2017年9月24日主日礼拝説教 「あなたはわたしの民」 吉浦玲子
<神への口答え>
ローマの信徒への手紙の9章から神の主権ということが語られています。今日お読みいただいた聖書箇所の直前には「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」とあります。神がその主権の内に、ある者を憐れみ、ある者を頑なにされるのなら、神ご自身がかたくなにされた人間をかたくなだからといって神から責められるのはおかしい、そういう理屈が今日の聖書箇所の冒頭には記されています。そもそも確かに人間の目には神は公平ではありません。恵まれた家庭に生まれる人もいれば、貧しい家庭に生まれる人もいる。なごやかな団欒のある家族の中で育つ人もいれば、とんでもない殺伐とした問題を抱えた家庭に育つこともあります。同じ家で育った兄弟であっても、持って生まれた才能や容姿が違います。ある人には多くの神の憐みが注がれているように見え、ある人に対してはそうではない、そのように見えてしまいます。そして、それが神の主権の内に定められているとしたら、時として神に不満を言いたくなる時もあります。
しかし、パウロはいうのです。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か?」これはとても厳しい言葉に聞こえます。この言葉は人間を中心に据えた考え方では到底理解ができない言葉です。正しさの判断基準を人間の側に置いている時、神の主権は理解できません。しかし、人間はどこまで行っても、自分が中心であり、自分に主権があると思いたい存在です。ことに現代の人間はそうです。ここでパウロが使っている口答えという言葉は厳しい言葉ですが、私たちはおりおりに神に口答えをする者なのです。自分の願っていたことが叶わない時、「私の思いが叶わずこういうことになったのも、これは神の御心だったのだ」と思いつつ、そこに釈然としない思いがある場合があります。時には心の奥に怒りもありながら、「いやいやこれは神の御心だったのだ」と自分で自分の思いを抑えようとします。そういう私たちの姿勢を口答えと言われると、厳しいなと感じます。しかし、釈然としない思いの内に諦める心や、怒りを無理やり抑えつける姿勢は、ある意味、神への信頼を欠いた姿勢です。神に信頼せず、そしてそのなさる結果に不満を抱いている姿勢こそ口答えです。諦める姿勢も消極的な口答えの姿です。神の主権によるなさりようは私たちにはすべてを理解することができません。私たちは納得できないことを無理やり神の御心と納得しようとするのではなく、神に問うべきです。これはどういうことなのか?神に問うていく姿勢は口答えではありません。あくまでも神への信頼を基盤にした姿勢です。
<あるお母さんのこと>
さらにパウロは焼き物の話をします。焼き物は焼き物を造る人が「ひとつを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」そう語ります。つまり神は私たちをお造りなることにおいて自由であり権限を持っておられるということです。私たちはこういうところを読みますと、やはり神様は不公平だと思います。あの人にはきらきらした才能を与えて自分には何も与えてくださらないとか、私は苦労のしどうしなのにあの人はずっと平安な日々を与えられているとか考え始めます。しかし、救いの物語として考える時、もっともっと大きなことがある、そのことをパウロはここで語り出します。
ところで、学生の頃、貧乏学生でいろいろアルバイトをしていて、そのなかのひとつとして家庭教師のバイトもしていました。バイト先のうちの、あるひとつの家庭は、お母さんが新興宗教の信者でした。お子さんとの勉強が終わった後、食事を出してくださるのですが、その食卓で良くその宗教の話を聞きました。今思うと、その宗教は、キリスト教系の異端で、かつカルト教団でしたが、当時はキリスト教のことも知りませんでしたから、その宗教が怪しげな新興宗教とは思いませんでした。お母さんがお話しされるままに、ふーんそんなものかーと、ほとんど聞き流していました。幸いというと変ですが、当時は宗教にぜんぜん興味がなかったのです。逆に興味を持っていたら、巻き込まれていたかもしれません。宗教より目の前のご飯を食べることで頭がいっぱいでした。
やはり、あとから知ったことですが、その宗教は、異端ですから当然なのですが、正当なキリスト教とはまったく異なる教えを持っていました。しかし、聖書みたいなものは読んでいたのです。聖書みたいなものというのは、その宗教にとって都合の良いように改ざんした特別な文書を「正しい聖書」として読んでいたのです。ですから、その宗教の教えの断片だけを聞くと、なんとなく聖書の話のようなのです。キリスト教っぽい感じなのです。でも、実際は根本的に違うのです。
そのお母さんの話はほとんど記憶に残っていないのですが、ひとつだけなぜか覚えている話があります。神様の言うことを聞かなかったら滅びるのだということをそのお母さんは熱心におっしゃっていて、そのたとえとして「陶器を造る人は自分が造った陶器の出来が悪ければ、割って捨てますよね。それと同じように、私たちも神様からみて出来が悪ければ割られて捨てられるんです」と言われました。自分が割られて捨てられるというイメージは嫌だなあと感じました。出来が悪ければ割って捨てる神様って怖いなあと漠然と感じたのです。
今日の聖書箇所にも焼き物の話が出て来ます。旧約聖書の預言書にも陶器を造る陶工の話は出て来ます。おそらくあのお母さんの話も、その宗教で読まされたまがいものの聖書の中に書かれていた話、たぶん預言者かローマ書をその宗教に都合の良いように改ざんした話をもとにしたものだったのでしょう。
<大いなる憐み>
しかし、その新興宗教と正当なキリスト教では同じように焼き物のたとえ話をしていながら、結論が全く違うのです。新興宗教では、神の言うことを聞かなければ割られる、捨てられる、滅びるという恐怖心を煽る話として、焼き物のたとえが挙げられています。しかし、今日の聖書箇所はそうではないのです。確かに人間は罪を犯し、罪を犯した者は本来滅びるのです。今日の聖書箇所の最後に、ソドムやゴモラという名前が出て来ます。旧約聖書に出てくる悪徳の町で、神によって滅ぼされた町です。たしかに、キリストがおられなければ、キリストを救い主として受け入れなければ、私たちも裁きの日にソドムやゴモラのように滅びるのです。神に逆らう人間は滅ぼされる、そこにはあのお母さんが信じていた新興宗教と、正当なキリスト教の間に違いはありません。人間はそもそも割られて捨てられる、そんな存在だったのです。神様が良いものとして最初の創造の時に造ってくださったにも拘らず罪のために、言ってみればできの悪い焼き物となってしまった。神の怒りの器となってしまった。そんな神の怒りを受けるべき存在の者が、むしろ憐みを受けて救われているのだとパウロは語っています。それはその焼き物自体のできの良し悪しには一切関係がなく、ただただ神の自由な憐みによるのだと語られています。出来が良かろうが悪かろうが、キリストのゆえに、キリストを信仰告白した者は神から捨てられることはない、それは神ご自身の憐みのゆえなのだと、聖書は語ります。憐みのゆえに神は寛大な心で耐え忍ばれたのです。ここで「寛大」という言葉と「耐え忍ぶ」という言葉はギリシャ語の原典は同じ単語です。日本語のニュアンスでは寛大と耐え忍ぶというのはずいぶん違います。寛大というと鷹揚に相手を赦すイメージがあり、耐え忍ぶというと黙って我慢をするイメージがあります。人間であれば本当は心の中では腹を立ててるけどぐっと我慢をして、表面上は作り笑いで寛大な態度を取るということがあるかもしれません。しかし、神においてはそのような心の中と外に出てくる態度が異ならないのです。寛大さと耐え忍ぶということは神においては同じことなのです。それは神の憐みという本質から出ているものです。憐みの神であるゆえ寛大さも耐え忍ぶことも、裏表なく人間に表されるのです。
恐怖心で信仰へと洗脳していくのではなく、神の憐みを語るのが本来のキリスト教です。しかし、私たちはともすれば、あのお母さんの新興宗教のようにパウロの言葉を読んでしまうのです。出来が悪ければ捨てられてしまうと恐れてしまうのです。その恐れの根源にあるのはやはり人間中心の思いです。価値の判断基準を自分の側に置いているとき、神の憐みの大きさを知ることはできません。自分の価値観で自分を測って、自分はどうしようもない人間だと感じて自分で自分を裁いてしまいます。そしてこんな私は、割られて捨てられても仕方がないと心のどこかで感じてしまうのです。つまり片一方で「なぜ私はこんな目に遭わされるのか?」と神に口答えする心も、逆に「私は割られて捨てられても仕方ない」と怖れる心も、いずれも人間中心の価値観から出てくるのです。神の主権と憐みに信頼できない時、不満やら恐怖が私たちの心に入り込んできます。
<神の愛>
さてパウロは神の憐みを説明するために今日の聖書箇所の後半ではホセアやイザヤの言葉を引用しています。ホセアの、「わたしは自分の民でない者をわたしの民と呼び」から始まる言葉がありますが、神は確かに自分の民でない者、つまり本来は怒りの器として割られるべき焼き物であった人間をも憐み「神の子」と呼ばれるようにしてくださいました。預言者ホセアは愛の預言者と呼ばれています。新約聖書でのヨハネによる福音書の著者ヨハネと並べられるという方もおられます。ホセア書では、ホセアの姦淫の妻を下敷きに、神に逆らう民への神の愛が記されています。ホセア1章でホセアに神は「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ」と言われます。他の男と関係を持つような身持ちの悪い女と結婚をせよ、そしてその女の子供たちを受け入れよと神はおっしゃったのです。とんでもない話です。しかしそのとんでもないことをなさったのは神ご自身でした。あり得ないような寛大さと忍耐を持たれたのが神でした。ホセアの時代の神に逆らっていたイスラエルは淫行の女そのものでした。また、自分の価値観を絶対として、神を信頼せず、神以外のものを神としている現代の人間もまた神から見たら淫行の女そのものです。しかしそのような人間を神は憐れました。あふれるように神は憐れました。淫行の女を受け入れる愚かな夫のようなものとして神はふるまわれました。
また、イザヤの言葉には「残りの者」という言葉が出てまいります。つまり本来は救われるはずだったイスラエルが神に反逆してもなお、「残りの者」を神は救われるというのです。本来は、救いの中に入れられない筈の人々が救われているというのです。ここでパウロが残りの者として特に語っているのは、ユダヤ人キリスト者であり、異邦人です。神から捨てられたはずのイスラエルの民の中でもなおキリストを信じて救われる人々がおり、またそもそも最初は選ばれてはいなかった異邦人もまたキリストを信じて救われていることをパウロはイザヤを引用して語っています。
わたしたちもまた「残りの者」です。神の憐みがあふれでて、もともとは選ばれていなかった者にまで憐みがあふれ出て注がれました。神の憐みのゆえにその自由な選びの中に入れられました。その「残りの者」の共同体が教会です。教会もまたあふれ出る神の憐みの内にあります。人間中心の価値観では神の憐みは理解することができません。神の自由な主権のうちに教会も立っています。神の憐みの器として立っています。その教会につながる一人一人もまた貴い器として用いられていきます。