大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 8章1~17節

2017-08-28 11:08:52 | ローマの信徒への手紙

2017年8月27日 主日礼拝説教 「神の相続人」吉浦玲子

<霊に従う生き方>
 私たちは生きていくうえでさまざまな義務を負います。家族や社会やその他もろもろのものに対して、義務を負い、責任を果たして生きていきます。幼い子供であれば、通常は親や家族が身の回りのことを世話してくれて、生きていくための必要を満たしてくれます。養ってもらえます。だから子供は楽かというとそうでもないようです。全くの赤ん坊でもないかぎり、幼い子供は幼い子供なりに、家族の中で、ある種の自分が果たすべき役割というかそういったものを無意識のうちに感じ取って、その役割をはたして生きています。子供は大人に養ってもらわなければ生きていけないわけですから、大人が養ってくれるように周りの大人たちから自分が望まれている役割を無意識に果たしつつ生きていきます。つまり子供は子供なりに意識はしていなくても、ある種の義務を果たしていくといえます。大人も子供も人間である以上、何らかの義務は負うのです。
 ローマの信徒への手紙8章12節でパウロは「兄弟たち、わたしたちには一つの義務があります」と語りかけます。さっき申しましたように、わたしたちには生きていくとき、さまざまな義務を負います。責任を負います。しかし、キリストに結ばれて生きていくとき、その義務は肉に対する義務ではないのだとパウロは語ります。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」とパウロは言っています。罪に支配された肉の必要に従って生きていくとき、わたしたちは命を得ることはないのです。死ぬのです。
すぐる週の礼拝で、心では善を行いたいと願っていながら、わたしたちは悪の性質を持つ体をどうすることもできない、という言葉を読みました。善をなそうとする意思はあっても体がいうことをきかない、心と体が分裂しているような存在であることを読みました。しかしもう、わたしたちはキリストによって救われている、だから心と肉が分裂したような苦しみの中に、もういないことを共にお読みしました。
 そして今日読まれました8章1節からは「従って、今や」とパウロは続けています。「今や」わたしたちは救われて、心ではしたくない悪を体がなすことから免れているというのです。<キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません>とパウロは語ります。かつては、心では善をなしたいのに、体が言うことを聞かない、つまり「罪と死の法則」に縛られていたわたしたちは、せっせと肉に対する義務を果たしていたといえます。それにたいして「今や」わたしたちは霊に従って歩む者とされました。「霊の法則」によって歩んでいるとパウロは語っています。5節に霊に従って歩む者は、霊に属することを考えるとあります。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」とパウロは語っています。洗礼によってキリストと結び付けられた者は、すでに霊に従って生きている、おのずとその生き方は命と平和へ向かう歩みとなるのだというのです。
 人間は、まだキリストを知らなかったときは、罪に支配された体に対しての義務を果たしていました。そして死に向かっていました。もちろんまじめに生きてきたのです。子供だって義務や役割を果たしていると申し上げましたが、もちろん、大人であればもっともっと大きな義務を果たして生きています。時に、あまりの重荷でおしつぶされそうになりながら、一生懸命生きてきました。
 しかし今や、私たちを支配している法則が変わりました。私たちは肉への義務を果たすのではなく、霊に従って歩む日々に生きています。
 でも、じゃあ洗礼を受けたら、霊に従う生き方をしていたら、現実的な生活が変わるのでしょうか?子供の養育費がかからなくなるのか、住宅ローンが無くなるのか、残業が減るけど収入が増えるのか、年金額が増えるのか、いやな人間関係がなくなるのか、介護の負担が減るのか、突然宝くじに当たるように大金が入ってくるのか。そういうことは通常はありません。もちろん、奇跡はあります。しかしそれは人間の願うことが単純に叶う、いわゆるご利益のようなものとしてはないのです。
 パウロが言う「従って今や」という生き方、霊の法則によって歩む歩みというのは、すべてを神の働きとして見ながら生きていくということです。わたしたちの日々に働かれる神の働きを、キリストによって結ばれたときに与えらえた霊によって教えていただきながら歩むということです。かつてと同じように大変な毎日だけど、毎日のすべてのことが神の導きの中にある、それが見えてくるようになる歩みだということです。そのとき、私たちはこれまでおってきた義務、責任を神にゆだねて生きていくことができるようになります。

 主イエスがおっしゃった「疲れた者、重荷を負った者はわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう。」という言葉がまさに真実であることを知らされるのが「霊の法則」に従って歩む日々です。これは単にちょっと精神的に楽してあげる、リラクゼーションさせてあげるとかそういうことではありません。わたしたちは確かに現実の日々に義務を負っている、責任を負っている、主イエスの言葉で言えばくびきを負っている、これまではそれらを自分一人が歯を食いしばって担っていると考えていました。でもそうではない、神が共に担ってくださっている、それが分かったとき、私たちは解放されます。最近、よくワンオペということを聞きますね。終夜営業の店舗などで、働いている人がひとりしかいないくてその人はトイレに行くこともできない。労働のたいへんさもさりながら、一人ですべてを担わねばならないとき、人間は追い詰められます。ワンオペ育児などということも最近は良く言われます。私自身、システム開発をしていたとき、仕事がたいへんでもチームで仕事をしているときはまだよかったのです。ただ、場合によって、小さな開発などを自分一人でやらないといけないことがありました。そういうときは仕事そのものの難易度以上に追いつめられる感じがありました。つまり、わたしたちの義務を重いものにしていたのは、すべてを自分でやらなければならないという感覚によるところが多くあると考えられます。しかし、人生ということで考える時、そもそも、わたしたちにすべてはできないのです。どんなに偉大な人間であっても、すべてをやり遂げることはできません。歴史上の偉大な人物もその人生の最後においては「道半ば」であるのです。
 しかし、そもそも人間は、自分で自分の体をどうしようもなかった、「罪の法則」の中に生きていたのです。やりたいことをできず、やりたくないことをやらざるをえない状態でした。「罪の法則」に生きていた時、私たちの責任は重く、かつままならない状態でした。しかし、キリストと結ばれて生きていくとき、わたしたちは罪の性質を持った体に支配されていません。11節に「霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」とあります。それまでは心の願うことをやることのできなかった肉の体をも主イエスを私たちに遣わし復活させてくださった神は生かしてくださるのです。生かしてくださるために神は働いておられます。私たちももちろん働きます。しかし私たちが寝ている時も、落ち込んで何も手につかない時も、もうおしまいだとうずくまっている時も、なお神は働いてくださいます。霊に従って歩む時、そのことが分ってきます。すべてを自分で責任を取らねばならない、そうではないんだと安心ができます。ワンオペの人生ではないのです。ある方は、最後に責任を取ってくださるのは神なのだとおっしゃいました。私たちの日々に、そして人生に、最終的に責任を負ってくださるのは神なのです。そのことが、霊に従って歩む時、わたしたちは少しずつ分かっていきます。そのとき私たちの日々は画期的に変わってきます。神が変えてくださるのです。

<神の相続人>
 さらにパウロは素晴らしいことを語ります。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」キリストに救われ、キリストと共に歩み、神の霊をいただいているものは皆「神の子」なのです。教会学校の子供たちが「みんな、神様の子供だよね」というのはなんとなくほほえましく、わかりますが、大の大人が「子供」と言われると少し違和感があるかもしれません。しかし、それでもわたしたちはもれなく「神の子供」なのです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」とあります。
 しかし、実際のところ私たちは「わたしは神の子です」と胸をはって言えるでしょうか。神の子とする霊を受けたと言われても、霊に従って生きていると言われても、依然として、罪も犯せば、失敗もする人間です。こんなことで「神の子」と言えるのか?どうしてもそう思ってしまいます。
 しかし、妙な言い方になりますが、わたしたちがどう思うかということではないのです。私たちが自分のことを、あるいは、他の人のことを、「神の子なんかじゃない」「ありえない」と思っても、神の方は、「あなたにすでに霊を与えた」「あなたは神の子なのだ」とみなしておられるということです。
 逆に、わたしたちが、わたしが神の子なんてとんでもない、と思ったとしたら、すでに神が私たちの内に与えておられる霊を侮辱しているということになります。最近、ある牧師先生から、「聖書の黙想の仕方」のメモ書きをいただきました。聖書のみことばを良く味わうための簡単な手順書みたいなものです。別にむずかしいことはないのです。ポイントは聖霊に、私たちが御言葉を理解できるように求めるのです。これは礼拝の時の祈りでも祈りますし、私たちの日々においても良く祈られることではないでしょうか?しかしはっとしたのは、<大事なのは聖霊を意識することだ>という1文でした。
 わたしたちは、自分の中におられる聖霊、神の霊を、あ、ここにおられると明確に意識することはできません。しかしなお、心を鎮め、霊が与えられていることを信じて、意識をするとき、たしかに聖霊、神の霊が私たちを導かれることが感じられるようになります。霊をあえて意識的に意識するというと妙な言い方になりますが。そのとき、まことに働いてくださる神の霊を感じることができます。
 それと同様に、私たちが<神の子>とすでにされている、そのことも心素直に受け入れていくのです。本当に自分はもう<神の子>なのだと意識をするのです。感謝をするのです。それは勝手に思い込むということではありません。そもそも<神の子>なのですから、そのことを心鎮めて感じるのです。
 ここで一つ申し上げますと、ここで言われている<神の子>というのは厳密には養子であるということです。神の実子はキリストおひとりです。それに対して、キリストと結ばれている者は養子なのです。しかし、養子であっても、その法的な権利は実子となんら変わりません。つまり神は、私たちをキリストと同等の者として招いてくださっているということです。これは考えようによってはおそるべきことです。私たちはキリストと同じ神の相続人として神から招かれているのです。
 私たちはアダムとエバの子孫であり、生まれながらにして罪に支配されて生きて来ました。そして神を知らず神に反抗して生きてきました。その、いってみれば神にはむかって生きてきた私たちを神は御子と等しいものとして招いてくださる、そして実子と同等の相続権も与えてくださる、というのです。ここからわかる神の愛というのは、人間の感覚では理解ができないほど大きなものです。
 <あなたは価高く貴い>とイザヤ書に語られる言葉があります。罪によって壊れ、神に反抗していた人間に対して、なお、「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛する」とおっしゃる神の愛はとてつもないものです。それは単なる甘やかしではないのです。ただのだらしない人間の親とは違うのです。裁きを背景にした愛です。御自身の御子の血を流す愛でした。愛のゆえ、御子にして神なるキリストを十字架にかけられました。そして今や、わたしたちにはキリストと同等の相続権、そして将来の栄光まで与えられました。その神の愛と恵みを感謝しながら神の子ども、神の相続人として、この一週間も歩みたいと思います。


ローマの信徒への手紙 7章7~25節

2017-08-21 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年8月20日主日礼拝説教 「わたしの内に住む罪」吉浦玲子

<罪に売り渡された人間>

 「ジギル博士とハイド氏」という小説があります。ご存知の方も多いかと思います。子供の頃読んだ記憶があるのですが、内容を細かくは記憶していなかったので、ネットなどで調べて思い出してみました。この小説は普段は善良なジギル博士が薬物によってハイド氏という悪の権化のような人物に変化するという内容でした。善良なジギル博士と極悪なハイド氏は、実際は同一人物なのですが、見た目も全く違うように変身が出来たのです。ジギル博士はハイド氏に変身して、人目を気にせず、道徳から解放されて好き勝手な行動をして楽しんでいたのです。最初は薬物を使ってジギル博士はハイド氏に変身していたのが、だんだんと薬物を使わなくても、ハイド氏に変身するようになってきました。ジギル博士が望んでいない時でも勝手にジギル博士はハイド氏になってしまうようになったのです。つまりジギル博士はハイド氏をコントロールできなくなって行くのです。ある意味、ハイド氏にジギル博士がだんだんと乗っ取られていくのです。

 荒唐無稽な作り話といえばそれまでですが、この小説が書かれた時代、モデルとなるような事件が実際にあったそうです。その一人が、昼間は善良な実業家で、夜間には強盗を18年間も続けていたという人物です。またほかにもいて、昼間は医者で、夜は墓場荒らしをしていたという人物もいたそうです。人間の善悪二面性ということが、当時、この小説が書かれたイギリスでは話題となっていたようです。

 しかし、問題の本質は善悪の二面性ということではないと思います。人間には善と悪の二面があるのではなく、むしろ悪の心をどうしようもないのが人間の本質なのです。ジギル博士とハイド氏の物語にしても、そもそも表向きは善良な生活をしているジギル博士自身の本質的な罪に、すべてのことは起因しているといえます。見た目も異なるハイド氏に変身して、周囲の人々の目から隠れて悪を行うということ、それを望んでいたのは他ならぬジギル博士自身でした。ジギル博士とハイド氏が二人いるのではなく、ジギル博士の本当の姿がハイド氏であったともいえます。根本にあるのは悪の問題、罪の問題であって、それを偽善によって覆い隠していたのがジギル博士であったと言えます。それにしても普段はジギル博士として慈善活動をして周囲の信頼や尊敬を得ながら、ひそかにハイド氏に変身をして悪いことをする、実際、この小説のモデルとなるような事件もあったとしても、これは極端な話というわけではなく、人間の罪のあり方を良く示していることだと思います。法律を犯すような罪であれ、法律は犯さないけれど人に心の痛みや不快感を与えるような罪であれ、バレなければ良い、人から非難されなければ良い、後ろ指さされなければ良い、こっそりやったら良い、あるいはみんなでやれば怖くない、というのは、神を畏れない人間のあり方です。そしてそれが人間の罪の性質そのものです。

 そのようなもともと罪の性質を持った人間は、小説の中で、ジギル博士が、ハイド氏になることを最初は自分がコントロールできると考えていたように、自分の罪を自分でコントロールできると考えていました。しかしそうではない。むしろ、ジギル博士が最後にはハイド氏にのっとられてしまったように、罪に人間の側が乗っ取られてしまうのです。それはノンフィクションのお話や極端な人物だけのことではなく、キリストの救いを知らないすべての人間の姿でした。

 パウロもそのような憐れな人間の罪の本質を良く良く知っていました。

 「14節 わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

 ジギル博士がハイド氏をコントロールできなかったように、私たちは罪をコントロールできません。それをパウロは<罪に売り渡されている>と表現しました。ハイド氏からジギル博士に戻った時、ハイド氏の行った殺人を含むえげつない悪行にジギル博士は愕然とします。ジギル博士はひそかに自分の欲望を満たしたいとは願っていましたが、自分が望む以上の悪が現れてきて、戦慄します。私たちの罪もそうです。たいしたことではない。そう思ってやったことがやがて自分に絡みついてきて逃れられなくなります。全く自分には罪の意識がなくやったことで人が傷つくこともあります。ほんの軽い気持ちで言ったことで人が死に選ぶほどのことも起こります。いじめや、モラハラや、人間関係における裏切り、そういったものは、場合によっては人を殺す力を持ちます。直接手を下さなくても、人の心を殺し、心を殺された人が死を選ぶ、そういうことが実際にこの世界では起こっています。そしてまたその力は罪を犯す人間自身をも、死へと導きます。パウロが「罪の報酬は死です」と言っているまさにその通りなのです。

<連戦連敗の心>

 「20節 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」

 望まないこと、つまり罪を、悪を犯しているのは、わたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです、この言葉は取りようによっては無責任に聞こえる言葉です。わたしが悪いことをしているのはわたしではなく、わたしの中の罪なのだ、とまるで罪が寄生虫かなにかのようにわたしたちの中にあって、それが勝手にやっているのだというのです。

 こういうことは通常の常識的な社会で通用するはずはありません。法的な罪を犯した人が、「自分がやったんじゃない、自分の中に住んでいる罪がやったんだ」と言っても通りません。しかし、それほどに罪は私たちの手に負えないということなのです。<五体の内にある罪の法則のとりこにしている>そうパウロは言っています。パウロはキリストに救われる前の状態を、今日の聖書箇所で、<肉の人>、あるいは<五体>と言っています。<肉の人>、あるいは<五体>は罪の法則に生きているというのです。それに対して、善を為そうとする意志をもったものを「内なる人」あるいは「心」といっています。しかしその善を為そうとする意志はありながら「内なる人」「心」はけっして「肉」「五体」に打ち勝つことはできないのだとパウロは語ります。善を為そうとする「心」は、罪のつきまとう「肉」に連戦連敗するのだと語ります。いや、連戦連敗どころではない、罪に支配されてしまうのだと語っています。戦争に負けた方が捕虜になるように、「内なる人」は罪に支配されるのです。ジギル博士がハイド氏に乗っ取られてしまったように、私たちは自分の内に住んでいる罪をどうしようもできないのです。

 しかし、18節に戻って読んでみますと、少し不思議な言葉が書いてあります。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」善をなそうという意思はありますが、とパウロは語っています。何となく読み飛ばしそうなことです。実際、わたしもさらっと読んでいたところですが、ある神学者がこの言葉にたいへん驚いたと書いているのを読み、改めて読みますと、たしかに不思議な言葉です。アダムとエバ以来、罪の性質をもち、その罪の力をどうすることもできない人間がなお「善をなそうとする意志」を持っているとパウロは言うのです。ジギル博士とハイド氏の物語は人間の単純な意味での善悪二面性を現しているのではないと申しました。むしろ悪に支配された人間のみじめさを描いたものだと申しました。しかし、一方でパウロは確かに人間は善を望むのだと言っています。19節に「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とあります。「心」は善を望みながら、「五体」は悪を行うというのです。

 創世記を読みますと、その1章27節に「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。神はご自分にかたどって人間を造られた、つまり、神はご自分の似姿に人間を造られたということもあります。神に似た姿を人間は持っているのです。人間は神の似姿なのだということです。逆ではありません。神が人間に似ているのではありません。人間が神の似姿なのです。似姿に造っていただいたのです。似姿と言っても、手が二本で口がひとつとかいうことではなく、人間には神性、神の性質が本来、備わっているということです。つまり、人間は神の心が、本来は、分る存在なのだということです。神は善なる方ですから、当然、善を望まれます。その似姿である人間もまた、善を望むのです。

 しかし、罪の性質が人間に入り込んできました。体は罪に支配されました。本来、神の似姿として善を望む人間が善を行えなくなりました。もともと悪を望んでいて悪をなすのであれば、そこに苦しみはなかったでしょう。心と体が分裂するような苦しみを味わうことはなかったでしょう。心で善を望んでいても、体は勝手に悪をなしてしまう。その体を私たちはコントロールできないのです。

<パウロの叫び、徴税人の祈り>

 ところで、パウロの手紙はパウロ自身が筆記したのではなく口述筆記であると言われています。パウロが語る言葉を、別の人が書き留めていったと言われています。基本的にパウロは論理的に語っていて、このローマの信徒への手紙も、順序正しく語られ論理的に構成されています。しかし、語る途中で、パウロは、ときどき、感情があふれてきてしまうところがあったようです。今日の聖書箇所では、24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」というところがそうではないかと言われています。そこまでは、論理的に内在する罪と心の関係を語りながら、ついついパウロは叫ぶように「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と言ってしまった。ひょっとしたらパウロはこの部分は筆記されることを意識していなかったかもしれません。パウロの言葉を聞きながら書き留めていた人もこのパウロの言葉を書き留めるべきかどうか少し悩んだかもしれません。しかし結局、このパウロの感情のあふれた言葉は文章として残されました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」これはパウロ自身の実感のこもった言葉です。「あなたがたはみじめな人間だ」と言っているのではありません。ほかの誰でもない自分自身がみじめだとパウロは語っているのです。別のところでパウロは自分のことを「罪人の頭」だとも語っています。パウロが自分自身の罪の具体的な内容はあきらかではありません。もちろんパウロはかつてはキリスト教徒を迫害していましたから、そのことをもって自分の罪と考えていたところもあるでしょう。しかし、それ以外の具体的なあのことこのことはあげられていません。しかし、具体的な事柄は聖書にはあかされていませんが、パウロは自分のみじめさを告白しているのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」この告白は、パウロの叫びでありながら、同時に、心で善を願いながらそれをなすことのできない人間すべての告白です。

 ところで、ルカによる福音書18章に有名なファリサイ人と徴税人の祈りの話があります。ふたりはそれぞれに祈るために神殿に上りました。そして自分は律法をしっかり守っているという自信のあったファリサイ人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈りました。一方で、当時、イスラエルを支配していたローマの手先として、あこぎなやり方で人々から税を徴収していた徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」と祈りました。主イエスはこの二人の内で義とされて家に帰ったのは徴税人なのだとお語りになりました。

 胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る徴税人の姿は、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫ぶパウロの姿でもあります。神は、自分こそは正しく立派だと思う人間ではなく、自らのみじめさ弱さを知っている人間、善をおこないたくてもできない苦しみの中にある人間に、そのまなざしを注がれます。そして救われます。

 7章の最後の部分でパウロの叫びは続きます。「だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」この神への感謝はほとんど歌うようにパウロの口からついて出てきた言葉です。この7章の後半の部分でパウロが論理的に語りたかったことは「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と最後にまとめてあるように、心と肉の分裂なのです。しかし、そこからあふれるように、キリストの救いへの讃美がまじりこんでいるのです。論理的な構成としては救いに関しては8章で語られるのですが、ここでパウロは自身のみじめさの告白と神への賛美を語らずにはおられなかったのです。論理的な論の組み立てを壊してもパウロが叫んだ言葉の内にまさに聖霊が働いたといえます。

 わたしたちは、善を行いたくても行えない、そのみじめな姿のままで、罪の体のままで、胸を打ちながら神殿に立った徴税人のように神の前に立ちます。

 そのとき、キリストの十字架からの光が豊かに私たちには注がれるのです。善を行えないわたしたちが、善を願っても体が言うことを聞かない私たちが、罪の支配から解放されます。最初の創造の時のようにまことに神の似姿として生き始めるのです。わたしたちは神の前にみじめな姿のままで立ち、ただただ嘆くとき、神の憐みのうちにすでにあります。神は憐れんでくださる方なのです。そしてまさにその時、神は、詩編51編にあるように、私たちの内に清い心を新しく創造してくださるのです。新しく創造された清い心は体に支配をされません。わたしたちは願っている善をなすことができるようになるのです。新しく生きていくのです。

 

 


イザヤ書11章1~10節

2017-08-07 19:00:00 | イザヤ書

2017年8月6日 主日礼拝(平和主日)説教 「平和を実現する人」 吉浦玲子

<この世の「平和」>

 イザヤ書の11章1節に出て来ますエッサイはダビデ王の父親です。クリスマスのころに歌われる讃美歌にもその名前は出て来ます。エッサイの株からひとつの芽が萌えいでて、さらにその根からひとつの若枝が育った、その若枝こそがイエス・キリストなのだとイザヤは語ります。もちろん旧約聖書の時代ですから、「イエス」という名前は直接出て来ません。しかし、この箇所は、旧約聖書の中でもイエス・キリスト預言がされている箇所として、たいへん有名なものの一つです。この預言は、約七百年の時を隔てて、成就します。

 この預言が為された時代は、アッシリアという大国が周辺の国々を牛耳っていました。イスラエルは北王国と南王国に分裂をし、おそらくこの預言の時期には北王国はアッシリアによって滅んでいたと考えられます。南王国はかろうじてアッシリアに従属的な位置に甘んじて、その国家としての体裁を保っていました。イスラエルだけでなく、当時、アッシリアの圧倒的な軍事力によって、周辺国家はおとなしくせざるを得なかった、アッシリアの強大さのゆえに、その地域の均衡が保たれていたともいえます。つまり、言ってみれば、当時の世界は「アッシリアの平和」ともいえる皮肉な状態でありました。アッシリアという強大な国の支配によって、見かけ上、世界に平和が保たれているように見えた時代です。「アッシリアの平和」という言葉はおそらく「ローマの平和」という言葉を応用して語られているのでしょう。主イエスの時代は、のちの歴史家によって「パクス・ロマーナ」つまり「ローマの平和」と言われていました。だいたい主イエスのお生まれになる少し前から2世紀後半までの約200年くらいのことです。「パクス・ロマーナ」とはローマ帝国がもっとも強大で安定していた時代のことでした。ローマに支配されていた地域はローマの強大さゆえにはむかうことができず、一見、当時の世界は安定していたのです。支配されていた地域の人々は決して幸せではなかったでしょう。主イエスの時代のイスラエルもローマの支配から解放されることを望んでいました。そんな「パクス・ロマーナ」「ローマの平和」でしたが、やがて徐々にローマ帝国の力が弱まり出すと今度はあちこちで紛争が起こりだしました。「パクス・ロマーナ」が壊れて行ったのです。大国の強大さのゆえに、一見、国際間の秩序が保たれている、しかし、大国の力が衰えるとバランスが崩れ、あちこちで紛争が起き、一触即発の状態となる、そういうことはいつの時代にもありました。20世紀の米ソ冷戦の時代もそうであったかもしれません。現代においてもそうでしょう。米国やロシア、中国といった諸国がそれぞれにやぶにらみの状態でかろうじて均衡を保っているといえます。もっとも現代は、絶え間なく紛争やテロはあり、多くの人々が犠牲になっている現実はあります。ですから「平和」という状況とは程遠いともいえます。

 さて、イザヤ書の時代、「アッシリアの平和」の中で、もちろん、イスラエルの民族感情としては、アッシリアに従属することは本意ではありませんでした。当時のイスラエルの中には、他国と軍事同盟をむすび、アッシリアへ対抗しようという考えもありました。それはいかにも当然なことであります。国家が国家として、民族が民族として生き延びていくために、政治的政策、外交的方策、さらには軍事的手段を取ろうとすること自体は当然のことです。

<預言者の語る「平和」>

 しかし、イザヤは<アッシリアの平和>と言える時代にあって、また、アッシリアに対抗しようという<反アッシリアの平和>をめざす人々の中にあって、人々が考えるのとはまったく異なる平和を語った人でありました。神の造り出す平和を語りました。まず、今日の聖書箇所の冒頭、「エッサイの株から」とあります。新共同訳ではエッサイの株と訳されていますが、多くの翻訳では「切り株」と訳されています。つまりエッサイの株はいったん切り落とされることをイザヤは語っているのです。つまり若枝が育つその前に、裁きがあることをイザヤは語っています。

 いまはまだ国家として命脈を保っているイスラエルが切り落とされる日が来る、そのことをイザヤは語っています。実際、かつて栄華を誇ったダビデ王そしてソロモン王から続いたこの国は廃墟と化します。しかしなお、イスラエルで最も大いなる王とされたダビデの子孫から平和の王が生まれる、それはダビデの父のエッサイの切り株から生まれるのだと言います。切り落とされた株から小さな芽が萌え出でる、とても美しい比喩です。しかし、芽ですから、ほんとうに小さなものです。芽が出たことを気づかれることもないでしょう。その芽が育ち、根が広がっていく、根ですから、土の中にあり、その姿は人間の目には見えません。その肉眼では確認できない根から、やがて出てくる若枝が主イエスであるとイザヤは語ります。そのイエスこそが平和の王であるのだと語ります。イエスが神の平和を作り出すのだと語ります。

さらに時代をくだって、かろうじて存続していた南王国も滅び、生き残った人々もバビロン捕囚としてバビロニアへ連れて行かれるような時代背景の中で預言をした預言者にエレミヤがいます。エレミヤも周囲の人々と異なる平和を目指した点において同様でした。エレミヤの呼びかける平和は、当時の敵のバビロンに投降して、捕囚となってバビロンに行くことでした。エルサレムは包囲され、人々は闘っていました、国を挙げて皆が命がけで戦っているその状況の中で、戦うな捕虜になれとエレミヤは語りました。当然、人々は聞く耳は持ちません。すぐ目の前に敵がいるその戦争状態の中で、戦争を否定するような人間はその国家にとって、また共同体にとって、言ってみれば敵に等しいわけです。当然、エレミヤの言葉に人は耳を貸しませんでしたが、結果的には、エレミヤの預言通りになったのです。しかし、エレミヤ自身、単に、捕囚になって命を長らえることで神の平和が終わるとは考えていませんでした。イザヤと同じく、やがてくる神の平和をエレミヤもまた語ったのです。ふたたび新しく神のもとに皆が集い神を賛美するときがくる、その神の究極の平和をエレミヤは語りました。その究極のビジョンがあったからこそ、ひととき、バビロン捕囚という試練をも甘んじて受けることができるとエレミヤは考えていたのです。バビロン捕囚はまさに今日の聖書箇所で語られているエッサイの株が切り取られた時代のことでした。

<真の平和の王>

 その切り株の根から出た主イエスはまことの平和の王となられます。「そのうえに主の霊がとどまる」とあります。主イエスはまさに神の霊を受けて王となられます。まことの知恵を持ったお方となります。その知恵の根源はなにより「神を畏れる」ことにあります。神を畏れ、正しい裁きを行う王であります。5節までの平和の王、弱い人貧しい人を助ける主イエスの姿には私たちは心慰められます。

 しかし、6節から語られる、その王の造り出す平和は、私たちの目からは、いかにもおとぎ話のようなものに見えます。<狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す>このようなことは現実にはありえないことです。<子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く>子牛といっても大きいものですから、小さい子供にはとうてい導けません。ましてや若獅子などと子供を一緒になどできません。ありえないユートピアのような世界です。

 そもそも、6節からの世界は、創世記で語られた天地創造の時代と同様なものとして世界が造り直されることを現しています。そもそも神は天地創造において、この世界を良いものとして造られました。創世記の第1章に創造されたその世界は「見よ、それは極めて良かった」と記されています。その極めて良かった世界が壊れたのは罪が世界に入って来たからです。きわめて良かった世界は罪のために壊れてしまったのです。しかし、ふたたび、きわめて良い世界として、この世界が造り直される、その再び造り直された世界をイザヤは今日の聖書箇所で語っています。そもそも、狼と小羊が共に宿ることのできなくなったのは、ノアの時代の大洪水のあとからでした。天地創造の最初の時代、実は動物はみな、草食だったと聖書では語られています。しかし、ノアの時代の洪水ののち、神は動物が動物の肉を食べることをゆるされました。その時代から、動物同士が殺し合いをする世界となったのです。動物の血が流される世界となったのです。それは神が罪の世界を忍耐されることを決意された、その決意のなかで、ひととき赦される流血でした。

 しかし、その動物の血が流される世界がやがて、初めの時のように造り替えられる。狼と小羊が共に宿るようになる、これはいま壮年婦人会で読んでいるヨハネの黙示録で語られている終わりの日のことでもあります。

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 では私たちは、その終わりの日まで、狼と小羊が共に宿るその日まで、この暗い、平和のない世界で忍耐をしないといけないのでしょうか?それはたしかに半分はそうです。私たちは、この罪によって壊れた世界で、戦争に怯え、不条理に耐えつつ、菜食主義者でなければ、他の動物の命をいただきながら生きていきます。

 しかし、エッサイの若枝たるキリストはすでに来られたのです。2000年前に。しかし、この2000年間、おびただしい悲惨がこの世界にありました。世界大戦も、原爆も、テロも、原発の事故もありました。ホロコーストもありました。若枝たるキリスト到来ののちも何一つ世界は変わっていない、いやむしろ時代が進めば進むほど、もっと悪くなっているのではないか、そのような現実があります。しかし、それは神の現実でもあります。終わりの日へと、確実に向かう神の現実がこの世界に及んでいるということです。終わりの日は最後の裁きの日です。しかし、それは破滅の日ではありません。神が再び世界を完全に造り直される時です。その時の前に、世界には苦難が満ちていくのです。それはヨハネの黙示録に語られていることです。世界に、そして私たちの日々にも苦難、困難が満ちていきます。信仰の目で見る時、ある面、世界には一層の苦難が満ちているのです。

 しかし、一方で、信仰の目で見る時、すでにイザヤの言う平和は実現しているのです。暗い世界の中に、たしかに、若枝たるキリストの平和は芽生えているのです。その平和は人間が造るのではありません。神が作り出される平和です。平和の主イエス・キリストの力による平和です。それはこの世の力とは異なる力です。平和の主であるキリストは「敵を愛せ」とおっしゃいました。これはクリスチャンでなくても知っている有名な言葉です。そしてクリスチャンであれノンクリスチャンであれ、これがとても難しいことであることを知っています。しかしこの言葉は崇高な理念を語った言葉ではありまえん。難しいかもしれないが、がんばって実践すべき努力項目でもありません。すでにキリストによって実現されたことなのです。そもそも人間は罪によって神の敵となっていました。その神の敵である人間を愛された方がイエス・キリストでした。みずからを十字架につける人々をも愛したお方でした。その愛は、いま、私たちにも注がれています。けっして敵を愛することのできない、いや、味方ですら十全には愛することのできない、愛において無力な私たちの上になお平和の主であるキリストの力はすでに及んでいます。そのキリストの愛のゆえに平和の奇跡はいまこのときの地上においても起きるのです。

 アメリカの黒人差別の歴史の中で、公民権運動のリーダーであったキング牧師は、その運動の日々、絶え間ない脅迫を受けていました。自分や家族の命が奪われる危険を覚えながら、なお、神の奇跡を信じ歩んだ人でした。非暴力を貫き、敵であった白人層からも共感を得て、支持を取り込みつつ歩んだ方でした。しかし、いよいよ黒人の権利が守られる公民権法が制定される前夜、キング牧師の置かれた状況はけっして良いものではありませんでした。むしろ運動が頓挫しそうな意気消沈するような状況でした。しかし、公民権法は制定されました。それはキング牧師の見た奇跡でした。そのキング牧須はその後、暗殺される直前の演説でこのように語っています。

<…前途に困難な日々が待っています。でも、もうどうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。皆さんと同じように、私も長生きがしたい。長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。神の意志を実現したいだけです。神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。>これは出エジプトの民を率いて40年旅をしてきたモーセが、最晩年、神から約束の地に入ることをゆるされず、しかし、ネボ山の上から約束の地を見せていただいたと記されている申命記を下敷きにした言葉です。キング牧師は、道の途中で暗殺をされました。モーセのように自らは約束の地へはいることはできなかったといえます。しかし、彼はそれを見たのだと暗殺の前夜語ったのです。キング牧師は約束の地を、そして狼と小羊が共に宿るその日を信仰によって見ていた方でした。その終わりの日のビジョンから突き動かされた方であったといえます。平和の主キリストの力によって突き動かされた方でした。人間の目から見たらキング牧師は道の途上で倒れた方かもしれません。しかし、キング牧師を通じて働いたキリストの力はこの地上に平和の奇跡を起こしたのです。

 私たちにもすでに平和の主キリストの力は及んでいます。愛において無力であるはずの私たちもまたキリストによって私たちの日々に平和を造りだす者とされます。この世へと愛を注ぎだす者とされます。