大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第7章1~23節

2022-06-28 16:35:21 | マルコによる福音書

2022年6月26日大阪東教会主日礼拝説教「言葉は心を映す」吉浦玲子

 渡辺善太という聖書学者であり、かつ牧師である方がおられました。ゼンダ節と言われる独特の語り口で魅力的な説教をされた先生です。この方の説教に「偽善者を出す処」という題の説教があります。偽善者を出す処、それはどこかというと教会だと渡辺先生はおっしゃるのです。先生はその説教の中でなぜ教会で偽善が起こってくるのかということを分析し明快に語っておられます。いまここでその内容すべてを紹介することはできませんが、かなりおおざっぱに説明すると、偽善というものは、人間の心が神ではなく人間に向いていることから起こることなのだと渡辺先生はおっしゃいます。同じことをしてもそれがまっすぐに神の方をみて為したことであれば偽善ではなく、まさに善であり、人間を見て為すなら偽善なのだとおっしゃいます。人間を見るというのは、自分の行為を人に見てもらいたい、自分が評価されたい、そういう思いでやったのならそれは偽善であると。しかし、神を見て行う善は、「証言的」なもの、「神を証しするもの」なのだとおっしゃいます。その善は行為を行った人を指し示すのではなく、神を指し示し、行為を見た人に神への恐れを生じさせるものなのだとおっしゃいます。そしてそもそもその行為は本人も自覚的に為していることではないので、そこに人から良く見られたいという思いも入ってこないのだと。

 しかしまた渡辺先生は、偽善と言っても、そこに善という基準があるから起こってくるのだとおっしゃいます。信仰を得てまだ日の浅い人が、がんばって、善を行おうとしても、それは本当の意味で神を指し示すものではなく、偽善になってしまうことが多い。そして実際に教会には偽善が多い、偽善者が多い、教会は偽善者を出す処だとおっしゃるのです。しかしそれでもいいではないか。神を指し示す本当の善ではなくても、自分なりに善を為そうとする、その善の在り方は間違っていることがほとんどなのだけど、しかし間違って初めて、人間は自分が偽善者であることを知るのだと。そしてそこからまことの神の善に向かっていくのだから、教会にはどんどん偽善者が出たらよい、むしろ偽善者がたくさんいることは教会が活発な証拠だとおっしゃっるのです。これは聞きようによってはかなり乱暴な言葉です。今日の聖書個所を読みますと、主イエスは律法学者やファリサイ派を「偽善者」だと批判しておっしゃっています。主イエスは律法学者やファリサイ派の偽善をお許しになっていないのです。渡辺善太先生はそのような主イエスの言葉に反することをおっしゃっているのでしょうか。そういうことを考えながら、今日の聖書個所を読んでいきたいと思います。

 さて、今日の聖書個所の前半は、「昔の人の言い伝え」に関する話となっています。これはいわゆる、口で伝えられた口伝律法と言われるものです。食事の前に手を洗う、というのは衛生上は当たり前のことのようですが、ここで手を洗うということは、衛生上のことではなく、宗教的な戒律として言われているのです。しかしその戒律は、もともとモーセの時代に神から授けられた律法にはないものです。敢えてあげれば出エジプト記の30章18節にある、清めの規定が関連すると言えます。しかしこれは、アロンたち祭司が臨在の幕屋に入る時の規定であり、言ってみれば、神を礼拝するときの規定です。それが主イエスの時代には拡大解釈されて、食事の前に手を洗うという口伝律法になっていたのです。

 このような例はいくらでもあるようで、たとえば、ユダヤ教では、乳製品と肉を一緒に食べることはしません。それは出エジプト記23章19節にある「子山羊をその母の乳で煮てはならない」というところからきています。もともとは子山羊とその母の乳であったことが拡大解釈されて、乳製品と肉類をいっしょに食べてはいけないということになったのです。

 主イエスの弟子たちは、この拡大解釈された「食事の前に手を洗う」という口伝律法を守らなかったことからファリサイ派や律法学者から攻撃されました。このように律法がどんどん拡大解釈されて膨れ上がるのは、良くも悪くも人間の「まじめさ」が関わっています。神の前に罪を犯したくない、そのために、禁止事項をどんどん増やしていくのです。そしてその禁止事項を守っていることで安心するのです。本来、律法は神に救われた者へ授けられたものです。しかし、律法や口伝律法を守ることによって救われる、守れない人間は救われないと逆転したこととなりました。律法や口伝律法は人間を裁くためのものとなり、また、救いの条件のようになりました。

 その誤りを主イエスは厳しく指摘なさいました。「イザヤは、あなたがたのような偽善者のことを見事に預言したものだ」と律法学者におっしゃいます。そのイザヤの言葉は「この民は口先ではわたしを敬うが/その心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている」というものです。これは、イザヤ書29章13節にある言葉です。神をあがめているつもりで、結局、人間の作ったものをあがめているのだという言葉です。なぜこういうことが起こるのでしょうか?ひとつには本来、その人が神に従っているかどうかは人からは見えないからです。なので、見える部分で判断をした方が分かりやすいのです。食事の前に手を洗っている、とか、安息日には手の不自由な人を目の前にしても癒さない、とか、肉と乳製品を一緒に食べない、そういう目に見える行為のほうが判断をしやすいからです。

 そしてその判断とは、人間の判断です。人間が他の人間を見て裁くのです。手を洗っていない、安息日の口伝律法の規定を守っていない、人のあらを探し始めるのです。そこには本来の律法が、救われた人間への愛の戒めであったことが抜け落ち、人から自分がどうみられるか、そしてまた人をどう裁くかということに心が行ってしまい、神と隣人への愛が抜け落ちているのです。

 しかし、聖霊降臨以降に生きている私たちは、聖霊による戒めによって生きています。もちろん、キリストの十字架によって罪贖われたとはいえ、何をやってもいいというわけではありません。神への感謝と導きによって生きていきます。しかしまた、ともすれば私たちも、新しい律法で自分たちを縛る者です。「クリスチャンらしさ」とか「クリスチャンのくせに」という言葉は他者から言われるだけでなく自分自身でも意識的にも無意識的にもキリスト者を縛ります。敬虔で柔和で寛容なクリスチャン、いつも感謝しているクリスチャン、愚痴などこぼさないクリスチャン、何があっても笑顔で前向きなクリスチャンでなければならないという呪縛があります。その呪縛ゆえ、私たちは偽善的にならざるを得ません。それはむしろ食事の前で手を洗うことよりも深く私たちを縛っているかもしれません。

 そのような偽善的なありかたに対して主イエスは少し謎めいた言葉をおっしゃいます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

 人の中にあるもの、それは罪です。いやいや、人間の中には善意も、向上心も、親切な心もあるではないか、そう思われるかもしれません。たしかに人間の心の中に良いものがまったくないということはないでしょう。そうでなければ、この世界はもっとひどいことになっているでしょう。しかし、それらのよきものを破壊するのが罪です。人を愛したり心配したり何か助けになりたいと願う心はあっても自己中心の罪は、人を愛しているつもりで自己愛を満たしているだけになったりします。人のために社会のために貢献したいと思ったことが結局、自己満足に終わったりします。罪のある私たちの中から出て来るものは、たしかに人を汚すのです。

 口伝律法で食事の前に手を洗うというのは、汚れをとるという意味がありました。手を洗って、細菌やウィルスをとることはできても、私たちの内なる罪を取り除くことはできません。どんなに手を洗っても、罪を抱えている以上、私たちは心と口と行いで悪を為し、汚れを外に出すのです。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」そう主イエスはおっしゃいます。

 ところで、私の母は着物を縫う和裁をしていました。クリスチャンではありませんでしたから、折れた針を「針供養」しないといけないと言っていました。本来の仏教における供養、サンスクリット語でプージャナーというらしいですが、その供養と日本で一般的に言う供養は違うもののようです。そしてまた日本で、もともと供養というのは死者に対してのものですが、それがさきほどの針供養や人形供養とか鏡供養といったモノにまで供養するようなところがあります。最近では炎上したSNSの情報供養とかもあるそうです。この供養というものを行う心理には恐れがあります。折れた針や人形から何か悪いものが出て来て、人間に害を及ぼさないようになだめるようなニュアンスがあると思います。悪いものが人間を襲ってこないようにという願いがあります。しかし、さきほど申しましたように、主イエスは、悪いものは人間から出て来るのだとおっしゃっていたのです。折れた針や古い人形より怖いのは人間なのです。悪は外からくるのではないのです。

 その人間の内なる悪を滅ぼしに来られたのが主イエスです。神のもとから来られました。人間の外から来られました。悪を滅ぼしに来たと言っても人間を成敗しにこられたわけではありません。ご自身が十字架におかかりになり、むしろご自身が人間の手によって殺されることによって、罪を十字架の上で滅ぼされました。

 その主イエスを信じる者の罪は贖われました。そしてまた信じる者には聖霊が与えられ、聖霊によって正しいことを示される者とされました。私たちはキリストの十字架のゆえに、キリストへの信仰のゆえに罪赦された者ですが、依然として、内なる罪、悪を持っているものです。善を行いたいと願いながら、悪を行ってしまう者です。善だと思って行ったことが、実際は自己中心的な身勝手なことであったりします。まさに偽善的なことを行ってしまいます。

 しかし、私たちは、聖霊によって、私たちの内なる悪を知らされます。ですから、同じ偽善者という言葉を用いていても、今日の聖書個所に出て来る律法学者やファリサイ派のように自分の中に悪があることを問題としてしていない者ではありません。手さえ洗っていれば汚れが取れるとは思っていません。自分は正しく、自分のようにできない人間は間違っているとは思っていません。

 渡辺善太先生がおっしゃる教会の中の偽善者は、自分が罪びとであることを知り、自分の内なる悪を知り、それでも神に向かって善を為したいと願いつつ、まだ内なる悪によって、善を為せない状態の人々です。それは私たちのことです。しかしまた私たちは聖霊によって変えられていきます。その点において、渡辺善太先生がおっしゃる意味での偽善者がたくさんいる教会は未来への希望があるのです。

 私たちは心ならずも偽善的なことを行ってしまいます。しかし、すべてのことを聖霊は正しく示してくださいますし、キリストを指し示してくださいます。私たちは幼子が親の真似をするように、生涯をかけてキリストをまねながら、まことの愛を学んでいきます。聖霊によってまねるべきキリストの御姿が示されるのです。そして、キリストの愛が私たちにあふれる時、そしてまた私たちがキリストの愛の行いをたどたどとまねていくとき、少しずつ、私たちは神が喜ばれる善を為す者に変えられていきます。


マルコによる福音書第6章45~56節

2022-06-19 17:47:32 | マルコによる福音書

2022年6月19日大阪東教会主日礼拝説教「恐れることはない」吉浦玲子

 今日の聖書箇所は新共同訳聖書の表題で「湖の上を歩く」となっています。実際、主イエスが湖の上を歩いてやってこられたことが記されています。その前のところには男性だけで五千人もの人々に五個のパンと二匹の魚だけしかないのに皆が満腹するように食事を与えられたこと、しかも余ったものを集めると十二の籠にいっぱいになったことが記されていました。普通に考えてあり得ない奇跡の話が続くと、特に信仰をお持ちでない方は作り話とか、話を盛っていると考えられるかもしれません。少し前、教会を訪ねてこられたキリスト者ではない知り合いと話をしていた時、「聖書の中の、こういう奇跡の場面がどうにも納得がいかない」とおっしゃっていました。しかし逆に、私は思うのです。この世界を創造された神、その神のもとから来られた主イエスが、五千人に不思議なありかたで食事を与えられたり、湖を歩かれるなどということは、ある意味、まったくたいしたことがない話ではないかと。旧約聖書には神が海を割られた話などもありますが、世界を、つまり全宇宙を作られたお方が海くらい割ることがおできになるのは、別に驚くべきことではありません。ましてや湖の上を歩かれた、なんてことも大きな話ではありません。主イエスが不思議な曲芸のようなことがおできになったこと自体には大きな意味はないのです。

 私たちは神を神として受け入れ、神の業を見る時、人間から見たら奇跡と見えることの奥にある神の御心を知ることができます。逆に言えば、その御心を示すために、神は時に奇跡のようなことを人間にお見せになるのです。主イエスは湖の上を歩くこともおできになる、スーパーマンだということではないのです。

 その今日の場面では、群衆との食事ののち、主イエスは、すぐに、弟子たちだけを舟に乗せて向こう岸へ向かわせられました。「強いて」舟に乗せ、とあるのが不思議なことですが、そもそも主イエスは弟子たちに休養を取らせたかったのです。群衆との食事の前、もともと主イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃっていました。主イエスは、何より、弟子たちだけにすることを主イエスはかんがえておられたのです。

 そして主イエスおひとりで群衆を解散させて、ご自身は祈るために山へ行かれました。弟子たちだけにされたという理由の一つは、ご自身が一人で祈る時間を持つためもありました。祈りは父なる神との交わりの時です。どのようにあわただしい日々であっても、主イエスであろうとも、父なる神との交わりを大事にされました。ここで少し補足をします。主イエスは三位一体の父、子、聖霊なる神の内の「子なる神」です。父、子、聖霊といっても三人の神がおられるわけではありません。神は、父、子、聖霊が本質において同じという意味で、おひとりなのです。キリスト教は一神教であるということはそういうことです。三位一体というのは、おひとりの神が、人間から見て、三つのお姿に見えるということです。しかしまた、今日の聖書個所を読むと、主イエスが父なる神に祈っておられるわけで、そうなりますと、何か父なる神と子なる神が別のもののように思います。異端であるキリスト教系新興宗教は基本的に三位一体を否定していますが、実際、こういう箇所は、キリスト教系新興宗教から三位一体を否定する根拠としてあげられるのです。イエス様が父なる神に祈られているということは、父と子は別もので、三位一体ではないのだと。ここで三位一体の深い議論はいたしませんが、おひとりの神が人間の救いのために三様のお姿を取られる、違うもののように見えるというのは、三位一体の神が、人間への愛のため、人間から見て三様のお姿にあって、しかしなお交わりを持たれるということです。別のもののように見えて、父と子と聖霊はわかちがたく結びついているということです。

 そうです、主イエスと父なる神は祈りを通して分かちがたい結びつきにあられました。そして夕方になった時、弟子たちの乗った舟は湖の真ん中に出ていましたが、逆風のために弟子たちは漕ぎ悩んでいました。そこですぐに主イエスが助けに行かれた、というなら分かりやすいのですが、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれたのです。しかも、通り過ぎようとされたのです。ここのところはたいへん分かりにくいことです。弟子たちは主イエスが湖の上を歩いておられるのを見て「幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。」とあります。たしかに明け方のまだ暗い湖の上を、それもプロの漁師である弟子たちが舟を漕げないくらいの風が吹いている荒れた湖の上を人影が近づいてきたら幽霊だと思います。弟子たちがおびえたのもよくわかります。

 しかしまた、神である存在は人間にとってそもそも理解できない、人間の理解を超えたものです。旧約聖書でも人々は神を恐れました。その顔を見たら死ぬと思っていました。神ご自身、あるいは神からの使いである天使であっても人間には恐るべき存在でした。ですから、神であられる主イエスを弟子たちが恐れたのはふしぎではありません。しかしまた人間は神を神と認識できず、とんでもないものと認識する存在でもあります。弟子たちは神を幽霊だと恐れました。科学技術の進んだ現代では幽霊などとは言わないかもしれません。しかし、その代わり、神の業を何か合理的に説明しようとしたりします。

 おびえて叫んでいる弟子たちに主イエスは話し始められました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」まるで幼子に語りかけるように弟子たちを落ち着かせ、「わたしだ」とおっしゃるのです。この「わたしだ」という言葉はギリシャ語でエゴーエイミーという言葉で「I am」という意味です。これは旧約聖書(出エジプト記)で、モーセに名前を聞かれた神が「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。この「わたしはある」という言葉はまさに「I am」なのです。つまりここで日本語でさらっと「わたしだ」と訳されている言葉は「わたしはある」と神ご自身がおっしゃった言葉なのです。ここで主イエスは、ご自身が「わたしはあるという者」つまり神だとおっしゃっているのです。ご自身が、本来、人間が恐れるべき神であることを示されました。しかしまた同時に、恐れなくてよい、ともおっしゃって舟に乗り込んでこられました。そして主イエスが舟に乗り込まれると風は静まりました。

 嵐が静まる話は4章にもありました。4章では主イエスは弟子たちと一緒に舟におられ、主イエスが風をお叱りになると風がやんだと記されていました。その時も弟子たちは風を叱られ風を静められるこの方はどなただろうとたいへん驚きました。今日の箇所でも弟子たちは心の中で非常に驚いたと書かれています。「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」心が鈍くとは心が固くなっているということです。彼らの心はがちがちに固かったのです。男性だけで五千人の群衆に奇跡的にパンと魚を与えられたことを見ても、湖の上を主イエスが歩いてこられたことも、それはすべて弟子たちが主イエスを神として信じるようになるための、主イエスの業でした。しかし、弟子たちの心は固かったのです。神の業を神の業として受け取ることができなかったのです。

そもそも主イエスは彼らだけ舟に乗せて先に行かせました。そして風によって舟が進みづらくなった時、ご自身を呼び求めることを待っておられました。しかし弟子たちは暗い激しい風の吹く湖を自分たちだけで進んでいきました。主イエスはとうとう助けに向かわれました。通り過ぎようとされたのは主イエスの姿を見た弟子たちから、やはり、助けを求められなかったからです。意地悪で弟子たちを試されたわけではないのですが、しかし、神を呼ぶ心を弟子たちに主イエスは期待されたのです。しかし、弟子たちが呼ばなくても、やはり主イエスは弟子たちを救ってくださいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をおかけになり、舟に乗り込み、風を静めてくださいました。

 私たちも、やみくもに自分の力で暗い暴風の中を突き進もうとするのです。主イエスの方から近づいて来られても助けを求めようとしないのです。いよいよ神がそばに来られると、慌てふためき恐れるのです。私たちの心が鈍いからです。心ががちがちに固まっているからです。

 その心を溶かしてくださるのが聖霊なる神です。私たちの鈍くてかたい心を主イエスへと開いてくださるのが聖霊なる神です。聖霊を注がれた弟子たちは、はっきりと主イエスがどなたでどういうお方かを知りました。まだ聖霊をいただいていないとき、弟子たちは怯え慌てふためき恐れました。パンの出来事も湖の出来事も理解はできなかったのです。

 いま、私たちは主イエスのことを知っています。どのようなお方か知っています。しかしながら、時々、心が鈍くなります。かたくなになるのです。そして自分の知識、自分の力、自分のやり方に固執するのです。

 イザヤ書30章15節に「安らかに信頼していることにこそ力がある」という言葉があります。かたくなな心ではなく安らかに神を信頼しているとき神の力が与えられるのです。そしてまた「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というパウロに語られた有名な神の言葉があります。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるという言葉は、自分の弱いところ欠けた所を神が補ってくださるということではなく、まさに人間が無力なとき、神の力が発揮されるということです。ですからパウロは、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と語ります。パウロは優秀な学者であり、卓越した伝道者でした。彼には客観的に見ても、誇るべきところは多くあったと思います。しかし、弱さ以外は誇らないというのです。

 私たちは何を誇りますか?地位ですか?財産ですか?容姿ですか?性格のよいところでしょうか?あるいは私などダメな人間で何も誇れないと感じておられますか?私たちは誰であっても神の前でも人の前でも自分自身を誇ることはできませんし、また逆に自分を卑下する必要もありません。私たちは神に愛され、神に用いられ、私たちに神の力が働かれる存在だからです。「通り良き管」という言い方を時々します。説教者が通り良き管として御言葉を語らせてくださいというように祈ったりします。キリスト者は、ある意味、神の力が通り、働いてくださる管なのです。その管を、自分の誇りなどというもので詰まらせてはならないのです。ただただ神が力をふるわれる、神の力がすーっと通っていく。そのことに安らかに信頼していればよいのです。安らかに信頼するということは、何もしないということではありません。弟子たちが舟を漕いだように、私たちもそれぞれの舟を漕ぎます。しかし、柔らかな心で漕ぐのです。キリストの足の下にあった湖は、人間にとっての現実です。私たちにとっては動かしようのない現実です。時に牙を向き私たちに襲い掛かってくる現汁です。しかし、その現実は主イエスの足の下にあるのです。主イエスは現実より上におられる方です。ですから、主イエスこそが、この現実の中で私たちを助けてくださるのです。そしてまた、私たちがキリストのことを忘れていても、キリストの方から「安心しなさい」そう語りかけてくださり、恐れを取り除いてくださるのです。ですから私たちは信頼します。私たちのために十字架で命まで捨ててくださった、そのお方に心を開き、柔らかな思いで信頼するのです。そのとき、向かうべき岸辺が夜明けのひかりの中に見えてきます。


マルコによる福音書第6章30~44節

2022-06-19 17:24:56 | マルコによる福音書

2022年6月12日大阪東教会主日礼拝説教「五つのパンと二匹の魚」吉浦玲子

今日の聖書箇所は、直前にあります洗礼者ヨハネの殺害の場面の前から続いています。6章7節からの、使徒と呼ばれる12人の弟子たちがそれぞれに宣教の旅に出かけた箇所から続いているのです。今日の場面では、使徒たちが宣教から帰ってきた場面となります。6章7節に、彼らは主イエスから「汚れた霊に対する権能を授け」られたとあります。彼らは主イエスから特別な力をいただいて出かけたのでした。その結果、多くのすばらしいことが起こったのでした。帰ってきた使徒たちはそのことを報告しました。「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」とあります。弟子たちは喜びにあふれて、自分たちが行い、語ったことを主イエスに報告したのです。

主イエスもまた使徒たちの報告を喜んでお聞きになったことと思われます。そして「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。使徒たちは特別な権能を授けられ宣教に向かいましたが、彼らは弱い肉体を持った普通の人間でした。授けられた権能で素晴らしいことをなしてきたかもしれませんが、彼らの心身は遣わされる前と同じ人間なのです。旅の疲れもあるでしょう。だから主イエスは「休むがよい」とおっしゃったのです。主イエスご自身が神の身分であられながら肉体をもってこの世界に来られました。疲れ、病を得る、弱い肉体を持った人間というものをよくご存じでした。だから「休みなさい」と使徒たちにおっしゃったのです。逆に使徒たちの方は素晴らしい権能をいただいて、これまでできなかったことができて、少し興奮していたかもしれません。自分は少し違う人間になったかのように思ったかもしれません。しかしそうではない、あなたがたは弱い人間に過ぎない、だから休みなさいと主イエスはおっしゃったのでした。

そのような主イエスの思いやりある言葉でしたが、結局、彼らが出かけるのを感づいた群衆に一行は先回りされて休むどころの話ではなくなりました。せっかく使徒たちを休ませたかったのに、それができなくなってしまったのですが、主イエスはその群衆を見て深く憐れまれました。群衆は病をいやしてくださる方、悪霊を追い出してくださる方、自分たちの痛みを取り去り、苦しみから解き放ってくださる方を待ち望んでいました。その群衆の姿は神と離れた人間の悲しい姿でした。「飼い主のいない羊のような有様」だと主イエスは感じられたのです。本来は、神に造られ、神と共に喜び身に満ちた楽園にいるべき人間が、神と切り離され、みじめな有様になっている、そのことを主イエスは憐れに思われました。羊が羊飼いから離れたら生きていけないのと同じように人間がみじめな姿となっている、それはとりもなおさず人間の罪のゆえでした。人間は罪のゆえに神と共に生きることができなくなってしまった。飼い主である神から離れ、荒れ野をさまよい、茨に絡みつかれ、飢え乾いているのです。それは主イエスを知る前の私たちの姿でもありました。そんな人間に対して主イエスは、私たちは疲れているのだから今日は相手をできません、とはおっしゃいませんでした。深い憐れみのゆえ舟に立ち上がりいろいろと教え始められました。神から離れ、飼い主のいない羊のようである人間に対して「時は満ち、神の国は近づいた」ことを語られました。ご自分がこの地上に来られた、今や神の国は近づいた、あなたたちと共に神がおられる、あなたたちは神という飼い主によって豊かに導かれ、生き生きとした命に生きる者なのだと語られたのです。

そうこうしているうちに時間はたちました。主イエスは長くお話になったのです。人々を憐れみ、語らずにはいられなかったのです。その主イエスのところへ弟子たちがもう時間もだいぶたったから「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう」と言いに来ました。弟子たちの言うことはもっともでした。そもそも主イエスや弟子たちが人々を集めたわけではありません。群衆の方が勝手にさきまわりしてやってきたのです。主イエスはその群衆に対して十分お語りになりました。主イエスご自身も自分たちも本当に休まないといけないし、そもそも自分たちの食べるものの調達もできていない、そんな状況であったろうと思われます。これに対する主イエスの言葉は驚くべきものでした。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」

繰り返しますが、群衆は勝手にやってきたのです。弟子たちが食べ物を調達しなければならない義理はありません。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と弟子は驚きます。二百デナリオンは、一デナリオンが労働者の一日の賃金ですから、きわめておおざっぱに計算したら二百万円ほどといえるかもしれません。聖書の後の方を読みますと、男が五千人いたとあります。当時は女性や子供は数としてカウントしませんでしたから、実際は一万人くらいの群衆がいたと思われます。一万人にパンを買っていればたしかに二百万円くらいはいるでしょう。そういう状況で「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」などという言葉はとんでもないことです。

しかし、これを使徒たちの派遣の話から続けて読みます時、少し違う観点も見えてきます。使徒たちは特別な権能を授けられて宣教の旅にでかけ、成果を上げて帰ってきたのです。彼らに与えられた権能は、主イエスの権能、神の権能でした。使徒たちはそのことがまだあまり分かっていなかったと思われます。男だけで五千人もの人々に食べ物を与えなければいけないという現実を目の当たりにしたとき、神の権能、主イエスの権能というものが彼らの頭の中から消え去ったのです。いえ、宣教の旅から帰ってきた時点ですでに消えていたのです。使徒たちはまるで自分の力で宣教を為したかのように「自分たちが行ったこと教えたこと」を報告したのです。主イエスは敢えてその場では使徒たちをお叱りになりませんでした。しかし、今や使徒たちは現実の前で、無力な自分の姿をつきつけられたのです。神の権能、主イエスの力をもってすれば、不可能はないはずなのに、そして目の前に主イエスはおられるのに、使徒たちにはそれがわからなかったのです。つい最近まで、自分自身が主イエスからいただいた権能を用いて宣教をしていたにもかかわらず、今、目の前にある現実しか見えなくなってしまったのです。

あなたたちはさっき、喜びにあふれて自分たちがやったこと語ったことを報告したではないか、あれは、自分たちの力で行ったと思っていたのか?自分たちの力でできるのなら、今ここで、この群衆にも食べ物を与えることができるだろう、そう主イエスはおっしゃっているのです。もちろん意地悪でおっしゃっているのではありません。これから聖霊降臨の後、使徒たちは彼らだけで宣教を始めていくのです。主イエスのお姿を肉眼では見ることのできない中で、宣教を行うのです。そのとき、大事なことは何か?それは、姿は見えなくとも声は聞こえなくとも、神が共におられる、キリストである主イエスが働いてくださるということなのです。自分たちの力、知恵、そんなものはちっぽけなことです。五千人の男たちを前にして、ガリラヤの田舎者に過ぎない使徒たちが何をできるというのか、その現実の中、なお、「あなたたちにはできるのだ」ということを主イエスは弟子たちに伝えておられるのです。あなたちにはできる、なぜなら私がここにいるから。

主イエスはおっしゃいました。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」そのお言葉に従って弟子たちは見て来ました。そしてパンが五つと魚が二匹あることが分かりました。五つのパンと二匹の魚では、主イエスと弟子たちだけが食べるにしてもまったく足りません。これは2000年にわたって、教会が直面してきた問題でもあります。教会が特別にこの世的な権力と結びついて財を成していたら別ですが―歴史的にそういうこともありましたが―教会はいろんな意味で貧しいのです。企業では人、モノ、金ということを言います。この世界で活動するためには、人材や物的資産やお金が必要なのです。教会もこの世界にある以上、人もモノもお金も必要なのです。そしてそれらはまっとうな教会であるなら、現実的にはいつも不足していたのです。圧倒的に不足していたのです。まさに五つのパンと二匹の魚しか、二千年にわたり、教会にはなかったのです。

主イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」とあります。そしてすべての人が食べて満足したのです。そんなバカなことがあるかと思われるような箇所です。<いや実は、有力なパトロンがいて差し入れをしたのだ>とか、<そこにいた人はお腹は減っていたが精神的に満足したのだ>といった合理的説明をする人もいるかもしれません。実際のところ、どのようなことが起こったのかは分かりません。しかし、キリストが共におられるということは五つのパンと二匹の魚という現実の中で、神の奇跡が起こるということです。

神の奇跡が起こるなら、私たちは何もしないで祈ってさえいたら教会は立っていくのでしょうか。そうではないのです。主イエスは群衆を組に分けて、青草の上に座らせるように命じられました。そしてまた弟子たちにパンと魚を渡して配らせられました。教会は秩序をもってこの世と向き合っていくのです。そしてまたキリストの弟子たちはキリストから渡されたものを配っていくのです。実際、十二人の使徒たちはキリストからいただいた権能をもって宣教をして、素晴らしい成果を上げたのです。しかし、あまりにも成果が素晴らしく、それが自分の手柄であるかのように思ってしまいました。しかしそうではない、人間は、キリストから手渡されたものを配っていく存在にすぎないのです。

キリストから手渡されたものを配っていく存在に過ぎない、というとつまらないことのように感じられるかもしれません。しかし、今日の聖書箇所では五千人の男たち、つまり女子供を入れたら一万人以上の群衆が「食べて満腹した」のです。大いなる恵みを得たのです。それも皆で得たのです。誰か特別な人が、豪勢なごちそうにあずかったのではありません。いただいたのはパンと魚ですが、皆が満足できたのです。「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠がいっぱいになった」とあります。十二というのは、イスラエルの十二部族を指します。そしてまた神の祝福の完全数です。ここにまさに新しい神の国、神がお立てになった祝福の天の国が起こった、まさに「神の国は近づいた」と主イエスがおっしゃった「神の国」が青草の原の上に実現したということです。

教会でもまた、青草の原の上に神の国が立てられるのです。キリストが共におられ、キリストの弟子たちである私たちがキリストから手渡されたものを配る時、そこに祝福に神の国が起こるのです。バッハがその楽譜に「ソリデオグロリア(神の栄光のために)」と書いていたことは有名です。大音楽家であるバッハであれば、その音楽はたしかに神の栄光をあらわすといってもさもありなんと思われるかもしれません。でもバッハだけではありません。キリスト者一人一人がキリストと共にあって為すことすべてが「ソリデオグロリア(神の栄光のために)」なるのです。そしてまた神の栄光があらわされる時、私たちの小さな小さな業が輝かされるのです。ひょっとしたらその輝きは誰も見ていないかもしれません。教会の中の働きもそうです。人の目につく働きもあれば知られていない働きもあります。私たちの人生における働きもそうです。誰からも知られない、感謝もされない、感謝どころか誤解されたり迷惑がられたりすることすらあるかもしれません。しかしそのすべてがキリストと共にある時「ソリデオグロリア(神の栄光のために)」用いられます。五千人の男たちが満腹することも奇跡ですが、そして実際にそのようなとても理屈で説明できないような奇跡も起こるのですが、もっとも大きな奇跡があります。それは私たちの小さな小さな業がキリストによって用いられ、神の国の喜びとされることです。誰も見ていないような私たちの小さな業が天にどよめきをもたらすのです。

 


使徒言行録第2章29~42節/ヨエル書第3章1節

2022-06-19 17:13:41 | 使徒言行録

2022年6月5日大阪東教会主日礼拝説教「神が見せてくださる幻」吉浦玲子

<ヨエルが預言したことの成就>

 最初にお読みしましたヨエル書第3章に「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。/あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」という言葉がありました。聖霊降臨のときに読まれる聖書箇所です。旧約聖書の時代、神の言葉は特定の預言者、先見者にのみ与えられました。しかしやがて「すべての人に」神の霊が注がれる日が来る、とヨエルは預言しているのです。あなたたちの息子や娘、すなわちあなたたちの子孫は、皆が預言するようになるというのです。神の言葉を直接聞くことができるようになる、というのです。そしてヨエル書全体から読み解くとき、これは「主の怒りの日」、つまり終わりの日の前兆、さきぶれとして起こるのだとヨエルは語るのです。

 まさにヨエルが預言した神の霊の注ぎが二千年前の五旬祭の時、起こりました。主イエスが昇天なさったあと、百二十人ほどの弟子たちが祈っていた、その時に、炎のような赤い舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。弟子たちは聖霊に満たされ、言葉を語りだしました。それもほかの国々の言葉を語りだしたとあります。そこで語られていたのは神の業についてでした。激しい風の音のようなものが響き、近隣の人々がやってきて驚きました。その後、ペトロの説教が語られ、その日三千人の人々が仲間に加えられたと記されています。

<裁きの前兆として>

 何かとんでもない特別な出来事が起きて、三千もの人々が洗礼を受けた、それが聖霊降臨日の出来事です。そしてこれが教会の誕生のときであると言われます。さきほど、この聖霊降臨を預言したヨエル書は終わりの日の前兆として神の霊の注ぎが起きると申し上げました。終わりの日とはなんでしょうか。それは裁きの時です。罪の裁きの時、まさに「主の怒りの日」です。その裁きの時に先立って、聖霊が注がれるのです。それはとりもなおさず救いのためです。私たちが裁きにあうことなく、終わりの日を迎えることができるように、神は先立って聖霊を注いでくださったのです。聖霊降臨において、熱狂的な集団催眠のようなことがおこったわけではなく、神の愛と憐みのゆえに、人間を救われる神の業として聖霊は注がれました。

 そもそもイエス・キリストの十字架において、救いは成就しました。その救いの出来事が私たちに結びつけられたのが聖霊降臨です。私たちは主イエス・キリストを信じることによって救われます。その主イエスの御業を私たちに知らせてくださるのが聖霊なのです。私たちは聖霊の力なしには主イエスを信じることはできませんし、そもそも聖書を読むこともできません。聖霊の力がなければ、聖書はただの昔の人が書いた文学書に過ぎません。主イエスは2000年前イスラエルに現れ一時的にもてはやされて死刑になった宗教家に過ぎません。主イエスがまことに救い主であること、神から来られた神であることは聖霊によらなければ分からないのです。

 実際、主イエスと三年半生活を共にしていた弟子たち、さまざまな奇跡を目の当たりにして、復活のキリストにすら出会った弟子たちでしたが、聖霊を賜る前は、主イエスがどのようなお方で何をなさったのか分かっていませんでした。使徒言行録の1章を読むと昇天される前に主イエスに「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と弟子たちは聞いているのです。彼らには故国イスラエルのローマからの独立ということを離れて主イエスの救いの業を考えることができなかったのです。

 しかし、聖霊を注がれた弟子たちは一変しました。使徒と呼ばれる十二人の弟子たちは立ち上がり、今日この時の出来事が預言者ヨエルによって預言されていたこと、そして十字架につけられた主イエスについて力強く語ります。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」こう大胆に語ったのです。この日は五旬祭ですから、まだ十字架の出来事から50日余りしかたっていません。主イエスを十字架につけた権力者たちに目をつけられたら、自分たちに危険が及ぶ可能性もあります。しかし、主イエスが逮捕されたとき三回「イエスなんて知らない」と言ったペトロを始め、かつて主イエスを置いて逃げ去った弟子たちは、三千人の前で堂々と語ったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と主イエスはおっしゃいましたが、まさに弟子たちは驚くべき力を与えられ、キリストの証人として語ったのです。

<心を打たれ>
 そしてその言葉はおのずと悔い改めを迫るものでした。十字架の出来事を知っている群衆に対して、その中には主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人々もまじっていたかもしれません。その人々に「あなたが主イエスを十字架につけて殺したのだ」と語ったのです。聖霊が注がれて語られる言葉は、単なる主イエスの知識ではありません。人間の罪をあらわにする言葉なのです。しかし罪をあらわにされながら、聞いた人々は怒り出すどころか「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」たとあります。ここの「心を打たれた」という言葉は単に感動したということではなく「心を激しく刺された」という意味です。刺されて心が痛みを覚えたのです。聖霊によって語られる言葉は心地よい言葉とは限らないのです。私たちの心に突き刺さり痛みを生じさせる言葉でもあります。逆に言いますと、甘い言葉、耳触りの良い言葉、知識としての言葉、人生訓のような言葉だけを求める人には聖霊は働かないのです。聖霊によって語られるのは、「主イエスを殺したのはあなただ」と悔い改めを迫る言葉です。

 ここにいる私たちも主イエスを殺しました。主イエスを十字架につけた者たちです。ここにいる誰一人として主イエスなんて知らない、2000年前のことなんて関係ないと言えないのです。2000年前、キリストは私たちのために十字架にかかられました。私たちはそのことを聖霊によって知らされます。2000年前のことを自分のこととして知らされます。十字架の出来事はほかならぬわたしのためであったことを知らされます。私を愛して命まで捨ててくださった方がおられる、そのことを知らされます。神のとてつもない愛を知らされます。聖霊は神の愛を私たちに知らせてくださる神です。キリストである神が命を捨てて私たちを愛してくださった、そのことを聖霊なる神に知らされる時、私たちは変えられます。変わらざるを得ないのです。新しい人間とされます。キリストの証人とされます。キリストを語るべき言葉が与えられます。人を新しくする言葉が与えられます。人を愛する者に変えられます。愛するということは単にやさしい言葉を語ることではありません。神の愛を伝える、時として心を刺す言葉を語るのが愛の行いです。

<ビジョンによって開かれる未来>

 なぜ私たちは語ることができるのでしょうか。「若者は幻を見、老人は夢を見る」とヨエル書の中に記されているように、神から与えられた神の霊、聖霊によって、幻や夢が与えられているからです。夢、幻というと儚くて、現実的でないことのように、特に日本語では感じられます。しかし幻とはビジョンです。私たちはこの現実の社会の中で、将来のビジョンをどうするのか?ということをよく問います。国や社会の将来であれ、企業の将来であれ、ビジョンを提示するということは大事なことです。会社員時代、今後の技術動向を探り、開発するべき技術を提案する将来ビジョンの検討をしたことがあります。それは過去の技術進化からいくつかの法則性を抽出して、現在の技術に当てはめて未来の姿を検討するという特殊な手法を用いて行いました。なかなか楽しいものでした。一方、昔、「教会の将来ビジョンを考えよう」と言ったら、ある人から「そういうビジネス用語は使わないでください」と言われたことがあり、たいへん驚きました。一般的に教会においてビジョン、幻という言葉は使われますし、国や社会や企業より何より、教会はビジョン、幻を大事にするからです。ビジネス用語だと言った方は教会でビジョンという言葉を聞いたことがなかったのでしょう。ビジョンのない教会におられた方だったのです。

 しかし、教会こそ、幻をみなければなりません。特別な手法や統計によるのではなく、神が見せてくださる幻を見なければなりません。今、目の前の現実ももちろん大事ですが、神に示される幻を見なければなりません。明日は今日の続きで、未来は今日と変わらない、なんてことはないのです。信仰者の日々も、教会も、日々新しくされるのです。神に与えられたビジョン、幻が示される時、本当に新しくされるのです。実際、ビジョンがなければ、教会は立っていけません。1945年3月に大阪大空襲でこの地域は焼け野原になりました。会堂の影も形もなくなりました。目の前にある現実はがれきだけです。そして皆は日々食べていくだけで精一杯の生活でした。たとえば社会インフラや人間が生きていくために必要なものであれば、速やかに復興しようと人間は考えます。しかし、日々の生活で精いっぱいの中で、教会の建物や礼拝のためのものというのは必需品というのではありません。しかし、先人たちは復興させたのです。そこには幻があったからです。神の民のとしてのビジョンがあったからです。

<老人こそ夢を見る~希望の原動力>

 一方、老人は夢を見る、とありますが、これは平安の内になお未来の希望を持てるということです。若者は幻で老人は夢というと年齢で差別しているのか、という気になりますが、未来への希望を与えられるという点においては同じです。解釈する人によっては、ここの夢と幻を区別しない人もあります。夢から覚める、とか、夢が破れる、というように夢というのもふわふわした現実性のないもののように思えます。夢ばかり見ている子供ということも言われます。しかし、聖書は子供ではなく、むしろ人生を積み重ね、この世の現実をいやというほど知っているはずの老人に夢が与えられると語ります。神の与えられる夢ははかなくもなければ、破れもしないのです。以前、いくたびかお話したことがありますが、私が信徒のころいた教会は、公民館を借りて礼拝を捧げていた伝道所から始まりました。一人のご高齢の婦人が「この地域に教会を造る」という夢を与えられて始められたのです。牧師を呼んできて、ほそぼそと礼拝を続けていました。そのころ、高校生の女の子がその伝道所のおばあさんに誘われて礼拝に行きました。女の子におばあさんは「いずれ礼拝堂を建てるねん」と語ったそうです。女の子はこんな数人しかいない伝道所で会堂を建てるなんて、夢みたいなこと言ってるなあと内心笑って聞いていたそうです。でもおばあさんは、「あそこに建てるんや」と窓の外のある場所を指さしたそうなのです。その女の子はその後、その地域を離れ、二十年後に引っ越しをしてその町に戻ってきました。久しぶりの町を歩いていたら、新しい教会が建っていました。その時、自分が高校生だった時のことを思い出しました。まさにその場所は、あの数人だけの小さな伝道所のおばあさんが「あそこに会堂を建てる」と指さした場所だったからです。その会堂に入っていって牧師に問い合わせると、まさに20年前の伝道所が、教会となり、この地に会堂を建てたのだと聞き、腰を抜かすほど驚いたそうです。一人の老人の夢が、教会を立て上げたのです。それは個人の夢ではありませんでした。神が与えられた教会の夢でした。

 夢や幻なんてばかばかしい、そう一般には思われています。そのばかばかしいことの上に立ち上がっていくのが教会です。夢も幻もないところに教会は立たないのです。聖霊降臨、かつて預言者だけに与えられていた神の言葉、夢と幻が、今、私たちにも与えられています。一人一人に赤い舌のようなものが降りてきて与えられました。若者は幻を見、老人は夢を見ます。幻と夢を見続けるのです。そこから教会と、私たち一人一人の日々が未来に向けて歩みだします。


マルコによる福音書第6章14~29節

2022-06-19 16:47:30 | マルコによる福音書

2022年5月29日日大阪東教会主日礼拝説教「罪は暴走する」吉浦玲子

 洗礼者ヨハネは、主イエスに先立ち道を整える者としてあらわれました。長い長い旧約の時代からの神の約束が成就する、まさにそのとき、先立つ者として登場しました。言ってみれば旧約と新約をつなぐ人物と言えます。最後の預言者とも言われます。

 一方、主イエスの宣教の開始のとき、洗礼者ヨハネは捕らえられました。主イエスの登場とともに、洗礼者ヨハネは表舞台から去りました。洗礼者ヨハネの退場がまさに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という神の国の到来を告げる合図となったともいえます。

 そしてまた、時は満ち、というとき、満を持しとか、必要な舞台設定が整ったというイメージがありますが、「人間の罪が満ちた」ということも言えます。神から特別な使命を与えられて遣わされた預言者であるヨハネを捕らえるという人間の暴挙によって、人間の罪にさらに罪が増し加えられた、器になみなみと罪が満ちていたところに、最後の一滴が落ち、あふれてしまう、罪がもうどうしようもなくこの世界にあふれてしまった、その時に、まさに「時は満ち」たのです。神の国は近づいたのです。主イエスが宣教を開始されたのです。

 主イエスと弟子たちはその神の国の到来を告げ知らせました。病が癒され悪霊が追い出され、死んだ人すら生き返る、まさに神の業がなされました。その間、洗礼者ヨハネは牢のなかにいました。ヨハネは自分のなすべきことをなしたのち、言ってみれば不遇な晩年を迎えていました。神の召しにより、主イエスの到来を指示した預言者であるヨハネが、神に忠実に、十分にその役目を果たしたと言えるにもかかわらず、けっして恵まれた晩年を迎えていないことに何とも言えない思いがわきます。

 彼は特別に選ばれた預言者でありましたが、人間でありましたから、弱さも持っていたようです。他の福音書には、牢から弟子たちを送って主イエスに対して「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか(マタイ11:3)」と問わせたりしています。ヨハネは自分の後から来られる方を宣べ伝え、そしてまた主イエスに洗礼を授けましたが、来るべきお方が主イエスであるかどうか確信が持てなかったのです。主イエスはヨハネの弟子たちに自分のなさった業を語られ、それが神からのものであることを示されました。その弟子たちが伝えたことでヨハネが満足したかどうかは記されていません。聖書はそこのところは詳しくは記していません。大きな働きをしたヨハネですが聖書の記述はそっけないのです。

 しかし一方、その最期は壮絶な場面として描かれています。ここはオスカー・ワイルドの戯曲の題材とされ、他にも多くの絵画の素材ともなっています。そもそも洗礼者ヨハネが逮捕されたのは、ヘロデ王が律法で赦されない、もともとは他の兄弟の妻であったへロディアと結婚をしていることをヨハネが指摘したことに腹を立てたからでした。そこには、洗礼者ヨハネの名声が高くなり、ヨハネの民衆への影響力を恐れたという側面もあります。ちなみにここでヘロデ王と書いてあるのは、主イエスが降誕されたときにベツレヘムの二歳以下の子供たちを殺したヘロデ王ではなく、そのヘロデ王の死後、ガリラヤ地方の領主となったヘロデ・アンティパスのことです。一般には領主ヘロデと呼ばれる人物です。

 その領主ヘロデの妻へロディアは自分たちを非難した洗礼者ヨハネを恨み、殺す機会を狙っていたと書かれています。しかし、夫ヘロデは、「ヨハネが正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」とあるように、積極的に洗礼者ヨハネを殺す気がないどころか内心喜んで洗礼者ヨハネの教えを聞いていたので、へロディアはなかなか洗礼者ヨハネを殺すことができなかったのです。権力者の優柔不断な態度は時々聖書に描かれます。のちに主イエスへ十字架刑を言い渡すことになるローマ総督ポンテオ・ピラトもまた主イエスに罪はないことを知り、助けたい思いはありながら、ユダヤの権力者と権力者に扇動された民衆に押されて主イエスを十字架刑にしてしまいます。

 人間の罪のあらわれというのは単純に黒か白かと分けられるようなものではなく、領主ヘロデやポンテオ・ピラトに見られるように、善意と悪意が混濁しているのです。正しい者、聖なる者への一定の理解や共感はあっても、最終的にはむしろ正しい者、聖なる者を抹殺する方向へと進んでしまうのです。しかしまたそれは、たまたま置かれた状況ややむを得ない条件であったからそうなったのではなく、もともとの罪があらわになっただけとも言えます。パウロが「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしてるのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:19-20)と語っているように、私たち人間の内なる罪は、私たちの善を行いたいという思いよりはるかに強く私たちの行動を縛るものなのです。

 領主ヘロデの罪は、妻へロディアの策略によりあらわになります。へロディアは前の夫との間の娘に、ヘロデの誕生の祝いの席で踊りを躍らせます。その踊りはヘロデと客を喜ばせたとあります。この娘の名前は歴史家の記録によるとサロメと言われます。絵画などを見るとサロメは妖艶に描かれている場合もあります。実際の宴でどのような踊りが踊られたのかはわかりませんが、ひょっとしたらいかがわしい感じの踊りであったのかもしれません。宴は大いに盛り上がり、義理の父であるヘロデも喜び、「欲しいものがあれば何でも言いなさい」といい、さらに「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」とまで言うのです。サロメは母に「何を願いましょうか」と聞くと、へロディアは「洗礼者ヨハネの首を」と答えます。そしてそれを少女はヘロデに伝えます。これを聞いたヘロデは「心を痛めた」とあります。「しかし、誓ったことではあるし、客の手前、少女の願いを退けたくなかった」ということで、洗礼者ヨハネは斬首され、その首が盆に乗せられ持ってこられます。

 ヘロデは「心を痛めながら」、しかし、周囲の人々の手前、ヨハネを殺しました。へロディアは、そのあたりの夫の気質をよくよく知っていたのです。人間一人の命を宴会のなかの軽い口約束のために奪うということに驚きますが、現代と人権への意識も異なり、権力者にはそれだけの横暴が許されたのです。ヘロデは心を痛めながら残忍なことを行いました。冷徹に行うより、心を痛めた方がまだましということはありません。罪は罪なのです。人間の罪の多くは、パウロが告白したように、「望まない」のに犯されるのです。ここには、たしかに「自分の望む善は行わず、望まない悪を行う」罪の姿があらわれています。

 この世界にはこのような罪が満ち満ちています。道徳や倫理や法律で縛ろうとも、罪は罪それ自体がまるで生き物のように増殖し、暴走していくのです。昨年末、多くの人が犠牲になった放火事件が梅田でありましたが、この世界に起こる罪の暴走に私たちは震撼します。しかしまた一方、私たちはだれかを宴会の余興で殺したりはしませんし、関係のない人を巻き添えにするような行いもしません。でも、罪の本質という点では変わらないのです。

 よく未信徒の方と話をしていて、罪というものを理解していただけないなと感じることがあります。だいたいはまじめな方で、ちゃんと生きてきておられるのです。きちんとした道徳、倫理観をもった行いをなさっています。そしてまたそういう方は、自分がいつも正しく生きているわけではないとは知っておられるのです。あからさまに悪いことはしないけれど、決していつもいつも自分が正しいわけではないことを自覚されているのです。日本におけるクリスチャン人口は1パーセントにも達しませんから、百人中九十九人は罪というものをご存じありません。しかしそのほとんどの方は善良な方なのです。むしろクリスチャンよりよほどしっかりとしたまじめな方が多いのです。

 しかしそのまじめな人々は知らないのです。人間の内側には、生首を盆に乗せて楽しむような罪があることを。実際に、生首を盆には乗せなくても、その罪は内側から人間をさいなむのです。不安や恐れという形で。どれほど心身を鍛錬し、自己抑制して、性格的にも円満な形で、ポジティブな心で生きていても、ちろちろと罪の赤い舌はすべての人間の内にあるのです。今日の聖書個所の最初には、時系列としては逆転した形で、洗礼者ヨハネを殺した後、ヘロデが、人々が主イエスのことを洗礼者ヨハネの生き返りだと言っているのを聞いて恐れたことが記されています。「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」とヘロデは言います。ここにもヘロデの弱さがあらわれています。推測ですが、ヘロデをそそのかした妻のへロディアはそんな噂を意に介していなかったでしょう。ヨハネが生き返ったと怯える夫を笑ってバカにしていたかもしれません。しかし、恐れるにしろ、バカにするにしろ、まさに罪は人間の内でゾンビのようによみがえって暴れるのです。洗礼者ヨハネは生き返ることはありませんでしたが、罪はアダムとエバの昔から人間の内に生き続けているのです。そしてそれは人間には決してコントロールできないのです。

 そのコントロール不可能な罪に立ち向かってくださり勝利してくださったのが、主イエス・キリストでした。キリストは十字架において、すべての人間の罪の罰を受けるという形で罪を引き受け、私たちから罪のくびきを取り除いてくださいました。その主イエスを信じない限り、どれほど聖書を学ぼうが、讃美歌を歌おうが、人間は罪のくびきからのがれることはできません。この地上においても、そしてそののちも罪によってさいなまれるのです。

さて、無残な最期をとげた洗礼者ヨハネですが、ヨハネはその自分の生涯をどのように思っていたのかは聖書からはうかがい知ることはできません。彼自身がどのように思っていたかはわかりませんが、ヨハネもまた御国で主イエスと出会い、その生涯におけるすべての涙をぬぐっていただくのです。その無残な最期を含めて、彼の生涯の歩みのすべてに神の愛が注がれていたことを彼自身も知ることになるのです。罪もないのに斬首されることのうえに神の愛があるのかと感じられるかもしれません。キリスト教の伝道者の多くが殉教し、悲惨な最期を遂げました。ペトロもパウロもそうです。しかしなお彼らは神の愛を感じていたのです。自分自身が神に救われたことを知っていました・

ある牧師がこういうことを書いていました。「罪の反対語は正義とか聖だと思っていたけど、愛だ」正しい正しくないということに注目するなら正しくない罪の反対は正義、義です。また罪のあらわれが醜く汚れたことを考える時、罪の反対は聖、清らかであると言えます。しかし、神の教えの神髄は、神と隣人を愛することです。罪は神から離れることですから、神と隣人を愛することから離れることが罪です。ですから罪の反対は愛であり、罪とは愛のないことであると言えます。ヘロデもポンテオ・ピラトも何が正しく清らかであるかは知っていたのです。しかし、そこに愛がなかったので、内なる罪が暴走したのです。何度も申し上げているように、愛とは単に相手に忖度したり、和やかに仲良くすることではありません。ヘロデもポンテオ・ピラトもむしろ人間相手に忖度をして罪に陥りました。愛ではなかったからです。新約聖書で主イエスと対抗したファリサイ派の人々は誰よりも神の義と聖を求めた人々でした。しかしそこに愛がありませんでした。なので主イエスから非難されたのです。愛とは相手のために自分自身が痛むことです。キリストが十字架で痛まれたように、相手のために痛むことが愛です。私たちは生首を盆に乗せて楽しむことはしませんし、ファリサイ派のように律法を掲げることはしませんが、愛することがなければ、罪がうごめきだすのです。そして愛がなければそこには罪ゆえの不安と恐れが満ちてくるのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。(ヨハネの手紙一 4:18)」自らの内にもこの世界にも罪が満ち、恐れに満ちていますが、なお私たちは恐れません。神の愛が注がれているからです。私たちもまた愛を捧げて生きていきます。