大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第4章21~25節

2022-04-06 17:56:03 | マルコによる福音書

2022年4月3日日大阪東教会主日礼拝説教「隠し事はあらわになる」吉浦玲子 

 教会の近くを多くの人が毎日通って行かれます。礼拝に来られている方のほとんどは、日曜日の昼の時間帯の教会の周りの雰囲気だけをご存知かと思います。しかし、平日は、思いのほか、多くの人々が教会の前を通り過ぎて行かれます。特に昼どきは、昼食に行く人々が行き交われますし、また夕方は、帰宅される人々でけっこうにぎやかです。まん延防止等重点措置が解除されてからは、夜遅くも人通りがあります。当然ながら、それらの教会の前を通り過ぎて行く人々には一人一人の生活、さまざまn事情というものがあります。会社に向かっている、あるいは家路を急いでいる一人一人に遠めに見るだけではわからない、いや仮に職場で一緒に仕事をしたとしてもわからない、さまざまな思いがあるでしょう。ちょうど1年前、教会のガレージ側で庭の花の写真を撮っておられる女性があり、ずいぶん長い時間熱心に写真を撮られていたので声をおかけしたら、珍しく長話になりました。よくよく話をすると、その方は4年前、当時大学生だったお子さんを亡くされた方でした。お子さんを亡くされる前から、月に一回、病院に通院する時に、この教会の前を通っておられたそうです。お子さんを亡くされて4年間、毎月毎月、教会の前を行き過ぎながら、教会の庭を見ておられたそうです。教会の庭に季節の花が咲いているのを見て、少し慰められたそうです。しばし、会堂で聖書を読み祈ることができました。教会を行き過ぎる人々の一人一人に様々な思いや痛みや悩みがあるだろうということは、普通に考えて分かっていたつもりでしたが、その方とお話をして、いっそう、教会の前を過ぎる人々に思いをはせることが増えました。 

 教会は、この世にあって、ともし火なのです。それはそこに行ったら、楽しくお茶を飲んでおしゃべりができるというような娯楽センターとしてのあり方ではなく、魂の深いところで支えられる場所としてのともし火です。ほとんどの方が教会には興味を持たず通り過ぎて行かれます。しかしそのような一人一人のためにも教会はあります。その人が、なにかあったとき、あるいは神が呼ばれた時、入ってくることができるように教会はあります。むかし、カトリックの修道院に個人的に祈りのために行ったことがあります。修道院にもいろいろな種類の修道院があって、社会的な活動をする修道院もあれば、ただひたすら祈りをするという修道院もあります。その後者の修道院のただひたすら祈るの場である修道院の場合、そこで修道する人々の衣食住のため、そしてまた組織としての存続のために最低限の社会とのつながりはありますが、基本的には、外から見たら何をしているのかよく分からない場所に見えます。しかしそのような修道院にお客様的な立場ではありながら、何日か滞在して感じることは、ただ修道者がミサを行ったり祈ったりしているだけのような日々のなかで、やはりこの場所は、この世のためにあるのだということを感じるのです。住宅地の中にしずかにたたずんでいる修道院は、あやしげな宗教施設というより、何をしているかはよく分からないけれど、この世にあって、この世のために祈っている場所なのだという空気感を保っていまし、実際にそうなのです。例えば地域のために貢献活動や困った人を助けるような活動を直接にはしていなくても、祈りの家としての存在感があるのです。そして近隣のなかでその存在に不思議な調和がとれているのです。教会もまたそうだと思います。何をやっているところか周囲の人にとってはよく分からない、でも何か祈りのようなものがなされている、この世から少し離れた所で、でも、この世の中の、言ってみれば、ともし火のような灯りが灯されている、そういふうにこの世にあって外からも思われる、そんな場所が教会だと思います。心に痛みを感じている人が、ふと足を留めたくなる、そのために、そこにキリストのともし火が灯されていないといけないのです。 

 私たち一人一人もそうです。私たちは隠れキリシタンではありえないのです。もちろん、個人の生活の中で、わざわざ、私たちがクリスチャンであることや、聖書の話をいつもするわけではありません。社会人として生きる時、宗教や個人的な思想信条は普通は話をしません。しかしやはり、私たちは升の下に置かれてはいないのです。私たちは声高々に語ることはなくても、それはどこかで露わになることです。場合によって、それが私たちの日常生活において少し不都合を生じることもあるかもしれません。しかしなお私たちは燭台の上に置かれるのです。場合によっては、いや応なく置かれるのです。しかしそこのことを恐れてはならないのです。 

 前にもお話ししたことがありますが、私が家族ぐるみで子供のころお世話になった母の仕事の関係で親しくしていたおじさんは、カトリックの信徒でした。でもその方が亡くなるまで、クリスチャンだとは知りませんでした。葬儀が教会であったので驚いたのです。生前のその方は、我が家で晩御飯と食べたりすることが何回かありましたが、聖書をのことや教会のことを話されることは一度もありませんでした。しかし、あとから考えると、合点の行くようなことはあったのです。とてつもなくお人好しで商売をされていたわりに損ばかりされていたようです。また子供であった私や妹へ特別に愛想よかったわけではありませんが、温厚で安心感のある方でした。その方が亡くなられて十年以上あとに私は洗礼を受けましたが、洗礼を迷っていた時、背中を押したくれたもののひとつが、その叔父さんの思い出でした。あのおじさんがクリスチャンだったのだから、クリスチャンというのは悪いものではないだろう、という安心感があったのです。わたしにとってあのおじさんは燭台の上に置かれたともし火だったのです。私たちも誰かのともし火になります。いや応なくなるときもあるのです。そして私たちは誰かの救いのために用いられるのです。 

 そして今日の後半の箇所では不思議なことが語られています。「あなたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」《持っているものまでも取り上げられる>と聞きますと、恐ろしく感じられます。私たちの秤とは私たちが信じる福音です。私たちが信じている福音によって私たちは豊かに与えられます。その福音という秤を小さくしたら、小さくしか量れないのです。福音を小さくするとはどういうことでしょうか?ここを何か立派な信仰者になることが福音という秤を大きくすることだと思うのなら、それはまったく福音を理解していないことになります。 

 ここは声を大にして言いたいのです。福音というのは徹頭徹尾、神の業、キリストの恵みなのです。私たちがたくさん奉仕をするとか祈るとか聖書を毎日勉強するとか、立派な信仰者になるから福音という秤が大きくされ、恵みを受けるということではないのです!自分が立派になって祝福を受けるのであれば、それは福音ではありません!そもそもそこには平安はないでしょう。絶えず自分はしっかりできているかどうか気になるでしょう。あれもできていない、これもできていないという不安が増すばかりです。平安がありません。また、あるいは逆に自分はしっかりやっているという、傲慢や自己満足に陥っていきます。 

 神の恵みというのはそういうものではないのです。みなさん、これまでどれほど神に助けられましたか?どれほど神に愛されましたか?みなさん一人残らず神に愛され助けられた方々です。それはあなたが立派だったから助けられ愛されたのですか?それとも神の助けも愛もこれまで感じたことはないのですか?神の愛も助けも現時点では感じてはいないけど、ただただ立派な信仰者として生きていく、そうしたらいつの日か天国に行けると考えてまじめに信仰生活を送っておられるのですか?そうであるなら、今この時、この地上で生きる意味は何ですか?神さまはあなたが信仰者として真面目かどうか採点しておられるのですか?あなたの一挙手一投足をご覧になって天国に入るにふさわしいかどうか今、チェックされているのですか? 

 そのようにあなたを採点される神様が、あなたのために死んでくださったのですか?あなたを天国に入れるか入れないかをテストで振り分けるために、神なるキリストは十字架でお苦しみになったのですか?キリストの十字架の業だけでは足りないから、私たちは頑張って頑張って頑張って立派な信仰者にならないといけないのですか?キリストの御跡を追うということは、たくさん奉仕して祈って聖書をがむしゃらに勉強することですか? 

 違うのです。そのために、もう一度、ともし火というものを考えたいと思います。先ほど、教会やクリスチャンはともし火なのだと申しました。しかしそれは教会自体が活発に活動してばんばん火を燃やしましょうということではありません。そしてまた一人一人が、キラキラ輝きましょう、輝けるように頑張りましょうということでもありません。 

 このともし火とは、まず第一にキリストなのです。そしてまた福音なのです。「時は満ち、神の国は近づいた」という声によって主イエスの宣教は始まりました。それまでは、ナザレの田舎で主イエスは輝かしい風貌もなく、貧しい大工として生きておられました。ともし火は隠されていたのです。活動を開始されてからも、神の御子としての輝きは隠されていました。身内の者ですら主イエスのことを「気が変になった」と思った位でした。このともし火が明らかになるのは十字架と復活であり、そして聖霊が注がれるペンテコステののちです。しかしペンテコステののちであれ、すでに近づいている神の国、キリストによる救いは、この世においては完全には見える形になっていません。ウクライナの悲惨さ、いまだ終息しないコロナの禍、不平等で食べる物にも事欠く人々が世界にも日本にも多くおられることを思うとき、どこに神の国があるのだ、神の救いがあるのだと世界中の多くの人は思っています。 

 しかし、私たちは知っているのです。礼拝をお捧げしている今、神の国がちかづいていることを。さらにいえば礼拝を捧げているこの時、すでに神の国に私たちはあることを。私たちは神の国をすでに先取りして生きています。ここにキリストのともし火があるからです。そのともし火を見る時、私たちはああ愛されているんだと分かるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」そうキリストは語られます。聞くということは、あなたのために死んでくださったキリストの言葉を聞くということです。ほかの誰でもないあなたのために死んでくださったキリストが今もあなたを愛しておられる、その言葉を聞くということです。そのとき、心が温かくなるのです。心があたたかくなる、というと甘ったるい言葉に聞こえるかもしれません。しかし、心がぽっとあたたかくなる、気が楽になるとしか言いようのないことがキリストのともし火に触れた時、見た時、つまりキリストの言葉を、耳ある者として聞いたとき起こるのです。まさに疲れた者、重荷を負った者は、だれでもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう。」という有名な言葉がまさに自分の内に起こるのです。それはこの世でいうところの安直な癒しや安らぎではありません。ちょっと心を軽くしてくれるいい言葉ではありません。生きる死ぬという時にも、ただ一人で困難に向き合うときでも、根底から力を与えてくださる言葉です。自分一人で頑張っているつもりだったしんどさ、やりきれなさ、孤独、そういったものが深いところから癒されるのです。重荷が取り除かれるのです。御言葉を聞いて、そのように心が軽くならないのではあれば、厳しいことをいいますとあなたには聞く耳がないのです。聞けば聞くほど、まじめにあれもこれもやらなければと思うのであれば、福音を聞く耳がないのです。自分の知恵や理解力でのみ聞こうとするなら神の業は深淵で巨大すぎて聞けません。聖霊の依り頼むのです。そのとき、響いて来るのです。愛の言葉、慰めの言葉が。そのとき、あなたも、そして教会もキリストのともし火がともります。