大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章20~26節

2024-08-06 16:30:13 | ルカによる福音書
2024年8月4日大阪東教会主日礼拝説教「喜び踊る」吉浦玲子
<貧しい人飢えた人>
 先週から引き続き、主イエスのいわゆる「平地の説教」を共に読んでいきたいと思います。今日の聖書箇所では4つの幸いと、その幸いと対照的な4つの不幸が語られています。先週もお話ししましたように、大事なことは、ここで語られていることは主イエスの弟子たちに対して語られていることだということです。一般論ではないということです。神と共に歩む者、キリストを信じる者にとっての幸せが語られています。
最初に貧しい人は幸いであると語られています。この箇所については先週もお話をしました。この貧しい人は幸いであるということと反対に24節では富んでいるあなたがたは、不幸であると語られています。ここで貧しさや富というのは、単に経済的な貧乏、お金持ちというのではなく、自分自身の力ですでに充足しているか充足していないかということです。「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」あなたはすでに自分で自分を慰めることができている、神から慰められる必要はない、そんなあなたたちは不幸なのだと主イエスは語られています。人間の本当の幸いは、神からの慰めに生きることです。神からの慰めを必要としない人は、自分では豊かなつもりでも、いつか失われるひとときの慰めに生きているにすぎません。同様に「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と語られ、25節に「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」と対になって語られています。
 私は子供のころ貧乏ではありましたが、食べるものがないような飢えは経験したことはありません。戦中戦後を生き抜かれた方は、ほんとうに食べるもののない経験をしてこられたと思います。現代でも、この地球上では何億という人々が食べることができず飢えている状態です。そのように飢えた状態が幸いということは、この言葉が最初に申しましたように一般論ではなく、弟子たちに語られたものであったとしても、釈然としないところがあるかもしれません。
 この飢えを、たとえば「魂の飢え渇き」と言い換えたとしたら、少し納得できるかもしれません。それは貧しい人は幸いであるということを「心の貧しい人」と言い換えることと似ています。しかし、主イエスの言葉は、そして聖書の言葉は、いつも申し上げていますように、心の問題、精神的な問題だけについて語っているのではありません。貧しさや飢えということも、心や魂ということだけでなく、もっと人間の存在全体に関わることなのです。
<貧しい人飢えた人を招いているか>
 ある牧師はこの聖書箇所に関係して、日本の教会は豊かな人、社会的にどちらかと言うと恵まれた人に対して伝道をしてきた歴史があることを語っておられました。日本の教会は、経済的に貧しい人、食べるものにもこと欠くような人をあまり教会に招いてこなかった。その結果、教会は、それなりに経済的にある程度豊かな人が集まる傾向にありました。もちろん経済的に豊かな人もキリストの救いにあずからねばならないのですから、それはけっして悪いことではありません。ただ一方で、ある程度豊かそうな人々が集う場に、貧しい人や食べるものにもこと欠く人は来づらい雰囲気となります。結局、教会がまことにすべての人々を招く教会とならなかった。そのためプロテスタント宣教160年を超えてもクリスチャン人口が増えない状況になっていると言われます。その傾向は特に改革長老教会においては強かったと思います。古くからの長老教会は、教会全体もどちらかというとそこそこ豊かな人が多く、長老などは特に社会的な地位の高い人がつとめていたことが多かったと言われます。大阪東教会もかつてはそのような教会でした。そのような過去の歴史を考える時、日本の長老教会はまことに貧しい人、飢えている人を招くということをしてこなかったと思います。信仰の問題を、ただ心の問題、魂の事柄として、狭めて取り扱ってきたと言えます。難しい教理や神学は理解しても、まことの愛の実践や現実の世界へのまなざしやこの世界の弱い人々への現実的な愛に欠ける傾向がありました。いえ、そもそも教会の中にも本当の意味での愛が希薄でした。主イエスは、そうではありませんでした。お腹をすかせた群衆に食べ物を与え、病の人を癒されました。それは主イエスご自身が人間として、日々の生活の中で貧しさを知り、空腹を知り、肉体の痛みを知り、心に悲しみを知っておられたからです。単に精神的に豊かになればよい、心を満たせばよいということではありませんでした。
<神にある未来に生きる>
 しかしそのことを前提としながら、ここで語られていることは、単純に年収が低い人とか、一日三食食べることができない人がどうこうということではありません。ここで語られていることは、「今」と「未来」の話です。今、貧しい人は、神の国を与えられるという未来があります。今、飢えている人はやがて満たされます。反対に今富んでいる人、満腹している人は不幸な未来があると言われています。これは単に今はお腹を空かせていても将来はたらふく御飯が食べられるようになり、逆に今たらふく御飯を食べている人は将来没落して食べるものにもこと欠くようになるという人生の浮き沈みの話ではありません。
 神と共に歩むキリストの弟子たちは、自分の貧しさや飢え渇きの中で神の前に立ちます。その弟子たちには、まことの慰めや神からの満たしが与えられます。キリストと共に歩む者は、もちろんその歩みの途上も神からの恵みや助けを受けて歩みます。しかし、それ以上に、「未来」に生きる者なのです。その未来は神が造ってくださる未来です。それは最終的には終末の時に神が新しく造られる新天新地に至る未来です。しかし、私たち一人一人の人生の未来も神の恵みの内にあります。私たちは主イエスの十字架と復活によって救われながら、いまだ不完全な者です。愛に欠ける者です。しかし、キリストの弟子たちは、その情けない「今」にとどまりません。
 主イエスが12人の弟子を最初に選ばれました。その中の一人のペトロは主イエスが逮捕された時、主イエスのことを知らないと三回も言いました。そのペトロは、そのような弱いままのペトロではなかったことが聖書に記されています。やがて彼は迫害をも恐れず伝道をする者に変えられました。キリストによって変えられたのです。
 私たちも、今の自分を見ると、情けないなあと思うところがあると思います。しかし、私たちは変えられていく未来があります。今は愛に欠けていても愛することの出来る者に変えられる、そういう未来があります。そしてまたそれは、繰り返し言いますが、単に心の問題ではなく、生活全般にも関わってくるのです。私自身を含めて、クリスチャンになって、生活や生き方が大きく変わった人は多くあります。経済的なことに関しても神は不思議なやり方で現実的に助けてくださいます。私たちが神の未来を信じて生きていくとき、その未来は神によって物理的にも心のあり方にしても豊かにされていきます。私たちはキリストの弟子として生きる時、すでに神の未来に生かされています。
 それは次に語られている「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになるということについても同様です。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになると語られています。私たちには悲しみ、苦しみはたしかにあります。しかし、やがて笑う未来が来るのです。それに対して、今の現状に満足して神から離れている時、深い悲しみ涙が訪れるのです。
 もう20年ほど前になりますが、2005年にJR福知山線の脱線事故がありました。100名以上の方が亡くなる悲惨な事故でした。その数年後、あるドキュメンタリーを見ました。その脱線事故で重傷を負い、脳にダメージを受け体の自由がきかなくなりリハビリをしている二十代の女性のドキュメンタリーでした。事故の前、その女性はおしゃれな雰囲気の女性で、明るい感じで、元気に会社員として働いておられました。しかし事故による後遺症で体にひどい麻痺が残りました。その方がリハビリをされている映像がありましたが、最初その表情は暗く、リハビリに対しても投げやりな感じでした。それまでの健やかな生活を奪われてしまったことに絶望されているようでした。それでも家族に支えられながら少しずつ気力を取り戻し、リハビリを続けられました。そしてある春に、車いすで桜の咲いている公園に家族と散歩に行かれている場面がありました。桜を見ながらその女性が「ああ、生きているって感じやなあ」と笑顔を見せておられました。まだ言葉をはっきりと発音することは難しい状態でしたけれど、「生きているって感じやなあ」と笑顔でおっしゃっている姿に感動しました。事故の理不尽さ悲惨さの中で本来なら一番輝くはずの二十代の若い日々を奪われ苦しんでおられた方が今生きていることを本当に喜んでおられました。その映像を見ながら、キリストの弟子である私たちも、とても立ち直れないような悲しみに襲われても、やがて笑うことができる、神が未来をお造りなるゆえ、私たちは、今泣いていてもやがて笑うことができることを感じました。
<人々に憎まれる時>
 ところで「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」という言葉はこれまでの貧しい人飢えている人泣いている人とは少し異質な感じがします。人に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる、こういうことは普通に考えますと、ごめんこうむりたいことです。貧しさや飢えも辛いことですが、人間は社会的な存在ですから、人々から排斥されることは人間の存在の根源を脅かすことです。主イエスがおっしゃる「人々から憎まれる」ということは信仰ゆえに迫害されることです。そして何より、人に憎まれ追い出されののしられるのは、こののち主イエスご自身が十字架につけられることにおいて起こったことです。人々から「十字架につけろ」と叫ばれ、「ユダヤ人の王」と茶化した罪状書きをかかげられ、神を冒涜した者という汚名を着せられました。そしてまた、弟子たちも主イエスの昇天ののちは迫害の中を生きました。
 そういうことを考えますと、ひとまず表立った迫害のない現代の私たちには「人々に憎まれるとき」以下の言葉は関係のないように思います。しかしそうではありません。私たちもある時は信仰ゆえに憎まれるのです。一般的にクリスチャンというのは、日本の社会の中では、それほど悪くは思われていません。この教会を創立されたヘール宣教師が大阪女学院も設立されたように、クリスチャンは教育や医療などの面において社会に貢献してきた実績があるからです。またクリスチャンの一般的なイメージは敬虔で穏やかで愛にあふれているというものです。
 しかし、クリスチャンは、そもそもこの世の価値観で生きてはいません。神を第一として生きていきます。たとえば日曜日に礼拝に出席するということひとつをとっても日本の社会から見たら不思議なことです。クリスチャンになる前、私も信じられないと思っていたことです。日曜に礼拝に出席するため、仕事や家族や地域社会との折り合いをつけなければならないこともあるでしょう。人によってはそこに戦いがありますし、そのことのゆえに人から憎まれるということもあるかもしれません。
 日曜のことだけでなく、まことに神を第一として生きていくとき、大なり小なり戦いがありますから、世間一般で思われている敬虔で穏やかで愛にあふれているクリスチャンのイメージとかけ離れることもあります。クリスチャンは世間一般で思われている良い人とか人格者というところとは根本的に違う存在だからです。
 主イエスはおっしゃいます。「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」私たちはこの世の人々から評価されるために生きていません。ただ天に富を積むために生きています。天に富を積むとは、神により頼み、自分の罪を悔い改めつつ、愛に生きるということです。愛に生きるということは、一般的な意味での善行や奉仕とは違います。主イエスは称賛を受けることなく、ご自分の命までお捧げになりました。それは私たちを永遠の命へと生かすためでした。
 私たちは世間的な評価を受けるためではなく、だれかに命を与えるために生きていきます。私たちの小さな愛の行いによって誰かがまことの命、神と共に生きる命を得るならば、そのこと以上の喜びはありません。私たちはその時、喜び踊ります。いえそれ以前に、今私たちが神と共に生きている、そのことによって、主イエスご自身がお喜びくださっています。天で多くの先人と天使が私たちの今を喜び踊ってくださっているのです。私たちは主イエスの喜びのうちに、喜びの未来に向かって歩んでいきます。