大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第7章11~17節

2024-09-12 14:19:45 | ルカによる福音書
2024年9月8日大阪東教会主日礼拝説教「起きなさい」吉浦玲子
<神は憐れんでくださる>
 カファルナウムで異邦人の百人隊長の部下をお癒しになったあと、主イエスはナインという町に行かれた、とあります。「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とあります。弟子たちはともかく、群衆まで一緒でした。群衆は主イエスに期待していたのです。これまでも数々の奇跡を起こされた主イエスがまた素晴らしい奇跡を起こされるのではないか、ぜひその奇跡を見てみたいと思ったのです。群衆は熱狂していたと言えます。しかし、主イエスの御心は、そのような群衆の思いとは異なったところにありました。すごい業を見せて人々を感服させる、そのような思いを主イエスはお持ちではありませんでした。今日の聖書箇所では、たしかに結果的には主イエスは奇跡を起こされました。しかしそれは群集を熱狂させるためのものではありませんでした。
 さて、そのナインという町の門に近づくと棺が担ぎ出されるところでした。誰かが亡くなったようです。主イエスは病を癒し、悪霊を追い出されてきましたが、さすがにすでに息絶えている亡骸を入れた棺を前にしてはどうすることもできないと誰もが考えました。いえ、どうこうするということすら、誰も思わなかったでしょう。ここではだれも主イエスに何かをしてほしいと願ってはいません。死というものの厳然とした現実を前に人間は沈黙するか嘆くかしかできません。
亡くなった人は、やもめである女性の一人息子でした。愛する息子を失った母の嘆きは時代が異なっても変わりません。この女性の嘆きはいかばかりだったでしょう。さらに当時、女性は一人では生きていけませんでした。生きていくためには夫や息子に頼るしかありませんでした。同時に、家を保つということも大きなことでした。しかし、この女性は家を継ぐべき子供を失ったのです。旧約聖書の『ルツ記』には夫を亡くし、また息子たちをも亡くしてしまい、絶望して、故郷に帰るナオミという女性が出てきました。ナオミはこのように嘆きます。「出ていくときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。(略)主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに」。女性が、家を継ぐ存在を失うということは、物理的にも精神的にも絶望へと落とされる厳しいことでした。
ですから、このナインの町の一人息子を失った女性の嘆きは極めて大きかったと思います。同情した町の人々が大勢そばに付き添っていました。しかし、どれほど多くの人から同情され、慰められても、女性の嘆きは消え去ることはありません。大勢そばにいたということは、おそらく、この女性も一人息子も町の人々に好感を持たれていたのでしょう。女性が夫を失ったのはどのくらい前なのかは分かりません。ひょっとしたら、夫の死後、やもめとなった女性は大変苦労をして、ただ一人の息子を大切に育てたのかもしれません。そんな親子のことを町の人々はよくよく知っていたのでしょう。
主イエスは、その様子をご覧になり、「母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」とあります。主イエスでなくても、この様子を見たら、誰もが同情をするでしょう。実際、町の人がたくさんそばにいたのです。しかし、ここで「憐れに思い」と訳されているギリシャ語の原語は「スプランクニゾマイ」という言葉です。この言葉についてお聞きになったことのある方もおられると思いますが、この言葉は「スプランクノン」という「内蔵」を表す言葉から派生したものです。つまり「憐れに思った」というスプランクニゾマイ」は「内臓がねじれる」、「はらわたよじる」という言葉なのです。
主イエスは、人間の苦しみに対して、「ああかわいそうに」と思われるだけではなく、御自身の内臓がねじれるような痛みを覚えられるということです。私は七年ほど前、大腸憩室炎で緊急入院しました。憩室は、大腸にできるポコッとした袋で、憩室炎は、その憩室の炎症です。憩室自体は右わき腹の上付近にあったのですが、炎症の膿が腸の下腹部までたまっているような状態で、かなりの痛みがありました。胃の前にエプロンのように垂れている大網というものは炎症などが起こったところを保護するそうですが、その大網がねじれていたようです。実際の体の中でねじれが起こるとたいへんなことになるのですが、主イエスは人間の苦しみを、ご自身のそのような肉体の痛みのように感じてくださっているのです。そして「もう泣かなくともよい」とおっしゃってくださるのです。
苦しみは、苦しみ自体でも苦しいのですが、その苦しみが自分にしか理解できないものであるとき、余計苦しみが増します。誰にもわかってもらえない苦しみはいっそう苦しいのです。でも、ただお一人、主イエスはそんな苦しみもご自身の苦しみとして共に苦しんでくださいます。
場合によっては、自分は気づいていない苦しみもあるかもしれません。自分ではまだ頑張れる、とか、たいしたことない、と思っていても、実際は心や肉体に大きな負担となっているような苦しみもあるかもしれません。そしてメンタルや肉体がむしばまれていきます。そのような苦しみをも主イエスはご存じです。そしてご自身の内臓がよじれるほどに痛んでくださるのです。
<もう泣かなくてもよい>
そのように私たちの苦しみをすべてご存じの主イエスは、おっしゃるのです「もう泣かなくてもよい」と。主イエスは苦しみを共に苦しんでくださるのみでなく、涙をぬぐってくださる方でもあります。私が共にいるのだから、「もう泣かなくてよい」そうおっしゃってくださるのです。
そしてそれは口だけの慰めのお言葉ではありません。主イエスは、この一人息子のなきがらが納められている棺に手を触れられました。棺を担いでいた人々は驚いて立ち止まりました。葬列の中に主イエスは入り込まれたのです。通常であれば、それは妨害行為であり、人々は怒ったでしょう。しかし、この時、人々は、主イエスのご様子に息を呑むように立ち止まったのです。そもそも葬列というのは生きている者の場所から、死者の場所である墓へと棺を運んでいくものです。命から死という方向は一方通行であり、そのけっして反対へは向かえない歩みを棺を担いだ人々は歩んでいたのです。その一方通行の歩みを主イエスは止められました。
「若者よ、あなたに言う。起きなさい」
驚くべき言葉です。起きなさいも何も、この若者は死んでいるのです。それをさらりと「起きなさい」と主イエスはおっしゃいました。ここには主イエスの確信と権威がありました。今ここで、蘇生のための特別な業をする必要もなく、こともなげに主イエスは若者を起こされました。さきほどまで、心臓も止まり、体が冷たくなっていた亡骸でした。大勢の人がそばに付き添っていたのですから、大勢の人がたしかにこの若者が死んだことを知っていたのです。
死人は起き上がってものを言い始めたとあります。ちょっと怖い場面でもあります。でも若者はゾンビのように起き上がったのではありません。亡くなる前、母親と共にいたときのままの若者として生きかえったのです。そして主イエスは「息子をその母親にお返しに」なりました。主イエスは、御自身の凄い能力を皆に見せるためにこの奇跡をなさったのではありませんでした。ただただ、この母親を憐れに思い、もう泣かなくてよい、とその涙をぬぐうためにこの驚くべき奇跡をなさいました。激しく嘆いていた母親、心がうつろになっていた母親に、若者の命をお返しになりました。そしてその母親のうつろになっていた心に豊かな恵みを満たされました。
<神はこころにかけてくださる>
 それを見ていた人々は「皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』」と言ったとあります。主イエスの凄い業を期待していた群衆は、主イエスのなさったことが、神の力によるものであると気づいたのです。人間の業ではない、神から特別の力をいただいた大預言者でなければこのようなことはできない、そう思ったのです。実際旧約聖書に出てくるエリヤやエリシャといった預言者は死者を生き返らせるという奇跡を行っていました。ですから主イエスもエリヤやエリシャのような預言者だと人々は思ったのです。
 この時点でまだ人々は主イエスが神から来た救い主であることは分かっていませんでした。ただそのなさったことは神の力によるものだとは分かったのです。そして言いました。「神はその民を心にかけてくださった」。<心にかけてくださった>という言葉は口語訳聖書や新しい聖書協会共同訳では「顧みてくだった」と訳されています。神がそのまなざしをご自分の民にたしかにむけてくださった、というのです。そしてまた神が訪れてくださったということです。
 神の人間の間には罪という隔ての壁がありました。その壁がある限り、神と人間の間は遠いのです。しかし、主イエスはその壁を破り、神と人間をつないでくださるお方でした。主イエスが2000年前にこの世界に来られたということは、神と人間の間に新しい時代が始まったということです。主イエスがこの世界に来られたゆえに、神が人間を心にかけてくださる時代が始まったのです。神が私たち一人一人のことを顧みてくださるのです。それはけっして当たり前のことではありません。主イエスが来られ、そして十字架にかかってくださったゆえに、神と人間の間の罪の壁が壊されました。今日の聖書箇所は、まだ十字架の前の出来事です。しかし、主イエスが来られたということは、すでに新しい時代が始まったということです。そのさきぶれとして、病は癒され、悪霊は追い出され、若者は生き返りました。今日の聖書箇所で「死者は起き上がり」というところの「起き上がり」という言葉は「復活する」という意味の言葉でもあります。主イエスは十字架において死なれ、そして復活をなさいました。死んでいた者が生きかえったのです。墓場へと向かっていた葬列は、命の方向へと返されました。若者が生きかえった出来事は主イエスの復活の先触れでした。
 しかしまた思います。私たちの愛する者たちは帰ってきただろうか、と。この地上を去った人々は生き返ったでしょうか。昨年、大阪東教会でも愛する姉妹を天に送りました。今日の聖書箇所のように、現代において死者が息を吹き返すことはありません。じゃあこのお話は現代の私たちには関係のないことでしょうか。そしてまた今日の聖書箇所で生き返った青年も、その後、死なずに生き続けたわけではありません。ふたたびやがて死んだのです。
 では主イエスがなさったことは、ひととき、母親を慰めるためだけの業だったのでしょうか。そうではありません。さきほども申し上げましたように、たしかに死が打ち破られ、永遠の命が人間に与えれるさきぶれの出来事だったのです。単に死者が蘇生した、ということがデモンストレーションされたのではありません。まさに神が人間を顧みてくださる、涙をぬぐってくださる、死をも打ち破ってくださる、永遠の命を与えてくださる、そのことの先触れの出来事でした。
<失望では終わらない>
 詩編37編に「主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。/人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」という言葉があります。私たちの日々には、打ち捨てられたように感じる時もあります。しかしそのような時も、神はかならず私たちを心に留め、顧みてくださり、手をとらえていてくださいます。その恵みは主イエスの到来によって実現しました。棺を運ぶ葬列を止め、死をも打ち破るお方である主イエスが来てくださった。だから私たちは打ち捨てられないのです。主イエスの十字架と復活の業ゆえに、今も、神は私たちを心に留めてくださっている、だから私たちは絶望しないのです。私たちの希望は失望で終わらないのです。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章43~49節

2024-09-03 17:03:47 | ルカによる福音書
2024年8月25日大阪東教会主日礼拝説教「心からあふれ出るもの」吉浦玲子
<実を見る>
 去年、教会の南側のガレージの脇の花壇にポツンと雑草のようなものが生えました。抜かなくちゃと思いつつ、抜かないままにしばらくすると、やたらどんどんとその草は背が高くなるのです。あれ?これ雑草だっけ?と思って見ると雑草というよりひまわりのようです。確信はなかったのですが、抜かずにそのままにしていたら、本当にひまわりの花が咲きました。最初にそれがひまわりだとは分からなかったのは、その年、その場所にひまわりの種はまいていなかったからです。おそらく、前年か前々年にその場所にあったひまわりの種が自然に落ちて芽吹いたものだったのでしょう。教会の庭には種を蒔いたり球根や苗を植えたりして成長している植物もありますが、よく分からない知らないうちに生えているものもあります。鳥などの動物がどこからか種を持って来て、それが根付くこともあるようです。見慣れない植物を調べると毒性のある植物であったり、他の植物を駆逐する危険な外来種であることもあります。植物の専門家であれば、すぐにそういうのは見分けられるのでしょうが、植物に疎い私などはひまわりですら、花が咲くまでよく分からなかったりします。最近はスマホで植物を写すと植物名を教えてくれるアプリもありますが、そのアプリも写す場所や向きによって違う植物名を言ったりします。完ぺきに植物を確定してくれるわけでもありません。
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」こう主イエスはおっしゃいます。主イエスは、この前の聖書箇所になりますが、敵を愛しなさい、とおっしゃり、また、人を裁いてはいけません、とおっしゃった、そのあとにこの言葉を語っておられます。私たちは、ひとときであれば、敵を愛するふりをすることはできるかもしれません。心の中で相手のことを「あんな奴ダメだ」と裁いていながら、それを口には出さないこともできます。でも私たちが本当に敵を愛したり、人を裁かない人間になっているか、そして神から喜ばれる人間になっているかどうかは、結局、私たちが実らせる実によって分かるのだとおっしゃるのです。私たちが茨なのかいちじくなのか野ばらなのかぶどうなのか、それは実る実によって分かるとおっしゃいます。植物に疎くて、それがどんな種類の植物か分からなくても、アプリでも判別できなくても、実によって分かるのです。逆に言いますと判別には時間がかかるということです。
 でもこれは少し恐ろしい言葉でもあります。私たちが長く生きていきながら、私たちが本当に神に喜ばれるような生き方をしているのか?私たちがその人生において、豊かな実を結ぶ生き方をしているのか、それはぱっと見では、短期間では、自分にも人にも分からないということです。自分ではおいしいぶどうの実のつもりが、なんだか苦い嫌な感じの実を結んでしまうということもあるということです。人生の終わりになって、あなたの生き方は間違っていましたねと神様に言われるのは困ってしまいます。
<良い言葉悪い言葉>
 しかし、人生の終わりまで行かなくても、判別できることはあると主イエスはおっしゃっています。それは言葉によってです。 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と主イエスはおっしゃいます。

 ところで、「ありがとうございます」とか「すみませんでした」「申し訳ありませんでした」という言葉をあまり言わない方が時々おられます。信仰歴の長いクリスチャンであっても、たまにおられます。相手はその人に別に感謝されたいと思ってやっているわけではないことであっても、やったことに対して「ありがとう」という言葉がなければ、こちらがやったことがむしろ相手に不快な感じを持たせたのかと心配になったりします。あるいはやってもらって当然だと相手は思っているのかと感じたりします。また小さなことでもあってもちょっと迷惑をかけられたとき「すみません」「ごめんなさい」の一言がなければ、いったいどういうことなんだと思ってしまいます。そういうことが続きますと、結局、その人の心には感謝とか申し訳ないという思いが、そもそもないのだと考えざるを得なくなってきます。
 よく、昔は、男性は寡黙な方が良くて、たとえば、夫婦関係でも夫は妻への感謝の言葉は言わないということがあったかもしれません。もちろんそれはご夫婦ごとの関係であって、一概にそれが悪い良いという話ではありません。口には出さなくても、それぞれに相手のことを思いやっていて、そのことを双方が分かっているという場合もあるでしょう。ただ、言葉によって、相手の気持ちが分かる方がやはり良いと言えば良いのです。感謝しているのか、申し訳なく思っているのか、それは相手にわかる形であらわすべきなのです。心の中で感謝しているとか申し訳なく思っているというのは、結局のところ、感謝や申し訳ない思いそのものが大きくはないということなのです。
 ありがとうやごめんなさい、だけでなく、やはりその人の言葉というのはその人の心を表します。そう自分で申し上げつつ、普段の自分の言葉を思う時、冷や汗が出る様な思いもあります。一方で、口ではありがとうと言っておられるのですけど、なんとなくその思いが伝わってこない場合もありますし、別に悪いことはおっしゃってはいなくても、なんとなく冷たさを感じることもあります。でも、こういったからといって「じゃあしゃべり方に気をつけましょう」ということではありません。

 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」そもそもあなたたちの心の中に何があるのか?と主イエスは問うておられます。口先だけでありがとうございますとか感謝していますと言っても、あるいは優しそうな話し方をしても、心の中に良いものがなければ、口から出る言葉も良いものにならないとおっしゃるのです。
 これはさきほどの植物の実の話と同様、ノウハウ的にどうにかなるものではありません。こうすれば、人生で豊かな実が結べますとか、こういう風に話しましょうということではありません。そもそも聖書の言葉そのものが、直接的に、悩みにこたえるとか、生き方を指南するということではないからです。むしろ聖書は私たちに問いかけて来るのです。あなたはどんな植物なのか?あなたの心には何があるのか?と。その問いに答えつつ生きるということが御言葉に生きるということです。表面的なしゃべり方や人との接し方を良くして済む問題ではありませんし、自分の悩み事に適切な言葉でヒントを与えてもらうというものでもありません。もっと深いところから私たちは聖書において神から問われるのです。それは表面的な態度や言葉の問題ではありません。もちろん、ありがとうやすみませんはちゃんと言った方が良いですが。私たち自身が御言葉を聞き、神から問われ、その問いに答える形で変わる、いえ、変えられていくものなのです。

<土台>
 そのような神からの問いに答えつつ生きるということが、御言葉に生きるということです。聖書を単なる生き方指南書、お悩み解決ツール、癒しの言葉集としているときは、御言葉に生きるということはできていません。聖書の話をたくさん知っていても、神学をたくさん学んでいても、御言葉に生きているかというと必ずしもそうではありません。主イエスは「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とおっしゃいます。「主よ、主よ」と呼ぶということは、表面的な宗教的儀礼として神を呼ぶということです。現代で言えば、普段はまったく神のことを思うことなく、日曜日に教会に来て、なんとなく清らかな癒されたような気持になって月曜からはまったく神のことを思わずに過ごすということです。
 旧約聖書の時代、特に紀元前6世紀にイスラエルが滅びる前、神の言葉を聞き、行う人はほとんどいなくなりました。でも神殿に人々は行き、それなりに礼拝や祭儀はしていたのです。「主よ、主よ」と人々は神を呼んでいたのです。しかし、神を第一とする行いはまったくありませんでした。その結果、国は滅びました。それは現代の一人一人においてもそうです。どれほど聖書を勉強しても熱心に教会の奉仕をしても、御言葉を行わないならば、それはとてもあやうい生き方になるのです。
 しかし、御言葉を行う人はそうではないと主イエスはおっしゃいます。主イエスは御言葉を行う人はどういう人に似ているか示そうと語られます。それは「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」つまり御言葉を行う人は、土台のしっかりした家のようだとおっしゃるのです。
 今、日本には台風が近づいてきています。場合によると大阪にも大きな影響を与えるかもしれません。今朝は大阪市にも大雨警報が出ていました。一方、少し前には日向灘での地震を契機に南海トラフが近づいているというような発表もありました。そもそも、日本は自然災害の多い国です。神を信じていても、自然災害は襲ってきますし、被害にあうこともあります。2018年の台風21号を思い出しても、教会庭のミモザの木が根元から倒れ、物置が倒壊し、会堂の屋根瓦が飛びました。台風だ、南海トラフだと考えているとだんだんと怖くなってきます。災害だけではなく、人生にはさまざまな危機があります。しかし、どのようなことがあっても、御言葉を行う人は土台から崩れることはないと主イエスはおっしゃいます。

 大阪東教会で用いている讃美歌集には載っていない曲で、大阪東教会ではほとんど歌うことのない曲ですが「遠き国や」という讃美歌があります。これは1923年の関東大震災の時、来日していたマーティン宣教師によって作られた讃美歌です。関東大震災は死者行方不明者が十万人という明治以降の地震としては最大規模の被害を出しました。その震災の折につくられました。「遠き国や/海の果て/いずこにすむ/民も見よ/慰めもて変わらざる/主の十字架はかがやけり/慰めもて/汝がために/慰めもて/汝がために/揺れ動く地に立ちて/なお十字架は輝けり」という歌詞です。当時、震災の被災者が明治学院の校庭に避難していましたが、まだまだ余震が続いていました。そのたいへん不安な状況の明治学園の校庭の蚊帳のなかに被災者は避難していたのですが、夜、その蚊帳の中に灯されていたろうそくの灯が、マーティン宣教師には十字架に見えたそうなのです。それでマーティン宣教師はこの讃美歌を作ったのです。どれほど地が揺れ動いても十字架は輝いている、どれほど地が揺れ動いても十字架からの慰めはかわることはない、そうマーティン宣教師は歌ったのです。
 たしかに私たちの生きるこの地上は、物理的に地面が大きく揺れることがあります。また人生においても、生きる土台が揺れる様なこともあります。台風で倒れたミモザのように根っこから倒されるようなことも人生の中にはあります。私たちは自分の足で踏ん張って、倒れないようにがんばるのではありません。私たちが倒れようとも、引っこ抜かれようとも、それでも十字架は輝いているのです。その十字架からたしかな慰めと、新しい力と命が与えられるのです。私たち自身も、この世界も不確かで変動します。でも十字架は変わりません。その変わらざるものを自分の中心としていきていくとき、私たちは時に倒れても、人生の土台は揺るぎません。物理的に建物は倒れても、私たちの生活の根幹が揺らいでも、そして私たちが落胆し絶望しようとも、十字架に照らされている私たちの土台は揺るがず、信仰の家はけっして崩れません。十字架による恵みによって守られているのです。

<御言葉を行う>
 ここでもう一度、御言葉を行うということについて考えてみます。さきほど神からの問いに答えて生きる、と申し上げました。神の問いに答えるためには神を見上げて生きていないと、その神の問いの言葉も聞こえません。神を見上げるということは熱心に祈るということではありません。祈りはどちらかというと私たちの思いを神に伝えることです。そうではなく、静まって神からの言葉を聞くことが神を見上げることです。神の言葉を勉強や解釈ではなく、自分に語られている言葉として聞くということです。そのようにして私たちは日々、神を見上げて歩みます。神を見上げる時、そこに十字架の輝きも見えるのです。ご自分の命を捧げて死んでくださったキリストの愛が見えてきます。その十字架の輝きはさきほども申し上げましたように、どのような時も変わりません。キリストの愛は変わらないのです。その愛を受けて、心から感謝して生きていくとき、私たちの心には良いものが満たされていきます。私たちの生きる土台はしっかりとしたものになります。
 「ありがとう」「ごめんさい」を言うということを申し上げましたが、私たちが心がけて良い言葉を言おうとしたり、しっかり生きていくということではありません。御言葉を行うというと、私たちの行いが問題とされているように感じますがそうではないのです。良いことをしなさいということではないのです。私たちが神を本当に見上げているならば、そこに十字架の輝き、キリストの愛が見えるはずです。そして心には感謝の思いが自然と豊かにあふれてくるのです。そのあふれ出た感謝が、私たちの言葉となり、行いになるのです。逆に言えば、私たちが自分で頑張って生きていくことや、立派な言葉を語ったり、良い行いをすることにとどまっているならば、私たちの心には神への感謝の思いはあふれません。感謝をしようと心がけていても感謝の心は絶対生まれてこないのです。自分ががんばったり心がけていると、むしろ私たちの心は貧しくなるのです。自分がしっかり生きているか、さらには他人がしっかりとやっているか、チェックしてしまう。そして自分や人を「こんなことするなんて自分はだめだ」と裁いたり、ぎすぎすした嫌な言葉しか語れなくなります。
 御言葉を行うということは聖霊によって神の言葉を聞くということであるともいえます。聖霊によって神の言葉を聞くならば、おのずと神の愛、神の恵みを知らされるのです。神の愛、神の恵みが私たちの心の中に豊かに蓄えられるのです。私たちが私たちの力で私たちの心に良いものを蓄えようとしてもぜったいにできません。私たちの心掛けで良いものを心に満たすことはできないのです。ただ聖霊によって御言葉を聞くとき、私たちの心に良いものが満たされ、その満たされたものはおのずとあふれ出るのです。そのあふれ出たものは、良い言葉となり、愛の行いとなっていきます。この一週間もそしてこれからの人生においても、私たちの心に良いものを神が満たしてくださいますように。神が良いものを満たしてくださることを信じ、大いに期待をして、歩んでいきましょう。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章37~42節

2024-08-21 14:55:17 | ルカによる福音書
2024年8月18日大阪東教会主日礼拝説教「偽善者よ」吉浦玲子
<裁くとは>
 「裁く」という言葉は、クリスチャンの間で、クリスチャン用語のように使われることがあります。大阪東教会の皆さんの間ではあまり使われないかもしれませんが。「あの人は、人を裁くよね」と批判的に使われます。たとえば、Aさんの言動に対して、Bさんが「Aさんの言動は良くない」と言ったとします。そうしたら「BさんはAさんのことを裁いている、けしからん」というような感じで使われたりします。今日の聖書箇所で「人を裁くな」と主イエスはおっしゃっています。ですから、たしかに私たちは人を裁いてはいけないのです。ただ私たちは、裁くということの意味をしっかりとわきまえないといけません。Aさんの言動を批判したBさんは、Aさんのことをほんとうに「裁いた」と言えるのでしょうか?
 そもそも「裁く」とか「裁き」とは何でしょうか?聖書において「裁き」は、人間とこの世界の罪に対して、神が最終的な判断をなさる、審判をなさるということです。それは私たちが、毎週告白をしています使徒信条によれば「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」というところになります。今は天におられ父なる神の右に座しておられる主イエスが、ふたたびこの世界に裁きの全権を担って来られ、裁きをくだされるのです。裁きというのは、その後の処遇が決まるということです。聖書で言えば永遠の命に至るのか、滅びに至るのかということです。
 たとえば、この世界でも、ごく大雑把な言い方をしたら、犯罪を犯した人は裁判において正式に有罪とされてはじめて罪が確定します。有罪となってはじめて懲役何年とか執行猶予とかその後の処遇が決まります。
 神の裁きはさきほども申し上げましたように、主イエスがふたたび来られる終わりの日になされます。その神の裁きに先立って私たちが誰かに対して裁くことは許されませんし、そもそも裁くなんてことはできません。裁くということは最終的な判決を下すということです。この世界の刑事事件であれば、資格をもった裁判官、そしてまた適切な手続きを経た裁判員が裁きます。しかし、あきらかに現行犯で犯罪を犯したことがあきらかな人であったとしても、裁判の前に人間が勝手にその人に対して判断を下すことはできません。
 たとえば教会においては「戒規」というものがあります。教会の秩序をはなはだしく乱す者、異端的な考えをする者などにたいして、段階に応じて「訓戒」「陪餐停止」「除名」といったことを行います。「戒規」は懲罰ではなく、あくまでも悔い改めへと導くための訓練としてなされることです。たとえば、その「戒規」で「除名」とされた場合、その人は神の前で退けられるのでしょうか。神から裁かれ神の恵みから切り離されるのでしょうか。そういうことはありません。戒規において除名処分を受けたとしても、それは神の最終的な裁きとは異なります。あくまでもその人が悔い改めへと導かれる手段として戒規はあります。そもそも教会と言えど、誰かを裁くことは出来ません。
<愛ある諭しと裁きは異なる>
 そういう意味で冒頭に語った「Aさんのここが悪い」といったBさんはAさんを裁いているわけではないと言えます。もし誰かが愛をもって「あなたのここはこういう風にした方がいい」と助言するとしたら、それは裁きではありません。罪を犯している人にそれは罪です、その罪から離れなさいと諭すことも愛の行いです。さきほどの教会の戒規も愛の行いの一つです。相手の悪いところを指摘したらなんでもかんでも「裁いている」というのは間違っています。
 しかしまた一方で、愛をもって相手を諭すというのはとても難しいことです。私たちはそもそも自分の勝手な正義に基づいて、相手を判断するからです。あの人のああいうところは良くないなと思うだけでなく、だからあの人はダメなんだと決めつけたり、ああいうことをするあの人は罪人だと考えてしまう、それは、自分が神のように相手を裁いていることになります。
 そもそも私たちはだれ一人として完璧なものではありません。相手の悪いところを見て、それですべてを判断できる者でもありません。主イエスはおっしゃいます。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。」私たちは人の一部分だけを見て、すべて分かった気になって、そしてその人を裁くことがあるのです。それは傲慢な心から出ていることなのです。すべてを分かったような気持で相手を裁くことはむしろ自分が傲慢の罪を犯す罪人になってしまうのです。
<愛と裁き>
 ずっとここまで裁くとか罪とか重いことばかり語ってきて、聞いておられる方も語る私も、少々しんどい気分になります。しかしここで主イエスがおっしゃっていることは、先週、読みました「敵を愛しなさい」と続く話なのです。つまり「愛」ということが語られているのです。
 主イエスはおっしゃいます。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
 自分に悪いことをする敵を愛するように、あきらかに間違っていると思う相手をも愛しなさいと主イエスはおっしゃっているのです。もちろん、先ほども言いましたように愛をもって助言したり諭すということも大事です。しかし、それはなにか相手の欠点をあれこれ取り上げて、くどくど追求する様な形での批判であってはならないのです。
 よく話をすることで、お聞きになったことのある方も多いと思いますが、私が信徒のころ、お世話になっていた先輩の女性は、口の悪い、一貫、厳しい人でした。割とずばずば相手を叱る人でした。ある日、礼拝に遅刻してきて、さらに、やたらと露出の激しい服を着て来た女性に対して、「何という格好で教会に来るのか」と厳しく叱っておられました。その女性はもともといろいろと困った行動をとって少し周囲から浮いていた方でした。また言われたら言い返す激しい感じの人だったので、なかな直接その人に注意をするはいなかったのです。でもその女性に対しても先輩ははっきり注意をされていました。あるとき、教会全体の修養会があったとき、その女性が修養会の場所から姿を消していました。何十人と出席者がいたので、女性がいなくなっていることに、私もほかの人も気づいていなかったのです。でも先輩の女性は彼女がいないことに気づいて、ひとりで教会の中のあちこち探されました。そして体調を崩して別の部屋で座り込んでいた女性を見つけて介抱されました。私は今でもよくそのことを思い出します。その先輩は、一見、口が悪く厳しい人でしたが、ほんとうに愛の人だったなと思うのです。皆のことをよく見て、心に留めておられました。どちらかというとみんなから距離を置かれていた女性のことも本当に心配して気にかけておられました。先輩は時にきびしく批判はされましたが、裁いてはおられませんでした。いつも相手のことを気にかけて、大事にされていたのです。私自身もその先輩には叱られもしましたが、とても心配もしてくださっていたと思います。
 でも私たちはともすれば、愛のない批判に終始してしまうのです。ファリサイ派の人々が、主イエスが安息日に病気を癒すかどうか、律法を破るかどうか、じっと見つめていたように、私たちは人のあらを探しがちになるのです。そのように人を裁くあり方ではなく、安息日に病人を癒された主イエスのように愛を与えるのです。「与えなさい、そうすればあなたがたにも与えられる」とおっしゃいます。愛を失って人の批判ばかりする心は、神の恵みを感じることができないのです。自分の正しさに固執するとき、私たちは神の正しさから離れ、自分中心となり、そして神の愛からも離れます。
<見えるようになるために>
 そして今日の聖書箇所の後半では、3つの話が語られています。盲人が盲人を案内すること、弟子は師にまさるものではないこと、そして人の目のおがくずは見えても自分の目の中の丸太は見えないということ。これらは、すべて「しっかりと見えるようになりなさい」という言葉です。私たちは自分がはっきりと物を見て理解しているように見えて、そうではないことが分かっていないのです。私たちはしっかり見えてもいないのに、いや見えていないからこそ、やたらと人のあらが目につくのです。先生にはかなわないのに、弟子が自分の方がえらいように思ったりするように、自分も分かってもいないのに人を導こうとするのです。目の中に丸太があるというのは、かなり大げさな表現だと思います。でも現実的に自分は実際は何も見えていないのに人の目の中の小さなおが屑をとろうとするのです。それを主イエスは偽善者だと厳しく語っておられます。
 でも、「だれも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とも主イエスはおっしゃっています。ものが見えていなかった私たちも見えるようになるのだと主イエスはおっしゃっています。
 一般的に弟子が先生を越えるには修行が必要ですが、私たちが本当にものが見えるようになるには修行ではなく、主イエスに従うことが必要です。敵を愛し、罪人を赦してくださった主イエスと共に歩むことが必要です。そのとき少しずつ私たちの目は開けていきます。いままで見えていなかったものが見えてきます。何より自分の罪が見えてきます。アダムとエバが知恵の実を食べて、賢くなろうと思っていたのに、賢くなった彼らが見たの、みじめな自分の裸の姿でした。私たちも最初に見えるのは罪人である自分の姿でしょう。しかしまた、同時に、そんな自分を愛して赦してくださった主イエスの姿も見えてくるのです。
 さきほど話をした先輩の女性のことを、実は、私は最初は好きではありませんでした。怖い感じですし、なんだか近寄りたくない人だと思っていました。でもある時、私の未信徒の友人が教会に来られました。教会に来てとても喜んでおられたのです。その後、その友人に深刻なトラブルがあって、教会に来られなくなりました。私はとてもショックをうけて、なぜか私はその先輩に一緒に祈ってほしいと頼みました。そしたら先輩はすぐに一緒に祈ってくださいました。その先輩は自分の直接の友人でもない私の友人のために祈りつつ、涙を流しておられました。私も泣きながら祈りました。その時からその先輩と親しくなりました。それまでわたしの目には、その先輩の本当の姿が見えていなかったのです。クリスチャンのくせに口やかましい、相手にマウント取る人だと思っていたのです。でもそうではない、この人は本当に人のために祈ってくださる愛の人だと思ったのです。
 人間と人間の間でも私たちは多くのことが見えていません。親が子供のことを見えているとは限りませんし、気心の知れた長年の友人のことだって実は分かっていないことも多くあります。そのように私たちの目を曇らせるのは、神のことを分かっていない、キリストを見ていないことに原因があります。
 主イエスは罪人であった私たちを裁くことなく、ご自身が代わりに十字架におかかりになり、裁きをお受けになりました。罪なきキリストが、罪人のために裁きを受けられたのです。それが十字架の出来事でした。私たちが受けるべき裁きをキリストが受けてくださった、そのキリストの十字架を思う時、私たちは人を裁くことはできない者であることを知らされます。もちろん主イエスはふたたびこの世界に来られる時、たしかに裁き主として来られます。しかし主イエスの十字架と復活を信じる者は裁きを免れます。その大いなる恵みを感謝するとき、私たちの目は開かれていきます。自分の罪の重さと神の恵みの豊かさが見えてきます。その時、私たちは人を裁くことなどできなくなります。そしてキリストのように、十字架を担い歩む者とされます。それぞれに十字架を担い歩むとき、神の愛は私たちの目の中の丸太を砕いてくださいます。そしてその時、私たちの目に見えるのは、神の大いなる愛の光なのです。



大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章20~26節

2024-08-06 16:30:13 | ルカによる福音書
2024年8月4日大阪東教会主日礼拝説教「喜び踊る」吉浦玲子
<貧しい人飢えた人>
 先週から引き続き、主イエスのいわゆる「平地の説教」を共に読んでいきたいと思います。今日の聖書箇所では4つの幸いと、その幸いと対照的な4つの不幸が語られています。先週もお話ししましたように、大事なことは、ここで語られていることは主イエスの弟子たちに対して語られていることだということです。一般論ではないということです。神と共に歩む者、キリストを信じる者にとっての幸せが語られています。
最初に貧しい人は幸いであると語られています。この箇所については先週もお話をしました。この貧しい人は幸いであるということと反対に24節では富んでいるあなたがたは、不幸であると語られています。ここで貧しさや富というのは、単に経済的な貧乏、お金持ちというのではなく、自分自身の力ですでに充足しているか充足していないかということです。「富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」あなたはすでに自分で自分を慰めることができている、神から慰められる必要はない、そんなあなたたちは不幸なのだと主イエスは語られています。人間の本当の幸いは、神からの慰めに生きることです。神からの慰めを必要としない人は、自分では豊かなつもりでも、いつか失われるひとときの慰めに生きているにすぎません。同様に「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と語られ、25節に「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」と対になって語られています。
 私は子供のころ貧乏ではありましたが、食べるものがないような飢えは経験したことはありません。戦中戦後を生き抜かれた方は、ほんとうに食べるもののない経験をしてこられたと思います。現代でも、この地球上では何億という人々が食べることができず飢えている状態です。そのように飢えた状態が幸いということは、この言葉が最初に申しましたように一般論ではなく、弟子たちに語られたものであったとしても、釈然としないところがあるかもしれません。
 この飢えを、たとえば「魂の飢え渇き」と言い換えたとしたら、少し納得できるかもしれません。それは貧しい人は幸いであるということを「心の貧しい人」と言い換えることと似ています。しかし、主イエスの言葉は、そして聖書の言葉は、いつも申し上げていますように、心の問題、精神的な問題だけについて語っているのではありません。貧しさや飢えということも、心や魂ということだけでなく、もっと人間の存在全体に関わることなのです。
<貧しい人飢えた人を招いているか>
 ある牧師はこの聖書箇所に関係して、日本の教会は豊かな人、社会的にどちらかと言うと恵まれた人に対して伝道をしてきた歴史があることを語っておられました。日本の教会は、経済的に貧しい人、食べるものにもこと欠くような人をあまり教会に招いてこなかった。その結果、教会は、それなりに経済的にある程度豊かな人が集まる傾向にありました。もちろん経済的に豊かな人もキリストの救いにあずからねばならないのですから、それはけっして悪いことではありません。ただ一方で、ある程度豊かそうな人々が集う場に、貧しい人や食べるものにもこと欠く人は来づらい雰囲気となります。結局、教会がまことにすべての人々を招く教会とならなかった。そのためプロテスタント宣教160年を超えてもクリスチャン人口が増えない状況になっていると言われます。その傾向は特に改革長老教会においては強かったと思います。古くからの長老教会は、教会全体もどちらかというとそこそこ豊かな人が多く、長老などは特に社会的な地位の高い人がつとめていたことが多かったと言われます。大阪東教会もかつてはそのような教会でした。そのような過去の歴史を考える時、日本の長老教会はまことに貧しい人、飢えている人を招くということをしてこなかったと思います。信仰の問題を、ただ心の問題、魂の事柄として、狭めて取り扱ってきたと言えます。難しい教理や神学は理解しても、まことの愛の実践や現実の世界へのまなざしやこの世界の弱い人々への現実的な愛に欠ける傾向がありました。いえ、そもそも教会の中にも本当の意味での愛が希薄でした。主イエスは、そうではありませんでした。お腹をすかせた群衆に食べ物を与え、病の人を癒されました。それは主イエスご自身が人間として、日々の生活の中で貧しさを知り、空腹を知り、肉体の痛みを知り、心に悲しみを知っておられたからです。単に精神的に豊かになればよい、心を満たせばよいということではありませんでした。
<神にある未来に生きる>
 しかしそのことを前提としながら、ここで語られていることは、単純に年収が低い人とか、一日三食食べることができない人がどうこうということではありません。ここで語られていることは、「今」と「未来」の話です。今、貧しい人は、神の国を与えられるという未来があります。今、飢えている人はやがて満たされます。反対に今富んでいる人、満腹している人は不幸な未来があると言われています。これは単に今はお腹を空かせていても将来はたらふく御飯が食べられるようになり、逆に今たらふく御飯を食べている人は将来没落して食べるものにもこと欠くようになるという人生の浮き沈みの話ではありません。
 神と共に歩むキリストの弟子たちは、自分の貧しさや飢え渇きの中で神の前に立ちます。その弟子たちには、まことの慰めや神からの満たしが与えられます。キリストと共に歩む者は、もちろんその歩みの途上も神からの恵みや助けを受けて歩みます。しかし、それ以上に、「未来」に生きる者なのです。その未来は神が造ってくださる未来です。それは最終的には終末の時に神が新しく造られる新天新地に至る未来です。しかし、私たち一人一人の人生の未来も神の恵みの内にあります。私たちは主イエスの十字架と復活によって救われながら、いまだ不完全な者です。愛に欠ける者です。しかし、キリストの弟子たちは、その情けない「今」にとどまりません。
 主イエスが12人の弟子を最初に選ばれました。その中の一人のペトロは主イエスが逮捕された時、主イエスのことを知らないと三回も言いました。そのペトロは、そのような弱いままのペトロではなかったことが聖書に記されています。やがて彼は迫害をも恐れず伝道をする者に変えられました。キリストによって変えられたのです。
 私たちも、今の自分を見ると、情けないなあと思うところがあると思います。しかし、私たちは変えられていく未来があります。今は愛に欠けていても愛することの出来る者に変えられる、そういう未来があります。そしてまたそれは、繰り返し言いますが、単に心の問題ではなく、生活全般にも関わってくるのです。私自身を含めて、クリスチャンになって、生活や生き方が大きく変わった人は多くあります。経済的なことに関しても神は不思議なやり方で現実的に助けてくださいます。私たちが神の未来を信じて生きていくとき、その未来は神によって物理的にも心のあり方にしても豊かにされていきます。私たちはキリストの弟子として生きる時、すでに神の未来に生かされています。
 それは次に語られている「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになるということについても同様です。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになると語られています。私たちには悲しみ、苦しみはたしかにあります。しかし、やがて笑う未来が来るのです。それに対して、今の現状に満足して神から離れている時、深い悲しみ涙が訪れるのです。
 もう20年ほど前になりますが、2005年にJR福知山線の脱線事故がありました。100名以上の方が亡くなる悲惨な事故でした。その数年後、あるドキュメンタリーを見ました。その脱線事故で重傷を負い、脳にダメージを受け体の自由がきかなくなりリハビリをしている二十代の女性のドキュメンタリーでした。事故の前、その女性はおしゃれな雰囲気の女性で、明るい感じで、元気に会社員として働いておられました。しかし事故による後遺症で体にひどい麻痺が残りました。その方がリハビリをされている映像がありましたが、最初その表情は暗く、リハビリに対しても投げやりな感じでした。それまでの健やかな生活を奪われてしまったことに絶望されているようでした。それでも家族に支えられながら少しずつ気力を取り戻し、リハビリを続けられました。そしてある春に、車いすで桜の咲いている公園に家族と散歩に行かれている場面がありました。桜を見ながらその女性が「ああ、生きているって感じやなあ」と笑顔を見せておられました。まだ言葉をはっきりと発音することは難しい状態でしたけれど、「生きているって感じやなあ」と笑顔でおっしゃっている姿に感動しました。事故の理不尽さ悲惨さの中で本来なら一番輝くはずの二十代の若い日々を奪われ苦しんでおられた方が今生きていることを本当に喜んでおられました。その映像を見ながら、キリストの弟子である私たちも、とても立ち直れないような悲しみに襲われても、やがて笑うことができる、神が未来をお造りなるゆえ、私たちは、今泣いていてもやがて笑うことができることを感じました。
<人々に憎まれる時>
 ところで「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」という言葉はこれまでの貧しい人飢えている人泣いている人とは少し異質な感じがします。人に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられる、こういうことは普通に考えますと、ごめんこうむりたいことです。貧しさや飢えも辛いことですが、人間は社会的な存在ですから、人々から排斥されることは人間の存在の根源を脅かすことです。主イエスがおっしゃる「人々から憎まれる」ということは信仰ゆえに迫害されることです。そして何より、人に憎まれ追い出されののしられるのは、こののち主イエスご自身が十字架につけられることにおいて起こったことです。人々から「十字架につけろ」と叫ばれ、「ユダヤ人の王」と茶化した罪状書きをかかげられ、神を冒涜した者という汚名を着せられました。そしてまた、弟子たちも主イエスの昇天ののちは迫害の中を生きました。
 そういうことを考えますと、ひとまず表立った迫害のない現代の私たちには「人々に憎まれるとき」以下の言葉は関係のないように思います。しかしそうではありません。私たちもある時は信仰ゆえに憎まれるのです。一般的にクリスチャンというのは、日本の社会の中では、それほど悪くは思われていません。この教会を創立されたヘール宣教師が大阪女学院も設立されたように、クリスチャンは教育や医療などの面において社会に貢献してきた実績があるからです。またクリスチャンの一般的なイメージは敬虔で穏やかで愛にあふれているというものです。
 しかし、クリスチャンは、そもそもこの世の価値観で生きてはいません。神を第一として生きていきます。たとえば日曜日に礼拝に出席するということひとつをとっても日本の社会から見たら不思議なことです。クリスチャンになる前、私も信じられないと思っていたことです。日曜に礼拝に出席するため、仕事や家族や地域社会との折り合いをつけなければならないこともあるでしょう。人によってはそこに戦いがありますし、そのことのゆえに人から憎まれるということもあるかもしれません。
 日曜のことだけでなく、まことに神を第一として生きていくとき、大なり小なり戦いがありますから、世間一般で思われている敬虔で穏やかで愛にあふれているクリスチャンのイメージとかけ離れることもあります。クリスチャンは世間一般で思われている良い人とか人格者というところとは根本的に違う存在だからです。
 主イエスはおっしゃいます。「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」私たちはこの世の人々から評価されるために生きていません。ただ天に富を積むために生きています。天に富を積むとは、神により頼み、自分の罪を悔い改めつつ、愛に生きるということです。愛に生きるということは、一般的な意味での善行や奉仕とは違います。主イエスは称賛を受けることなく、ご自分の命までお捧げになりました。それは私たちを永遠の命へと生かすためでした。
 私たちは世間的な評価を受けるためではなく、だれかに命を与えるために生きていきます。私たちの小さな愛の行いによって誰かがまことの命、神と共に生きる命を得るならば、そのこと以上の喜びはありません。私たちはその時、喜び踊ります。いえそれ以前に、今私たちが神と共に生きている、そのことによって、主イエスご自身がお喜びくださっています。天で多くの先人と天使が私たちの今を喜び踊ってくださっているのです。私たちは主イエスの喜びのうちに、喜びの未来に向かって歩んでいきます。

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章17~26節

2024-07-30 16:52:27 | ルカによる福音書

2024年7月28日大阪東教会主日礼拝説教「幸いとは何か」吉浦玲子

<山の上と平地>

 主イエスは12人の弟子をお選びになったのち、祈っておられた山を下り、平らなところにお立ちになりました。山の上と、平地が対比されて語られています。山の上は父なる神との交わりの場所、それに対して、平地は人々が普通に生きている場所です。主イエスはその平地において、おびただしい数の人々に語り、癒されました。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあります。ユダヤ全土から、さらには地中海沿岸のティルスやシドンから人々はやってきて、主イエスを求め、そのお体に触れようとしました。その様子は、押し合い圧し合いのパニック寸前のものであったでしょう。人々は自分の抱えているさまざまな問題を解決していただくことに必死でした。切実な思いで主イエスを求めたのです。

 そのような人々の願いにこたえて主イエスはお働きになりました。それが平地での、つまりこの世界での主イエスの働きでした。そのお働きの中で、だいじな教えも語られました。それが20節からはじまる「幸いと不幸」と新共同訳聖書で表題がつけられている場面となります。

 マタイによる福音書には同じように幸いについて主イエスがお語りになった場面が描かれていますが、そちらでは山の上で語られたことになっています。「山上の説教」として有名な場面です。それに対して、ルカによる福音書では、あえて山の下、平野での説教として描かれています。実際に主イエスは山の上でお話をされたのか、平野だったのか、それは分かりませんが、ルカの意図としては、この世のただなかで、同じ地上にたって、人間と同じ視線にたってお話をされたということを伝えたかったのでしょう。

 主イエスはおっしゃいます。「貧しい人々は幸いである。/神の国はあなたがたのものである。」この言葉はマタイによる福音書では「心の貧しい人々は、幸いである。/天の国はその人たちのものである」となっていました。ルカのように「貧しい人々は幸いである」と言われると貧乏なのが幸いなのかと驚きます。それに対してマタイによる福音書では「心が貧しい人々」と言われています。もちろん、心の貧しい人々は幸いと言われてもやはり驚きます。宗教というのは、本来、「心の豊かさ」を求めるものだと多くの人は思っているからです。しかし、主イエスのおっしゃる豊かさ、貧しさというのは経済的なこと、あるいは人間の心のあり方を越えたものなのです。そういう意味ではマタイによる福音書もルカによる福音書も同じことを言っているのです。

<日本一幸せなおばあちゃん>

 ところで、少し前に、「親に捨てられた私が日本で一番幸せなおばあちゃんになった話」という漫画を読みました。コロナで寝込んでいる頃、本を読む気力がわかなくて、気分転換するためにネットでダウンロードして読みました。この漫画は92歳になるおばあさんにお孫さんが聞き取りをした実話をもとにして描かれたものでした。そこに描かれていたのは昭和一桁生まれのおばあちゃんの苦労を重ねた生涯でした。ちょうど私の母とそのモデルとなったおばあちゃんは同年代ということもあり興味深く読みました。若い方はご存じないかもしれませんが、昭和の時代に「おしん」というドラマが大ヒットをしました。まさにあのドラマの主人公のおしんのようにおばあちゃんも子供のころから理不尽な目にあいながら、一生懸命生きて来られました。戦前戦中の貧しい家庭においてはおそらくこのおばあちゃんのように、苦労してこられた方は多かったのだろうと思います。おばあちゃんは父親が亡くなった後、親戚に養子に出されました。義理の母となった親戚のおばさんから、今でいうと虐待と言っていいような扱いを受けます。まだ小学生だったおばあちゃんは家族の誰よりもはやく起きて朝早くから畑仕事や家の家事をさせられました。しかし、十分に食べ物を与えられることもなく、学校に行くのも妨害されるような日々でした。冬に炬燵に入れる炭の準備はさせられましたが、おばあちゃん自身が炬燵に入ることは許されず、ひもじさと寒さの中を耐えて過ごしました。義理の母の虐待にはちょっとこの場で口で語ることもはばかられるような壮絶なえげつないこともありました。そして大人になり結婚してからも、家庭を顧みない身勝手な夫に苦労させられました。

おばあちゃんは子供のころ、あまりに苦しい生活の中で一度だけ、自分を虐待する義理の母を殺して自分も死のうと思ったことがあったそうです。浴衣の腰ひもで寝ている義母の首を絞めようとしたのですが、その腰ひもが義理のお姉さんが作ってくれたものであることに気づいたのです。義理のお姉さんもおばあちゃんが虐待されていることは知りながら、いろんな事情があって、表立っておばあちゃんを助けることは出来なったそうなのです。それでも陰ながら助けてくれていたのです。おばあちゃんは服を作ることも許されていなかったけれどそのお姉さんが義理の母の目を盗んで服を作ってくれていたのです。その腰ひももお姉さんが義理のお母さんの目を盗んで作ってくれたものでした。その腰ひもを見た時、自分は一人ではないと気づいて義理の母を手にかけることはやめたそうなのです。そのようなたいへんな日々を過ごして晩年、夫も天に送ったあとはようやく子供や孫に囲まれて平穏な日々を送っているという話でした。

 読み終えてなんともいえず複雑な気持ちになりました。とてつもない困難な中、このおばあちゃんの人並外れた忍耐力と、苦労の日々においても助けてくださった方々への感謝の思いをもって生きてこられたことに感嘆しました。しかし同時にどこか釈然としない思いもありました。どんな逆境のなかでも、忍耐と心掛けによって道をあやまたず生きていくことができる、というのは、本当のことでしょう。そう考えますと、人生の幸せとか不幸と言うのも、自分の心掛け次第ということにもなります。どんなに恵まれた環境にいても不満ばかりで不幸になる人もあれば、不幸な環境の中でも感謝して幸せを感じて生きていく人もいるでしょう。

 でも、人生の幸せとか不幸と言うのは、ほんとうに人間の心掛けによるものなのかと疑問にも思いました。このおばあちゃんは立派だし尊敬に値すると思います。でも幸せというのはそういうことだろうかと思います。

<神と共に生きる幸い>

 では主イエスがおっしゃる幸いとは何でしょうか?冒頭で、それは経済的なことや、あるいは人間の心をあり方を越えたものだと申し上げました。ここで注目していただきたいのは20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」という言葉です。主イエスは平地において多くに人々を癒し汚れた霊を追い出されました。しかし、幸いと不幸について語っておられるのは、自分に従ってきた弟子たちなのです。主イエスの幸いと不幸についての言葉は、主イエスに癒しを求めて来た群衆ではなく、まず弟子たちに語られているのです。つまり神を信じ、神と共にある者の幸いと不幸を主イエスはお語りなったのです。

 「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」この言葉と対応するように24節に「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。」とあります。いますでに経済的なことであれ、心の問題であれ、自分は豊かであると思って満足しているあなたがたは、自分自身の力ですでに慰めを得ている、その慰めの中で満足していて、神からの慰めは必要としていない、それは不幸なことだと主イエスはおっしゃるのです。逆に神を信じる者の幸いは、自分自身に起因する豊かさによってではなく神によって慰めを受けることなのだと主イエスは語っておられます。

 それでも、実際のところ、貧乏は辛いものです。私自身、さきほどの漫画のおばあちゃんほどではないにしろ、子供時代は母子家庭で貧しい生活をしていました。貧乏というのは人の心を傷つけ苛むものです。逆に財産も地位もあるとき、人間は、やはり心も安定して余裕をもって暮らすことができます。しかしその財産や地位も、永遠のものではありません。ある時、失われてしまう可能性もあります。また自分の心も、たしかなものではありません。自分の心だってころころ変わっていく頼りないものです。どんなに固い信念を持っていても、それが砕かれる時もあります。そのような不確定なものに頼って、安心したり、慰められるのではなく、神によって平安と慰めを受ける者こそが幸いなのだと主イエスは語っておられます。

<神に求める>

 ところで、神によって平安と慰めを受ける、ということに関して、人間の側で考えなければならないことがあります。私たちがしんどい時、悩んでいる時、神が慰めてくださったら、また、力を与えてくださったら、私たちはたしかに幸いです。しかし、自分の都合の良い時だけ神から平安や慰めを受けたいと願う姿勢は必ずしも幸いではありません。

 貧しい人は幸いというとき、自分の貧しさゆえに、自分の弱さゆえに神に求めるから幸いなのです。神に求めるということは、神にへりくだり、自分を神から憐れんでいただくということです。自分は自分の力で大体のことはできるけど、ちょっとしんどいとき力を貸してほしい、疲れたとき慰めてほしい、ということではないのです。ほんとうに自分の貧しさ、足らなさを嘆き、神に憐れんでくださいと求めるのです。

 私たちはどこまでいっても傲慢な存在で、自分が憐れまれるべき存在だとはなかなか思えません。だいたいのところは、自分自身の豊かさや力に満足していて、ちょっと足りないところを神に求めるのです。もちろんそんな愚かな私たちをも神はたしかに慰め、力を与えてくださいます。私たちが傲慢であっても、神は私たちに愛と恵みを注いでくださいます。

 私たちはその神の寛容な恵みの内に少しずつ本当の神の愛を知らされていきます。神の愛を知らされていくとき、少しずつ私たちは自分のほんとうの愚かさ、小ささ、貧しさを知らされます。自分が本当は自分だけではどうしようもない哀れなみじめな存在だと知らされます。そして、そのような憐れまれるべき自分を、憐れんでくださる神を求めるように変えられます。まことに神を求める幸いな者とされていきます。神の愛と豊かさを知るということは、自分の貧しさを知るということです。神の光に照らされる時、私たちはまことの自分の貧しさを知らされます。まことに自分の貧しさを神によって知らされる時、私たちは神の前に真実にへりくだり、謙虚な者とされ、神と共に幸いに生きていきます。

 私たちはまことの幸いに至る道へと招かれています。それは神の愛を知る道であり、本当の自分を知る道です。その歩みに同伴してくださるのは主イエスです。主イエスと共に歩むとき、私たちはひとすじに幸いへと向かいます。その歩むことそのものが神の国を生きる生き方となります。神の国は、幸いな者のもとにすでに来ているのです。