大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録9章19~31節

2020-08-23 15:30:24 | 使徒言行録

2020年8月23日大阪東教会聖霊降臨節第13主日礼拝説教「神に与えられた出会い」吉浦玲子

【聖書】

サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、

すぐ諸会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。

これを聞いた人は皆、驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼ぶ者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。

かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、その陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁伝いにつり降ろした。

サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。それを知ったきょうだいたちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ送り出した。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。

【説教】

<サウロの回心>

 サウロはダマスコへの途上で、復活のイエス・キリストと出会い、回心をいたしました。本日は、今日の聖書箇所の前の箇所も少し参照しながら、共に、読んでいきたいと思います。サウロは、ギリシャ語読みではパウロと呼ばれ、のちに、新約聖書のなかの多くの書簡を残す人物ですが、回心以前はキリスト教徒を迫害していました。そもそもキリスト教徒への迫害の契機となったステファノの殺害の時も、サウロは殺害者側に加担をしていました。ダマスコへ向かっていたのも、徹底的にキリスト教徒を迫害するためでした。9章の最初の部分を見ますと、熱心なファリサイ派であったサウロは、大祭司の許可を得て、「この道に従う者(キリスト教徒)を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行」しようとしていたのです。そのサウロがキリストと出会い、洗礼を受け回心をしました。劇的な回心体験をする人はときどきありますが、サウロの回心はその代表格であると言えます。

 そして回心をしたサウロは今日の聖書箇所では「すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。」とあります。洗礼を受けた後、数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいたのちの、「すぐ」です。大祭司に訴えて、意気揚々とキリスト教徒を迫害しようとしていた男が、キリストと出会って、三日間、目の見えない状態となり、回心をした。その数日後のことです。数カ月や半年ののちではないことに驚きます。当然、あの迫害者であったサウロがキリストを宣べ伝えているということで、人々は驚きました。「ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた」と22節にある通りです。

<人を苦しめる生き方、自分が苦しむ生き方>

 今日の聖書箇所の少し前の15節に「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」というサウロに関する主の言葉があります。キリストは、サウロを宣教のための特別な器として用いると語られたのです。

 サウロはもともと聖書に詳しいファリサイ派の優秀な学者でした。先ほども申しましたように、やがて新約聖書のなかの多くの書簡を記すことになる人物です。しかし、そのように優秀な人間だったから、主が「わたしの選んだ器」であるとおっしゃったわけではありません。そしてまた「すぐに」サウロがキリストを宣べ伝えることができたわけではありません。

そもそも器というのは何かを入れるものです。もちろん器そのものに芸術的な価値があるものもありますが、基本は、器は何かを入れるために用いられるものです。サウロはキリストを入れる器とされたのです。回心前のサウロという器は、律法やら自分の思いがいっぱい入った器でした。しかし、キリストと出会い、洗礼を受けて、その器はすっかり空にされました。空になったそこにキリストが満たされたのです。これはサウロに限ったことではありません。私たち皆がそうなのです。それぞれにキリストを入れる器なのです。器の種類にはいろいろあって、サウロのように異邦人や王たち、そしてイスラエルの子らに差し出される器もあります。現代の日本の家庭の中で家族の救いのために用いられる器もあれば、大阪東教会を創立するためアメリカから派遣されてこられたヘール宣教師のように、まだキリスト教が伝わっていない遠い地域へと派遣される器もあります。

 いずれにしても、キリストを入れる器とされる生き方は「わたしの名のために苦しむ」生き方、つまりキリストの名のために苦しむ生き方だと主イエスはおっしゃいました。ここを信仰生活が苦行であるかのように読んではいけません。ときどきそのように勘違いして頑張るクリスチャンがいます。奉仕や祈りを努力項目と捉えてしんどくても歯を食いしばって頑張るという方がおられます。それはむしろ神を悲しませるあり方です。

 ここでいう苦しむというのは、他者への愛のために苦しむ生き方を指します。愛することは痛みを伴います。愛の苦しみに生きる者とされるということです。キリストと出会う前のサウロは、自分の信念や熱心さのために他者を裁き、他者を苦しめる者でした。しかし、キリストと出会い、サウロは他者を苦しめる者から、他者への愛のために苦しむ者に変えられました。自分の信念や熱心さの代わりにキリストによって満たされた器とされたゆえに愛のために苦しむ者とされたのです。

<キリストの愛ゆえに>

とはいっても、実際のところ、苦しむ生き方というのは誰でも嫌なものです。もし好んで苦しもうという人があったとしたら、それはどこか歪んだ病んだ生き方、不健全な生き方です。

サウロは、なぜキリストのために苦しむ者とされたのでしょうか?一つには、自分の信念や熱心さに生きるという、本当は虚しく辛い生き方から解放された喜びがあったからです。自分の熱心さや信念に生きるあり方は美しいようで、閉鎖的な生き方です。自分のあり方にこだわる生き方です。頑固な生き方です。そしてその頑固さはおのずと人を裁き、見下すことにつながります。人を裁き見下し、苦しめる生き方は暗く、喜びのない生き方です。その生き方からサウロは解放されたのです。愛のために苦しむことはたしかに苦しいのですが、そこには苦しみにまさる明るさと喜びが与えられたのです。

さらに、何よりサウロはキリストの愛に捉えらえたので、キリストのゆえに苦しむ者とされたのです。ステファノの殺害に加担し、その後もキリスト教徒の迫害の中心にあったサウロを、キリストは責めたり罰したりはされませんでした。赦し、むしろ、使命を与えてくださいました。使命を与えるということは、信頼しているということです。信頼は愛に基づくものです。

そして赦しというとき、単に、迫害をしていたことを赦された、ということにとどまりません。サウロは自分の罪の本質を知らされたのです。熱心に神を求めていたつもりだった自分が実は神から離れていたことを知らされたのです。律法の知識と自分の熱心さをよりどころとして、神を自分のよろどころとしていなかったのです。そこに罪の本質がありました。しかし、今やサウロはキリストと出会い、まことの神のあふれるほどの愛を知らされました。キリスト者を迫害していた自分を罰するのではなく、むしろキリストは自分のために死んでくださった、そのキリストの愛を知ったのです。その愛のゆえにサウロは変えられました。

<出会いによって>

 サウロは変えられ、キリストを宣べ伝える者とされましたが、周囲の人々は、キリスト者も、キリスト者を迫害する側も大いにとまどいました。これは当然のことでしょう。そしてやがて、かつての仲間からは裏切者として命も狙われることとなりました。そのような陰謀もあり、サウロは町を離れ、エルサレムへ向かいました。

 そこで、エルサレム教会の人々と交わろうとしましたが、最初はうまくいきませんでした。キリストの弟子たちは、かつての迫害者サウロを恐れたのです。しかし、バルナバという人が仲介をして、サウロを使徒たちへ案内し、サウロは使徒たちと交わりを持つことができるようになりました。 しかし、またそこでもサウロは命をつけ狙われるようになり、エルサレムから離れ、カイサリア、タルソスへと宣教の旅に出ることになりました。そのような流れの中、教会は基礎が固まって、さらに発展し、信者の数が増えていったのです。

 キリスト教の発展の流れの中でサウロという人物の働きは大きかったのですが、しかしそれはサウロ一人ではできなかったことです。そもそもサウロが回心をし洗礼を受ける時、迫害者であったサウロを受け入れ洗礼を授けたアナニアという弟子の存在は大きなものでした。そしてまた回心後のサウロを殺害する動きに対しては、町の城壁から籠に乗せてサウロをつり降ろしてくれた弟子たちの助けがありました。そしてまたエルサレムで最初は相手にされなかったサウロを仲介してくれたバルナバの存在もありました。ちなみにこのバルナバは、4章で持っていた畑を売り払い教会に捧げたと記されている人物です。バルナバとは慰めの子という意味だとも記されています。この慰めの子であるバルナバは、サウロのこれからのちの初期の伝道旅行の同労者となります。

 この世において成功なさった方が「人に助けられました」とか「人に恵まれました」とおっしゃるのをよく聞きます。たしかにどのようなことでも、一人の力でできることはなく、助けてくれる人物、支えてくれる人々があってはじめて成し遂げられます。サウロにもアナニアにはじまり多くの協力者があったのです。

 この世においては、人脈を広げるとか、コミュニケーション能力を高めるということが良くいわれます。そうすることによって協力者が得やすくなりますし、さまざまな新しいチャンスを得ることができるようになります。

 しかしサウロの場合、サウロ自身が人脈を広げたりコミュニケーション能力を高めた結果、恵まれた出会いが与えられたわけではないと考えられます。そもそもキリスト者の迫害者であったサウロがどんなに頑張っても、通常ならば教会の中で大きく働けるように導いてくれる協力者はなかなか与えられないでしょう。しかし、実際はすみやかに与えられました。神によって与えられたのです。

<聖霊言行録>

 春から、使徒言行録を共にお読みしておりますが、最初の頃、使徒言行録は聖霊言行録とよく言われると申しました。使徒言行録を物語として読みますとき、使徒たち、弟子たちの生き生きとした様子が感じられます。迫害や試練の中でもめげることなく宣教に励む姿が見えます。今日の聖書箇所でも神の教会は広がって行ってることが書かれています。しかし、それは当時の教会の人々が頑張って教会が発展したということではありません。たしかに、ペトロが、ステファノが、そしてサウロが、実に生き生きと宣教をしています。しかし、宣教の主体は聖霊です。聖霊が弱かったペトロに力を与え、ステファノの殺害の場にサウロを導き、アナニアをサウロのもとに遣わし、また助け手としてバルナバが与えられました。これらはすべて聖霊の働きです。

ところで、これまでも使徒言行録を読み進めております中で、何回か引用しましたが、使徒言行録の第一章で主イエスが天に昇られる前、おっしゃった言葉があります。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

これまで読んで来た使徒言行録において、主イエスがおっしゃったように、エルサレムばかりでなくユダヤとサマリアの全土に教会は広がりました。そして今まさにサウロとバルナバはイスラエルの範疇を越えた世界へ宣教へと向かおうとしています。やがて当時の世界の中心であったローマにまでサウロは到達します。主イエスの言葉通り、地の果てまでキリストの証人が起こされようとしています。

キリスト教の宣教の業は何より神のご計画の中にありました。聖霊なる神が主体となり推し進められました。ペトロもステファノもサウロも、聖霊なる神に突き動かされて働きました。現代に生きる私たちもまた、聖霊なる神によって導かれています。

しかしそれは、人間が神の繰り人形のように生きるということではありません。結局すべて神がおぜん立てされて、その筋書き通りに人間が働くだけであれば、そこには何の喜びもありません。神の側の喜びも人間の喜びもないのです。

神はそのあふれる愛で人間を捉え、その愛への応答として、御自分に喜んで従う者を求めておられます。神が怖いから、地獄に落ちたくないから服従するのではなく、神と愛し愛される関係の中で、神に従う者を求めておられます。ペトロもステファノもサウロも神に愛され応答し、神に従う者とされました。神に応答する者たちは、互いに神によって結びつけられます。神によって人と人が結ばれるところに宣教の業は豊かに花開きます。かつていがみ合っていたユダヤ人とサマリア人が和解したところに福音が豊かに花開いたように、迫害者であったサウロとエルサレム教会の使徒たちとの交わりを契機にして、さらに教会は発展しました。

私たちの教会も、そしてまた私たちのそれぞれの場所での日々も、神に愛され、応答していく歩みの中で祝福されます。時に神に素直に応答できない時もあるかもしれません。そのようなとき、神は無理強いはなさいません。私たちには神に応答することにおいて自由があります。拒否権もあるのです。しかしその自由の中で、時には葛藤しながら、なお神に応答して生きていくとき、私たちは愛の恵みの内に生かされます。私たちは自由な者として喜びのうちに神に従います。そして聖霊によって導かれ歩んでいきます。



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