大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章17~26節

2024-07-30 16:52:27 | ルカによる福音書

2024年7月28日大阪東教会主日礼拝説教「幸いとは何か」吉浦玲子

<山の上と平地>

 主イエスは12人の弟子をお選びになったのち、祈っておられた山を下り、平らなところにお立ちになりました。山の上と、平地が対比されて語られています。山の上は父なる神との交わりの場所、それに対して、平地は人々が普通に生きている場所です。主イエスはその平地において、おびただしい数の人々に語り、癒されました。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあります。ユダヤ全土から、さらには地中海沿岸のティルスやシドンから人々はやってきて、主イエスを求め、そのお体に触れようとしました。その様子は、押し合い圧し合いのパニック寸前のものであったでしょう。人々は自分の抱えているさまざまな問題を解決していただくことに必死でした。切実な思いで主イエスを求めたのです。

 そのような人々の願いにこたえて主イエスはお働きになりました。それが平地での、つまりこの世界での主イエスの働きでした。そのお働きの中で、だいじな教えも語られました。それが20節からはじまる「幸いと不幸」と新共同訳聖書で表題がつけられている場面となります。

 マタイによる福音書には同じように幸いについて主イエスがお語りになった場面が描かれていますが、そちらでは山の上で語られたことになっています。「山上の説教」として有名な場面です。それに対して、ルカによる福音書では、あえて山の下、平野での説教として描かれています。実際に主イエスは山の上でお話をされたのか、平野だったのか、それは分かりませんが、ルカの意図としては、この世のただなかで、同じ地上にたって、人間と同じ視線にたってお話をされたということを伝えたかったのでしょう。

 主イエスはおっしゃいます。「貧しい人々は幸いである。/神の国はあなたがたのものである。」この言葉はマタイによる福音書では「心の貧しい人々は、幸いである。/天の国はその人たちのものである」となっていました。ルカのように「貧しい人々は幸いである」と言われると貧乏なのが幸いなのかと驚きます。それに対してマタイによる福音書では「心が貧しい人々」と言われています。もちろん、心の貧しい人々は幸いと言われてもやはり驚きます。宗教というのは、本来、「心の豊かさ」を求めるものだと多くの人は思っているからです。しかし、主イエスのおっしゃる豊かさ、貧しさというのは経済的なこと、あるいは人間の心のあり方を越えたものなのです。そういう意味ではマタイによる福音書もルカによる福音書も同じことを言っているのです。

<日本一幸せなおばあちゃん>

 ところで、少し前に、「親に捨てられた私が日本で一番幸せなおばあちゃんになった話」という漫画を読みました。コロナで寝込んでいる頃、本を読む気力がわかなくて、気分転換するためにネットでダウンロードして読みました。この漫画は92歳になるおばあさんにお孫さんが聞き取りをした実話をもとにして描かれたものでした。そこに描かれていたのは昭和一桁生まれのおばあちゃんの苦労を重ねた生涯でした。ちょうど私の母とそのモデルとなったおばあちゃんは同年代ということもあり興味深く読みました。若い方はご存じないかもしれませんが、昭和の時代に「おしん」というドラマが大ヒットをしました。まさにあのドラマの主人公のおしんのようにおばあちゃんも子供のころから理不尽な目にあいながら、一生懸命生きて来られました。戦前戦中の貧しい家庭においてはおそらくこのおばあちゃんのように、苦労してこられた方は多かったのだろうと思います。おばあちゃんは父親が亡くなった後、親戚に養子に出されました。義理の母となった親戚のおばさんから、今でいうと虐待と言っていいような扱いを受けます。まだ小学生だったおばあちゃんは家族の誰よりもはやく起きて朝早くから畑仕事や家の家事をさせられました。しかし、十分に食べ物を与えられることもなく、学校に行くのも妨害されるような日々でした。冬に炬燵に入れる炭の準備はさせられましたが、おばあちゃん自身が炬燵に入ることは許されず、ひもじさと寒さの中を耐えて過ごしました。義理の母の虐待にはちょっとこの場で口で語ることもはばかられるような壮絶なえげつないこともありました。そして大人になり結婚してからも、家庭を顧みない身勝手な夫に苦労させられました。

おばあちゃんは子供のころ、あまりに苦しい生活の中で一度だけ、自分を虐待する義理の母を殺して自分も死のうと思ったことがあったそうです。浴衣の腰ひもで寝ている義母の首を絞めようとしたのですが、その腰ひもが義理のお姉さんが作ってくれたものであることに気づいたのです。義理のお姉さんもおばあちゃんが虐待されていることは知りながら、いろんな事情があって、表立っておばあちゃんを助けることは出来なったそうなのです。それでも陰ながら助けてくれていたのです。おばあちゃんは服を作ることも許されていなかったけれどそのお姉さんが義理の母の目を盗んで服を作ってくれていたのです。その腰ひももお姉さんが義理のお母さんの目を盗んで作ってくれたものでした。その腰ひもを見た時、自分は一人ではないと気づいて義理の母を手にかけることはやめたそうなのです。そのようなたいへんな日々を過ごして晩年、夫も天に送ったあとはようやく子供や孫に囲まれて平穏な日々を送っているという話でした。

 読み終えてなんともいえず複雑な気持ちになりました。とてつもない困難な中、このおばあちゃんの人並外れた忍耐力と、苦労の日々においても助けてくださった方々への感謝の思いをもって生きてこられたことに感嘆しました。しかし同時にどこか釈然としない思いもありました。どんな逆境のなかでも、忍耐と心掛けによって道をあやまたず生きていくことができる、というのは、本当のことでしょう。そう考えますと、人生の幸せとか不幸と言うのも、自分の心掛け次第ということにもなります。どんなに恵まれた環境にいても不満ばかりで不幸になる人もあれば、不幸な環境の中でも感謝して幸せを感じて生きていく人もいるでしょう。

 でも、人生の幸せとか不幸と言うのは、ほんとうに人間の心掛けによるものなのかと疑問にも思いました。このおばあちゃんは立派だし尊敬に値すると思います。でも幸せというのはそういうことだろうかと思います。

<神と共に生きる幸い>

 では主イエスがおっしゃる幸いとは何でしょうか?冒頭で、それは経済的なことや、あるいは人間の心をあり方を越えたものだと申し上げました。ここで注目していただきたいのは20節に「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」という言葉です。主イエスは平地において多くに人々を癒し汚れた霊を追い出されました。しかし、幸いと不幸について語っておられるのは、自分に従ってきた弟子たちなのです。主イエスの幸いと不幸についての言葉は、主イエスに癒しを求めて来た群衆ではなく、まず弟子たちに語られているのです。つまり神を信じ、神と共にある者の幸いと不幸を主イエスはお語りなったのです。

 「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」この言葉と対応するように24節に「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。」とあります。いますでに経済的なことであれ、心の問題であれ、自分は豊かであると思って満足しているあなたがたは、自分自身の力ですでに慰めを得ている、その慰めの中で満足していて、神からの慰めは必要としていない、それは不幸なことだと主イエスはおっしゃるのです。逆に神を信じる者の幸いは、自分自身に起因する豊かさによってではなく神によって慰めを受けることなのだと主イエスは語っておられます。

 それでも、実際のところ、貧乏は辛いものです。私自身、さきほどの漫画のおばあちゃんほどではないにしろ、子供時代は母子家庭で貧しい生活をしていました。貧乏というのは人の心を傷つけ苛むものです。逆に財産も地位もあるとき、人間は、やはり心も安定して余裕をもって暮らすことができます。しかしその財産や地位も、永遠のものではありません。ある時、失われてしまう可能性もあります。また自分の心も、たしかなものではありません。自分の心だってころころ変わっていく頼りないものです。どんなに固い信念を持っていても、それが砕かれる時もあります。そのような不確定なものに頼って、安心したり、慰められるのではなく、神によって平安と慰めを受ける者こそが幸いなのだと主イエスは語っておられます。

<神に求める>

 ところで、神によって平安と慰めを受ける、ということに関して、人間の側で考えなければならないことがあります。私たちがしんどい時、悩んでいる時、神が慰めてくださったら、また、力を与えてくださったら、私たちはたしかに幸いです。しかし、自分の都合の良い時だけ神から平安や慰めを受けたいと願う姿勢は必ずしも幸いではありません。

 貧しい人は幸いというとき、自分の貧しさゆえに、自分の弱さゆえに神に求めるから幸いなのです。神に求めるということは、神にへりくだり、自分を神から憐れんでいただくということです。自分は自分の力で大体のことはできるけど、ちょっとしんどいとき力を貸してほしい、疲れたとき慰めてほしい、ということではないのです。ほんとうに自分の貧しさ、足らなさを嘆き、神に憐れんでくださいと求めるのです。

 私たちはどこまでいっても傲慢な存在で、自分が憐れまれるべき存在だとはなかなか思えません。だいたいのところは、自分自身の豊かさや力に満足していて、ちょっと足りないところを神に求めるのです。もちろんそんな愚かな私たちをも神はたしかに慰め、力を与えてくださいます。私たちが傲慢であっても、神は私たちに愛と恵みを注いでくださいます。

 私たちはその神の寛容な恵みの内に少しずつ本当の神の愛を知らされていきます。神の愛を知らされていくとき、少しずつ私たちは自分のほんとうの愚かさ、小ささ、貧しさを知らされます。自分が本当は自分だけではどうしようもない哀れなみじめな存在だと知らされます。そして、そのような憐れまれるべき自分を、憐れんでくださる神を求めるように変えられます。まことに神を求める幸いな者とされていきます。神の愛と豊かさを知るということは、自分の貧しさを知るということです。神の光に照らされる時、私たちはまことの自分の貧しさを知らされます。まことに自分の貧しさを神によって知らされる時、私たちは神の前に真実にへりくだり、謙虚な者とされ、神と共に幸いに生きていきます。

 私たちはまことの幸いに至る道へと招かれています。それは神の愛を知る道であり、本当の自分を知る道です。その歩みに同伴してくださるのは主イエスです。主イエスと共に歩むとき、私たちはひとすじに幸いへと向かいます。その歩むことそのものが神の国を生きる生き方となります。神の国は、幸いな者のもとにすでに来ているのです。


大阪東教会主日礼拝説教 ルカによる福音書第第6章12~16

2024-07-22 14:16:01 | ルカによる福音書

2024年7月21日大阪東教会主日礼拝説教「祈りに選ばれる」吉浦玲子

<12人>

 「そのころ」と今日の聖書箇所の冒頭にあります。「そのころ」とは、主イエスが多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、そしてそのあり方が当時の宗教家のあり方と異なっていることが明確になった「そのころ」のことです。民衆からは大歓迎をされ、ファリサイ派や律法学者といった宗教家、権力者からは殺意を抱かれるほどに嫌われておられた「そのころ」です。そんな、そのころ、主イエスは12人の弟子を選ばれました。主イエスの弟子には12人以外の者も多くありました。そのなかでなぜ12人を特別に選ばれたのでしょうか。組織の中で、階層を作って、組織としての統制を取っていくためでしょうか。

 今日の聖書箇所で名前の出ている12人は、主イエスを権力者に売ったイスカリオテのユダを除けば、主イエスが昇天なさったあとも、教会のリーダーとして主イエスの教えを伝えた人々です。伝承によると12人の内のほとんどは殉教したと伝えられています。主イエスは、将来の伝道のことを考え、自分の命をも惜しまず伝道をするであろう人々をお選びになったのでしょうか。

 いろいろと疑問がわいてきますが、まず注目したいのは、主イエスは、「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」とあるところです。主イエスは夜を明かして、12人を選ぶためにひとりで考え抜かれたのではなく、「神に祈って」おられたのです。主イエスは神のもとから来られた神の子、三位一体の子なる神であられました。しかし、ご自身ですべてのことを決めて行われたのではなく、常に父なる神のご意志を伺い、それに従われました。その父なる神のご意志をお聞きするのが「祈り」でした。それは父なる神と主イエスとの交わりの時間でもありました。主イエスは夜を明かして父なる神と交わりの時を持ち、その交わりの中で12人をお選びになりました。その選びは、主イエスご自身のお考えということではなく父なる神のご意志でありました。そして父なる神のご意志が子なる神であられた主イエスのご意志でもありました。

 そのようにして選ばれた12名ですが、聖書を長くお読みになっておられる方はご存じかと思いますが、この12人はけっして能力が高かったり、教養があったり、人徳があったりというような特別にすぐれた面のある人々のようには思えません。漁師もいれば、人々から嫌われていた半ばごろつきのような存在だった人もいます。政治的にも、熱心党という極右の人から、左翼までいました。そして何よりのちに主イエスを敵に売ってしまうイスカリオテのユダまでいたのです。

 いったいなぜこの12人だったのか?それは神のご意志ですから私たちには分かりません。分からないことではありますが、この12人について言えることは、イスカリオテのユダも含めて、「普通の人間」だったということです。時に弱かったり、時にずるかったりする「普通の人間」でした。神の前にあって「罪人」だったということです。ですから、ある意味、この12人は、私たちの代表であるともいえます。私たちはある時は血気盛んで「雷の子」と主イエスに言われたヨハネやヤコブのようであり、ある時は主イエスの復活を信じることの出来なかった疑い深いトマスと呼ばれているトマスのようでもあります。また、主イエスなんて知らないと三度言ったペトロのように弱く、さらにはイスカリオテのユダのようなひどい裏切りをしてしまう者でもあります。

<選び>

 ところで、バイブルアワーでも少しお話したことですが、先週、一人の牧師が天に召されました。青山教会の増田将平という牧師でした。私は増田先生とは面識はありませんでしたが、改革長老教会協議会の機関紙への原稿依頼を受けたとき、当時、原稿の窓口であった増田先生とメールでやり取りをしたことがありました。まだ52歳でした。先生は二年ほど病と戦って亡くなられました。先生は病と戦いつつ教会に仕えておられた昨年末、これ以上有効な治療方法がないということで緩和ケアに移ることを医師から打診されました。でも、増田牧師はそれを拒否されました。牧師として講壇に立ち続けることを望まれたからです。緩和ケアに移れば、厳しい治療を続けるよりも比較的長く命が保たれ、治療の苦痛も少なったかもしれません。穏やかに過ごせたかもしれません。しかし増田牧師は敢えて違う道を選ばれました。講壇に立ち説教をすることを優先されました。その選択は病院の医師たちを驚かせたそうです。しかしその先生はご自身の願いの通り、亡くなる二週間前まで車いすでではありましたが、礼拝の講壇に立ち、説教を語り、神からの説教者としての召しをまっとうして天に召されました。

 私はその先生の最後の説教をYouTubeで拝見し、また先生の教会の教会報に記された先生の文章をお読みして、この方はこのようにして神に仕えるようにと神から選ばれた方だったのだなと深く思いました。すべての牧師がこの先生のような歩みをすることはもちろんありません。同じように病に冒されても最後は緩和ケアを受けて静かに召される牧師もいるでしょう。私自身も同じような立場になった時、どのような選択をするのか想像できません。増田先生の選択だけが正しいということはないと思います。しかし同時に、増田先生はそのように生きるようにと神から選ばれた方だったのだとも思いました。

 神からの選びは、人間から見て、素晴らしいこととは思えないものもあるのです。病になること、肉体的な苦痛の中で生きることに選ばれることもあるのです。大きな肉体的な苦痛ではなくても、生涯、重荷を心身に負って生きるように選ばれることもあります。それまでできていたことができなくなるように選ばれることもあります。それはとても不条理なことでもあります。神を信じて生きて、なにか割に合わないような思いもします。しかし、神の選びとはそのようなものです。主イエスがお選びになった12人の弟子たちもそうです。主イエスの弟子にならなければ、それぞれにイスラエルの地で家族と穏やかに一生を過ごして長生きをしていたかもしれません。しかし、先ほども申し上げましたけれども、12弟子のほとんどの人々はかなり残酷な死刑で命を落としているのです。

 では神を信じても、むしろ余計に苦痛を得たり、苦労をすることになるのでしょうか。実際、増田牧師は病の苦痛の中で自分の人生の主人が病であり、病が「私がお前を支配している」と自分に囁いているように思えることがあったと教会報に書かれていました。しかし、そうではないのだと増田先生はさらに書いておられました。自分の主人は神であり、自分を造られた神を知って生きることこそが生きる意味なのだと。苦痛の中で、祈る時、すぐに願いが叶わない時があっても、神は必ず一番良い道を備えてくださる、その祈りのなかで、神がけっして自分を見捨てられない方であることを知らされつつ生きるのだとおっしゃっていました。

<祈る者として選ばれる>

 ちょうどその増田先生の訃報に接したのは自分自身が新型コロナに感染して療養している時でした。先週はそのために礼拝は音声での説教とさせていただきたいへんう申し訳ありませんでした。新型コロナの症状自体は熱も一日で下がり、とても軽いものでした。ただ体力は落ち、数日は寝込むことになりました。その寝ている時に増田先生の文章を読み、また今週の説教の箇所の聖書の言葉について思いめぐらせていました。そして思ったのです。

 さきほど、主イエスに選ばれた12人は私たちの代表であると申しました。12人は私たちの代表であり、私たちもまた12人のように神に選ばれています。私たちはそれぞれに神に選ばれているのです。私たちは12弟子のように生きることはないかもしれません。また増田牧師のように生きることもないかもしれません。しかし、それぞれに神に選ばれ、神に召されています。一人一人、異なった神からの召しをいただいて生きていきます。

 私たちはその召しに忠実に生きていきます。それは場合によって困難な生き方になるかもしれません。でもそれが神の選び、神の召しであるならば、神からけっして見捨てられないのです。ある男性の牧師は90歳近くなったとき、認知症になった奥様を老々介護されていました。奥様も牧師だった方です。夫婦で神に仕え、教会に奉仕してこられましたが、その晩年はたいへん壮絶な老々介護でした。ご夫婦で何十年も神に仕えてきたにもかかわらず、なにか報われないような状況です。しかしなおその牧師は、おっしゃいました。はたからどのように見えようとも、私たちと共に神はおられ、老々介護の悲惨の中にもたしかに神の光は注がれた、と。

 このようなことを述べていきますと、神様を信じることはなんだか悲惨な人生を生きることのように感じられるかもしれません。もちろん、そうではないのです。ただ神を信じて、神の選びに応えて生きる時も、困難はあるのです。しかし、その困難の極みにあっても、どん底にあっても、私たちは守られている。そしてそのどん底のときであっても祈りを通して神と交わりを持つことができるのです。それゆえに私たちは苦難の中にあっても絶望をしないのです。希望を持ち続けることができるのです。私たちは万事がそこそこうまくいっているときは、むしろ神へ祈ったり叫んだりすることは少ないのではないでしょうか。私たちはむしろ困難な時、神を呼びます。神の選びの、その究極において、私たちはまことの祈りを祈ることになるのです。

 さきほども申しましたように私たち一人一人の選びは異なっています。誰一人として同じ人はいません。しかし、神を信じる者すべてに共通していることは「祈ること」に召されているということです。皆が神に祈る者として選ばれているということです。ですから、私たちは祈ります。自分のために、また愛する者のために、今日出会った隣人のために。その祈りにおいて神と交わり、神のご意志を聞き、私たちの日々の喜びも悲しみを神と共にあることを知らされます。

<あらかじめ祈られていた私たち>

 もっともコロナで寝込んでいる時、正直申しまして、私は熱心に祈っていたとは、言えません。軽症ではありましたが頭もぼーっとしていまして、体もしんどく、なんといっても気力がわかなかったのです。どうにも祈れない数日ののち、霧が晴れるように祈りへと心が向かえるようになりました。その時感じたのは、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、祈れない時こそ神が守っていてくださったなあということです。これは普段から祈らなくてもいいということでありません。ただ、私たちは霊的に衰えてしまうことがあるのです。祈りの言葉が出ない時がある、祈りへと心が向かえない時がある、そんなときに、まさに聖霊が呻きとして私たちの祈りを神に届けてくださるのです。ローマ書の8章に、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とある通りです。祈れない時、聖霊がとりなしてくださるのです。

 私たちは祈る者として神に選ばれていると申しました。それは私たちが祈りの達人になるということではありません。朗々と祈れるようになるためではありません。祈りは神との交わりの時です。私たちは祈りにおいて神を求める者とされています。しかし、その求める心が弱ることもあります。そのような時でも、神の方では私たちを求めることをおやめになりません。神は私たちをお求めになるのです。ですから聖霊がとりなしてくださるのです。

そしてそれはそのように主イエスが最初から私たちのために祈っていてくださったからでもあります。12人の弟子たちを選ばれた時、主イエスは夜を徹して祈られました。それはだれを選ぼうか、だれが優秀だろうかと父なる神に問われたのではなく、その12人のために、12人のこれからの日々のために祈られたのです。その生涯の最後まで私が彼らを守らせてくださいと父なる神に祈られたのです。そしてその12人の弟子たちのみならず、私たち一人一人も主イエスに祈られている存在なのです。祈りへと選ばれた者は、主イエスによってあらかじめ祈られていた者なのです。そして今も祈られている存在なのです。私たちの生涯の最後まで、たとえ私たちが祈ることができなくなったとしても主イエスは祈り続けてくださるのです。そのように祈られている私たちは、この一週間も、聖霊によって祈りの言葉を与えられます。また祈れない時は聖霊が代わって祈ってくださいます。その祈りの内に永遠までも神と結ばれています。