2021年2月28日大阪東教会主日礼拝説教「受けるより与えよう 」吉浦玲子
【聖書】
さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。
パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
【説教】
<弱いパウロ>
パウロはヨーロッパからアジア州へと戻ってきてエルサレムへ向かっています。パウロは今回の旅の前半で大きな騒動がおきたエフェソには寄らず、エフェソより南にあるミトレスにエフェソの長老たちを呼びよせました。エルサレムに向かう前に、最後にエフェソの長老たちにパウロは彼らに語りたいことがあったのです。ここで長老と書かれていますが、この長老という言葉は現在の教会における長老とは異なります。この当時は牧師、長老、執事といった今日の教会のような職務の明確な分担はありませんでした。ここで書かれている長老とは、ざっくりと教会の指導者層ということです。
さて、エフェソをパウロが前回、訪問した時、アルテミス神殿の模型を造って商売をしてた人々を中心にアルテミスの女神を信奉する人々によって暴動のような騒ぎが起こりました。そのような町でキリストを信じる信仰を守っていくことはたいへんな困難を背負うことでした。パウロには、これから自分が去ったあとのエフェソの教会の苦難がよくよくわかっていたのです。ですから特にパウロはエフェソの人々を励まし、力づけ、かつ、警告を与えたかったのです。
パウロは「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、全く自分を取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」と語り始めます。パウロは自慢話をしているわけでも、自分を正当化しようとしているわけでもありません。そもそもエフェソの人々はよくよくパウロの姿を見ていたのですから、パウロがここで自分を良い者のように言っても、正当化しても意味はないのです。
そしてそもそも、このパウロの言葉から分かることは、パウロはけっしてエフェソの人々に正しく強い姿を見せていたわけではないということです。「涙を流しながら」という言葉があり、「ふりかかってきた数々の試練」という言葉があります。けっして彼は強い者としてエフェソの人々の前にあったわけではなかったのです。むしろ自分のこれまでの罪を包み隠さず語り、そんな自分が「悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」によって、キリストから恵みを受け救われてきたことを素直に証ししたのです。「全く自分を取るに足りない者と思い」というのは、そこまで自分を卑下するのかというような言葉ですが、この言葉には、パウロがパウロの思いや考えで宣教を続けてきたのではないということを表しています。よく教会で、「みんなで意見を出し合って良い教会にしましょう」ということがいわれます。これは全くの間違いです。そしてもちろん「牧師の考えで教会を作り上げていきましょう」と私が言ったとしたらそれも間違いです。教会を作り上げる、そしてまた宣教を行うということは、「全く自分を取るに足りない」者と思って、ひたすら神に聞いて仕えていくことだからです。自分の思い、考えを捨て、神に従っていくということです。
一方で、パウロは試練の中でも平気で乗り切ったというわけではなく、苦しみ悩み、また弱り果てる姿をエフェソの人々に見せていたのです。コリントの信徒への手紙の中にパウロ自身が自分のことをこういう風にいう人がいると書いています。「「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいる」たしかに私たちもパウロというと力強く、弁舌も得意なイメージを持ちますが、実際にパウロに会うと弱々しくて話もさほどではないという思いを持つ人もいたのです。実際のところ、パウロは自らの信仰の武勇談を語ったのではなく、あるいは高邁な神学を語ったのではなく、ただただ自分を導いてくださった神を指し示したのです。
<聖霊に導かれて>
さらにパウロは22節で「そして今、わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けていることだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」と語ります。 パウロはエルサレムに向かうことが大変危険なことであることを知っていました。「投獄や苦難が待ち受けている」、逮捕や命の危険すらあることは分かっていたのです。しかし、なおエルサレムに向かおうとしています。それは自分を悲劇のヒーローにするためではありませんでした。あるいは自分を傷めつけ、苦行のようなことをすることがキリストの御跡と追うことだと思っていたということでもありません。
もちろんパウロはキリストの御跡を追うことは目指していました。しかしそれは無意味かつ無謀な危険を冒すことではありません。パウロは信じていたのです。はっきりとこれから起こることの詳細は分からないけれど、エルサレムに行くことが神の御心であることを確信していたのです。「”霊”に促されて」と語ってある通り、パウロ自身が決心して、計画してエルサレムに行くのではないのです。ここで”霊”と聖霊は同じことです。聖霊が導いておられるのだから従うしかないのです。
しかし、この点において、個人でも、また教会でも、よく誤りを犯します。聖霊に聞くことなく、さまざまなことを進めてしまうのです。それが顕著にあらわれるのが会堂建築などの事業です。人間的に考えれば大変良い計画で、その地域で伝道がしやすいように工夫してうまく建てられたと思ったのに、その会堂がなぜか祝福されないということがあります。会堂は建ったけど、なぜか教勢が落ち込んでしまった。会堂建築の途上で対立が起こって、その対立が建築後も教会に分裂を残した、そういうことは多くあるのです。
逆に聖霊に導かれているならば、パウロのように、明らかに困難が待ち構えているような状況でも、なお平安に歩むことができるのです。そして実際、その歩みは祝福されるのです。神が大きく用いてくださるのです。実際、エルサレム行きは、意外な形で、パウロを最終的にローマへと導くことになりました。
そもそも聖霊に導かれるということは、神の自由なご計画の内に自分をゆだねるということです。ゆだねるといっても、ただ流れに身を任せて、のんびり過ごすということではありません。パウロのようにまさに苦難が待ち受けるエルサレムに飛び込んで行くということです。むしろ戦いの中に身を投じるということです。
ところで、私たちが歩む日々が運命や宿命といったものに支配されているのなら、運命や宿命に身をゆだねるというのは消極的な生き方になります。そしてまた運命や宿命に抗って戦うということはどこか悲劇的な負け戦になります。しかし私たちは、そのような運命や宿命に支配されているのではありません。愛なる神が私たちを愛によって導いてくださるのです。具体的には聖霊なる神が祝福の道を備えてくださるのです。ですから聖霊に導かれるということは、現実生活にはたしかに戦いがあり困難がありますが、本当の意味で平安と喜びを与えられることなのです。聖霊にゆだねず、自分の思いや考えで生きていくとき、聖霊に導かれて決断をしない時、それは一見自由であるようで、不安が満ちているのです。
そして聖霊の導きは、多くの場合、「こちらの方」という向きをその都度知らされながら、最終地は知らされない歩みです。最終地を知らされて、自分で効率的な歩み方を計算するということはできないのです。回り道もあれば、場所によっては足止めをくらってしまうことをあります。しかし、回り道も足止めも、すべてあとから考えると恵みなのです。聖霊に聞いて歩む時、無駄な歩みは一歩たりともないのです。実際、パウロがばりばりのファリサイ派のユダヤ教徒であったこと、そのために最初はエルサレムのキリスト教徒に信頼されなかったこと、ユダヤ人からさまざまな妨害活動を受けたこと、そういったマイナスと思えることも含めて、すべてが結局のところ、宣教に役立ったのです。
<受けるより与える人生>
さらにパウロはエフェソの教会が向かうことになる困難について語ります。「残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らす」と29節にあります。福音ならざるものを教会に持ち込もうする者がやってくるというのです。残忍な狼と表現されていますが、それは神の恵みから人々を引き離すゆえに残忍な狼なのです。しかし、見るからに残忍そうな顔をしてやってくるわけではないのです。むしろ親切そうな姿でやって来るのです。あるいは信仰深そうな態度でやってくるのです。狼は聖書の言葉も語るのです。それは現代であれば、教会に世俗を持ち込んでくるような狼であるかもしれません。神の愛を語りながら、教会を世俗的なサロンにしようとするような狼がどこの教会にも入り込んできます。あるいは隣人愛を語りながら、実際のところは御言葉が置いてきぼりになったままで社会福祉活動に力を入れるというような狼もやってきます。十字架と復活が置き去りにされひたすら人間の業としての弱者救済を教会が行っていくということも起こります。だからパウロは「目を覚ましていなさい」というのです。私たちは霊的にまどろんでいたら、容易に狼に翻弄されるのです。目を覚まし、絶えず、聖霊の風を感じ、御言葉に聞き、祈りに集中していなければ、福音ならざるものに、教会も、私たち一人一人も捻じ曲げられてしまうのです。
そして目を覚まして、人に与えて。生きていくのです。パウロの言葉は「「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、わたしは身をもって示してきました。」で終わります。受けるより与える、というと何か自己犠牲の精神のように聞こえます。しかし、そもそも与えることができるということは、与えるものを持っているからできるのです。与えるものがなければ、与えられないのです。自分が日々のパンに事欠く状態では飢えた人にパンを分けられないのと同じです。その状態で無理にパンを与えたら自分が栄養失調で倒れてしまいます。そもそもこの言葉はルカによる福音書の6章38節の主イエスの言葉から引用されています。「与えなさい。そうすれば、あなたがたいも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。」これは愛を与えたら、むしろ自分自身にいっそう愛が与えられるということです。押し入れ揺すり入れあふれるほどに入れてもらえると主イエスはおっしゃるのです。
そして、先ほども言いましたように先に与えられているから、つまり豊かに神からいただいているゆえ、隣人に与えることができるのです。そもそも神からいただいたものを自分だけで握りしめていることはできないのです。神からいただいたものを、つまり受けたものを隣人へと与えるのです。そうするといっそう豊かにに与えられるのです。
しかし気をつけないといけないことがあります。ある牧師はこういうことをおっしゃっていました。受けるより与える方が幸いというとき、与える方が相手に対して優位に立ったような気分になるから与えたいという側面があると。受けることは相手になにか借りを作るような気持ちになって嫌なのだ、と。ですから困った人を助けることは喜んでできても、逆に自分が困った時、人に助けてもらうことには抵抗を感じる人は多いのです。受けることができない人が多いのです。しかし、誰よりも自分が神に与えられている存在であることを思う時、そして自分が取るに足らない者であることに立ち帰るとき、私たちは本当の意味で、人に与えることのできる者にされます。自分のプライドや思いというのは小さなことだと知ります。そして自由な者とされます。その時本当の意味で与える存在になります。与えるのは愛であり、そして何より福音です。クリスチャンが、そして教会が与えるべきものは福音なのです。聖霊に導かれる時、私たちはまことに福音を与える者とされていきます。