださいという祈りを持ちつつこの一週間も歩みたいと願います。