大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録第25章1~12節

2021-05-02 13:38:33 | 使徒言行録

2021年5月2日大阪東教会主日礼拝説教「裁くのは誰か」吉浦玲子   

【説教】  

<八方はふさがっていても> 

 パウロはローマ皇帝に上訴しました。もともと、どうにかしてパウロを裁きたいユダヤ人たちと、ユダヤ人の機嫌を取りつつうやむやにしたいローマ総督の間で、事態は膠着状態でした。そもそもパウロには訴えられるべき罪はありませんでした。それはローマ総督にも分かっていたのです。しかし、膠着状態は二年続きました。その二年はパウロにとって苦しいものであったと思います。ローマへ行くという願いは叶わぬまま、監禁状態が続きました。確かに神に示されたローマへの道がいったいどうなるのか、神へ信頼しつつもパウロは悩み苦しんだでしょう。 

 ローマ総督がフェリクスからフェストゥスに代わって、少し事態が動きました。フェストゥスは前任者よりもスピーディーに物事を進めたい人物のようです。赴任してきた総督として、ユダヤの有力者たちと早速コンタクトを取り、要望を聞きます。ローマがイスラエルを支配していたとはいえ、植民地の円滑な支配には、植民地イスラエルの有力者たちの協力が必要だからです。フェストゥスはユダヤ人たちがパウロという囚人を裁きたがっていることを知りました。ユダヤ人たちはパウロをエルサレムへ戻して裁きたいと願いましたが、フェストゥスはカイサリアで裁いたら良いと提案しました。ある程度は要望は聞くけれど、ユダヤ人たちの思い通りにはさせないという支配者側のさじ加減がそこにありました。その流れの中で、早速、カイサリアで取り調べが行われます。しかし、そこでも、結局これまでと同じことが繰り返されました。ユダヤ人たちの訴えには力がなく、パウロは明確に反論しているにも関わらず、結局、パウロは無罪放免とされません。その状態をパウロはローマ皇帝に上訴することによって打ち破ろうとしました。 

 これはパウロにとってもイチかバチかの駆けでした。ある意味、追い込まれたともいえます。ユダヤ人たちはエルサレムでの裁きを望み、フェストゥスもそれを提案しました。彼は前任の総督同様、「ユダヤ人たちに気に入られようと」したのです。パウロは政治や権力の力の前で無力に翻弄されていました。しかし、皇帝への上訴という決断によって道が拓けました。神が拓いてくださったのです。 

 ところで、ときどきお話しすることですが、戦中の、大阪東教会の牧師であった霜越四郎牧師は、1941年に不敬罪で逮捕されました。これは無実で、結局不起訴となったのですが、最大拘留期限の90日に渡って拘留されました。その拘留中に作られた短歌が「監房のうちはひろしや八方はふさがりおれど天に通いて」というものです。先生が当時拘留された房が実際広かったのか狭かったのかはわかりませんが、しかしいずれにせよ、天につながっているから広いと先生は歌っておられます。<八方はふさがり>という言葉に、コリントの信徒への手紙のパウロの言葉を思います。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。コリⅡ4:8-10)パウロは四方と言い霜越先生は八方とおっしゃってますが、しかし、いずれにしても、わたしたちは四方八方がふさがっているようでも、苦しめられても行き詰らないし、途方に暮れるようなことがあっても失望しないのです。パウロはそう語り、霜越牧師もそのように考えておられたのです。なぜならわたしたちはすでに十字架で死なれた主イエスの死をまとっているからです。イエスの死をまとうことは、イエスの新しい命が現れることでもあるのです。 

 それは単純に苦しいことがあっても、イエス様が助けてくださいますよということではなく、主イエスの死と新しい命に与る者は失望しないのです。パウロの時代、信仰深くても殉教する人々はいました。パウロ自身、この使徒言行録の聖書箇所ですでに二年に渡る理不尽な扱いを受けています。さらに最後は殉教したと言われれています。しかし周りの状況はどうであれ、私たちは希望を失わないのだとパウロは語っています。 

 霜越牧師は、拘留中、聖書を読める環境ではなかったようですが、先生の中には間違いなく、パウロのことが浮かんでいたでしょう。四方から苦しめられても行き詰らないというコリント書のパウロの言葉は心にあったでしょう。四方八方はふさがってても天につながっている、天の命に生かされている。まったく恐れや不安がなかったわけではないでしょう。しかし、苦しみの中でパウロと同様、キリストに支えられたのです。天からの慰めを受けたのです。 

<神の慈しみのうちに> 

 さて、パウロは皇帝に上訴しました。当然ながら、皇帝は人間です。しかしまた、当時の世界における最高権力者でありました。その皇帝に対しての上訴がどのような結果をもたらすか、パウロにはわかりませんでした。ある意味、無謀かもしれません。しかし、パウロが皇帝に上訴できたのは、その結果がどうなろうとも、本当に裁かれるお方は神だけであるという確信があったからです。 

 この世の裁き、この世界の判断は、もちろん大切で、場合によっては命に関わることもあります。しかし、パウロを初めとした弟子たちは、神の裁きは、自分の肉体の命以上のものであると分かっていたのです。主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 マタイ10:28」とおっしゃいました。この部分を聞くと、恐ろしくなります。私たちはやはり体を殺そうとされたら恐ろしいのです。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、と言われても、正直、「それは無理です」と言いたくなります。しかしまた主イエスは続けてこうもおっしゃっているのです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている。」主イエスは、一羽の雀さえ、父の赦しがなければ地に落ちることはないとおっしゃいます。魂も体も滅ぼすことのできるお方は、しかし、一羽の雀の命さえも守ってくださるお方だとおっしゃるのです。私たちは、命知らずに困難に立ち向かっていけと言われているのではないのです。まず第一の前提として、神は、私たちの命を慈しみ、髪の毛一本までも数えてすべてをご存知でまもってくださるお方なのです。 

 そのような慈しみは人間にはできないことです。ローマ皇帝にも決してなしえない、愛と慈しみと裁きの力が天の父なる神にはあります。戦争中、官憲の力は絶大だったでしょう。一介の牧師に過ぎない霜越牧師など取るに足りない存在だったでしょう。実際、大阪市内でも、戦争中、逮捕されて殺された牧師はいたのです。しかし、肉体の命以上の裁きがある、そのことを思う時、この地上での困難は耐えられるのです。それは単に、この世で殺されるより地獄の方が怖いんだぞということに怯えて耐えるのではありません。私たちの肉体も魂もすべて神の御手の内にあり、雀一羽すら慈しまれる神の配慮は愛に満ちている、そのことのゆえに恐れることはないのです。 

<キリストの御跡を追う> 

 そしてまたこれまでも申し上げてきたことですが、パウロの歩みは、十字架におかかりになった主イエスの歩みと重なります。たとえばフェリクスやフェストゥスといった総督とパウロとの関わりは、かつての主イエスと当時の総督であったポンテオ・ピラトとの関係に相似しています。かつての総督ポンテオ・ピラトもユダヤ人たちに捕らえられて連れてこられた主イエスに罪がないことは分かっていました。しかしまさにピラトも今日の聖書箇所のフェストゥスと同じように「ユダヤ人たちに気に入られようとして」主イエスに死刑の判決を下してしまいました。使徒言行録の著者であるルカは、パウロが主イエスの道を歩んでいることをはっきりと意識して今日の聖書箇所でも書いています。 

 パウロ自身はある時は意識的に、ある時は、知らぬうちに、主イエスの御跡を追っていました。これは私たちの歩みでもあります。もちろん私たちはパウロのような大伝道者ではありません。霜越牧師のように官憲の前で屈しない精神力も持っていないかもしれません。しかし、それでもなお、私たちはキリストを信じて生きる時、おのずとキリストの御跡を追う者とされるのです。ある友人は、脳出血を起こして体に障害が残りました。それまでは礼拝でオルガンの奉仕をしていたのですが特に左手が動かなくなり、奏楽の奉仕はできなくなりました。彼女は奏楽にすべてを捧げていたといってもようように熱心に奉仕をされていましたから、大変つらかったと思います。でも彼女は信仰によって立ち直りました。礼拝の奏楽はできなくなりましたが、家に訪ねて来る友人と楽しく讃美歌を歌いました。自宅のオルガンで、どうにか動く右手で讃美歌のメロディーを弾きながら彼女はとても楽しそうに歌っていました。病という苦しみを通して、なお、キリストが共にいてくださること、神が慈しみ深いことを彼女は知ったからです。 

 キリストの御跡を追うということは、キリストの十字架のお苦しみを味わうことでもあります。本来、人間は苦しみは避けたいものです。しかし、パウロも病を得た友も苦しみの中でキリストと出会ったのです。キリストの愛、神の慈しみをより深く知ったのです。ですから私たちは苦しみをも恐れる必要はないのです。もちろん苦しいことをやせ我慢する必要もありません。ただ良き時も悪しき時も、神を求めて生きる時、私たちはおのずからキリストの歩んだ道を歩ませていただいているのです。それは神の愛をいっそう深く知る歩みです。 

 

 

 

 



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