大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2014年11月16日 マタイによる福音書6章5~8節

2014-11-16 15:08:20 | マタイによる福音書
大阪東教会 2014年11月14日主日礼拝説教
マタイによる福音書6章5~8節
「隠れた祈り」 吉浦玲子伝道師

 洗礼をうけてすぐのころ、突然、知らない人からメールが来ました。
「僕の好きな歌が聞けるホームページを作ってください」
という、ただそれだけのものでした。
アドレスを見ても見覚えありませんし、本文中に、挨拶も自己紹介もないわけのわからないメールでした。
 すぐに、当時所属していた教会の牧師から「ごめんなさい!」と電話がありました。事情を聞きますとこういうことでした。その教会には知的障害のある男の子がいたんですが、その子と先生が話をしてて、先生が「この間、洗礼を受けた吉浦さんと言う人はコンピュータの仕事をしてる人だから君の好きな音楽のサイトをたくさんリンクしてくれて、すぐに音楽が聞けるホームページを作ってくれるかもしれないよ」とついしゃべってしまったそうなのです。そうしたらその子は、私のメールアドレスしらべて、すぐにメール送ってしまったようです。先生は「びっくりされたでしょう、すみませんでした」とのことでした。
 その後、その子と直接お話をしてホームページを作る約束をしました。その子は知的障害だけでなく目も見えない子でした。でも彼は音声案内によってパソコンの操作をすることはできました。そしてパソコンのインターネットのラジオで讃美歌やゴスペルといった音楽を聞くのが大好きだったようです。そういうインターネットラジオのいろんなサイトをアクセスしやすくするホームページを作りました。
 そのホームページを作っているとき、ときどき彼からメールがきました。
「早くイエス様のことをうたった讃美歌聞きたいです」
とか
「アンパンマンの歌もいれてください」
というようなお願いごとの短いメールでした。
当時、牧師先生はよくおっしゃっていました。
「彼のメールを読んでいると、ああ祈りって本来こんなものだなあ、ってつくづく思います。彼のメールはそのままとても素直な祈りです。」
たしかにわたしもそう思いました。「イエス様の音楽はやく聞きたいです」「アンパンマンの歌も入れてください」
その短いお願いの言葉は、そのまま彼の心からの切なる祈りでした。
今日の聖書箇所には、そのような切なる祈りとは正反対の祈りを例にあげて、主イエスは語られています。会堂や大通りの角に立って祈る、、、現代の私たちには考えにくいですが、当時は義務として祈るということがあったようです。ちなみにイスラム教では一日何回、何時にというところまで祈りの規定があります。私の昔の職場には熱心なイスラム教徒の方がいました。彼は日に何回も祈るのです。日の出の時間とか日没の時間によって祈る時間が違ったようでした。毎日、日の出と日没の時間が書かれたタイムチャートをもって祈っていました。
主イエスの時代のユダヤ教はそこまで厳密な規定はなかったようですが、自分で決めた時間に祈るというのはあったようです。その時間になったら、どこででも祈る、人前で自分が祈っていることがわかるように祈る、そのことによって自分の熱心さを示すということが実際にあったようです。
そのようなことは私たちにはちょっと滑稽にも思えます。本来、神に向けて祈るものを人目を意識して祈るというのはおかしいと思います。でも、主イエスのお言葉は、今の私たちに全く関係のないことともいえません。
たとえば私たちも集会などで人前で祈る、ということになると、正直なところ、少し構えてしまうことがあるかもしれません。緊張もします。祈りは神に向けてするものだと思っても、つっかえたらどうしよう、とか、言い回しがおかしかったらどうしようと考えます。そのような場合の緊張は、良い意味での集会に仕える者の謙遜さの表れでもありますし、祈りへの真剣さの表れでもありますので、悪いことではありません。ただあまり緊張しすぎたり構えすぎたりするのは、神ではなく人間を見て祈っていることになりますので、できるだけゆったりと神様におゆだねして自然に祈るようにできたら、と思います。もちろん難しいことですが。
そのような人前で祈る場合ではなくても、私たちの一人でする祈りにも問題はないでしょうか?
主イエスは奥まった自分の部屋に入って戸を閉め隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい、とおっしゃっています。ここで言われている奥まった部屋とは当時では貯蔵庫であるとされています。家の中で戸が閉められるのは貯蔵庫だけだったというような事情があるようです。もちろん、主イエスは物理的に個室に入って鍵をかけて祈りなさいとおっしゃっているわけではありません。
私たちの祈りのあり方として、心構えとして、神と一対一で相対しなさいとおっしゃっているのです。家族があったり、忙しかったり、なかなか一人で祈りの時間がとれないということがあると思います。私は以前、電車の中で祈ったりしていました。主イエスは、どこかで、神と一対一で向かい合う時間を作りなさいということを言われています。
また貯蔵庫というのは、日常的な場所ということでもあります。わざわざ神殿とか会堂に行くのではなく、それぞれの生活の場で、日常的に祈りなさいということがいわれています。主イエスご自身は良く山に登って祈りの時間を持たれていたようです。
そしてまたくどくどと述べてはいけないともおっしゃっています。これは次の節とも関係しています。神はそもそも私たちの必要なことをよくよく知っておられる、それをまるで私たちが、神に懇切丁寧に説明しないと神様には理解いただけないかのように祈るのは、厳しく言えば神への信頼が薄いということになります。
一人で祈るときも私たちは長く祈る必要はないのです。神さまはすべてわかっておられるのですから。もちろん、神との交わりの時間として長く祈ることは悪いことではありません。ただ、くどくどと説明的に祈る必要はないということです。
一方で、教会学校などでもときどき聞かれるのですが、祈る前から神様が私たちの必要をご存じであるのなら、そもそも私たちはなぜ祈る必要があるのでしょうか?そのあたりのことを少し考えてみたいと思います。
ところで、皆さんは祈りのノートとかメモみたいなものをつけておられますか?いろいろな祈りの課題を書き出して、その祈りが叶ったらチェックをするようなものです。
そのようなノートをつけていると、本当に祈りというものは神に聞かれているんだということがわかります。一つ一つの項目に関していえば、まったく祈っても何の変化もない、「神様聞いてるんですか?」と文句を言いたくなるようなこともあります。
でも一方で、半ばあきらめて、ダメだろうな無理だろうなと思って祈った、、、これも不信仰な姿勢ではありますが、そんな弱い祈りが、あっけなく叶う場合もあります。また、ぜんぜん聞かれないと思っていた祈りを、あるときよくよく考えたら、自分の願っていた通りではないけれど、実はまったくべつの形でかなえられていたということに気づくこともあります。
今年、ある方の再就職について祈っていました。その方は単身赴任されていたのですが家庭の事情で家に帰らないといけなくなりました。会社の状況はきびしく、地元への転勤ということはどう考えても不可能なので、今の会社を退職して地元の他の会社をさがすということで相談されました。祈りつつ、ツテを頼って、あれこれやっていたんですが、なかなかうまくいきませんでした。頼っていたつもりのツテのおひとりに、ずいぶん時間がたってから実は話が伝わってなかったことがわかり、そちらのツテがまったく動いてなかったということもありしました。そうこうしているうちにその方が会社を辞めないといけないタイムリミットが迫ってきて焦りつつ、一生懸命祈りました。そしてどうにかひとつ話があって、その方に連絡をしたら、連絡をしたまさにその日に突然、絶対に不可能と思われていた地元への転勤の内示があったそうです。家の近くというわけではないけれど通える範囲のところへの、転勤でした。私もその人も本当に驚きました。私は再就職のことを祈っていましたが、そうではない方法ででも一番いい形で神さまが運んでくださったわけです。
ところで、祈りが、神への願いが叶うということは、ひとつひとつだけを見たら、それは偶然だろうということもあります。たまたまなんではないかということがあります。でも、多くの祈りの体験を積み重ねていくうちに、祈りは必ず聞かれるということがわかります。そして多くの場合、自分が望んでいるより、もっと良いものが与えられたり、もっといい形で実現したりします。
もちろん叶わないこともあります。たとえば大伝道者のパウロが自分の体の病のことを祈って癒されなかった、祈りが聞かれなかったという話は有名です。でもその祈りが叶わなかったということを通して神が何を自分に望んでおられるのかをパウロは知ったのです。つまり神の力は弱いところに働くということを知るというです。パウロが強かったら神の力は働かなかった、働いていてもそれはパウロの力であるようにパウロにも周囲の人にもみえるかもしれない、でも人間の弱さの中に働かれる神の力ということを、祈りが叶わなかったことを通じて知ることができました。
私たちの願いが叶うとき、また叶わない時、そのいずれにおいても私たちは神の善き心を知ることができます。神が神の最善をなさることを少しずつ理解していきます。
そのことのために私たちは祈ります。神は私たちにとって何が必要か、何が最善かをご存知です。神が考えられる最善を私たちは知るために、教えていただくために私たちは祈るのです。それは神とのコミュニケーションでもあります。神による愛のレッスンであるとも言えます。
でもやはり、どんなに祈っても叶わない、そのようなときは辛いです。切実なことであればあるほど、悲しみに満たされます。なぜ神様はこのようなことがわたしのうえに起こるのをゆるされるのかと思います。時に涙を流すようなこともあります。
でも、その涙が永遠に乾かない、などということはないのです。詩編56編9節にこうあります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋に私の涙を蓄えさせてください。」
なぜ私たちは祈っているのに聞かれず、涙を流さないといけないのか、その時にはわからないかもしれません。わかりたくもないかもしれません。でも、その涙の一滴たりとも神は忘れることなく、ご自身の革袋に納めておられます。受け止めてくださっています。
私たちがやがて試練ののち、心からの喜びを得るときまで、神はすべてを負ってくださり、私たち以上に、くるしまれ、わたしたちと共に泣いてくださっています。
でも、やがて私たちは喜びの日を迎えるのです。神の最善が、最善の時になされることを知ります。そのとき私たちは詩編126編の詩人と共に喜びの歌を歌います。
「涙と共に種をまく人は
喜びの歌と共に刈り入れる
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
わたしたちも喜びの歌と共に刈り入れ、喜びの歌を歌いながら帰ってくるために今日も隠れた場所と神への祈りを祈ります。涙をまいているような祈りが、喜びの歌にいつか変わる。喜びながら帰ってくる、そのことを信頼して、今日も祈ります。