大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書 3章1~21節

2023-12-24 13:40:03 | ヨハネによる福音書

2023年12月24日大阪東教会主日礼拝説教「神は愛」吉浦玲子

<世を愛された>

 「神は、その独り子をおあたえになったほどに、世を愛された」

 このヨハネによる福音書の3章16節は福音書中の福音書と言われる箇所です。イエス・キリストがどなたによってこの世に遣わされ、イエス・キリストがなぜこの世にこられたのか、そのことがこの1節に凝縮されているので、福音書中の福音書と呼ばれるのです。

神は世を愛された、とこの言葉は語ります。ここで語られています「世」とはギリシャ語のコスモスのことです。宇宙を現わす英語のコスモスの語源となった言葉です。福音書で語られています「世」とは宇宙も含みますが、もっと直接的には神がお造りになった世界全体と言えます。

神は聖書の中の最初の書物である創世記に記されていますように、この世界を良いものとしてお造りになりました。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。神がお造りになった世界は極めて良かったのです。

しかし今、この世界を見て、「極めて良い」ということを思う人はおられないのではないかと思います。ガザ地区でもウクライナでも、人々が血を流し、命を落としています。戦争や紛争だけではありません。この地球上には満足に食事をとることの出来ない、飢餓状態の人が8億人以上いると言われます。学校に行けない子供たちが二億人以上いるとも言われます。そういう悲惨はどこか遠い国の、私たちとは関係のない世界の話でしょうか。そのような悲惨は抜本的な世界の不公平、富の分配の格差によって生じています。私たちも無関係ではありません。そもそも、私たちの身近なこの大阪でも貧困に苦しむ人は多くあります。教会にもときおり食べ物を求めて来られる方がいます。そのような平和や衣食住に関わることだけではありません。日々の生活にはとりあえず何不自由ないように見えても、それぞれに人々は重荷や不安を抱えて生きている世界です。

神が「極めてよく」造られたはずの世界が、なぜ、このように悲惨に満ちているのでしょうか。それはひとえに人間が神から離れてしまったからです。神とは関係なく、人間が自分の正義、自分自身の知恵や考えによって生きて来たからです。そこから争いが起こり、不公平が起こり、虐げられる人が起こりました。一方で権力や大きな富を持ちながら喜びはなく孤独と不安の中にある人もあります。そのような悲惨が人間の歴史を貫いてきました。

神が極めて良く造られた世界が人間の悪と傲慢のために壊されてきました。その壊れた「世」にあって、人間自身も苦しみ傷んできました。しかし、その壊れた「世」を神は愛されました。創造の時の、極めて良かった「世」とは異なる、争いと流血と憎しみにまみれ、人々の絶望で満ちた、そしてまた欲望に満ちた「世」を神は愛されました。

神が愛されるのは、愛する対象が極めて良いからではありません。神は愛なるお方だからです。神は愛なるお方なので、この「世」が極めて良くても、極めて悪くても、愛されるのです。愛するにふさわしいから愛されるのではありません。

<神から離れていること>

そして、今現在のこの「世」に生きる私たち一人一人をも神は愛されています。私たちが愛されるにふさわしいからではありません。私たちはこの壊れた世界にあって、私たち自身も罪にまみれて生きています。神に造られた者でありながら神から離れ、自分が神であるかのように生きています。でも、多くの人々は、自分が神であるかのように生きているつもりはないと思います。実際、精一杯善良に歩んでおられるでしょう。周りの人に気づかい、困った人にはできる限り手を差し伸べ、なにより、日々、仕事でも家のことでも、一生懸命やって生きておられるでしょう。しかし、そうであっても、神を顧みない者は、罪人なのです。精一杯大人として自分の責任で頑張って生きている、でもそこに神の導きを求めることがなければ、それは自己中心的な生き方なのです。神ではなく自分が中心の生き方になります。それが自分を神とした生き方です。それはやはり罪なのです。

私も教会に来るまではそのように生きてきました。それなりにまじめに働き、子供を育て、精一杯生活をしてきました。先日、昔の職場の人たちと会う機会がありました。10人ほどのメンバーで、中には、退職以来お会いしていなかった人も半分くらいおられました。メンバーにクリスチャンはおられませんでした。でも皆さん、和やかに良い感じでおられました。そんなかつての同僚や、教会に来る前の自分に対して、「あなたたちは罪人ですよ」なんてことを言っても、なかなか理解できないと思います。一生懸命生きてる者たちになんてことを言うんだと思われると思います。でも、神を知らないということ、神から離れているということ、それは罪なのです。その罪によって、私たちの日々も、この「世」も壊れていくのです。たとえば、私たちが善意で良かれと思ってやったことが、人を傷つけたり、関係を壊すこともあります。精一杯の善意だと思っていても、そこに自己中心の罪があるからです。そうやって小さなひびが生活に入っていきます。その小さなひびが、世界中にあり、やがて大きなひび割れ、断絶、争いを産んでいくのです。

<ふたたび良い「世」へ>

 このクリスマス礼拝で、なんで、そんな暗い話をするのかと思われる方もおられるかもしれません。でもその話をしなければ、なぜキリストが来られたのかが分からないからです。牧歌的にベツレヘムの空に星が輝き天使が歌い、神の御子がお越しになったというのはクリスマスの表面的なことに過ぎません。

 2000年前、イエス・キリストがお生まれになったベツレヘムも暗かったのです。差別があり、重労働があり、権力者は腐敗していました。貧しい者はあえぐような生活をしていました。そこにイエス・キリストは来られました。それが最初のクリスマスでした。

 2000年前のベツレヘムも暗かったのです。壊れていたのです。しかし、神はそんな「世」を愛されご自身の御子を遣わされました。「世」が暗く、壊れていたからです。この世界の闇と壊れ、醜さと苦しみをすべて担うために御子は来られました。その「世」をふたたび光で満たし、平和にし、愛にあふれた、「極めて良い世」にするためでした。

 この「世」をふたたび「極めて良く」するために御子は来られ、闇と壊れ、醜さと苦しみを十字架において担ってくださいました。クリスマスで来られたキリストは、その約30年後、十字架で死なれます。そして肉体をもって復活をなさいました。そのことによってこの世は救われました。神は、御子の命を差し出すほどに「世」を愛され、実際、御子の命と引き換えに「世」は救われました。

 「世」に生きるわたしたちもそうでした。御子の命と引き換えにせねば救われない罪の重荷を抱えていたのです。その重荷は人生のすべての苦しみの根源でした。その私たち一人一人の重荷を取り去ってくださるために、独り子である御子はこの「世」に来られました。悪の「世」に来られました。ご自身がすべての人間の罪を担われるためでした。

<いつも明るい「世」へ>

 キリストを信じる者は、すでに救われています。キリストの十字架と復活を信じる者はすでに罪の重荷から放たれています。依然として、この「世」は暗いかもしれません。でも今、私たちはキリストの十字架と復活を信じる者とされ、それぞれに光の子とされています。私たちは依然として、罪を犯し、過ちを犯し、人を傷つけ、自分も傷つく者です。でも、私たちはキリストの十字架と復活のゆえに、悔い改めることができます。新しく生き直すことができます。何度でも、新しく生きることができるのです。若くても年を取っていても。

 今、教会では夜、電飾が設置されています。近隣の方から毎年楽しみにしていますとお声をかけられるようにきれいです。もちろん、都会の街のイルミネーションのように華やかではありませんが、近隣の人、通りかかる人に喜んでいただいています。その電飾は、タイマー式になっていて、一定時間を経過すると自動的に消えます。先日、どうしても取りに行かないといけない者があって、夜11時を回ってから、牧師館から別館に向かったことがあります。すると電飾が消えていました。もう消灯の時間を過ぎていたからです。そこにあったのは、いつもの夜の暗い庭でした。アドベント以降、教会の庭はいつもキラキラしているという意識があったので、きらきら輝く光がない庭に一瞬驚きました。

 私はその教会の庭を見ながら、なんとなくはっとしました。クリスマスというと私たちはなにかキラキラした美しいことを思います。もちろん、クリスマスは美しいことです。神が人間への愛を示してくださった素晴らしい出来事です。でもそれは一過性のものではないということです。時間が来たら消える電飾のようなひとときの輝きではないということです。

 きらきらしていないいつもの夜の暗い庭にもキリストはおられるのです。クリスマスツリーもケーキもチキンもない、いつもの、私たちの日々にキリストはおられるのです。先日、「クリスマス」という言葉の語源を聞かれました。実は、私は恥ずかしながら即答できませんでした。それは「クリス」がキリストで、「マス」はミサです。つまりクリスマスは「キリストのミサ」です。つまりクリスマスはキリストの礼拝なのです。私たちが礼拝をしている限り、それはいつもクリスマスであるといえます。

 神が「世」を愛されるのもクリスマスの時だけではありません。私たちを愛されるのもクリスマスの時だけではありません。神の愛は、夜も昼も、永遠に照り輝いています。私たちの目には、暗い、なーんだというような生活の中に、すでに神の愛は届いています。そこにキリストがおられます。今、私たちはクリスマスの喜びに満ちています。その喜びは、キリストを礼拝する者に永遠に続きます。その輝きは私たちの内からけっして取り去られることはありません。


ヨハネによる福音書第5章31~40節

2023-12-12 16:19:16 | ヨハネによる福音書

2023年12月10日 大阪東教会主日礼拝説教「ここに命がある」吉浦玲子

<イエスについての証し>

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」こうイエス様は語られます。イエス様はカナにおける婚礼の場で水をぶどう酒に変えられ、直接会うことなく役人の息子を癒され、ベトザダの池で38年間病であった人を癒されました。38年間病であった人を癒されたのが律法で働くことを禁じられている安息日であったこと、そして主イエスが神のことを「わたしの父」と呼ばれたことから、ユダヤの権力者たちは主イエスを殺そうと考えました。安息日の問題は簡単には言えませんが、安息日に病を癒すことを批判することは権力者たちの内に愛がないことを示します。しかしまた一方、神を「わたしの父」などと呼ぶことは神への冒涜と考えて主イエスを憎むということは、理解できないことではありません。

 現代でも自分は再臨のキリストだとか、自分は全能の神だとか自称する人はおかしな人だと思われます。まして主イエスの時代、聖書の神を大事にしてきたユダヤ人にとって、神を「わたしの父」などと呼び、自分の神の子であるなどと自称することは許されざることです。

 そのような流れの中で今日の聖書箇所になります。「自分は何者か」ということを主イエスが語られているのが今日の箇所です。主イエスは、自分で自分を証しをしてもそれは真実ではないとおっしゃいます。たしかにそうでしょう。「私は立派な人間です」と自分で言って、相手が信用するわけがありません。でもいろいろな人が「あの人は素晴らしい」と評価しているならば、ああそうかもしれないと信用するでしょう。そもそも当時、律法においても、二人以上の証言がなければ、裁判でも証拠として採用されませんでした。主イエスはそのことも踏まえておっしゃっているのです。

 ここで主イエスを証言する証言者としてまず洗礼者ヨハネが挙げられています。主イエスに先立ち、救い主が来られることを証ししたヨハネについて、主イエスご自身も自分を証しする者として語っておられます。「ヨハネは燃えて輝くともし火であった」と語られます。ヨハネはたしかに輝いたのです。しかし、人間ですから永遠に輝き続けることはできません。ヨハネは殺されてしまいます。「あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と主イエスはおっしゃいます。しかし、その光は「しらばくの間」しか輝かなかったのです。そして、主イエスは「わたしは、人間による証しは受けない」とおっしゃっています。これはヨハネに対して少し厳しい言葉ではないか感じられるかもしれません。ヨハネは神に選ばれ、たしかに主イエスの道を整えるという大きな役割を果たしたのです。しかし、ここで主イエスがおっしゃるのは、厳然とした人間の限界です。たしかにヨハネは偉大な人物でした。しかしどれほど偉大な人間であっても、人間は人間から永遠に良きものを得ることはできないのです。人間も輝くことがありますがそれは「しばらくの間」です。そんな人間により頼もうとすることがあやまっているのです。主イエスはけっして洗礼者ヨハネを貶めておられるのではなく、むしろ洗礼者ヨハネをしっかり人々が理解できていないことを残念に思っておられるのです。

<主イエスの業による証し>

そもそも人間は人間の理性を超えた出来事や存在を証明することはできません。そして人間の理性で証明できるような範疇でしか神が存在しないのならそれは神ではありません。ですから主イエスは、人間を超えた証しを語られます。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」これは、冒頭に申し上げました婚礼の席でのことや病の癒しの業のことです。こういった奇跡によって主イエスが父なる神のもとから遣わされていることが分かるとおっしゃっています。

 でも、私たちはこれらの奇跡を現実に目の前で見ているわけではありません。信仰のない人や、残念ながら教会にも時々いる自称クリスチャンは聖書に書かれている奇跡を「作り話」「捏造」ととらえています。そしてそれらの奇跡を非科学的と言います。聖書に記されている奇跡を非科学的という人たちは実際目の前で奇跡を見てもトリックだと思うでしょう。

 しかし、私たちはこれらの奇跡を神の業として信じています。それは一つには聖霊の働きのゆえです。聖霊によって主イエスの働きを理解させていただけるからです。同時に、実際、私たちはわたしたちの身の上に神の奇跡を体験しているから聖書に書かれている奇跡も理解することができます。私たちは水がぶどう酒になるような奇跡は体験していないかもしれません。また、自分や家族の病気が奇跡的に癒される経験を必ずしもしていないかもしれません。しかしやはり、私たちは「ああ神に助けていただいた」「神に恵みを受けた」ということをおりおりに体験します。驚くような体験をします。最初は偶然だった、単にラッキーだったと思っていても少しずつ、神の恵みであったこと、神の助けであったことが分かってきます。でも、ひょっとしたら皆さんの中に自分は神の奇跡を経験していないと思っておられる方もおられるかもしれません。でも、そのことをなにかひけめに感じたり、自分の信仰は駄目なのではないかと考えられる必要はまったくありません。それは実際に起こっている奇跡に気づいていないだけですし、私たちが分かっていようが分かっていまいが、神は私たちに恵みを与え、助けてくださるからです。そして本当に必要な時は神御自身がご自分の業であることを示してくださるからです。そして実際のところ、あああれは奇跡だったと私たちが分かっていたとしても、それは、私たちに与えられるおびただしい神の業の一部にすぎないのです。御国に行ったとき、私たちは改めて知らされるのです。あああのことも神の業だったのか、あのときも神が助けてくださっていたのかと

<父による証し>

 「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」 主イエスはご自身の業によって自分が父なる神のもとから遣わされた者であることが証しされると語られると同時に、父ご自身がご自分が父から遣わされた者であることを証ししてくださるともお語りになっています。父なる神が主イエスが神の御子であることを証ししてくださる、それは十字架と復活においてです。父なる神が主イエスを十字架につけられ、そしてまた復活をさせてくださいました。それが主イエスが父なる神のもとから遣わされたことの証だと主イエスはおっしゃるのです。

「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」

この箇所は、主イエスを理解せず、敵対する当時のユダヤ人に語られたことであると同時に、ヨハネによる福音書が編集された時代、迫害に揺れる教会に向けて語られていることでもあります。そしてまた、折々に信仰が揺れ動く私たちにも向けられています。

ここでは少し話が入れ子になっていると言いますか、どちらか先が分からないことになります。主イエスの証をしてくださるのが父なる神であるとおっしゃりながら、あなたたちが父なる神の言葉をとどめていないのは、「父がお遣わしになった者を、信じないから」と語られます。主イエスを証しなさるのが父なる神ですが、その父なる神の言葉がきけていないのは、「遣わされた者」つまり主イエスを信じないからだとおっしゃるのです。主イエスを信じるのが先か、父なる神の証を聞くのが先かよく分からないのです。主イエスを信じるには主イエスがどなたか証しされていなければならず、そのために父なる神の言葉を聞きたいと思っても主イエスを信じていなければ、父なる神の言葉をとどめることができないと読めてしまいます

実際のところ、どちらが先ということはないのです。順序だてて父なる神の言葉をとどめたから主イエスを知ったということではなく、三位一体の神は、父、子、聖霊がそれぞれに私たちに働いてくださり、ある時、聖霊によって、主イエスを信じる者とされ、同時に、父なる神の言葉を心にとどめる者とされるのです。

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 昨日は、教会のガレージで北浜の飲食店さんや雑貨屋さん、古本屋さんなどが小さなマーケットをなさいました。小さなマーケットといっても、出展された10店舗が、それぞれが集客力のある有名店であったこともあり、一番混んでいた時間帯は、朝の地下鉄並みの混雑でした。実は私自身は、十年間、この教会で伝道牧会をしてきていくつかの取り組みもしてきて、イベント的な取り組みについては厳密な考えを持っています。イベントをやって、教会の敷居を低くして皆が教会に入りやすくしたら伝道になるとは思っていません。といいますのは教会は、キリストと出会う場所だからです。キリストと出会う第一は礼拝だからです。礼拝でみ言葉を聞いてキリストと出会うのです。キリストと出会うことなく教会に来ても、救いが得られるわけではないからです。

昨日のイベントは、そういう意味では、直接的なキリスト教の伝道をするイベントではありませんでした。ではなぜそんなイベントをしたのかというと、教会が地域に開かれていることをアピールするためです。教会は礼拝を第一とする共同体であると当時に、この世にあります。この世にありながら、教会はこの世から取り分けられている聖別されている存在です。聖別されているのは第一に神を礼拝する共同体としてです。礼拝以外のところに伝道の本質はありません。しかしまた教会はこの世から切り離された存在ではありません。ですから地域にあって、この世に対して扉を開くのです。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

 主イエスはおっしゃいます。聖書をただ頭の学問として研究をしても、そこに命はないのだと。もちろん聖書の教理の基礎を学ぶこと、神学研究はとても大事なことです。しかし、生けるキリストと出会わなければ、命を得ることはできない、そう主イエスは語っておられます。主イエスに敵対している律法学者たちが救われることがないように、キリストと出会わなければ滅びるのです。

 今、ここにおられる皆さんは、イエス・キリストのもとに来られた方たちです。キリストのもとに来るということは、ためになる話を聞くということではなく、生きる命を得るということです。礼拝に来ることはけっして楽なことではありません。せっかくの日曜日に時間をやりくりしないといけません。足腰に不自由があったり目が見えにくい耳が聞こえにくい、そのようなことと戦いつつ来ることにもなります。

 しかしなお、礼拝に来る者を主イエスはとらえてくださいます。その豊かな命の中に入れてくださいます。週日のさまざまな事柄、思い、試練、そのすべてを受け止めてくださり、一時的な気分転換や癒しではなく、新しく生きる力を与えてくださいます。世俗的なお楽しみとは異なる主にある交わりを与えてくださいます。

 ところで、私自身が、初めて教会に行ったとき、イエス・キリストのもとに行くという意識はありませんでした。教会というキリスト教の集まりの場所に行くと思っていました。何かのセミナーや講演に行くように、キリスト教の話を聞いたり、行事に参加するような意識でした。しかし、最初はそうであったとしても、私も皆さんもキリストに招かれたのです。誰かに連れられて教会に来たという人も、私のように何となく興味本位で教会に行ってみたという者も、最初からキリストが招いてくださっていたのです。最初はなんだかよくわからなくても、私たちはキリストに招かれて礼拝に来て、生けるキリストと出会い、命をいただいています。最初はなんだかよく分からない、そういう人が入って来ることのできるための扉を教会はこの世に対して開けておかねばなりません。それは直接的な伝道や敷居を低くするということとは違います。教会において、まことに礼拝が捧げられ、祈りが捧げられ、御言葉を求める人々が集う時、教会から光が放たれるのです。小さく開かれた扉から、たしかにキリストご自身の光がこぼれていくのです。私たちもかつてその光に導かれたように、キリストの光が放たれます。アドベント、私たちはキリストのもとに来ます。そして御言葉を求め、命をいただきます。そのとき、キリストの光がこの世へとあふれます。その光に触れた人々が礼拝をする者に変えられていきます。私たちがいまキリストの命のもとで礼拝をお捧げしているように。このアドベント、キリストにあって共に喜ぶ者が増し加えられますように。


ヨハネによる福音書第7章25~31節

2023-12-05 14:36:39 | ヨハネによる福音書

2023年12月3日 大阪東教会主日礼拝説教「救い主は誰」吉浦玲子
<メシアを待つ>
 待降節、アドベントが始まりました。このアドベントに私たちは待ち望みます。キリストの到来を待ち望みます。キリストは2000年前に一度、この世界に来られました。それがクリスマスの出来事でした。そのときから世界が変わりました。罪の闇に覆われていた世界が変わったのです。光が地上にやってきたのです。その光は私たち一人一人の心にも注がれました。心だけではありません。現実の日々の生活にも光は射し込んできたのです。
 しかしまだ完全な光ではありません。この世界には戦争があり、罪の闇が満ちています。私たちの日々にも暗澹とした苦難があります。しかしそのまだ残っている闇を打ち払うためにキリストはふたたび来られます。そのキリストの到来を私たちは今、待っています。
 キリストはヘブライ語でいいますと、メシアです。油注がれたものです。旧約聖書の時代、祭司や王や預言者といった特別に神に選ばれた人々に、実際、その頭に油を注ぐ儀式をしたのです。神から特別に選ばれた者が、油注がれた者、メシアでした。やがてそのメシアという言葉は救い主として、人々が待ち望む存在となりました。イスラエルを救い、民を救う救い主、そのようなメシアを人々は待っていたのです。十年、二十年ではありません。何百年も待っていたのです。それほどにイスラエルの人々は虐げられ、苦難にあえいでいたのです。
 旧約聖書の時代から待望されていたメシアは、その数百年ののちの新約聖書の時代にも待たれていました。イエス様がお越しになったのは、そんな世界でした。イスラエルはローマ帝国の植民地となっており、民族の尊厳は奪われていました。貧しい庶民の一人一人までもがローマへの税を払わねばなりませんでした。戦争こそはないもののローマ帝国の圧倒的な力によって制圧されている不公平で不条理な世界でした。それはパックスロマーナ、つまり「ローマによる平和」と言われる平和があった時代でした。しかし、そこには人々が安らげる本当の平和はありませんでした。
 2000年前、地上に来られた主イエスを見た、当時のイスラエルの人々はその力ある言葉に驚き、奇跡の業に驚きました。しかし、その主イエスが一体何者なのか、それははっきりとは分からなかったのです。その主イエスと一番近くにいた弟子たちすら分かっていませんでした。
<主イエスを殺そうとしていた人々>
 主イエスはたしかに力強い言葉を語り、素晴らしい業をなされました。そんな主イエスを人々はもてはやしました。しかし一方で、そんな主イエスを疎ましく思う人々もいました。その主イエスを疎ましく思う人々には、不思議なことに、宗教家と言われる人々も含んでいました。神に仕える祭司や、聖書を教える律法学者たちが主イエスを疎ましく思っていました。疎ましく思っているだけではなく、殺そうとすら考えていたのです。実際、今日の聖書箇所にこのような言葉があります。「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。」」この時、主イエスは秋の祭りである仮庵祭期間中のエルサレムに来られていました。祭司や律法学者といった権力者たちはその祭りのさなか、主イエスをとらえて殺そうと狙っていました。そのことを人々も知っていたのです。しかし、主イエスは権力者から隠れるのではなく、エルサレムの人々の前で語られました。なので、人々は驚いたのです。命を狙われている主イエスが公然と話していたからです。「あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」主イエスが公然と話をされているので、人々は実はすでに議員、つまりエルサレムの議会は主イエスをメシアと認定したのではないかとも考えたのです。
<主イエスの出自>
 しかしまた、このようにも人々は言うのです。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
 神に選ばれた救い主メシアは、まさに天から来られたような神秘的な方であるはずだと人々は考えていたのです。しかし実際のところは、旧約聖書には救い主はベツレヘムでお生まれになると預言されて書かれているのですが、人々の気持ちとしてはどこか特定の地域の出身ではなく、謎めいた出自のメシアであってほしいのです。しかも主イエスのご出身は、ガリラヤのナザレという僻地でした。そんなど田舎の、いかにも冴えないところの出身の人間がメシアだなどとは信じたくないのです。さらにいえば、主イエスはヨセフという大工の息子でもありました。立派な学者について学問をなさったのでもありません。今日の聖書箇所の前のところで「この人は学問をしたわけでもないのに」という人々の言葉があります。当時、聖書は立派な学者について学ぶものでした。でも主イエスはそうではありあませんでした。現代で言うところの難関有名大学を出たエリートでもなかった。人々はそういう経歴にも不満があったと考えらます。
 それに対して主イエスご自身が答えられます。それも大声でお答えになります。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」
 主イエスは自分をお遣わしになった方、つまり父なる神によって、遣わされたのであって、自分勝手に来たのではないとおっしゃっています。つまり神によって派遣されたのだとおっしゃっているのです。
<神であり人間である主イエス>
 現代の私たちは、主イエスが神のもとから来られた方であることは知っています。さらにいえば、クリスチャンでない人々もなんとなく、主イエスは神の子と思っておられるかもしれません。「神の御子は今宵しも、ベツレヘムにうまれたもう」という讃美歌の111番は、クリスマスの時期、世の中でもよく流れる曲です。私もクリスチャンになる前から知っていました。クリスチャンでない頃、神とか神の御子という言葉をあまり深く考えずに歌っていたと思います。そしてなんとなく、主イエスは神の御子、なんとなくありがたいお方で、母マリアに抱かれているイメージを受け取っていたと思います。
 でもクリスチャンである私たちも時に、なんとなくきれいなありがたいイメージで主イエスをとらえてしまうところがあるかもしれません。普段は罪だとか、十字架だと言っていても、このアドベントからクリスマスの時期は、なんとなくロマンチックなページェントのイメージで、ともすれば主イエスをとらえてしまうかもしれません。
 でも実際のところ、主イエスがナザレの田舎の出身でありながら、神の御子であるということはとても大きなことを示しています。私たちはそのことを忘れてはならないのです。ひとつは主イエスは紛れもなく人間としてこの世に来られたということです。あるとき不意に神秘的に現れられたのではなく、田舎の大工として働き生活をしてこられたお方だということです。そして同時に主イエスは神に遣わされたお方でした。たとえば牧師も神に遣わされた者ですが、当然、主イエスとはまったく異なります。主イエスは、「その方のもとから来た者であり」とおっしゃっています。つまりもともと神のもとにおられ、そこから来られたのです。神のもとにおられた神の御子であるということです。そして神の御子であるということは三位一体の子なる神であるということです。つまり神ということです。主イエスは人間であり、また、神であったということです。これは神が50%、人間50%ということではなく、神100%人間100%であるということです。私は理学部の出身ですが、算数のレベルで100+100が200にならないという理屈に合わないことを今、申し上げています。しかし、主イエスという存在は、神100%人間100%のお方なのです。主イエスは、神であるから私たちをお救いになることができるのです。そしてまた人間であるから十字架におかかりになって私たちの身代わりになって罪の罰をお受けになられるのです。
<愛なる方>
それにしても、主イエスを殺そうと思っていた人々は、なぜ主イエスへそのような思いを抱いたのでしょうか?そこにはいくつかの理由が考えられます。脚光を浴びている主イエスへの嫉妬もあったでしょう。それ以上に考えられますことは、そもそも、彼らは神に仕える者であったり、聖書を教える人々でありましたが、実際のところ、神を知らなかったのです。宗教的であるということと、神を知っていることは違うのです。神を知らない者は、形式的には祭司として神に仕えているようでも、学者として聖書を教えているようでも、実際のところは、神を憎むのです。
 これは不思議なことかもしれません。曲がりなりにも神に仕えている人々、聖書に精通している人々、それらの人が、いざ生ける神の子である主イエスにあったとき、神の子であり、子なる神である主イエスを憎んだのです。それは「神は愛なる方」だからです。神は人間を愛し、愛を行う方だからです。愛なる神に出会っても、愛のない者は神が分からないのです。愛を求めていない者には神は分からないです。立派に礼拝を捧げること、聖書をしっかり理解していること、たしかにそのこと自体は悪いことではありません。しかしそこに神を求める気持ちは主イエスを憎む者にはなかったのです。愛を知ろうとする気持ちがなかったのです。愛を行う気持ちもなかったのです。だから神が分からないのです。神を知らないということと、愛を知らないということは相互的な関係にあります。神を知ろうとすれば愛を知ります。愛を知ろうとしなければ神を知ることもできません。そもそも神を求めないのです。
 神を求める者は愛を知ります。そしてその愛は、救い主であるキリストによって私たちに知らされます。十字架におかかりになるキリスト、メシア、救い主によって知らされます。逆に言いますとキリスト抜きの愛はありません。十字架抜きの愛はありません。キリストと結びつかないところに愛はありません。愛は十字架の痛みと結びつきます。痛みのない愛はありません。愛をなにか感情的に喜ばしいこと、仲良しなことだと考えているところに本当の愛はありません。痛みつつ、他者のために仕えることが愛です。メシアであるキリスト、主イエスは私たちに仕えてくださいました。いま、私たちはその生けるキリストと共に礼拝をお捧げしています。礼拝においてキリストを知ります。礼拝においてキリストと繰り返し出会うのです。礼拝は義務だから出席するのではありません。救いの条件ですらありません。愛のなかった私たちがキリストと出会うために、出会い続けるために礼拝を捧げます。そしてまことの愛を知らされています。神を知らされるのです。
そして今日は、これから聖餐にあずかります。聖餐において十字架におかかりになった救い主を知ります。救い主の裂かれた肉と流された血潮を知ります。命を捧げてくださった救い主の愛を知ります。その愛によって私たちもまた本当の愛に生きる者とされます。愛に生きたいと願う私たちに、なお神はその真実のお姿を私たちにお見せくださいます。


ヨハネによる福音書第20章24~29節

2021-04-11 15:00:28 | ヨハネによる福音書

2021年4月11日大阪東教会主日礼拝説教「見よ、主が目の前に 」吉浦玲子  

  

【説教】  

<疑ってはいけないのか>  

 昨日、教会学校教師会を兼ねた青年会をネット会議システムで行いました。ほぼ毎月、ネットで開催をしているのですが、昨日はマルコによる福音書から、マグダラのマリアに復活のイエス様が現れる場面を黙想しました。未信徒の方も含めて青年たちの疑問は「なぜマグダラのマリアに最初に主イエスが現れられたのか?」ということでした。弟子の格付けからしたら一番弟子ともいえるペトロに最初に主イエスが現れられて良いはずです。しかし、なぜマグダラのマリアなのか?その説明はさまざまにされていますが、一つ言えますことは、神のなさることの順序は人間には理解できないということです。人間の側の順番や格付けや忖度と神のなさることの順序は全く関係しないということです。しかし、その順番のいかんに関わらず、早かろうが遅かろうが、神のなさることは人間にとって最適の神の時になされるのです。 

 今日の聖書箇所には、疑い深いトマスとして有名なトマスが出てきます。この人はマグダラのマリアと対照的に、復活の主イエスと「遅れて」出会った人です。彼はどういうわけか、12弟子と言われる弟子たちが主イエスで出会ったとき、一緒にいませんでした。ですから、復活の主イエスと会うことができなかったのです。 

 トマスは他の弟子たちが「主を見た」というのを信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言います。このトマスの言葉にはとても激しいものがあります。ここからトマスは疑い深いトマスと言われ、<トマスのように疑うことなく主イエスの復活を信じましょう。信じる者となりましょう>というような教訓めいた教えが語られたりします。 

 しかし、普通に考えていただきたいのです。復活ということはそんなにさらっと信じられるものでしょうか?さらにいえば、この罪深い自分の罪が、主イエスを信じるだけで赦されるなんて、きわめて虫の良い話を私たちはあっさりと信じられるものでしょうか?人間には理性が与えられています。認識する力が与えられています。見てもいないものを、体験もしていないものを、私たちは鵜呑みにできるでしょうか? 

 むしろ、トマスの態度というのはきわめてまっとうな態度であるともいえるのではないでしょうか?私たちの信仰は、なんでもかんでも思考停止をして受け入れる信仰ではありません。それは洗脳されていることと変わらないのです。 

 私たちはなぜキリストの復活を信じているのでしょうか?それは私たちがトマスのように、復活のキリストと出会ったからです。正確に言えば、キリストの方から出会ってくださったからです。私たちが疑い深かろうが、素直に信じる者であろうが関係ないのです。キリストが出会ってくださるのです。キリストが触れてくださるのです。だから私たちは信じることができるのです。言ってみればキリストによって信じさせていただいたのです。 

<なぜすぐにトマスに現れられなかったのか> 

 トマスはそもそも他の弟子たちが主イエスと会っている時、なぜいなかったのでしょうか?聖書には何も書かれていません。ですから推測するしかできません。彼は恐れていたのかもしれません。主イエスの一味として自分も捕らえられ殺されるかもしれない。だから仲間たちのところへも行かず一人で隠れていたのかもしれません。ただ一つ言えますことは、彼は誠実な人間であったということです。この箇所を語るとき、いつもお話しすることですが、十字架におかかりになる前、主イエスが死を覚悟してエルサレムに近いベタニアに向かわれたことがありました。その町に主イエスと親しいラザロという男性がいて重病だったからです。ベタニアは主イエスの命を狙う権力者たちがいるエルサレムに近く危険でした。しかし、トマスは言ったのです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と。トマスはベタニアは危険だからやめましょう、とか、先生だけで行ってくださいなどと言わず、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです。そして実際、トマスは主イエスと共にベタニアに行ったのです。彼は大きな覚悟と誠実さをもって行動したのです。しかし、主イエスの逮捕の時、結局、トマスは逃げたのです。 

 事故や自然災害などで大事な人を亡くした人が、自分だけが助かったことに苦しむということがあります。なぜあの人は死んだのに自分は生き残ったのか?罪責感のようなものがなかなかぬぐえず多くの人々が苦しまれています。ましてトマスの場合、不可抗力の事故や自然災害ではなく、主イエスを見捨てたのです。そもそもまじめで誠実だったトマスにはそれは大きな苦しみであったと思います。その苦しみは、すべての逃げた弟子たちのものでありましたが、ことに、トマスにおいては強かったのではないかと思います。 

 トマスがわざわざ、主イエスの手の釘跡やわき腹の傷のことを語っているのは、それだけ、生々しく主イエスの十字架の死を彼が受け取っていたということでもあります。主イエスが十字架の上で息を引き取られてから9日間、彼の脳裏には、鞭打たれ、十字架で肉を裂かれ、血を流された主イエスの姿が何度も何度もフラッシュバックしていたのではないでしょうか。キリストを見捨てた自分、情けない自分、罪にまみれた自分、そんな自分を、自分で責めても責めても責めたりない、そんな苦しみの中にあったのではないでしょうか。 

 そのトマスのためにキリストは現れてくださいました。そんな苦しみの中にあったトマスのことをご存知であったはずの主イエスが、なぜむしろ一番先にトマスに現れてくださらなかったのでしょうか?他の弟子たちから一週間遅れて現れられたのでしょうか? 

 主イエスが最初に現れられたのは週の初めの日でした。そして8日のちとは、最初の日曜を入れて8日のち、つまりこの日もまた週の初めの日であったのです。つまり礼拝の場であったのです。主イエスは週の初めの礼拝の時に、礼拝する者たちの真ん中に立ってくださるのです。最初の週の初めの日、トマスはふさぎこんでいたのか、恐れていたのかわかりませんが、主イエスと共なる礼拝に出なかったのです。ですからトマスは主イエスにお会いすることができなかったのです。 

 私たちは、一人ぼっちで主イエスと会うのではないのです。礼拝において出会うのです。礼拝において主イエスと出会うからこそ、日々、また聖霊によって主イエスと出会うことができるのです。礼拝において主イエスとお会いすることがなければ、どれほど聖書を熱心に読んでも、一人で祈っても、私たちに信仰の力は与えられません。いま、ネットを介して礼拝を捧げておられる方々がおられます。リアルタイム配信で時を同じくして礼拝をしておられる方もあれば、録画や録音したもので礼拝を捧げられる方もおられます。しかし、同じ御言葉を聞くとき、私たちは共に主イエスと出会っているのです。いま、大阪のコロナ感染者が急増しています。今週から、礼拝以外の諸集会はふたたび休会といたしました。しかし、生けるキリストと出会う礼拝は、できる限り、この会堂で共にお捧げしていきたいと現時点では、願っています。感染の状況や行政からの指導によっては昨年のようにふたたび礼拝を非公開にせざるを得なくなるかもしれません。しかし、その場合でもできれば、時間を同じくして礼拝を捧げていただきたいのです。時間がずれても、同じ御言葉に聞き、同じ説教を聞いていただきたいのです。そのとき、主にあって教会はひとつとなります。一つの教会の真ん中にキリストが立たれます。 

<私たちの希望> 

 さて、主イエスは弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのち、トマスに向かっておっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」主イエスはトマスの思いをすべてご存知でした。これはけっして批判的に主イエスがトマスにおっしゃっているのではないのです。あなたの思いのたけをすべて私に対して為したらいいとおっしゃっているのです。私はあなたの思いをすべて受け止めるとおっしゃっているのです。 

 そしてまた肉体をもって復活なさった主イエスは、その肉体に触れよとおっしゃっているのです。かつて旧約聖書の時代、神を見ると死ぬと言われていました。神は聖なる存在で罪深い人間には触れることはおろか目にすることさえできない存在でした。しかしいまや、主イエスは、「あなたの指をここへ当てよ」とおっしゃる、触れることのできる神として皆の真ん中に立っておられるのです。 

 トマスはその主イエスに対して「わたしの主、わたしの神よ」と言います。これは、信仰告白です。トマスの、そして私たちの信仰告白の最もシンプルな言葉は、イエス・キリストが私の主であり、わたしの神であるということです。トマスは、主イエスを実際に触れることはありませんでした。主イエスが先に触れてくださったからです。この場面で、主イエスがトマスを抱きしめるとか、手を取るといったことをなさったとは書いてありません。しかしたしかに主イエスはトマスに触れられたのです。主イエスはこの場面では、ただトマスにのみ向いて語られています。この日、主イエスはトマスと出会うために現れてくださったのです。そしてトマスの心の深いところに触れられました。ですからトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白することができたのです。 

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエスはおっしゃいます。この言葉もトマスをとがめておっしゃった言葉ではありません。復活の最初の目撃者たちは、皆、主イエスの肉体を「見て」信じた者たちです。肉眼で主イエスを「見た」人々がいたからこそ、主イエスの復活は確かなものとして語り継がれてきたのです。この「見ないのに信じる人は、幸いである」というのは、主イエスの昇天ののちに主イエスを信じる者となる人々へ向けた言葉です。私たちへ向けられた言葉です。私たちは主イエスを肉眼で見たわけではありません。しかし、信じる者とされました。その私たちが幸いな者だと主イエスはおっしゃてくださっているのです。 

 たしかに、私たちはいま、肉眼で主イエスのお姿を拝見することはできません。しかし、ここにいる皆が、主イエスによって触れていただいたのです。主イエス自らが、私たちに触れてくださったのです。語りかけてくださったのです。今も主イエスは触れてくださっています。それは劇的な神秘体験ではありません。(そういうこともありますが)自分には触れられていないと感じるならば、それはあなたがキリストを見ようとしていないからです。トマスが、自分の苦しみの殻に閉じこもっていたように、また、ユダヤ人を恐れて隠れていたように、自分の思いや、さまざまな日々の厳しい現実や人間にとらわれているからです。しかし、主イエスは私たちの思いのたけをご存知です。その思いをすべて打ち明けなさい、私にもっと近寄って、私にもっと触れなさいとおっしゃっています。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、あなたの苦しみやさまざまな思い煩いにからめとられて復活の主イエスを信じない生き方ではなく、自由になって信じる者となりなさいということです。私たちは現実の中でどうしても信じない者になってしまうのです。そんな私たちに主イエスは信じる者になりなさいとおっしゃるのです。 

 私たちは週の初めの日、礼拝でキリストと出会います。礼拝でキリストと出会った私たちはそののちの日々にもキリストと共に歩みます。振り子のように信じる者と信じない者の間を行ったり来たりしながら、しっかりキリストが私たちに触れてくださっています。だから私たちは日々告白するのです。「わたしの主、わたしの神」と。 

  

 

  


ヨハネによる福音書21章15~25節

2020-05-10 08:39:25 | ヨハネによる福音書

2020年5月10日大阪東教会主日礼拝説教「愛の始まり、旅の始まり」吉浦玲子

【聖書】

ヨハネによる福音書 第21章15〜25節

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

【説教】

<愛に始まる>

 主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問われました。それも三度、問われました。三度目に問われたとき、ペトロは悲しくなったと書いてあります。それはそうでしょう。愛している人から、何度も何度もわたしを愛しているかと問われるということは、自分の愛を信じてもらえていないと普通は感じます。

 この聖書箇所は、ペトロが、主イエスが逮捕された時、主イエスのことを三度も知らないといったことと対応していると解釈されます。つまり、自分を裏切ったペトロに対して、ここで主イエスが三度愛を確認して、赦してくださっている場面であるとも言えるでしょう。しかし、考えてみますと、「お前なんて知らない」「あいつとは何の関係もない」と、かつて自分を否定し、切り捨てられた相手に対して、「自分を愛しているか」と問うただけで赦すということは普通は考えられないことです。表面上、関係を回復させることはあったとしても、以前とまったく同じような関係にはなりにくいのが普通です。しかし、主イエスは「わたしを愛しているか」と問われ、そこから新しく愛の関係を作ろうとされます。

つまり、神は過去を問われないのです。今と未来だけを問われるのです。今、愛しているのかを問われるのです。ペトロの裏切った過去、弱かった過去は、キリストご自身が十字架につけてしまわれました。罪の過去は十字架のゆえに神の前でリセットされたのです。

 過去を問われない代わりに、私たちは別のことをはっきりと問われます。私たちが今日の聖書箇所を読んで、最初に引っかかるのは「ヨハネに子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」という言葉の中にある「この人たち以上に」という言葉ではないかと思います。口語訳では「この人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と訳されています。つまり、他の人が自分を愛している以上に、自分を愛するか、言ってみれば他の人の主イエスへの愛よりあなたの主イエスへの愛が大きいのかという問いととることができます。しかし、別の取り方もできます。あなたは他の誰よりも私を愛するか、つまりヨハネでもトマスでも他の人でもなく、私を一番に愛するかという問いとも取れます。まるで子供が「弟や妹よりもぼくのことが一番好き?」と親に問うように「誰を愛するにも増してわたしを愛するか?」と問うておられるとも取れます。

 いずれにとるにしても、ここで問われているのは、神への愛の絶対性、純粋性、特別性なのです。私たちにとって、神への愛が何よりもまさるものかを神は問うておられます。これは厳しい問いです。家族よりも親友よりも神を愛するかということです。良く神への愛と隣人愛と言います。しかし、先立つのは神への愛なのだと聖書は語るのです。これは厳しすぎると感じる人も多いでしょう。しかし、神を愛せない者は、ほんとうのところは、家族も友人も愛することはできないのです。

<信頼と使命>

 しかしまたその愛の有様は、私たち自身では測りようもないことです。かつてのペトロなら、「はい、私は誰よりもあなたを愛しています」「あなたのためなら死ねます」と答えたでしょう。しかし、ペトロは自分の弱さを痛いほど知りました。ですから、もうそのようには答えられないのです。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるのが精いっぱいでした。ペトロの振り絞るような思いがここにあります。しかしこれは精いっぱいの答えであると同時に、神にゆだねた言い方でもあります。弱い私の心をすべてご存知なのはあなたです。私の愛が満ち満ちていても、乏しかろうとも、その心をあなたにゆだねますというのです。ある方は、愛は説明ができないのだとおっしゃいます。そもそも高価なプレゼントや優しい言葉で自分の愛を説明することはできない、ましてや自分のために命まで捧げてくださった主イエスに対して、何をもっても愛は説明できないのです。ただ「あなたがご存知です」としか答えようがないのです。そして、仮に私たちの愛が乏しくとも、主イエスはその愛を受け取ってくださるのです。ここにペトロの主イエスへの新しい信頼があります。その信頼関係に基づいて、「わたしの羊を飼いなさい」という言葉が主イエスから与えられます。つまり、新しい使命を与えられて歩み出すのです。「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、ペトロへ伝道者として、また教会を導く者としての使命が与えられてたことを示します。しかしまた、専任の伝道者のみならず、キリストを愛し、キリストに従う者は、それぞれにキリストの羊を飼うのです。私たち一人一人にキリストは飼うべき羊をお与えになるのです。愛に始まり、ペトロの、そして私たちの旅は始まります。

 ところで、以前にもお話したことがありますが、私の信仰の先輩で、現在70代の女性で、生まれてから一度も引っ越しをしたことのない人がいます。結婚をして、子供が生まれ、いまは近所に娘さんやお孫たちが住んで行き来をしているけれど、自分自身は一度も実家から出たことがないのです。でもやはり彼女にも人生の旅はありました。親を見送り、長く病と闘っていたご主人の介護をして見送り、信仰の先輩であり親友であった友人も見送りました。生まれたお孫さんに先天的な疾患があり、娘さんと共に悩まれ、娘さんを支えられました。喜びも悲しみも当然ながらさまざまにありました。しかし、キリストと共に歩む時、その歩みの途上においては喜びも悲しみもありながら、その旅は、愛に始まり、愛に終わります。

 愛に始まった旅は、けっしてひとところにとどまりません。物理的にはこの先輩のようにひとところに住んでいたとしても、私たちは信仰の父であるアブラハムのように、そしてまたペトロのように、パウロのように信仰の旅をしていきます。信仰の日々は十年一日(じゅうねんいちじつ)のようなものではありません。

<楽な旅ではない>

 さて、キリストから飼うべき羊を与えられ、私たちは一人一人の旅へと旅立ちます。主イエスの愛によって押し出される旅です。しかし、その旅はけっして楽な旅ではないのです。この世界にある限り、人間には苦難がありますが、ことに信仰者には神の訓練ともいえる試練があります。そしてその歩みは、この世的に見る時、必ずしもハッピーエンドとは思えない場合もあるのです。ここで、ペトロに主イエスは、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる。」とおっしゃいます。ダビデがそうであったように、そしてまた主イエスの母マリアがそうであったように、その人生はけっして彼、彼女たちの望みがかなったものではありませんでした。ここで、特にペトロに主イエスがおっしゃっていることは、ペトロが最後には殉教をすることになるということでした。「両手を伸ばして」という言葉は十字架にはりつけになる、ということを暗示します。そのことを主イエスはご存知でありながら、なお「わたしに従いなさい」とおっしゃいます。

 たいへんな困難な道をペトロが歩むことをご存知で、しかもその最後は殉教することになるというのに、わたしに従いなさいとおっしゃる主イエスは冷たい厳しいお方でしょうか。たしかに、主イエスに従わなければ、ガリラヤで漁師として、貧しくはあっても平穏な一生をペトロは送ったかもしれないのです。

 しかし、のちにペトロが残したと言われる「ペトロの手紙」を読みますと、ペトロ自身が、後年、自らが主イエスに従って歩んだ道のりを後悔していないばかりか、むしろ大いなる喜びをもって語っているのがわかります。かつて主イエスと共に歩んだ弟子たちではなく、生前の主イエスも復活なさった主イエスも直接は知らない弟子たちの前で、ペトロは語ります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 主イエスと寝食を共にしたわけではない、復活のイエス・キリストと出会うという決定的な体験もしていない、そんな人々が、自分と同様に、主イエスを愛し、喜びに満たされている、その事実を見て、年老いたペトロは万感の思いにあふれるのです。投獄されたり、さまざまな困難があった、失敗も幾たびかした、しかし、ペトロは与えられた羊を養い魂の救いへと導きました。

 楽な人生であったとしても、経済的に裕福であっても、社会的な名誉を得ても、魂が滅ぶ人生にはまことの喜びはありません。主イエスはご自分を愛する者の日々が困難に満ちながらも、実を結ぶ人生であることをご存知だったのです。主イエスの羊を飼う、つまり、神から与えられた使命に生きることは自己実現を目指す生き方とは違います。自分の目指すところに行くとは限らない生き方です。しかし、自分の魂が救われ、また周囲の人々の魂も救われる、その信仰の実りを見ることのできる人生を、主イエスを愛する者は生きていくのです。ですから、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」とそれぞれの旅へと押し出していかれたのです。

<振り返らない>

 ペトロは主イエスとの会話のあと、「振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。」とあります。ペトロは振り向いて、後ろから来る弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いました。主イエスは。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。つまり、あなたには、この人のことは関係がない、ただ私に従いなさいとおっしゃったのです。

 前を向いて、今を生きている時、そして未来へと歩むとき、私たちは私たちの使命に生きることができます。しかしまた私たちは振り向いてしまう者でもあります。振り向くとき、私たちは、余計なことを考えるのです。人と比べてしまうのです。あの人、この人と比べてしまいます。それぞれに違う使命を受けて、それぞれに人生の旅をしているのに、比べてしまうのです。

新型コロナ肺炎の予防のため、自粛生活をしているなかで、以前の会社の友人たちと、ビデオ会議システムを使って、オンライン懇親会をすることがあります。パソコン上で皆の顔を見るとそれぞれに元気です。話ははずむのですが、時々、他の人と、私は少し生活が異なっているので、会社や仕事の話とかでは、会話について行けない時もあります。何となく置いてきぼり感を味わうこともあります。でもそれで良いのです。それぞれ違って良いのだと思います。それぞれに違う旅をしているのですから。

ペトロが振り向いた先にいた主イエスが愛された弟子は、やがてヨハネによる福音書を記したと書かれています。伝承ではこの弟子は長生きをしてペトロのような殉教はしなかったとも言われます。この弟子はペトロとはまた違う旅を旅したのです。それぞれに生き方も死に方も違っていました。しかしそれぞれに実を結ぶ人生を送ったのです。

<旅の続きは私たち>

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を納め切れないであろう」と記してヨハネによる福音書は終わります。主イエスはガリラヤで、エルサレムで、イスラエル全土で、またサマリアで、多くのことをなさいました。それらの一つ一つを書いたら、世界もその書物を収めきれない、これは主イエスへの平凡な賛辞ではありません。むしろ私たちへ向けた言葉です。この書物に収めきれない主イエスのなさったことは、私たちになさってくださったことでもあるからです。ヨハネによる福音書はここでいったん終わりますが、主イエスの業はここで終わってはいません。私たちに続いているのです。私たちの日々に主イエスの愛の業は為され続けています。ペトロになさった業が、主イエスを直接は知らないペトロの弟子たちへと続いて言ったように、2000年後に生きる私たちにも続いています。私たち一人一人の旅の物語が続いていくのです。時間と場所を越えて、膨大な物語が続いています。世界も収めきれない旅の物語です。「わたしを愛しているか」その問いに繰り返し答えながら、日々主イエスに従いながら、私たちの愛の旅は続いていきます。