大阪東教会 2015年3月29日主日礼拝説教
ヨハネによる福音書18章1~11節
「飲むべき杯」 吉浦玲子伝道師
イエスさまにとって、ギドロンの谷の向こうは親しいものでした。そこの園に「度々」集まっておられたとあります。つまり、主イエスは、いつもの場所で、裏切られ逮捕をされたのです。まったく知らない場所で、未知の人々からなんらかの被害をこうむる、事件に巻き込まれるというのも、悲劇であり、悲惨ではあります。航空機事故のニュースもいま報道にありますが、もちろんそういうことも大きな悲劇です。しかしまた、いつもの場所で、いつもの人々から裏切られる、そして裏切られて、敵方に引き渡されるというのは、また質の異なる悲惨です。深く心に突き刺さる、魂が引き裂かれるような痛みの出来事です。
しかし、主イエスは、ご自分の身に起こることを知りながら、なおその十字架への道をご自身の意志によって歩まれました。その道が父なる神の御心であることを主イエスはご存知であり、その父なる神の御心に従順に、しかしまた、そのことをご自身の意思として歩まれました。ことにヨハネによる福音書では、主イエスご自身が意志的に歩まれたこと、また主イエスが神として歩まれたことに重点をおいて、主イエスの歩みを記されています。ですから、そのことを際立たせるため、他の福音書にある最後の祈りの場面での弟子たちの様子も記されていません。ただただ、主イエスご自身の御意志と歩みにフォーカスがあてられているのです。
そしてまた、ヨハネによる福音書では、最後の晩餐から、長い主イエスのお言葉が続きます。13章からの、そのお言葉の中には、いくつもの広く愛唱されている聖句が含まれています。「私は道であり、真理であり、命である」「わたしはまことのぶどうの木」「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」13章から17章までそのような主イエスのお言葉が続きます。決別説教といってよい言葉です。心を込めて、弟子たちに語りかけられました。
そして、本日の聖書箇所で、場面が暗転します。灯りのある室内から、夜の闇の中に場面が移ります。ある方はこの夜の闇は、人間の罪の闇、神を知らない暗黒を暗示しているとおっしゃっています。そしてそのまさに闇の中から、主イエスを捉える者たちがやってきます。松明やともし火や武器を手にしてやってきました。先週、暗闇の中に光はかがやいているという話をいたしました。その暗闇に輝くまことの光である主イエスを、人間の手による松明やともし火を持った人々が捕らえようとやってきているのです。そしてその手には、明りだけではなく武器もありました。みずからの闇を知らない愚かな人間がみずからの灯りを頼りに、武器を手に神の御子を捕らえに来たのです。本来であれば、武道の達人に子供がおもちゃの剣で挑んでいくような、身の程をわきまえない滑稽な情景です。
主イエスは、その闇の中からやってきた者に対して「誰を探しているのか」と問われます。ナザレのイエスだという答えに対して、主イエスは「わたしである」とお答えになります。これは、原文で言いますとx「エゴーエイミー」というギリシャ語になります、英語で言うと <I am>ということです。これは、出エジプト記3章14節で燃える柴のところで、神と出会ったモーセが、神に対して、名前を問うたとき、神は「わたしはある。わたしはあるというものである」とお答えになった、とあります。こちらはヘブライ語なのですが、そのヘブライ語の「わたしはある」はギリシャ語の「エゴーエイミー」「I am」という言葉と同じものであると言われます。出エジプト記において神は初めてその名前を明かされました。エジプトで奴隷として苦しめられている民を救い出す神として、「わたしはあるというものである」と名乗られたのです。それと同じように、主イエスは、罪の奴隷となっている人間を救い出す神として、ここで「I am」「エゴーエイミー」「わたしである」と名乗ってくださっているのです。つまりここで主イエスは、ご自身が神であることを宣言されていると言ってもいいのです。その神は人間を救い出す神です。「わたしである」、この言葉には神の権威、神の顕現が示されています。ですから、それを聞いた人々は、「あとずさりして地に倒れる」のです。神の力のまえで彼らは倒れたのです。
しかしこの神は、すなわち「わたしである」という言葉だけで人々を倒すことのできる神なるイエスは、捕らえられる道を選ばれます。そしてまた共にいた弟子達を逃すようにお命じになります。弟子たちを守られるのです。しかし、一番弟子であったペトロですら、こののちイエスを知らないと言うのです。そのような、これから起こることをすべて知りつつ、主イエスは十字架に向かうその差し迫った時においてもなお、弟子たちを愛し、守られたのです。もちろんその守りは、彼らがやがて十字架と復活の出来事における神の真理を悟り、立ち直り、主イエスの福音伝道の道を歩むことへの期待のゆえでもありました。
そして剣を抜いたペトロに「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と主イエスは語られます。
そもそも、主イエス・キリストを信じ歩む道のりは、おのおのの十字架を背負って歩む道のりです。そしてそれはイエス・キリストが苦い杯をお飲みになったように、神からの杯を飲むことを選ぶ生き方であるともいえます。
し かし、現実的には、まず、私たちは十字架を背負わず、杯を飲まず、往々にして剣を振り回すのです。その剣は知識と言う剣かもしれません。権力と言う剣かもしれません。努力と言う剣かもしれません。私たちが頼みとするすべてのものを指します。神以外に自分が頼りとするものです。その自分が頼りとする剣をさやに納めなさいと主イエスは語られます。
そもそも剣は人を傷つけます。現実の武器としての剣ではなくても、私たちが私たち自身を頼みとして剣としてそれを振り回すとき、それは、人を傷つけます。そして往々にして、剣と剣の戦いになるのです。自分の主張、自分のやり方の正当性を競うことになります。もちろんまっとうな議論は大事です。しかし、相手に対する愛に根差していない主張や意見は剣となります。
そしてまた剣を振り回して、一番傷つくのは実は私たち自身です。愛のない自己主張をするとき、なにより私たちは私たち自身を傷つけています。そしてその愛のない剣のもろさをどこかで本当は知っています。その剣は自分を守ってくれているように思っても、それを振りかざすとき、その剣は自分自身に向いています。愛のない剣は自分の心の中の殺伐としたものをあらわにします。その剣は自分自身の中の闇に向けられています。愛のない、孤独で、冷たい、混乱している自分自身の内側へとその剣は向けられています。
でも、私たちは愛のない剣をもう振りかざす必要はないのです。頼みとすべきただお一人の方がここにおられるのです。私たちの剣より、はるかに強く私たちを守ってくださる方がここにおられます。エゴーエイミー、「わたしである」と言ってくださる神がおられます。
そしてその頼みとすべきお方が、杯をいま飲もうとされています。主イエスは天の大軍も、天使も呼ばず、ただお一人で杯を飲まれるのです。もっとも強い剣を持っておられる方が、丸腰で、闇の中から来た者に捉えられ殺される道を選ばれました。
主イエスの飲まれた杯は苛酷なものでした。パッションという映画をご覧になったでしょうか?十字架の前に主イエスは鞭で打たれますが、当時のローマのむちというのは、金属の突起がついたむちで、そのむちで鞭打たれますと肉がえぐれるのです。十字架の前のむちうちだけで死亡する人間もあるくらい、苛酷なものです。パッションという映画ではそのむちうちシーンがリアルに再現されていて、かなり物議をかもしました。
さらに十字架刑自体も、長時間かけてじわじわと殺していくむごい形でした。ローマにおいて、もっとも形の重い犯罪者に課されるものでした。じわじわと殺されちくその様子がさらしものにされるのです。
しかしなにより、主イエスの飲まれた杯の過酷さは、神から裁かれるということでした。肉が引きちぎられるむちよりも、生身の体に打ち込まれる釘とその後の痛みと衰弱による苦しみ以上に、おそるべきものは神の裁きです。主イエスは、神から罪人とされたのです。それが神のご計画だったのです。罪のない主イエスが、神の前で、罪びととして裁かれたのが十字架の出来事です。十字架のうえで主イエスは「エリ・エリ・ラマサバクタニ」と叫ばれます。これは詩編22編を下敷きにしていると言われますが「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という叫びです。
主イエスは神から見捨てられたのです。 本来は私たちが飲むべき杯を飲んでくださり、私たちが叫ぶべき言葉であった「エリ・エリ・ラマサバクタニ」という言葉を叫ばれたのです。
私が洗礼を授かった教会では洗足木曜日礼拝というものがありました。以前お話したことがあるかと思いますが、これは一般に行われるイブ礼拝と同様、燭火礼拝でした。イブ礼拝と違うのは、イブ礼拝では最後にキャンドルを消した後、会堂の明かりがつきますが、洗足木曜日礼拝では最後にキャンドルの灯を消したあと会堂の明かりはつかず暗闇の中を沈黙して帰ることになっていた点でした。ある年のその洗足木曜日礼拝で、私は聖書朗読の奉仕をすることになりました。私が読んだ箇所は、マルコによる福音書の15章で十字架上の主イエスを人々が罵るところでした「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」という言葉がありました。そういう箇所を読むのはなんか嫌だなあと思いつつ、でも奉仕なので、一生懸命読みました。しかし、読みながら、不思議な感覚になったのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」祭司長や律法学者たちの勝ち誇った罵りの言葉を読みながら、読みたくないなあと思いながら、しかしやがて、ある確信をしました。これは自分が言っているのだ、と。十字架の出来事は2000年前のことですが、私は実際にあの場所にいたと思いました。そして私もあの場でイエス・キリストを罵り唾をかけたのだと確信をしました。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」とキリストを愚弄したのは他ならぬ私自身であると知りました。そして、他ならぬ私が主イエス・キリストを十字架につけたのだと思いました。
もちろんそのとき、私はすでに洗礼を受けていました。キリストの十字架と贖いの業については知っていましたし、イエス様を救い主として受け入れていたのです。でも本当に心から、自分自身が主イエスを十字架につけたのだと感じたのは恥ずかしながら、実はそのときでした。イエス様は吉浦玲子の罪のために死なれたのだとその時、心から思ったのです。2000年の昔の出来事がわたし自身の救いのためにあったことを知りました。そして、イエス様の飲まれた杯の苦さを知りました。足が震えました。到底、自分にはそんな杯は飲めない、その杯を主イエスは飲んでくださったのです。
罪の暗闇の中にいる人間は言います。「神は死んだ。」と。しかし、神は死んだのではありません。神は殺されたのです。人間が神を殺したのです。その殺される道を、主イエスは歩まれました。
キリストはわたしたちの罪ゆえ、罪びととして死んでくださり、いま、共に歩んでくださっています。そして、やがて私たちは飲めるようになるのです。自分の杯を飲めるようになるのです。「わたしである」とおっしゃってくださっている方が、私たちの中の闇を取り除いてくださいました。もう剣を振り回す必要はありません。私たちは自由に明るい世界に生かされています。その喜びと平安の中、神に信頼して、私たちに一人一人に与えられる盃を喜んで飲む者とされるのです。それは自分自身にとってチャレンジではありますが、主イエスがその杯を飲み、私たちを救ってくださったように、私たちもまた神へまた隣人へ愛を注ぐ器として用いられるために、その杯を飲む者とされます。愛によって人とつながっていくために、私たちは杯を飲むことができるようにされるのです。
世間でときどき誤解されているのですが、自分の十字架を負って歩む、神の杯を飲むというのは、試練を耐えしのぶとか、運命を受け入れていくというような単純なことではありません。もちろん、試練という側面はあります。しかし、「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」という徳川家康の人生訓みたいなこととも違います。
なにより罪の奴隷から解放していただいた喜びの中で、救われた者として、心と魂の愛の光を注がれた者として神に従順に従っていく、ただ神のみを頼りとする、神だけを剣とする、その生き方の中におのずと十字架を負い、杯をいただく者とされるのです。試練にあっても倒れることのない力と希望を与えられるのです。