大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書 3章1~21節

2023-12-24 13:40:03 | ヨハネによる福音書

2023年12月24日大阪東教会主日礼拝説教「神は愛」吉浦玲子

<世を愛された>

 「神は、その独り子をおあたえになったほどに、世を愛された」

 このヨハネによる福音書の3章16節は福音書中の福音書と言われる箇所です。イエス・キリストがどなたによってこの世に遣わされ、イエス・キリストがなぜこの世にこられたのか、そのことがこの1節に凝縮されているので、福音書中の福音書と呼ばれるのです。

神は世を愛された、とこの言葉は語ります。ここで語られています「世」とはギリシャ語のコスモスのことです。宇宙を現わす英語のコスモスの語源となった言葉です。福音書で語られています「世」とは宇宙も含みますが、もっと直接的には神がお造りになった世界全体と言えます。

神は聖書の中の最初の書物である創世記に記されていますように、この世界を良いものとしてお造りになりました。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。神がお造りになった世界は極めて良かったのです。

しかし今、この世界を見て、「極めて良い」ということを思う人はおられないのではないかと思います。ガザ地区でもウクライナでも、人々が血を流し、命を落としています。戦争や紛争だけではありません。この地球上には満足に食事をとることの出来ない、飢餓状態の人が8億人以上いると言われます。学校に行けない子供たちが二億人以上いるとも言われます。そういう悲惨はどこか遠い国の、私たちとは関係のない世界の話でしょうか。そのような悲惨は抜本的な世界の不公平、富の分配の格差によって生じています。私たちも無関係ではありません。そもそも、私たちの身近なこの大阪でも貧困に苦しむ人は多くあります。教会にもときおり食べ物を求めて来られる方がいます。そのような平和や衣食住に関わることだけではありません。日々の生活にはとりあえず何不自由ないように見えても、それぞれに人々は重荷や不安を抱えて生きている世界です。

神が「極めてよく」造られたはずの世界が、なぜ、このように悲惨に満ちているのでしょうか。それはひとえに人間が神から離れてしまったからです。神とは関係なく、人間が自分の正義、自分自身の知恵や考えによって生きて来たからです。そこから争いが起こり、不公平が起こり、虐げられる人が起こりました。一方で権力や大きな富を持ちながら喜びはなく孤独と不安の中にある人もあります。そのような悲惨が人間の歴史を貫いてきました。

神が極めて良く造られた世界が人間の悪と傲慢のために壊されてきました。その壊れた「世」にあって、人間自身も苦しみ傷んできました。しかし、その壊れた「世」を神は愛されました。創造の時の、極めて良かった「世」とは異なる、争いと流血と憎しみにまみれ、人々の絶望で満ちた、そしてまた欲望に満ちた「世」を神は愛されました。

神が愛されるのは、愛する対象が極めて良いからではありません。神は愛なるお方だからです。神は愛なるお方なので、この「世」が極めて良くても、極めて悪くても、愛されるのです。愛するにふさわしいから愛されるのではありません。

<神から離れていること>

そして、今現在のこの「世」に生きる私たち一人一人をも神は愛されています。私たちが愛されるにふさわしいからではありません。私たちはこの壊れた世界にあって、私たち自身も罪にまみれて生きています。神に造られた者でありながら神から離れ、自分が神であるかのように生きています。でも、多くの人々は、自分が神であるかのように生きているつもりはないと思います。実際、精一杯善良に歩んでおられるでしょう。周りの人に気づかい、困った人にはできる限り手を差し伸べ、なにより、日々、仕事でも家のことでも、一生懸命やって生きておられるでしょう。しかし、そうであっても、神を顧みない者は、罪人なのです。精一杯大人として自分の責任で頑張って生きている、でもそこに神の導きを求めることがなければ、それは自己中心的な生き方なのです。神ではなく自分が中心の生き方になります。それが自分を神とした生き方です。それはやはり罪なのです。

私も教会に来るまではそのように生きてきました。それなりにまじめに働き、子供を育て、精一杯生活をしてきました。先日、昔の職場の人たちと会う機会がありました。10人ほどのメンバーで、中には、退職以来お会いしていなかった人も半分くらいおられました。メンバーにクリスチャンはおられませんでした。でも皆さん、和やかに良い感じでおられました。そんなかつての同僚や、教会に来る前の自分に対して、「あなたたちは罪人ですよ」なんてことを言っても、なかなか理解できないと思います。一生懸命生きてる者たちになんてことを言うんだと思われると思います。でも、神を知らないということ、神から離れているということ、それは罪なのです。その罪によって、私たちの日々も、この「世」も壊れていくのです。たとえば、私たちが善意で良かれと思ってやったことが、人を傷つけたり、関係を壊すこともあります。精一杯の善意だと思っていても、そこに自己中心の罪があるからです。そうやって小さなひびが生活に入っていきます。その小さなひびが、世界中にあり、やがて大きなひび割れ、断絶、争いを産んでいくのです。

<ふたたび良い「世」へ>

 このクリスマス礼拝で、なんで、そんな暗い話をするのかと思われる方もおられるかもしれません。でもその話をしなければ、なぜキリストが来られたのかが分からないからです。牧歌的にベツレヘムの空に星が輝き天使が歌い、神の御子がお越しになったというのはクリスマスの表面的なことに過ぎません。

 2000年前、イエス・キリストがお生まれになったベツレヘムも暗かったのです。差別があり、重労働があり、権力者は腐敗していました。貧しい者はあえぐような生活をしていました。そこにイエス・キリストは来られました。それが最初のクリスマスでした。

 2000年前のベツレヘムも暗かったのです。壊れていたのです。しかし、神はそんな「世」を愛されご自身の御子を遣わされました。「世」が暗く、壊れていたからです。この世界の闇と壊れ、醜さと苦しみをすべて担うために御子は来られました。その「世」をふたたび光で満たし、平和にし、愛にあふれた、「極めて良い世」にするためでした。

 この「世」をふたたび「極めて良く」するために御子は来られ、闇と壊れ、醜さと苦しみを十字架において担ってくださいました。クリスマスで来られたキリストは、その約30年後、十字架で死なれます。そして肉体をもって復活をなさいました。そのことによってこの世は救われました。神は、御子の命を差し出すほどに「世」を愛され、実際、御子の命と引き換えに「世」は救われました。

 「世」に生きるわたしたちもそうでした。御子の命と引き換えにせねば救われない罪の重荷を抱えていたのです。その重荷は人生のすべての苦しみの根源でした。その私たち一人一人の重荷を取り去ってくださるために、独り子である御子はこの「世」に来られました。悪の「世」に来られました。ご自身がすべての人間の罪を担われるためでした。

<いつも明るい「世」へ>

 キリストを信じる者は、すでに救われています。キリストの十字架と復活を信じる者はすでに罪の重荷から放たれています。依然として、この「世」は暗いかもしれません。でも今、私たちはキリストの十字架と復活を信じる者とされ、それぞれに光の子とされています。私たちは依然として、罪を犯し、過ちを犯し、人を傷つけ、自分も傷つく者です。でも、私たちはキリストの十字架と復活のゆえに、悔い改めることができます。新しく生き直すことができます。何度でも、新しく生きることができるのです。若くても年を取っていても。

 今、教会では夜、電飾が設置されています。近隣の方から毎年楽しみにしていますとお声をかけられるようにきれいです。もちろん、都会の街のイルミネーションのように華やかではありませんが、近隣の人、通りかかる人に喜んでいただいています。その電飾は、タイマー式になっていて、一定時間を経過すると自動的に消えます。先日、どうしても取りに行かないといけない者があって、夜11時を回ってから、牧師館から別館に向かったことがあります。すると電飾が消えていました。もう消灯の時間を過ぎていたからです。そこにあったのは、いつもの夜の暗い庭でした。アドベント以降、教会の庭はいつもキラキラしているという意識があったので、きらきら輝く光がない庭に一瞬驚きました。

 私はその教会の庭を見ながら、なんとなくはっとしました。クリスマスというと私たちはなにかキラキラした美しいことを思います。もちろん、クリスマスは美しいことです。神が人間への愛を示してくださった素晴らしい出来事です。でもそれは一過性のものではないということです。時間が来たら消える電飾のようなひとときの輝きではないということです。

 きらきらしていないいつもの夜の暗い庭にもキリストはおられるのです。クリスマスツリーもケーキもチキンもない、いつもの、私たちの日々にキリストはおられるのです。先日、「クリスマス」という言葉の語源を聞かれました。実は、私は恥ずかしながら即答できませんでした。それは「クリス」がキリストで、「マス」はミサです。つまりクリスマスは「キリストのミサ」です。つまりクリスマスはキリストの礼拝なのです。私たちが礼拝をしている限り、それはいつもクリスマスであるといえます。

 神が「世」を愛されるのもクリスマスの時だけではありません。私たちを愛されるのもクリスマスの時だけではありません。神の愛は、夜も昼も、永遠に照り輝いています。私たちの目には、暗い、なーんだというような生活の中に、すでに神の愛は届いています。そこにキリストがおられます。今、私たちはクリスマスの喜びに満ちています。その喜びは、キリストを礼拝する者に永遠に続きます。その輝きは私たちの内からけっして取り去られることはありません。



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