大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年3月29日 ヨハネによる福音書18章1~11節

2015-03-29 17:34:01 | ヨハネによる福音書

大阪東教会 2015年3月29日主日礼拝説教
ヨハネによる福音書18章1~11節
「飲むべき杯」 吉浦玲子伝道師

 イエスさまにとって、ギドロンの谷の向こうは親しいものでした。そこの園に「度々」集まっておられたとあります。つまり、主イエスは、いつもの場所で、裏切られ逮捕をされたのです。まったく知らない場所で、未知の人々からなんらかの被害をこうむる、事件に巻き込まれるというのも、悲劇であり、悲惨ではあります。航空機事故のニュースもいま報道にありますが、もちろんそういうことも大きな悲劇です。しかしまた、いつもの場所で、いつもの人々から裏切られる、そして裏切られて、敵方に引き渡されるというのは、また質の異なる悲惨です。深く心に突き刺さる、魂が引き裂かれるような痛みの出来事です。

 しかし、主イエスは、ご自分の身に起こることを知りながら、なおその十字架への道をご自身の意志によって歩まれました。その道が父なる神の御心であることを主イエスはご存知であり、その父なる神の御心に従順に、しかしまた、そのことをご自身の意思として歩まれました。ことにヨハネによる福音書では、主イエスご自身が意志的に歩まれたこと、また主イエスが神として歩まれたことに重点をおいて、主イエスの歩みを記されています。ですから、そのことを際立たせるため、他の福音書にある最後の祈りの場面での弟子たちの様子も記されていません。ただただ、主イエスご自身の御意志と歩みにフォーカスがあてられているのです。

 そしてまた、ヨハネによる福音書では、最後の晩餐から、長い主イエスのお言葉が続きます。13章からの、そのお言葉の中には、いくつもの広く愛唱されている聖句が含まれています。「私は道であり、真理であり、命である」「わたしはまことのぶどうの木」「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」13章から17章までそのような主イエスのお言葉が続きます。決別説教といってよい言葉です。心を込めて、弟子たちに語りかけられました。

 そして、本日の聖書箇所で、場面が暗転します。灯りのある室内から、夜の闇の中に場面が移ります。ある方はこの夜の闇は、人間の罪の闇、神を知らない暗黒を暗示しているとおっしゃっています。そしてそのまさに闇の中から、主イエスを捉える者たちがやってきます。松明やともし火や武器を手にしてやってきました。先週、暗闇の中に光はかがやいているという話をいたしました。その暗闇に輝くまことの光である主イエスを、人間の手による松明やともし火を持った人々が捕らえようとやってきているのです。そしてその手には、明りだけではなく武器もありました。みずからの闇を知らない愚かな人間がみずからの灯りを頼りに、武器を手に神の御子を捕らえに来たのです。本来であれば、武道の達人に子供がおもちゃの剣で挑んでいくような、身の程をわきまえない滑稽な情景です。

 主イエスは、その闇の中からやってきた者に対して「誰を探しているのか」と問われます。ナザレのイエスだという答えに対して、主イエスは「わたしである」とお答えになります。これは、原文で言いますとx「エゴーエイミー」というギリシャ語になります、英語で言うと <I am>ということです。これは、出エジプト記3章14節で燃える柴のところで、神と出会ったモーセが、神に対して、名前を問うたとき、神は「わたしはある。わたしはあるというものである」とお答えになった、とあります。こちらはヘブライ語なのですが、そのヘブライ語の「わたしはある」はギリシャ語の「エゴーエイミー」「I am」という言葉と同じものであると言われます。出エジプト記において神は初めてその名前を明かされました。エジプトで奴隷として苦しめられている民を救い出す神として、「わたしはあるというものである」と名乗られたのです。それと同じように、主イエスは、罪の奴隷となっている人間を救い出す神として、ここで「I am」「エゴーエイミー」「わたしである」と名乗ってくださっているのです。つまりここで主イエスは、ご自身が神であることを宣言されていると言ってもいいのです。その神は人間を救い出す神です。「わたしである」、この言葉には神の権威、神の顕現が示されています。ですから、それを聞いた人々は、「あとずさりして地に倒れる」のです。神の力のまえで彼らは倒れたのです。

 しかしこの神は、すなわち「わたしである」という言葉だけで人々を倒すことのできる神なるイエスは、捕らえられる道を選ばれます。そしてまた共にいた弟子達を逃すようにお命じになります。弟子たちを守られるのです。しかし、一番弟子であったペトロですら、こののちイエスを知らないと言うのです。そのような、これから起こることをすべて知りつつ、主イエスは十字架に向かうその差し迫った時においてもなお、弟子たちを愛し、守られたのです。もちろんその守りは、彼らがやがて十字架と復活の出来事における神の真理を悟り、立ち直り、主イエスの福音伝道の道を歩むことへの期待のゆえでもありました。

 そして剣を抜いたペトロに「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と主イエスは語られます。

 そもそも、主イエス・キリストを信じ歩む道のりは、おのおのの十字架を背負って歩む道のりです。そしてそれはイエス・キリストが苦い杯をお飲みになったように、神からの杯を飲むことを選ぶ生き方であるともいえます。

し かし、現実的には、まず、私たちは十字架を背負わず、杯を飲まず、往々にして剣を振り回すのです。その剣は知識と言う剣かもしれません。権力と言う剣かもしれません。努力と言う剣かもしれません。私たちが頼みとするすべてのものを指します。神以外に自分が頼りとするものです。その自分が頼りとする剣をさやに納めなさいと主イエスは語られます。

 そもそも剣は人を傷つけます。現実の武器としての剣ではなくても、私たちが私たち自身を頼みとして剣としてそれを振り回すとき、それは、人を傷つけます。そして往々にして、剣と剣の戦いになるのです。自分の主張、自分のやり方の正当性を競うことになります。もちろんまっとうな議論は大事です。しかし、相手に対する愛に根差していない主張や意見は剣となります。

 そしてまた剣を振り回して、一番傷つくのは実は私たち自身です。愛のない自己主張をするとき、なにより私たちは私たち自身を傷つけています。そしてその愛のない剣のもろさをどこかで本当は知っています。その剣は自分を守ってくれているように思っても、それを振りかざすとき、その剣は自分自身に向いています。愛のない剣は自分の心の中の殺伐としたものをあらわにします。その剣は自分自身の中の闇に向けられています。愛のない、孤独で、冷たい、混乱している自分自身の内側へとその剣は向けられています。

 でも、私たちは愛のない剣をもう振りかざす必要はないのです。頼みとすべきただお一人の方がここにおられるのです。私たちの剣より、はるかに強く私たちを守ってくださる方がここにおられます。エゴーエイミー、「わたしである」と言ってくださる神がおられます。

 そしてその頼みとすべきお方が、杯をいま飲もうとされています。主イエスは天の大軍も、天使も呼ばず、ただお一人で杯を飲まれるのです。もっとも強い剣を持っておられる方が、丸腰で、闇の中から来た者に捉えられ殺される道を選ばれました。

 主イエスの飲まれた杯は苛酷なものでした。パッションという映画をご覧になったでしょうか?十字架の前に主イエスは鞭で打たれますが、当時のローマのむちというのは、金属の突起がついたむちで、そのむちで鞭打たれますと肉がえぐれるのです。十字架の前のむちうちだけで死亡する人間もあるくらい、苛酷なものです。パッションという映画ではそのむちうちシーンがリアルに再現されていて、かなり物議をかもしました。

 さらに十字架刑自体も、長時間かけてじわじわと殺していくむごい形でした。ローマにおいて、もっとも形の重い犯罪者に課されるものでした。じわじわと殺されちくその様子がさらしものにされるのです。

 しかしなにより、主イエスの飲まれた杯の過酷さは、神から裁かれるということでした。肉が引きちぎられるむちよりも、生身の体に打ち込まれる釘とその後の痛みと衰弱による苦しみ以上に、おそるべきものは神の裁きです。主イエスは、神から罪人とされたのです。それが神のご計画だったのです。罪のない主イエスが、神の前で、罪びととして裁かれたのが十字架の出来事です。十字架のうえで主イエスは「エリ・エリ・ラマサバクタニ」と叫ばれます。これは詩編22編を下敷きにしていると言われますが「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という叫びです。

 主イエスは神から見捨てられたのです。 本来は私たちが飲むべき杯を飲んでくださり、私たちが叫ぶべき言葉であった「エリ・エリ・ラマサバクタニ」という言葉を叫ばれたのです。

 私が洗礼を授かった教会では洗足木曜日礼拝というものがありました。以前お話したことがあるかと思いますが、これは一般に行われるイブ礼拝と同様、燭火礼拝でした。イブ礼拝と違うのは、イブ礼拝では最後にキャンドルを消した後、会堂の明かりがつきますが、洗足木曜日礼拝では最後にキャンドルの灯を消したあと会堂の明かりはつかず暗闇の中を沈黙して帰ることになっていた点でした。ある年のその洗足木曜日礼拝で、私は聖書朗読の奉仕をすることになりました。私が読んだ箇所は、マルコによる福音書の15章で十字架上の主イエスを人々が罵るところでした「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」という言葉がありました。そういう箇所を読むのはなんか嫌だなあと思いつつ、でも奉仕なので、一生懸命読みました。しかし、読みながら、不思議な感覚になったのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」祭司長や律法学者たちの勝ち誇った罵りの言葉を読みながら、読みたくないなあと思いながら、しかしやがて、ある確信をしました。これは自分が言っているのだ、と。十字架の出来事は2000年前のことですが、私は実際にあの場所にいたと思いました。そして私もあの場でイエス・キリストを罵り唾をかけたのだと確信をしました。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」とキリストを愚弄したのは他ならぬ私自身であると知りました。そして、他ならぬ私が主イエス・キリストを十字架につけたのだと思いました。

 もちろんそのとき、私はすでに洗礼を受けていました。キリストの十字架と贖いの業については知っていましたし、イエス様を救い主として受け入れていたのです。でも本当に心から、自分自身が主イエスを十字架につけたのだと感じたのは恥ずかしながら、実はそのときでした。イエス様は吉浦玲子の罪のために死なれたのだとその時、心から思ったのです。2000年の昔の出来事がわたし自身の救いのためにあったことを知りました。そして、イエス様の飲まれた杯の苦さを知りました。足が震えました。到底、自分にはそんな杯は飲めない、その杯を主イエスは飲んでくださったのです。

 罪の暗闇の中にいる人間は言います。「神は死んだ。」と。しかし、神は死んだのではありません。神は殺されたのです。人間が神を殺したのです。その殺される道を、主イエスは歩まれました。

  キリストはわたしたちの罪ゆえ、罪びととして死んでくださり、いま、共に歩んでくださっています。そして、やがて私たちは飲めるようになるのです。自分の杯を飲めるようになるのです。「わたしである」とおっしゃってくださっている方が、私たちの中の闇を取り除いてくださいました。もう剣を振り回す必要はありません。私たちは自由に明るい世界に生かされています。その喜びと平安の中、神に信頼して、私たちに一人一人に与えられる盃を喜んで飲む者とされるのです。それは自分自身にとってチャレンジではありますが、主イエスがその杯を飲み、私たちを救ってくださったように、私たちもまた神へまた隣人へ愛を注ぐ器として用いられるために、その杯を飲む者とされます。愛によって人とつながっていくために、私たちは杯を飲むことができるようにされるのです。

 世間でときどき誤解されているのですが、自分の十字架を負って歩む、神の杯を飲むというのは、試練を耐えしのぶとか、運命を受け入れていくというような単純なことではありません。もちろん、試練という側面はあります。しかし、「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」という徳川家康の人生訓みたいなこととも違います。

 なにより罪の奴隷から解放していただいた喜びの中で、救われた者として、心と魂の愛の光を注がれた者として神に従順に従っていく、ただ神のみを頼りとする、神だけを剣とする、その生き方の中におのずと十字架を負い、杯をいただく者とされるのです。試練にあっても倒れることのない力と希望を与えられるのです。

 


2015年3月22日 ヨハネによる福音書12章27~36節

2015-03-22 15:56:15 | ヨハネによる福音書
大阪東教会 2015年3月22日主日礼拝説教
ヨハネによる福音書12章27~36節
「光あるうちに歩め」 吉浦玲子伝道師

 東北の大震災ののち編集された雑誌で、震災で被災されたある牧師の言葉を以前読んだことがあります。震災の日の夜、すべてが破壊されて何もなくなった町に、電気もなくて、当然、町中が真っ暗で、その真っ暗な中、漆黒の闇の中、避難所から夜空を見上げたら、おびただしい星が光っていた。あんなに星が光っているのは、あの震災の日の夜にはじめて見た、と。町の明かりがすべて消えて、普段は明るい空がその日、真っ暗だったから、たくさんの星が見えたのだけど、本来の夜空ってこんなものだったのだと、そのとき改めて気づいたそうです。そしてその牧師はその夜空を見ながら、創世記を思ったそうです。神が光あれとおっしゃり、光があって、天地を作られ、太陽と月と星を配置された、その創造の日の世界を思ったそうです。地震と津波ですべてがなくなってしまった、その混沌の中にあって、でも神はふたたび創造してくださるのではないかと思った、この破壊された町に、東北の地に、神の新しい創造がなされるのではないかと思った、と、そうその方は語っておられました。たいへん印象に残った言葉でした。
 そもそも人工の光、偽りといってもいいかもしれませんが、そのような光のなかでは、まことの光というものは見えません。神が光あれ、と作られた、神の光は見えません。人間が作った町の光が取り去られた時、被災した町の夜空に美しい星々の光があらわれたように、私たちは偽りの光のなかにいるとき、まことの神の光を知ることはありません。

 今日の聖書箇所に「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」とあります。つまり神の光の中を歩みなさい、そう、イエスはおっしゃっています。偽りの光の中にいる時、私たちはまことの光を見ることができません。そしてまた、逆にまことの光によってのみ、神の光によってのみ、私たちは自らの闇を知ります。本当の光に照らされて初めて自分たちが闇の中に生きていることを知ります。自分たちが暗闇にどっぷり包まれていて、まことの光に照らされていない時、私たちは自分たちが闇の中にいることに気がつきません。偽りの光の中にあるとき、自分を取り巻く闇に、また自分の中の闇に気づくことはできません。
 ヨハネによる福音書の1章5節には「光は暗闇の中で輝いている」とありました。光は輝いているのです。どのように世界が闇に満ちていようとも。そしてまた光は、暗闇を露わにするものです。光によってこそ、暗闇の正体は暴かれるのです。
 一方、神の完全な救いがなった終わりの日、そこには、闇がないのだということがヨハネの黙示録に記されています。ヨハネの黙示録22章5節「もはや、夜はなくともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」終わりの日、裁きの日ののち、この世界から闇は完全に取り去られます。だからもはや夜はない、そして闇を照らすともし灯は要らない、あまねく世界を神が灯される、もはや、神の光は暗闇の中に輝く光ではなく、闇のない世界の光となるのなのだと記されています。
 終わりの日、そのような闇のない世界があらわれるのでありますけれど、今日の聖書箇所には、逆に人間の闇の暗さが頂点に達するキリストの十字架の出来事を前にした主イエスの言葉が記されています。夜のない世界ではなく、人間の暗黒の現実のその極みにおいてイエス・キリストが語られています。

 イエス・キリストは今日の聖書箇所の言葉を語られる直前、エルサレムに入城されます。そして熱狂的に歓迎されます。王のように出迎えられます。多くの奇跡を起こしてこられた方、自分たちを救ってくださる方、力ある方、そのように人々は考え、この一人のイエスという人物に絶大な期待をかけました。ことに、エルサレムに入られる前、イエス様はラザロという友人を生き返らせるというたいへん大きな奇跡をなされていました。イエス様は死んで4日もたっていたラザロを生き返らせた。その噂はすでにエルサレムにも知られていました。
 いやがうえにも人々は熱狂したのです。自分たちを支配しているローマからイエスが解放してくれる、自分たちの王になってくれる、そう人々は期待しました。病を癒し、食べ物を与え、ローマの圧政から解放してくれる、そのように、人々は、イエスに期待をしたのです。
 イエスはというと、そのような熱狂のなか、御自分の死のことを考えておられました。そしてその死は恥にまみれた罪人として十字架刑によるものであることを知っておられました。いまは熱狂している人々の心の中も知っていました。熱狂している人々が自分を捨てること、捨てるのみならず、「十字架につけよ」と叫ぶことも知っていました。弟子たちさえも自分を捨てていくことを知っていました。
 しかしながら、イエスはそれらのことを十二分に知りながら、人々から離れることはなかったのです。やがて人々は離れていき、自分を裏切り、罵り、唾をかける、そのことを知りながら、イエスは語り続けられました。父なる神の救いの御業、十字架によって成就するその救いの業を人々はいまは知らない、いま語っても、到底理解はできない人々に、なおイエスは語られるのです。イエスは沈黙をしないのです。暗闇であるこの世界に向かって、罪の闇にまみれている人々に向かって、イエスは語り続けられます。光であるイエスは暗闇に語りかけられます。暗闇の中で、光として語られるのです。まさに光は暗闇の中で輝いていたのです。
 イエスは、私たちと同じ人間として地上に来られました。ですから、ご自身のむごたらしい死をやはり恐れられました。「心騒ぐ」とおっしゃっています。「父よ、私をこの時から救ってくださいといおうか」ともおっしゃっています。しかし、「私はまさにこの時のために来たのだ」とも言われます。ご自身が十字架にかかる、まさにそのためにこの世界に来たのだと語られます。そしてそれが父なる神のみこころであると語られます。クリスマスの心温まる牧歌的な物語とは、全く逆の、生々しい血が流される十字架の出来事、そしてそこにこそ神の御心があることを語られました。神がその御子を恥と苦痛に満ちた十字架にかけることによって、その御栄光を現わすのだと語られました。そのイエスに神は答えられます。「わたしはすでに栄光を現わした。再び栄光をあらわそう。」その父の応答は雷のようでもあり、天使の声のようでもあったとあります。
 神の声、それは人々を信じる者とするために声でしたが、人々には理解できませんでした。父なる神の声にある、すでに「現わされた神の栄光」は、クリスマスの出来事としてのイエスの御降誕であり、そののちの公的生涯におけるさまざまなイエスの業のうえにあります。そして「再び現わされる栄光が」イエスキリストの受難です。
 神の栄光と言う時、一般的に栄光という時、それは力であり、美しさであり、正義のイメージがあります。まさに神々しく、その前に皆がひれ伏すイメージがあります。たいへん陳腐な例になりますが、昔、水戸黄門というドラマがありました。水戸黄門がドラマの中で最後に自分が水戸の御老功であることを明らかにして、その場にいた悪人も善人もひれふす、という場面がお約束としてあります。この印篭が目に入らぬか、という決まり文句がありますが、その印篭に黄門さまの力と正義が現わされているわけです。そしてドラマの中では、その力と正義の前に人々がひれふすのです。
 人間である黄門さまではなく、神の栄光といいますと、比べようもありませんが、何万倍、何億倍もの圧倒的な力の前に人々がひれふすようなイメージがあります。主イエスが翼の生えた白馬に乗って天からやってきて、悪人を一瞬でやっつけて、人々がひれふす、、、それも漫画的なイメージではありますが、そういうイメージでなら、ある意味、栄光と感じられる部分があるのではないでしょうか。圧倒的な力や神々しい美しさや悪人を根絶やしにする状況において、栄光と言う言葉が私たちのイメージに昇ってくるように思います。
 しかし、実際には神の栄光は、血と恥にまみれた十字架によって、神々しい美しさとはかけ離れた生々しい死刑の現場に現わされたのです。しかもそれは、長い長い神の救いの歴史において計画されていたことです。それは、人間の闇が深かったからです。
 しかしこ、のときのイエスの言葉を聞いた群衆、さらには神の声すら聞いた群衆ですが、彼らは闇の中にいました。だからイエスの言葉も神の声も理解することができなかったのです。そして私たちはこの群衆を非難することはできません。
 私たちもまた頑なな、神の声を聞くことのできない者であったからです。自分が闇の中にいることすら知らない者だったからです。
 
 宗教改革者ルターは信仰の戦いの中に生きていました。彼の言葉には頻繁に悪魔が出てきます。彼は聖書からみことばから人々を引き離す力をリアルに感じていました。暗闇の力を感じていました。それを悪魔と呼んでいました。何より自分自身が常に御言葉から離れてしまうその危機感をいつも抱いていました。自分の中の闇を恐れたのです。私たちはキリストによって贖われ、聖霊を与えられ歩みながらも、いまだ肉体を持ち、古い人間としての罪の心を持ちこの地上を歩んでいます。私たちはキリストによって新しくされた人間ではなく、古い人間の部分のなかに残っているように感じる暗闇と、外から入ってくる闇に囚われてしまうことがあります。わたしたちは光ではなく、ふっと暗闇にひきつけられる存在であるのです。ルターが自分を神から引き離そうとする悪魔にインク瓶を投げつけた話は有名です。もちろん私たちは日々、そこまでリアルに自分を神から引き離す力について感じてはいません。たえず暗闇に引きずり込まれる存在であることを実感していません。ただ覚えておかないといけないことは自分はちゃんと神を向いていると自信を持っている時、その時が一番危ないということです。ルターのように絶えず危機感を持つことは私たちには難しいかもしれませんが、自信満々で神と向き合っていると思う時、私たちは神から一番遠いのです。
 この群衆たちも、自信があったのです。自分たちは選ばれた神の民である、律法をもっている、そしてその律法を引き合いに出して、イエスに反論をするのです。自分たちはメシアがどういうものか知っている、自分たちはわかっているのだと思っているのです。しかし、その人々にイエスはおっしゃるのです。インク瓶を投げつけたわけではないのです。愛を込めておっしゃいます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」光のあるうちに、というのは、主イエスがこの世界にいるうちに、という2000年前のことでもあります。自分がやがてこの地上を去っていく、その前に信じなさいということでもありますし、今日の私たちに対しては、最後の裁きが起こる日の前に、という意味でもあります。いずれの場合であっても、切迫しているのです。十字架の出来事はたしかにこのイエスのお言葉からほどなく起こりました。しかし、終わりの日の裁きもいつ起こるのかわからないのです。明日かも知れないのです。光があるうちに、というのは切迫した言葉なのです。

 ところで、<草原にありし幾つもの水たまり光ある中に君帰れかし>という短歌があります。河野愛子さんという1922年生まれの歌人、生きておられたらいまは90代の女性の作です。実際はこの方は60代で亡くなられました、その方の若い時代の歌です。この方は若い時代、結核で入院されていました。その入院先に恋人の青年が見舞いに来て、帰っていく、その情景が歌われた歌です。現代では考えられないような純情なというか、初々しい恋愛の歌、相聞歌です。作者は、病室の窓から青年の後姿を見ている、結核の療養所ですから、街中ではなく、環境の良いところにあったのでしょうか、草原と言えるような緑の豊かなところを青年が帰っていく、水たまりに光がきらきらと反射している、その描写に若い時代のみずみずしい感覚があらわれています。その帰っていく青年に、「光ある中に君帰れかし」と呼びかけている、かし、というのは強調していっているわけですけど、あなた光のある中をかえってくださいね、と語りかけているのです。この作者はクリスチャンでした、当然、今日のヨハネの福音書の聖書箇所が念頭にある歌です。愛する人へ、光ある中に君帰れかし、と語りかけている美しい相聞の歌です。
 これは恋愛の歌だから、聖書の言葉を引用してはいるけど、みことばとは直接は関係ないと思われるかもしれません。でも、それは違うと私は思います。主イエスは私たちにも恋人に語りかけるように「光ある中を君歩めかし」と語りかけてくださっているのです。さきほど、裏切ると分かっている人々に主イエスは語り続けた、と申し上げました。主イエスは語ることをやめなかった、そう申しました。それは、この世を、人間を愛しておられたからです。闇の中にいる一人一人に語りかけることを主イエスはおやめにならなかった、いまもなお暗闇の中に光はかがやいています。イエスはかたりかけてくださいます。その言葉はあまやかな相聞の歌の響きよりもさらに愛に満ち、その言葉そのものが光です。イエスは語りかけられるのです。闇を抱えている私たち一人一人に。愛を持って、「光ある中を君あゆめかし」「光のなかを歩みなさい」と。恋人を見送るまなざしよりも熱く、私たちの一歩一歩にまなざしを注いでくださっています。そのイエスのまなざしの中を、イエスの光の中をこの一週間も歩んでいきたい、光の中を歩んでいきましょう。
 

2015年3月15日 マタイによる福音書7章24~29節

2015-03-15 15:34:18 | マタイによる福音書
大阪東教会 2015年3月15日主日礼拝説教
マタイによる福音書7章24~29節
「岩の上の家、砂の上の家」 吉浦玲子伝道師

 私たちは新しくされます。若い人であろうと年をとっている方であろうと、私たちは主イエスと共に歩むその道の途上、私たちは思いもかけない時に、それまでと違う新しい生き方を生き、新しい人生を拓いていくという局面に立たされることがあります。それは90歳でも、100歳でも同様です。
 神が私たちの人生に大きく介入してこられます。私たちが望むと望まざるとに関わらず、私たちの日々は揺り動かされ、決断を迫られます。「いえ、私の生活は、もう、ずっーと平凡で毎日たいして代わり映えしないのです。決断なんてたいそうなことはないのです」とおっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、これまでそのようにみえていたかもしれませんが、明日はわかりません。
 それに、そもそもこの日曜日、習慣のように教会に来られているかもしれません。でもこの日曜に教会に来る、そのこともご家庭によってはたいへんなこともあるかもしれません。家庭的にたいへんなことはなくても、やはりひとりひとり体調や、さまざまな思いの中で、大きな決断、あるいは小さな決断をして、この場へと来られているのではないでしょうか。日曜日の礼拝だけでなく、わたしたちは取り立てて何ということのない日々においても、神によって決断を迫られて日々を生きています。日々を新しくされていきます。
 そのように日々、新しくされていく生活、信仰生活の基盤はそもそもどこにあるのでしょうか。それが今日の聖書箇所に記されています。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う人は皆、岩の上に自分の家を立てた賢い人に似ている。」

 5章からはじまった山上の説教について繰り返し申し上げていることですが、主イエスの言葉を律法的に聞いてはいけないのです。今日の聖書の言葉も、岩の上に家を立てるように、立派な信仰生活をしましょう、というように聞くべきではありません。
 これは子供たちに聞かせる三匹の子豚のお話ではないのです。三匹の子豚がそれぞれ、藁の家、木の家、レンガの家を作りました、藁の家はオオカミに吹き飛ばされました、木の家はオオカミにぶつかられて壊れました、レンガの家だけは丈夫でオオカミも壊すことができませんでした。だからしっかりと賢く丈夫な家を作りましょう。賢い子豚のようにわたしたちも人生に備えをしましょう。そんな三匹の子豚のお話のような、私たちも岩の家に立派な信仰の家を立てましょう、というようなそんなお話ではありません。
 この聖書箇所を誤解してしまう、律法的に聞いてしまう理由の一つは、ここに、「聞いて行う」という言葉があるからではないでしょうか。なにか、ここに私たちの行いが問題とされているように感じるのです。信仰によってのみ救われると聞いてきた者には、なにか腑に落ちないことです。
 もちろん、ここで「行う」と主イエスがおっしゃっているのは、私たちの行動が要求されているからおっしゃられているわけです。では、私たちは何を行動したらよいのでしょうか?それは、イエス様の言葉を行うのです。イエス様の言葉とは、何でしょうか?それは5章から始まる山上の説教の言葉です。
 「敵を愛しなさい」「思い悩むな」「人を裁くな」「腹を立てるな」そういう言葉を聞くだけでなく行えとおっしゃるのです。
 しかし、私たちはそれらの言葉をほんとうに十全に行うことができるでしょうか。完全に行うことはできないのです。自分に理不尽なことをなす人を愛することはできないし、裁くなと言われてもどうしても人を知らず知らずのうちに心の中で裁いてしまうのです。腹を立てるなと言われても、私は短気で、すぐに腹を立てます。しかしなお主イエスは、はっきりとおっしゃっています。「わたしの言葉を聞いて行いなさい」
 行わないものは、砂の上に家を立てた愚かな者のようだ、とおっしゃいます。砂の上に立てられた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」とあります。
 この雨や洪水や暴風というのは、単に、この世での苦難とか災難のことを指しておっしゃっているわけではありません。最終的な、神の前での裁きのことをさしています。砂の上に立てられた家は終わりの日に神の目のまえでもろく崩れ去るのだということが言われています。砂の家はこの世界においては、あるいは岩の家よりも立派に見えるかもしれません。この世の嵐にはむしろ耐えられるように見えるかもしれません。しかし、終わりの日には崩れ去ってしまうのです。
 しかし、ではいったい誰が聞いて行うことができるのでしょうか。敵だけではなく隣人をも家族をも完全には愛することのできないのが、人間であるのに。
 土台、無理なことを主イエスはおっしゃっているのでしょうか。私たちは皆、終わりの日にもろくくずれさる砂の上にしか家を立てることができないのでしょうか。
 もちろん私たち一人であればできません。

 しかし、イエス様は来られたのです。そして「天の国は近づいた」とおっしゃったのです。天の国は近づいた、近づいたという言葉は、すでにはじまっている、ということでもあるともうしました。
 すでに私が来た、もう私が来たのだから、あなたたちは行うことができるはずだ、そうイエス様は力強くおっしゃっているのです。ある方がおっしゃっていました、ここでイエスさまがおっしゃっているのは「おこうなうことができると信じなさい」ということだ、と。
 そう信じるのです。これは信仰の言葉です。
 すでにクリスマスの出来事いらい始まっている天の国の中にあなたはすでにいる、山上の説教のイエスの言葉の中にすでに巻き込まれているあなたたちは、もう聞くだけで済ますことができるわけがない、行うことができる。絶対に自分には無理だと思っていることがもうできるのだ、敵を愛することができるんだ、もう思い悩むことはないのだと信じなさい。
 自分たちがすでに新しくされているということを信じるとき、私たちは、まことに主イエスの言葉を行う者とされるのです。なかなか敵を愛せない、でも一歩を踏み出す。顔も見たくない相手に、さりげなく、笑顔で挨拶をする。最初はぎこちない笑顔かもしれません。腹が立ってしかたがない、でも祈ってもうそのことは考えないことにする。もちろん簡単ではありません。
 でも、一人ではないから、主イエスがすでに来てくださっているから私たちは行うことができるのです。できるということを信じるのです。イエス様が共にいてくださいます。聖霊が私たちのうちで助けてくださいます。
 
 ところで、ボブ・ウィーランドというアメリカの方がおられます。教会学校などで何回かお話ししたことがあります。彼は、学生時代、大リーグの選手として嘱望されてすでにあるチームに入団が決まっていました。しかし、ベトナム戦争に徴兵され、戦地で地雷を踏み、下半身を失いました。ボブ・ウィーランドさんは一時は絶望したのですが、主イエス・キリストとの交わりの中で力を得て、懸命にリハビリをし、腕で歩くようになりました。いろんなことに挑戦しました。そしてやがて自分を絶望の底から救ってくださったイエス・キリストを伝えたいという思いで、腕で歩いて、アメリカ大陸4500キロを縦断したのです。大陸を腕で歩きながら出会った人々にイエス・キリストを伝えたそうです。宇宙人に間違われたり、犬に追いかけられたりたいへんな旅だったようです。3年8か月かけて大陸横断したあと、そのボブ・ウィーランドさんが、インタビューの中で、何が一番大変でしたか?と聞かれた答えは「一番大変だったのは最初の第一歩を踏み出すことでした」ということでした。
 最初の第一歩を踏み出す。4500キロのうちの数十センチ、その数十センチがなによりたいへんだった。4500キロなんて、普通に歩いても困難です。実際には本当に困難な3年8か月だったと思うのですが、それでも、最初の一歩が一番苦しかった。実際、始める前の彼の中には葛藤があったかもしれません。そもそも腕で歩くということがどれほどの価値があるのか、話題づくりの目立ちたがりではないのか。いろんな逡巡があったかもしれません。それで本当にキリストを証することになるのか。しかし、多くの若者がボブ・ウィーランドさんの歩く姿を見て、キリストを信じたそうです。
 神は人生において、ボブ・ウィーランドさんだけでなく、すべての人に、試練を与えられます。終わりの日の雨や洪水だけでなく、日々の生活にも雨や嵐はあります。暴風があります。しかし、私たちにはその日々において、絶望しないだけではなく、さらに新しい一歩を踏みだす力をも与えられます。変わり映えのしない毎日と思いながら、びっくりするような新しい挑戦をあたえられることもあるでしょう。そしてその一歩を踏み出す力も与えられます。ボブ・ウィーランドさんと同様、私たちには新しい生活と、そこへ踏み出す勇気が与えられます。

 ところで、ルカによる福音書6章47節にも家のたとえ話はでてまいりますが、ルカの場合は、土台をどれほど深く作るか作らないか、という話になっています。ルカにはルカの意図があるのですが、本日お読みしているマタイの方は、岩の上、砂の上という対比で描かれています。これはマタイによる福音書の著者が、よって立つところ、どこに家を立てるのかということを問題にしていたことがわかります。どのように、ではなく、どこに、ということを単刀直入にマタイは主イエスの言葉として記そうとしたのです。
 どこに立てるのか、それは岩の上、です。繰り返しもうしあげたように、これはイエスの言葉を行うということです。
 その言葉を語られたイエスは、今日の聖書箇所の最後で、山上の説教を終えられます。そして人々はその教えに非常に驚いたとあります。「彼らの律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったからである」律法学者はたしかに律法に、聖書に、精通していたのです。そして社会的な権威はもっていた人々でした。しかし、イエスの言葉を聞いた人々は、律法学者に、ではなく、イエスにこそ権威があると思ったのです。
 律法学者とイエスの違いはなんでしょうか。それはまさに律法を行う、という点でした。神と人を愛するという律法の神髄をそのまま行ったのが主イエスでした。人がしてほしいことをする、その黄金律を全うした方です。病を癒してほしい人の病をいやし、孤独な人の友となってくださいました。ですから、その言葉にはまことの権威があったのです。律法学者の言葉はただの知識の羅列でしかありませんでした。その言葉にはまことの権威はなかったのです。
 そして、当然ながら主イエスの権威は、神の御子としての、救い主としての、権威でもありました。しかし、その権威はまた律法学者のように、弱い人々、貧しい人々、律法をどうしても守れぬ人々を苦しめるものではなかったのです。
 主イエスは神からの権威をもちながら、なお、私たちをまことに自由にしてくださいました。私たちが弱くとも、貧しくとも、神の戒めに忠実でない者であっても、なお、天の国へと招いてくださる方です。神の権威を持っておられたからこそ、私たちをまことに自由にしてくださることができたのです。なにより私たちは自分自身の不可能から自由にされました。主イエスの言葉を聞いて行えない、そんな不可能を打ち破ってくださるのが主イエスです。私たちは主イエスが私たちの不可能をすでに打ち破ってくださっていることを信じて、そこから一歩を踏み出すのです。

 そしてまた、今日出て来ます言葉「岩」は、ペトロという言葉です。イエスの弟子たちのうち、一番弟子といえる弟子の名前がペトロでした。正確に言いますとペトロの本当の名前はシモンだったのですが、主イエスがあえて「岩」、ペトロと呼ばれたのです。しかし、岩と言われるペトロは実際に岩のような信仰を持っていたでしょうか?主イエスが逮捕されたとき、逃げ出してしまった、到底、岩などとは言えない弱々しい弟子でした。もちろん、ペトロは復活のイエスと出会い、ペンテコステののち、まさに岩のような強さをもって伝道をするものとされるのですが、まだ信仰的には岩とは呼べなかったころのペトロに対して、イエスはおっしゃっています。マタイによる福音書の16章18節「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に私の教会を建てる」と。
 私たちは、ペトロと同様、弱い、愚かなものです。思いがけないことがあると、おじけづき逃げ出したくなります。しかし、すでにイエスはペトロと同じように私たちにも「岩」だとおっしゃってくださるのです。「岩」だとみなしてくださっていますし、実際「岩」にしてくださるのです。そのイエスによって「岩」とされている私たち一人一人に使命が与えらえます。その使命には到底できないと思えるようなこともあるかもしれません。でも、不可能を可能に変えてくださるのはイエスです。だから私たちは安心して一歩を踏み出せばいいのです。その一歩を踏み出す歩みが、イエスの言葉を行うということです。

 そしてまた、岩の上に立つのは教会です。終わりの日に揺るがないのがこの教会です。教会というのは、この軽量鉄骨でできた築50年の会堂のことではありません。この会堂はこの世にあってやがていつかは物理的に失われるかもしれません。しかし、御言葉とその業、愛の行いの上に立った信仰共同体としての教会は倒れることはありません。
 大阪東教会は小さな群れです。弱い群れです。何もできないように思えるかもしれません。でもそうではないのです。不可能なことを可能にしてくださる、その主と共に一歩を踏み出すとき、そこに奇跡は起こるのです。すでに天の国は来ているのですから。
 もうすぐ新しい年度がはじまります。中庭にチューリップも咲きました。新しい気持ちで一歩を踏み出しましょう、チューリップの花を見る時、私たちの心はほっとします。主イエスの言葉も私たちをがんじがらめにしばりつけるものではありません。しばるのではなく、私たちを解きはなってくださるものです。私たちは、そんな主イエスの言葉を行うことができる、主イエスと共にあれば、それが可能になります。そのことを信じて歩むとき、私たちはまことに主イエスの言葉を行うものとされます。けっしてゆるがぬ岩の上に立つ者とされます。

2015年3月8日 マタイによる福音書7章15~23節

2015-03-08 14:58:34 | マタイによる福音書
大阪東教会 2015年3月8日主日礼拝説教
マタイによる福音書7章15~23節
「良い実を結ぶために」 吉浦玲子伝道師

 偽預言者を警戒しなさいと主イエスはお語りになっています。
 5章からはじまりました山上の説教は、7章の12節でその祝福の言葉は完了しています。
13節以降は、その祝福に対する警告として語られています。
 その警告が語られている箇所、本日のところでは偽預言者という言葉が出てまいります。
預言者というのはその字の通り言葉を預かるものです。本来的に神の言葉を預かるものです。
まことの神の言葉を伝えるものです。ですから偽預言者といいますと、神の言葉ではないこ
とを神の言葉として語る人を指します。そういう偽預言者を警戒しなさいとイエスさまは
おっしゃっています。
 これはイエスさまの時代だけの話ではなく、今日においても私たちは警戒しないといけない、
そのことが今日の聖書箇所に語られています。しかしながら預言者や偽預言者というと、どう
も遠い昔に関係する言葉のような気がします。聖書に長く親しんでおられる方でも預言者とい
うと、聖書の中だけの話のような気がしてしまうのではないでしょうか。
 そもそも旧約聖書には多くの預言者が出てまいります。まことの預言者、イザヤやエレミヤ
と言ったたいへん有名な大預言者だちがいます。小預言書と言われる預言書のなかにもホセア、
ミカ、アモスといった預言者が登場します。その預言者たちの多くが、偽預言者に苦しめられ
ました。多くの場合、まことの預言者は国家や人々が神にそむき、滅亡へと向かっているとき
神によって立たされます。そして神から離れている人々に対して神の恐ろしいさばきの言葉を
語ります。このままでは滅びるぞ、悔い改めよ、神に立ち帰れということを語るのです。けっ
してそれは甘い言葉ではなかったのです。そのような言葉を語るまことの預言者に対して、時の
権力者や民衆に聞こえの良い、一時的な平安を与える言葉を神の言葉として語ったのが偽預言者
たちでした。
 偽預言者は一時的にはたいへんもてはやされるのです。それに対して、まことの預言者、エレ
ミヤなどもなかなか自身の語る預言が成就しないということで、人々から信じられず、信じられ
ないどころか激しくさげずまれました
 さて、その旧約時代の預言者は、その時代時代の悔い改めと来るべき神のさばきをかたり、あ
わせて、最終的な救い主の到来、を語りました。さばきとともに救いを語ったのです。救いをも
たらす救い主について語りました。

 それに対して新約の時代になりますと、すでに救い主である主イエス・キリストは来られてい
るわけですから、その時代の預言者の語る言葉というのは、イエスご自身を指し示す言葉になり
ます。イエス様ご自身も預言者として、ご自身のことを言葉によって現わされました。それに
続く預言者もまたそれぞれにイエス・キリストを指し示したのです。少し細かなことを申します
と、考え方によっては厳密な意味での預言者は洗礼者ヨハネまでを指します。それ以降は旧約聖
書に連なる意味での預言者はいないという考えかたがあります。しかし新約の時代、現代も含め
てですが、広い意味でいいますと、預言者というのは、一般的には伝道者であるといえます。神
の言葉を伝えるという意味において、またイエスキリストを指し示すという意味で、伝道者、つ
まり牧師や伝道師は預言者といえます。しかしまた、専任の伝道者ではなくても、キリストを証
するものとして生かされるとき、キリスト者はみな預言者として生かされているともいえます。
 そしてその新約の時代以降の預言者の中に偽預言者がいるのだと主イエスはおっしゃっていま
す。これはまだ体制の整っていなかった、初期の教会や、迫害の時代の混乱していた教会だから
偽預言者が混じっていたというわけではありません。教理や教義が確立してなかったから偽預言
者がいたというわけではありません。

 現代においても、そこここに偽預言者がいるのだということを主イエスは語っておられます。その
偽預言者があからさまに聖書から離れたことを語っているのなら、偽預言者であることを見抜くこと
は容易でしょう。しかし彼らは「羊の皮を身にまとっている」とイエスさまはおっしゃっています。
偽預言者も聖書の言葉を語っているように聞こえるのです。アダムとエバに善悪の実を食べるように
ささやいたへびが神の言葉を表面的には引用しながら湾曲して語ったように、巧みにささやくのです。 
主イエスを荒れ野で誘惑した悪魔たちもまた神の言葉を引用したのです。
 偽預言者のことばは聖書の言葉を巧みに混ぜた耳に甘い言葉かも知れません。人生訓的にとてもた
めにはなる言葉かもしれません。しかしそこには十字架と復活のイエス・キリストがいなかったり希
薄だったりします。あるいは言葉としては十字架を語りながら、ちょっとした犠牲精神やヒューマニ
ズムに置き換わっていることがあるかもしれません。神学者のK先生は昨今の状況として「やさしい、
やさいいイエスさま」というイメージが独り歩きしている危険性を繰り返し語られています。あなた
は神に愛されている、あなたはそのままでいい、イエスさまはいつもあなたのお友達です、それは正
しいことです、間違ってはいない、でもそれだけではない。罪と十字架の問題があります。その罪と
十字架の話が希薄にされていないか、を慎重に聞きとることが必要です。神の愛と共に、自らを悔い
あたらめに導く言葉あるか、まことの救いと新しい命へ導く言葉があるかそれを聞きとること
が必要です。
 十字架によって私たち一人一人の罪と人生が明らかにされる言葉が語られるとき、そのことばは
まことの悔い改めと平安と命へ至る言葉となります。預言の言葉となります。そうでないときそこに
はまことの預言はないのです。
 
 しかし偽預言者と聞きますと、どうしても落ち着かない気持ちになります。不安になります。でも
もちろんあの人は偽預言者だろうか、自分は大丈夫だろうかと疑心暗鬼の心をおこさせるためにイエス
さまはここで語られているわけではありません。
 ここでイエスさまは、偽預言者のことを彼ら、とおっしゃいます。19節には「このようにあなた方は
その実で彼らを見分けることができる」とあります。そういわれると自分と偽預言者は関係がないよう
に聞こえます。自分と人との間に線を引いて、向こう側にいある人たちをあの人は正しい預言者、この
人は間違っていると他人事のように査定してしまって良いように感じます、でもそれはほんとうにそう
でしょうか?人を判断するための査定基準をイエスさまは私たちに与えてくださったのでしょうか?そ
れは半分は正しいですが半分は違うと思います。
 偽預言者は、「私に向かって『主よ、主よ』という」のだと主イエスは21節でおっしゃっています。
私たちもまたこの会堂で主に向かって礼拝をお捧げしているのです。まさに主よ、主よ、と申し上げて
いるのです。しかしすべて『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入れるわけではない、こういう言葉を
読みますと、絶望的な気持になりませんか?聖書を読んでお祈りをして主よ主よと主により頼んで生きて
来て、それでもなお、天の国に入れないというのはどういうことでしょうか。この21節から23節はほんと
うに厳しい言葉だと思います。天の国に入ることができない、それは最終的なさばきの日の話です。もう
あとがないのです。永遠の命からこぼれると言われているのです。それゆえに聞き逃してはいけない、
重大なことがここでは語られています。


 偽預言者はキリストのことを知らないわけではないのです。いえむしろだれよりも『主よ、主よ』
と主イエスに呼びかけている人間なのです。呼びかけているだけではない、キリストの名によって
預言をし、悪霊を追い出し、奇跡までも行ったというのです。はたからみたら、きっと立派なキリ
スト者なのです。
 そしてまた、終わりの日、さばきの日に胸を張って、キリストの前に立つのです。私はあなたの
名によってこれだけの立派なことを行ったと自信を持って申し上げるのです。
 しかしそのような者にイエスさまはおっしゃいます。「あなたたちのことは全然知らない。不法
を働く者ども、わたしから離れ去れ」
 ここで考えたいのです。自信を持って神の前に立つ者、それはまことにキリストにあって、生か
されている者でしょうか?神の前でわたしはこんな良き行いをしました、これだけのたくさんの人
にキリストのことを語りました、これだけ奉仕をしました、そう胸をはることのできる人はまこと
にキリストに生かされている人でしょうか?
 キリストが自分のために、ほかならぬ自分自身の罪のために死なれたことを覚え、尚、地上にあ
って罪を重ねて生きていかざるを得ないこの人生の日々を思う時、私たちは神の前で胸を張れるこ
とは何一つないのです。もし私たちが自信を持って神の前に立つことができると思っている時、
それはもっとも重大な信仰の危機の時です。
 本来、胸をはれることのたったひとつもない私たちが、天の国に入れていただける、その祝福を
受けている、それは私たちが天の父の御心を行うものだからだとイエスさまはおっしゃっています。
 天の父の御心を行う者として生かされている、その祝福の中に生かされている、それゆえ天の国
に私たちは入ることができるのです。私たちは胸をはって当然のこととして天の国に入るのではな
いのです。胸を張ることができるというのは、みずからの罪をしらずキリストの血による贖いを
軽んじているということです。

 では天の父の御心を行うとはどういうことでしょうか。それはこれまで見てきた山上の説教の
言葉に生きるということです。そのことを重んじるということです。第一に考えるということ
です。真剣に考えるということです。
 余裕のある時だけ隣人を愛するのではない、普段はこの世と同じ広い道を歩きながら日曜だけ
狭い道を歩こうというのではない生き方です。狭い門のことは普段は考えないという在り方では
ないということです。常に狭い道、狭い門から入ろうとする者です。
 そしてまた、その生き方はおのずと見えてくるのだと主イエスはおっしゃっています。良い木が
悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶことはない、と。
 教会の庭の木にも春らしい気配が見えてきている今日この頃ですが、一見堂々とした葉ぶりの
よい、見栄えの良い木に見えても、苦い貧弱な実しか実らない木もあるでしょう。こじんまりと
した、誰も目にくれないような木であっても豊かな実を実らせることもあるでしょう。そして
なにより大事なことは私たちは私たちの力で豊かな実を結ばせる気になるのではありません。私
たちは努力して豊かな実をむすぶ木になるのではないのです。
 木と実という言葉を聞く時、ヨハネによる福音書にある、ぶどうの木の話を思い起こす方もお
られるかと思います。有名な「わたしはまことのぶどうの木」という言葉があります。この言葉の
ようにイエスさまがまことの木なのです。それに続くヨハネによる福音書の15章4節に「わたしに
つながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていな
ければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、
実を結ぶことができない。」という言葉があります。先週、狭い道を歩き続けるということは
キリストから離れないことだと申し上げました。ここでもまた、キリストにつながっていることの
大事さを主イエスは語っておられます。

 キリストという木につながる、それはキリストの御言葉に聞くことです。良く自分は教会には
行かない、自分で聖書を読んで信仰のための本も読んで勉強している、そしてちゃんと祈っている、
だからいいんだ、という方がおられます。しかしそれは違うのです。教会はキリストの体なのです。
 その体なる教会につながっていなければ、そこで御言葉を聞かなければ、私たちはまことの命を
生きるための養分を得ることはできません。私たちが自分一人でキリストに結びついていると思っ
ている時、それはまさに「主よ、主よ」と言っている偽預言者と同じことになります。そしてまた
礼拝に出席していても教会が、そして礼拝がまことに私たち一人一人の生死を決するもの、命に
かかわることであるという思いを持たない時、私たちはキリストにつながっていません。もちろん、
病の中にあったり、さまざまな事情で教会に来ることのかなわない方々がおられます。教会は
その方たちのために執り成しの祈りをします。そしてその祈りを通じて教会に一人一人の魂が
つながるようにする、教会に来ることのかなわないお一人お一人の命がキリストの命とつながる
ようにする、そのこともとても大事です。そしてまた礼拝を捧げる一人一人が礼拝の中心にある
御言葉を、説教者の胸倉つかむような真剣さをもって耳を傾けることの大事です。
 このことはとても重要なことです。だからこそ山上の説教の最後において主イエスは語られて
いるのです。

 私たちの信仰の実というのは露わになります。預言者と偽預言者は判別がむずかしいところは
あります。エレミヤの時代も偽預言者がもてはやされたのです。しかし、やはりやがてわかって
くるのです。それは表面的な信仰深そうな言葉遣い、謙遜そうな態度では取り繕えないものです。
ほんとうにキリストと共に生きているかいないか、それは意外に見えてくるものです。自分は
自信満々であっても、神にはもちろん、人にも露わになるものです。まことに神の前に悔い改
めているか、御言葉に聞いて砕かれて神の前に繰り返し謙遜にされている人か、そのようなこと
はにじみ出てきます。キリストの枝として、教会に、礼拝に謙遜に結びついている、命にかかわ
ることとして礼拝に望んでいる、みことばによって罪を明らかにされ砕かれている、そのような
私たちに豊かにキリストの命が注がれるのです。