2022年6月26日大阪東教会主日礼拝説教「言葉は心を映す」吉浦玲子
渡辺善太という聖書学者であり、かつ牧師である方がおられました。ゼンダ節と言われる独特の語り口で魅力的な説教をされた先生です。この方の説教に「偽善者を出す処」という題の説教があります。偽善者を出す処、それはどこかというと教会だと渡辺先生はおっしゃるのです。先生はその説教の中でなぜ教会で偽善が起こってくるのかということを分析し明快に語っておられます。いまここでその内容すべてを紹介することはできませんが、かなりおおざっぱに説明すると、偽善というものは、人間の心が神ではなく人間に向いていることから起こることなのだと渡辺先生はおっしゃいます。同じことをしてもそれがまっすぐに神の方をみて為したことであれば偽善ではなく、まさに善であり、人間を見て為すなら偽善なのだとおっしゃいます。人間を見るというのは、自分の行為を人に見てもらいたい、自分が評価されたい、そういう思いでやったのならそれは偽善であると。しかし、神を見て行う善は、「証言的」なもの、「神を証しするもの」なのだとおっしゃいます。その善は行為を行った人を指し示すのではなく、神を指し示し、行為を見た人に神への恐れを生じさせるものなのだとおっしゃいます。そしてそもそもその行為は本人も自覚的に為していることではないので、そこに人から良く見られたいという思いも入ってこないのだと。
しかしまた渡辺先生は、偽善と言っても、そこに善という基準があるから起こってくるのだとおっしゃいます。信仰を得てまだ日の浅い人が、がんばって、善を行おうとしても、それは本当の意味で神を指し示すものではなく、偽善になってしまうことが多い。そして実際に教会には偽善が多い、偽善者が多い、教会は偽善者を出す処だとおっしゃるのです。しかしそれでもいいではないか。神を指し示す本当の善ではなくても、自分なりに善を為そうとする、その善の在り方は間違っていることがほとんどなのだけど、しかし間違って初めて、人間は自分が偽善者であることを知るのだと。そしてそこからまことの神の善に向かっていくのだから、教会にはどんどん偽善者が出たらよい、むしろ偽善者がたくさんいることは教会が活発な証拠だとおっしゃっるのです。これは聞きようによってはかなり乱暴な言葉です。今日の聖書個所を読みますと、主イエスは律法学者やファリサイ派を「偽善者」だと批判しておっしゃっています。主イエスは律法学者やファリサイ派の偽善をお許しになっていないのです。渡辺善太先生はそのような主イエスの言葉に反することをおっしゃっているのでしょうか。そういうことを考えながら、今日の聖書個所を読んでいきたいと思います。
さて、今日の聖書個所の前半は、「昔の人の言い伝え」に関する話となっています。これはいわゆる、口で伝えられた口伝律法と言われるものです。食事の前に手を洗う、というのは衛生上は当たり前のことのようですが、ここで手を洗うということは、衛生上のことではなく、宗教的な戒律として言われているのです。しかしその戒律は、もともとモーセの時代に神から授けられた律法にはないものです。敢えてあげれば出エジプト記の30章18節にある、清めの規定が関連すると言えます。しかしこれは、アロンたち祭司が臨在の幕屋に入る時の規定であり、言ってみれば、神を礼拝するときの規定です。それが主イエスの時代には拡大解釈されて、食事の前に手を洗うという口伝律法になっていたのです。
このような例はいくらでもあるようで、たとえば、ユダヤ教では、乳製品と肉を一緒に食べることはしません。それは出エジプト記23章19節にある「子山羊をその母の乳で煮てはならない」というところからきています。もともとは子山羊とその母の乳であったことが拡大解釈されて、乳製品と肉類をいっしょに食べてはいけないということになったのです。
主イエスの弟子たちは、この拡大解釈された「食事の前に手を洗う」という口伝律法を守らなかったことからファリサイ派や律法学者から攻撃されました。このように律法がどんどん拡大解釈されて膨れ上がるのは、良くも悪くも人間の「まじめさ」が関わっています。神の前に罪を犯したくない、そのために、禁止事項をどんどん増やしていくのです。そしてその禁止事項を守っていることで安心するのです。本来、律法は神に救われた者へ授けられたものです。しかし、律法や口伝律法を守ることによって救われる、守れない人間は救われないと逆転したこととなりました。律法や口伝律法は人間を裁くためのものとなり、また、救いの条件のようになりました。
その誤りを主イエスは厳しく指摘なさいました。「イザヤは、あなたがたのような偽善者のことを見事に預言したものだ」と律法学者におっしゃいます。そのイザヤの言葉は「この民は口先ではわたしを敬うが/その心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている」というものです。これは、イザヤ書29章13節にある言葉です。神をあがめているつもりで、結局、人間の作ったものをあがめているのだという言葉です。なぜこういうことが起こるのでしょうか?ひとつには本来、その人が神に従っているかどうかは人からは見えないからです。なので、見える部分で判断をした方が分かりやすいのです。食事の前に手を洗っている、とか、安息日には手の不自由な人を目の前にしても癒さない、とか、肉と乳製品を一緒に食べない、そういう目に見える行為のほうが判断をしやすいからです。
そしてその判断とは、人間の判断です。人間が他の人間を見て裁くのです。手を洗っていない、安息日の口伝律法の規定を守っていない、人のあらを探し始めるのです。そこには本来の律法が、救われた人間への愛の戒めであったことが抜け落ち、人から自分がどうみられるか、そしてまた人をどう裁くかということに心が行ってしまい、神と隣人への愛が抜け落ちているのです。
しかし、聖霊降臨以降に生きている私たちは、聖霊による戒めによって生きています。もちろん、キリストの十字架によって罪贖われたとはいえ、何をやってもいいというわけではありません。神への感謝と導きによって生きていきます。しかしまた、ともすれば私たちも、新しい律法で自分たちを縛る者です。「クリスチャンらしさ」とか「クリスチャンのくせに」という言葉は他者から言われるだけでなく自分自身でも意識的にも無意識的にもキリスト者を縛ります。敬虔で柔和で寛容なクリスチャン、いつも感謝しているクリスチャン、愚痴などこぼさないクリスチャン、何があっても笑顔で前向きなクリスチャンでなければならないという呪縛があります。その呪縛ゆえ、私たちは偽善的にならざるを得ません。それはむしろ食事の前で手を洗うことよりも深く私たちを縛っているかもしれません。
そのような偽善的なありかたに対して主イエスは少し謎めいた言葉をおっしゃいます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
人の中にあるもの、それは罪です。いやいや、人間の中には善意も、向上心も、親切な心もあるではないか、そう思われるかもしれません。たしかに人間の心の中に良いものがまったくないということはないでしょう。そうでなければ、この世界はもっとひどいことになっているでしょう。しかし、それらのよきものを破壊するのが罪です。人を愛したり心配したり何か助けになりたいと願う心はあっても自己中心の罪は、人を愛しているつもりで自己愛を満たしているだけになったりします。人のために社会のために貢献したいと思ったことが結局、自己満足に終わったりします。罪のある私たちの中から出て来るものは、たしかに人を汚すのです。
口伝律法で食事の前に手を洗うというのは、汚れをとるという意味がありました。手を洗って、細菌やウィルスをとることはできても、私たちの内なる罪を取り除くことはできません。どんなに手を洗っても、罪を抱えている以上、私たちは心と口と行いで悪を為し、汚れを外に出すのです。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」そう主イエスはおっしゃいます。
ところで、私の母は着物を縫う和裁をしていました。クリスチャンではありませんでしたから、折れた針を「針供養」しないといけないと言っていました。本来の仏教における供養、サンスクリット語でプージャナーというらしいですが、その供養と日本で一般的に言う供養は違うもののようです。そしてまた日本で、もともと供養というのは死者に対してのものですが、それがさきほどの針供養や人形供養とか鏡供養といったモノにまで供養するようなところがあります。最近では炎上したSNSの情報供養とかもあるそうです。この供養というものを行う心理には恐れがあります。折れた針や人形から何か悪いものが出て来て、人間に害を及ぼさないようになだめるようなニュアンスがあると思います。悪いものが人間を襲ってこないようにという願いがあります。しかし、さきほど申しましたように、主イエスは、悪いものは人間から出て来るのだとおっしゃっていたのです。折れた針や古い人形より怖いのは人間なのです。悪は外からくるのではないのです。
その人間の内なる悪を滅ぼしに来られたのが主イエスです。神のもとから来られました。人間の外から来られました。悪を滅ぼしに来たと言っても人間を成敗しにこられたわけではありません。ご自身が十字架におかかりになり、むしろご自身が人間の手によって殺されることによって、罪を十字架の上で滅ぼされました。
その主イエスを信じる者の罪は贖われました。そしてまた信じる者には聖霊が与えられ、聖霊によって正しいことを示される者とされました。私たちはキリストの十字架のゆえに、キリストへの信仰のゆえに罪赦された者ですが、依然として、内なる罪、悪を持っているものです。善を行いたいと願いながら、悪を行ってしまう者です。善だと思って行ったことが、実際は自己中心的な身勝手なことであったりします。まさに偽善的なことを行ってしまいます。
しかし、私たちは、聖霊によって、私たちの内なる悪を知らされます。ですから、同じ偽善者という言葉を用いていても、今日の聖書個所に出て来る律法学者やファリサイ派のように自分の中に悪があることを問題としてしていない者ではありません。手さえ洗っていれば汚れが取れるとは思っていません。自分は正しく、自分のようにできない人間は間違っているとは思っていません。
渡辺善太先生がおっしゃる教会の中の偽善者は、自分が罪びとであることを知り、自分の内なる悪を知り、それでも神に向かって善を為したいと願いつつ、まだ内なる悪によって、善を為せない状態の人々です。それは私たちのことです。しかしまた私たちは聖霊によって変えられていきます。その点において、渡辺善太先生がおっしゃる意味での偽善者がたくさんいる教会は未来への希望があるのです。
私たちは心ならずも偽善的なことを行ってしまいます。しかし、すべてのことを聖霊は正しく示してくださいますし、キリストを指し示してくださいます。私たちは幼子が親の真似をするように、生涯をかけてキリストをまねながら、まことの愛を学んでいきます。聖霊によってまねるべきキリストの御姿が示されるのです。そして、キリストの愛が私たちにあふれる時、そしてまた私たちがキリストの愛の行いをたどたどとまねていくとき、少しずつ、私たちは神が喜ばれる善を為す者に変えられていきます。