大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年11月8日マタイによる福音書13章53-58節

2015-11-13 10:55:29 | マタイによる福音書

説教「奇跡のみなもと」 吉浦玲子

 主イエスは神であり、そしてまた人間であるということがらは、本来、人間には理解できることがらではありません。しかしながら、聖書の信仰はイエス・キリストをどのように理解するか、その一点によって立っているといってよいのです。完全な人間であり、また完全な神であるイエス・キリストという理解がなければ、聖書に記されている信仰のことがらを正しく読んでいくことはできません。

 2000年前に現れたイエスという立派な指導者の教えを守りましょうというのがキリスト教ではないのです。主イエスが神から遣わされた御子であること、つまりまさに三位一体の神であること、そのお方が地上に遣わされ、人間として生きられた。その地上にある時も、神の業をなされたのだということを信じる、それを受け入れることが信仰の本質であり、聖書の信仰です。実際、ここを誤って考える人々は初代教会の時代から多くいたのです。イエス・キリストは人間ではなかった、つまり神の性質しかもっていなかったと考える人々もいれば、逆に、特別な人ではあったが人間であったと考える人々もいました。洗礼者ヨハネに洗礼を受けた時から神の性質をもち、十字架にかかる直前に神のご性質は飛び去ったのだと考えをする人々もいました。

 このようにキリストをどうとらえるか、そこにこそ、聖書の信仰の基本はあり、しかしながらそこにこそ、理解していくことの困難があります。その困難を最初に体験した人々が、たくさん、新約聖書に出てきます。良く出てくるのはファリサイ派とか律法学者といわれる人たちです。彼らは聖書の専門家であったのですが、その中の多くの人々は、目の前に、生きて神の業をなさる主イエスを見ても、それが神の業であるとは理解できませんでした。

 今日の聖書箇所に出てくるのは、主イエスご自身の故郷ナザレの人々です。彼らは良くも悪くもエリート意識を持っていた律法学者とは違い、素朴な人々ではあったと思います。しかし、なお、その人々もまた主イエスを理解できなかったのです。

 彼らは現実にその耳で主イエスの驚くべき教えを聞いたのです。実際、彼らは「会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。」と記されているように、その主イエスの言葉に驚いたのです。たいへんびっくりしたのです。この驚くという言葉はひどく驚くという意味です。あっけにとられるくらいに驚いたのです。主イエスは他の地方で語られたと同じように、驚くべき教えをナザレでも語られたのです。主イエスが到来されるまではこの地上において語られたことのない言葉を、そこで人々は聞いたのです。旧約聖書の時代から約束されていた天の国がいままさに開かれている、そして律法が成就される、その驚くべき言葉を彼らは聞いたのです。「悔い改めよ、天の国はちかづいた」その喜びの知らせを聞いたのです。また山上の説教で語られたようなこれまで聞いたことのない教えを聞いたのです。しかし彼らは悔い改めず、天の国の福音を理解するにはいたりませんでした。

 「この人は大工の息子ではないか」と彼らは言うのです。

 だれでも、自分の幼いころのことを知っている人たちの前に出ると気恥ずかしいというのがあります。小さい頃、あんないたずらをしていた、おねしょをしていた、ああいうことをして叱られて泣いていた、、そんなことを知っている人たちの前では、成人してそれなりに一人前になっていたとしても、いたずらしてた誰それ、泣きべそだった誰それ、という印象で見られてしまいます。

 しかし、親近感や善意から出たものであったとしても、人間が子供のころのことや、その出自のことで、のちのちもなにか色眼鏡で見られるということと、主イエスが故郷で敬われなかったということは、似ているようで、本質的には違う話なのです。いやむしろ、主イエスが普通に律法の立派な先生になって故郷に帰って来たのなら、故郷の人々は「あの大工のせがれが立派になった」と歓迎したでしょう。多少、子供のころあんなことしてたのに、と茶化されたりはしても、57節にあるように「つまづく」ということにはならなかったでしょう。

 主イエスは、ただ立派な人として故郷に戻って来られたわけではなかったのです。特別な権能を神から授かった者としてのお姿をあきらかにされた、そこに人々はつまづいたのです。

 単に奇跡を起こしてたくさんの人の病を癒された人であれば感謝されたでしょう。しかし、主イエスのなさったことは、それ以上のことでした。そこには神の業があったのです。そしてまたその教えも神の権威によりなされていたのです。律法学者のように聖書を研究してそれを説明したわけではなかったのです。主イエスの語る言葉は、人間の言葉でありながら、同時にそれは神の言葉でありました。そこに人々はつまづきました。人間の業以上のものがあることを、人々は理解できなかったのです。彼らは「このような知恵と奇跡をどこから得たのだろう。」と不思議に思います。たしかに彼らは人間の業以上のものを見たのです。しかし、それがどこから得られたものなのか彼らは分からなかった。

 いつの時代にも奇跡的なことを起こす人はあります。主イエスの時代もあったのです。しかし、その力のみなもとがどこであるか、その知恵と奇跡がどこから来たのかというとき、他の奇跡的なことを行う人々と主イエスは違ったのです。人間の特殊な能力によるものではなく、その知恵や力は神から来たものであった、そのことが彼らには分からなかったのです。

 しかし、そのことを分かることが、一番大事でした。その力が、奇跡の源がどこから来たのかが、それが最も大事なことでした。もっとも、ナザレ以外の場所でも多くの人々は主イエスを理解できませんでした。

 しかし、故郷では一層理解されませんでした。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」とイエス様はおっしゃっています。それはなぜでしょうか?

 故郷の人々は誰よりも、自分たちは主イエスのことを理解していると考えていたと思います。自分たちこそが、主イエスのことを知っていると考えていたでしょう。子供のころから知っている、小さい時はどんなふうだった、彼が少年のときこういうことがあった。自分たちは主イエスについて全部知っている、そう思っていました。そして、彼らは自分たちが新たに知るべきことがあるとは考えなかったのです。その言葉を聞いても、奇跡の業を見ても、それがほんとうは自分たちの命に関わる、救いに関わる、驚くべきことであることを気付けなかったのです。

 ルカによる福音書(4章)には同じ場面が、もう少し違う角度で記されています。こちらでは、主イエスご自身が過激な発言をされています。要約しますとこちらではイエス様は人々に、「あなたがたは自分たちこそが救われると思っている、しかしそうではない、天の国のことがらは、あなたたちではなく、異邦人のもとにいくのだ」ということを、エリヤやエリシャの例をとって、おっしゃっているのです。これは律法学者でなくても、ごく素朴なイスラエルの民であっても、激怒するような言葉です。神に選ばれ救いを約束された民であると自分たちのことを考え、一方で異邦人を汚れた人々、神から遠い人々と見下げていた人々にとって、異邦人の方へ救いが行くのだということは赦しがたいことでした。そこで主イエスはたいへんな怒りを買うのです。

 マタイやマルコによる福音書ではそのような記述はありません。ルカによる福音書のような、主イエスが人々を煽るような、あえて怒りを助長するような言葉を語られたという記述があれば、この場面は少し理解がしやすいかもしれません、しかし、本日お読みしていますマタイによる福音書にはそのような記述はありません。しかし、マタイによる福音書の著者はそのような主イエスの過激な発言がなくても、やはり人間は、特に故郷の人々には、主イエスの奇跡のみなもとを知ることは困難なのだということを伝えたかったのだと考えられます。

 ここで、読みとるべきことは、人々が、イエスさまの力の源を知る、そしてそこにこそ救いというものがあることを理解することはむずかしいということです。ルカのような過激な発言の記事はなくても、主イエスの故郷の人々が、自分たちこそ救われるのだと信じていたことは同様です。つまり、「悔い改めよ、天の国はちかづいた」その主イエスの宣教の言葉にある「悔い改めよ」ということを故郷の人々は受け入れなかったのです。その言葉を受け入れるには、大工のせがれの言葉ではなく、その言葉が神から来た言葉であることを理解する必要があったのです。聞いていた人々は人間的にはまじめで素朴な人々だったかもしれません。しかし、その心の中には、まことの悔い改めの思いはなかったのです。ですから神の言葉を語っておられる主イエスの言葉が、大工のせがれの言葉にしか聞こえなかったのです。その大工のせがれにすぎない奴がなにを権威のある言葉を語っているのか、人々はそこに不信感を持ったのです。理解が出来なかったのです。つまづいたのです。

 「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とあります。不信仰とありますが、信仰とは何でしょうか。それは立派なことをするとか、聖書の勉強をするとかということではありません。そういうことはもちろんやったらいいことですが、信仰の本質のところにあるものではありません。信仰は最初に申し上げましたように、主イエスを神であり人間であると信じるということです。主イエスの言葉を聞いて神の言葉と理解し、主イエスの業を神の業と信じるということが信仰です。言葉そのものは人間の言葉です。人間の言葉でなければ人間には理解できません。しかし同時に、その人間の言葉が、神から来たものであることを知らねばなりません。そして主イエスを主として、主イエスの前にひれ伏すということが信仰です。私たちが礼拝において告白しています使徒信条には「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に続いて、「われはその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」とあります。イエス様を「主」、わたしたちの主人、神、仰ぐべき方として信じている、と告白します。それが聖書の信仰です。

 もし主イエスの言葉を人間の言葉としか理解せず、大工のせがれだとしか理解せず、主イエスの業を人間の業としか理解しないのだったら主イエスの前にひれ伏すことはできないでしょう。「われらの主」とは言えないでしょう、それが不信仰です。その不信仰な人々には結局、神の業も神の業とは見えないのです。そのようななかで、主イエスはあまり奇跡をなさらなかったという結果になったのです。

 私たちもまた、聖書を読んで、これは昔の人が書いた立派な教えの本だとだけ理解しているのなら、それは本当の信仰ではありません。自分の身の回りに起こる神の導きを偶然とか、現実的な力の結果とだけ考えているなら、そこに神の奇跡は見えません。

 そのためには私たちは絶えず、自分が神の前で小さな者であることを覚えないといけません。私たちが絶えず貧しいもの、欠けたものであることを覚えないといけません。ナザレの人々のように主イエスの言葉を新しい言葉として必要としてないと考えてはならないのです。

 そしてもうひとつ重要なことは、今日の聖書箇所で「故郷」というのはどこかということです。聖書の見出しにはナザレと書いてありますが、聖書本文にはナザレとは記してありません。あえて故郷と書かれています。故郷とはどこでしょうか?もちろんそれはナザレでもありますが、ある神学者は、この故郷とはイエスさまが働かれるところだと語られていました。

 イエス様はどこでお働きになるのか?それは私たちの日々のなかです。

 私たちが生活をしているところ、慣れ親しんでいる場で、そこで主イエスは働かれるのです。どこかに特別に祭りたてて、特殊な場所で、イエスさまが働かれるのであれば、イエス様は故郷で働く方ではありません。教会に併設されている幼稚園の園長をされたある牧師がこうおっしゃっていました。キリスト教幼稚園では毎日礼拝をしていて、子供達も神様の話を聞いて讃美歌を歌っていたそうです。子供達にとって神様やイエス様というのはいつも聞いてる親しい存在だったようです。しかし、その幼稚園の園児たちが幼稚園から帰っていく時、何人かの子供たちがなんと言っているか聞いてその牧師はびっくりしたそうです。その子たちは、幼稚園の門を出る時、幼稚園の方を向いて「神様さようなら、また明日」「イエス様、バイバイ」と言って帰っていたそうです。

 神様は幼稚園のチャペルの中にいるように子供達は思っていたようです。イエスさまも幼稚園の中に住まわれていると考えていたようです。

 しかしそうではないのです。私たちが普段いるところに神はおられ、主イエスの力はそこにこそ及んでいます。礼拝が終わって、礼拝堂のほうを見て、「神様さようなら」「イエス様、また来週」ということでは、もちろんないのです。

 でも、それは逆に人間にとってどうでしょうか?自分の慣れ親しんだ領域に神様の支配が及ぶということは必ずしも嬉しくない部分もないでしょうか?それは、自分の普段いる場所で自分の好き勝手にはできないということです。どこか聖なる特別なところにだけイエス様はいてくださって、困った時に相談に行けた方が気軽ではないでしょうか?

 しかし、そうではないのです。イエス様は故郷でお語りになるのです。私たちの一番慣れ親しんでいる場所で共にいてくださるのです。でもそこからこそ、私たちは神を追い出したいという気持ちがあるのではないでしょうか?自分こそが自分の普段の生活の<あるじ>である、主イエスは特別な時の方であってほしい、つまり主イエスを、<普段の生活の主>として、<故郷での主>として認めたくないという気持ちがあるのではないでしょうか。それこそが罪なのです。人間は普通には、自分たちの故郷で神を迎えたくないのです。特別なところに神はいてほしいのです。故郷で主イエスを敬わない人間が、故郷から、つまり自分たちの日常から主イエスを追い出すために、最終的には十字架に主イエスをつけてしまったのです。

 しかし、逆にいえば、主イエスはいつも一緒にいてくださるのです。十字架にかかられることを御存じで、なお、わたしたちの日々に、故郷に来てくださったのです。いつも神の言葉を語りかけてくださるのです。主イエスこそ我らの主と告白し、ひれ伏すとき、故郷で共にいてくださる主イエスをまことに喜ぶことができます。聖霊によってそのことを信じさせて頂きます。主イエスの奇跡の源を信じることができます。そしてその時私たちの上にも、私たちの故郷にも、奇跡が起こります。

 


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