大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙2章1~16節

2017-05-17 11:28:57 | ローマの信徒への手紙

<罪を覗き込むことはできない>

 ある牧師会の席で、ある先生がこうおっしゃいました。「罪というのは恐ろしいもので、人間は自分の罪を自分一人で覗き込むことはできないんだ。」その先生は、罪というのはたとえば、活動している火山の火口の奥にあるマグマのようなものなのだとおっしゃいました。その罪の火口を覗き込もうとしたら、吹き出てくる炎や硫黄のガスでやられてしまう。あるいはくらくらして火口のなかに落ち込んでしまう。それほどに罪というのは恐ろしいもので、人間は自分の罪の現実を見ることはできないし、見たくはないのだ、そうおっしゃいました。

 罪はその罪の火口まで一緒に行ってくれる人がいてはじめて覗き込むことができる。教会というのはひとりでは覗き込むことのできないその恐ろしい罪の火口までいっしょに歩んでいき、またマグマの奈落へと落ち込まないような命綱の働きをするものだ、とおっしゃいました。ひとりでは到底覗き込めない、覗き込んだらたちまちめまいを起こして奈落へと落ち込んでいく罪の火口まで共に歩む命綱が教会である、と。そしてその教会のあるじが主イエスなのだとおっしゃいました。

 つまり主イエスが共におられなければ私たちは自分の罪に気づくことも悔い改めることもできないのです。主イエスが共にいてくださり、聖霊によってさし示されて、はじめて私たちは自分の罪を知り、悔い改めることができます。

 さて、今日の聖書箇所は、いきなり「だから、すべて人を裁く者よ」という言葉ではじまります。なんなんだろうかこれは?と驚きます。今日の聖書箇所の前の部分には、罪に陥った人間の浅ましいさまが描かれています。「無知、不誠実、無情、無慈悲云々、、、彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」とあります。

 無知、不誠実、無情、無慈悲と記されていることは罪から発生するさまざまな状況です。そして自分の罪をうすうす知りながら、また自分がやっていることが悪いことであると知りながら、そしてまた神の前で罪は死に値すると知りながら、なお人間はその罪の現実を見ることができないのです。

 多くの聖書学者は、「すべて人を裁く者よ」とはパウロがユダヤ人に対して言っているのだと解釈しています。たしかに1章の後半は偶像崇拝について主として批判されています。ユダヤ人たちは、偶像崇拝をするのは異邦人であって自分たちは正しく神を礼拝していると思っていました。ですから、1章に書かれているようなことは自分には関係がない、そうユダヤ人は考えていたでしょう。ユダヤ人は異邦人を裁いていたのです。ですから、「だから、すべて人を裁く者よ」とパウロは語ったと言えるのです。

 しかし、現実には、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、自分の罪を見ることのできない人間は、人を裁くのです。人の罪をあげつらうことができるのです。自分の罪が見えないから、人のことを裁くことができるのです。自分の罪を棚上げにして、人を裁くことができるのです。また別の言い方をすれば自分の罪を見ることのできない、しかしうすうす感じている人間は、人の罪を数え上げて、自分はまだましだと思って安心しているのです。安心したいから裁くのだという心理もあるでしょう。そのような人間の弱さもあるのです。そしてそれは残念ながら、パウロが語った相手の当時のユダヤ人だけでなく現代を生きるキリスト者にも多かれ少なかれ、あることです。私自身、このパウロの言葉の前で、ぎくっとします。パウロは、そのようなことは自分自身をさらに神によって裁かれる者としているのだと大変厳しく言っています。

<問題なのはあなたのかたくなな心>

 しかし、ここでよくよく注意しないといけないことがあります。私たちは人を裁くなということを、<自分のことを棚に上げてはいけない>という意味合いだけでとらえてはいけないのです。人に厳しいことを言う人に対して「あなたは人を裁いている」と逆にその人を裁くように批判をするようなこともありますが、しかし、単に「人に厳しいことをいうな」とパウロは言っているのではないのです。パウロがいわんとすることはどうせ自分だって罪人なんだから人を批判するなということではないのです。自分の罪を見ることのできない人間は確かに人を裁いてしまいます。そのことに対してたしかにパウロは厳しく言っています。しかし、その本質にあるのは神との関係が壊れているということです。神との関係が壊れていることから目をそらして、人間関係の問題にすり替えて読んではいけないのです。

 ある方はこの聖書箇所のパウロの言葉は当時のユダヤ人からしたら噴飯ものだっただろうと言います。このパウロの手紙はコリントという街で書かれています。コリントは当時たいへん退廃的な大都市でした。それこそ、1章の後半に書かれているような不道徳なことが蔓延していた都市でした。その中で、クリスチャンであれ、クリスチャンではないユダヤ教徒のユダヤ人であれ、基本的に、道徳的には立派に生きていたのです。きわめて潔癖だったのです。しかし、パウロはその立派な道徳心や行いではなく、その心を問題としたのです。人間の罪の火口を問題としたのです。神との関係における有り様を問題としたのです。さっき、人間は自分の罪を自分一人で見ることはできないと申し上げました。主イエスが共にその罪の火口までいっしょにいってくださらなければ人間は罪の火口に落ち込んでします、自分の罪に呑み込まれてしまうのだとも申しました。

 しかし、その導いてくださる主イエスの言葉をどれほど自分のこととしてあなたは聞いていますか?ということをパウロは問題としています。罪の問題を他人事としている人は、主イエスの導きを他人事としているのだと言っているのです。<神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。>とパウロは言います。私たちは私たちの力で罪の赦しを乞うわけでありません。キリストが共におられる、そのキリストを私たちに賜ってくださった神の慈愛と寛容と忍耐を軽んじて、神の言葉をキリストの御言葉を他人事として聞いていませんかとパウロは問うているのです。

 罪の問題としてよく引き合いに出されるのは、サムエル記下12章のダビデ王に対する預言者ナタンの叱責です。ダビデ王は部下であるウリヤの妻バトシェバと不倫をし、バトシェバはダビデ王の子供を宿します。結局、ダビデはウリヤを策略を使って殺します。そして何食わぬ顔をしてバトシェバを妻として迎えました。そのダビデ王に対して、臣下であるナタンは貧しい男と豊かな男のたとえ話をします。「貧しい男には娘のようにかわいがっていた雌の小羊がいました。貧しい男はその小羊しか持っていませんでした。それに対して豊かな男はたくさんの羊や牛があったにもかかわらず、自分の客人をもてなすのに、自分の牛や羊を使うのをけちって、貧しい男の小羊を取り上げて殺して客人にふるまった。」そのような話をナタンはダビデに聞かせます。ダビデは怒って、「そんなことをした豊かな男は死罪だ。」と叫びます。しかしナタンはダビデに言うのです。「その男はあなただ。何不自由なく豊かに過ごしてたくさんの妻をもっているあなたが、ウリヤの妻を奪ってウリヤを殺した。」そうナタンはダビデを叱責します。ダビデのやったことは個人としての罪としても重いですし、また権力者の罪としてもひどいものです。しかし幸い、ダビデはナタンの叱責に対して、自分の罪を認めました。ここがダビデの偉いところでもあります。ダビデはイスラエルの歴代の王の中では、たいへん優れた王で、なにより神に対して忠実に歩んだ王でした。しかし完璧ではありませんでした。やはり罪を犯したのです。しかし、悔い改めることができた、そのダビデ自身、自分の罪を知ったのは、ナタンの「その男はあなただ」と言う言葉があったからです。まさにナタンは、ダビデをダビデの罪の火口まで連れて行ったといえます。もちろんそれは連れて行く方も命がけです。もしダビデが罪を認めなければナタンはダビデの臣下ですから殺される可能性もありました。しかしナタンは「その男はあなただ」と言い、ダビデはその言葉を自分へ向けられた言葉としてしっかりと受け止めたのです。

 ダビデはその貧しい男と豊かな男のたとえ話を、最初は他人事して聞いていたのです。そしてその豊かな男を裁いていたのです。他人事として聞いていた時、ダビデは豊かな男を裁くことができたのです。

 私たちも聖書の言葉を、キリストの言葉を他人事として聞いている時、自分の罪を知ることはできません。そんなとき、どこか自分とは関係のないところに罪があると思っています。「その男はあなただ」という声を聞きとることができません。

 これは前にもお話ししたことがあることかもしれません。受洗前に私は牧師先生と聖書の学びをしていました。私は自分で言うのもなんですが、当時、それなりに熱心に聖書を読んでいました。先生にもいろいろ質問して、先生からしたらしつこい嫌な生徒だったかもしれません。ある時、モーセの十戒の学びをしました。そのとき、その十戒の中のある戒めが気になりました。私はこの戒めを破っているかもしれないと感じたのです。で、そのことを牧師に言いました。そうしたら牧師はうーんと唸りこんでしまいました。ナタンのように叱責はされなかったのです。でもその先生がうーんと唸りこんでおられる姿を見た時、私は自分の罪を知りました。私は本当に罪を犯していたんだと知らされました。そのときから、私は聖書の言葉は自分に語りかけてくるものなのだと知りました。それまでは読み物として客観的に読んでいました。しかし、それから客観的な文書として読んだり、自分とは違う世界の物語として読むことができなくなりました。聖書の言葉が他人事ではなくなったのです。当時の牧師先生はナタンのように叱責はされませんでしたが、でもその姿勢において「その男はあなただ」ということを私に伝えられたのだと思います。そのとき、罪は他人事ではなくなりました。そしてまた聖書の言葉も他人事ではなくなりました。

 でももちろん、それからも私は罪を繰り返し犯してきました。まさにパウロがいうように罪人の頭であると思います。聖書の言葉を他人事に聞いてしまうことが多々ありました。「その男はあなただ」というキリストご自身の言葉を聞き取れない時も多くありました。今もあります。パウロが語っているように、ただただ神の憐みによって、「その男はあなただ」と言う言葉を聞きとることができるように、まことの悔い改めに導かれることを祈りつつ歩むしかありません。

<本当の平等とは何か>

 さて、今日の聖書箇所はユダヤ人に対して語られたものであると申し上げました。今日の聖書箇所の後半では、神の裁きがユダヤ人にもギリシャ人にも、平等に与えられると記されています。ユダヤの民には律法が与えられていました。しかしその律法があろうとなかろうと、人間は神の前で平等に裁かれるとパウロは語ります。11節に「神は人を分け隔てなさいません。」とパウロは言います。人を分け隔てなさらない、それはたいへん心地の良い言葉です。現実の世界は昔も今も、不平等で、分け隔てがあります。しかし神は分け隔てなさらない、と聞くと、なんて素晴らしい言葉だと思います。しかしここで言われているのは裁きの座で分け隔てされないということです。ユダヤ人は自分たちは特別だと思っていたのです。神の前で特別に扱われる、そう思っていたのです。ですからこのパウロの言葉はショッキングなことです。では、現代を生きるユダヤ人ではない私たちにとってはどうでしょうか。やはりこの言葉は厳しいことなのです。裁きにおいて平等だということなのですから。神の前で誰も等しく言い逃れはできないということなのです。

 しかし、では私たちは来るべき裁きを怖れて生きないといけないのでしょうか。あるいはクリスチャンはすでにキリストの十字架によって赦されているから裁きなど恐れることはないのでしょうか。確かにキリストは十字架によってわたしたちの罪を贖ってくださいました。だからこそわたしたちは罪に対して真摯に生きていくことができるのです。キリストがその道を開いてくださった。だから自分の罪を悔い改めながら生きていくことができます。キリストの流された血潮を軽んじることなく生きていくのです。何より悔い改めへと導いてくださった神の憐みに感謝して信頼して生きていくのです。立派に、自分の力で正しく生きることが望まれているのではないのです。悔い改めへと導かれる神の憐みに期待していきていくのです。ダビデが「その男はあなただ」という言葉によって悔い改めたように、私たちも私たちを悔い改めに導く言葉に耳を澄ましながら生きていくのです。

 その悔い改めの中に日々生きていくとき、分け隔てのない裁きは怖いものではなくなります。終わりの日までキリストが共に歩んでくださいます。悔い改めに導く言葉をかけてくださいます。ときどきその言葉が聞こえない時もあるかもしれません。しかし、祈りつつ耳を澄ますのです。立ち帰り悔い改め神に感謝をして生きていくのです。そしてキリストと共に終わりの日の裁きの座に立ちます。そのとき私たちは恐れることなく、分け隔てなさらない神の座の前に心を高く上げます。


2017年5月7日主日礼拝説教 ローマの信徒への手紙1章18~32節

2017-05-10 14:58:32 | ローマの信徒への手紙

説教 「人類の罪」

<罪という言葉>

 20代の時、お世話になっていた方の葬儀に出席しました。生まれ育った長崎県佐世保市でのことです。亡くなられた方はカトリックの信徒でした。当時、わたしはまったくキリスト教や聖書とは関係のない生活をしていました。実家も普通に仏壇のある日本の家庭でした。大きなカトリックの教会で葬儀があり、わたしは母と慣れないキリスト教式の葬儀に出席しました。もっともそのときが、キリスト教式の葬儀、初体験ということではありませんでした。中学生の時にもキリスト教式の葬儀には出席したことがあるのです。ものごころついてから葬儀に出席したのがその20代のときまでで三回で、そのうち二回がキリスト教式の葬儀だったことになります。長崎という土地柄か、クリスチャン人口が多いのかどうかは分かりません。中学生のとき出席した葬儀では、オルガンで伴奏される讃美歌の美しさが印象に残っていたのですが、20代のとき出席した葬儀で印象に残ったのは、葬儀の司式をなさった神父さんが、「地上での命を終えられたOさんの罪が赦されるように」というような言葉を、私たちの教会でいえば礼拝の中の説教の部分で語られたことです。<神のみもとに行かれたOさんの罪が赦されて云々>というようなことを、神父さんはおっしゃいました。わたしはキリスト教とは関係のない、また興味も持っていない生活をしていましたが、なんとなく、キリスト教では罪とか、罪人という言い方をするんだという知識は持っていました。そして実際、神父さんの口から「罪」という言葉が出た時、ああやっぱりキリスト教では罪ということを言うんだ!と驚いたような納得したような気がしたのです。もちろん、その時、罪というのが本当のところはなんであるかはわかりませんでした。

 一方で、クリスチャンではない多くの日本人の感覚として、<人は死んだら仏様になる>ということがあるかもしれません。ですから「死んだ人を罪人だなんて悪く言う」ということには違和感がありました。実際、その、亡くなった方は本当に良い方でした。お世話になった方でした。その人の「罪」ということをきくとき、なんともいえない違和感がありました。あんな良い人が罪を犯したということをいうんだなあ、それもその人の葬儀の時に言うんだなあと驚いた記憶があります。

 さて、今日、お読みいただいた聖書箇所には「人類の罪」という表題が付けられています。私たちが<人類の罪>という言葉から一般的に連想しますことは何でしょうか?戦争とかテロとか大量虐殺とか自然破壊とか差別と言った、この世界にずっと絶えることなく続いている「悪」みたいなものを考えられますでしょうか?

<罪と信仰>

 今日の聖書箇所で、パウロは少しわかりにくい言い方をしているように感じられるかも知れません。「人類の罪」と表題をかかげられた18節から32節の本文には具体的に「罪」という言葉は一回も使われていません。しかし、パウロはこの18節から23節で罪の本質を語り、24節以降で罪に陥った人間の目を覆うばかりの惨状、ひどい状態を語っています。今日はその前半を中心にお話しします。

18節に「不義によって真理の働きを妨げるあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。」とあります。パウロは罪の本質は、「不義によって真理の働きを妨げるもの」だと語っています。不義とは義ではない、つまり正しくないことです。人間が正しくないことによって真理の働き、つまり神のもともとの豊かな働きを妨げること、それが罪であるとパウロは語っています。そしてその罪は不信心であり、そしてまた不義であると語っています。罪ということ、正しいか正しくないかということが、信仰そのものと結びついているということです。罪が信仰と結びついている、これは不思議な言い方かもしれません。クリスチャン人口の少ない日本では特にあるのですが、あの人は特定の宗教への信仰はないけれど良い人だ、と私たちは時に言います。信仰を持っていないけれどあの人は立派な人格者だった、そういうことを言います。それは誤った言い方ではありません。無宗教であってもキリスト教以外の宗教を信じておられても、もちろん立派に生きておられる方はたくさんおられます。

しかし、聖書が語る罪とは、そのような一人一人の人間の立派さや正しさということに本質があるというのではないのです。だれからも信頼される人格者、周りの人を明るい気持ちにさせる気配りのできる温かな人、生涯人のためにがんばって働いてこられた方、そういう人格的な素晴らしさとか、行いの立派さと、罪の問題は次元が異なるのだということです。

真理の働きを妨げる、神の働きを妨げる、端的にいえば神に逆らう、そのことが罪なのだとパウロは語ります。そしてその罪に対して神は怒りを現わされるのです。その罪は罪として神はそのままにはしておかれないということです。

<神は知ることができるか>

さらにパウロは語ります。神が世界を造られた、この世界の自然や動物、そしてわたしたち人間をも造られた、その神の力は、そしてその神の性質は、造られたもの、つまり被造物に現れているではないか。だからわたしたちは神を知ることができるのだとパウロは語ります。「従って、彼らには弁解の余地がありません。」被造物に神の力は現れているのだから神を知らないなどということはとんでもないことだ、神を知らないなどという弁解の余地はないのだと随分と厳しくパウロは語っています。

しかし、どうなのでしょうか。歴史的に見て、この日本という国だけをとってもみても16世紀にキリスト教が伝えられるまで、誰も聖書で語られている神は知らなかったのではないでしょうか。フランシスコ・ザビエルが日本に渡ってくる以前の日本人に対して、神を知らないなどという弁解の余地がない、というのは厳しすぎるように感じます。そしてまた現代においても、99%以上の日本人はクリスチャンではありません。クリスマスや結婚式でなんとなく、キリスト教的な雰囲気には触れながらも、本当の意味での神は知らない、その99%以上の日本人に対して、あなたが神を知らないなんて弁解の余地はないというのはどうなんでしょうか?

この箇所はいろんな観点で議論になるところです。

パウロは20節で、被造物を見ていれば神を知ることができると言っているように感じるのですが、ここは微妙な表現なのです。少しわかりにくいですが、パウロはほんとうのところは被造物を見ていれば神を知ることができるとは考えていないのです。それはパウロの手紙の他の所を読むと明らかなのです。パウロが言いたいのは、人間は被造物を見て、神が分かったような気になっているということです。たとえば自然の神秘を見る時、人間は神を分かったような気になる。もちろん実際、無神論者だった宇宙飛行士がはじめて宇宙空間を飛行した時、そこに神秘的な神の力を感じて神を信じるようになったということは現実にあったことです。あるいは、たとえば、空気のきれいな田舎に行って満天の星を見るとき、これはやはりどなたかが造られたものではないかと心打たれることはあります。たしかにぼんやりと神のようなものを感じたり、場合によって神秘体験みたいなことを通して、人間は神のようなものの存在を感じることができるように思います。

世界中の自然宗教はみなそこに基盤があります。原初的な宗教の根源はそこにあるといってもいいのです。しかし、聖書の語る神は、そのような神ではないということをパウロは言外に語っています。いやたしかにそこに神の感じはするかもしれない、人間は神を感じるかもしれない、しかしそう感じることと、本当に神を知るということとは別なのだとパウロは言っています。人間はぼんやりと、あるいは劇的な神秘体験を通して神を知ったと感じることがある。そう感じているあなたがたは確かに神を知っているといえるのだろう。しかし、その神を知っているというあなたがたは、結局、神ならぬものを神として崇拝しているではないか、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り換えた」とあるように、自分は神を知っていると言いながら、あなたがたが神以外のものを神としている。神を知っていると言いながら、あなたたちは偶像を崇拝している、あなたはそもそも神を知っていると自分で思っていたのだから、まことの神ではない神を拝んでいる責任はあなたにある、そこに弁解の余地はないとパウロは語っているのです。

人間が自然に接して神のようなものを感じることができるということと、まことの生ける神を知るということの間には大きな段差があるということです。その段差を知ることなく、自分はすでに神を知っている思い上がる人間は結局、空しい思いにとらえられるのだとパウロは語っています。<むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。>現代でもこの世の中には神秘体験やある種の霊的な体験を、なにかすごいことのように思って、結局、道を踏み外してしまう人々がいます。自分たちは神を知っていると思い、そして22節にあるように知恵を持っていると吹聴しながら愚かになっていくのだとパウロは語っています。危険な新興宗教にもそういう面があります。何か自分たちは人と違うすごいことを知っている、体験していると感じながら、実は心が鈍く暗くなっていっているのだというのです。

<イエス・キリストを知る>

まことの神を知るための段差を越えるというのはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストを知るということです。わたしたちはまことの神をイエス・キリストを通して知ることができるのです。それ以外の方法ではまことの神を知ることはできません。<わたしは道であり真理である>と主イエスはおっしゃいました。わたしたちはキリスト以外を通してまことの神を知ることはできません。そしてそのイエス・キリストを知るということはイエス・キリストを信じるということです。イエス・キリストは何年に生まれてどのような生涯をおくり、どんな言葉を残されたかそういうことを一生懸命学ぶことも大事ですが、なによりイエス・キリストを信じる信仰を持つ、そのとき、わたしたちは本当にイエス・キリストを知ることになるのです。そしてそのキリストを通じて創造主なるまことの神を知るのです。

<わたしのために死なれた神を知る>

ところで、マルティン・ルターは、このように言ったそうです。「<神を知る>ということは<私のために存在する神を知る>ことだ。」これは聞き様によってはたいへん傲慢にも聞こえる言葉です。私のために存在する神、という言い方は大胆です。神さまに対して、畏れ多いように感じます。

昔から、神の存在証明ということが繰り返し議論されてきました。神はいるのかいないのか、それは証明できるのか。哲学的な考察やら自然科学的な議論とかさまざまにあります。私自身は昔から繰り返されてきたその難しい議論をしっかりと理解できているわけではありません。しかし、神は人間の理性によって証明できるような存在ではないと考えます。そして大事なことは神が存在するかしないかということではなく、神と私の関係なのです。神は私となんの関係があるのか?関係がないのであれば、仮に神の存在がたしかに証明されたとしても、当然、私とは関係がないのです。変なたとえになりますが、高い高い木の上にリンゴがあるのかないのか、現実にリンゴがたしかにあったとしても、その存在が証明されたとして、その林檎に私たちの手が届かなければ、お腹を空かした私たちが食べることができないものであれば、そのリンゴは私たちにとって存在しないというのと同じことです。

しかし、私たちは知っています。キリストが私たちのために十字架で死なれたことを。キリストは私たちのために死んでくださった、つまり、とてつもない関係を持ってくださった、そのことのゆえに私たちはその父なる神との関係も回復させていただくことができた。十字架の上で死んでくださった方を信じる信仰によってのみ私たちは神を知ることができます。そしてそのキリストを信じる信仰によって、私たちは罪を贖われました。そのことのゆえに私たちは神を、真理を妨げることなく、神の怒りに会うことなく生きることができるのです。つまり私たちはキリストのゆえに神を知ります。神がまさに私のために存在してくださっていることを知ります。

<神に感謝が出来る>

だから私たちは神に感謝ができるのです。神が何か恐ろしい方で、神様の決まりを、つまり律法を守らないと怖いことになるから神に従うのではなく、感謝して神に従うのです。私のために御子イエス・キリストの命をも与えてくださり、旧約聖書から続く壮大な救いの物語を成就してくださった神に感謝をすることができるのです。21節に神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、とパウロは語っていますが、本当に神を知っているなら、それも私のために存在してくださっている神を知っているなら、私は神をあがめることができる、感謝をすることができるということです。逆に神をあがめることができない、神に感謝することができないというのは本当のところは神を知らないということです。

しかし、私たちはキリストのゆえに神を知っています。御子を送りその十字架と復活によって私自身を救ってくださった、まさに私のために存在する神を知っています。しかしなお、日々の中でともすれば神をあがめること感謝することを忘れてしまうことがあります。むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなってしまうときがないわけではありません。ですから、たえずキリストを知り続けるのです。キリストを知り続けるとは御言葉に聞き続けるということです。御言葉によってたえず新しくしていただく、キリストを新しく知り続けるのです。そして滅びることのない神を知り続けるのです。そのとき私たちの心は鋭敏に明るくされます。この一週間も御言葉の光の中を歩んでいきましょう。


2017年4月30日主日礼拝説教 ローマの信徒への手紙1章1~17節

2017-05-10 14:42:51 | ローマの信徒への手紙

説教「福音を恥としない」

<書簡とは>

 この朝は、少し長い箇所をお読みいただきました。今日から「ローマの信徒への手紙」・・・「ローマ書」という言い方も良くしますが・・・この「ローマの信徒への手紙」の連続講解説教を主の日の礼拝で行います。新約聖書には多くの手紙、書簡と呼ばれる文書が含まれています。福音書がイエス様の行いや言葉をおさめた書物であるのに対して、手紙は、初代の教会のリーダーたちが書き残した神学文書であると言えます。新約聖書の成り立ちからいうと多くの手紙の方が、福音書より先に書かれたと言われています。リーダーたちの手紙は当時の多くの教会で読まれ、信仰の道筋を表すもの、教会を打ち建てて行く基礎とされました。その手紙がやがて新約聖書の中に正典としておさめられたのです。

 手紙は、手紙ですから差出人があり、送られた先があります。送られた先は、ほとんどの場合、教会でありました。ローマの信徒への手紙であればローマにあった教会に送られたわけです。しかし、手紙は送られた先の教会だけでなく、複数の教会で回覧され、信仰の基盤となるものとして読まれたようです。その手紙の内容は、当然ながら、差出人とされる人物ごとに異なりますし、その書かれた時代背景や直接の宛先となった教会の状況などによって異なります。

その中で、今日からお読みします「ローマの信徒への手紙」は、ある意味、手紙中の手紙と言いますか、もっとも端的にキリスト教の信仰を言い表した書物であるとして、特に多くの人々から大事にされてきた手紙です。信仰が混迷している時代、多くの信仰者がこのローマの信徒への手紙に立ち帰って、そこから新しい力を得たと言われる書物です。神学者に多大な神学的気づきを与えた書物とも言われます。ルターもそうですし、カルヴァンもそうでした。そしてまた20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトもまたその最初の著書は「ローマ書」でした。

 もっとも、ルターだカルヴァンだバルトだと言うと、とても大仰で、なんだか難しいような印象を持たれるかもしれません。実際、書簡は物語として読める福音書とは少し勝手が違います。しかし、それぞれの書簡には神学的な深い考察だけでなく、差出人とされている伝道者の息吹や、当時の教会の置かれていた状況も垣間見ることができます。神の御子キリストがガリラヤでお始めになった宣教の業が、イスラエルから異邦の地へ広がりながら、人間である伝道者と、人間の集まりである当時の教会がどのように苦闘をしていたか、そういうことを読み取ることができます。さまざまな困難の中にあって、右往左往しながら、しかしなおそこに神の言葉を響かせようとした人々のすがたを見ることができます。そしてなにより、書簡を読むとき、人間が書いて、そしてまた編集をした文書でありながら、まぎれもなくそこに働いている聖霊の力、神の力をわたしたちは感じることができます。書簡を通じて、その時代の教会に、また、人々に働かれた神の業を私たちは見て行くことができます。

 そのような書簡、ローマの信徒への手紙の冒頭は、まず差出人である伝道者パウロの自己紹介から始まっています。この手紙はコリントで書かれたと考えられています。パウロはすでにローマにもキリストを信じる人々がいることを知って喜んだのです。そしてその人々と交わりを持ちたいと願っていました。その願いのゆえにこの手紙は書かれました。パウロの、新約聖書の中にある他の教会宛書簡は、パウロ自身が創設や牧会に関わった教会に宛てて記されていますが、このローマの信徒への手紙は、パウロ自身がこれまで関わっていなかった教会、まだ見ぬ信仰共同体に宛てられたものです。ですから、手紙の全体の内容も、いってみれば自己紹介的なところがあります。自分自身のこと、そしてまた自分の神学的な考え方の基本を紹介している内容となっています。パウロはいつかローマに行って伝道をしたかったのです、その思いもあり、ローマに向かうに先立ち、ローマの人々に挨拶をおくった手紙であると言えます。

<キリストの僕(しもべ)>

 この書簡は「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と始まります。パウロの書簡にはキリスト・イエスという表現が良く出てきます。イエス・キリストとどう違うのか?もちろん違わないのです。しかし、より<キリスト>、つまり<救い主>ということを強調したいために、キリストという呼称を先に置いてキリスト・イエスと記しているのでしょう。そしてその僕であるということもパウロは良く記します。僕という言葉はその語源は奴隷ということです。わたしはキリストの奴隷なんだ、パウロは心からそう思っていたのです。通常、奴隷と言うと自分の意に反してこき使われ酷い目にあわされる自由を奪われた人間というイメージがあります。実際、パウロはキリストに捕えられていた、と言えるでしょう。

 パウロはそもそも大知識人でありました。ファリサイ派の学者であり、ユダヤ人の指導者階級にあった人です。そして最初はキリスト教徒を迫害する立場にありました。しかし、復活のキリストと出会い、劇的な回心をしたことは使徒言行録にも記されています。もともと大知識人で、人々から一目も二目もおかれていたパウロが、今度は迫害される側の人間になったのです。パウロはそれまでの自分が誇っていたさまざまなこと、学問も家柄も立場も皆捨てて、まさにキリストの奴隷となったのです。

 しかしそれはパウロにとっては苦しみではありませんでした。生けるキリストと出会い、使命を与えられた、「神の福音のために選びだされ、召された」そのことはパウロにとってこの上ない喜びであったのです。神に選びだされ召されたそのことの喜びのゆえに、パウロはその他のすべてのことを捨てたのです。他のことはどうでもよくなったのです。自由すら捨てたのです。まさに奴隷となったのです。その日々のすべてをキリストの福音のために捧げる、そのことこそがパウロの喜びでした。

 しかし、パウロの宣教の業はけっして楽なものではありませんでした。コリントの信徒への手紙Ⅱ11:24には「ユダヤ人から40に一つ足りない鞭をうけたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともあります。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、嘘の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともあります。」とすさまじい苦労が記されてあります。これを読むならば、どこに喜びがあったのか、もう苦行のような毎日ではないかと感じます。パウロの言うようにパウロが本当にキリストの僕、奴隷であるならば、キリストはどれほどパウロを酷い目にあわせておられるのかと思ってしまいます。

<多く赦された人>

 しかしなお、パウロには喜びがあった、それは苦行をするような、あるいは自虐的な喜びではなく、本当の平安をともなった喜びだったのです。自分自身の存在の根源がキリストによって救われている、それをパウロは知っていたからです。ファリサイ派として、聖書を学び、律法を徹底的に遵守していた。たいへんな努力家でもあったと考えられるパウロです。とてつもなくまじめで熱心な人だったのです。その熱心さゆえに、人々を裁き、キリスト教徒を迫害していたパウロは、キリストと出会って、自分の罪を知りました。その罪は単にキリスト教徒を迫害したとか、律法を守れない人を裁いたと言ったことではなく、自分の存在そのものにある罪の本性に気づいたということでしょう。そして、律法の遵守では自分は救われないことを知りました。ただ、キリストの十字架の血潮によってのみ自分が救われたことを知りました。パウロは自分のことを罪人のかしらだと言っています。新共同訳聖書では「罪人の中で最もたる者です。」と記されています。讃美歌の249番に「われつみびとのかしらなれども 主はわがために命を捨てて つきぬいのちをあたえたまえり」という歌がありますが、まさにこの讃美歌の思いをパウロは持っていたのです。つみびとの頭である自分のために、命を捨ててくださったキリスト、そのキリストの裂かれた肉、流された血を思う時、パウロはこの世での労苦はさしたるものではなくなったのです。

 ルカによる福音書7章47節に罪深い女が主イエスの足に接吻し香油を塗る場面があります。この女は一説には娼婦であったと言われます。周囲の人々はこの罪深い女にご自分を触れさせている主イエスを怪訝に思います。しかし主イエスはおっしゃいます。「この人が多く罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」、、、、<赦されることの少ない者は、愛することも少ない>しかし、主イエスの足に香油を塗った女は多くを赦された、それだけ罪が大きかったのです。この女は自分が多く赦されたことを知っていたのです。しかし、多く赦されたから多く愛することができるようになったのです。パウロもまたそうでした。自分は罪人の頭だ、そんな自分すらも赦された、その赦されたことの大きさのゆえに、多く愛したのです。愛ゆえに、宣教に励んだのです。長老教会の牧師たちに大きな影響を与えた神学者に熊野義孝先生がおられます。三年前、准允を受けた時、皆様方からお祝いで熊野先生の神学書をいただいたのですが、その熊野先生の言葉に、「伝道とは愛の業である」という言葉があります。単に教会を大きくするため、あるいは財政を安定化するために伝道をするのではない、そうではなくて、人々をキリストの救いへと導くという愛のゆえに教会は伝道を行うのだと熊野先生はおっしゃっていました。そしてそれはパウロの姿とも重なるのです。

 罪人の頭であった自分すら赦された、赦されただけではない、特別に召されて、その働きを与えられた、そこにパウロの喜びの源泉がありました。そしてつきあげるような愛がありました。これはパウロという特別な大伝道者だからそうなのだということではありません。これは、ここにいる皆がそうなのです。皆が罪赦された。そしてその罪は、神の前で、誰の罪が一番重くて、誰の罪が軽いなどということはありません。みな、等しく、いってみれば罪人の頭なのです。そしてみな、キリストによって、多く赦されたのです。多く赦された者はまた多く愛する者とされるのです。

 その愛は、かならずしも、直接的に福音を伝える伝道だけで現わされるものではありません。ひとりひとりがそれぞれの置かれた場で、それぞれに神から与えられた役割を、なしていくことによって愛していくのです。一人一人が愛するために神に特別に選びだされ、召されて、愛の使徒とされているのです。多く赦され、多く愛する者として特別に召されているのです。

<福音を恥としない>

 そして私たちの愛の根拠である「赦されたこと」それこそが福音です。福音とは、良き知らせです。喜ばしい音、美しい響きをもった言葉です。愛の言葉です。キリストの十字架の死と復活によって示された愛です。それが福音です。

 パウロは語ります。「わたしは福音を恥としない。」この言葉は強い言葉です。またあれっと違和感も持たされる言葉です。教会の中では普通に「福音」という言葉を語ります。教会の外でも良いもののたとえとして福音という言葉が使われます。なのになぜあえてパウロは「福音を恥としない」というのでしょうか。それはパウロの時代、福音は恥ずかしいものであったからです。パウロ自身の多くの同胞にとって、十字架で罪人としてみじめに死んだイエスを救い主だなどということはばかげたことでしたし、そもそもパウロ自身もそうだったのですが、主イエスを救い主だの神の御子だのということは神への冒涜だとすら考えられることでした。多くのユダヤ人にとって福音を信じることは恥であり、罪ですらあったのです。一方で、パウロがその宣教に置いて重心を置いていたユダヤ人以外の異邦人への伝道において、異邦人からもまた福音は恥ずかしいものと捉えられていました。パウロが伝道をした町々の多く、そしてこれから向かおうとしているローマは都会であり、知的な人々がたくさんいたのです。その知的な人々に「死者がよみがえった」とか「復活」などということを語っても鼻先で笑われ相手にされないことが多かったのです。使徒言行録17章にはアテネで伝道して復活の話をしていたパウロが、あざ笑われて「その話はいずれまた」と、体よく行って見れば<スルー>されてしまうそんな場面が記されています。

 しかし、あざ笑われてもなおパウロは福音を恥としませんでした。福音こそが人間を根源から救って変えるものだからです。福音は確かに良い知らせなのですが、それは自分自身の罪を知っている人にとって良い知らせなのです。自分自身が罪人であると思えない人には十字架も復活も馬鹿げたものにすぎません。罪人であることを知らない人にとっては、福音よりももっと宗教的な香りのする崇高な話の方が良いかもしれません。あるいは人間イエスの語られた話を人生訓としてさらっと聞く方が心地よいかもしれません。

 そしてそれは今日においてもそうです。「わたしは福音を恥としない。」この言葉を私たちは本当にそのままパウロのようにいうことができるでしょうか?キリスト者が福音を恥としているようなことが本当にないと言えるでしょうか?教会が福音を少し目につかないところに置いておいて、それ以外の活動を世間に見せるようなことをしていないでしょうか?教会の敷居を低くする、この世に受け入れられやすくする、そのこと自体はもちろん悪いことではありません。しかし、この世に迎合して、この世的になって、なんとなく福音を端っこに置いておく、そういうことがまったくないとは限らないと思われます。ほかならぬキリスト者が、また教会が、福音を恥とする、それが現実として起こるのです。

 それは福音が神の力そのものであるということを忘れてしまうからです。福音は、ただの紙の上に書かれた宗教論や神学ではないのです。心の不安を軽くするちょっとした気休めではないのです。現実にキリストと共に生きていくその日々にあって、福音こそが力なのです。神の力は信じる者の現実を変える力です。リアルな力なのです。この世界の現実を変えていく力です。その力はいまもたしかに私たちに及んでいます。