<罪を覗き込むことはできない>
ある牧師会の席で、ある先生がこうおっしゃいました。「罪というのは恐ろしいもので、人間は自分の罪を自分一人で覗き込むことはできないんだ。」その先生は、罪というのはたとえば、活動している火山の火口の奥にあるマグマのようなものなのだとおっしゃいました。その罪の火口を覗き込もうとしたら、吹き出てくる炎や硫黄のガスでやられてしまう。あるいはくらくらして火口のなかに落ち込んでしまう。それほどに罪というのは恐ろしいもので、人間は自分の罪の現実を見ることはできないし、見たくはないのだ、そうおっしゃいました。
罪はその罪の火口まで一緒に行ってくれる人がいてはじめて覗き込むことができる。教会というのはひとりでは覗き込むことのできないその恐ろしい罪の火口までいっしょに歩んでいき、またマグマの奈落へと落ち込まないような命綱の働きをするものだ、とおっしゃいました。ひとりでは到底覗き込めない、覗き込んだらたちまちめまいを起こして奈落へと落ち込んでいく罪の火口まで共に歩む命綱が教会である、と。そしてその教会のあるじが主イエスなのだとおっしゃいました。
つまり主イエスが共におられなければ私たちは自分の罪に気づくことも悔い改めることもできないのです。主イエスが共にいてくださり、聖霊によってさし示されて、はじめて私たちは自分の罪を知り、悔い改めることができます。
さて、今日の聖書箇所は、いきなり「だから、すべて人を裁く者よ」という言葉ではじまります。なんなんだろうかこれは?と驚きます。今日の聖書箇所の前の部分には、罪に陥った人間の浅ましいさまが描かれています。「無知、不誠実、無情、無慈悲云々、、、彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」とあります。
無知、不誠実、無情、無慈悲と記されていることは罪から発生するさまざまな状況です。そして自分の罪をうすうす知りながら、また自分がやっていることが悪いことであると知りながら、そしてまた神の前で罪は死に値すると知りながら、なお人間はその罪の現実を見ることができないのです。
多くの聖書学者は、「すべて人を裁く者よ」とはパウロがユダヤ人に対して言っているのだと解釈しています。たしかに1章の後半は偶像崇拝について主として批判されています。ユダヤ人たちは、偶像崇拝をするのは異邦人であって自分たちは正しく神を礼拝していると思っていました。ですから、1章に書かれているようなことは自分には関係がない、そうユダヤ人は考えていたでしょう。ユダヤ人は異邦人を裁いていたのです。ですから、「だから、すべて人を裁く者よ」とパウロは語ったと言えるのです。
しかし、現実には、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、自分の罪を見ることのできない人間は、人を裁くのです。人の罪をあげつらうことができるのです。自分の罪が見えないから、人のことを裁くことができるのです。自分の罪を棚上げにして、人を裁くことができるのです。また別の言い方をすれば自分の罪を見ることのできない、しかしうすうす感じている人間は、人の罪を数え上げて、自分はまだましだと思って安心しているのです。安心したいから裁くのだという心理もあるでしょう。そのような人間の弱さもあるのです。そしてそれは残念ながら、パウロが語った相手の当時のユダヤ人だけでなく現代を生きるキリスト者にも多かれ少なかれ、あることです。私自身、このパウロの言葉の前で、ぎくっとします。パウロは、そのようなことは自分自身をさらに神によって裁かれる者としているのだと大変厳しく言っています。
<問題なのはあなたのかたくなな心>
しかし、ここでよくよく注意しないといけないことがあります。私たちは人を裁くなということを、<自分のことを棚に上げてはいけない>という意味合いだけでとらえてはいけないのです。人に厳しいことを言う人に対して「あなたは人を裁いている」と逆にその人を裁くように批判をするようなこともありますが、しかし、単に「人に厳しいことをいうな」とパウロは言っているのではないのです。パウロがいわんとすることはどうせ自分だって罪人なんだから人を批判するなということではないのです。自分の罪を見ることのできない人間は確かに人を裁いてしまいます。そのことに対してたしかにパウロは厳しく言っています。しかし、その本質にあるのは神との関係が壊れているということです。神との関係が壊れていることから目をそらして、人間関係の問題にすり替えて読んではいけないのです。
ある方はこの聖書箇所のパウロの言葉は当時のユダヤ人からしたら噴飯ものだっただろうと言います。このパウロの手紙はコリントという街で書かれています。コリントは当時たいへん退廃的な大都市でした。それこそ、1章の後半に書かれているような不道徳なことが蔓延していた都市でした。その中で、クリスチャンであれ、クリスチャンではないユダヤ教徒のユダヤ人であれ、基本的に、道徳的には立派に生きていたのです。きわめて潔癖だったのです。しかし、パウロはその立派な道徳心や行いではなく、その心を問題としたのです。人間の罪の火口を問題としたのです。神との関係における有り様を問題としたのです。さっき、人間は自分の罪を自分一人で見ることはできないと申し上げました。主イエスが共にその罪の火口までいっしょにいってくださらなければ人間は罪の火口に落ち込んでします、自分の罪に呑み込まれてしまうのだとも申しました。
しかし、その導いてくださる主イエスの言葉をどれほど自分のこととしてあなたは聞いていますか?ということをパウロは問題としています。罪の問題を他人事としている人は、主イエスの導きを他人事としているのだと言っているのです。<神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。>とパウロは言います。私たちは私たちの力で罪の赦しを乞うわけでありません。キリストが共におられる、そのキリストを私たちに賜ってくださった神の慈愛と寛容と忍耐を軽んじて、神の言葉をキリストの御言葉を他人事として聞いていませんかとパウロは問うているのです。
罪の問題としてよく引き合いに出されるのは、サムエル記下12章のダビデ王に対する預言者ナタンの叱責です。ダビデ王は部下であるウリヤの妻バトシェバと不倫をし、バトシェバはダビデ王の子供を宿します。結局、ダビデはウリヤを策略を使って殺します。そして何食わぬ顔をしてバトシェバを妻として迎えました。そのダビデ王に対して、臣下であるナタンは貧しい男と豊かな男のたとえ話をします。「貧しい男には娘のようにかわいがっていた雌の小羊がいました。貧しい男はその小羊しか持っていませんでした。それに対して豊かな男はたくさんの羊や牛があったにもかかわらず、自分の客人をもてなすのに、自分の牛や羊を使うのをけちって、貧しい男の小羊を取り上げて殺して客人にふるまった。」そのような話をナタンはダビデに聞かせます。ダビデは怒って、「そんなことをした豊かな男は死罪だ。」と叫びます。しかしナタンはダビデに言うのです。「その男はあなただ。何不自由なく豊かに過ごしてたくさんの妻をもっているあなたが、ウリヤの妻を奪ってウリヤを殺した。」そうナタンはダビデを叱責します。ダビデのやったことは個人としての罪としても重いですし、また権力者の罪としてもひどいものです。しかし幸い、ダビデはナタンの叱責に対して、自分の罪を認めました。ここがダビデの偉いところでもあります。ダビデはイスラエルの歴代の王の中では、たいへん優れた王で、なにより神に対して忠実に歩んだ王でした。しかし完璧ではありませんでした。やはり罪を犯したのです。しかし、悔い改めることができた、そのダビデ自身、自分の罪を知ったのは、ナタンの「その男はあなただ」と言う言葉があったからです。まさにナタンは、ダビデをダビデの罪の火口まで連れて行ったといえます。もちろんそれは連れて行く方も命がけです。もしダビデが罪を認めなければナタンはダビデの臣下ですから殺される可能性もありました。しかしナタンは「その男はあなただ」と言い、ダビデはその言葉を自分へ向けられた言葉としてしっかりと受け止めたのです。
ダビデはその貧しい男と豊かな男のたとえ話を、最初は他人事して聞いていたのです。そしてその豊かな男を裁いていたのです。他人事として聞いていた時、ダビデは豊かな男を裁くことができたのです。
私たちも聖書の言葉を、キリストの言葉を他人事として聞いている時、自分の罪を知ることはできません。そんなとき、どこか自分とは関係のないところに罪があると思っています。「その男はあなただ」という声を聞きとることができません。
これは前にもお話ししたことがあることかもしれません。受洗前に私は牧師先生と聖書の学びをしていました。私は自分で言うのもなんですが、当時、それなりに熱心に聖書を読んでいました。先生にもいろいろ質問して、先生からしたらしつこい嫌な生徒だったかもしれません。ある時、モーセの十戒の学びをしました。そのとき、その十戒の中のある戒めが気になりました。私はこの戒めを破っているかもしれないと感じたのです。で、そのことを牧師に言いました。そうしたら牧師はうーんと唸りこんでしまいました。ナタンのように叱責はされなかったのです。でもその先生がうーんと唸りこんでおられる姿を見た時、私は自分の罪を知りました。私は本当に罪を犯していたんだと知らされました。そのときから、私は聖書の言葉は自分に語りかけてくるものなのだと知りました。それまでは読み物として客観的に読んでいました。しかし、それから客観的な文書として読んだり、自分とは違う世界の物語として読むことができなくなりました。聖書の言葉が他人事ではなくなったのです。当時の牧師先生はナタンのように叱責はされませんでしたが、でもその姿勢において「その男はあなただ」ということを私に伝えられたのだと思います。そのとき、罪は他人事ではなくなりました。そしてまた聖書の言葉も他人事ではなくなりました。
でももちろん、それからも私は罪を繰り返し犯してきました。まさにパウロがいうように罪人の頭であると思います。聖書の言葉を他人事に聞いてしまうことが多々ありました。「その男はあなただ」というキリストご自身の言葉を聞き取れない時も多くありました。今もあります。パウロが語っているように、ただただ神の憐みによって、「その男はあなただ」と言う言葉を聞きとることができるように、まことの悔い改めに導かれることを祈りつつ歩むしかありません。
<本当の平等とは何か>
さて、今日の聖書箇所はユダヤ人に対して語られたものであると申し上げました。今日の聖書箇所の後半では、神の裁きがユダヤ人にもギリシャ人にも、平等に与えられると記されています。ユダヤの民には律法が与えられていました。しかしその律法があろうとなかろうと、人間は神の前で平等に裁かれるとパウロは語ります。11節に「神は人を分け隔てなさいません。」とパウロは言います。人を分け隔てなさらない、それはたいへん心地の良い言葉です。現実の世界は昔も今も、不平等で、分け隔てがあります。しかし神は分け隔てなさらない、と聞くと、なんて素晴らしい言葉だと思います。しかしここで言われているのは裁きの座で分け隔てされないということです。ユダヤ人は自分たちは特別だと思っていたのです。神の前で特別に扱われる、そう思っていたのです。ですからこのパウロの言葉はショッキングなことです。では、現代を生きるユダヤ人ではない私たちにとってはどうでしょうか。やはりこの言葉は厳しいことなのです。裁きにおいて平等だということなのですから。神の前で誰も等しく言い逃れはできないということなのです。
しかし、では私たちは来るべき裁きを怖れて生きないといけないのでしょうか。あるいはクリスチャンはすでにキリストの十字架によって赦されているから裁きなど恐れることはないのでしょうか。確かにキリストは十字架によってわたしたちの罪を贖ってくださいました。だからこそわたしたちは罪に対して真摯に生きていくことができるのです。キリストがその道を開いてくださった。だから自分の罪を悔い改めながら生きていくことができます。キリストの流された血潮を軽んじることなく生きていくのです。何より悔い改めへと導いてくださった神の憐みに感謝して信頼して生きていくのです。立派に、自分の力で正しく生きることが望まれているのではないのです。悔い改めへと導かれる神の憐みに期待していきていくのです。ダビデが「その男はあなただ」という言葉によって悔い改めたように、私たちも私たちを悔い改めに導く言葉に耳を澄ましながら生きていくのです。
その悔い改めの中に日々生きていくとき、分け隔てのない裁きは怖いものではなくなります。終わりの日までキリストが共に歩んでくださいます。悔い改めに導く言葉をかけてくださいます。ときどきその言葉が聞こえない時もあるかもしれません。しかし、祈りつつ耳を澄ますのです。立ち帰り悔い改め神に感謝をして生きていくのです。そしてキリストと共に終わりの日の裁きの座に立ちます。そのとき私たちは恐れることなく、分け隔てなさらない神の座の前に心を高く上げます。