大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第8章34~38節

2022-07-31 08:38:17 | マルコによる福音書

2022年7月31日大阪東教会主日礼拝説教「自分の十字架を背負え」吉浦玲子

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃいました。自分の十字架を背負って、というところは、一般的にも使われることがあります。本来の聖書の意味から離れて、運命や宿命、あるいはつぐないというようなものを背負っていくという意味で「自分の十字架として背負っていく」と語られることがよくあります。なにかたいへんな重荷を覚悟を決めて背負っていくというイメージがあります。たしかに十字架は重荷です。しかし、それは、本来の聖書においては、ままならぬ運命とか、責任を取るというような意味で背負うものではありません。

 カトリックの教会や修道院に行くと、「十字架の道行き」という札が立っているところがあります。あるいは絵画で「十字架の道行き」が描かれていることもあります。主イエスの死刑宣告から十字架刑、墓に葬られるまでの14の場面、そして場合によっては15番目として復活の場面までが「十字架の道行き」には描かれています。主イエスは実際、エルサレムから死刑場であるされこうべの丘、ゴルゴタの丘までの二キロほどの道のりを十字架を背負って歩まれました。十字架の物理的重さは諸説あり40キロから百キロ近かったとも言われます。これを背負って二キロの道のりを歩むというのは健康な人間でもたいへんなことです。ましてや主イエスは、その前に、ローマ式の肉に食い込む鉄球がついた残酷な鞭で打たれてもおられます。「十字架の道行き」では主イエスが道で倒れられた場面が三回描かれています。主イエスが三回お倒れになったということは聖書には記されていませんが、実際、その足取りは痛々しくよろめきながらであったことでしょう。

 物理的にもたいへんな十字架を主イエスは担われました。しかし、その重さは、単なる物理的な重さ、肉体的な苦痛を与える重さのみではなく、私たちの罪の重さでありました。主イエスは人間の罪の重さを十字架において担われました。それを知らない、ローマ兵や見物人の群衆は主イエスを罵ります。本来の意味で、十字架を担うということは、誰かの罪を担うことであり、しかもそれは人から褒められることでもなければ、格好の良いことでもありません。皆から罵られ、道をよろめきながら、みじめな姿で歩むことです。それは実際のところ、神であられるキリスト、救い主である主イエスでなければけっしてできないものでした。そしてその十字架による死は宗教的な意味での殉教ですらありませんでした。当時、むしろ主イエスは神から見捨てられたみじめな狂信者として死んだと人々は思いました。「そうれ見ろ、預言者だ、メシアだと言いながら、全く無力で無様に死んだではないか」と。

 しかし、主イエスはおっしゃるのです。あなたたちも「わたしに従いなさい」と。キリストを信じるということはキリストに従うということです。頭で信じているけれど、日々の生活は自分の思うとおりにするのではれば、それは信じていることではありません。日曜日にうやうやしく礼拝を捧げるけれども、月曜から土曜までは神様のことは考えもしない生活を送るのではありません。聖書において信じるということは、行為によってあらわされることです。もちろん行為によって私たちは救いを得たわけではありません。しかし、救われた私たちは、救われた者にふさわしい生き方をします。救われたことへの感謝があれば、完全ではないにしろ、感謝ゆえに救われた者にふさわしい生き方になっていきます。少なくともそういう生き方を目指そうと願います。そう願って生きる生き方が主イエスに従う生き方です。

 そしてそう願って生きていくとき、おのずとそれは十字架を担う歩みになっていきます。 勘違いをしてはいけないのですが、十字架を担う生き方というのは、世のため人のためになることをするということではありません。その良いことのために人知れず忍耐をするということでもありません。もちろん、キリスト教の考えにもとづいて福祉施設を立ち上げる、あるいは学校を作る、困った人を助けるためのボランティアをする、こういうことは良いことです。それが御心であると神から示されるのであればやったらいいのです。しかしそのことと、主イエスの十字架を背負うということは、イコールではありません。

十字架を担う生き方というのは、主イエスがそうであったように称賛を受けるような行為ではないということです。むしろ、さまざまなバッシングや妨害にあうかもしれません。もちろん敢えて自虐的な行為をすることではありません。ただそれは普通に考えて報われない行為なのです。人から見たらばかばかしく見える行為なのです。さきほど十字架は神であられる主イエスにしか担えないものだと申し上げました。実際、本来は人間には担えないものです。しかし、主イエスを信じ、主イエスの後を追う者は、主イエスとまったく同じ重さではないけれども、それぞれに十字架を担うことになるのだと主イエスはおっしゃっているのです。主イエスの後に従う、ということは、当たり前のことですが主イエスの前にはいないのです。主イエスのお姿を前に見ながら歩むとき、それはおのずと十字架を担う歩みになるのです。

十字架を担う歩みは人から見たらばかばかしく見える行為だ、報われない行為だと申しました。しかしまた逆に考えましたら、私たちの人生で、人からばかばかしく見えること、報われないことは、けっこうあるのではないでしょうか。仕事においても、家庭生活においても、報われないことは多くあります。どれほど労苦しても感謝されない、感謝されないどころかむしろ悪く言われてしまう、そういうことはままあります。しかし、主イエスの後に従いながら報われない行為、愛の行いをしていくとき、おのずとそれは十字架を担っていることになるのです。報われないことを、なんでもかんでもやればよいということではもちろんありません。正当な評価や感謝を求めてよいのです。しかし、仮に報われなくても、主イエスの後ろを歩みながら、愛の行いをしていくとき、それは十字架を担う歩みとされるのです。私たちが意識的に十字架を担いましょうと担うのではなく、私たちの報われない愛の行いを神が十字架を担っていると考えてくださるのです。この地上では報われないかもしれないけれど、終わりの日に神が報いてくださるのです。といっても、神の報いを求めて担うというのではありません。こうしたら神様に褒められる、天に富を積むことになると考えて行うことは、十字架を担うことではありません。ただただ主イエスの後ろで従いながら歩む、そこに十字架があるのです。

さて、さらに主イエスはおっしゃいます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」自分の命を救いたい者は命を失い、命を失う者は命を救うというのは、なぞかけのような言葉です。この言葉を自己を犠牲をしたらよいとか、なにか滅私奉公的なことをしたらよいという風にとってはいけないのです。ここで言われている「命」とはなんでしょうか?これはプシュケーというギリシャ語で、魂とか息という意味のある言葉です。人間の存在そのものといってよい言葉です。人間はただ生物学的に生きている存在ではなく、さまざまに考え、思いをもって生きていきます。願わくば、生きがいや喜びをもって生きたいと願っています。やりがいのある仕事をして、プライベートでもいろんな趣味をもって生き生きと生活をしていく、それは理想的なことのように思えます。

実際、私自身、そういうことを目指して生きていたように思います。忙しく、でもそこそこ生きがいをもって生きていたつもりでした。しかしある時、というか、長い間と言っていいかもしれません、意識していなかったむなしさというか、何か根本がかけているという気持ちになりました。だからというわけではないのですが、たまたま教会に行くこととなり、やがて洗礼を受けました。そしてそのあと気づいたのです。ああ、自分はほんとうの意味で生きていなかったと。死んでいたと。一生懸命働き、趣味もあって、生き生きと生きているつもりだった、でも死んでいた、と。

先日、ある教会の牧師就任式に伺いました。その就任式の礼拝の中で、司式をされた牧師の説教で、牧師の働きは、「生きよ」ということを人々に伝えることだと語られました。死んではいけない、生きよと伝えるのが牧師の役目だと。「生きよ」と伝えることはもちろん牧師の役目であり、それはとりもなおさず教会の役目でもあります。その牧師は、さらにおっしゃったのは、この春に、実はその先生の牧会されている教会の青年が自殺したということを語られました。それは牧師にとっても、教会にとってもたいへんな悲しみ嘆きであったと思います。実はその話は、牧師のメーリングリストで私自身、青年が失踪したところからお聞きしていました。皆で青年の無事のために祈りを合わせていた事件でもありました。しかし青年は命を自ら断ってしましました。

「生きよ」という言葉は、まずもちろん、肉体の命において「生きよ」というのです。死んではいけない、苦しみ多いこの地上にあって、なお生きよと伝えるのです。しかしまた、肉体の命は、肉体だけで支えることはできないのです。さきほどいいましたプシュケー、精神、魂において支えられるのです。さらにまた、その人間の精神、魂というものも、人間の力だけで支えられるものではないのです。キリストに従って歩んでいくとき、私たちは、それまで自分が大事だと思っていたさまざまなことを捨てるのです。自分を捨てて、とはそういうことです。自分がいきがいだと思っていたこと、大事だと思っていたこと、自分の命より大事だと思っていたこと、それらをいったん捨てるのです。そのとき、私たちは本当の命を知らされるのです。キリストの十字架と復活によって与えられるまことの命を知らされるのです。霊的な命を知らされるのです。その新しい命に生きるためには、古い自分が死ななければなりません。自分の思いや考えをいったんリセットしなければなりません。自分が大事だと思っていた命に死ななければなりません。洗礼において私たちはいったん死にます。命を失ったのです。そして新しく生かされました。霊的な命をいただきました。

そのとき、私たちは、新しい精神、魂に生き始めます。本当にやるべきことが見えてきます。むなしいと思っていた日々に光が注がれます。そのとき、肉体の命も、精神も、そして霊的な命も本当の意味で行かされるのです。洗礼を受けたのちも、私たちはキリストの後ろを歩んでいくとき、日々、ある意味、死んでいくのです。自分の命を捨てていくのです。しかし、だからこそ生かされる。死んではいけない、生きよというキリストの声を聞くのです。そしてこれまでとは違った世界が見えてくる、そして人間の評価や報いを超えたものを担えるようになってくる、自分の十字架を担えるようになってくる、それは滅私奉公のような苦しいお勤めではありません。いやもちろん苦しみはあります。しかし、本当の命に生きることです。愛に生きることです。この一週間も私たちは、生きます。まことの命に生きます。自分を捨てて、愛に生きていきます。


マルコによる福音書第8章22~33節

2022-07-31 08:35:43 | マルコによる福音書

2022年7月24日大阪東教会主日礼拝説教「あなたは、メシアです」吉浦玲子

 主イエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。それに対して弟子たちを代表してペトロは「あなたは、メシアです」とお答えしました。メシアとはもともとが「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、王や預言者といった特別な役割に神から選ばれた人々を指しました。やがてその言葉は、イスラエルを救ってくださる救い主を指すようになりました。メシアをギリシャ語で言うとクリーストス、キリストです。口語訳聖書ではこの箇所は「あなたこそキリストです」と訳されていました。その主イエスとペトロの会話に先立ち、今日の聖書箇所には目の見えない人が癒される話があります。この話は少し前に読みました7章31節からの耳が聞こえず舌の回らない人が癒される話と対になっていると考えられます。そしてこの二つの箇所は、以前にも申しましたようにイザヤ書35章の5節の「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」という旧約時代の預言者イザヤの預言の箇所とつながると考えられます。マルコによる福音書7章31節の耳の聞こえない人の癒し、そして今日の聖書箇所の目の見ない人の癒し、これらはいずれもイザヤが預言した救い主がやがて来られる時に起こる事柄です。ですから、まさに主イエスの到来によって、耳の聞こえない人、目の見えない人が癒された、これは主イエスがまさに救い主であることを示している出来事なのだとマルコは語っているのです。

ペトロは、主イエスに「わたしを何者だと言うのか」と問われた時、イザヤ書35章の預言と主イエスをつなげて考えていたかどうかは分かりません。しかし、主イエスのこれまでの数々の業を見て、主イエスは神から来られた救い主だとペトロはお答えしたのです。これは他の人々が洗礼者ヨハネの再来だとか、エリヤだ、あるいは預言者だと言っているのとはまったく質の異なる答えです。他の人々は主イエスが何か特別な力を持っているお方であるとは感じていました。そしてその言葉を聞いたり、あるいは助けをいただいたら、救いを得られると思っていました。主イエスは素晴らしい力や言葉で困っているところを助けてくださるお方だけれども、救いの主体はあくまでも自分の方にある、自分で自分を救うと多くの人々は考えていたのです。しかし、メシアだと告白するということは、救いというものが自分の側ではどうしようもないことであり、ただ救い主であるお方によらなければ救われないということを知っているということです。

救いはメシアであるお方からくる、そう考え、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。これは信仰告白です。しかしまた問題は、メシア、救い主であるとは告白したものの、その救い主がどのようなお方であるかをペトロはまだ正確には知りませんでした。そもそも当時のユダヤにおいてメシアとはイスラエルを建て直してくださるダビデのような王と考えられていました。現実のイスラエルをローマ帝国の支配から回復し、ダビデの時代のように強くしてくださる王というイメージでした。ペトロもまたメシアとはそのようなお方だと思っていたと考えられます。

 そのようなペトロや弟子たちに主イエスは語られます。イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とおっしゃいました。「しかも、このことをはっきりとお話になった」とあります。自分は権力者たちから排斥される、殺される、復活する、これらのことを主イエスははっきりとおっしゃったのです。これは当時のユダヤ人が考えていたメシアの姿とは全く異なりました。ダビデのような強い王、敵を蹴散らすつわものとは程遠いものです。

 ペトロはたいへん驚き、主イエスをわきへお連れしていさめ始めました。実際、主イエスの言葉はまだ聖霊を受けていないペトロたちにとっては理解しがたいものでした。それはそうだと思います。神から来られたお方が、この世の権力者ごときに排斥されて殺されるなんて思いもよらないことだからです。そして復活についてもわからないことでした。当時のユダヤの人々は、サドカイ派の人々を除けば復活ということ自体は信じていたのです。それはこの世の終わりの時、つまり神による最後の審判の時、人間は皆復活して、神の裁きを受けることになるという考えでした。しかしその世の終わりの時ではないとき、救い主が復活するなどということは信じがたいことでした。

ペトロはいよいよこれから主イエスがイエスの王国をこの世において築かれると思っていたのです。ですから、排斥されるだの殺されるだのということを言ってはなりません、そんな弱気でどうするのですか?救い主らしく強くあってほしいのに、こともあろうに権力者たちに負けて殺されるなんてとんでもない、そういうことをおっしゃっては、ほかの弟子たちにも、また多くの人々にも示しがつきませんよ、そうペトロはお伝えしたかったのでしょう。現代の私たちはその後のことを知っていますからペトロは愚かだなあと感じます。しかし、私たちもまた、神を自分の思いや考えの中で、神様にはこうあって欲しいと思う者です。愛ある神はこうあるべき、正義の神はこうなさってくださるべき、と神を勝手に規定するのです。しかし、神のなさることや、この世のありさまを見て、神というものが自分の規定に外れていると、神へ失望したり、神なんていないとうそぶいたりするのです。

 そのようなペトロに対して主イエスは「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」」たいへん、強烈な言葉です。この言葉を主イエスは振り返って弟子たちを見ながらおっしゃったのです。つまりこの言葉はペトロのみならず弟子たち皆に主イエスはおっしゃったのです。この時、位置関係としては、おそらくペトロが主イエスの前に出て、他の弟子たちから主イエスを引き離して主イエスに話していたのです。主イエスの前にペトロは出ていました。ですから「引き下がれ」と強く主イエスはおっしゃったのです。

 私たちもまた知らず知らずのうちに神の前に出ていっているかもしれません。自分の方が神の前に出て、神を振り返って、神様こっちにきてください、こうしてくださいと神に指示をしているかもしれません。何の悪意もなく、いやむしろ伝道のため、教会のため、みんなのため、家族のため、一生懸命にやっている、気がつくと神を放り出して、神より前に出て、自分で良かれと思ってやっている、そんなことがあるかもしれません。伝道のため、教会のためということであっても、神の前に出てやっているとき、それは神のことではなく人間のことを思っているのです。

 そんなとき、主イエスは「退け」とおっしゃってくださいます。私の後ろに行けとおっしゃってくださるのです。自分が神の前に出ていることを、そしてそれは道をそれて危ないところへ向かおうとしていることですが、それを止めてくださいます。愛をもって止めてくださいます。でも、その時は分からないことも多いのです。場合によっては自分は良いことをしているのに、物事がうまくいかないと感じるのです。さらには、悪しきものに妨害されているとすら思うのです。もちろんこの判断は難しいのです。ある神学者が信仰書を出版しようと企画をしていたのですが、出版社の都合やらさまざまなトラブルがあって、なかなか出版の作業が進まなかったそうです。その人は最初はそれこそ悪しき力による妨害かと思ったそうなのですが、後から考えたら、自分の中で、焦りがあったそうです。いろいろなトラブルの中で内容についても検討しなおして、その過程でそれまで見えなかったことが見えてきたそうです。そして当初より良い形での出版にこぎつけたそうです。神様が適切にストップをかけてくださったことが良い結果をもたらしたとその方はおっしゃっていました。私たちは時として、不本意であっても、神からの「退け」「ストップしろ」という声を聞き留めなければならないのです。

 さて、またここで信仰告白ということに戻ってお話をしたいと思います。信仰告白とは、三位一体の神への信仰を告白することですが、その核にあるのは主イエスとはどなたか?ということです。ペトロは「あなたは、メシアです」と告白しました。この告白は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと思うか」という主イエスご自身の問いに答えたものです。ここにいる洗礼をお受けになっている方は、皆、信仰告白をなさった方です。みなさんご自身の意思で告白をされました。しかしまた同時に、本人が意識するかどうかは別として、主イエスご自身から「わたしを何者だと思っているのか」と皆さんは問われたのです。主イエスは「何者だと思うのか」という問いの形で私たちを信仰告白へと招いてくださったのです。主イエスご自身から問われたとき、その問いが聞こえたからこそ、私たちは主イエスから引き出されるように「あなたはメシアです」と答えさせていただくのです。つまり主イエスから招かれて私たちは告白をさせていただいたのです。そこに私たちを招いてくださる主イエスの愛があります。愛の問いかけがあります。

しかしまた一方で、そのメシアがどういうお方かというのがあやふやなままということがあるかもしれません。今日の聖書箇所のペトロのように、自分のために苦しみをお受けになってくださり、十字架の上で死んでくださる救い主とは分からないのです。そしてそれはまた、キリストが神から来られた神ご自身ということが分かっていなかったからでもあります。ナザレ村の大工として育たれた主イエスをペトロはメシアだと申し上げました。ペトロだけではありません。キリスト者は、歴史上、たしかに存在し、歴史書にもその名を記されているイエスという一人の男性を、神のもとから来られた救い主、メシアだと告白した者たちです。そして告白した者はそのメシアが神ご自身なのだと知らねばなりません。

 それは人間である誰かを神として祀り上げることとは根本的に違います。人間を神に祀り上げるのではなく、神がこの世界に来られたと信じるのです。このナザレのイエスを神から来られた救い主、神その人だと信じる信仰が聖書の信仰なのです。しかしもちろん、実際主イエスは人間でもあられました。繰り返し繰り返し述べていることですが、これは主イエスは50%人間で50%神だということではなく、完全に人間であり、また完全に神であられるということです。なにか不思議なことでありますが、これはまさに信仰の事項なのです。基本信条で語られ2000年にわたり教会が信じてきたように主イエスは「まったき神にしてまったき人間」であるお方でした。いま、世間では宗教論議が沸き起こっていますが、主イエスを「まったき神にしてまったき人間」ではないと考えることは完全に異端です。聖書にもとづく正統的なキリスト教ではありません。しかしまた同時に、異端の新興宗教のみならず、正統的な教会の中にも繰り返し繰り返し、このような異端的な考えが入り込んできました。このような異端的な言説が教会を壊し、私たちの信仰の命を傷つけるのです。私たちは常にメシアとはどなたか、キリストは何者であられるのかという信仰の土台にしっかりと立たねばなりません。

ですから教会は繰り返し繰り返し信仰告白をするのです。教会では礼拝の中で毎週信仰告白をします。これは唱えるとご利益のあるありがたい言葉ではなくて、私たちの三位一体の神への心からなる告白です。実際のところ、あまり普段は内容を意識しておられないかもしれません。私自身、教会に通い始めたころは、使徒信条も日本基督教団信仰告白も内容は分かっていませんでした。しかしなお、私たちは毎週信仰告白をします。今はコロナ対策のため、声に出しては告白しませんが、心で告白します。ペトロはまだ聖霊を受けておらずメシアの意味を分かってはいませんでした。私たちは最初から救い主の意味がはっきり分かっていたわけではありません。分かったのちでも、私たちも揺れ動く弱いものです。揺れ動く弱い人間である私たちが繰り返し信仰を確認し、信仰の土台に立ち帰ることができるように毎週、告白して確認をするのです。「わたしを何者だと思うか」という主イエスの愛に満ちた問いかけがあるからです。今週も主イエスの愛のまなざしの中で私たちは問われます。「わたしを何者だと言うのか」。私たちもまた感謝と愛をもってお答えします。「あなたは、メシアです」「あなたこそキリストです」。そこから私たちは新しく救いの道を歩みはじめます。あなたこそ救い主ですという告白に確信を増し加えられ、救われた喜びの内に歩みます。


マルコによる福音書第8章1~21節

2022-07-17 12:21:44 | マルコによる福音書

2022年7月17日大阪東教会主日礼拝説教「内なる悪が膨れる時」吉浦玲子

 今日の聖書箇所は、まず主イエスが4000人の人々に食事をお与えになる場面から始まります。これは少し前にお読みした5000人の人々に食事をお与えになった話の繰り返しのように感じます。人の人数やパンや魚の数が異なりますが、話の流れとしてはほぼ同じです。一方で、さて、この一般に「四千人への給食」と呼ばれる出来事があったところは、はっきりと場所を特定はできませんが、前後に出てくる地名、デカポリスやこののち向かったダルマヌクなどから類推すると、おそらく異邦人の地であったと考えられます。以前の「五千人への給食」がイスラエルの地での出来事でしたから、こちらは異邦人へもまた神の恵みが表された出来事であったと言えます。

この箇所で驚くのは、弟子たちの態度が、以前の「五千人の給食」の時と変わらないことです。主イエスが「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」と群衆への慈しみの言葉を語られますが、弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言います。かつて五千人に対して主イエスが五つのパンと二匹の魚で十分に満腹させられた出来事から弟子たちはまったく主イエスの恵みの業を学習していないようです。こういうところを読むと、なんて弟子たちは愚かなのだろうと思いますが、しかしこれは人間の愚かさそのものなのです。旧約聖書の「出エジプト記」に有名な海を割ってイスラエルの人々をエジプト軍から救われる場面がありますが、この驚くべき奇跡を体験したイスラエルの人々が三日後には「水がない」といって文句を言っているのです。私たちは神の恵みに鈍感で、たとえひととき驚き感謝をしてもすぐ忘れてしまいます。そんな私たちに対して神は匙を投げられるどころか、繰り返し繰り返し恵みを与えてくださるのです。私たちが神の恵みを覚えられるように、神は繰り返し、その業を見えてくださいます。

その恵みの出来事ののち、主イエスはふたたび舟に乗ってダルマヌクの地方に行かれました。そこでファリサイ派の人々がやってきて「天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。これは7章の最初のところなどで、主イエスに面目をつぶされたファリサイ派の人々がやってきて、悪意をもって主イエスを試そうとしたのです。すごい奇跡を見せてみろ、そうしたらあなたを神のもとから来たと信じようと言っているのです。あなたが神のもとから来たというエビデントを出せと言っているのです。これまでの彼らは主イエスの恵みの業を見、言葉を聞いてきているのです。主イエスのなさったことを見ても、おっしゃったことを聞いても、神のもとから来られたことが分からなければ、目の前でどれほど奇跡を行っても、理由をつけて主イエスが天から来られた神であることを信じられないのです。「出エジプト記」のなかでエジプトのファラオが神の奇跡を見せられましたが、かたくななファラオは信じようとはしませんでした。奇跡のうちのいくつかはエジプトの魔術師でもできる事柄もありました。ですから、ますますファラオはかたくなになりました。神の奇跡、神のしるしというものは、魔術師が人を驚かすために行うものではないからです。あくまでも人を救いへと導くためのものです。最初から自分たちが救われる必要はないと思っている人間の前で奇跡は起こりませんし、怒っても、合理的に説明をつけてしまうのです。

そして、主イエスはそのようなファリサイ派の人々をそのままになさって、ふたたび舟に乗って向こう岸に行かれました。ファリサイ派の人々をそのままになさいましたが、やがてしるしは与えられるのです。それは十字架のしるしです。ファリサイ派の人々のためにも主イエスは十字架にかかってくださり、神のしるしを見てせてくださいました。

さて、ふたたび乗られた舟の中で弟子たちが慌てる場面が描かれています。さきほどの四千人の給食の時にあまったパンの屑が七籠になったのですが、弟子たちはそれを持ってくるのを忘れたのです。そして舟の中にはパンが一つしかありませんでした。弟子たちにしてみれば、毎日の食事の調達はたいへんなことだったでしょう。パンが一つしかない、ということは大問題です、いったい誰が持ってくるのを忘れたのかとか、言い合っていたのかもしれません。その弟子たちのやり取りをお聞きになった主イエスがおっしゃったのが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」という言葉でした。この言葉をきいてさらに弟子たちは自分たちがパンを持ってこなかったから、主イエスが戒められているのだと言い合っていました。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」という言葉は、パンがないと慌てている弟子たちに、「そんなことよりもっとだいじなことはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種だよ」とおっしゃっている言葉です。ある牧師はここは主イエスのユーモアだとおっしゃっています。パンがないと心配している弟子たちに、パンはパンでもファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種の入ったパンはだめだぞと冗談をおっしゃっているともとれます箇所です。いずれにせよ、主イエスはパンがないことを諫めておられるのではありません。

ところで、パンを作ったことのある方ならご存じと思いますが、パンを膨らませるために入れるパン種であるドライイーストは、小麦粉の重量の1%~2%程度のものです。その少量のものがパンを膨れさせるのです。主イエスは、全体からしたらごく少量の悪しきものが全体に影響を与えるとおっしゃるのです。

 ファリサイ派のパン種とは、律法主義です。律法主義といっても、彼らにとっての律法は、本来の神から与えられた「神を愛し隣人を愛する」という律法の根本から離れた、言ってみれば教条主義でした。ヘロデのパン種とは世俗主義、権力主義です。権力のためならユダヤ人である誇りも捨ててローマと結びついてローマの傀儡となることも厭わないのがヘロデを中心とした当時のユダヤの権力者たちでした。律法への考え方は間違っていましたが宗教的な人々がファリサイ派で、世俗的な人々がヘロデ派といえます。そして本来、まじめなファリサイ派と、世俗的なヘロデ派は反目していたのです。しかし、不思議なことに、もともと仲の悪かったファリサイ派とヘロデ派は主イエスを陥れるために、結託するようになってきます。マルコによる福音書でも、第3章で手の萎えた人を主イエスが癒されたとき、すでにファリサイ派は「ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。主イエスはファリサイ派からもヘロデ派からも早い時期から敵と見なされていたのです。なぜファリサイ派とヘロデ派は、それぞれに違う考えを持った人々でありながら、反イエスとしてつながったのでしょうか。共通の敵だから互いの反目はいったん置いておいて共同戦線をはろうということもあったでしょうが、なによりその根本には人間主義がありました。彼らは一見、まったく違う人々のようでありながら、共に、人間中心であったのです。ファリサイ派は神の律法を守っているつもりでしたが、実際は、律法を守っている自分しか見ていませんでした。そしてそんな自分が人からどう思われているかを大事にしていました。大げさに祈ったり、断食していることが人からわかるようにしていました。そしてまた律法を守っていない隣人を裁いていました。一方、ヘロデ派は当然ながら自分の利益だけを考えていました。

 そんなヘロデ派とファリサイ派に注意しなさい、と主イエスはおっしゃったのです。それはファリサイ派やヘロデにつながる心は人間の中にやはりあるからです。パン種として、ほんの少量であっても、あるからです。弟子たちは4000人に食事を与えられた時、そこに神の業をしっかりとは見ることはできなかったのです。彼らは素晴らしい業をなさる主イエスを誇りに思ったかもしれません。しかし、そこに神の業を見て感謝するよりも、そんなすごい先生につながっている自分たちを誇らしく思ったというところもあったでしょう。人々から感謝されている自分たちという人間中心の思いがあったでしょう。ですから、まっすぐに主イエスの業を神の業とみることができなかったのです。五千人の給食の時も、四千人の給食の時もそうです。主イエスが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」とおっしゃったときも、その言葉をまっすぐに受け取ることができず、パンを持ってこなかった自分たちを諫めておられる言葉だと受け取ったのです。パンがない、その思いでいっぱいだったからです。もちろん主イエスに召し上がっていただくものがないということで困っていたという善意もありましたが、神を見ずに現実だけを見ていたのです。

 しかし、たしかに私たちも現実の日々はパン一個のために苦労をするものです。日本には現実的に今日食べるパンで困っておられる方が多くおられます。また今日明日食べるものにはさしあたり困っていなくても、やはり、日々の生活という点ではきびしいなかに生きている人が大半かと思います。明日の生活、未来の生活を思うと、その現実の前に暗澹としてしまいます。だからこそ、私たちはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気をつけて生きていかねばなりません。人間主義、現実の中で埋もれてしまって大事なことを見失ってしまうのです。そして余計、一個のパンのことで頭がいっぱいになってしまうのです。

 主イエスはおっしゃいます。「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」弟子たちは「十二です」と答えました。さらに「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」と問われますと「七つです」と弟子たちは答えました。この十二とか七という数字は意味があります。どちらも聖書においては祝福された数字です。十二はイスラエルの十二部族を指し、イスラエル全体に祝福が満ちることを指しますし、七は完全数であり、この世界に祝福が満ちることを指します。たしかに五千人の人々が満腹し、四千人の人々が満腹した出来事は素晴らしいことです。

しかしまた、ひととき満腹しても、ふたたびお腹は空くのです。肉体を持っている人間にはこの地上にあってパンのため、生活のための苦労はどこまでいってもあるのです。しかしなお、神の恵みはあふれるほどにあるのだと主イエスはおっしゃっているのです。圧倒的な恵みがあるのだと主イエスはおっしゃるのです。

 ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種から自由になり、素直な心で神を見上げる時、私たちはほんとうの恵みが見えてきます。この世のあれこれ、人の目、さらには自分で自分を縛っている思い込みから離れる時、豊かなものが見えてきます。まことの神のしるしが見えてきます。この世のことや人の目がどうでもいい、祈ったらパンが与えられる、そういうことではありません。しかし、ひととき、私たちは心を神に向けるのです。その時、目が開かれ、耳が聞こえるようになります。ほんのひととき神のパン種を入れていただくのです。その時、美しい神の現実に気がつきます。今日がその日です。いま、私たちは共に神の言葉を聞いています。御言葉に聞いています。ここにキリストがおられ、神の美しい現実へと私たちを招いてくださっています。

 


マルコによる福音書第7章31~37節

2022-07-15 18:28:44 | マルコによる福音書

2022年7月10日大阪東教会主日礼拝説教「開け」吉浦玲子

 主イエスはさまざまな場所に行かれました。今日の聖書個所の前のところでは、イスラエルの外のティルスに行かれました。そもそも7章の最初で、主イエスはファリサイ派や律法学者を批判する発言をされたこともあり、彼らの憎しみを買ったので、イスラエル外にいったん退かれたのかもしれません。しかしまた同時に7章24節には「だれにも知られたくないと思って」とあります。群衆が押しかけて来るような状況から逃れられたともいえます。そのティルスでシリア・フェニキアの女性の娘を癒し、そののちシドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた、とあります。しかし、この経路は、不自然な経路であるようです。といいますのはティルスはイスラエルから見て西北の地にある異邦の地で、シドンというのはティルスよりさらに北にある地です。それに対してデカポリスというのはぐっと南東にくだったところにある異邦の地です。いってみれば、大阪から鳥取に行った後、大阪に帰ってくるのに、いったん福井に行き、和歌山経由で、大阪に戻ってきたような感じです。この不可思議な経路については神学者の間でもいろいろな議論があるようです。もちろん福音書のなかには主イエスのなさったことのすべてが記されているわけではありません。この不可思議な経路の中での出来事が省略されているだけかもしれません。しかしまた、それぞれの地での出来事が省略されているのであるなら、わざわざ不自然な経路を記述する必要もないように思います。ある方は、このティルスからシドン、デカポリスという、異邦の地を主イエスと弟子たちが回ったのは、主イエスが弟子たち以外の誰にも知られないように旅をしたいと思われていたからではないかとおっしゃっています。それは弟子たちとの交わりの時を持つためであり、弟子たちへの深い教えの時であったのではないかと推測されます。マルコによる福音書は、これから十字架に向かう後半へと進んでいきますが、その十字架へと向かう前に、主イエスは弟子たちとの誰にも邪魔されない時間をお持ちになったのではないでしょうか。イスラエルの中では、絶えず人々が押し寄せるような日々でしたから、遠回りするような異邦の地での旅は、比較的静かに主イエスと弟子たちとの特別な時間を持つことがおできになったかもしれません。

私たちも、時には、遠回りのような、本来の在り方でないような日々の中を送ることがあるかもしれません。しかし、そのようなとき、むしろ神との時間を持てることもあるかもしれません。私自身を振り返っても、不本意な境遇に置かれて、やりたいことをストップせざるを得なかった時、今思えば、神との深い時間があったように思います。教会に関して申し上げましても、もう三年目に入ったコロナの時代、社会としても大変な時期であると同時に、教会としても苦しく試練の時でありました。しかし同時に、それゆに、特に神を覚え、いっそう未来へ向けて祈る時として与えられている期間という側面もあるのではないでしょうか。

そして今日の聖書箇所では再び、主イエスはガリラヤ湖に戻ってこられました。ここで人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきました。そもそも福音書には多くの癒しの話が出てきます。主イエスは重い皮膚病の人を癒したり、手の萎えた人を癒したり、長年出血の止まらなかった女性を癒されたり、さらには息を引き取った少女をも癒されました。イエス様の奇跡の癒しの話と聞くとまたかと思われるかもしれません。

 しかしこの癒しの話は少し特別な話でもあります。といいますのは、今日の聖書箇所の最後に「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」とあります。これは人々が主イエスについて語ったことですが、この言葉はイザヤ書35章の言葉を反映しているのです。つまり旧約時代の預言者イザヤは、救い主が来られる時、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。」さらに「口の利けなかった人が喜び歌う」と語っています。そのイザヤの預言が、今や現実となったということです。さらに少し複雑なことを言えば、次の第8章22節からは目の見えない人の癒しが記されています。これもまたイザヤ書35章で預言されていた「そのとき、見えない人の目が開き」とある救い主の業なのです。イザヤ書35章にはつまり今日の聖書箇所から次の8章までが救い

主の到来を描いていると言えます。主イエスが救い主であることを示しているのです。マルコによる福音書の著者は、主イエスの業を、すでに預言されていた救い主の業として強調して描いているのです。

 さて、主イエスは「この人だけを群衆の中から連れだし、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」とあります。「この人だけを」というところが目につきます。この耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきた人々は「手を置いてくださるよう」願ったのです。もちろん、主イエスは手を置くだけでも癒すことがおできになったでしょう。十二年間、出血の止まらなかった女性は、主イエスの服に触れただけで癒されたのですから。しかし、主イエスは手を置くこととは違うやり方でこの連れてこられた人を癒されました。そしてまずその人だけを連れ出したのです。主イエスは個人的な交わりを求められるからです。ただの病や不具合の癒しだけではなく、その人の存在すべてを救いへと導くために主イエスはその人と個別に向き合われるのです。さきほどの出血の止まらなかった女性も癒される時は人々の中に紛れ込んでいましたが、その後、主イエスはその女性を探し出し、会話をなさいました。単に病気が治ればよい、耳が聞こえればよいということではなく、その人を深いところから癒すために、個別に主イエスは関係を持とうとされるのです。

そしてまた、主イエスはこの連れてこられた耳が聞こえず舌の回らない人を「連れ出」したというのは、ただ一人の人間として、神との関係の中に、連れ出されたのです。アブラハムが親族から離れてメソポタミアの地から連れ出されたように、ヤコブがただ一人ハランに向かって旅をしたように、神は関係を持とうとされる一人を連れ出されます。

 そして今日の聖書箇所では、連れ出したのち、主イエスは、指を両耳に入れられたり、唾をつけてその舌に触れられました。ここは、少し今日の衛生観念から言うと違和感のあることですが、一定の癒しのための行為をなさっていることを連れ出された人が理解できるようになさったといえます。「わたしはあなたの耳を癒し、口を癒したいのだ」という主イエスの思いを、耳の聞こえない人に伝えるためでした。そしてまた耳の聞こえないこの人に、主イエスが直接に触れられましたが、この耳の聞こえない舌の回らない人にとって、耳や舌は、本来は、触れられたくない場所でしょう。この人にとって、耳が聞こえないこと、しゃべることができないことは苦しみの根源でした。主イエスの時代、このような障害を持って生きることは、今日とは比べ物にならないようなあからさまな偏見や差別の対象であったでしょう。その苦しみの源である、耳や舌に、主イエスは触れてくださったのです。

 そして主イエスは天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」とおっしゃいました。天を仰いで深く息をついたとは、天におられる父なる神との交わりにここであったと言えます。ここで「深く息をつき」という言葉は「うめく」とか「もだえる」という意味の言葉です。主イエスはここで、この耳が聞こえず舌の回らない人のこれまでの人生の嘆き、苦しみを、うめき、もだえ苦しまれたのです。もとより主イエスは、人間の痛み、苦しみを、離れた所から見下ろして、ささっと超人的な癒しをなさるのではありません。まず一人一人の苦しみ、痛みを、ともにうめいてくださるお方です。そしてその主イエスのお姿によって、この耳が聞こえず舌の回らない人にも、主イエスが自分の痛み苦しみをよくよくわかってくださっているということが伝わったと思います。

そして主イエスは「エッファタ」とおっしゃいました。これは「開け」という意味でした。この言葉の響きだけ聞くとおまじないの言葉のようです。しかしもちろん主イエスはまじないをかけられたわけではありません。救い主として「開け」と命じられたのです。閉ざされていた耳と口を開けとおっしゃたのです。差別され、孤独の中に閉じ込められていたこの人の人生を開けとおっしゃったのです。

耳が聞こえ、口が利ける者であっても、救い主と出会うことのない者の日々は、閉ざされています。罪によって閉ざされているのです。どれほどまじめに努力しても、罪によって、神と遠いところにいるとき、それは閉ざされた日々です。経済的に恵まれていても、仕事にやりがいを感じていても、神に向かって開かれていないとき、本当の生きるべき人生からは閉ざされています。耳が聞こえず舌の回らない人は自分の世界が閉ざされていることが分かりますが、耳が聞こえかつ舌が回る者は、かえって自分が閉ざされていることが分かりません。

主イエスは福音書の中で、よく「耳ある者は聞きなさい」とおっしゃいました。それは物理的に耳が聞こえても、聞こえない人々がいる、耳があっても、救い主の言葉が聞こえない人々がいる、だから敢えておっしゃったのです。「耳ある者は聞きなさい」。しかし、実際のところ、救い主の言葉、主イエスの言葉を聞き取る人は少なかったのです。主イエスはけっして難解な言葉、高邁な理論を語られたわけではありません。しかし、その言葉を理解する人は少なかったのです。神に向かって心が閉ざされているからです。

そしてまた今日、私たちは主イエスの言葉が聞こえているでしょうか?私たちの耳は神の言葉へと開かれているでしょうか?私たちの口は善きことを語っているでしょうか?神の言葉を自分の都合の良いように解釈し、人を傷つける言葉を語っていないでしょうか。そのような私たちのためにも主イエスはおっしゃるのです。「エッファタ」開けと。私たちの聞こえぬ耳を聞こえるようにし、回らぬ舌を回るようにしてくださるのです。福音を喜びの内に聞き取り、真実な言葉を語る者としてくださるのです。

実際に私たちの心を開いてくださるのは聖霊です。聖霊によって私たちの心はキリストの言葉、救いの言葉へと開かれます。エッファタ、開け、今、私たちの心は聖霊によって開かれています。神に向かって開かれた心は現実の世界もまた天に向かって開かれていることを知ります。昭和十五年、当時の大阪東教会の牧師の霜越四郎牧師は玉造署に突然連行されました。何回かお話したことですが、牧師は不敬罪の疑いで九十日間にわたり、拘留されました。無実でありながら拘留されたのです。幸い、霜越牧師は釈放されましたが、拘留中に詠んだ短歌があります。以前も引用させていただいたことがあるかと思いますが、こういう短歌です。「監房のうちはひろしや八方は、ふさがりおれど天に通いて」。短歌としての出来はともかく、霜越牧師の信仰がよくわかる歌です。コリントの信徒への手紙Ⅱの四章八節の「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ばされない」という四方から苦しめられてもというところと、八方はふさがりというところが響きあう歌です。

四方八方ふさがっていても、天に通っている、天には開かれている。主イエスがエッファタとおっしゃるとき、その言葉を聖霊によって聞くとき、たしかに私たちの世界は開かれるのです。いままで閉ざされていると思った現実が、奇跡のように重い扉が開いて、新しくされるのです。


マルコによる福音書第7章24~30節

2022-07-05 18:33:04 | マルコによる福音書

2022年7月3日大阪東教会主日礼拝説教「神にしぶとく物申す」吉浦玲子

 繰り返し祈って、祈って祈って、でも祈っている事柄が実現しない、そういうことは信仰生活が長くなればなるほど、よくあることです。一か月二か月ではない、何年も祈って、祈っている事柄が実現しないことがあります。私たちは粘り強く祈るように言われています。ですから粘り強く辛抱強く祈ります。しかし祈りながら、疑念もわいてきます。私はまだ辛抱が足りないのであろうか、あるいはそもそも私の祈りの内容が御心でないのではないのか、そんな疑念がどんどんとわいてくるのです。

 その祈りの内容が御心に叶わないものだとか、まだまだ祈り足りないとか、そういったことは、他の人からどうこう言えることではありません。個人の祈りというのはあくまでも神と人間との間の個別のことだからです。共同の祈りであっても、その共同体の外の人々にはわかりえないことです。しかしまた、今日の聖書個所を読みます時、私たちは神とのコミュニケーションの在り方においていくばくかのヒントを得られるかもしれません。

 主イエスはティルス地方に行かれました。これはイスラエルの領域を離れ地中海沿いの地方になります。そこでシリア・フェニキア生まれのギリシャ人の女性が主イエスの前にひれ伏しました。この女性には汚れた霊に取りつかれた幼い娘がありました。汚れた霊に取りつかれた娘といえば、私などは半世紀ほども前の映画である「エクソシスト」を思い出します。あの映画では、悪霊に取りつかれた少女の姿を気味悪く描いてあり、大変な衝撃を受けました。このシリア・フェニキアの女性の娘がどのような状態であったのかということは聖書の説明だけでは分かりません。あの映画のような状態であったのかどうかもわかりません。5章に出てきた悪霊に取りつかれたゲラサの人の場合は墓場に住んで、足枷や鎖で縛ってもそれらを引きちぎり砕いてしまったとありました。昼夜問わず叫んだり、石で自分の体を叩いたりしていたようです。このシリア・フェニキアの女性の娘の状態の詳細は分かりませんが、おそらく医者の手におえず、家族や周囲の人々が対応できないような状態だったのでしょう。幼い娘です。普通に病気をして寝込んでいるだけでも痛々しいのに、周囲の手におえない状態で苦しんでいるのです。母親としては、当然ながら、何が何でも娘からその汚れた霊を追い出していただきたかったことでしょう。

 この母親はおそらくこれまでもやれることはやってきたでしょう。手を尽くしてきたのです。でもすべてのことは功を奏しませんでした。そうでなければ、この女性は、異民族の得体のしれない男にひれ伏すことなどはなかったでしょう。当時のユダヤ人とユダヤ人ではない異邦人の間にはたいへん大きな壁がありました。双方の間には大変な距離があったのです。しかし、娘のことで追い詰められていたシリア・フェニキア出身の女性は、このイエスというユダヤ人の男のうわさを「聞きつけ」たのです。そもそも娘のためにちょっとでも効果のあるようなことに関して女性は普段から死に物狂いで調べていたのでしょう。そこに、不思議な癒しの業をするユダヤ人の話を聞きつけたのです。そして藁にもすがる思いでひれ伏したのです。これ以外に娘を救う手立てはないと考えたからです。

 しかし、必死の思いでひれ伏す女性に対する主イエスのお言葉は酷いものです。「まず、子供たちに十分たべさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」とおっしゃるのです。マルコによる福音書ではあっさり書かれていますが、他の福音書では「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と最初に主イエスがおっしゃったことが記されています。つまり主イエスは、イスラエルの救いのためにご自分が遣わされたのだから、異邦人のために働くわけにはいかないとおっしゃっているのです。実際、救いが異邦人へと広がるのは主イエスの十字架と昇天ののち、ペンテコステ以降の使徒言行録の時代となります。とはいえ、主イエスは異邦人を全くお救いにならなかったかと言えばそうではありません。たとえばさきほど引用しましたマルコによる福音書第5章に出て来る悪霊に取りつかれていた男性はゲラサの人であって異邦人でした。

 そうであるにもかかわらず、なぜこのシリア・フェニキアの女性には厳しいお言葉をおかけになったのでしょうか。異邦人には対応しないというにしても「子犬」呼ばわりはひどいと感じます。もし、この女性がどこか傲慢な態度であったというのなら分からないでもありません。しかし、この女性はひれ伏しているのです。この女性のありようは、普通に考えると十分に謙遜なのです。

 しかしまた私たちはここで考えなければなりません。この女性の態度や、あるいは主イエスだけがご存じである女性の心の中の思いに、何か問題があったから、ここですぐには女性の願いを主イエスがお聞きにならなかったと理屈をつけて考えない方がよいのです。私たちが御心にかなうあり方で神に祈れば聞かれ、私たちの態度にどこか足らないところがあるから祈りが聞かれないということであれば、人間の側の態度で神がどうなさるか決めていることになります。自動販売機に規定量のコインをいれれば飲み物が出てきますが、私たちが神のお眼鏡にかなう規定に従った態度を取れば神様が私たちの言うことを聞いてくださるということであれば、神は私たちにとって自動販売機のような存在になります。しかし、神は神ご自身の主権によってなされることをお決めになり実行されます。そこには人間の側の「なぜ」という判断を超えた神の主権があるのです。私たちは神のなさることを縛ることはできないのです。

 それにしても、苦しんでいる女性を前にして冷たいではないか。また、ユダヤ人かそうでないかで対応を変えるなんて差別ではないか。そう思われるかもしれません。しかし、私たちは神を私たちの感情や、現代の常識のなかでとらえることはできません。神を自分の枠の中でとらえてはならないのです。神は神の主権と秩序をお持ちです。秩序の中には順序というものがあります。救いの順序はユダヤ人から始まり全人類に広がるのです。

 シリア・フェニキアの女性は、一見、たいへん冷たい主イエスのお言葉に腹を立ててその場を退いたりはしませんでした。それは娘のために必死であったということもありますが、それ以上に、この女性にはわかったのです。目の前にいるお方が神の権威を帯びた方であることが。女性はそのお方が神の主権と秩序の内に語っておられることを感じとることができたのです。そしてその主権と秩序を受け入れたのです。

 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」ペットとして犬を飼っておられる方には犬はかけがえのない家族ですが、当時、一般的には犬と言えば卑しいものとされていました。その犬に過ぎない者であっても、食卓にいっしょにつくことはかなわなくても、食卓の下でこぼれたパン屑はいただくのだと女性は答えました。娘のために東奔西走し、ありとあらゆることをしてきたにも関わらず娘はよくならなかった、女性は自分の無力をよくよく知っていたのです。自分の無力のなかで出会った主イエスのなかに神の権威を感じ取ることができました。そしてへりくだることができました。

 しかし、謙遜とかへりくだる、というとき、ただただ頭を下げて自分を卑下して相手の言いなりになるということではありません。女性は自分の無力を知り、神の主権と秩序を受け入れました。そのうえで「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と申し上げました。女性は神の主権と秩序を受け入れ、そしてまた同時に神の愛と憐みを期待したのです。パンとまでは言わない、せめてパン屑でもいいのでいただきたいと願ったのです。そこに女性の希望がありました。神はただ厳しく権威あるお方ではなく、愛と憐みをお持ちの方であることを女性は感じ取っていたのです。

 主イエスは「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」とおしゃいます。そして実際、女性が家に帰ると、女性の娘から悪霊は出てしまっていました。<それほど言うなら>という言葉は<あなたの言葉のゆえに>ということです。口語訳や新しい教会共同訳では「その言葉で充分である」と訳されています。主イエスは女性の言葉を良しとされ、娘から悪霊を追い出されました。いま、言葉を良しとされと申しましたが、それは主イエスがこの女性の態度をテストされ、十分にへりくだり、適切な言葉を言ったから合格ということで願いを聞かれたわけではありません。そうであるなら、主イエスは、就職希望者に圧迫面接をする企業の幹部と変わりません。もちろんそうではありません。冒頭に、私たちの祈りの姿勢や内容によって神が祈りを聞かれたり聞かれなかったりするわけではないと申し上げましたが、このシリア・フェニキアの女性の姿勢が主イエスのお眼鏡にかなったから、女性の娘が癒されたのではありません。

 主イエスは女性にもっとも大事なことを伝えられたのです。それは、神を神として人間が受け入れる時、人間は救われる、ということです。神が、自分の思い通りになる神、社会常識にのっとった神、近代的な人権意識を持った神、そのような人間の枠組みではとうていはかり知るのことのできない存在であることを知った時、はじめて私たちは健やかな神との関係を築けます。そして健やかな神との関係を持つことこそが、人間の日々を健やかにしていくのです。神との関係が健やかであるとき、逆に私たちは大胆に神に願いを申し上げることができるのです。神を祈りの自動販売機のように思うのではなく、神が神ご自身の自由な主権の下で働かれることをわきまえたとき、むしろ、その愛と憐みに期待をして大胆に願いを申し上げることができるのです。

 それは、主イエスが来てくださったからです。十字架の主として来てくださったからです。神と人間を隔てる罪を取り去るお方として来てくださったからです。今、私たちは主イエスのゆえに、神と健やかな関係を持つことができます。この世界の権威と秩序を担われる神と親しい関係を持つことができます。私たちの祈り方や、祈りの長さや、態度のゆえではなく、キリストのゆえに、私たちは神と親しく交わることができるのです。「その言葉で充分である」そう私たちに言ってくださるのです。たどたどとした私たちの言葉を「その言葉で充分だ」とおっしゃってくださり、私たちの切なる願いを聞いてくださるのです。いえ、なりより私たちのつたない言葉が神であられる主イエスにすでに聞かれている、そのことがすでに救いなのです。現実は何も変わっていないように見えるかもしれません。祈りの内に願ったことが実現していないように見えるかもしれません。しかし、「あなたの言葉は十分である」とおっしゃる主はすでに私たちに愛をもって良きことを為してくださっているのです。私たちは神と良き関係を持つ時、目に見える現実を超えて、神に愛されていること、神が自分のために働いてくださっていることを知らされます。そしてその神の自由な働きが、ある日、突然のように、私たちの目に見える現実も変えていくのです。