大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2017年3月5日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章69~75節

2017-03-08 12:07:30 | マタイによる福音書

説教「神なんて知らない」

<赦されたコソ泥>

 聞いたことがある方もおられるかもしれませんが、神様の愛についての、おそらく外国のものだと思うのですが、ちょっとした小話があります。コソ泥が盗みをして、カトリックの神父さんのところへ「盗みをしてしまいました」と懺悔をしにいきます。神父さんはコソ泥が反省している様子を見て「キリストの名によってあなたは赦されました」とコソ泥に罪の赦しの宣言をします。しかしまた、コソ泥は盗みをして神父さんのところへ行きます。神父さんは懺悔するコソ泥に「あなたの罪は赦されました」とふたたび宣言します。ところがそれが何回も続きます。コソ泥は盗みをしては懺悔をしに来るのです。七回目になったとき、神父さんはついに腹を立てて、「もうあなたを赦すことはできません、出て行きなさい」と叫びます。コソ泥はびっくりして、これは困ったどうしよう、赦されなければ地獄に落ちると泣きながらおろおろしながら教会から出ようとすると、「私はあなたを赦します」という声が聞こえました。えっと思ってコソ泥が振り返るとそこには十字架にかかったキリストの絵があって、その絵の中のキリストが、つまり十字架につけられ血を流しているキリストが、「あなたを赦します」と語っていたのです。そのとき、コソ泥ははじめて、自分の罪を心から悟りました。そして同時にキリストに赦されたその喜びを感じました。その喜びはずっと続いて、もう二度と、コソ泥は盗みを働くことはなくなりました、そんな話です。これは別にカトリックの神父やざんげのありかたを馬鹿にしているわけではなく、罪の赦しの本質に迫る小話だと思います。神父であれ牧師であれ、聖書に七の七十倍まで人を赦せと書いてあっても、人間である以上、赦すことができないときはあるのです。いやそもそも人間には赦せないのです。そして本当の赦しはただ神から来るものなのだとこの話は語ります。そしてその赦しはただ十字架のキリストから来るのだと語ります。そしてその赦しを知ったとき、本当に人間は自分自身の罪をはじめて知り、そこから新しく生まれ変わることができるのだと言っています。不思議ですが、赦しが先にあって、赦されたとき、私たちは本当に自分の罪を知るのです。逆に言えば罪を本当に知ったとき、すでに私たちは赦されているのです。また別の言い方をするならば、赦されたことを知るということは神の愛を知るということですから、神の愛を感じた時、人間ははじめて自分の罪を知るといえます。先に愛があるのです。その愛によって私たちは自分の罪を知り、悔い改めることができるのです。そしてそのとき新しく生まれ変わることができるのです。人間は反省をしても生まれ変わることはできません。神の愛を知って自分の罪を知ったとき生まれ変わることができるのです。

<神の物語と人間の物語>

 さて、今日の聖書箇所は、イエス様の一番弟子であったペトロが主イエスを三回知らないという有名な否認の場面です。この場面に限らず、イエス様の受難の物語を読む時、どうにも苦しくなるようなところがあります。それは人間の罪、愚かさが福音書の他の箇所より、鮮明に描かれているからです。「ホサナ、ホサナ!」と熱狂してイエス様を迎えた群衆が、やがて、「イエスを十字架につけろ!」と叫びだす、その出来事の進行の中に、とてつもない人間の愚かさを見てしまいます。ですからなにか息苦しさのようなものを感じます。今日の聖書箇所にしても、私たちはこのペトロの物語を読んで、これは愚かなシモン・ペトロという男の物語であって、自分とは関係ないとは、はっきりとは思えないのではないでしょうか。もちろん思う深さは人それぞれであるかもしれません。ある人は、このペトロは自分自身だと感じる人もいるでしょう。自分は確かにおくびょうで情けない人間で、このペトロのような裏切りをしてしまう、そんなペトロのような人間だと感じる方もいるかもしれません。そこまでは思えなくても、このペトロの裏切りの場面を読む時、どこか心の底が小さくうずくような人間の世界の悲しみとか辛さを感じる人もいるでしょう。

 そんなペトロの物語ですが冒頭に、ペトロは外にいて中庭に座っていたとあります。先週お読みしました58節にペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事のなりゆきを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていたとありました。大祭司のもとで救い主であるイエス・キリストの裁判が行われている、これは神の救いの物語、十字架への物語が進んでいるということです。単なるキリストが不正な裁判を受けたということだけではなく、旧約聖書から続く、大きな神の救いの歴史の一大転換の場面であるということです。その壮大の物語の外で、今日お読みしたペトロの物語があります。庭の内側と外側で神の壮大な物語と一人の人間の愚かな物語が並行して進んでいます。しかし考えてみればこれは神の出来事は、一人一人の人間の生身の生、人生と深くかかわって行くということでもあります。私たちの毎日毎日が、神の物語、黙示録へと進んでいく神のご計画と鋭く交わりながら並行して進んでいくということでもあります。

<弱さはあきらかにされる>

 さて、いったん逃げたペトロですが、それでもイエス様のことが気になったのでしょう。遠く離れてイエスに従って、裁判が行われている大祭司の屋敷の中庭にまでついてきたのです。ここには精一杯のペトロの誠意があります。イエス様を思う気持ちがあります。しかし、もちろんイエス様を見捨てて逃げたことには違いありません。遠く離れて従った、というのも小心者で臆病者です。それでも彼なりの精一杯であったと思われます。

 そんな精一杯だった彼が見たものは、裁判で偽証する者のまえで黙っておられるイエス様です。死刑が宣告されて唾を吐かれ、殴られ、侮辱されているイエス様です。多くの奇跡を起こされ、力強く語っておられたイエス様はどうなさったのか?ペトロはこの事のなりゆきに驚き動転したと思います。

 その動転の中、大祭司の中庭まで主イエスに従ってきたペトロの精一杯は、やがてもろく崩れていきます。女中のひとりが、ペトロがイエスの一味であることに気づきます。そして近寄ってきて言います。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた。」すぐそばにいた人が「あっ」と気づいたわけではないのです。少し離れたところにいた女中が気づいてわざわざ近寄ってきて言ったのです。それほどガリラヤの漁師であったペトロの風貌はエルサレムの人々からしたら特徴的だったということかもしれません。ペトロはどきっとしたでしょう。そしてペトロの本当の姿があらわになっていきます。神はあらわになさるのです。あらわにするために、わざわざ近づいてきてペトロの心を揺さぶるのです。「何のことを言っているのかわたしにはわからない」おそらく動転しながら、うちけし、それでも平静を装いながら門の方へ向かいました。するとまた別の女中からも言われます。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」。周りの人に聞こえるように言われたのです。さらにペトロは動揺したと思います。「そんな人は知らない」と誓って打ち消したとありますが、強く否定したということです。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」別の人々も言いだします。言葉遣いでというところから、ペトロにはガリラヤの人らしい言葉の訛りがあったのでしょう。さらに言えば、最初の女中が「ガリラヤの」といい次の女中が「ナザレのイエス」と言っているところにはガリラヤやナザレへの侮蔑のニュアンスも含まれています。そんな悪意をも含んだ言葉に対してペトロは「そんな人は知らない」と呪いの言葉さえ口にしながら誓いだしたのです。これは「そんな人を知っていたとしたら自分は呪われてもいい、誓ってそんな人などは知らない」と徹底的にペトロはイエス様のことを否定したのです。ここでついにペトロの本当の姿があらわにされました。

 ここで、裏切り者で弱いペトロの本当の姿を、ペトロ自身の言葉によってあらわにしてしまったのです。「イエス様なんて知らない」「そんなものを知っているとしたら呪われてもいい」そこまで激しくイエスなんて知らないと自分がイエス様を否定するときが来るとはペトロも思っていなかったでしょう。

 するとすぐ鶏が鳴いた。そのときペトロは思い出すのです。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と最後の晩餐の席で主イエスがおっしゃった言葉を。その言葉を思い出したとき、ペトロは激しく泣いた、とあります。激しくという言葉は痛切にということです。身を切るように泣いたのです。そしてまた、苦く泣いたとも言えます。ペトロは自分の本当の姿を知って苦く泣いたのです。

<すでに愛されていたペトロ>

 今日の聖書箇所はペトロのこの号泣で終わっています。自分の本当の姿を知らされたペトロが打ちのめされている、後悔している、そこには救いがないように思います。ただ愚かでみじめなペトロの姿で終わっているようにも見えます。しかしそうではないでしょう。ペトロは門の外に出て、とありますが、実際はすでに彼は救いの戸口に立っていたのです。ペトロは思い出したのです。イエス様の言葉を。

 イエス様はご存じであった。ペトロが、やがて自分を裏切り、呪いの言葉すら口にして<イエスなんて知らない>ということになる自分をご存じであった。知っているということはそれは愛であります。愛する人のことは知っているのです。愛する相手のことは本人すら知らないことも知っているのです。イエス様は、「そんな弱いお前だから呪われるのだ」とはおっしゃっていなかった。そんな弱いペトロであることを知りながら、イエス様は愛をもって受け入れておられたことをペトロは知ったのです。

 そもそも弱い弱いと申し上げて来ましたけれど、イエス様が逮捕されるときペトロはいったんは剣を抜いたと考えられます。今日の場面では、人に気づかれないと思っていることが愚かではありますが、心配して大祭司の中庭までついてきているのです。ペトロには弟子たちのリーダーとしての責任感もあったでしょう。ある意味、彼は充分に強いのです。ペトロは十分に強い人なのです。一人の大人として、できる限りの責任を果たそうとして生きてきた人です。そしてまたすべてを捨ててイエスに従うだけの強さがあった人です。人間として見たら十分に強くて愛すべき人物です。

 しかし、イエス様はペトロにおっしゃるのです。もう強くなくていい、と。「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないという」その言葉は断罪の言葉ではありません。非難の言葉ではありません。愛に満ちた言葉でした。人間の強さは神の弱さより弱い。人間の強さなどはいらない。わたしは三度わたしを知らないというあなたの弱さを知っている、その弱さのままでわたしと共に生きよう、そうおっしゃっているのです。その言葉を思い出した時、ペトロは泣くことができた。涙をこらえて強くなるのではなく、自分の弱さの中で身を切るように苦く泣くことができた。強くなろう、しっかりしようとしていた自分、そこにこそ自分の愚かさがあったことに気づいたのです。

 そしてペトロは涙を流しました。大の男が激しく泣いたのです。そして、すでにペトロは救いへと向かっていたのです。イエス様の言葉のゆえに。イエス様の言葉の内に自分がとらえられていたことに気づいたがゆえにペトロは救われます。イエス様に愛されていることを知ったがゆえにペトロは自分の強さを捨て、その弱さのままで新しく生き始めるのです。

 冒頭に語りましたコソ泥の小話でもコソ泥はおそらく懺悔をしたときは、「もう盗みをすまい」と心から思っていたでしょう。どうにか盗みをしない自分になろうと思っていたことでしょう。しかし自分でこうあろうとする自分になろうとしてもなれないのです。自分の力で自分を変えることはできないのです。もちろん人を変えることもできません。ただ神だけが変えてくださる。十字架にかかられた主イエスだけが人間を変えてくださるのです。

 ペトロはやがて大伝道者となります。このおくびょうだったペトロはおそらく最後は殉教したと考えられます。ペトロは反省して強くなって大伝道者になったのではありません。自分の弱さを知ったから、そして苦い涙を流したから立ち直ることができたのです。自分が強くなるのではなく力は神から与えられることを知ったのです。イエス様の愛のゆえに自分の弱さを知ることができた、本当の罪を知ることができた、そして涙を流すことができた、だからイエス様によって変えていただいたのです。変えていただくと言っても、まるっきり別の人間になるわけでも、二度と失敗をしない人間になるわけでもありません。実際、使徒言行録などを読みますとその後のペトロもパウロに非難されるような失敗をしています。しかし、苦い涙を流したペトロは強くあろうとしたかつてのペトロとは違うのです。その個性はそのままに弱さもそのままに新しくされたのです。

 わたしたちも試みにあいます。一度だけではない、三度も試されます。ペトロのように繰り返し揺さぶられます。近くにやってきて心臓を掴まれるように、罪をあらわにされます。しかし、そこに愛があります。十字架にかかられたイエスの愛があります。イエスの愛によって私たちは罪を知らされ、そして赦されます。心から涙を流し、神の前で泣くことができ、そしてイエスの十字架の愛に向かって歩んでいきます。


2017年2月26日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章57~68節

2017-03-03 14:27:24 | マタイによる福音書

説教「神を裁く人間」

 三年前に母が召されてからのち、もう実家もありませんから、故郷に帰ることはなくなりました。故郷への思いは人それぞれで、必ずしも故郷を素直に懐かしいと思える人ばかりではないでしょう。さまざまな事情で故郷に帰ることのできない人もいます。また、ふるさとは遠くにありて思うものという言葉もあります。

 現実的な故郷がその人にとってどのようなものであれ、人間にとって帰っていくことのできる場所があるというのは支えになることです。どのようなことがあっても、帰っていくことができる。受け入れられる、そんな場所があるのは力強いものです。

 キリスト者の帰るべき場所は、いうまでもなく「天」です。私たちは地上を歩みながら故郷としての天を持っています。そしてまた日々祈りによって帰っていく神の御もとがあります。私たちは帰っていくのです。神の御もとへ。

<無力なイエス>

 ところで、教会に一日おりますと、いろいろな人がきます。また、郵便物以外のいろいろなものがポストに入ります。だいたいは近辺のお店の宣伝が多いのですが、以前にも少しお話ししましたが、新興宗教のビラというのも時々入ります。キリスト教の教会だとわかっていながら入れるのですから、伝道熱心といえるかもしれません。嫌がらせかもしれませんが。

 あるビラにはこう書いてありました。「キリスト教はその教祖がたかだが30歳くらいで死刑になって死んでいる。いくらなんでもそんなに若死にしたような無力な教祖の起こした宗教に力があるわけない」と。イエス・キリストは教祖ではありませんし、十字架の死は復活につながるものです。そのビラにいくらでも反論はできるのですが、主イエスをご存じない人から見たらこういう見方もできるという参考にはなりました。

 今日の聖書箇所は、主イエスの裁判の場面です。ここに描かれているイエス様の様子はたしかに力ある様子には見え難いものです。無力といってもよいようなお姿です。これまで読んでまいりましたマタイによる福音書では力強く福音をお語りになる様子がありました。湖を鎮めるような奇跡を起こされる様子もあり、たくさんの病気を人々を癒される様子がありました。驚くような神の奇跡の業を主イエスはなさいました。そんなイエス様を人々はある時は熱狂して迎え、また追いかけました。そもそも、そんな群衆の主イエスへの熱狂への、祭司長や律法学者たちの嫉妬、妬みが今日の聖書箇所の裁判への伏線としてありました。

 祭司長や律法学者にとって主イエスはなんとしても葬り去らねばならない相手でした。自分たちを差し置いて聖書を語り、神の国を語り、自分たちの権威を無視して自分たちを批判して活動をしている主イエスをゆるすことはできませんでした。民衆から支持されている主イエスは祭司長たちにとって自分たちの足元を脅かす存在でした。いま、時は、過ぎ越しの祭りの最中でした。もともとは祭りの最中に主イエスを捕えるのはやめておこうと考えていた祭司長たちでしたが、ユダの裏切りによって、すんなりと主イエスを捕えることができました。あとは死刑にするだけというのが本日よまれた聖書箇所の状況でした。

 その状況においての主イエスのご様子は、かつての様子とは打って変わった弱弱しい様子でした。新興宗教のビラに、死刑にされた無力な教祖と書かれていましたが、たしかに無力に見えるお姿です。

 裁判自体について言いますならば、実際に、当時の法律や慣習に照らし合わせてみて、夜に突然行われたことやその審議のあり方が、法的手続きとして妥当であったかどうか、それは疑問です。この裁判については、さまざまな学者によって、さまざまに研究され、議論されているところです。

 そもそも当時の裁判においては律法にもとづき証人は二人以上が必要とされました。最初、何人もの偽証人が現れたとあります。しかし、彼らはいうことが、ちくはぐで、二人以上で話が一致せず、証拠としては採用できないものだったようです。そんななかで、ようやく二人の者が一致する内容を語りました。それは主イエスがエルサレム神殿を打ち倒すと語ったという告発でした。そして倒した神殿を三日あれば立てることができる、こうもイエス様はお語りになったと告発しました。これは確かに主イエスがお語りになったことでした。神殿の崩壊については主イエスは語っておられました。ヨハネによる福音書に記されています。もともと主イエスがおっしゃったのは、これは目に見える神殿ではなく、十字架の死の三日後に自分は復活することを語られたのでした。そして、そのとき、人間の心の中にまことを神殿を建てるという意味で主イエスがおっしゃったことでした。しかし、主イエスの言わんとされた本当の意味がわからなければ、神殿に対する冒涜ととれる言葉です。これに対して大祭司は「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と問いますが、主イエスは黙り続けておられた、とあります。主イエスは、神は、沈黙しておられたのです。

<神の沈黙>

 ある方はおっしゃいます。神の沈黙は神の意志の固さを表している、と。人間は神が沈黙しているように感じる時、勝手なことを考えます。神が黙っておられるとき、神などいないと人間は思うこともあるでしょう。あるいは沈黙している神は無力な神だと思うこともあるでしょう。弁舌さわやかに、大祭司たちにがつんといえる神こそ力ある神と感じるかもしれません。

 しかし、人間は、信仰をもって神に聞かない時、仮に神がどれほど語られてもそこに神の声を聞き取ることができません。そしてまた神は聞き取ることのない人間の前で沈黙をなさるのです。神の沈黙の前で人間は自分の好きに振る舞うのです。しかしその神の沈黙は人間を見捨ててさじを投げた沈黙ではありません。先ほど申し上げたように、神の意志の固さを表す沈黙です。人間を救うという神の意思を表す沈黙です。

 主イエスは、十字架にかかり罪の贖いの業をなさることを決めておられた。父なる神の御業を為す意志が固かった。その意識の硬さゆえに沈黙をされたのです。不利な証言がなされようとも主イエスは口を開くことはありませんでした。主イエスが黙られ裁判が硬直状態となり、大祭司は再び言います。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」それに対してイエスは「それはあなたが言ったことです」とお答えになります。これは不思議な言葉です。ギリシャ語でも「あなたが言った」となっています。これは「あなたが言っているのであって私が言ったわけではない」という否定的な回答とも取れますが、むしろ大祭司の言葉を肯定されたと取る方が良いでしょう。口語訳ではここは「そのとおりです」となっています。そしてひきつづき、主イエスはご自身の再臨のことを語られます。御自身が世界審判者としてふたたびやってこられることをダニエル書7章などを下敷きにした表現で語られます。自分はメシアであり、世界審判者としてやがて来る者だとここで主イエスは宣言されています。

 沈黙されていた主イエスはここでみずからのメシア宣言をなさいました。

 メシアがメシアであると宣言なさったそのことのゆえに死刑判決が下されました。主イエスの奇跡を見ても福音を聞いても、主イエスを神から来た者であると信じることのできなかった人間は主イエスご自身のメシア宣言を聞いても、それは神を冒涜する言葉にしか聞こえないのです。

 神を神として信じることのできない人間は神を裁き、神に死刑宣告をすることができるのです。私たちも折々に神を裁きます。この神は私たちに何をしてくれるのか?大したことをしてくれないではないか。自分中心に考える時、私たちは神を裁いています。神への信頼のない時、私たちは私たちの中で神を殺すのです。

人間から死刑判決を下された主イエスは、たしかに新興宗教のチラシに書いてあったように無力で情けない神に見えます。力のない神に見えます。実際、唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、平手で打たれる神です。「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と侮辱される神です。

 ここに描かれているのは弱く見える神の姿と神を裁く醜悪な人間の姿です。しかしなお、ここにも神の硬い意志が貫かれています。さきほど主イエスの沈黙は神の意志の強さを表すと申しました。そののちにつづく主イエスのメシア宣言もまた神の意志を貫くものでした。最初に沈黙されていた主イエスは「メシアなのか」という問いに対しても沈黙なさっていれば大祭司たちは決定的なことはできなかったかもしれません。しかしここでみずからがメシアであること、自分が再臨なさることを宣言されたがゆえに主イエスの死刑は確定したのです。ここでも十字架へ向かう意志の固さは貫かれています。神の、主イエスの、人間への憐みの心は貫かれています。この醜悪のようにしか見えない場面を通して、なお神の愛が貫かれています。神の弱さは人間の強さより強いそうパウロがいった神の愛の強さがここにあります。

<本当の強さとはなにか>

 長く教会に来られている皆さんのよくご存じの放蕩息子の話がルカによる福音書にあります。当時のユダヤの社会では本来はありえない父親の生前に財産分与を息子はしてもらいました。この財産の生前分与自体、実に親不孝な無礼なことでした。しかもそれから家を出て行った息子は、財産を使い果たして放蕩して帰ってきます。その帰ってくる息子をまだ遠くから気づいて父親の方から走り寄って首を抱き、接吻したとあります。これは普通に考えて、子供に甘い、愚かな父親の姿です。本来、親はこの息子を厳しく叱らないといけない。この息子の性根は鍛えられ直されないといけない、人間はそう思います。しかし、この父親は実に愚かにもこの息子を抱きしめて受け入れるのです。

 これは単なる甘い父親を描いた物語ではありません。単純に優しい優しい神様を描いた話でもありません。しかし、この放蕩息子の父親として描かれている神は人間には愚かに見える姿でなお人間を愛してくださる神です。まだ父が生きているというのに財産分与を要求して家をでていく、つまり父の存在を無視し、言ってみれば生きている父親を無用な者と考えて、心の中で父親を殺した息子を受け入れる神なのです。

 神のみじめに見える姿、弱く見える姿は、人間によってみじめに弱くされた姿です。愚かな人間によって愚かにされた姿です。神を殺そうとする人間によって殺されたかに見える神です。しかし、愚かに見える神は、一人で十字架におかかりになる神です。父なる神の怒りをおひとりで受けられる神です。人間には絶対に耐えることのできない父なる神の怒りをお受けになる神です。主イエスに死刑の判決をくだしたとき大祭司たちは自分たちが勝ったと思ったでしょう。財産を手にして家を出て行った息子は自分は自由を得たと思ったでしょう。

 しかし、神を裁き、無用な者とした者たちにあるのは罪による死でした。自由な命ではなく死でした。

 一方で、父なる神の怒りを十字架によって受けられ私たちの救いを成し遂げられた主イエスは、わたしたちを神を殺した私たちに永遠の命をあたえてくださいました。そしてまた主イエスは、父なる神の御もとに私たちの場所を作ってくださいました。神を裁き、また神を無用な者と考える者たちのために帰っていくべき場所を作ってくださったのです。

 ですから私たちは帰っていくことができるのです。神を裁き無用な者と考えていた私たちを神は待っていてくださいます。私たちがまことに悔い改めて帰っていくとき、まだ遠くにいる時から走り出て私たちを迎えてくださいます。傷ついてうずくまっているときは探して助け起こしてくださいます。そして、まことの命を与えてくださいます。父なる神の家へ、なつかしい故郷へと抱きしめて連れて帰ってくださいます。