2021年6月27日日大阪東教会主日礼拝説教「神の相続人」吉浦玲子
<聖なる者とされ>
先週から「ペトロの手紙Ⅰ」を共にお読みしています。この手紙は少しずつ読んでいこうと思っております。場合によっては、前の週に予告した聖書箇所と重なる部分を読むこともあるかと思いますし、予告と少しずれたりするかもしれません。いずれにしても、少しずつ、じっくりと味わって読んでいきたいと願っています。
さて、2節に「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、」という言葉があります。ペトロは手紙を読むキリスト者に対して<あなたたちは聖なる者とされた>と語っているのです。「聖」という言葉はヘブライ語では、もともと「分離」「区別」という意味を表すと言われます。特に神と人間の関係において、当然、神と人間は分離されているわけです。神は「聖」なるお方ということは、人間からは区別されているお方であるということなのです。旧約聖書では神を見た者は死ぬと人々は恐れていました。神の聖なる性質、聖性は侵してはならないものだからです。神と人間の区別は厳然としたものでした。しかしまた一方、レビ記などでは、神は人間に対して神はおっしゃいます「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。レビ19:2」これは口語訳では「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と訳されていました。
神であるわたしが聖なのだから、あなたがたも聖となれ、そう語られています。人間に聖なる者になれというのは、無茶なことを言われているように感じます。しかし、このレビ記の言葉は、神によって選ばれ救われたイスラエルの民たちに語られています。神ご自身がご自身のことを「あなたたちの神」とおっしゃっています。あなたたちが聖なる者となったから、あなたがたの神となりましょう、ということではありません。聖なるお方である神が、すでに民を救い出され、民の神となってくださった、ということです。その救われた民に対して、あなたたちはすでに聖なるわたしによってわたしの民とされているのだから、聖なる者となりなさい、と語られているのです。
これは主イエスによって救われた私たちも同様です。私たちは主イエスの十字架によってすでに神の民として選ばれ、分離され、取り分けられています。「血を注ぎかけていただくために選ばれた」ということはキリストの十字架の血によって救われたということです。わたしたちもまた聖なる者とされているのです。「聖なる者となりなさい」とレビ記で神はおっしゃいました。私たちは自力で聖なる者となるのではなく、キリストのゆえにすでに聖なる者とされているのです。そしてすでに聖なる者にされているのだから、聖なる者にふさわしく生きるのです。
そしてまた「”霊”によって聖なる者とされ」とあるように、私たちは聖霊によって聖なる者とされ、聖霊によって聖なる者にふさわしく生きるのです。聖なる者として選ばれ、聖なる者として生きるということは、人間の力でできることではなく、そこには絶対的な神の力があるのです。
手紙の冒頭で、ペトロは愛をもって語りかけます。「聖なる者とされたあなたたち」と。しかし、私たちは、自分のことを「聖なる者」と言われたら面はゆい気がするのではないでしょうか?とてもとても聖なる者なんて自分を思えないかもしれません。しかし、先ほど申し上げましたように、聖なる者とされること、聖なる者として生きていくことは徹頭徹尾、神の力の内にあることです。私たちは自分で聖人君子のように生きるのではないのです。ひたすら神の力の内に聖霊に委ねて生きる時、私たちはおのずと聖なる者として聖なる生き方をしていくのです。
そしてまた教会も聖なるものです。教会には生身の人間が集います。一人一人、現実社会、日々の暮らしの中での痛みや重荷を負っています。そしてまた教会は門を開いて、現実社会の中で生きる人々を招きます。聖なる教会だからとお高くとまる必要はないのです。高く暗いブロック塀が撤去されたように、教会は明るく風通しよく人々を招きます。しかし、教会はやはり外の世界とは「分離」された「区別」された聖なる場所なのです。そこにこそ、教会の独自性があり、そのような聖なる共同体であるからこそ、招かれた人々がまことの癒しや力を得ることができるのです。そうでなければ、この世のコミュニティセンターや地域の集まりや個人的なつながりで十分なのです。現代は、聖なるもの、聖性ということが軽んじられる時代です。知識や情報が行き渡っているのは喜ばしいことですが、何もかもが人間の意志や理性のもとに明らかにされるわけではありません。聖なるものを重んじるということには、神を畏れ、神への謙遜さが求められます。教会の聖性を守っていくことは、逆に教会がこの世に仕えるものとされるために必要なことです。
<恵みと平和>
さて、神によって聖なる者とされた人々に、そして私たちに、ペトロは語ります。「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」こういう言葉は、祝福の言葉としてよく聞きます。ですから、さらっと聞いてしまいます。でもそもそも「恵み」とは何でしょうか?キリスト教はご利益宗教ではないと言われます。家内安全とか商売繁盛を願うものではないと言われます。だとすると「恵み」というのは何なのでしょうか?私たちは「恵み」というのを、なんとなく、ぼんやりと神様からいただく良い感じのものとして捉えているかもしれません。しかし、「恵み」というのは、人間に喜びを与える具体的な神の力なのです。主イエスは恵みに満ちていたと福音書に書かれています。主イエスの言葉を聞いた人々は心の底から喜びを与えられ、生きる力を与えられました。そしてまた、そこにはあたたかさがあったのです。あたたかさというと甘い印象になりますが、心を解くようなのびのびとさせるような力があったということです。寒い冷え切った中では体もこわばり心も凍てつきます。あたたかくなると、ゆったりと緊張がほぐれ、心も解放される、それが恵みの力です。もう20年も前のことですが、日帰りで東京に出張したことがありました。家には小学生の子供が一人で帰りを待っていました。その日は、夜の9時前には大阪の家に帰宅できる予定でした。しかし、夕刻から、東海地方に大雨が降り、新幹線が止まってしまったのです。これはのちに東海豪雨と呼ばれ、激甚災害にも指定された災害でした。しかし、夕方の時点ではそこまでの災害になるという予測が立っていないなか、新幹線は東京を次々と出発し、結果的に70本の新幹線が、東海地方を越えられず、団子状に東海道線上にストップし、5万人の人々が一晩新幹線に閉じ込められたのです。私はその5万人の中の一人だったのです。私が乗っていた新幹線は、東京を出て、すぐに動かなくなって、結局、熱海付近から先に進めず、一晩車中で過ごしました。そして、翌朝、その列車は運航停止となって、三島駅で乗客は放り出されました。新幹線の復旧のめどは立っていなくて在来線は少し動いているようでしたが、私は三島あたりの地理に疎く、三島からどっちにどういう風に在来線を乗り継いで行ったらいいのかまったくわかりませんでした。当時はスマホもなく、経路検索などもできませんでした。でもそのとき、覚えているのが、三島駅で新幹線が運休となってホームに放り出された人々のために、ホームに食料の入った箱がずらっと並べられたことです。おにぎりとか菓子パンとかがありました。みんなわれさきに箱から食べ物をとっていて、私はいくつかのパンを取りました。スーパーで売っているような安っぽい菓子パンでしたが、そのパンをもらって、不思議と妙に元気が出たのです。よっしゃ、頑張って大阪に帰るぞ、息子よ待ってろ、という気分になりました。結局、そこから在来線を乗り継いでどうにか大阪に帰って来たのはその日の夕方で、実に東京を出てから24時間後でした。三島駅の菓子パンで元気が出たというと単純な人間だなと思うのですが、人間ってそういう側面があるんではないでしょうか。がんばれよという精神的な励ましより、あたたかいお茶の一杯とか、三島駅の菓子パンとか、そういう具体的なもので人間は力を得るのです。「恵み」というのは、実際、そういう具体的な力なのです。キリストの言葉にはそのような力がありますし、神は私たち一人一人にキリストの言葉と合わせて具体的に力となるものを、喜びとなるものを与えてくださいます。そして恵みと平和という時の平和とは、何より神との平和です。完全な充足を言います。キリストの十字架によって、私たちと神を隔てていた罪が取り除かれた、神と和解ができた、そこにある完全な平和です。逆に神との平和がなければ、私たちの心はいつも騒がしく揺らぎ、不安で、落ち着かないのです。私たちは神から恵みをいただき、そして平和をいただきます。「恵みと平和がありますように」というのは定型文のような単なるご挨拶の言葉ではなく、神のまことの力のうちに私たちがすでにあり、かつそこにずっととどまりましょうという祝福の言葉なのです。
<生き生きとした希望>
その祝福の言葉を聞く私たちは「生き生きといた希望」に生かされています。「生き生きとした希望」は「生ける希望」と訳されている訳もあります。しかし思うのです。「死んだ希望」などがあるのか?と。大人は若い人に言うのです。「希望を持って生きろ」と。人生に絶望した人にも「希望を持て」と励まします。しかし、人間が持つ希望というのは、実際のところ、はかないものです。子供のころ夢見た、希望した職業につける人は多くありません。幸い、子供のころの希望が叶っても、それで生涯幸せが続くとも限りません。あるいは人に認められたいという希望を持って努力をしても、多くのことを犠牲にしてがんばって良い結果を得たとしても、心身の犠牲があまりに大きかったり、あるいは周囲の人々と乖離していくようなあり方であったとしたら、それは本当の意味での「生き生きとした希望」ではありません。しかし、ペトロの語る希望は、あくまでも「生ける希望」であり、自分もまた周りの人々も生かす「希望」なのです。それに向かってぼろぼろになって努力をするようなものではないのです。もちろん試練はあります。しかし、試練や辛いことはあっても、なお喜びに生かされる希望です。
その希望の源は、キリストのゆえに、私たちが神の子とされ、神の財産をうけつぐ者とされていることにあります。「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」そうペトロは語ります。私たちはすでにキリストと同じく神の子とされ神の財産の相続人なのです。この世のものは朽ち、汚れ、しぼみます。私たちの夢も希望も潰える時があります。しかし、私たちには朽ちず、汚れず、しぼまない財産がすべてに約束されています。これは揺るぎない約束です。その約束について、またペトロの手紙からゆっくりと聞いていきたいと思います。