<裁くとは>
「裁く」という言葉は、クリスチャンの間で、クリスチャン用語のように使われることがあります。大阪東教会の皆さんの間ではあまり使われないかもしれませんが。「あの人は、人を裁くよね」と批判的に使われます。たとえば、Aさんの言動に対して、Bさんが「Aさんの言動は良くない」と言ったとします。そうしたら「BさんはAさんのことを裁いている、けしからん」というような感じで使われたりします。今日の聖書箇所で「人を裁くな」と主イエスはおっしゃっています。ですから、たしかに私たちは人を裁いてはいけないのです。ただ私たちは、裁くということの意味をしっかりとわきまえないといけません。Aさんの言動を批判したBさんは、Aさんのことをほんとうに「裁いた」と言えるのでしょうか?
そもそも「裁く」とか「裁き」とは何でしょうか?聖書において「裁き」は、人間とこの世界の罪に対して、神が最終的な判断をなさる、審判をなさるということです。それは私たちが、毎週告白をしています使徒信条によれば「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」というところになります。今は天におられ父なる神の右に座しておられる主イエスが、ふたたびこの世界に裁きの全権を担って来られ、裁きをくだされるのです。裁きというのは、その後の処遇が決まるということです。聖書で言えば永遠の命に至るのか、滅びに至るのかということです。
たとえば、この世界でも、ごく大雑把な言い方をしたら、犯罪を犯した人は裁判において正式に有罪とされてはじめて罪が確定します。有罪となってはじめて懲役何年とか執行猶予とかその後の処遇が決まります。
神の裁きはさきほども申し上げましたように、主イエスがふたたび来られる終わりの日になされます。その神の裁きに先立って私たちが誰かに対して裁くことは許されませんし、そもそも裁くなんてことはできません。裁くということは最終的な判決を下すということです。この世界の刑事事件であれば、資格をもった裁判官、そしてまた適切な手続きを経た裁判員が裁きます。しかし、あきらかに現行犯で犯罪を犯したことがあきらかな人であったとしても、裁判の前に人間が勝手にその人に対して判断を下すことはできません。
たとえば教会においては「戒規」というものがあります。教会の秩序をはなはだしく乱す者、異端的な考えをする者などにたいして、段階に応じて「訓戒」「陪餐停止」「除名」といったことを行います。「戒規」は懲罰ではなく、あくまでも悔い改めへと導くための訓練としてなされることです。たとえば、その「戒規」で「除名」とされた場合、その人は神の前で退けられるのでしょうか。神から裁かれ神の恵みから切り離されるのでしょうか。そういうことはありません。戒規において除名処分を受けたとしても、それは神の最終的な裁きとは異なります。あくまでもその人が悔い改めへと導かれる手段として戒規はあります。そもそも教会と言えど、誰かを裁くことは出来ません。
<愛ある諭しと裁きは異なる>
そういう意味で冒頭に語った「Aさんのここが悪い」といったBさんはAさんを裁いているわけではないと言えます。もし誰かが愛をもって「あなたのここはこういう風にした方がいい」と助言するとしたら、それは裁きではありません。罪を犯している人にそれは罪です、その罪から離れなさいと諭すことも愛の行いです。さきほどの教会の戒規も愛の行いの一つです。相手の悪いところを指摘したらなんでもかんでも「裁いている」というのは間違っています。
しかしまた一方で、愛をもって相手を諭すというのはとても難しいことです。私たちはそもそも自分の勝手な正義に基づいて、相手を判断するからです。あの人のああいうところは良くないなと思うだけでなく、だからあの人はダメなんだと決めつけたり、ああいうことをするあの人は罪人だと考えてしまう、それは、自分が神のように相手を裁いていることになります。
そもそも私たちはだれ一人として完璧なものではありません。相手の悪いところを見て、それですべてを判断できる者でもありません。主イエスはおっしゃいます。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。」私たちは人の一部分だけを見て、すべて分かった気になって、そしてその人を裁くことがあるのです。それは傲慢な心から出ていることなのです。すべてを分かったような気持で相手を裁くことはむしろ自分が傲慢の罪を犯す罪人になってしまうのです。
<愛と裁き>
ずっとここまで裁くとか罪とか重いことばかり語ってきて、聞いておられる方も語る私も、少々しんどい気分になります。しかしここで主イエスがおっしゃっていることは、先週、読みました「敵を愛しなさい」と続く話なのです。つまり「愛」ということが語られているのです。
主イエスはおっしゃいます。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
自分に悪いことをする敵を愛するように、あきらかに間違っていると思う相手をも愛しなさいと主イエスはおっしゃっているのです。もちろん、先ほども言いましたように愛をもって助言したり諭すということも大事です。しかし、それはなにか相手の欠点をあれこれ取り上げて、くどくど追求する様な形での批判であってはならないのです。
よく話をすることで、お聞きになったことのある方も多いと思いますが、私が信徒のころ、お世話になっていた先輩の女性は、口の悪い、一貫、厳しい人でした。割とずばずば相手を叱る人でした。ある日、礼拝に遅刻してきて、さらに、やたらと露出の激しい服を着て来た女性に対して、「何という格好で教会に来るのか」と厳しく叱っておられました。その女性はもともといろいろと困った行動をとって少し周囲から浮いていた方でした。また言われたら言い返す激しい感じの人だったので、なかな直接その人に注意をするはいなかったのです。でもその女性に対しても先輩ははっきり注意をされていました。あるとき、教会全体の修養会があったとき、その女性が修養会の場所から姿を消していました。何十人と出席者がいたので、女性がいなくなっていることに、私もほかの人も気づいていなかったのです。でも先輩の女性は彼女がいないことに気づいて、ひとりで教会の中のあちこち探されました。そして体調を崩して別の部屋で座り込んでいた女性を見つけて介抱されました。私は今でもよくそのことを思い出します。その先輩は、一見、口が悪く厳しい人でしたが、ほんとうに愛の人だったなと思うのです。皆のことをよく見て、心に留めておられました。どちらかというとみんなから距離を置かれていた女性のことも本当に心配して気にかけておられました。先輩は時にきびしく批判はされましたが、裁いてはおられませんでした。いつも相手のことを気にかけて、大事にされていたのです。私自身もその先輩には叱られもしましたが、とても心配もしてくださっていたと思います。
でも私たちはともすれば、愛のない批判に終始してしまうのです。ファリサイ派の人々が、主イエスが安息日に病気を癒すかどうか、律法を破るかどうか、じっと見つめていたように、私たちは人のあらを探しがちになるのです。そのように人を裁くあり方ではなく、安息日に病人を癒された主イエスのように愛を与えるのです。「与えなさい、そうすればあなたがたにも与えられる」とおっしゃいます。愛を失って人の批判ばかりする心は、神の恵みを感じることができないのです。自分の正しさに固執するとき、私たちは神の正しさから離れ、自分中心となり、そして神の愛からも離れます。
<見えるようになるために>
そして今日の聖書箇所の後半では、3つの話が語られています。盲人が盲人を案内すること、弟子は師にまさるものではないこと、そして人の目のおがくずは見えても自分の目の中の丸太は見えないということ。これらは、すべて「しっかりと見えるようになりなさい」という言葉です。私たちは自分がはっきりと物を見て理解しているように見えて、そうではないことが分かっていないのです。私たちはしっかり見えてもいないのに、いや見えていないからこそ、やたらと人のあらが目につくのです。先生にはかなわないのに、弟子が自分の方がえらいように思ったりするように、自分も分かってもいないのに人を導こうとするのです。目の中に丸太があるというのは、かなり大げさな表現だと思います。でも現実的に自分は実際は何も見えていないのに人の目の中の小さなおが屑をとろうとするのです。それを主イエスは偽善者だと厳しく語っておられます。
でも、「だれも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」とも主イエスはおっしゃっています。ものが見えていなかった私たちも見えるようになるのだと主イエスはおっしゃっています。
一般的に弟子が先生を越えるには修行が必要ですが、私たちが本当にものが見えるようになるには修行ではなく、主イエスに従うことが必要です。敵を愛し、罪人を赦してくださった主イエスと共に歩むことが必要です。そのとき少しずつ私たちの目は開けていきます。いままで見えていなかったものが見えてきます。何より自分の罪が見えてきます。アダムとエバが知恵の実を食べて、賢くなろうと思っていたのに、賢くなった彼らが見たの、みじめな自分の裸の姿でした。私たちも最初に見えるのは罪人である自分の姿でしょう。しかしまた、同時に、そんな自分を愛して赦してくださった主イエスの姿も見えてくるのです。
さきほど話をした先輩の女性のことを、実は、私は最初は好きではありませんでした。怖い感じですし、なんだか近寄りたくない人だと思っていました。でもある時、私の未信徒の友人が教会に来られました。教会に来てとても喜んでおられたのです。その後、その友人に深刻なトラブルがあって、教会に来られなくなりました。私はとてもショックをうけて、なぜか私はその先輩に一緒に祈ってほしいと頼みました。そしたら先輩はすぐに一緒に祈ってくださいました。その先輩は自分の直接の友人でもない私の友人のために祈りつつ、涙を流しておられました。私も泣きながら祈りました。その時からその先輩と親しくなりました。それまでわたしの目には、その先輩の本当の姿が見えていなかったのです。クリスチャンのくせに口やかましい、相手にマウント取る人だと思っていたのです。でもそうではない、この人は本当に人のために祈ってくださる愛の人だと思ったのです。
人間と人間の間でも私たちは多くのことが見えていません。親が子供のことを見えているとは限りませんし、気心の知れた長年の友人のことだって実は分かっていないことも多くあります。そのように私たちの目を曇らせるのは、神のことを分かっていない、キリストを見ていないことに原因があります。
主イエスは罪人であった私たちを裁くことなく、ご自身が代わりに十字架におかかりになり、裁きをお受けになりました。罪なきキリストが、罪人のために裁きを受けられたのです。それが十字架の出来事でした。私たちが受けるべき裁きをキリストが受けてくださった、そのキリストの十字架を思う時、私たちは人を裁くことはできない者であることを知らされます。もちろん主イエスはふたたびこの世界に来られる時、たしかに裁き主として来られます。しかし主イエスの十字架と復活を信じる者は裁きを免れます。その大いなる恵みを感謝するとき、私たちの目は開かれていきます。自分の罪の重さと神の恵みの豊かさが見えてきます。その時、私たちは人を裁くことなどできなくなります。そしてキリストのように、十字架を担い歩む者とされます。それぞれに十字架を担い歩むとき、神の愛は私たちの目の中の丸太を砕いてくださいます。そしてその時、私たちの目に見えるのは、神の大いなる愛の光なのです。
2024年7月28日大阪東教会主日礼拝説教「幸いとは何か」吉浦玲子
<山の上と平地>
主イエスは12人の弟子をお選びになったのち、祈っておられた山を下り、平らなところにお立ちになりました。山の上と、平地が対比されて語られています。山の上は父なる神との交わりの場所、それに対して、平地は人々が普通に生きている場所です。主イエスはその平地において、おびただしい数の人々に語り、癒されました。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあります。ユダヤ全土から、さらには地中海沿岸のティルスやシドンから人々はやってきて、主イエスを求め、そのお体に触れようとしました。その様子は、押し合い圧し合いのパニック寸前のものであったでしょう。人々は自分の抱えているさまざまな問題を解決していただくことに必死でした。切実な思いで主イエスを求めたのです。
そのような人々の願いにこたえて主イエスはお働きになりました。それが平地での、つまりこの世界での主イエスの働きでした。そのお働きの中で、だいじな教えも語られました。それが20節からはじまる「幸いと不幸」と新共同訳聖書で表題がつけられている場面となります。
マタイによる福音書には同じように幸いについて主イエスがお語りになった場面が描かれていますが、そちらでは山の上で語られたことになっています。「山上の説教」として有名な場面です。それに対して、ルカによる福音書では、あえて山の下、平野での説教として描かれています。実際に主イエスは山の上でお話をされたのか、平野だったのか、それは分かりませんが、ルカの意図としては、この世のただなかで、同じ地上にたって、人間と同じ視線にたってお話をされたということを伝えたかったのでしょう。
主イエスはおっしゃいます。「貧しい人々は幸いである。/神の国はあなたがたのものである。」この言葉はマタイによる福音書では「心の貧しい人々は、幸いである。/天の国はその人たちのものである」となっていました。ルカのように「貧しい人々は幸いである」と言われると貧乏なのが幸いなのかと驚きます。それに対してマタイによる福音書では「心が貧しい人々」と言われています。もちろん、心の貧しい人々は幸いと言われてもやはり驚きます。宗教というのは、本来、「心の豊かさ」を求めるものだと多くの人は思っているからです。しかし、主イエスのおっしゃる豊かさ、貧しさというのは経済的なこと、あるいは人間の心のあり方を越えたものなのです。そういう意味ではマタイによる福音書もルカによる福音書も同じことを言っているのです。
<日本一幸せなおばあちゃん>
ところで、少し前に、「親に捨てられた私が日本で一番幸せなおばあちゃんになった話」という漫画を読みました。コロナで寝込んでいる頃、本を読む気力がわかなくて、気分転換するためにネットでダウンロードして読みました。この漫画は92歳になるおばあさんにお孫さんが聞き取りをした実話をもとにして描かれたものでした。そこに描かれていたのは昭和一桁生まれのおばあちゃんの苦労を重ねた生涯でした。ちょうど私の母とそのモデルとなったおばあちゃんは同年代ということもあり興味深く読みました。若い方はご存じないかもしれませんが、昭和の時代に「おしん」というドラマが大ヒットをしました。まさにあのドラマの主人公のおしんのようにおばあちゃんも子供のころから理不尽な目にあいながら、一生懸命生きて来られました。戦前戦中の貧しい家庭においてはおそらくこのおばあちゃんのように、苦労してこられた方は多かったのだろうと思います。おばあちゃんは父親が亡くなった後、親戚に養子に出されました。義理の母となった親戚のおばさんから、今でいうと虐待と言っていいような扱いを受けます。まだ小学生だったおばあちゃんは家族の誰よりもはやく起きて朝早くから畑仕事や家の家事をさせられました。しかし、十分に食べ物を与えられることもなく、学校に行くのも妨害されるような日々でした。冬に炬燵に入れる炭の準備はさせられましたが、おばあちゃん自身が炬燵に入ることは許されず、ひもじさと寒さの中を耐えて過ごしました。義理の母の虐待にはちょっとこの場で口で語ることもはばかられるような壮絶なえげつないこともありました。そして大人になり結婚してからも、家庭を顧みない身勝手な夫に苦労させられました。
おばあちゃんは子供のころ、あまりに苦しい生活の中で一度だけ、自分を虐待する義理の母を殺して自分も死のうと思ったことがあったそうです。浴衣の腰ひもで寝ている義母の首を絞めようとしたのですが、その腰ひもが義理のお姉さんが作ってくれたものであることに気づいたのです。義理のお姉さんもおばあちゃんが虐待されていることは知りながら、いろんな事情があって、表立っておばあちゃんを助けることは出来なったそうなのです。それでも陰ながら助けてくれていたのです。おばあちゃんは服を作ることも許されていなかったけれどそのお姉さんが義理の母の目を盗んで服を作ってくれていたのです。その腰ひももお姉さんが義理のお母さんの目を盗んで作ってくれたものでした。その腰ひもを見た時、自分は一人ではないと気づいて義理の母を手にかけることはやめたそうなのです。そのようなたいへんな日々を過ごして晩年、夫も天に送ったあとはようやく子供や孫に囲まれて平穏な日々を送っているという話でした。
読み終えてなんともいえず複雑な気持ちになりました。とてつもない困難な中、このおばあちゃんの人並外れた忍耐力と、苦労の日々においても助けてくださった方々への感謝の思いをもって生きてこられたことに感嘆しました。しかし同時にどこか釈然としない思いもありました。どんな逆境のなかでも、忍耐と心掛けによって道をあやまたず生きていくことができる、というのは、本当のことでしょう。そう考えますと、人生の幸せとか不幸と言うのも、自分の心掛け次第ということにもなります。どんなに恵まれた環境にいても不満ばかりで不幸になる人もあれば、不幸な環境の中でも感謝して幸せを感じて生きていく人もいるでしょう。
でも、人生の幸せとか不幸と言うのは、ほんとうに人間の心掛けによるものなのかと疑問にも思いました。このおばあちゃんは立派だし尊敬に値すると思います。でも幸せというのはそういうことだろうかと思います。
<神と共に生きる幸い>
では主イエスがおっしゃる幸いとは何でしょうか?冒頭で、それは経済的なことや、あるいは人間の心をあり方を越えたものだと申し上げました。ここで注目していただきたいのは20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」という言葉です。主イエスは平地において多くに人々を癒し汚れた霊を追い出されました。しかし、幸いと不幸について語っておられるのは、自分に従ってきた弟子たちなのです。主イエスの幸いと不幸についての言葉は、主イエスに癒しを求めて来た群衆ではなく、まず弟子たちに語られているのです。つまり神を信じ、神と共にある者の幸いと不幸を主イエスはお語りなったのです。
「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」この言葉と対応するように24節に「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。」とあります。いますでに経済的なことであれ、心の問題であれ、自分は豊かであると思って満足しているあなたがたは、自分自身の力ですでに慰めを得ている、その慰めの中で満足していて、神からの慰めは必要としていない、それは不幸なことだと主イエスはおっしゃるのです。逆に神を信じる者の幸いは、自分自身に起因する豊かさによってではなく神によって慰めを受けることなのだと主イエスは語っておられます。
それでも、実際のところ、貧乏は辛いものです。私自身、さきほどの漫画のおばあちゃんほどではないにしろ、子供時代は母子家庭で貧しい生活をしていました。貧乏というのは人の心を傷つけ苛むものです。逆に財産も地位もあるとき、人間は、やはり心も安定して余裕をもって暮らすことができます。しかしその財産や地位も、永遠のものではありません。ある時、失われてしまう可能性もあります。また自分の心も、たしかなものではありません。自分の心だってころころ変わっていく頼りないものです。どんなに固い信念を持っていても、それが砕かれる時もあります。そのような不確定なものに頼って、安心したり、慰められるのではなく、神によって平安と慰めを受ける者こそが幸いなのだと主イエスは語っておられます。
<神に求める>
ところで、神によって平安と慰めを受ける、ということに関して、人間の側で考えなければならないことがあります。私たちがしんどい時、悩んでいる時、神が慰めてくださったら、また、力を与えてくださったら、私たちはたしかに幸いです。しかし、自分の都合の良い時だけ神から平安や慰めを受けたいと願う姿勢は必ずしも幸いではありません。
貧しい人は幸いというとき、自分の貧しさゆえに、自分の弱さゆえに神に求めるから幸いなのです。神に求めるということは、神にへりくだり、自分を神から憐れんでいただくということです。自分は自分の力で大体のことはできるけど、ちょっとしんどいとき力を貸してほしい、疲れたとき慰めてほしい、ということではないのです。ほんとうに自分の貧しさ、足らなさを嘆き、神に憐れんでくださいと求めるのです。
私たちはどこまでいっても傲慢な存在で、自分が憐れまれるべき存在だとはなかなか思えません。だいたいのところは、自分自身の豊かさや力に満足していて、ちょっと足りないところを神に求めるのです。もちろんそんな愚かな私たちをも神はたしかに慰め、力を与えてくださいます。私たちが傲慢であっても、神は私たちに愛と恵みを注いでくださいます。
私たちはその神の寛容な恵みの内に少しずつ本当の神の愛を知らされていきます。神の愛を知らされていくとき、少しずつ私たちは自分のほんとうの愚かさ、小ささ、貧しさを知らされます。自分が本当は自分だけではどうしようもない哀れなみじめな存在だと知らされます。そして、そのような憐れまれるべき自分を、憐れんでくださる神を求めるように変えられます。まことに神を求める幸いな者とされていきます。神の愛と豊かさを知るということは、自分の貧しさを知るということです。神の光に照らされる時、私たちはまことの自分の貧しさを知らされます。まことに自分の貧しさを神によって知らされる時、私たちは神の前に真実にへりくだり、謙虚な者とされ、神と共に幸いに生きていきます。
私たちはまことの幸いに至る道へと招かれています。それは神の愛を知る道であり、本当の自分を知る道です。その歩みに同伴してくださるのは主イエスです。主イエスと共に歩むとき、私たちはひとすじに幸いへと向かいます。その歩むことそのものが神の国を生きる生き方となります。神の国は、幸いな者のもとにすでに来ているのです。