大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 9章19~29節

2017-09-25 17:48:45 | ローマの信徒への手紙

2017年9月24日主日礼拝説教 「あなたはわたしの民」 吉浦玲子

<神への口答え>

ローマの信徒への手紙の9章から神の主権ということが語られています。今日お読みいただいた聖書箇所の直前には「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」とあります。神がその主権の内に、ある者を憐れみ、ある者を頑なにされるのなら、神ご自身がかたくなにされた人間をかたくなだからといって神から責められるのはおかしい、そういう理屈が今日の聖書箇所の冒頭には記されています。そもそも確かに人間の目には神は公平ではありません。恵まれた家庭に生まれる人もいれば、貧しい家庭に生まれる人もいる。なごやかな団欒のある家族の中で育つ人もいれば、とんでもない殺伐とした問題を抱えた家庭に育つこともあります。同じ家で育った兄弟であっても、持って生まれた才能や容姿が違います。ある人には多くの神の憐みが注がれているように見え、ある人に対してはそうではない、そのように見えてしまいます。そして、それが神の主権の内に定められているとしたら、時として神に不満を言いたくなる時もあります。

しかし、パウロはいうのです。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か?」これはとても厳しい言葉に聞こえます。この言葉は人間を中心に据えた考え方では到底理解ができない言葉です。正しさの判断基準を人間の側に置いている時、神の主権は理解できません。しかし、人間はどこまで行っても、自分が中心であり、自分に主権があると思いたい存在です。ことに現代の人間はそうです。ここでパウロが使っている口答えという言葉は厳しい言葉ですが、私たちはおりおりに神に口答えをする者なのです。自分の願っていたことが叶わない時、「私の思いが叶わずこういうことになったのも、これは神の御心だったのだ」と思いつつ、そこに釈然としない思いがある場合があります。時には心の奥に怒りもありながら、「いやいやこれは神の御心だったのだ」と自分で自分の思いを抑えようとします。そういう私たちの姿勢を口答えと言われると、厳しいなと感じます。しかし、釈然としない思いの内に諦める心や、怒りを無理やり抑えつける姿勢は、ある意味、神への信頼を欠いた姿勢です。神に信頼せず、そしてそのなさる結果に不満を抱いている姿勢こそ口答えです。諦める姿勢も消極的な口答えの姿です。神の主権によるなさりようは私たちにはすべてを理解することができません。私たちは納得できないことを無理やり神の御心と納得しようとするのではなく、神に問うべきです。これはどういうことなのか?神に問うていく姿勢は口答えではありません。あくまでも神への信頼を基盤にした姿勢です。

<あるお母さんのこと>

さらにパウロは焼き物の話をします。焼き物は焼き物を造る人が「ひとつを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」そう語ります。つまり神は私たちをお造りなることにおいて自由であり権限を持っておられるということです。私たちはこういうところを読みますと、やはり神様は不公平だと思います。あの人にはきらきらした才能を与えて自分には何も与えてくださらないとか、私は苦労のしどうしなのにあの人はずっと平安な日々を与えられているとか考え始めます。しかし、救いの物語として考える時、もっともっと大きなことがある、そのことをパウロはここで語り出します。

 ところで、学生の頃、貧乏学生でいろいろアルバイトをしていて、そのなかのひとつとして家庭教師のバイトもしていました。バイト先のうちの、あるひとつの家庭は、お母さんが新興宗教の信者でした。お子さんとの勉強が終わった後、食事を出してくださるのですが、その食卓で良くその宗教の話を聞きました。今思うと、その宗教は、キリスト教系の異端で、かつカルト教団でしたが、当時はキリスト教のことも知りませんでしたから、その宗教が怪しげな新興宗教とは思いませんでした。お母さんがお話しされるままに、ふーんそんなものかーと、ほとんど聞き流していました。幸いというと変ですが、当時は宗教にぜんぜん興味がなかったのです。逆に興味を持っていたら、巻き込まれていたかもしれません。宗教より目の前のご飯を食べることで頭がいっぱいでした。

 やはり、あとから知ったことですが、その宗教は、異端ですから当然なのですが、正当なキリスト教とはまったく異なる教えを持っていました。しかし、聖書みたいなものは読んでいたのです。聖書みたいなものというのは、その宗教にとって都合の良いように改ざんした特別な文書を「正しい聖書」として読んでいたのです。ですから、その宗教の教えの断片だけを聞くと、なんとなく聖書の話のようなのです。キリスト教っぽい感じなのです。でも、実際は根本的に違うのです。

 そのお母さんの話はほとんど記憶に残っていないのですが、ひとつだけなぜか覚えている話があります。神様の言うことを聞かなかったら滅びるのだということをそのお母さんは熱心におっしゃっていて、そのたとえとして「陶器を造る人は自分が造った陶器の出来が悪ければ、割って捨てますよね。それと同じように、私たちも神様からみて出来が悪ければ割られて捨てられるんです」と言われました。自分が割られて捨てられるというイメージは嫌だなあと感じました。出来が悪ければ割って捨てる神様って怖いなあと漠然と感じたのです。

 今日の聖書箇所にも焼き物の話が出て来ます。旧約聖書の預言書にも陶器を造る陶工の話は出て来ます。おそらくあのお母さんの話も、その宗教で読まされたまがいものの聖書の中に書かれていた話、たぶん預言者かローマ書をその宗教に都合の良いように改ざんした話をもとにしたものだったのでしょう。

<大いなる憐み>

 しかし、その新興宗教と正当なキリスト教では同じように焼き物のたとえ話をしていながら、結論が全く違うのです。新興宗教では、神の言うことを聞かなければ割られる、捨てられる、滅びるという恐怖心を煽る話として、焼き物のたとえが挙げられています。しかし、今日の聖書箇所はそうではないのです。確かに人間は罪を犯し、罪を犯した者は本来滅びるのです。今日の聖書箇所の最後に、ソドムやゴモラという名前が出て来ます。旧約聖書に出てくる悪徳の町で、神によって滅ぼされた町です。たしかに、キリストがおられなければ、キリストを救い主として受け入れなければ、私たちも裁きの日にソドムやゴモラのように滅びるのです。神に逆らう人間は滅ぼされる、そこにはあのお母さんが信じていた新興宗教と、正当なキリスト教の間に違いはありません。人間はそもそも割られて捨てられる、そんな存在だったのです。神様が良いものとして最初の創造の時に造ってくださったにも拘らず罪のために、言ってみればできの悪い焼き物となってしまった。神の怒りの器となってしまった。そんな神の怒りを受けるべき存在の者が、むしろ憐みを受けて救われているのだとパウロは語っています。それはその焼き物自体のできの良し悪しには一切関係がなく、ただただ神の自由な憐みによるのだと語られています。出来が良かろうが悪かろうが、キリストのゆえに、キリストを信仰告白した者は神から捨てられることはない、それは神ご自身の憐みのゆえなのだと、聖書は語ります。憐みのゆえに神は寛大な心で耐え忍ばれたのです。ここで「寛大」という言葉と「耐え忍ぶ」という言葉はギリシャ語の原典は同じ単語です。日本語のニュアンスでは寛大と耐え忍ぶというのはずいぶん違います。寛大というと鷹揚に相手を赦すイメージがあり、耐え忍ぶというと黙って我慢をするイメージがあります。人間であれば本当は心の中では腹を立ててるけどぐっと我慢をして、表面上は作り笑いで寛大な態度を取るということがあるかもしれません。しかし、神においてはそのような心の中と外に出てくる態度が異ならないのです。寛大さと耐え忍ぶということは神においては同じことなのです。それは神の憐みという本質から出ているものです。憐みの神であるゆえ寛大さも耐え忍ぶことも、裏表なく人間に表されるのです。

 恐怖心で信仰へと洗脳していくのではなく、神の憐みを語るのが本来のキリスト教です。しかし、私たちはともすれば、あのお母さんの新興宗教のようにパウロの言葉を読んでしまうのです。出来が悪ければ捨てられてしまうと恐れてしまうのです。その恐れの根源にあるのはやはり人間中心の思いです。価値の判断基準を自分の側に置いているとき、神の憐みの大きさを知ることはできません。自分の価値観で自分を測って、自分はどうしようもない人間だと感じて自分で自分を裁いてしまいます。そしてこんな私は、割られて捨てられても仕方がないと心のどこかで感じてしまうのです。つまり片一方で「なぜ私はこんな目に遭わされるのか?」と神に口答えする心も、逆に「私は割られて捨てられても仕方ない」と怖れる心も、いずれも人間中心の価値観から出てくるのです。神の主権と憐みに信頼できない時、不満やら恐怖が私たちの心に入り込んできます。

<神の愛>

 さてパウロは神の憐みを説明するために今日の聖書箇所の後半ではホセアやイザヤの言葉を引用しています。ホセアの、「わたしは自分の民でない者をわたしの民と呼び」から始まる言葉がありますが、神は確かに自分の民でない者、つまり本来は怒りの器として割られるべき焼き物であった人間をも憐み「神の子」と呼ばれるようにしてくださいました。預言者ホセアは愛の預言者と呼ばれています。新約聖書でのヨハネによる福音書の著者ヨハネと並べられるという方もおられます。ホセア書では、ホセアの姦淫の妻を下敷きに、神に逆らう民への神の愛が記されています。ホセア1章でホセアに神は「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ」と言われます。他の男と関係を持つような身持ちの悪い女と結婚をせよ、そしてその女の子供たちを受け入れよと神はおっしゃったのです。とんでもない話です。しかしそのとんでもないことをなさったのは神ご自身でした。あり得ないような寛大さと忍耐を持たれたのが神でした。ホセアの時代の神に逆らっていたイスラエルは淫行の女そのものでした。また、自分の価値観を絶対として、神を信頼せず、神以外のものを神としている現代の人間もまた神から見たら淫行の女そのものです。しかしそのような人間を神は憐れました。あふれるように神は憐れました。淫行の女を受け入れる愚かな夫のようなものとして神はふるまわれました。

 また、イザヤの言葉には「残りの者」という言葉が出てまいります。つまり本来は救われるはずだったイスラエルが神に反逆してもなお、「残りの者」を神は救われるというのです。本来は、救いの中に入れられない筈の人々が救われているというのです。ここでパウロが残りの者として特に語っているのは、ユダヤ人キリスト者であり、異邦人です。神から捨てられたはずのイスラエルの民の中でもなおキリストを信じて救われる人々がおり、またそもそも最初は選ばれてはいなかった異邦人もまたキリストを信じて救われていることをパウロはイザヤを引用して語っています。

 わたしたちもまた「残りの者」です。神の憐みがあふれでて、もともとは選ばれていなかった者にまで憐みがあふれ出て注がれました。神の憐みのゆえにその自由な選びの中に入れられました。その「残りの者」の共同体が教会です。教会もまたあふれ出る神の憐みの内にあります。人間中心の価値観では神の憐みは理解することができません。神の自由な主権のうちに教会も立っています。神の憐みの器として立っています。その教会につながる一人一人もまた貴い器として用いられていきます。


ローマの信徒への手紙 9章1~18節

2017-09-18 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年9月17日 主日礼拝説教「あなたを選ばれる神」 吉浦玲子

<パウロの悲しみ>
 ある女性の修道院のシスター、のちにカトリックで聖人とされた人ですが、その人が神について思い巡らして語りました。「神様は、わたしをとても愛してくださっていて、もう私のこと以外には興味がおありでないみたいです」。とても大胆な言葉だと思います。神様が自分のこと以外に興味がないように感じられるほど、自分が愛されている、顧みられているという感覚に私はとても驚きました。でもそれは不思議ではないことだとも感じました。別に聖人とか特別の信仰者ではなくても、神との交わりが深くなる時、そのような感覚は誰でも持つことができるのではないかと思います。そのような神との親密な交わりを求めていくのが信仰者の歩みであるとも言えます。


 パウロもまたそのような神との親密な交わりの内に生きた人でした。そのパウロは、8章の最後で声高らかに、「どのようなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と語りました。絶唱と言っていいような力強い響きを持った言葉です。その絶唱から一転して9章では、急にトーンが下がります。少し重い感じがします。9章からは、また新たな内容をパウロは語り始めています。その最初に語られていることは、パウロ自身の同胞のことです。パウロの時代、現代でもですが、ユダヤ教徒であるイスラエルの人々は、イエス・キリストを救い主、メシアとは認めていません。律法を守り続けながら、メシアの到来を待ち続けているのです。つまり彼らにはまだ救いが来ていないのです。現実には、イエス・キリストが来られたのに、それを受け入れることなく、救いを得ることなく、裁きの日を迎えることになる同胞を思うとき、パウロにはうずくような心の痛みがありました。8章終わりの喜びに満ちた絶叫とは異なり、パウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」と語ります。パウロは同胞から激しい迫害をされていました。しかしなおその同胞のことを思うと悲しみがあり痛みがあるというのです。ここにパウロの伝道者としての愛の深さが感じられます。語っても語っても受け入れられない、受け入れられないどころか、シナゴークを追い出され、命をも狙われているというのに、なおパウロには同胞への愛がありました。「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と語ります。8章の終わりでキリストの愛に結び付けられているその素晴らしさを絶唱し、キリストに結び付けられていることの祝福を誰よりもわかっている、そして逆にキリストから切り離されることの暗黒を誰よりもよく知っているパウロの口からこのような言葉が出ることは驚くべきことです。


 ローマの信徒への手紙で繰り返し出てきたことですが、イスラエルの民はパウロの同胞であっただけではありません。特別に神に選ばれていた民でもありました。旧約聖書の時代から律法を担ってきた民でした。本来なら最初に救いにあずかるべき民でした。聖書の専門家であったパウロはそのことも良く良くわかっていました。最初に救いにあずかるべき、神からの特別な約束をあたえらえていたイスラエルの民が救いから離れているということはパウロにとってたいへんな痛みでした。ですからこそ「同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」という言葉がパウロから出てくるのです。

 これは旧約聖書において出エジプトした民を率いたモーセが、民のためにとりなしを祈ったことを思い起こさせるような言葉です。モーセがシナイ山で十戒を神から賜って降りてきたとき、民の心はすでに神から離れていました。エジプトで多くの不思議な業をなされ、脱出の時には海を分けるという奇跡まで起こして民を救われた神を、イスラエルの人々はあっという間に忘れてしまいました。山に登ったモーセがなかなか降りてこないので、金の牛を造って、それを神として拝んでいたのです。それは偶像崇拝というとんでもない罪でした。目の前で幾たびも神の奇跡を見たにもかかわらず、あっという間に大きな罪に陥ってしまった民のため、モーセはとりなしの祈りを祈ります。その祈りは「この民の罪を赦してくださらなければ・・どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」というものでした。本来、救われるべき人が記されている命の書から自分自身の名を消してくださいとモーセは祈ったのです。民が赦されないのであれば、自分は救われなくてもいいと神に願ったのです。これはとりなしの祈りの典型とも言われます。私たちは、家族のため、友人のため、さまざまなことのために祈ります。とりなしの祈りをします。その祈りは、神と祈る対象の人の間に立って祈るものです。神の前に身を投げ出し、悲しみと痛みを覚えながら祈るのです。自分自身はどこか離れた安全地帯にいて、神に「あの人のことをよろしく」というのではないのです。自分が痛み悲しみながら自分自身を捧げて祈るのがとりなしの祈りです。モーセもパウロもそのようなとりなしの祈りをなした人たちでした。自分に反逆する出エジプトの民、また迫害をするイスラエルの民のために祈りました。そしてそれはモーセやパウロだけが為す祈りではありません。私達もまた愛をもって、身を投げ出して、痛みを覚えつつ神にとりなしの祈りを祈ります。

<選びとは>
 一方で、こういう疑問が出て来ます。じゃあ、もともとイスラエルを救うと約束されていた神の言葉は撤回されたのか?あるいはその神の言葉には効力がなくなったのでしょうか?そうではないとパウロは語ります。「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」。
 そこからパウロはそもそも神の約束とはなんであったかを説明し始めます。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。」と言います。つまりもともと神の約束は血筋とか民族に対するものではなかったのだと言います。「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫とみなされるのです」と語ります。
 確かに民族としてのイスラエルは特別な選びの中にありました。しかし、救いは「神の約束」によるということなのです。ここでパウロは旧約聖書のアブラハムとサラの子供であるイサクについて述べています。血筋ということで言えば、アブラハムにはイサクより先に女奴隷とのあいだにもうけたイシュマエルがいました。イシュマエルこそ、長子という点において、当時の法的な観点においても、アブラハムの第一の継承者であるべき子供であったはずです。しかし、そうはなりませんでした。神が約束されたのは「イサク」であったからです。イシュマエルとイサクでは歳も10歳以上違いました。長子として父の相続をするのならイシュマエルの方が人間的には妥当だったのです。
 そしてさらにイサクの子供であるヤコブとエサウについても同様のことが言えます。ヤコブとエサウは双子でありましたが、長男はエサウでした。ですから当然、本来家を継ぐのはエサウでした。長男エサウがその父イサクに与えられた約束を受け継ぐべき人間だと通常は考えられます。聖書の物語の中にはエサウが長子の権利を軽んじたこと、また、異国の女性をめとっていたことなどが記されています。しかし、エサウはふさわしくないから約束の子として認められなかったのではありません。神の選びはそのようなエサウの態度以前に決まっていました。「子供たちがまだ生まれもせず、良いことも悪いこともしていないのに「兄は弟に仕えるであろう」」とその母親であるリベカに伝えられたことが創世記には記されています。現実的には、ヤコブは策略を使ってエサウの祝福を奪い取ります。そのずるがしこいヤコブのあり方は到底、神に選ばれるようなあり方ではありません。ふさわしくないといえばヤコブこそ、選ばれるにはふさわしくない人物でした。しかしなお、神はヤコブを選ばれました。

 旧約聖書を読んでいますと、なんとなくイシュマエルやエサウはかわいそうな気もします。「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と実際、旧約聖書に書いてあるのです。また「私は自分が憐れもうと思う者を憐み、慈しもうと思う者を慈しむ」とあります。私たちはこういうところで、つまずいてしまいます。ショックを受けてしまいます。神様ってひどいではないかと思うのです。エサウはかわいそうではないか?わたしもエサウのように扱われるのではないか?神様はすべての人間を憐れみ慈しんでくださるのではないか?神様はそんな依怙贔屓をなさる方なのか?そんな疑問がわいてきます。
 しかしここで私たちが注目しないといけないのは、選ばれない側のことではありません。神が憐れまず慈しまれない人間がいるということではありません。パウロはむしろ選ばれるはずのない人間が選ばれ憐れまれ慈しまれているということをここで語っているのです。神が本来選ばれる要素が全くない人間を選び慈しまれる、そのことをパウロは語っているのです。それに、そもそも「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というのは、ヤコブをどれほど愛したかという比較表現です。ヤコブへの愛の深さをエサウとの比較表現で比喩的に語っていると考えられます。そしてまた神様は現実的にエサウを憎んで滅ぼされたかというとそうではありません。エサウをも、一つの大きな部族とされたのです。イサクと異母兄弟であったイシュマエルもそうです。民族の大きさとしてはイスラエルと比べてそん色のないきわめて大きな民族とされました。神の大きな救いの物語の中に選ばれたのがイサクでありイシュマエルだったということなのです。そしてその選びの理由は選ばれる人間の側にはまったくありません。

 このことは、私たちにとっても大きな慰めです。私たちは「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」などという言葉を読むと、わたしは神に愛されている側だろうか?エサウのように憎まれているのだろうか?と不安になります。しかし、そうではないのです。すでに救いの物語は21世紀のこの日本の大阪にも及んでいます。私たちの上にも及んでいます。私たちはイサクのように、またヤコブのように選ばれているのです。その救いの物語に入れられているのです。
 冒頭でお話したシスターが「神はわたしのこと以外に興味がおありではない」みたいです、と語ったのはある意味、本質的なことです。神の選びにおける愛は、誰かと比べて、多い少ないということではないのです。わたしたちのすべてを満たされる、それが神の愛です。あの人の方が私より愛されている、とか、他の人を愛するその手の空いた合間にちょっとだけ神様は私を愛されるそういうことではないのです。神は私たちの空間的時間的心理的すべての次元で100%のその選びにおいて愛を示されるのです。

 昔、ある青年が長く教会に通ってきておられ、礼拝は最前列で守っておられ、各種の勉強会でも熱心に学んでおられたのですが、なかなか洗礼を受けようとされませんでした。その理由は「自分の仲のいい友達が無神論者で、自分が洗礼を受けると、その友人を裏切るようで嫌だから。」ということでした。神はその青年にとって、100%の愛を注いでおられたと思います。しかし青年の方は、横を見ていたと言えるでしょう。神の愛の方ではなく、隣のこの人はどうなんだ?とその青年は見ていた。そういう姿勢では神の本当の愛と選びを感じることはできません。神は私たちを選び、一対一で向き合ってくださる方です。だから私たちもその御顔を一筋に見上げるのです。そのとき「神が私以外のことにはまったく興味をお持ちでないくらいに私のことを愛してくださっている」と感じられるのです。

<柔らかな心で>
 今日の聖書箇所の最後の部分には、なお、つまずいてしまうような言葉が書かれています。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」とあります。神はすべての人の心を柔らかくしてご自身を受け入れるようにしてくださるのではないか?かたくなにされるとはどういうことなのか?そんな疑問がわきます。ここでパウロは出エジプトにおけるエジプト王ファラオを例に引いています。モーセがエジプトから民を率いて出てくるとき、エジプトの最高権力者ファラオとの対決がありました。ファラオは神に敵対した人物でした。実際、出エジプト記には「主はエジプト王ファラオの心をかたくなにされた」という言葉が記述されています。ファラオが自分で自分の心を頑なにしたというのなら理解できます。神がかたくなにされたというのはどういうことでしょうか。ここで言われていることは神の主権ということです。主権は神にあるということです。神に逆らう王ファラオは主権は自分にあると考えていました。しかし、実際はそのファラオの心すら神の主権の下にあったということが示されているのです。神の主権ということについては9章の後半にも関係することで、次週以降にも共に読んでいきたいのですが、神はその愛の選びにおいて主権をもっておられるということを今日は覚えたいと思います。

 神は自由に選び自由に愛される。神の愛の理由は人間の側にないということです。まったくないのです。しかしそのことのゆえに私たちはまことの安心を得ます。愛される理由、救われる理由が私たちの側にあるとしたら、私たちが主権をもって主体的に救いを勝ち取らねばならないとしたら、そこには恵みはありません。神の主権、愛における主権のゆえに私たちはその愛を恵みとして受け取ることができるのです。その恵みを喜び感謝するとき私たちの心は柔らかなものとされます。


ローマの信徒への手紙 8章31~39節

2017-09-11 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年9月10日 主日礼拝説教 「神から引き離す者はない」吉浦玲子

<神はわたしたちの味方である!>

 「神はわたしたちの味方である」そうパウロは声高く宣言をしています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」<もし>と、「もし」と仮定したような言葉になっていますが、パウロがここでいっているのは「神はわたしたちの味方であるのだから、だれも私たちに敵対できない」ということです。神は、アダムとエバ以来、神に逆らい、罪を繰り返してきていた人間の味方になられました。もともとは神の敵であったといえる人間を、今や、守り、支えてくださるのです、8章の最初から聖霊によって新しく生きていく私たちのあり方について語られていましたが、その最後のまとめの言葉としてパウロはそう語っています。「神がわたしたちの味方である」なんと力強い言葉でしょうか?

 「神がわたしたちの味方である」とか、先日、共にお聞きしました「わたしたちは神の子供である」というような言葉は、力強く端的な言葉であるのですが、雰囲気だけで聞いてしまうと、表面的な慰めの言葉に過ぎなくなります。しかし、「神がわたしたちの味方である」ということは、わたしたちの人生の根幹に関わることです。わたしたちの日々のすべてのこと、人生のまことの豊かさは、<神がわたしたちの味方である>ということをどれほど深く、強く、信じて生きていけるかにかかっています。もちろん神が味方であるということと、なにをしても大目に見られるということとは異なります。たとえば旧約聖書にはダビデ王が罪を犯した時、預言者ナタンがダビデ王を叱責した話がでてきました。ダビデの不倫と殺人の罪をナタンは責めました。ダビデを叱責した預言者ナタンこそまことのダビデの味方でありました。権力者のイエスマンはほんとうの意味での権力者の味方ではありません。ナタンの様に場合によっては叱責したり諫言したりするのが本当の味方です。私達と神との関係もそうです。わたしたちが正しく歩む時も、また道からそれているときも、神はいつも味方です。味方であり続けてくださいます。力づけ、助け、慰め、戒め、悔い改めの心を与えてくださいます。

 そしてなにより大事なことは、神がわたしたちの味方である、ということの根拠です。何をもって、パウロは神がわたしたちの味方であると言っているのか?それはキリストの十字架です。神が味方であるという根拠は、キリストの十字架以外にありえないのです。「32節 その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」人間は往々にして神が味方か敵かという判断基準を自分の側に持ちます。神が私に喜ばしいこと、利益を与えてくれるなら味方で、逆に私にとって嫌なこと、不利益を与えられるなら敵である、と。しかし本来、神が味方である、ということはキリストの十字架を根拠としない限り、理解できないことなのです。わたしたちがキリストの十字架へまなざしを向ける時、そこにはっきりと示された神の愛があります。その十字架に示された神の愛こそが、神が味方であるという根拠として理解できるのです。復活されたキリストの手とわき腹にくっきりと残った傷、それこそが神がわたしたちの味方であるということの根拠なのです。そのキリストがいま父なる神の右に坐しておられる、そしてわたしたちのためにとりなしてくださっている、だからわたしたちは罪に定められることはない、これほど心強いことはないではないか、そうパウロは語っています。パウロの心にあったのは終わりの日の裁きの問題です。その裁きの場でわたしたちは罪に定められない、他ならぬ神ご自身がわたしたちを義としてくださる、そう語っています。わたしたちは多くの罪を犯していますから、裁きの場で、わたしたちを糾弾する者があるかもしれない、しかしなおだれもわたしたちを罪に定めることはできないのです。キリストがとりなしてくださるからです。

<愛から引き離されない>

 さらにパウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と続けます。ここからのパウロの言葉は、一段と激しいものです。神の愛、キリストの愛を語りながら、ここまで徹底してその愛に信頼しているパウロの姿に圧倒されます。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」

 聖書を長く読んでこられた方は、ここでパウロは「艱難か、苦しみか・・」と大げさに語っているのではないことをご存じでしょう。現実に、パウロには、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、そのすべての苦難があったのです。教会の内側からも、外側からも、彼は攻撃されました。とてつもない困難がありました。涙を流し、怖れおののき、意気消沈することもありながら、なお、自分たちはキリストの愛から引き離されない、というのです。キリストが捉えていてくださっているからです。パウロがキリストの愛にしがみついているのではないのです。キリストが捉えてくださっている、キリストの愛がすべてを包み込んでくださっている、そのことをパウロは知っていたのです。

 なぜパウロはキリストの愛が私たちから離れないことを知っていたのでしょうか?困難の中で、時として不条理とさえ思える苦しみの中で、迫害の中で、むしろ神の愛を疑うのが人間の自然な姿のようにも感じます。パウロは特別に信仰が深かったのでしょうか?たしかにパウロは劇的な回心を体験しています。もともとキリスト者の迫害をしていた彼はダマスコ途上で復活のキリストと出会うという体験をしています。そのような劇的なキリストとの出会いをし、回心をしたパウロだからこそ、ここまでの確信をもって、どれほどの困難があろうとも、キリストの愛を語れたのでしょうか?

 そうではないと思います。聖書に名前を記されているのはキリスト教が生まれて間もないころの弟子たちだけです。直接、イエス様と出会った人々もあったでしょう。パウロをはじめ、聖書に名前が出てくる人たちが特別に信仰が強かったというわけではありません。キリスト教の歴史を振り返るとき、2000年にわたって、パウロのような信仰者は生まれ続けたのです。今も全世界に生まれ続けています。直接、キリストと出会った弟子たちや劇的な回心を体験したパウロだけが「キリストの愛からわたしたちは引き離されない」と語ったのではないのです。2000年にわたり、無数の信仰者がこのことを語り続けてきたのです。

 何回か語ってきたことで恐縮ですが、私自身が家族や友人にクリスチャンがいなかったにも関わらず、それでも、教会に行くようになり、さらに信仰を得るようになったことはもちろん聖霊の導きによることでした。ただ、直接的な信仰への招きの段階において、いくつかの現実的な要因みたいなものがあるにはあったとはいえます。そのなかのひとつは長崎県の出身で、カトリックの教会が町に多くあって、何となくキリスト教の雰囲気に親近感をもっていたようなところであったといえます。少し離れた郡部には隠れキリシタンの子孫も住んでいるようなところがありました。隠れキリシタンの家の中には、一見すると普通の仏壇があって、しかしそのなかにマリア観音が隠されていると聞きました。私は、直接、それを見たわけではないのですが、友人の家は確かにそうだったと聞きました。むかしむかし、迫害を受けながらも信仰を持ち続けた人々があった、歴史で習ったことがほんとうに身近に感じられました。そしてさらに思います。その人々に、さきだって福音を宣べ伝えに来た人々もあったことを。遠い遠い国から来た人々がいたのです。なんの縁もゆかりもないところへキリストの福音を伝えに来た人々がいました。現代のように飛行機でひとっとびの旅ではなく、長い時間を費やし危険を冒してやってきた人々がいた。そういうことを思うとき、オウム真理教の事件の後、宗教は怖いという意識はどこかにありながらも、キリスト教なら大丈夫という信頼ももって教会に来ることができ、受洗への背中も押されたと思っています。自分自身が教会へと導かれたその背中を押した力の中には、名前も知らない無数のパウロのような存在があったのだと考えます。

 遠くから宣教に来た人々があったという点では、皆さんも、これもまた繰り返し聞かれていますように、この大阪東教会の創立の背景も同様です。100年以上も前、A.D.ヘール宣教師がアメリカからやってこられ、その伝道によって大阪東教会は設立されました。当時、今のアメリカと日本の違いよりも、もっともっと大きな文化格差があった、にもかかわらず宣教師たちはやってきました。120年前の大阪東教会の写真を見ると、ヘール宣教師と共に写真に納まっている日本人の様子は、同じ日本人と言いながら、今のわたしたちから見ても、まったく雰囲気が異なります。ましてやアメリカから来た人にとっては、当時の日本は驚きの国、不思議の場所だったでしょう。なかには、欧米の植民地化政策の一環として、その手先として宣教師たちはやって来たのだという人々もいます。しかし、私たちは知っています。カトリックにせよ、150年前にやってきたプロテスタントにせよ、神の福音を純粋に伝えるために危険を顧みずやってきた人々がたしかにいたことを。カトリックでもプロテスタントでも宣教師たちは日本の土になる覚悟をもって福音を宣べ伝えにきたのです。A.D.ヘール宣教師も半世紀にわたる日本伝道の末、この大阪の地で天に召されています。ヘール宣教師はあるときは雪の深い道、それも狼が出る危険のある田舎道をわらじをはいて伝道されたそうです。ヘール宣教師兄弟に対する<わらじばきの伝道者>という言葉は、あるいはみなさんもお聞きになったことがあるかと思います。ヘール宣教師は、あるときは道端で日本人の長老たちと路傍伝道もされました。しかし、声を張り上げてキリストを伝えても、誰も耳を傾けてくれないのです。当時、キリスト教の禁制はとかれていましたが、まだまだキリスト教への世間の偏見は強く、<あいつらは耶蘇だ>と誹謗中傷を受けるようななかで、キリストを伝えて行かれました。ヘール宣教師や、初期の日本の教会の信仰者が、特別に信仰が深く、意志が強かったから、そういうことができたのでしょうか?

 そうではないでしょう。ヘール宣教師や日本伝道の初期の信仰者もまた、パウロ同様、キリストの愛が自分たちから離れることはない、キリストの愛が自分をすっぽりと包みこんでいる、その確信があったから、当時としてはとてつもない日本伝道ということができたのです。キリストの愛の炎が燃え続けていた、それは聖霊の炎といってもいいでしょう。内なる炎は消し難くあって、その炎のゆえに、狼の出る雪道をすら突き進んでいかれたのでしょう。

<まことの勝利者>

 その炎は、私たち一人一人の内にも与えられています。わたしたちは既に勝利者としてその炎を与えられています。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」とパウロは語ります。これは私たちの現実的な生活の、世俗的な勝利を語っているわけではありません。すべてを越えた絶対的な勝利です。現実的な生活だけを考えるなら、わたしたちはやがて皆、肉体的に滅びます。死に敗北をします。勝利者ではありえません。しかしなおパウロはわたしたちは勝利者であるというのです。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も」私たちをキリストの愛から引き離すことはできないというのです。生きようが死のうがわたしたちはすでにキリストの愛に結び付けられている、どのような権力も引き離すことができない。時間的な制限も空間的な制限もない。どのような超常的な力を持ったものですら私たちをキリストの愛から引き離すことはできない、そのことにおいて私たちは勝利者なのだ、そうパウロは語ります。

 A.D.ヘール宣教師が地上の生涯を終えられた日のことです。ヘール宣教師は、どのように忙しい時でも一日に三時間は勉強をされていたそうです。そのヘール宣教師がその日、ベッドのなかで、聖書を手に取って詩編を読もうとされますが、もう聖書を開く力も残っていなかったそうです。ただ、小さな声で、かたわらにおられた娘さんにこう言われたそうです。「主の栄光は主のうちに輝く」と。その生涯の最後において、ヘール宣教師は、主の栄光の輝きを見ておられました。その輝きは、キリストの十字架から放たれる輝きにほかなりません。キリストの愛に結ばれキリストの愛に捉えられていた宣教師の魂が見た輝きです。そしてそれは、生涯、宣教師が見続けていた輝きです。今、わたしたちもまたその輝きの中に生かされ、その輝きを見ます。キリストの愛に結ばれているゆえに勝利者として見るのです。


ローマの信徒への手紙 8章18~30節

2017-09-04 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年9月3日 主日礼拝 「希望と栄光」 説教 吉浦玲子

<被造物の呻き>
 今日の聖書箇所の前半では、被造物という言葉が出て来ます。この箇所の被造物を人間と捉える解釈もあるのですが、ここでは聖書でいう一般的な被造物、つまり神に造られたもの全体ということで考えてよいでしょう。もちろん人間も神に造られた被造物のなかに数えられます。しかし、人間以外の動物や自然、さらには宇宙のすべても被造物です。今日の聖書箇所の前のところで、パウロはキリストと結ばれた者は神の子とされる、神の相続人とされるという、たいへん恵み深い言葉を語っていました。そのやがてくる人間の輝かしい将来と合わせて被造物全体が語られているのはとてもスケールが大きなことだと感じます。


 ところで、私たちは被造物の中で、特に美しい景色、ことに絶景と言われるような景色や夜空の星などを見る時、ああ神様はすばらしいものをお造りになったなあと感じることがあります。ハッブル宇宙望遠鏡という地上600キロのところに浮かんで、地球の周回軌道にある人工衛星のような宇宙望遠鏡は地上にある望遠鏡と違って、大気の影響を受けず、高性能で宇宙空間を観測することができるそうですが、その宇宙望遠鏡からの画像を見ると息をのむほど美しいものがあります。ねじれた不思議な形をした銀河であるとか、ガスが噴き出しているようにみえる星の集まりとか、星としての命を終えた恒星が爆発する瞬間であるとか、そういう色鮮やかな劇的な画像を見ることができます。そういう画像を見ると、想像を越える宇宙の神秘を感じます。そういった美しいもの、神秘的なものをみると、逆にこんなに素晴らしいものは神様にしか造れない、だから神様はおられるんだと神の存在を確信することもあります。


 しかし、一方で、自然災害が起こり、罪のない人の命が奪われたりしますと、自然というのは怖いものだと思います。ことに日本や世界で多くの人が亡くなるような大災害が起こりますと、今度は逆に、こんなひどいことが起こるなんて、神様なんておられないに違いない、と思ったりもします。なぜ自然災害が起こり悲惨な被害が出るのでしょうか?自然災害の中には、人間の身勝手な自然破壊によると考えられるものもあります。その場合ですと、それは人間の罪ゆえの災害ということになります。人災です。しかし、すべての自然災害がかならずしも人間に原因があるとはいえません。そうなるとやはりそのような自然、被造物を造られた神様は無慈悲な方といえるのでしょうか?あるいは神様など最初からおられなかったのでしょうか?もちろん神はおられなかったわけでも、無慈悲な方でもありません。愛なる方です。では、愛なる方が造られた自然、被造物によって、なぜむごいことが起こるのか?それは人間には理解できないこと、としか言えません。人間にとって不条理なことも含めて、神の摂理なのだと私たちは受け取るしかありません。ヨブ記などに記されている神の摂理を受け入れていくのが私たちのあり方です。

 ただ、今日の聖書箇所の20節にパウロはこう言います。「被造物は虚無に服している」、と。また21節にも「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」とあります。つまり、いま現在、被造物もまた、虚無や滅びといった苦しみの中にあるとパウロは言っています。これは不思議なことです。ことに日本のように、自然のすべてのものに神が宿るというアニミズム的なものを精神性の土台にもっているところでは理解しがたいことです。しかし、美しい自然も、心を吸い込まれるような夜空の星々も、虚無に服し、滅びに隷属しているとパウロは言うのです。
 つまり世界は壊れているのです。はじめに神は天地創造において素晴らしい祝福された世界を造られました。<見よ、それは極めて良かった>と神がご覧になった被造物の世界がいまは壊れているのです。アダムとエバ以来、世界に罪が入って来たゆえに、世界は壊れ、壊れた世界では、被造物全体も、天地創造の最初の時は異なる状態であるというのです。きわめて良かったといわれる状態ではなく、虚無に服している、良い状態ではないということです。キリストを知らない時の人間のように、被造物もまた、滅びへの苦しみの中で、今この世界に呻いているのだとパウロは語ります。この壊れた世界で被造物の呻きの中で、さまざまな悲惨が起こるのです。それはキリストが再び来られ、キリスト者が神の子とされ、その栄光を受ける時まで続くのだとパウロは語っています。
 つまり、先週お読みした箇所にあった人間がキリストゆえに神の子とされる、神の相続人とされる、そのことはただ人間だけの希望ではないと今日の聖書箇所でパウロは語ります。
 キリストの到来と十字架の御業で救いは成就されました。しかし、完成ではなく、完成は終わりの日です。私たちはその終わりの日を待っています。そのとき、すべてが新しくされ世界が完全に変えられます。「見よ、それは極めて良かった」と言われた創造の最初のときのような世界となります。それは世界の再創造と言っていいでしょう。そのときを被造物も待っている、そう語られます。これはなかなかピンとこないとこです。

<すべては新しくされる>
 しかしこれは、これまでいくたびか申し上げてきたこと、つまり私たちの信仰はただ心の問題ということではないということと関係します。終わりの日に、魂だけがとこしえの平安の世界に生きるというのではなく、私たちは肉体をもってその新しくされた世界に生き、またその世界も物質的なモノがある世界なのです。古典的な哲学的な考えでは、魂や精神を崇高なものと考え肉体や物質を下等なものとするものがあります。しかし、聖書は肉体も物質も新しくされる世界が来ることを語っています。それはいまは目に見えている現実ではありません。現時点では、見えないものです。その見えないものを待ち望むことこそが希望なのだとパウロは語ります。見えているもの、これは単に視覚的に見えるということだけでなく、人間が現実的に認識しやすいことを含みます。つまりお金や財産、さらには地位や名誉などです。現実的な日々の中での人生の目標みたいなものも含まれるでしょう。生きがいをもって生活をしたいとか人の役に立ちたいとかいったこともあるでしょう。それらを願うこと自体はもちろん悪いことではありません。でもそれらは人間を究極的に生かす希望とはなり得ません。世界一の億万長者になっても肉体は死にますし、たくさんの人を助ける生活に生きがいを感じていてもそれは永遠に続くものではありません。マザーテレサはインドで多くの人々を助けながら、信仰的な深い迷いを感じた時、自分の活動自体にも懐疑的になることがあったそうです。神へつながる本当の未来への希望がなければ、私たちの日々は虚しいのです。そんな私たちは被造物と共にいまはまだ苦しみのなかに呻きつつ、すべてが完成される日を待ちます。しかし、忍耐して待つ、おおいなる未来があるからです。


<希望の先に>
 しかし、その希望を信じて生きていくということは、見えないものにかけていくあり方ですから、けっして楽なものではありません。私たちは折々に弱気になります。信仰者が一生の間、ただの一度も疑うことなく、弱気になることなく、神に確信をもって生きるというのは通常あり得ません。パウロですら、ある時は弱気になり、恐れに取りつかれています。聖書に出てくる偉大な人々も皆そうです。預言者エリヤはバアルの預言者たちとの戦いで劇的な大勝利をおさめたあと、激怒した王妃イゼベルに殺されそうになり、恐れて逃げ去ります。戦いの後の燃え尽きたような精神状態もあったのでしょう。恐れと衰弱の中、神に「もう自分の命を取ってください」と願います。そんなエリヤに神は使いをつかわし、食べ物を与え、癒されます。預言者エリヤに神の御使いが遣わされたように、私たちには今、神の霊が与えられています。「同様に“霊”も弱いわたしたちをたすけてくださいます。」そうパウロは語ります。


 ヨハネによる福音書で十字架におかかりになる前、主イエスは弟子たちに「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 ヨハネ14:18」と語られます。主イエスにはわかっていたのです。地上から主イエスがおられなくなったときの弟子たちの、そしてまた、わたしたちの孤独と悲しみを。キリストに従って歩む時、この世には苦しみがあります。終わりの日の希望を持ちながら信じながら、なお、わたしたちがみなしごのような心になることを。そのために私たちには“霊”、聖霊が与えられました。聖霊は弁護者とも言われます。また慰め主とも言われます。わたしたちがどうしようもない時、もう祈ることすらできないようなとき、聖霊は、父なる神に向かって、うめきをもってわたしたちのことをとりなしてくださいます。祈れない私たちの代わりにわたしたちの言葉にならない思いを父に伝えてくださるのです。わたしたちはみなしごのように孤独で、行くあてもなく途方に暮れていても、聖霊のとりなしのゆえに慰められるのです。絶望しないのです。ふたたび希望を信じて立ち上がることができるのです。

<万事が益となるように共に働く>
 そのような聖霊に支えられながら歩んでいく信仰の歩みの先に何があるでしょうか。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」そうパウロは語ります。
 万事が益となるように共に働く、という言葉はたいへん有名な言葉です。キリスト者同士でなぐさめるとき、この言葉を良く使います。「いまはたいへんでも、神様は万事を益となしてくださる」と言ったりします。これは途中には苦労はあっても、最後にはうまくいくということではありません。


 織物のようなものを考えていただいたらいいかもしれません。縦糸と横糸で模様を織り込んでいきます。織物をしている人にはどのような模様ができるのかはわかっています。でもその織物の中に織り込まれているのはわたしたちの日々なのです。わたしたちの日々には明るい日もあれば暗い日もあります。なぜここでこんな真っ黒の糸が織り込まれているのか、そのときにはわたしたちには分りません。こんなどぶのような色ではなく、もっと明るいブルーの糸があったらいい、鮮やかな赤い糸であったらいい、そう思うかもしれません。しかしあるとき、気づくのです。神がおられている織物の美しさに。嫌だなと思った黒い糸も、灰色の糸も、神の織物の美しい模様に必要なものだったことに気づくのです。私たちのすべての人生の糸がすべてが美しく共に働いていたことに気づかされます。


 「万事が益となるように共に働く」というのは単純に最後は丸く収まるとか、苦労が報われるということではありません。もっともっと壮大な物語の中に私たちが置かれているのです。そしてある時、そのことが私たちにもわかるのだとパウロは語っています。「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」わたしたちは知らされるのです。わたしたちの日々の苦労や悲しみが一ミリたりとも無駄ではなかったことを。それもすべて神のご計画の中で、美しく織り込まれ壮大な出来事の完成のためにあったことを知らされます。わたしたちは万事が益となるように共に働くことを知らされながら、御子の姿に似た者とされていきます。キリストに似た者とされていくのです。わたしたちがキリストに似た者になろうとするのではなく、呻きながら痛みながら歩んでいくとき、聖霊によってとりなしていただきながら生きていくとき、神ご自身がわたしたちを変えてくださるのです。聖霊ご自身の祈りの中で変えられていきます。そのことを信じながらこの一週間も生きていきます。