大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第1章1~5節

2021-06-27 16:19:56 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年6月27日日大阪東教会主日礼拝説教「神の相続人」吉浦玲子 

<聖なる者とされ> 

 先週から「ペトロの手紙Ⅰ」を共にお読みしています。この手紙は少しずつ読んでいこうと思っております。場合によっては、前の週に予告した聖書箇所と重なる部分を読むこともあるかと思いますし、予告と少しずれたりするかもしれません。いずれにしても、少しずつ、じっくりと味わって読んでいきたいと願っています。 

 さて、2節に「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、」という言葉があります。ペトロは手紙を読むキリスト者に対して<あなたたちは聖なる者とされた>と語っているのです。「聖」という言葉はヘブライ語では、もともと「分離」「区別」という意味を表すと言われます。特に神と人間の関係において、当然、神と人間は分離されているわけです。神は「聖」なるお方ということは、人間からは区別されているお方であるということなのです。旧約聖書では神を見た者は死ぬと人々は恐れていました。神の聖なる性質、聖性は侵してはならないものだからです。神と人間の区別は厳然としたものでした。しかしまた一方、レビ記などでは、神は人間に対して神はおっしゃいます「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。レビ19:2」これは口語訳では「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と訳されていました。 

 神であるわたしが聖なのだから、あなたがたも聖となれ、そう語られています。人間に聖なる者になれというのは、無茶なことを言われているように感じます。しかし、このレビ記の言葉は、神によって選ばれ救われたイスラエルの民たちに語られています。神ご自身がご自身のことを「あなたたちの神」とおっしゃっています。あなたたちが聖なる者となったから、あなたがたの神となりましょう、ということではありません。聖なるお方である神が、すでに民を救い出され、民の神となってくださった、ということです。その救われた民に対して、あなたたちはすでに聖なるわたしによってわたしの民とされているのだから、聖なる者となりなさい、と語られているのです。 

 これは主イエスによって救われた私たちも同様です。私たちは主イエスの十字架によってすでに神の民として選ばれ、分離され、取り分けられています。「血を注ぎかけていただくために選ばれた」ということはキリストの十字架の血によって救われたということです。わたしたちもまた聖なる者とされているのです。「聖なる者となりなさい」とレビ記で神はおっしゃいました。私たちは自力で聖なる者となるのではなく、キリストのゆえにすでに聖なる者とされているのです。そしてすでに聖なる者にされているのだから、聖なる者にふさわしく生きるのです。 

 そしてまた「”霊”によって聖なる者とされ」とあるように、私たちは聖霊によって聖なる者とされ、聖霊によって聖なる者にふさわしく生きるのです。聖なる者として選ばれ、聖なる者として生きるということは、人間の力でできることではなく、そこには絶対的な神の力があるのです。 

 手紙の冒頭で、ペトロは愛をもって語りかけます。「聖なる者とされたあなたたち」と。しかし、私たちは、自分のことを「聖なる者」と言われたら面はゆい気がするのではないでしょうか?とてもとても聖なる者なんて自分を思えないかもしれません。しかし、先ほど申し上げましたように、聖なる者とされること、聖なる者として生きていくことは徹頭徹尾、神の力の内にあることです。私たちは自分で聖人君子のように生きるのではないのです。ひたすら神の力の内に聖霊に委ねて生きる時、私たちはおのずと聖なる者として聖なる生き方をしていくのです。 

 そしてまた教会も聖なるものです。教会には生身の人間が集います。一人一人、現実社会、日々の暮らしの中での痛みや重荷を負っています。そしてまた教会は門を開いて、現実社会の中で生きる人々を招きます。聖なる教会だからとお高くとまる必要はないのです。高く暗いブロック塀が撤去されたように、教会は明るく風通しよく人々を招きます。しかし、教会はやはり外の世界とは「分離」された「区別」された聖なる場所なのです。そこにこそ、教会の独自性があり、そのような聖なる共同体であるからこそ、招かれた人々がまことの癒しや力を得ることができるのです。そうでなければ、この世のコミュニティセンターや地域の集まりや個人的なつながりで十分なのです。現代は、聖なるもの、聖性ということが軽んじられる時代です。知識や情報が行き渡っているのは喜ばしいことですが、何もかもが人間の意志や理性のもとに明らかにされるわけではありません。聖なるものを重んじるということには、神を畏れ、神への謙遜さが求められます。教会の聖性を守っていくことは、逆に教会がこの世に仕えるものとされるために必要なことです。 

<恵みと平和>  

 さて、神によって聖なる者とされた人々に、そして私たちに、ペトロは語ります。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」こういう言葉は、祝福の言葉としてよく聞きます。ですから、さらっと聞いてしまいます。でもそもそも「恵み」とは何でしょうか?キリスト教はご利益宗教ではないと言われます。家内安全とか商売繁盛を願うものではないと言われます。だとすると「恵み」というのは何なのでしょうか?私たちは「恵み」というのを、なんとなく、ぼんやりと神様からいただく良い感じのものとして捉えているかもしれません。しかし、「恵み」というのは、人間に喜びを与える具体的な神の力なのです。主イエスは恵みに満ちていたと福音書に書かれています。主イエスの言葉を聞いた人々は心の底から喜びを与えられ、生きる力を与えられました。そしてまた、そこにはあたたかさがあったのです。あたたかさというと甘い印象になりますが、心を解くようなのびのびとさせるような力があったということです。寒い冷え切った中では体もこわばり心も凍てつきます。あたたかくなると、ゆったりと緊張がほぐれ、心も解放される、それが恵みの力です。もう20年も前のことですが、日帰りで東京に出張したことがありました。家には小学生の子供が一人で帰りを待っていました。その日は、夜の9時前には大阪の家に帰宅できる予定でした。しかし、夕刻から、東海地方に大雨が降り、新幹線が止まってしまったのです。これはのちに東海豪雨と呼ばれ、激甚災害にも指定された災害でした。しかし、夕方の時点ではそこまでの災害になるという予測が立っていないなか、新幹線は東京を次々と出発し、結果的に70本の新幹線が、東海地方を越えられず、団子状に東海道線上にストップし、5万人の人々が一晩新幹線に閉じ込められたのです。私はその5万人の中の一人だったのです。私が乗っていた新幹線は、東京を出て、すぐに動かなくなって、結局、熱海付近から先に進めず、一晩車中で過ごしました。そして、翌朝、その列車は運航停止となって、三島駅で乗客は放り出されました。新幹線の復旧のめどは立っていなくて在来線は少し動いているようでしたが、私は三島あたりの地理に疎く、三島からどっちにどういう風に在来線を乗り継いで行ったらいいのかまったくわかりませんでした。当時はスマホもなく、経路検索などもできませんでした。でもそのとき、覚えているのが、三島駅で新幹線が運休となってホームに放り出された人々のために、ホームに食料の入った箱がずらっと並べられたことです。おにぎりとか菓子パンとかがありました。みんなわれさきに箱から食べ物をとっていて、私はいくつかのパンを取りました。スーパーで売っているような安っぽい菓子パンでしたが、そのパンをもらって、不思議と妙に元気が出たのです。よっしゃ、頑張って大阪に帰るぞ、息子よ待ってろ、という気分になりました。結局、そこから在来線を乗り継いでどうにか大阪に帰って来たのはその日の夕方で、実に東京を出てから24時間後でした。三島駅の菓子パンで元気が出たというと単純な人間だなと思うのですが、人間ってそういう側面があるんではないでしょうか。がんばれよという精神的な励ましより、あたたかいお茶の一杯とか、三島駅の菓子パンとか、そういう具体的なもので人間は力を得るのです。「恵み」というのは、実際、そういう具体的な力なのです。キリストの言葉にはそのような力がありますし、神は私たち一人一人にキリストの言葉と合わせて具体的に力となるものを、喜びとなるものを与えてくださいます。そして恵みと平和という時の平和とは、何より神との平和です。完全な充足を言います。キリストの十字架によって、私たちと神を隔てていた罪が取り除かれた、神と和解ができた、そこにある完全な平和です。逆に神との平和がなければ、私たちの心はいつも騒がしく揺らぎ、不安で、落ち着かないのです。私たちは神から恵みをいただき、そして平和をいただきます。「恵みと平和がありますように」というのは定型文のような単なるご挨拶の言葉ではなく、神のまことの力のうちに私たちがすでにあり、かつそこにずっととどまりましょうという祝福の言葉なのです。 

<生き生きとした希望> 

 その祝福の言葉を聞く私たちは「生き生きといた希望」に生かされています。「生き生きとした希望」は「生ける希望」と訳されている訳もあります。しかし思うのです。「死んだ希望」などがあるのか?と。大人は若い人に言うのです。「希望を持って生きろ」と。人生に絶望した人にも「希望を持て」と励まします。しかし、人間が持つ希望というのは、実際のところ、はかないものです。子供のころ夢見た、希望した職業につける人は多くありません。幸い、子供のころの希望が叶っても、それで生涯幸せが続くとも限りません。あるいは人に認められたいという希望を持って努力をしても、多くのことを犠牲にしてがんばって良い結果を得たとしても、心身の犠牲があまりに大きかったり、あるいは周囲の人々と乖離していくようなあり方であったとしたら、それは本当の意味での「生き生きとした希望」ではありません。しかし、ペトロの語る希望は、あくまでも「生ける希望」であり、自分もまた周りの人々も生かす「希望」なのです。それに向かってぼろぼろになって努力をするようなものではないのです。もちろん試練はあります。しかし、試練や辛いことはあっても、なお喜びに生かされる希望です。 

 その希望の源は、キリストのゆえに、私たちが神の子とされ、神の財産をうけつぐ者とされていることにあります。「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」そうペトロは語ります。私たちはすでにキリストと同じく神の子とされ神の財産の相続人なのです。この世のものは朽ち、汚れ、しぼみます。私たちの夢も希望も潰える時があります。しかし、私たちには朽ちず、汚れず、しぼまない財産がすべてに約束されています。これは揺るぎない約束です。その約束について、またペトロの手紙からゆっくりと聞いていきたいと思います。 


ペトロの手紙Ⅰ第1章1~2節

2021-06-20 14:39:17 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年6月20日日大阪東教会主日礼拝説教「選ばれし者へ」吉浦玲子 

<使徒ペトロ> 

 今日から「ペトロの手紙Ⅰ」を共に読んでいきます。その冒頭に、「イエス・キリストの使徒ペトロから」と挨拶の言葉が書かれています。「ペトロの手紙」は、主イエスの12人の最初の弟子たちの内の一人であるペトロが書いたものであると長く考えられてきました。これから「ペトロの手紙」を読もうという時にいきなり少しがっかりさせてしまうかもしれませんが、近年の研究では、この手紙は、ペトロ自身が著者でない可能性を指摘されています。 

 しかし、私たちはこの手紙の内に、かつてガリラヤの漁師であったペトロ、主イエスに「あなたの岩の上に教会を立てる」と言われたペトロ、逆に主イエスから「サタン、退け」と手厳しくお叱りを受けたペトロ、さらには「イエスなんて知らない」と三回も主イエスを否定したペトロの姿を思い起こしながら読んでき行きたいと思っています。直接に執筆した者がだれであれ、教会では、2000年に渡り、福音書や使徒言行録におけるペトロの姿と合わせてこの手紙を読み、そこから神の御言葉を聞きとっていたからです。そしてまたそのように読むことによってこそ、なによりこの手紙が伝えんとすることを私たちは理解できると思うのです。 

 さて先ほど申しましたように、手紙は挨拶の言葉から始まっています。「イエス・キリストの使徒ペトロから」と記されています。使徒とは、「遣わされた者」という意味で、一般的には、主イエスの弟子たちの中で最初に選ばれた12名の弟子を指します。そして「使徒」は主イエスの復活の証人でもあります。復活の証人という意味では、最初の12使徒、あるいは裏切って自殺したイスカリオテのユダの代わりに選ばれた使徒以外に、使徒言行録に出てくるパウロも自らを使徒と呼んでいます。使徒の定義や考え方はいろいろありますが、ざっくり言いますと、初代教会において特に重要な宣教者を使徒と呼ぶということかと思います。 

 その使徒という名称は、ペトロにとって自分からけっして胸をはっていえるようなものではないのではないかと思います。かつて主イエスを裏切ったこともある自分を思う時、けっして堂々と自分は主イエスの使徒だ、一番弟子だ、とは言えない存在だという思いを彼は生涯持っていたと考えられます。しかし、手紙の冒頭では「使徒ペトロから」と語りかけます。さきほど、この手紙の著者はペトロ自身ではない可能性があると申し上げましたが、パウロと同様、ペトロ自身も、その宣教牧会活動において、他のキリスト者に対して、使徒としてふるまい、語っていたことでしょう。そしてそれは自分に使徒という名にふさわしい何かがあるからと彼が考えていたからではありません。まさに彼はキリストに使徒として「遣わされた」から自らを「使徒」と呼んだのです。 

<わたしの羊を飼いなさい> 

 ところで、ヨハネによる福音書第21章の主イエスとペトロの会話は有名です。新約聖書211ページ下の段、ヨハネによる福音書第21章15節からになりますが、復活なさった主イエスは、ペトロに聞かれます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。それに対して「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロは答えました。これが彼の精いっぱいの答えでした。かつての彼なら、何の躊躇もなく、「私はあなたのことを誰よりも愛しています!」と答えることができたでしょう。しかし、先週共にお読みしましたように、ペトロは主イエスが逮捕された時、主イエスの裁判が開かれていた大祭司の家の庭で、三度も「主イエスなんて知らない」と言ったのです。ペトロは自分の弱さ、ふがいなさを、いやというほど知らされました。ですから「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」としか答えることができなかったのです。しかしまた、主イエスがご存知です、という答えは、主イエスに委ねた答えでもあります。ペトロは自分自身の思いすら、あやふやなこと、頼りにならないことを分かったのです。わたしの心を私以上にあなたはご存知です、という主イエスへの信頼の言葉でもあります。そのペトロに主イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」とおっしゃいました。頼りにならない自分の心や思いではなく、ただ主イエスにすべてをお委ねするという思いでした。 

 実際、主イエスはペトロの弱さもすべてご存じで、そのうえで、なお使命をお与えになりました。「わたしの小羊を飼いなさい」。<あなたの小羊>ではなく、<わたしの小羊>なのです。主イエスの大事な大事な小羊なのです。その小羊をあなたに委ねると主イエスはおっしゃったのです。大きな使命です。この会話は三回繰り返されます。ペトロは三回も主イエスから「わたしを愛しているか」と問われ、三回とも「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えます。三回目にペトロは三回も「わたしを愛しているか」と問われ、悲しくなったと福音書に語られています。これはペトロが三回主イエスを知らないと言ったことと呼応しているとよく解釈されます。いずれにせよ、ペトロはふさわしいから遣わされるのではないのです。いや、ある意味では、ペトロはとてもふさわしいのかもしれません。弱さを知っている人間だからこそ、イエスさまを堂々と愛していると言えない人間だからこそ、ペトロは遣わされたといえます。ペトロはたしかにキリストの復活の証人でした。最も近くでキリストを見ていた人でした。キリストはもっとも近くに、弱く、学識もない、いざという時に自分を裏切る人間を置かれ、なお、彼に重要な使命をお与えになりました。三回というのは使徒という役目の重さを示します。 

 ところで、昨日、青年会兼教会学校教師会をリモートで行いました。そのなかで、「汝の敵を愛せ」という有名な聖書箇所から黙想をしました。皆、敵を愛するということは難しいと口々に語りました。しかしまた考えますと、私たちは敵はもちろんのこと、自分が愛する者すら、また自分を愛してくれている者すら、十全には愛せない者です。神を愛することすら難しいのです。もちろん、あるときは心から「イエス様愛しています!」と言えるかもしれません。しかし、現実社会の中で生きていくとき、主イエスのこと神のことは二の次三の次となっていくこともあります。試練の中で、むしろ神に対して反発すら覚えることもあるかもしれません。しかしそのようなことすべてを主イエスはご存じなのです。だからこそ十字架にかかってくださったのです。十字架の上で、自分を侮辱する人々を見ながら、なおその人々のために祈られました。私たちもまたキリストに祈られたのです。神も人間も愛せない私たちのために主イエスは祈られたのです。ですから私たちもペトロのように精いっぱいの思いでお答えするのです。私自身は、たいへん傲慢な人間で、昔は心のどこかで自分はペトロのように愚かな人間ではないという思いがあったように思います。しかし、だんだんと自分もペトロと同じだな、いやペトロより愚かな人間だとわかってきました。だから私も主イエスに向かって「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と言わざるを得ません。そもそも私たちは自分の心すらどうすることもできません。でも、その心をそのまま神に差し出すのです。そのとき、私たちは神によって遣わされるのです。 

<選ばれた者> 

 このようにして遣わされたペトロは、主イエスの小羊に語りかけます。このとき語った相手は、各地に離散しているキリスト教徒たちでした。いま、コロナの禍の中、人々が分断されています。愛の交わりを第一とするはずの教会も、この一年余り、相集って礼拝をお捧げすることができません。そんな中でよく言われることが、今の状態は21世紀における教会の「バビロン捕囚」だということです。集うべき場を奪われ、離散してしまっている教会の群れは、まさに紀元前6世紀にイスラエルがバビロンに滅ぼされ、国を失い、捕囚とされた民の状況に重なります。かつてのバビロン捕囚とされたイスラエルがそうであったように、私たちもまた、今、問われています。私たちは御言葉を求めていたのか?神に従って生きることを望んでいたのか?単に仲の良い人と教会でお茶を飲みたかっただけだったのではないか?神への献身ではなく、自分への見返りを求めていたのではないか?御言葉をちょっと良い言葉、ためになる人生訓のように聞いていたのではないか?そう問われながらも、なお私たちに神の御言葉と恵みは注がれました。さまざまな手段を通して、神は今も私たちに働かれています。その恵みを感じたこの一年余りであったと言えるのではないでしょうか? 

 ペトロもまた、分断された人々に神の言葉を語りました。当時、キリスト教徒は弱い新興宗教の一グループに過ぎませんでした。それはクリスチャンがマイノリティである日本の状況とも似ています。クリスチャンは、それぞれの場所で苦労をしながら信仰を守っていたのです。さらに当時は、迫害もありました。さらには教会内に教会を荒らす間違った考えをもった人々が入り込んでくることもありました。パウロが「残忍な狼」と呼んだ、一見信仰深そうな人々ですが、実際のところ福音を踏みにじる人々です。ですから、キリスト者には教会の内と外からの攻撃がありました。そんな各地のキリスト者に、ペトロは、慰めの言葉、力の言葉を語りました。まさにペトロは主イエスの小羊を守り、養うために語りました。 

 ペトロは自分がそうであったように、自分の言葉を聞く人々の弱さも良く知っていました。キリスト者にとって、ある意味、困難な戦いは外的な迫害でもなく、教会の中に入り込んでくる福音ならざる考えでもなく、弱い自分自身との戦いであることをペトロは良く知っていたと思います。 

 ペトロは「選ばれた人たちへ」と書いています。選ばれるというと、何かクリスチャンが、選民思想に凝り固まって、クリスチャンではない人を見下ろしているように感じます。しかし、これは恵みの言葉です。弱いあなたたち、なかなか神も隣人も愛することのできないあなたたち、そんなあなたたちだからこそ、神は恵みをもってあなたがたを選ばれたのだとペトロは語るのです。自分を誇ることのできないあなたたち、逆に、時々傲慢になるあなたたち、そんなあなたはすでに神に選ばれ、恵みの中に生かされているのだとペトロは語ります。私たちも選ばれています。恵みの中で生きるように、恵みのために選ばれています。愛され、愛することに選ばれています。愛せない私たちです、しかしなお、あなたは愛せるようになる、そのためにわたしが選んだ、あなたは神を愛し、隣人を愛し、敵をすら愛せるようになる、そのために私が選んだ、それが恵みだ。その言葉を誰よりも弱かったペトロを通して、神は私たちに語られました。 


マルコによる福音書第14章66~72節

2021-06-13 14:01:19 | マルコによる福音書

2021年6月13日大阪東教会主日礼拝説教「神を裏切った男」吉浦玲子 

<神を知らないと言った男>  

 今日の聖書箇所は、受難節にお読みすることの多い有名な場面です。主イエスが逮捕された時、弟子たちは、皆、イエスを置いて逃げました。しかし、ペトロはやはり主イエスのことが気になったのでしょう。主イエスが連行された大祭司の家の庭に入り込んでいました。他の福音書には弟子の中に大祭司の知り合いがいて、この庭に入ることができたと記されています。大祭司の家では、主イエスに対する裁判が行われていました。その裁判は当時の法と照らし合わせても不法なあり方で行われていました。大祭司の家では、まさに夜の闇に乗じるように、ある意味、国家レベルの犯罪が行われているのです。そしてそのまさに不正な裁判が進んで行く横で、ペトロという一人の人間の罪もまたこの夜明らかにされていくのです。 

 さて、自分が主イエスの仲間であることを素知らぬ顔をしてペトロは他の人々とたき火に当たってました。主イエスが捕らえられたのは春の祭りである過越し祭の期間でした。春であっても、イスラエルの夜はかなり冷え込みます。ですから火が焚かれ、皆があたっていたのです。その中で一人の女中がペトロの顔をじっと見つめて言います。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」。そもそも、過越し祭でエルサレムは普段の人口の二倍とも三倍ともいわれる巡礼者でにぎわっていました。そして、多くの群衆が主イエスの動向に注目しました。その主イエスの一番弟子として、イエスの側にいつもいたペトロもおのずと顔が知られていたのです。 

 「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」とペトロは狼狽して女中に答えます。イエスなんて知らない、自分は関係がない、そうペトロは答えたのです。自分自身の身に危険が及びそうなとき、このような、ある意味、卑怯な態度を取るというのはそれほど珍しくはないことです。褒められるような態度とはけっして言えませんが、この状況の中で、それは大きな罪でしょうか?成り行きを心配して、大祭司の家まで入り込んでいたペトロです。面が割れていることを考慮しない愚かさはありますが、彼に大きな罪はあったのでしょうか? 

 ペトロは出口の方に向かいました。しらを切って、その場を立ち去ろうとしたのです。このまま立ち去れていたなら、ペトロは自分の罪を知ることはなかったでしょう。自分が主イエスの仲間であることを否定した、そのことの重大さを知ることはなかったのです。ここで鶏が鳴きます。これもとても有名な場面です。主イエスが、ご自身の逮捕前に、ペトロの裏切りを予告されたときおっしゃったことが実現したのです。「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 

 さらに女中はペトロは「この人は、あの人たちの仲間です」と言い、再度ペトロは打ち消します。さらには居合わせた人々までペトロのことを連中の仲間だと言います。それに対して、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら否定します。つまり「自分が嘘をいっているとしたら神に呪われてもいい」と言って強く否定したのです。その時、再度、鶏が鳴きました。主イエスのおっしゃっていた「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」という言葉が実現しました。その時、ペトロはその言葉を思い出し泣き出します。 

<何が罪か?> 

 何が罪であるのか?というと、それは日本においては、法律に反すること、さらには倫理や道徳に反すること、仁義に反することであると考えられます。たしかにペトロは嘘をつき、また先生である主イエスを裏切ったのですから良いことをしたとは言えません。しかし、さきほども申し上げましたように、自分の身に危険が及ぶかもしれない状況です。致し方ない状況でもあります。2000年のちまで語り伝えられねばならないほどの罪をペトロは犯したのでしょうか? 

 実際、たしかに罪はありました。そして、この時、ペトロも知ったのです。自分の罪を知りました。それは裏切者であること、卑怯者であること、弱い人間であることではありませんでした。自分は主イエスと関係がない、つまり神と関係のない人間だとペトロは言ったのです。つまり、神を知らないとペトロは言いました。それが彼の罪でした。しかしまたそれは私たちの姿でもあります。私たちは自分の都合の良い時には、優しいイエス様、私を助けてくださる神様と神を大事にしますが、いったん不都合な事が起こると、容易に「イエス様なんて知らない」「私は神と関係がない」と言ってしまう人間なのです。 

 そもそもペトロはすべてを捨てて主イエスに従った人でした。ヨハネによる福音書によれば、主イエスの教えを理解できず、多くの人々が主イエスを見捨てて去って行った後も彼は残ったのです。先週お読みしたように、時に主イエスから手厳しくお叱りを受ける時もありました。しかしなお、主イエスに従ってきたのです。主イエスが逮捕される時も、いったんは剣をふるって抵抗しようとしました。彼は十分に誠実で、それなりに勇気もある人間でした。しかし、人間的に誠実で勇気があろうとも、人間は容易に「神なんて知らない」と言えるのです。それが罪の根源です。そしてその罪の本質は単に神を知らないということの内側に「神はなくても自分は自分の力で生きていける」という考えがあることです。ペトロは漁師だったとき、自分の意思で舟を捨てて主イエスに従ったと考えていました。宣教活動で様々な試練があっても、自分の熱心さや忍耐で乗り切ってきたと思っていました。 

 仮にペトロが<自分は確かに主イエスの仲間だ>と正直に告白して逮捕され、殉教したとします。それは勇敢な行為ではあるかもしれませんが、結局、そこにあるのは人間の強さ、思いだけなのです。神はそのようなことを人間に望んでおられません。神は憐れみをもって、ペトロに罪の本質を知らされたのです。鶏が鳴く、それは夜明け近いことを示します。ペトロ自身にあなたの夜明けは近い、あなたは今、あなたの罪を知った、それは暗く絶望することではない、もうすぐ夜が明ける、だから今、あなたに罪を知らせたのだ。もう強く生きる必要はないのだ、あなたは本当のあなたの姿で生きたら良いのだと、この鶏の鳴いた瞬間、神はペトロに語られたのです。強くなくていい、勇敢でなくていい、あなたはあなたの力で生きるのではない、私があなたと共にいるからだ、そうペトロに知らされたのです。 

<苦い涙を越えて> 

 ペトロはいきなり泣き出しました。ここは、「彼はうち崩れて泣いた」とも訳せる言葉です。また他の福音書の言葉では「苦く泣いた」とも訳せるギリシャ語で個々の部分は記されています。大の大人が、大泣きしたのです。そしてそれは苦い涙でした。彼はこの時点では、まだ神の愛のメッセージをはっきり知りませんでした。この大祭司の庭でペトロが流した涙は自分のふがいなさへの苦い涙であり、後悔の涙であったでしょう。しかし、のちにペトロは知るのです。神ご自身が、苦い苦い涙を通してペトロに語りかけていてくださったことを。今、ペテロはたしかに打ち倒されて、神の前にありました。二週前までお読みしていた「使徒言行録」の中で、パウロはダマスコ途上でキリストの光に打たれて地面に倒れました。パウロもまた、神の前でうち崩された者でした。優秀な学者でエリートのファリサイ派だった。熱心で自分の信念に従って行動をしていた強かったパウロも打ち崩されました。神にまことに出会うとき、私たちはうち崩され、苦い涙を流すのです。強いと思っていた自分の徹底的な弱さを知らされます。しかしそこから、まことの祝福が始まります。自分の弱さを知らされ、自分の力を手放して、神と共に生きる、そこに夜があけまことの朝がきます。鶏の声ののちに美しい朝がくるのです。そこにこそまことの祝福があります。 

 来週から「ペトロの手紙」を読んでいきます。その手紙の著者とされているペトロにしろ、あるいは今触れましたパウロにしろ、私は、心の中に、かつてペトロが流した涙のような、苦さ、悲しみを生涯持ち続けた人たちであったと思います。主イエスによって、たしかに完全にペトロもパウロも、そして私たちも、罪は贖われました。罪赦されたということを軽んじてはなりません。いつまでも過去の罪に捕らえられていることは、キリストの十字架を軽んじることです。不信仰なことです。罪赦された喜びと感謝のなかで私たちは生きます。ペトロもパウロもそうでした。その喜びのゆえに、ハレルヤと賛美し、新しい人間として生きていきます。 

 しかし、<感謝感謝、ハレルヤ!>だけではすまない思いをも私たちは心に持って生きていく側面があると思います。さきほど、悲しみと言いましたが、それは少し語弊があるかもしれません。やはりキリスト者は喜びの中に生きるからです。しかし、救われた喜び、神の愛を知った感謝が大きければ大きいほど、自分がどれほど罪が大きく、赦された存在かというところへ思いが行きます。主イエスを裏切ったペトロも、キリスト者を迫害していたパウロも、生涯、その過去をなかったことにはできませんでした。そこに一つの悲しみがありました。しかしまた、過去をなかったことにする必要はないのです。過去を無理に忘れる必要もないのです。罪も過去も、すべてキリストが十字架において背負ってくださったからです。なかったことにはできない過去にとらわれる必要はないのです。しかしまた同時に私たちに神から与えられた信仰はペラペラの平面的なものではなく、もっと深みをもった多面的なものです。喜びと同時に神の前にあるとき、私たちはどこまで行っても罪人であるということかから逃れられません。しかし、だからといってうち沈んで暗く生きていくのでもありませんし、金輪際罪を犯しませんと強く生きていかねばならないというのではありません。私たちは弱くとも、神は強いのです。弱いままで神の前に私たちは立つのです。あなたはあなたのままでいい、その言葉は罪のあなたのままで好きに生きていいということではありません。神の前で正直に素直に生きるということです。過去も罪を神に差し出します。そのとき、慈しみ深い主イエスが私たちの過去も罪もうれいも悲しみもすべて取り除いてくださるのです。そこから私たちは朝の歩みを始めていきます。 


マルコによる福音書第8章31~38節

2021-06-06 15:23:27 | マルコによる福音書

2021年6月6日大阪東教会主日礼拝説教「命を失うものが命を得る」吉浦玲子 

<サタン、引き下がれ> 

 今日、お読みした聖書箇所では、ペトロが、弟子たちを代表して主イエスに叱られています。しかも、「サタン、引き下がれ」とサタン呼ばわりまでされています。「サタン」とは敵対する者、妨害する者という意味です。主イエスはかなり手厳しくお叱りになったのです。なぜこのようなことになったのでしょうか。そもそも今日の聖書箇所の前の部分には、主イエスがご自身のことを何者だと思うのかと弟子たちに問われる場面がありました。それに対し、ペトロはここでも弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」と答えています。メシアという言葉は、もともと<油注がれた者>という意味で、旧約聖書においては王とか特別に神に選ばれた者を指していました。王は実際に油を注がれて戴冠したのです。しかし、やがて、「油注がれた者」という言葉は、人びとを救う「救い主」の意味で用いられるようになりました。弱小国家で、周囲の強国にいつも虐げられていたイスラエルの人々は、イスラエルを救い出してくれる救い主を待望していたのです。ペトロはまさに主イエスこそが、イスラエルが長い長い歳月のなかで待望していた救い主だと答えたのです。これは答えとして間違ってはいませんでした。 

 しかし、そのあとで主イエスはご自身の受難と死を語られました。それで、ペトロは動転したのです。主イエスはかなり強い口調でおっしゃったのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とありますが、この「なっている」は「ねばならない」というような強いニュアンスの言葉です。これは衝撃的な言葉でした。ペトロにとって、というよりも、当時のイスラエルの人々にとって、メシアはダビデのような強い王としてやってくるはずでした。そのメシアが苦しみにあって死ぬなどはありえないことでした。復活というのも、世の終わりの時、最後の審判の時に起こることなので、三日の後に主イエスだけが復活するということも理解しかねることでした。ペトロがおかしかったのではなく、主イエスのおっしゃることは、当時のユダヤの人々の常識からあまりにかけ離れていたのです。 

 私たちは、すでにペンテコステを経て2000年のちの世界に生き、これから起こるキリストの受難と死のストーリーをすでに知っているので、ペトロのこの時の思いがなかなか理解できません。そもそも、人間的に考えても、自分の大事な先生が死んでしまうなんて聞きたくもないことです。リーダーとして、そんな縁起でもないことを他の人々の耳にも入れたくはなかったでしょう。ですから、主イエスを脇にお連れしていさめ始めたのです。 

 しかし、主イエスのお言葉は「サタン、引き下がれ」でした。たしかに先生に向かって諫めるというのは、出過ぎた真似のようにも感じられます。しかし、サタンとまで言われないといけないことでしょうか。ペトロは悪意をもって主イエスを批判したのではないのです。主イエスの言葉は厳しすぎるようにも思えます。ペトロにしてみたら、何もかも捨てて主イエスに従い、主イエスにどこまでもついていこうと思っていたのです。そしてそれは、イスラエルという国の救いのため、人々の救いのためでした。もちろんペトロをはじめとした弟子たちに人間的思いがなかったとはいえません。弟子たちの中で誰が一番偉いかなどと言いあっているところも福音書には描かれています。しかし、相当な犠牲を払い本質的には人々のために労苦をしてきたペトロが敵対者、妨害者と言われてしまったのです。しかも、主イエスは弟子たちを見ながら「引き下がれ、サタン」とおっしゃいました。つまりこの言葉は、弟子たちすべてに投げられた言葉といえます。ペトロは脇へお連れして二人だけで話をしたのに、主イエスは弟子たち全員に向かっておっしゃいました。 

<人間のことを思っている> 

 主イエスはさらに続けられます。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」メシアが神々しい姿で現れてほしいというのは人間の思いです。ダビデ王のように連戦連勝で敵を蹴散らしてほしいと願うのは人間の願いです。しかし神は、神の自由なありかたでご自分の計画を進められる方です。そしてそれは人間からは及びもつかないあり方で成し遂げられていくのです。時として理不尽に感じられたり、人間にとっては不幸と思われるようなことも神のご計画のうちにあります。 

 ところで、教会の中で時々言われる言葉に「人間を見ずに神を見なさい」というものがあります。これは主イエスの「神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉に通じるところがあるように聞こえる言葉です。特に、教会の中で、人間関係などで嫌なことがあったとき、「あの人はどうだ」とか「この教会の人たちはこういうことでけしけしからん」「あの牧師の言葉は愛がない」などと批判的に周りの人間のことを思うのではなく、神だけを見上げなさいという意味で言われることが多い言葉です。ただ、場合によっては、この「人間を見ず、神を見る」という言葉は、どこか周りの人間を見下した感じも無きにしも非ずな言葉です。周りの人は神を見上げていないけれど、自分は見上げているというニュアンスも感じられないこともありません。そもそも今日の聖書箇所の「人間のことを思う」、あるいは「神のことを思う」という主イエスの言葉は、単純に神様だけを見上げましょうという意味では言えない言葉です。 

 主イエスはもっと厳しいことをおっしゃっているのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」自分の十字架を背負うということも、クリスチャンでない人も使う、よく知られた言葉です。覚悟をして自分の重荷を負っていくというニュアンスであったり、ままならない運命を引き受けていくというイメージがあります。 

 しかし、この言葉で大事なことは「わたしの後に従いたい者は」とおっしゃられていることです。自分でこれは自分の運命だと考えて引き受けるのではなく、なにより主イエスの「後ろに」従うということが前提なのです。さきほど、主イエスはペトロに「サタン、引き下がれ」とおっしゃいましたが、この言葉は「私の後ろに行け」という意味で原語には明確に「後ろ」という言葉が入っています。実際、ペトロは主イエスの前にいたのです。だから「後ろに行け」と言われたのです。つまり「神のことを思う」ということは、まず第一に神の後ろに引き下がるということです。人間が人間の思いで勝手にこれは神の御心だろう、これが私の十字架だろうと思って、それで神を見上げているつもりになってはいけないのです。私たちは、主イエスの後ろに従い、十字架を担って歩むのです。 

 一方、人間のことを思うというのは、人間に対してよいことをするということです。ペトロたちはまさにイスラエルの人々のためによいことをしようと考えていたのです。今日の聖書箇所と同じ章に、4000人の人々に食べ物を配ったという奇跡物語がありました。空腹だった人々はその食事で満たされました。ペトロたちはパンと魚を配って廻り、人びとから感謝されました。ペトロたちはそういう労苦は惜しまなかったのです。さらにイスラエル全体が救われたら、ペトロたちはイスラエルの人々全体から賞賛を得ることができるでしょう。もちろんペトロたちはそのような賞賛を得ようと思って、イスラエルの人々のために働きたいと願っていたわけではないでしょう。純粋な故国への思いと、また、宗教的な熱心さがあったでしょう。 

 しかし、主イエスはおっしゃるのです。神のことを思うということは、賞賛を得るようなことをするのではないのだと。ひたすらイエスの後をついていくことなのだと。そしてそれは時として非常識なことであり、人々から排斥されるようなことなのだとおっしゃるのです。先週までお読みしました使徒言行録において、パウロも迫害に次ぐ迫害の人生でした。みじめに囚人としてローマまで護送されていく歩みでした。それがパウロにとって主イエスの後に従うことでした。そこには賞賛やこの世的な誉れはありませんでした。 

 では、キリスト者として生きることは、ただただ苦しみの中をキリストの後姿を見ながら歩むだけのしんどい歩みなのでしょうか? 

<まことの自由> 

 実はそれは逆なのです。私たちの歩みはこの世的には何も生み出さないかもしれないのです。賞賛も誉れもないかもしれません。しかし、それでいいのだ、そこに平安があるのだとおっしゃっているのです。それは欲望を棄てて自我も捨てて、ただただ淡々と生きるということではないのです。むしろ、人のことを思うことなく、自由に、生きていくことができるということです。主イエスの後ろに従って歩むとき、わたしたちは人間の思いから解放されるのです。賞賛や誉れを得なければならない生き方はしんどい生き方です。賞賛や誉れというと特別なことのようですが、私たちは特別な賞賛や評価は求めていなくても、やはり社会の空気や、周囲のさまざまな思惑の中で生きていきます。それは私たちの日々の縛りともなります。もちろん私たちは日々の生活をしていく上での、そのような周囲から完全に逸脱して生きることは現実的には難しいでしょう。しかし、自分たちの生きる軸が、主イエスの後に従うことをであるということであるなら、私たちを縛るさまざまなことを絶対視する必要はないのです。パウロはみじめな囚人として護送され、たしかに不自由な生活を強いられました。しかし、彼は護送されている船の中で、もっとも自由で、もっとも何事にもとらわれない存在でした。何日も続く暴風の中で人々が希望を失っていた時も、パウロは希望をもっていました。そしてむしろ人々を励ますことのできる存在でした。 

 そしてまた主イエスの後に従うということは、ちっぽけな自分のこだわりも捨てるということです。「自分を捨てて」というのは、無我の境地になるとか、自我を捨てるということではありません。自分という人間のことばかり思わず神を思うということです。最も自分を不自由にしているのは、往々にして、自分自身のこだわりであったりするのです。34節を見ますと「それから群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とあります。すべてを棄てて従ってきた弟子と、弟子ではない群衆を主イエスは同列に集めて言われたということです。これは弟子たちにとっては面食らうことだったと思います。ただ何となく興味をもって主イエスの話を聞いている人々と自分たちが同一に扱われているのです。しかしこれも重要なことです。最も大事なことだから、主イエスはすべての人々に言われたのです。この言葉の前に、弟子も群衆も関係がない。信仰の長さも関係がない。洗礼を受けたばかりの人も、何十年も信仰生活をしている人も、同じく、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉を聞くのです。 

<命を救う> 

 そしてそれは命を救う言葉です。人の賞賛を得ることはない、自分自身にとっても達成感の少ない徒労のように思える十字架を担って歩む歩みは、復活の命へ向かう歩みだからです。キリストが十字架の死の後、復活されたように、私たちもまた十字架を担ってキリストの後を歩むとき、復活の命、まことの命に行きつきます。この世の賞賛は、肉体の命と共に尽きます。いやそれ以前に、いったん手にした賞賛も手のひら返しのようにバッシングとなることだってあります。しかし、復活の命は永遠なのです。私たちのこの地上の限りある命が、主イエスの後に従い、自らの十字架を負って歩むとき、永遠の光の中に置かれるのです。つまらない日々、変わり映えのしない毎日、あれこれしんどい人生が、主イエスの後ろに従って歩む時、主イエスの永遠の光に照らされます。その時、私たちの命は、たしかな意味を持ち、輝かされるのです。ペトロもそうだったのです。イエス様に叱られた。今日の聖書箇所の後でも何度も失敗をした。しかし、そのすべてのことを語るのです。のちに「ペトロの手紙」としてまとめられた手紙にはそのようなペトロのある意味、情けない過去があったからこそ、伝えたいと願った言葉があふれています。失敗もみじめさもすべて無駄ではなかった、いやむしろ主イエスによって輝きに変えていただいた。だから彼はのちに続く人々に語り続けたのです。単なる失敗談や後悔の思いを語ったのではなく、むしろそこにこそ福音がある、喜びがある、そうペトロは語りました。わたしたちまたそうです。私たちは主イエスの後に従うとき、すでに御国を先取りして歩みます。いっぱいもするかもしれない。主イエスからおしかりを受けるかもしれない。でも大丈夫なんです。主イエスの後ろを歩む限り、私たちはすでに永遠の子供、喜びの子供なのです。