大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録第21章1~16節「別れの先にあるもの」

2021-03-07 16:07:21 | エフェソの信徒への手紙

2021年3月7日大阪東教会主日礼拝説教「別れの先にあるもの 」吉浦玲子 

【聖書】 

 わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。 

わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。 

 わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」 

 わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。 

 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。【説教】 

<別れ> 

 3月になりました。最近は9月入学や入社も増えていますが、まだまだ日本では学校の進級進学の区切りは多くの場合、3月となっています。ですから、3月というのは、卒業の季節であり、別れの季節でもあります。様々な別れが私たちの人生にはあります。お互いに生きているならば、多くの場合、再会の希望はありますが、二度と会えない別れもあります。そしてそれが再び会えない別れとは知らず別れる別れもあります。 

 今週は東北の大震災から10年目となります。10年前のあの日もおびただしい人々が、別れの言葉すら交わすことなく、突然の別れを迎えました。牧師として葬儀を司式します時、ヨブ記の中の言葉であります「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」という聖句を必ず式辞や祈りの中で語ります。神はたしかに私たちにすべてを与え、そして奪われます。しかし、現実に思いもかけぬ別れを体験する時、それが神のなさることだとは言っても、耐えがたく、残酷に感じます。まさに神は私たちの大事なものを奪われ、心の一部分までも奪われるように感じます。しかし一方、キリスト者は、この地上で別れても天でふたたび会うことができる、そのことを希望として持っています。それは絶対的な慰めであり、希望です。その希望を持ちながらも、やはり耐え難い別れというものはあり、奪われる悲しみはあります。 

 今日の聖書箇所はパウロがエルサレムへ向かう途上のことが書かれています。「わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した」とあります。パウロたちはミレトスでエフェソの教会の人々と別れて船出したのです。ここで「別れを告げて」と訳されている言葉は「引き離されて」あるいは「引き裂かれて」ともいえる強い言葉です。聖霊に示されパウロが御心と信じ、決断した歩みでありながら、パウロにもエフェソの人々にも、心の糸が引きちぎられるような悲しみがあったのです。 

 昔、広島にある修道院に泊りがけで黙想に行ったことがあります。その修道院の裏手にひっそりと墓地がありました。幼稚園の園庭くらいの広さの墓地には、いろんな国からやってきた修道士たちの墓がありました。スペイン、イタリア、アルゼンチン等々、皆、聖霊に導かれてはるか東の果ての小さな島国にやってきて、キリストに仕え、広島の地で生涯を終えた人々でした。彼らにも故国郷に家族があり、友がいたでしょう。当時私は、まだ献身ということは全く考えていなかったのですが、遠い国から愛する人たちとのつながりをすべて断ち切って、遠い国にやって来た人々の墓を見ながら胸に迫るものがありました。また三年前のことですが、急にある集会での奨励を頼まれました。もともと奨励を為さる予定だったカトリックの司祭さんが突然、天に召されたので、私が代役を依頼されたのです。召された司祭さんは、私は直接存じ上げない方でしたが、アフリカのケニアの出身で、その方の葬儀に親族の方々が日本に来るのにたいへん時間がかかり、一週間以上のちに葬儀が営まれたと聞きました。いくら交通が便利になったといっても、現代でも、何かあっても、すぐには駆けつけることのできない距離に離れていたご家族の心をつくづく思いました。自然災害のように意図せずに関係を奪われる別れであっても、覚悟の上の別れであっても、そこに痛みはあります。 

 しかしまた、生きていくということ、神の御心に従って生きていくということは、人との別れ―奪われること―にまさる神の恵みに生きていくということでもあります。別れの痛みを神によって越えさせていただき、新しい歩みを始めるということです。パウロもエフェソの人々も、神によって引き裂かれた思いの中で、また神によって新しく歩み始めたのです。 

<どちらが正しいのか> 

 その後、パウロは、ティルスで、そしてまたカイサリアでも、人びとに別れを告げました。そしてまたいずれの町においてもパウロは、人びとにエルサレムへ行くことをやめるようにと乞われます。ここで注意したいのは、パウロをエルサレムへ行かないようにと引き留めている人々は、けっして人間的な感情で引き留めているわけではないということです。ティルスでは「彼らは”霊”に動かされ、エルサレムに行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」とあります。またカイサリアにおいても、預言することのできるアガボという人が聖霊のお告げとしてパウロがエルサレムで逮捕されることを語ります。このアガポという人は使徒言行録の11章にも出てきた人で、大飢饉を預言した人です。そしてまたカイサリアで、パウロが滞在していて、アガボが訪ねて来たのは、フィリポの家でした。「例の七人」と書かれているのは、フィリポは使徒言行録6章に描かれている、選ばれた7人の執事のうちの一人だったことを示しています。そして使徒言行録8章にはのフィリポが、エチオピアの宦官を救いに導いたと記されていました。さらに、この使徒言行録の著者であるルカ自身も、今日の聖書箇所の14節で「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので」と書いています。つまり<わたしたち>、つまり著者であるルカも含めたパウロの同行者が、この時点でパウロのエルサレム行きに反対をしていたことが分かります。こういうことを総合しますと、カイサリアでパウロを引き留めた人々はけっして、人間的な情でパウロを引き留めたのではなく、むしろ信仰的な思いで引き留めたのです。 

 しかし、一方で、パウロ自身も、聖霊によって導かれてエルサレムに行こうとしていました。20章で「わたしは、”霊”に導かれてエルサレムに行きます」と語っているとおりです。そしてまた、パウロ自身も、エルサレムで投獄と苦難が待ち受けていることを聖霊によって知らされていたのです。エルサレムに行こうとするパウロと、パウロを引き留めようとする人々に双方に対して、聖霊なる神は、エルサレムでパウロが逮捕される、苦難に遭うという、同じ内容を示しているのです。それぞれに聖霊に聞き、聖霊に促されて語っているのです。大筋において同じことを聞きながら、パウロは行くといい、ティルスやカイサリアの人々、そしてルカたちは行くなと言っているのです。皆がそれが御心だと思って言っているのです。それぞれに御心と思ってはいたけれど、パウロもしくはパウロ以外の人々のどちらかが間違っているのでしょうか? 

 これからのちのキリスト教の歴史を知っている私たちは、エルサレムに行ったパウロはそれを契機として、ローマに行くことになりました。さきほどルカがパウロのエルサレム行きを反対していたと申しましたが、ルカの反対の理由は、おそらくパウロ自身がローマを目指していたことを知っていたからです。パウロがローマに行く前に逮捕されたり、殺されたりしてはいけない、そうルカは考えて反対していたと思われます。しかし、結果的にパウロはローマに行きました。2000年後の私たちは、そのことがキリスト教にとって大きなことであったことを知っています。ですから、エルサレムに行くと言ったパウロこそが御心を為したのであって、エルサレム行きを止めようとした人々はルカを含めて、御心を見誤っていたと考えてしまうところがあるかもしれません。 

 しかし、そうとは単純に決めつけられないのでしょう。やはり、どちらが正しいとも言いきれない、ぎりぎりの判断というものがあるのではないかと思います。実際、パウロ自身も、動揺していたことが分かります。13節に「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか」とパウロは言っています。「心をくじく」と訳されている言葉は「心を砕く」「心を粉々にする」という言葉です。英語でbreaking heart、あるいはcrash heartとなります。パウロは人々が何と言おうと、100%の自信をもって揺るぎなくエルサレムに行くと宣言したのではなく、御心を求めながら、心が散り散りになるような思いだったのです。 

 私たちの日々には、すっきりと行く手を示される時もあれば、悩みつつぎりぎりの判断をするときもあります。そしてまた自分の判断のために、多くの人々を悲しませ、パウロのように人々を悲しませながらも進む時もあります。そしてまた、あとから考えて、過去の判断が正しかったのか迷う時もありあります。やはりあの時の判断は失敗だったのか、祈って決めたはずなのに、自分の思いが先走っていたのだろうか?そう悩む時もあります。 

 しかしそのすべてのことを含めて、私たちは神に委ねて生きるのです。大胆に言えば、私たちの判断の正しさや誤りは大きな問題ではないのです。ただただ、どれほど祈ったか?神に求めたか?が問題なのです。私たちは罪深い者ですから、祈りつつも、自分の勝手な思いを捨てきれず、御心を聞きとり切れない時もあるかもしれません。しかし、それでも祈って求めたのであれば、神がすべてを良いものとしてくださるのです。私たちが誤ることなく御心を聞きとり、正しく判断をしたときだけ、神が私たちを助け、導いてくださるとしたら、私たちの未来はずいぶんと硬直したものになります。私たちは失敗して良いし、間違っても良いのです。こういうと無責任ではないかと思う方もおられるでしょう。しかし、神のご計画、そして恵みは私たちの判断や行動のいかんに関わりません。 

<御心がなりますように> 

 「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ。」とルカは語っています。「御心が行われますように」という言葉は「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と主の祈りの中にも同じような言葉が出てきます。そもそもクリスチャンとは、「御心を求め、御心のなることを求める」者たちであると言えます。しかしまた、「御心」を、逃げ口上のようにクリスチャンは使ってしまうこともあります。自分の祈りを祈る前から「御心がなりますように」「御手に委ねます」と神に丸投げするような姿勢は実際のところ神にまったくゆだねてはいないのです。偽善者の祈りです。「御心がなりますように」「御手にゆだねます」と言いつつ、御心をまったく問うていないのです。しかし、実際のところ、自分の願いを願わず、「御心がなりますように」「御手にゆだねます」ということが、信仰の優等生だと勘違いしている人が多いのです。祈りを通して、神が私たちに思いを問うておられるのに、神との交わりをなしていないのです。それは実際のところ、御心を問うことを放棄している姿勢です。 

 その勘違いは、主イエスのゲツセマネの祈りを表面的にとらえていることから来ます。十字架におかかりになる前、主イエスはゲツセマネで祈られました。そしてまず主は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。つまり十字架にかかることを避けさせてくださいと願われたのです。苦しみもだえ、汗が血の滴るように地面に落ちた、とルカによる福音書に描かれています。私たちは血のような汗を流して祈ることは生涯に何度もないかもしれません。またパウロのように悩みおののき、心くじかれ、なお聖霊に問うことも多くはないでしょう。しかし、恐れつつ悩みつつ、ぎりぎりの思いで御心を問うところに、御心は為されるのです。私たちは心素直に自分の願いを神に申し上げます。神に願いを申し上げるからこそ、また精いっぱい御心を聞こうとするのです。しかし、結果的に聞き間違えてしまうかもしれません。誤った方向に行くかもしれません。しかしなお、心砕かれながらも御心を問う者の上に必ず御心はなるのです。一方で、ぎりぎりの祈りをすることなく、安易に優等生のつもりで「御心のなりますように」「御手にゆだねます」と祈るとき、私たちは永遠に御心を知ることはできません。 

 祈りは神との格闘です。旧約聖書でヤコブが神と格闘したように、私たちもまた、祈りを通して神と精いっぱいの格闘をします。受難節、私たちはゲツセマネの主イエスの祈りを覚えつつ、御心を問います。そのとき、必ず、私たちの上に、また教会の上に御心がなるのです。 

 

 


エフェソの信徒への手紙5章21~35節

2020-01-27 09:32:53 | エフェソの信徒への手紙

大阪東教会主日礼拝説教 エフェソの信徒への手紙5章21~33節「神の愛と夫婦の愛」吉浦玲子牧師

<キリストへの畏れをもって>

「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」

 仕え合うという言葉は、従順になる、従うという言葉です。キリストがすべてのものの上におられます。キリストは十字架と復活の後、いまは父なる神の右に座しておられ、すべての権威をいただいておられます。そのキリストへの畏れをもって、私たちは互いに尊重し合うのです。仕え合うのです。これが人間関係の基本だと聖書は語るのです。キリストへの畏れのないところには、本当の意味での相手に対する尊重の心は与えられないのです。それは夫婦でもそうですし、親子、そしてまた職場や地域と言ったさまざまな人間関係でもそうです。キリストへの畏れがないところには本当の意味での人間の豊かな関係はなく、キリストへの畏れのないところにあるのは力関係であり、利害関係であり、依存関係なのです。

 その関係の中で、今日の聖書箇所では特に夫と妻について語られています。受洗前に聖書の学びをしていたころ、どうも納得できなかった箇所のひとつがこの聖書箇所です。

「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」

 今日の男女同権の社会において、夫が妻の頭である、ということはどう感じられますでしょうか?世代や地域によって捉え方はさまざまではないかと思います。私が育った九州は男尊女卑がきつい地域でした。私くらいの世代の男性でも、おそらく他の地域の男性に比べると、だいぶ「おれは男だ!」と男性優位的な感覚の人が多いと感じます。大阪と比べてもそうです。そういう風土で育ったこともあり、個人的には余計、男性上位を肯定しているように感じられるこの箇所には違和感を持ちます。一方、夫に対しては

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」

と語られています。昔、この箇所についてお話してくださった先生は、「これは夫の方が厳しいことを言われているんですよ」と語られました。キリストが<ご自分をお与えになったように愛する>ということは、つまりは<あなたは相手のために死になさい>ということなのだ、と言われました。夫への要求項目の方が、妻への要求項目より格段に厳しいのだと。そうなりますと逆差別であるようにも感じます。

 聖書を学んできて、改めて、この箇所を読んで思うことは、たしかに夫への言葉の方が多くて厳しいのです。妻には夫を頭とせよ、夫を敬えと語られていますが、夫に対しては、キリストのように自分を与えよ、そしてまたさらには自分の体のように妻を愛せと語られています。

 時代背景を思う時、当時としては、この言葉はたいへん画期的な言葉であったと思われます。今日より、当時はもっと女性の地位は低かったのです。そもそもモーセの時代の律法には離縁状を書いて夫は妻を離縁すると記されていました。それは、離縁を推奨するのではなく、むしろ夫が身勝手に妻を離縁しないように、せめて離縁状という手続きを踏むようにという弱い立場の女性を保護するためのものでした。福音書を読みますと、夫が妻を離縁することについて問われたイエスさまはさらにモーセの律法より推し進めて、離縁をしてはならない、神が一つにしたものを離してはならないと応えられました。それに対して、弟子たちはそんなに離縁することが難しいのなら最初から結婚しない方がましだと応えます。そのような福音書のやりとりから分かりますことは、新約聖書の時代であっても、男性側からは容易に女性を離縁できたということです。女性は男性の持ち物のようなものでしかなかったのです。

 そのような新約聖書の時代に、今日の聖書箇所では、夫は命をかけて妻を愛せと語られています。この言葉は、弱い立場であった女性を保護する言葉であると同時に、まったく新しい夫と妻の関係を求めるものでもありました。夫婦はキリストの下にキリストへの畏れをもって互いに仕え合うのであり、ことに強い立場である夫は、命をかけて自分の体のように妻を愛さねばならない、妻を邪険に扱ってはならないと語られているのです。

<神のもとにある秩序>

 今日の聖書箇所に続いて「子と親」「奴隷と主人」への言葉があります。これらを読んで分かりますことは、聖書はあくまでも、現実のこの世の秩序を壊すものではないということです。夫と妻も、親も子も、主人と奴隷も、今日的な単純な意味での平等主義では語られてはいません。それぞれに置かれた立場が異なっていることを明確に示しています。夫と妻は立場と役割は同じではない、親と子も、奴隷と主人も同様です。ただし夫と妻の役割が違うというのは、古い意味での役割分担のことではありません。夫が外で働き、妻が家を守るとか、男性が指導的な立場にあって、女性はアシスタントであるべきということではありません。

 しかし、どのような人間関係も、与えられている秩序の中でそれぞれにふるまうべきであることが語られています。そしてそれぞれに違う立場の者が、この世のあり方としては、片方がもう片方の上に立つ場合にあっても、そのすべての関係のさらに上に神がおられるということをわきまえなければならないと語られています。子供の人権というのも近代になるまでは考えられていませんでした。やがて一家の労働力となるまで、父親の良いように子供は扱えたのです。しかし、「子供を怒らせるな」と聖書は語ります。また奴隷の主人に対しても「奴隷を脅すな」と語られています。立場の強い者には相応の態度が求められるのです。そして何より、妻と夫の上にも、子と親の上にも、主人と奴隷の上にも、神がおられることをわきまえ、それぞれに相手も神から愛されている人間であることを覚えつつ、互いに仕え合いながら共に生きねばならないことが語られています。

<神との関係>

 すべての関係は、神の下にあると同時に、その関係自体が、神と人間の関係と相似形になっているとも言えます。夫と妻の関係もそうです。花婿と花嫁は、聖書においては、神と神に愛される人間の関係をあらわすものです。旧約聖書にある雅歌という詩集もそうです。雅歌では、たいへんエロチックな表現で若い恋人たちの姿が描かれています。しかし、その愛し合う恋人たちの姿は、神と私たちの姿でもあります。私たちはただ頭や心や精神だけで神を愛するのではなく、体も霊的なものもすべてをかけて神を愛するのです。よく神の愛はギリシャ語でいうアガペーという見返りを求めない崇高な愛であり、それに対して、ギリシャ語のエロスであらわされる肉体的なことも含めた愛は、愛として劣るように考えられます。しかし、そうではないのです。人間にはアガペーもエロスも、そして一般に友愛と言われますフィレオという愛も必要なのです。それは神ご自身がアガペーにおいてもエロスにおいてもフィレオにおいても人間を愛してくださるからです。しかしまたその愛の激しさという側面から見るとき、雅歌に描かれる愛の狂おしさもまた神の愛の一面なのです。

 日本人は良くも悪くもまじめなところがあります。神の愛を崇高で気高いものであると思うあまり、自由に愛し合い喜び合う関係性を自分と神との間に持ちにくいところがあると思います。神はある面、狂おしいほど人間を求め愛されるのです。旧約聖書において「わたしは妬む神である」と神ご自身が語られています。私たちはもっとダイナミックに神の愛をとらえるべきだと思います。

 一方で、親と子の関係もまた、教え教えられる関係としての神と人間の姿を表します。神は人間を訓練なさいます。出エジプトした民を40年間、荒れ野で天からのマナを食べさせ、神と共に生きることを訓練されました。私たちもまた神から訓練を受けます。訓練は通常あまり楽しいことではないことが多いです。しかし、親が子供を訓練するように神はあえて試練や誘惑をくぐらせて、私たちを訓練されます。私たちが神と隣人への愛を知るためです。何より神が自分を愛してくださっていることを知るためです。

 主人と奴隷の関係もそうです。ここでは夫と妻よりさらに端的に、主人と仕えるものの関係があります。私たちは神に仕えます。神に従順に生きるのです。しかしこれは、なによりキリストが私たちに仕えてくださったことによります。キリストが僕としてー僕というのは奴隷ということですがー私たちに仕えてくださった。弟子たちの足を洗い、私たちの罪を担って十字架にかかってくださった。キリストが私たちの下にあって、仕えてくださった。そのことによって私たちは永遠の命をいただきました。それゆえに今は父なる神の右に座しておられるキリストを私たちは畏れ、仕えるのです。

<教会>

 そして夫と妻の関係においては、それはキリストと教会の関係の相似形でもあります。教会はキリストを頭とする、キリストの体です。頭と体は分かちがたく結びついています。夫が頭であり、妻が体である、というのはどちらが上ということ以上に、頭と体は分離しがたいものだということを表します。

 そしてまた信仰共同体としての教会において忘れてはならないのはキリストが頭であるということです。頭であるキリストを離れて教会は存在しえないということです。しかし実に多くの教会においてキリストがなおざりにされています。キリストの体であるはずの教会が頭なるキリストを離れて、人間中心のあり方になっています。この世の組織やコミュニティとなんら変わらぬ状態になっています。そこにはキリストへの畏れがなく、最初に申し上げたように、力関係、利害関係、依存関係が中心となり、まことに愛にあって仕え合う関係はありません。

 「キリストがそうなさったのは、言葉と共に水で洗うことによって、教会を清めて聖なるものとし、 染みやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、傷のない、栄光に輝く教会を、ご自分の前に立たせるためでした。」

とあります。言葉なる神であるキリストの福音の言葉によって教会は洗われます。洗われるというのですから、洗われる前と後では違いがあるのです。神の言葉によって洗われた時、人間も教会も変わります。変わっていなければ、それは洗われていないのです。キリストが十字架の死をもって人間を贖いとってくださり、教会を立て上げられたことをまことに信じるとき、人間も教会も御言葉による洗いを感謝して受け、変わっていきます。そしてまた水で洗うというのは洗礼を指します。教会はそれ自身、キリストの水によって洗われ、たえず悔い改めていきます。そして新しい信仰者を生み出していきます。

 一方で、正確な言葉を確認できなかったのですが、アウグスティヌスは、「染みやしわのない地上の教会はない」というような言葉を残しています。私たちは完全な教会である天の国の教会の礼拝にやがて招かれます。それに対して、この地上にあるすべての教会には染みやしわがあるのです。キリストが血によって贖い、立ててくださったにも関わらず、罪人の集まりである地上のすべての教会には染みやしわがたしかにあります。しかしなお、キリストはその教会の頭として導いてくださいます。体である教会の痛みを誰よりも痛まれるのは頭であるキリストです。人間の体であっても痛みを感じる中枢は脳にあります。キリストは地上の教会の痛みを担いつつ、なお、愛し導かれます。命を与えてくださいます。私たちはそのキリストを畏れつつ従順に歩みます。日々、聖霊によって御言葉を聞きながら、洗われながら歩みます。


エフェソの信徒への手紙5章6~20節

2020-01-27 09:03:09 | エフェソの信徒への手紙

大阪東教会終日礼拝説教 2020年1月12日 エフェソの信徒への手紙5章6~20節光によって明かされる

<二つの世界>

 人間の思いは実現するといわれます。昔々の人々が、人間が空を飛ぶという思いを持ちました。レオナル・ド・ダビンチも人間が空を飛ぶイメージ図を残しました。まだ現実には現れていない、目には見えていないものを、人々は思い描き、やがてその思い描いていたものが現実に目に見えてくる、実現する、そういうことがあります。ある牧師がおっしゃっていました。クリスチャンは二つの現実の中で生きている、と。ひとつは目に見える現実の世界、そしてもうひとつが霊の世界であると。その二つの世界、二つの現実に、信仰者は生きているのです。現実の世界と霊的な世界は対立していたり、別々のものではありません。むしろ現実の世界は、肉眼には見えない霊の世界によって動かされているのです。見えない霊の世界は神の現実の世界であるとも言えます。神の現実の世界は霊的な目で見なければ見えません。レオナル・ド・ダビンチが思い描いた空を飛ぶことが、数百年後に当たり前になっているように、見えない霊的な世界、神の現実が、今見える現実の世界を動かすのです。人間の思いでも飛行機やヘリコプターやドローンを作り出すことができます。しかし、人間の思いを越えた神のご計画がなる霊の世界はさらに決定的な力を持っています。人間の肉体の目や常識的な認識ではどうしようもないように見える世界が、霊的な目で見るとき、まったく違って見えます。どうしようもなく絶望的で先の見通しが見えないと思える現実が、むしろ神がすでに新しいことを始められているいきいきとしたフロンティアであったりします。逆に豊かに栄えて華やかに見えるところがサタンの巣窟で人間を疲弊させ破滅に導く場所であったりします。

旧約聖書時代の預言者のエリシャの住む町が大国のアラム軍に包囲されました。朝、エリシャの召使がアラム軍のおびただしい数の戦車や軍馬を見て怯え怖れていたら、エリシャが召使の霊的な目を開きました。神の現実の世界を見せたのです。するとそこではアラム軍よりももっと多くの神の軍勢が満ちていたのです。火の馬と戦車が自分たちを囲んでいたのです。

 私たちは信仰をもって生きている時、このような二つの世界を実際に体験するのです。そしての信仰者の最も大きな罪は、神の現実を見ずに、目に見える現実だけを見るということです。目に見える現実しか見ないとき、この世の価値観に支配され、世俗化していきます。人間中心の考えになっていきます。

この大阪東教会は来月で創立138周年を迎えます。138年前、教会を大阪の地に建てようと考えた人々は、今日でいうところのマーケティングリサーチをして、ここに教会を建てたら、教勢が伸びるだろうとか、資産計画を立てて何年で投資を回収しようと考えて建てたわけではありません。まだ現実には目に見えていないけれど、神が描かれる現実が、ヘール宣教師をはじめ草創期の信仰者には見えていたのです。

  「光の子として歩みなさい」と今日の聖書箇所では語られています。それは目に見えない神の現実を歩むということです。神の現実を歩んでいる時、私たちは光の子なのです。それに対して、目に見える現実だけにとらわれているとき、私たちは「むなしい言葉」に惑わされるのです。むなしい言葉といっても、それはことさらに馬鹿げた言葉であるとか、不品行で悪徳に満ちた言葉というわけではありません。神の現実を見ない言葉なのです。でも、神の現実、神の現実と言うけれど、この世の現実は厳しいではないか?エリシャのところに神の軍勢がやってきたようには、私の現実の生活には助けが来ないではないかと感じることもあります。私自身、振り返ってみても、住宅ローンや子供の教育費はたいへんでした。たしかに、日々の労苦は現実にあります。その現実から逃避することはできません。しかし、光の子には神が指し示してくださるものがあるのです。まだキリシタン禁制の高札がとられたばかりのころ、キリスト教は恐ろしいものだと思っていた人々は、宣教者がやってくると逃げ去っていき、宣教は困難を極めました。しかしその草創期の宣教者に教会のビジョンが与えられました。神の現実を見せられたのです。現実の苦しさの中でも、私たちには確かに神の現実、神の未来を指し示されるのです。

その神の現実は、祈りによって示されます。つまり現実の世界から、神の世界へアクセスするのが祈りです。そして祈りを導くものが御言葉です。日々、御言葉に聞かず祈らない者には神の現実は示されませんし、光の子としての歩みを与えられません。ただ生まれたままの闇の子供として、この世の現実の中で生きていくしかないのです。

<光の子として生きる>

 光の子として生きるということは、神の現実、霊の世界に祈りによってアクセスしながら生きていくということです。それは現実世界の中で、必ずしも光り輝くような脚光を浴びて生きることではありません。むしろ暗いところ寂しいところに生きるのです。そういうはなんだかいやだと感じられるかもしれません。しかし、光の子はキリストの光のなかを生きています。ですから、この世的な華やかさやにぎやかさは不要なのです。

 去年まで大阪東教会を会場としてコンサートが開かれていました。そのコンサートに吉村美穂さんというソプラノ歌手が良く出演されました。素人にもその歌は、本格的なクラシックの歌手なのだなあと感じさせる歌声でした。未信徒の友人が何人かコンサートに来てくださいましたが、大きなインパクトを受けられたのが彼女の歌声でした。その吉村さんがかつてウィーンで音楽活動をなさっていたのは存じ上げていたのですが、詳細を聞くと、想像以上にすごい実績のある方だったのだということが分かりました。世界でも屈指のオーケストラであるウィーンフィルの専属の合唱団員だったそうです。新年に毎年、ウィーンの楽友協会という歴史的な建築物でもあるホールでウィーンフィルのニューイヤーコンサートが開かれ、それは全世界で放映されますが、その楽友協会が吉村美穂さんの合唱団の活動拠点だったそうです。ウィーンフィルと共に、日本を含めた海外公演もなさったそうです。音楽の都ウィーンにおいて、学友協会所属の声楽家の身分は保証されていて、生涯年金ももらえる待遇だったそうです。でも、吉村さんは、その待遇を捨てて福音を伝えるゴスペルシンガーになろうと10年ほど前に帰国されました。楽友協会の大ホールで活動していたのに、小さな教会や、町の商店街のイベントやらで歌うようになられました。音楽家のキャリアという点で言えば、脚光を浴びるところから、暗いところ寂しいところに来られたともいえます。しかし、吉村さんにとって、神を賛美し、キリストの福音を伝えることこそが、光の子として歩む道だったのです。

そもそも、光の子として生きるということは、自分自身の内には光がないということを知らされて生きるということでもあります。逆に、自力で光ろうと努力する必要はないということでもあります。「インスタ映え」という言葉も、もう、少し古いのかもしれませんが、他の人の前で、自分を良く見せようとする必要はないのです。ありのままの自分で生きるのです。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」ありのままで生きていく中で、私たちの内なる闇、罪も明らかにされます。キリストの光にさらされなければ、私たちの闇は明らかにはされません。キリストの光にさらされるとき、闇は消え去ります。朝の光で、夜の闇が掻き消えるように、私たちの内なる闇がキリストの光によって明らかにされたとき、その闇は掻き消えます。キリスト者として生きるということは、洗礼によってまずキリストの光を与えられ、それまでの罪が打ち砕かれます。しかし、それで終わりではありません。生きている限り、私たちは、少しずつ内なる闇をキリストによって明らかにされながら、砕かれていくのです。

今日の聖書箇所の前の箇所で「聖なる者」という言葉が出てきました。神から取り分けられた者ということでしたが、キリストの光に照らされながら、私たちはますます聖なる者へと変えられていくのです。「眠りについている者、起きよ。/死者の中から立ち上がれ。/そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」私たちは闇の子供でありながら、キリストの十字架と復活によってその闇の中から立ち上がる者とされました。罪による死に向かわざるをえない人間が、いまやキリストによって照らされているのです。

<実を結ぶ生き方>

 そして私たちはこの現実の世界で実を結びます。豊かな実を結ぶのです。祝福されるのです。実を結ぶ花は必ずしも華やかであるとは限りません。華やかで豊かなように見えた者が、結局、なにも残さない、実を結ばないということがあります。ひとときのあだばなのように咲いて、後に残るのは混乱とむなしさだけであることがあります。

 光の子として実を結ぶために私たちは無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟る者として歩みます。「今は悪い時代なのです」と言われていますが、「悪い時代」とは誘惑の多い時代ということです。人間のこざかしい知恵が満ち、傲慢が満ち、自分では分別がある者のように勘違いして、神の御心から離れていく者が多い時代だということです。それはパウロの時代だけではありません。キリストの到来によって、照らされてて明らかになる「時代の悪」があるからです。

 酒に酔いしれてはなりませんとありますが、これは禁酒せよといっているのではありません。酒に酔うということと、神の霊に満たされるということが対比されているのです。酒に酔っているとき、ひととき満たされたように感じるけれど、そのような満たされ方ではなく、むしろ神の霊によって満たされるべきだということです。「詩編と賛歌と霊的な歌」によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさいとあります。

かつて、人工呼吸器を装着されたり、かなり痛みをともなう治療をうける必要のある苦しい闘病の時を耐えていた婦人をしっています。その婦人は、ことに痛みを伴う治療を受けるとき、絶えず主の祈りを心の中で祈っていたそうです。詩編と賛歌と霊的な歌は私たちを守るものです。この世の絶望から守り、この世のむなしい言葉から守るのです。その婦人は単に苦痛から心をそらすために、主の祈りを唱えていたわけではなく、苦しい現実の中で、なお神の現実にとどまっていたのです。

 私たちも光の子として、神の現実を生きるために、詩編と賛歌と霊的な歌をこの世を戦うための武具として身につけます。私たちの祈りは、ときとして、だんだんと習慣化、形式化してくるようなところがあります。しかし、旧約の時代の詩人たちが残した詩編は、もともとは礼拝において声に出して歌われていたものです。賛美も信仰者が神を賛美したものです。私たちは密室で一人で祈っているときも、なお、詩編や賛歌に心を合わせるとき、それらを最初に歌った人の信仰や祈りに自分を合わせることになります。私たちの小さな祈りが、かつての先人の信仰に共鳴していくのです。そこに交わりの霊である聖霊が働き、私たちの小さな祈りが、ゆたかに神の現実の世界にへ届きます。さきほど、主の祈りを唱えていたご婦人の話をしましたが、彼女も主の祈りを通して、主の祈りを教えてくださった主イエスの心に自分の心を合わせていたのです。祈りの言葉が響き渡るとき、そこにむなしい言葉は入って来ないのです。私たちは守られます。闇は砕かれ、私たちはまことに光の子として守られて歩みます。