大阪東教会礼拝説教ブログ

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使徒言行録第25章13~26章18節「復活は捏造か」

2021-05-09 17:16:05 | 使徒言行録

2021年5月9日大阪東教会主日礼拝説教「復活は捏造か」吉浦玲子   

【説教】  

<闇の中にある人々> 

 ローマの総督フェストゥスのもとにアグリッパ王が表敬訪問に来ました。このアグリッパ王はヘロデ大王のひ孫にあたります。ヘロデ大王はマタイによる福音書にでてきますように、主イエスがお生まれになったころ、幼子の主イエスを殺そうとしてベツレヘムの二歳以下の子供たちを虐殺した悪名高い王でした。アグリッパ王はその血を引います。この一族のもともとの出自についてはいろいろな説がありますが、純粋なユダヤ人の血筋ではないといわれます。そして代々、ローマの傀儡として、王であったり領主としてイスラエルを統治していました。そのヘロデ大王のひ孫のアグリッパ王が新しく赴任してきたローマ総督のもとにあいさつに来ました。王といっても実際はローマの支配下にありますから、ローマ総督に王の方から出向いて来たのです。その総督と王の会話に、囚人となっていたパウロのことが話題になりました。前任者が放置していたキリスト教徒に関わる厄介ごとに、新任のフェストゥスは頭を痛めていました。もっとも、パウロ自身が、皇帝に上訴したので、自分自身が直接はパウロの裁きに関わらなくてもよくなったので、フェストゥスとしては少し安堵していました。そのパウロのことは、アグリッパ王との会話にはちょうど良い話題でした。アグリッパ王は興味を持ちパウロと会うことになります。 

 翌日、アグリッパ王は妹のベルニケと共にやってきます。前日にも、アグリッパは、このベルニケと一緒にフェストゥスのところに来ていますが、アグリッパは妹と共に住み、いつも共に行動していました。ここからユダヤ人の間ではこの二人は近親相姦の疑いがもたれていたようです。このベルニケはのちには、ローマ皇帝二代に渡って愛人にもなったようで、彼らはあまり道徳的には感心しない人々であったといえます。ちなみにアグリッパ王の妹のベルニケのさらに妹は、前任のローマ総督のフェリクスの妻となっていました。この結婚は不法なものではありませんが、当時、ユダヤを支配していた人々は、権力において一体となっていたことがわかります。いわゆるずぶずぶの関係です。そして力と富はありましたが、そこには不品行や保身や策略が満ちていたのです。 

 そのような力ある者たちのまえにパウロは引き出されることになりました。フェストゥスには自分には理解のできないユダヤの宗教がらみの問題で捕らえられているパウロをローマに送るにあたって、何らかのレポートを作成しないといけないので、そのための助けをアグリッパ王にしてもらいたいという思いもありました。 

 23節にアグリッパ王とベルニケは盛装して到着して、千人隊長をはじめ、町のおもだった人々がいたとあります。集まった人々にとっては、ちょっとおもしろい見世物を観るような気分であったでしょう。権力と不品行に溺れている人々が、実際のところは罪のない人物を、哀れな囚人として上から目線で見下ろしているのです。この世の力関係でいえば、パウロは無力です。かつての主イエスもまたそうでした。アグリッパのおじのアンティパスも捕らえられた主イエスが連れてこられたとき、興味本位で眺めたのです。主イエスは十字架にかけられ、パウロもこれからローマへ護送されます。権力者から見たら取るに足らない人物に過ぎず、ただひととき、なにか面白いことでも聞けるかと思って眺めているのです。 

<死者は復活したか> 

 そのような場ではありましたが、引き出されたパウロは堂々と弁明を始めます。目の前にいる人々は神を知りたいと願っている人々でもなく、ただ権力と不道徳に溺れているような人々です。それはパウロ自身にもよくわかっていたでしょう。しかしパウロは、この醜い場もまた、キリストを証しするために神から与えられた場であると考えました。彼は自分が回心した経緯を語りました。 

 前半で自分が信じていることは、ユダヤの人々と同じ神の約束なのだと語ります。第26章7節に「私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。」とあるように、アブラハムに始まる旧約の時代から、ユダヤ人たちが信じていた神の救いの約束を自分も信じているとパウロは語ります。神が終わりの日にその約束を完全に果たされるその希望に生きているのだと語ります。それはそもそもユダヤ人に与えられた約束でした。その約束を信じているからといって自分は訴えられているのはおかしいとパウロは語ります。 

 もちろん、パウロが信じていることはユダヤ人がもともと信じていた約束がイエス・キリストの十字架と復活によってすでに成就したという点において、当時のユダヤ人たちと違っていました。ユダヤ人たちは、ずっと救い主メシアの到来を待っていました。その救い主がイエス・キリストとして到来したこと、そしてそのことがキリスト自身の十字架と復活において明らかにされたことを信じる点がパウロたちキリスト者とユダヤ人たちの違いでした。キリスト者を迫害していたユダヤ人たちはキリストがメシアであること、復活なさったことを信じていなかったのです。神から来られたメシアが十字架で罪人としてみじめに死んだなどということは到底受け入れられなかったのです。 

 これは当時のユダヤ人たちや回心前のパウロがおかしかったのではなく、人間として当たり前の感覚です。どうして、死者が生き返ったりするでしょうか?まれに仮死状態からの蘇生ということはあるでしょう。しかし完全に死んだ人間が生き返るなどということはありえません。しかも、パウロの時代の人々は実際にエルサレムでイエスという人間が十字架にかかった事件を知っています。あのイエスが復活しただの、どこからどう見ても人間であった男を神から来ただの、神の子だなどということは許しがたい神への冒涜と感じる方が当たり前なのです。 

<希望の源> 

 ひるがえって、私たちはどうでしょうか?私たちは聖書に書いてあることを無批判に信じてこんでいるんでしょうか?まあそれがキリスト教だからと、多少納得はできないながらも、なんとなくぼんやりと信じているのでしょうか?実際のところ、キリスト教会の中にすら、あちこちに「復活は教会の捏造だ」などという輩がいます。 

 しかし、今ここにいる私たち、そしてまたネットで礼拝を共にしている、主イエスを信じている人々は、信じています。私たちはたしかに、2000年前に人間としてこの世界に来られ十字架で死なれたお方が、確かに復活なさったことを信じています。神の子として来られ救い主として復活されたことを知っています。それは聖書の作り話でもパウロや教会の捏造でもないことを信じています。私たちは皆、キリストと出会ったからです。 

 パウロもまた、自分とキリストとの出会いを語ります。キリストとの出会い、すなわち回心の出来事を語ります。使徒言行録のなかには、パウロの回心の場面は9章と22章にも記されています。それらに比べて今日の聖書箇所の記述は短くなっています。しかし、いくつか独特のところがあります。一つは、ダマスコ途上で当時サウロと呼ばれていたパウロがキリストに呼びかけられたとき、ヘブライ語で語りかけられたという点です。他の箇所ではヘブライ語とは記されていません。これは語りかけられたのが、人間として復活されたキリストであったということをはっきりと示しているのです。天からまか不思議な託宣があったということでなく、パウロ自身が復活のキリストとたしかに出会ったということです。そしてもうひとつの特徴はキリスト自身がパウロへの伝道者としての召しを語られたという点です。 

 キリストはパウロに語ります。「起き上がれ、自分の足で立て、わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。」パウロは天からの光を見、地面に倒されたのです。キリストによって倒されたのです。神の圧倒的な力によって倒されたのです。しかしその倒されたパウロにキリストは「立て」とおっしゃいます。これまでの生き方ではなく、新しく立てとおっしゃったのです。そして新たな使命を与えらえたのです。これをパウロがなにか妙な神秘体験をして勝手な妄想に取りつかれたとか、単純に雷にでも打たれておかしくなったと考えることもできるかもしれません。しかし、私たちはこれが真実であることを知っています。私たちは天からの光は見なかったかもしれませんし、キリストの声は聞かなかったかもしれません。しかし、たしかにキリストご自身が私たちと出会い、私たちを立たせてくださいました。私たちの隠しようのない罪の姿を見せ、私たちを倒され、そして悔い改めの内に立ちあがらせてくださいました。そしてまた試練に打ち倒された時、立たせてくださり、新しく生きていかせてくださいました。 

 さらにキリストはパウロに「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」と語ります。人間はもともと、みな謁見室でパウロを興味本位に見下ろしているアグリッパ王やフェストゥスのように闇の中にいたのです。自分たちは自分の足で歩いていると思いながら、サタンに支配されていた哀れな存在、みじめで悲惨な者だったのです。 

 二週間ほど前、昔の友人が亡くなっていたことを知りました。ここ数年は事情があって、音信不通になっていたのですが、昔はとても仲が良かった友人でした。子供が小さいころは家にもよく来てくれて、子供ともよく遊んでくれました。自殺だったようです。とても胸が痛みました。まだ自分の気持ちの中で整理できていないのですが、彼女が光の中で生きてほしかったと残念に思います。同時に、友人と親しかった頃の自分を思い出しました。普通に子育てをして会社で働いていて、別にアグリッパ王たちのような力も何もありませんでしたが、やはり自分はサタンに支配されみじめな者だったと思いだしました。もちろんその亡くなった友人がどうこうということではありません。しかし、自分自身は、あのころ、闇の中にいたとつくづく感じました。あのままキリストに出会っていなければ自分も闇の中で滅んでいただろうと思います。友人がキリストと出会っていたら、と悔やまれてなりません。 

 キリストを信じる者は救われ、光の中に置かれています。その光に照らされるとき、はっきりと分かるのです。キリストの十字架と復活の意味が。暗闇の中にいるときはけっして分からないのです。自分の知恵や力に溺れている時、キリストの復活はただの作り話としか聞こえないのです。しかし、光によって罪が露わにされ、打ち倒された時、私たちははっきりと聞くのです。復活のキリストの「立て」という声を。そして新しい使命をいただくのです。闇の行いを脱ぎ捨てて、光の中を歩み出すのです。復活のキリストともにあゆむとき、私たちもまた光を掲げる者として歩んでいくのです。けっして闇に追いつかれることも闇に落ち込むこともないのです。光の子として歩んでいくのです。 



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