大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第2章18~25節

2021-08-29 15:07:59 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月29日日大阪東教会主日礼拝説教「帰ってきたあなたへ」吉浦玲子 

<不当な苦しみを望まれる神?> 

  今日の聖書箇所で語られています召し使いとは、奴隷のことです。ここでいう奴隷と 

は、戦争で捕らえられた捕虜が、家に連れて来られてその家の奴隷として仕えることになった人々を指すようです。当時、ローマ帝国には6000万人くらい奴隷がいたようです。キリスト者の中にも奴隷が多かったと考えられます。ある神学者はペトロの手紙の中でこの部分が一番熱心に読まれたのではないかと語っています。今日の私たちからすると召し使いとか奴隷と言われるとピンとこないのですが、この手紙が書かれたころはむしろ切実に読むキリスト者が多かった部分のようです。ペトロは、その奴隷たちに主人に仕えなさいと説きます。それも上っ面ではなく心からおそれ敬って主人に従いなさいと言うのです。戦争捕虜であったのであれば、奴隷の中には、かつては身分の高かった人、学識のある人もいたでしょう。そういう人々に、場合によって自分より明らかに学識や能力的に劣る主人もあったでしょう。その場合でもその主人に心からおそれ敬って従いなさいというのは厳しい言葉であったと思います。ましてや「善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」というのはたいへんな難題だと思います。 

 ところで、現在、私たちは、戦争捕虜でも奴隷でもありません。様々な制約やしがらみの中で生きていますが奴隷ではありません。今日でいうところのブラック企業に勤め、パワハラ上司のもとで酷使されていたとしても、奴隷ではありません。ですから、ペトロが奴隷たちに語った言葉は、現代の私たちには関係がないことのようにも思えます。当時の社会制度の中、奴隷は奴隷として生きるしかなかったのです。良い主人であれ、無慈悲な主人であれ、奴隷は主人に従って生きるしかなかったのです。従わなければひどい目に遭わされたでしょう。いや従ったとしても、不当な苦しみを受けることも実際あったでしょう。その状況で、「心からおそれ敬って」主人に従いなさいと語られているのです。 

 しかし一方で思うのです。私たちは身分としては奴隷ではありませんが、やはりまた、どうしても抗えない、不当な苦しみを受けることがあります。不当な苦しみというのは、因果応報ではない苦しみです。悪事を働いて報いを受け、苦しむのは不当ではありません。しかし、こちらに何の原因もないのに受ける苦しみは不当な苦しみです。あるいは、こちらにまったく非がないわけではないけれど、起こってしまう苦しみというのもあります。できるだけ健康に気を付けようと思っても、つい不摂生をしてしまう、不摂生せざるをえない環境の中に置かれることもあります。そのために病気になってしまうこともあります。自業自得と言われればそうかもしれませんが、世の中には、不摂生をしても元気で長生きする人もいます。もともとの体質や環境など複雑な要因もからみます。そこまでの不摂生はしてないのに、なぜ自分は病気になって、もっと不摂生をしているあの人はなぜぴんぴんしているのか、そう考えていくと、やはりそこには因果応報とはいえない苦しみがあります。苦しみというのは、ある意味、受ける者にとっては、すべて不当な苦しみともいえます。 

<御心に適う苦しみ?> 

 さらにいえば、この世界には人間の罪が満ちています。その罪の世界のゆえに、不当な苦しみは生じるともいえます。私たちは理不尽な社会や組織や人間関係のゆえに苦しみを受けることもあります。私の友人の息子さんが新型コロナ感染症に感染し、現在の医療崩壊の事態の中で医療も受けられない状態です。息子さんは一人暮らしで、現時点では発熱はありますが、重症化はしていないそうです。しかし、一人で自宅で療養する日々はとても不安であろうと思います。未知のウィルスへの対応は想定外のことが多く、簡単なことではありませんが、現在の日本の医療の状況には人災的な側面が大いにあると考えられます。その状況の中で数万人もの人々が苦しんでいます。そこにはもちろん病自体の苦しみもありますが医療を受けられない不安恐怖というものがあります。コロナによってこの世界の罪の現実が明らかにされている側面があります。私たちはまさにそのような世界に生きています。そういうことを考えますと、私たちは今日のペトロの言葉は奴隷でもない私たちにも大いに関係する言葉として聞き取ることができます。 

 しかしまた、自分に関わる言葉として聞く時、その不当な苦しみということについて納得できないところもあります。「神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」こうペトロは語ります。神が人間が苦しむことをお望みだなどということはあまり信じたくないことです。そして苦痛を耐えることが御心に適うことというのも解せない気がします。神は人間を愛しておられるのではないか?なのに人間に苦痛を耐えさせ、それが御心に適うというのは、愛なる神のなさることとは思えないとも感じます。 

 そもそも私たちは、ご利益を求めて信仰に入ったわけではありません。キリスト教はご利益信仰ではないということは繰り返し言われることです。しかし、だからといって、苦しむこと、それも不当な苦しみを耐えることが神の御心だと言われるとどうにもやり切れません。私たちはお金持ちになりたいとか長生きしたいと思って主イエスを信じているわけではありませんが、日々に平安や希望を持ちたいと思います。また切実な願いを神に聞いていただきたいとも思います。 

 しかし、聖書を読みますと、不当な苦しみに遭う人々が多く出てきます。代表的な人はヨブ記のヨブでしょう。なんの悪いところもない、正しい人、義人と言われるヨブが、子供を奪われ財産も奪われ、自分自身もひどい病にかかってしまいます。そのヨブの言葉に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というものがあります。主は与えられ、主は奪われる。その主はほめたたえられなければならないというのです。私にとって良いものを与えてくださるから神をほめ、賛美するのではない、私にとって大事なものを奪われたとしても、神はほめたたえられるべきお方なのだとヨブは語るのです。しかし、そう語ったヨブも見舞いに来た友人たちと口論になり、その議論の流れの中で、ついに神に叫びます。自分には非はないのに自分は不当な目に遭っていると叫ぶのです。ヨブ記の最後のところで、神と出会ったヨブは神のなさることの意味を人間には悟ることができないことを理解します。しかしそこには因果応報的な明確な答えはありません。そういう意味でヨブ記は難解な書物といえます。 

 しかし実際、人間には自分がいま遭っている不当な苦しみの理由を知ることはできません。しかし、その苦しみが起こることをゆるされているのは神であり、その神に対して人間は叫び怒りを発することができるのです。逆に言えば、だから苦しみを耐えることができるのです。苦しみの理由は自分から考えると不当で不条理であっても、それは神がゆるされたことなのです。神の手のうちにある苦しみなのです。私たちは苦しみの中にあっても一人ではありません。神の手の内、神のまなざしの内にあるのです。 

 何より、もっとも不当な苦しみをお受けになったのは主イエスでした。主イエスは「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」のに、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」とペトロが語るように、不当な苦しみを耐え忍ぶということにおいて、模範となられました。 

<すでに癒されている> 

 しかしそのイエス・キリストの苦しみはただ私たちの模範であるだけではありません。キリストの苦しみのゆえに私たちは救われました。私たちは身分の上で奴隷ではありませんでしたが、罪の奴隷でした。罪の泥沼の中にいて、そこから自分の力では抜け出すことができませんでした。罪は振り払っても振り払っても私たちに絡みついてきました。しかし、その罪を十字架において主イエスは担ってくださり、私たちは罪に対して死にました。そして新しく義によって生きるようになりました。キリストのお苦しみのゆえに。 

 私たちは飼い主のない羊のようにさまよっていました。そもそも羊は単独では生きられないものです。目も悪いと言います。飼い主のない羊、はぐれた羊は、道に迷い死ぬしかないのです。そのような羊のようであった私たちはいま飼い主、良い牧者のもとに庇護されています。自分の罪ゆえ、牧者の声を聞きとることができずに迷う出でていた私たちは戻ってきました。そして今や安心してキリストのもとに憩っています。迷い出ていた時、茨や荒れ野で傷めた傷も癒していただいています。私たちは既にもっとも苦しい苦しみからは癒されているのです。 

 そして「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」とあるように、すでに良き監督者のもとに私たちは置かれているのですから、この罪の世において与えられる苦しみにも耐えられるのです。いや実際は耐え難く、弱音を吐くことはあるかもしれません。ヨブのように神に叫ぶかもしれません。神への信頼が揺らぐときもあるかもしれません。しかしなおそこでキリストと出会います。私たちは苦しみの中でキリストと出会うのです。幸せな時、喜びの時もキリストと出会いますが、苦しみの時こそ、私たちはキリストと出会います。キリストの十字架を見上げるのです。皆さんも、これまでを振り返る時、たしかにそうではなかったでしょうか。 

 「ベン・ハー」という1959年に封切られた古い映画があります。主人公のユダヤ人のベンは、もともとは幼馴染であったローマの司令官に疎まれ、無実であるにもかかわらず罪を負わされ、奴隷の身分に落とされます。家族も捕らえられ、地下牢に入れられます。まさに奴隷として不正な苦しみを受けるのです。ベンは移送されますが、長い道のりを歩ませられるときも、司令官の差し金で、他の囚人たちは水を飲むことがゆるされているのに、ベンだけは水すら与えられません。激しい渇きの中で、ついにベンは意識を失って倒れたます。その時、何者かが、ベンを助け起こし水を飲ませます。ローマ兵はそれを制止しようとしますが、ベンに水を飲ませている人物を見て、なぜか引き下がります。その人物の姿ははっきりとは描かれていませんが、キリストでした。 

 詩編37編24節に「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」という言葉があります。まさに倒れたベンの手をとらえてくださった方がありました。私たちはもちろん、いつも元気で自分の足で歩けたら良いと思います。力強く人生を歩みたいと思います。しかしなお、この罪の世にあって、私たちは苦しみを受けることがあります。そして倒れることもあります。しかしなお、私たちはすでに魂の牧者、監督者のもとにあります。倒れても打ち捨てられるのではないのです。かならず私たちの手をとっていてくださる方があります。 

 私たちの信頼と平安はそこにこそあります。自分たちの望みがかなえられ、順風満帆な人生を送るために神があるならば、自分たちの思い通りの人生を歩めなければ神などはいないということになります。そして苦しみの中で、虚無的に生きていくことになります。しかし、どのようなときでも打ち捨てられることなく、手を取っていただける方がおられます。だから私たちはこの罪に満ちた世界を平安に生きていくことができます。苦しみの中にあって、なお、希望を持つことができます。むしろ苦しみのなかでキリストと出会い、キリストの十字架の恵みを覚え、神への信頼を増し加えていただきます。 

 


ペトロの手紙Ⅰ第2章11~17節

2021-08-22 16:53:58 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月22日日大阪東教会主日礼拝説教「神を畏れ人を敬う 」吉浦玲子 

<漂流しているのか> 

 ちょうど一年前になるのですが、天満橋の大川に浮かんでいるラバーダックというものを見に行きました。ラバーダックというのは、巨大なアヒルの模型です。高さ9.5m、幅9.5mで、ちょっとした船よりも大きく、大きさ的にはかなり威圧感があるのですが、見た目は、子供がお風呂に浮かべるようなかわいい黄色のアヒルのおもちゃなのです。そのかわいい黄色のアヒルのおもちゃが巨大化して川にぷかぷか浮かんでいて、ある種、シュールな感じもあります。オランダのアーティストが作成して、ヨーロッパ、アジア、アメリカなど各国の川に浮かべて展示されてきたものです。それが、一年前、大阪の天満橋付近の川にも一カ月ほど浮かんでいたのです。その表題が「漂えど沈まず」でした。コロナを始め、いろいろなことで分断されている世界に、そのなんとも脱力するような黄色いアヒルが漂流している、漂っているけれど、けっして沈まない、というある種の強いメッセージがそこにはありました。とはいえ、かわいいアヒルの、巨大なものがぷかぷか川に浮かんでいる、そのシュールな風景を見て何とも言えない気持ちになりました。「漂えど沈まず」という言葉に、いろいろと考えさせられました。 

 一年たって、今日の聖書箇所を読んで、ふとまた考えました。聖書では、人間は寄留者であると語っています。エジプトを旅立って荒れ野を旅した民のように、私たちもこの世にあって旅人であるというのです。ペトロもまた、キリスト者は旅人であり、仮住まいの身だと語っています。旅人だから、旅人として通り過ぎて行く場所のことはどうでもいいのでしょうか?「旅の恥はかきすて」などという言葉もあります。旅はひとときのことであって、通り過ぎて行くその土地での生活は適当でよいのでしょうか。もちろん、聖書はそう語っていません。この世でしっかり生きなさいと語っているのです。 

 旧約時代の預言者エレミヤは、国が滅び、1000キロ以上離れたバビロンに捕囚として連れて行かれた人々に、そのバビロンの地で、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように」と手紙を送っています。捕囚の民にはやがてイスラエルに戻る、そう神の約束が与えられていることをエレミヤは知っていました。しかし、バビロンにいる間はその土地でしっかりと生きなさいと語っています。もちろんバビロン捕囚は最初の捕囚から解放まで60年ほどで、ある程度分別がついた人間のほぼ一生が費やされるような時間です。数日の旅行とか、数年の滞在ではありませんので、家を建てて果樹を植えて、ということは当たり前かもしれません。 

 しかし、バビロン捕囚の民も数十年間その土地にいましたが、その土地ではない土地を故郷として、あるいは目的地として持っていた点において、寄留者であり旅人でした。神を信じて生きる私たちも同じです。旅人ではあっても仮住まいであっても、その土地でしっかり生きていくのです。ラバーダックの言うように漂流しているわけではないのです。もちろん神は思わぬところに人を導かれることはあります。行きたくないところに行かされることもあります。しかし、それでも波任せの漂流ではないのです。私たちはそこに神の御心を受けて生きていくのです。神の意志を感じながら生きていくのです。だから漂流ではないのです。揺れ動いているようで、ままならないことも多々ありながら、漂流ではないのです。しかし、もちろん、その日々は神の御手の中で沈むことはありません。 

<立派とは> 

 その旅人である私たちはどのように生きなさいとペトロは語っているのでしょうか?「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい」と言っています。さらっと読むと、禁欲的に聖人君子のように生きなさいと言われているようです。しかし、12節には立派に生きるキリスト者を見た異教徒たちは「訪れの日に神をあがめるようになります」というのです。ただ堅苦しく清らかに生きている人々を見て、キリスト者でない人々が聖書の神をあがめるようになるでしょうか。ここで言われる肉の欲とは神から私たちを遠ざけ罪へとひきずるものです。まさに魂に戦いを挑んでくるものです。魂に戦いを挑んでくるというと壮絶なイメージがありますが、私たちを神から遠ざけるものは肉の欲であると言えます。よくスマホ依存症とか言われますが、本来為すべきことを放ってスマホをいじる、時間を費やしている、そういうことも肉の欲に支配されているといえます。そして立派さとは神を第一に生きるということです。ペトロが手紙を送った地域は異教のあふれるところした。さまざまな宗教、そして偶像があったと思われます。そしてまた、異教にまつわる性的な不品行もあったと思われます。しかし、そういうことに惑わされず、ただお一人の神、聖書の神だけを心からあがめて生きていくのです。ことさらにそれを誇示する必要はありませんが、淡々と神を第一にして生きていく、その姿から何かを感じた人々は、自分たちと同化しないあり方に当初は怒りのような、嫌な印象を持っていても、訪れの日には神をあがめるようになると語ります。訪れの日とは、キリストの再臨の時ともいえますし、それぞれの人々にキリストが訪れてくださる日ともとれます。まことの神を知らなかった人々へもキリストが訪れてくださる、そのときまさにキリスト者のあり方が正しかったことを知って、神をあがめるようになるというのです。 

<この世の権威に従う> 

 そしてもう一つペトロが旅人として生きながら、守るべきこととして、「人間の立てた制度に従いなさい」と語ります。私たちは神をただ一つの規範、正義として生きながら、人間の立てた制度に従って生きていきます。今日の社会において、この世の制度に従って生きることは、おおむねそれほど困難ではありません。人権や信教の自由が一応は守られているからです。しかし、ペトロの手紙が書かれた時代は異なります。ローマ帝国によって植民地は搾取されていました。今のような人権の概念もありませんでした。そしてまたこの時代の皇帝は自分を神として敬うことを人々に求めました。そのような社会の中で、何より、クリスチャンはひどい迫害に晒されていました。そのような中で、ローマ皇帝や総督や現行の制度に従えと言うのは厳しいことのように思われます。総督といえば、主イエスの十字架刑を決定したのは当時のローマ総督ポンテオ・ピラトでした。そのことをペトロは目の当たりにしていたにもかかわらず、総督に従えというのです。主イエスが従われたからです。主イエスは総督の決定を受け入れ十字架にかかられました。それが父なる神の御心だと信じ、主イエスは十字架にかかられました。ですからペトロは皇帝にも総督にも従えと語っているのです。 

 そもそも、そのような皇帝でも総督でも制度でも、神にゆるされてこの世界にあるのだと聖書は語ります。そしてまた日本のようにキリスト教国ではない社会においても、なお権力者や社会の制度は神の支配の中にあるのだといえるのです。たとえば、先ほど語りましたエレミヤの時代、イスラエルを滅ぼした異教の国バビロンのネブカドネツァルも、イスラエルへの裁きのために神に立てられたと考えられるのです。 

 同時にまたこのことは難しい判断を迫られるものでもあります。この世界には、たしかに人間をさいなむ人為的な力が存在します。富の不公平な配分、弱者の切り捨て、不条理なことが多くあります。人間の命に関わる重要なことがあります。その中には、人間の力によって変えることができると考えられることもあります。人間が変えることができるものを変えてはいけないと神は語っておられるのでしょうか。現行の権力、権威にやみくもに従えと語っておるのでしょうか。これはとても難しい問題だと思います。ヒトラーのようなホロコーストを行う独裁者にも従うべきなのでしょうか。いま、8月ですが、かつてこの国が太平洋戦争に突き進んだ、そのような時代の権力にも従うべきなのでしょうか。旅人なのだから仮住まいなのだから、そのようなことはどうでもいいと通り過ぎるべきでしょうか。 

 あまり適切な例ではないかもしれませんが、あるクリスチャンの作家が書いた文章を読んで愕然としたことがあります。その方は、聖書は一家の主は夫である、妻は夫に従うべきであると書いていると語ります。男女平等のあり方からはいろいろな考えがありますが、聖書には確かにそう読めるように書かれています。そしてさらにその作家は語るのです。ろくでなしの夫であっても妻は夫に従うべきで、たとえば、夫が万引きをするから妻に店に人に見つからないように見張っておけと命令したとしても妻は夫に従えというのです。ここで言われる夫と、ペトロが語る制度や権威は異なるものかも知れませんし、夫婦のあり方として妻の一方的な服従が聖書において求められているとは考えられませんが、どう考えても、万引きの助けをしろというのはおかしなことです。この世において、権力によって、悪を為すことを強要された場合、私たちは、はいと従うのかという問題はあります。万引きする夫を助けることも、悪を為す権威に従うこともやはりおかしなことでしょう。 

 ところで、有名な「ニーバーの祈り」というものがあります。ご存知の方もあるかと思います。この祈りの出だしの部分はことに有名で、宇多田ヒカルの歌の歌詞にも取り入れられていて耳にしたことのある人もいるかと思います。こういうものです。「神よ、変えることのできないものを平静に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する知恵を与えてください。」 

 ここで注意すべきことは、変えることができる、変えることができないというのは、人間側の力や希望、意思によって決まることではないということです。私の手には負えないから受け入れましょう、自分で変えることができそうだから変えましょうということではありません。神が変えることを望んでおられるかどうかということを問う必要があります。私たちはこの世の権威、制度に従って生きていきます。しかし、それ以上に神に従うのです。神に従うとき、変革することを神が示されているなら、私たちは私たちに力のあるなしに関わらず、神に依り頼みつつ変える努力をする必要があります。 

<自由に生きる> 

 しかし何より大事なことは、私たちは神の僕として神に従って生きていくこと以外においては自由な者であるということです。ペトロの時代、身分的には奴隷もありました。聖書の中には実際、奴隷も出てきます。しかし、神の前で、この世の身分はどうであれ、奴隷ではなく、自由人なのだとペトロは語ります。私たちは自由な者として、この世の権威に従うのです。無理やり従うのではなく、自由な選択の内に従うのです。私たちには従うことも、従わないことも選択することができます。しかし、その選択の自由の中で、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とペトロは語ります。私たちは自由というとき、奔放に傾きがちです。自由を、「悪事を覆い隠すことに用いるのではなく」とペトロは語ります。私たちは自分が正義を為しているつもりで、時には悪い権威を懲らしめているつもりで、実際のところは自分の欲を満足させている場合もあります。そしてその罪を隠すために自由を用いたりします。しかし、そうではない。私たちは私たちに与えられた自由を、なにより神のために用いねばなりません。神を讃え、神に従い生きています。そしてまた神が今ゆるされているこの世の権威、制度に従います。しかしまた自由であるということは、縛られないということでもあります。現行の制度、権威を最上のものとは考えないということでもあります。私たちが旅人としてひとときこの世にあるように、この世のさまざまなこともひとときのことです。絶対のものではありません。そのひとときのことに固執しないで生きます。固執しないからと言ってラバーダックのようにひょうひょうと漂うのではないのです。この世の権威、制度にしっかりと向き合いながら、神から知恵をいただきながら歩むのです。変わらぬものはただひとつ神の言葉だけです。神を第一にして、神に従うとき、私たちは私たちの自由の用い方を知らされます。主イエスも十字架におかかりなる最後まで自由でした。ペトロもパウロも最後は処刑されましたが、牢の中にあっても自由でした。肉体は拘束されても、誰よりも自由に生きました。私たちの先人である戦中の大阪東教会の霜越牧師も逮捕され収監されましたが、その牢の中で自由でした。私たちはこの世の権威や制度に向き合うためのまことの知恵と力が与えられます。ただお一人なる神、その神の国、全き正義の国に入るその時まで、この世界にあって自由に神を讃え、神に導かれながらこの世界に地に足をつけて歩んでいきます。 

 

 

 

 


ペトロの手紙Ⅰ第2章6~10節

2021-08-15 16:57:27 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月15日日大阪東教会主日礼拝説教「かけがえのないもの」吉浦玲子 

<石> 

 西日本を中心に全国的に大変な量の雨が降り続いています。とんでもない積算降水量で、関西を含め、今後も、災害の危険性が高く、予断を許しません。私の出身地は昨日、特別警報の対象地域になっていました。実際、子供のころ、水害にあった記憶があります。もともと雨は多かった地域ですが、ここ数年の豪雨は子供のころの水害とはまた全然スケールが違うと感じます。地球全体の環境の変化のせいなのか、雨が降り続くと、昔には感じなかったような不安を感じます。それに加えて、終息の気配が見えない新型コロナ感染症もガンマ株が猛威を振るっているというニュースもあれば、ラムダ株が国内で発見されたというニュースもあり、不安が募ります。不安が募りますが、しかしなお、私たちは神に期待をします。キリスト教2000年の歴史の中で、むしろ危機的な状況のなかで、信仰者は神に期待をしてきました。ローマ帝国が崩壊する末期に生きたアウグスティヌスも、ペストの危機の中に生きたルターも、神への期待に生きました。そしてその期待が裏切られることのないことを伝えて来ました、今、御一緒に読んでいますペトロの手紙もまた、クリスチャンの少ない、どちらかというと小さな貧しい地方に住み、迫害に晒されていた少数者だったクリスチャンに送られたものです。現実的には明日の不安に怯えながら生きていた人々に希望と励ましの言葉をペトロは語ったのです。 

 実際、聖書は希望を語ります。ですから繰り返し説教でも希望を語ります。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」これは旧約聖書のイザヤ書から引用された言葉です。私たちは、現実の社会の中で多くの失望を経験します。小さな子供ですら失望を経験します。家族や会社や友人や社会に失望し、自分自身にも失望します。しかし、聖書は語るのです。「シオンに置かれたかなめ石を信じる者はけっして失望しない」と。シオンはもともとはエルサレムにある丘の名前ですが、エルサレム自体を指す言葉して使われます。そのシオンに、貴いかなめ石を置くというのです。ここで言われているかなめ石と7節に出て来る隅の親石は、建築用語的には、異なるものですが、いずれにしても建築物の重要な石といえます。それはキリストご自身を指します。竹森満佐一牧師の語られていることのなかに出て来たのですが、ある神学者が、キリストを例える例が聖書には96出て来るそうです。主イエスご自身が、私は真理である、とか、命のパンであるとおっしゃっているわけで、そのほかにも道や羊飼いという言葉もあるわけですが、ここでは石に例えられています。しかもこの石は7節によると捨てられた石だと言うのです。7節は詩編118編から引用されていますが、「家を建てる者」が捨てた石だというのです。この世の家を建てるには不要な石として捨てられたのがキリストなのだと語るのです。 

 石と言えば、ここ数カ月、庭の手入れのご奉仕を多くの方がしてくださっています。ドクダミなどの雑草の勢いがたいへんで、抜いても抜いても、かなり根の深いところから開墾しても生えてくるそうです。そのような雑草の対応と合わせて、多くの瓦礫がでてくるのもたいへんなことのようです。何回かお話ししたことですが、1945年3月の大阪空襲で旧会堂は全壊しました。おそらくその時焼け落ちた会堂のものと思われる瓦礫が今でも掘っても掘っても出てきます。 

 神の建てられた会堂が破壊され、瓦礫になりました。先人の献身の証しである建物が跡形もなくなくなりました。残ったのは焼け焦げて崩れた石、まさに捨てるしかない石になりました。その焼け焦げた瓦礫を見る時、まさに捨てられた石であるキリストを思います。神の教会を破壊する人間は、キリストをもこのように捨てたのだと思います。アメリカが悪いとか、日本が悪いということではなく、すべての人間はキリストを捨てたのです。しかし神はそのキリストを捨てられたままにはなさいませんでした。復活させられたのです。復活を信じる者は、その捨てられた石が隅の親石となったとことを知っています。 

<本当の希望> 

 この尊いかなめ石であるキリスト、家を建てる者が捨てた隅の親石を信じる者は失望することはないとペトロは語るのです。パウロもローマの信徒への手紙で「希望は欺くことがない(5:5)」と語ります。ローマ書のここは口語訳聖書では「希望は失望で終わらない」と訳されていたところです。「なぜならわたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と続きます。私たちは自分たちに注がれている神の愛を聖霊によって知らされる。だから希望は私たちを欺くことがないのです。失望で終わらないのです。 

 さきほど、空襲の話をしましたが、今日は76年前、天皇によるいわゆる玉音放送、つまり終戦の詔勅(しょうちょく)を天皇が国民に発表した日です。戦後の高度経済成長期に生まれ育った私には、戦争というのは子供のころから遠い昔のことのように思っていたのですが、今、考えますと、私が生まれたのは戦後20年もたっていない時でした。若い方はそうではないかもしれませんが、ある程度長く生きた人間には、20年と言う歳月は、もちろんけっして短くはありませんが、人生全体から考えると、とてつもなく長くはないとも言えます。つまり、それほど長い歳月を経ず、少なくとも子供の目には、戦争の傷跡は見えないくらいには日本は復興していたと言えます。高度経済成長期は、去年より今年、今年より来年と物質的に豊かになっていっていた実感がありました。当時、田舎のまずしい家庭でしたが、それでも、家の中に、少しずつ電化製品が増えていったことを覚えています。戦後25年目の1970年に開催された大阪万博には、当時、大阪に叔父がいた関係で、九州から大阪に来た記憶があります。太陽の塔が希望の象徴のように建っているのを見上げた記憶があります。それから半世紀が過ぎ、バブルがはじけ、多くの自然災害に見舞われ、長い沈滞した状況から抜け出せない日本の地に今も太陽の塔は建っています。その太陽の塔は、先週まではコロナによる非常事態宣言の告知のために赤くライトアップされていたようです。希望の象徴のはずであった太陽の塔が、50年後、感染症の拡大を警告するために不気味にライトアップされている、76年前、焼け野原であった日本は、たいへんなスピードで復興しました。しかし、21世紀の今日、感染症や自然災害に怯え、現実に明日の生活もままならない人々が多くある世界です。その現実だけを見る時、私たちは希望を見ることはできません。もちろん貧しさゆえの悲劇はありますから、物質的に豊かになっていくことも、大事なことです。しかし、モノやお金だけではない、そのことを日本において私たちはずいぶん前から心の底で気づきながら、ではほんとうの幸せや希望とは何かということがぼんやりとしているのです。でも聖書は語るのです。本当の希望を。希望はキリスト以外にはないということを。 

<恥を受けない> 

 しかしこういうことを言っても、結局宗教に頼るのかと、世の人々は言うかもしれません。宗教に頼るのは弱い人間のすることだと。実は6節の「失望で終わらない」という言葉は「恥をかかない」「面目を失わない」というニュアンスを持つ言葉でもあります。文語訳聖書では「辱められじ」と訳されているところです。私たちは普段の生活の中で不安を持つかもしれません。こんなことをして人からどう思われるのかと。特に日本の社会では世間体を気にする傾向があります。同調圧力があります。さらに宗教に関しても寛容なようで、実は厳しい側面を持っています。その社会の中で、宗教に頼るなんて恥ずかしいことだと人は考えているのではないかとか思うかもしれません。しかし聖書は、キリストという石を信じる時、私たちは恥をかくことはないのだというのです。 

 しかし、実際のところ、キリストは恥をかかれました。身ぐるみはがされ、十字架にかけられ、人々の嘲笑の的になられたのです。神であるお方が人間から恥ずかしい存在として面目を失われました。家を建てる者にとって役に立たない恥ずかしい石として捨てられました。現実社会の中で人間のニーズにはそぐわないものとして捨てられたのです。主イエスの時代で言えば、ローマ帝国を倒し、イスラエルの困窮を救うためには役に立たないとして捨てられたのです。主イエスは信じる者にはかけがえのない者が、「つまずきの石/妨げの石」だったのです。 

 今、私たちは聖霊によって、キリストという石が尊い石であることを知っています。恥ずかしいどころか、本当に人間を生かす石であることを知っています。信徒のころから、私は死に近いクリスチャンを何人も身近で見てきました。肉体の死ということを前にしても、キリストという石は、その人を揺るがせることのない、希望を失わせることのない石であることを繰り返し覚えさせられてきました。それは死を恐れない堂々たる姿というわけではなく、むしろ苦しみの中でも神に委ね切った姿でした。そこに根本的な平安がありました。 

 しかしまた、この世を生きる時、私たちは、現実ではいろいろなものにつまずきます。教会の中でもつまずきます。教会の人間関係、牧師にもつまずきます。人間である以上、ある意味、つまずきは避けられないことです。神をしっかり見上げていればつまずかない、神に信頼しなさい、人間を見ず神を見ろ、そういうことは分かっていても、人間はつまずきます。つまずいて、そして結果的に恥を受けるのです。 

 ペトロ自身、つまずきました。いくたびもつまずきました。主イエスを信じきれなくてつまずいたのです。復活のキリストと出会ったのちですら、福音を信じきれずつまずくことがありました。「つまずきの石」という言葉は、引用しているペトロ自身が胸に堪える言葉であったでしょう。 

 しかしつまずく都度、ペトロは聞いたのです。神の言葉を聞きました。「あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。」 

 私たちはすでに神の民とされているのです。私たちがつまずいたときも、神ご自身が憐れんでくださり、「わたしの民」「わたしの子よ」呼んでくださるのです。その声を聞きとめるのです。そして神の手に自らをゆだねて、新しく立ち上がります。私たちはつまずきますが、神によって、立ち上がらせていただく者です。尊い石があります。私たちがよろめいても、変わることなく、私たちを支えてくださる石があります。その石に支えられて私たちは立ちます。「わたしの民よ」「わたしの子よ」という言葉を、繰り返し、聞きます。 


ペトロの手紙Ⅰ第2章1~6節

2021-08-08 14:11:43 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月1日日大阪東教会主日礼拝説教「わたしのもとに来なさい」吉浦玲子 

<神との関係> 

 ペトロは語ります。「だから」、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の父を慕い求めなさい」。「だから」と冒頭にあります。もともと、聖書の原典には章や節という区切りは存在しません。ヘブライ語で書かれた旧約聖書も、ギリシャ語で書かれた新約聖書も、もともと章や節はありませんでした。章ができたのは13世紀くらいで、節ができて普及したのは、15世紀から16世紀にかけてで、かなり遅いのです。今日、私たちは章や節で区切られた聖書を普通に読んでいますが、ペトロの手紙も、もともとは基本的には最初から最後まで区分けはされずに読まれていたものです。今日の聖書箇所、2章の冒頭が「だから」で始まるのは、当然、前の箇所からの流れで語られています。前からつながっているところが章としては分断されているのは変だと感じられるかもしれませんが、それはあくまでも章や、節というのが、後付けで便宜的につけられたことから来ていることです。 

 そして、この「だから」は1章でペトロが語っていた私たちは、今、旧約聖書の時代の預言者が見たいと願っていた救いを見、すでにイエス・キリストのゆえに聖なる者とされているといったことを受けています。そして今、私たちは朽ちることない永遠の神の言葉を聞いています。「だから」、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去るのだとペトロは語ります。しかし、そもそも、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」というのは、信仰をもっていようがいまいが、この世にあって、一般的に良くないと事と考えられています。悪意ある言葉や、嘘偽り、偽善的な態度、人のことを羨む態度、正当な批判や議論ではなく、ただ人をあしざまに言うような態度は、この世においても嫌われるものです。ペトロはそんな当たり前の道徳や処世についてのことをここで語っているのでしょうか? 

 しかし、よく考えて見ますと、たとえば旧約聖書の律法でも、読みようによってはごく一般的な倫理的道徳的な勧めのようなことが書かれています。たとえば律法の神髄ともいえる十戒の後半は人間と人間のあり方についての勧告ですが、そこには「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、偽証するな、隣人の家を欲するな」という戒めが記されています。それらはある意味、神に言われなくとも、人間がこの世界で共に生活していくために必要なことでもあります。特に、「偽証するな、隣人の家を欲するな」というところは、ペトロの語る「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」とその根っこのところで重なります。悪意を持って偽りの発言をするのですし、自分をよく見せようとするのです。ねたみや悪口は神の与えてくださることに満足できず隣人を羨むところから起きてきます。 

 今、神の与えてくださることに満足できないから羨ましがると申しましたが、十戒の前半は、神との関係における戒めでした。わたしをおいてほかに神があってはならない、神の像を造ってはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を聖別せよ、このような戒めがありました。 

 神以外のものを神としたり、偶像崇拝をしたり、神を自分の都合で利用してはならない、そして安息日という日々の業を止めて、神を礼拝する時を持ちなさいということは、現代において、あまりピンとこないことかもしれません。私たちは別にイスラエルの民が行ったように金の子牛を拝んだりしていないし、日曜日にはちゃんと礼拝に来ています。もちろんそれはそれだけで実際、大変素晴らしいことです。ことにこの日本において、日曜日に礼拝を捧げるということは、大なり小なり、生活においてさまざまに調整しないと難しいことが多いのですから。 

 しかしまた、自分を振り返る時、本当に神以外のものを神としていないか、金の子牛は造っていなし、バアルの神も拝んではいないけれど、神以外のものを神以上に大事にしていないかということは問うべきことではないかと思います。そして、聖書を長くお読みの方はご存知のように、実際、イスラエルの民は、神の戒めに従えなかったのです。旧約聖書の時代、異教の神に仕えたり、偶像に仕えたりました。神のみを神としなかったのです。一方、新約の時代になって、イスラエルの人々は律法を大事にするようになりました。しかし、今度は、律法守ること自体が目的となりました。律法を守るという行為、宗教的な態度をとるという姿勢によって救われると考えるようになっていました。本来の神の戒めの意味、そこにある神の愛を無視して、表面的に律法や宗教行為自体を大事にしました、そこには平安はありませんでした。神との健全な関係ありませんでした。神との健全な関係が破たんした時、人間同士の関係も破綻します。そこに「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」が出て来るのです。 

<霊の乳をいただく> 

 これらのことは信仰のあるなしに関わらずこの世においても良いこととはされていないとさきほど申しましたが、これらのことは、神との関係が健全でない場合、人間がどれほど努力をしても逃れることはできないことです。人間は悪意やねたみを口に出したりはしなくても、心の中についつい思っていたり、気づかぬうちに行動で現れたりします。主イエスを十字架につけた権力者たちの醜い妬みや嘘、「主イエスを十字架につけろ」と叫んだ民衆の自分中心的な心はそもそもが神との関係が破たんしている所から出てきました。そして私たちもまた神を知る前、キリストによって贖われる前は、同じ心を持っていました。 

 キリストによって贖われた今も、私たちはついつい「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」に傾いてしまいます。ほかならぬ教会の中においてもそうです。だから「乳飲み子が乳を求めるように、混じりけのない霊の乳を求めねば」ならないのです。私たちは自分を大人だと思っていますが、神の前にあっては乳飲み子に過ぎません。しかし、逆に言いますと、求めさえすれば、親が泣く乳飲み子のところに駆けつけるように、神は私たちに豊かに霊の乳を与えていただける存在でもあるのです。 

 もちろん、神の前にあっても、私たちは成長しなければなりません。少しずつ「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」から離れなければなりません。それらのことから離れる時、私たちは「救われるようになる」とペトロは語ります。これは「救いに向かって成長する」「救いにおいて成長する」ということです。私たちはキリストの十字架によって救われました。救われたけれど、人の悪口を言ったら、救いから切り離されるのか、ということではありません。すでに救われながら、なお、私たちは完全な者ではありません。しかし、キリストと共に生き、霊の乳、すなわち御言葉を求めて生きていくとき、私たちは少しずつ、救われた者にふさわしい者として成長していくのです。 

 「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」そうペトロは語ります。私たちは神の恵みの内に成長していくのです。時々、「クリスチャンとして成長したい!」と強く願って頑張る人がいます。私もどちらかというと、昔、そんなタイプでした。しかしむしろ、成長は神の恵みを深く知ることによって促されます。ああ神様に助けていただいた、そんな体験を繰り返していくとき、私たちは神の恵みをより深く知ります。しかしまた逆に言いますと、実際のところ、私たちはすでに知っているのです。主が恵み深いことを。ペトロも、あなたがたは味わいました、と語っています。私たちはすでに神の救い、恵み、助け、支えをすでに味わっているのです。信仰歴の長い人も短い人も。<数えよ主の恵み>という讃美歌がありますが、いくらでも私たちは主の恵みを数えることができると思います。 

<主のもとに来る> 

 だから、私たちは主のもとに来ます。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」と新共同訳では二つの文章で訳されていますが、原文では「人々からは見捨てられたが神のもとで選ばれた貴い生きた石である主のもとに歩み寄りなさい」と一つの文章となっています。私たちは、生きた石であるキリストのもとに歩み寄ります。これが私たちの礼拝です。そしてそのキリストは、人間に捨てられ十字架にかかられた石であるお方でした。しかし、父なる神のもとにもともとおられた尊い石でした。私たちはこの尊い石のもとに歩み寄り礼拝を捧げます。 

 それは、単なる儀式ではありません。私たち自身も生きた石として用いられるために、また霊的な家を作り上げるために用いられるのです。用いられるというと、奉仕をするとか、伝道的なことをするという風にとらえられがちですが、まず第一には霊的にキリストと交わるということです。キリストのもとにきて、キリストにすっぽり包まれる、キリストと深く交わり、一体化するということです。この「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」に傾く者が、キリストのもとに来た時、キリストの内側にすっぽり入れていただけるのです。季節外れの譬えになりますが、六月に教会の庭に咲いていた紫陽花は、あの大きな花が一つの花のように見えますが、実際は複雑な構造をしています。両性花と呼ばれる部分が中央にあって、周囲に装飾花と呼ばれる部分があります。一般に私たちがアジサイの花と思っている部分は装飾花の部分になります。両性花にしても装飾花にしてもそれぞれ細かい花なのです。それらが集合して、紫陽花の花を形作っています。私たちもまた、教会という全体の花を形作る一つ一つの花です。キリストの元に来るとき、私たちはそれぞれにキリストがデザインされた花の一部とされます。 

「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」キリストは聖なる大祭司としてご自身を十字架にいけにえとして捧げられました。キリストの元に来た私たちもまた自分を捧げます。自分自身を霊的ないけにえとして捧げます。それは難しいことではありません。ご自身を捧げてくださったキリストへの感謝の思いをもって、キリストのもとに来るとき、私たちはすでに神への尊い捧げものとされています。この会堂に集っている方たち、そしてネットで礼拝を捧げておられる方々、郵送された説教によって礼拝を捧げられる方々、それぞれにすでに良き捧げものとして神に受け入れられています。 

 私たちは、これから、それぞれの場に戻ります。この世の、日常に戻ります。しかし、キリストへ自分を尊い捧げものとして捧げた一人一人は、日々においても、キリストの内にすっぽりと包まれています。キリストの内にあって、キリストを形作る花とされています。私たちはそれぞれの場において、ちっぽけな存在に過ぎません。悪口を言ったり、人を羨んだり、愚痴をこぼしたりします。しかし、すでに私たちはキリストを形作る花の一部なのです。そしてその輝きはすでに現れているのです。さらに主に近づき、その輝きを終わりの日まで増し加えていただきます。 


ペトロの手紙Ⅰ第1章13~25節「ほんとうの平和」

2021-08-01 16:12:14 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月1日日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの平和 」吉浦玲子 

<私たちの平和> 

 私たちが過去にどのような者であったとしても、今現在どのような者であっても、私たちはキリストによってすでに贖われた、つまり罪赦され、罪から自由とされ、救われています。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」とペトロが語っている通りです。しかし、私たちは今現在においては、完全な者ではありません。依然として罪を犯しますし、弱さを持っている存在です。が、それでもキリストの血によってすでに清められた者です。そのことは小さなことではありません。私たちは今も罪を犯しますが、だからといって、キリストの尊い血によって清められ、救いを受ける前の私たちと同じというわけではありません。自分から見たら、変わり映えのしない自分に見えるかも知れません。しかし、同じではないのです。神から見たら大いに変わっている、それまでは神と遠くにいた罪人であったのに、今は神の子とされているのです。それはただ神の慈愛によるものです。そもそもキリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていたお方、神であるお方です。キリストはたしかに人間の歴史上に現れられた方ですが、単なる2000年前にイスラエルに実在した偉人というわけではありません。天地創造の前からおられたお方です。その方がわたしたちのためにこの地上に現れてくださいました。そしてまたその方は死者の中から復活された方です。そのお方、つまりキリストを復活させられた神に私たちの信仰と希望はかかっているとペトロは語ります。私たちの信仰と希望は神にかかっている、逆に言いますと、私たち自身にはかかっていないということです。すでに神の子とされている私たちは、さらに変えられていきます。すでに聖なる者とされている私たちはさらに聖なる者とされていきます。神が私たちの救いのためにすべてを整えられ、今もなお私たちのために働いてくださっているからです。そこに私たちの信仰と希望があります。その信仰と希望において、私たちに平和はあります。私たちが私たちの手で信仰と希望を保ち続けていかねばならないのなら、そこには、平和はありません。絶えず焦りと不安があります。でもそうではない。神にすべてがかかっている、そこに私たちの平和があります。 

 今日は平和主日です。日本基督教団では毎年、この八月第一週を平和主日と定めています。日本基督教団以外でも、この日を平和を覚える日としているところは多いようです。個人的な話をして申し訳ないのですが、私は長崎県佐世保市というところの出身です。長崎県の北部にあります。長崎県南部にある県庁所在地である長崎市はご存知のように1945年広島の三日後の8月9日に原爆が投下されました。佐世保市は長崎市から直線距離でも50キロほど離れていますから、原爆の直接の被害はありませんでした。それでも、子供のころは毎年8月9日は夏休み中の登校日で、学校で原爆の話を聞きました。被爆者の先生も当時はおられ生々しい体験談を聞きました。しかし、原爆を経験している県の中にありながら、佐世保は戦争と共に発展してきた町であり、争いに関わって来た町でもあります。天然の良い港があって、地理的にも軍港として利用しやすいところで、明治以降、戦争と共に発展をし、戦後も、朝鮮戦争やベトナム戦争といった戦争の歴史に深くかかわりながら歩みました。米軍基地によってうるおっていたのです。また私より上の年代の方はご記憶にあるかもしれませんが、1968年にアメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に入港したときは全国から5万人以上の反対派が集結し、機動隊と市街戦さながらの大きな衝突が起きました。そのニュースは子供ながらに記憶があり、催涙弾の巻き添えになった一般市民が市民病院に長蛇の列をなして治療を待っているニュース映像を覚えています。一方で、同じ県内で被爆地である長崎市はカトリックの教会も多く、平和に対して祈りの町と言われていました。しかし、また一方で、県全体として見た時、戦争や、大きな争いのなかに否応なく置かれていました。 

 これもお話したことがあるかと思いますが。私は母子家庭で育ちまして、小学校の低学年まで、佐世保市内の母子寮という母子家庭が20世帯くらいが住んでいる施設にいました。その母子寮には、毎年、米軍基地からクリスマスプレゼントが大量に届けられました。母子家庭の子供たちのためにと集会室の机に山盛りになるほどプレゼントが送られてきたのです。その送られてきたプレゼントは、当時、高度経済成長期とはいえまだまだ貧しかった日本のおもちゃとは比べ物にならないほど豪華なものでした。さらにある年は、米軍基地の中のパーティにも招待されました。米兵たちがとても明るく親切に迎えてくださり、ごちそうやケーキが出てきて、そこでもまたプレゼントをもらいました。全然言葉が通じない、大きな体をしたアメリカ人の男の人たちは最初怖かったのですが、精一杯子供たちを喜ばせようとしてくださっていたのは覚えています。一人一人にプレゼントを手渡していたおじさんは、私にもプレゼントをくださり、はやくそのプレゼントを開けてごらんいう感じで私の顔をにこにこ目を細めて覗き込んでいました。そのおじさんの顔は今でもぼんやり覚えています。しかしあとから考えたら、時代的にいうと、それはベトナム戦争のころで、佐世保はベトナムに出撃する兵士たちの後方支援基地になっていたのです。あのとき、陽気に子供たちをもてなしてくださった青年兵や壮年の兵隊たちの中はのちには、ベトナムへとむかった人もいたかもしれません。そういうことを考えると何か複雑な思いになります。長崎という一つのごく小さな田舎の地方を考えても、平和というのは一体何なのかと分からなくなります。だれもが戦争や争いはしたくないと思っています。でも実際、私たちは平和を守る側にいるのか、平和を壊す者としているのか、それは分からないと思うのです。キリスト教国と一般に考えられているアメリカが、長崎の浦上天主堂のほぼ真上から原爆を投下しました。米国人の宣教師が開拓伝道した大阪東教会の真上から、米軍のクラスター焼夷弾は降り注ぎ旧会堂は全壊しました。実際この世界にあって、今、目の前にいる親切な人が、明日は戦場で誰かを殺しているかもしれないし、私自身がいまこのとき、誰かの平和を壊すことに加担しているかもしれません。この世界では平和というのは主観的なものであったり相対的なものであったりします。 

<信仰共同体の愛> 

 さて、ペトロは語ります。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」キリストを死者から復活させられた神によって私たちは新しく生きる者とされました。信仰と希望において私たちはまことの兄弟愛を持つことができるようになったのです。キリストを復活させられた神の力のゆえに、兄弟姉妹を愛することができるようになるのです。私たち自身が神に愛された存在であることを知ったからです。私たちはもちろん神に愛されていることを知る前から、家族を愛し友人を愛していました。しかし、その愛は不完全なものでした。相手を愛しているつもりでありながら、自己中心的な愛であるということは往々にしてあります。まして自分の気に入らない人を愛することなどはできませんでした。しかし、真理を受け入れる時、つまりキリストの十字架の血による贖いと復活を受け入れる時、私たちはまことの愛を知り、それゆえに兄弟愛を抱くことができるようになったのだというのです。 

 キリストの受難と復活をまことに自分のための出来事として受け入れる時、私たちは愛する者と変えられていきます。そして深く愛し合うことができるようになるのだとペトロは語ります。しかし、聖書を読む時、ペトロ自身、復活のキリストと出会い、ペンテコステののち聖霊を受けても、愛するということにおいて、けっして平坦ではない歩みをしました。ユダヤ人である彼は当初、ユダヤ人ではない異邦人への伝道を躊躇しました。それは長い長い歴史と律法の解釈を背景に考える時、やむを得ないところはありました。DNAに刻み込まれているかのようなユダヤ人の選民意識があったのです。神は人間を分け隔てなさらないということを神によって知らされるまではペトロは分からなかったのです。しかし、神は分け隔てなさらないということを知ったその後も、後輩のパウロに叱責されるように、異邦人と共に食事をしなかったりといったこともありました。キリストの一番弟子であったペトロであっても、なお愛するということにおいて彼は完全ではなく、生涯、さまざまに失敗をした人でありました。 

 しかしまた一方で、そのペトロは確かに見たのです。キリストを直接見ていない、自分よりのちに信仰を得た人々がまことに愛し合っている姿を。一人一人の人間の愛はキリスト者であってもなお不完全ではありますが、しかし、信仰共同体して生きていくそのとき、その共同体の中に確かに愛があることをペトロは知ったのです。キリストのゆえに信仰お希望を与えられ、キリストがお立てになった共同体において、互いに愛し合うことができるようになった姿をペトロは見ていたのです。人間は不完全であっても、なおそこに神が立っておられるゆえに兄弟愛が起こる、愛し合う関係が起こる、人と人の間にキリストが立っておられる、そこに愛があり、愛ゆえに完全な平和があります。それは主観的なものでも、相対的なものでもありません。神の真理の前にあって絶対的な愛であり、平和です。 

<永遠の平和> 

 しかし、現実には世界の歴史を見ると、クリスチャン同士が殺し合い、キリスト教国同士が戦ってきた歴史があります。神に召されて聖なる者とされたはずのクリスチャン同士が争っている、国家間でもそうですし、教会の中ですらそうです。大浦天主堂を破壊し、大阪東教会の会堂も破壊し、無差別に無辜の市民を殺すような力がこの世界に満ち満ちています。教会の中ですら不毛な争いが起こる、それだけ人間の罪は深いし、神から人間を引き離そうとする力も強いのです。平和から争いへと、愛から憎しみや無関心へと人間を向かわせる力は強いのです。人間の中に平和ではない本質があるからです。人間の側から見たら、戦争やテロの歴史は敗北の歴史です。ごく小さな範囲での人間関係にあっても平和はありません。人間の歴史は、人間の正義や良心や知恵の敗北の歴史です。 

 しかし、神から見たらまた違う歴史が見えます。この暗澹とした地上の歴史は、完成に向けた途上の歴史です。神の業は変わることなく一筋に完成に向かって進んでいます。人間の愚かさと関係なく、神の歴史は今も進んでいるのです。有名なイザヤ書の言葉をペトロは引用します。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」草が枯れ、花はしぼみ、壮大な建物も崩れ落ちます。人間の歴史は失敗の連続のようです。しかしその中に一筋に響き続ける言葉があります。それは神の言葉なのです。これはこの世界に対しての楽観論ではありません。人間の罪は深く、人間の為すことは終わりの日まで愚かなものです。これからの人間の歴史がどうなるかは分かりません。しかし、神が人間とこの世界を見捨てられることはありません。変わらぬ神の言葉は、私たちと、そしてこの世界のために今日も未来も響き続けます。その言葉を聞きとめて生きていくとき、そこに本当の平和が与えられます。