2024年1月7日 大阪東教会主日礼拝説教「ゆだねられている務め」吉浦玲子
<主イエスを見たではないか>
パウロという人は一般的には「使徒」と呼ばれます。「使徒」という言葉にはさまざまな定義が考えられますが、おおまかには、初代教会において中心的な働きをした伝道者を指します。一つの定義としては主イエスが十字架におかかりになる前に、直接お選びになったペトロやヤコブやヨハネといった12弟子を指していました。パウロは主イエスが十字架におかかりなる前に主イエスの弟子になったわけではありませんでした。それどころか、主イエスの復活ののち、教会が立ち上がり、教会が伝道をしていく時、むしろパウロはファリサイ派として教会やクリスチャンを迫害しました。そのパウロが劇的な回心をして福音の伝道者となり、また自分自身のことを「使徒」と呼ぶようになりました。実際、パウロの働きはとても大きかったのです。他の使徒と呼ばれる弟子たちよりも、その伝道のスケールの大きさ、神学的な基礎を整理して手紙として残した功績などにおいて、抜きんでたものがありました。それゆえパウロは、主イエスの最初の弟子の中の一人ではありませんでしたが、多くの人が彼が「使徒」と呼び、また自分でも自分のことを「使徒」と呼んだのです。しかし、このことを認めない人々が教会の中にはあったのです。それはやはり、パウロが他の使徒たちと違い十字架におかかりになる前の主イエスから選ばれていないことによります。そしてまたキリスト教の迫害者であったという前歴にもよります。
パウロを使徒と認めない人々に対してパウロはいら立ちを隠しません。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。」と語っています。「わたしは自由な者ではないか」「使徒ではないか」という言葉は原語では、「わたしは自由ではないというのか」「わたしは使徒でないというのか」という否定形で強く言われています。これは単純にパウロが、自分が使徒であることを否定され侮辱されて怒っているのではないのです。パウロを使徒ではないと言っている人々が、ほかでもない、パウロ自身が開拓し、建てた教会の信徒が言っていることに大きな問題を感じてパウロは言っているのです。「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。」というのはまさに自分自身の伝道の成果として神によって賜った人々に対してパウロは言っているのです。「わたしたちの主イエスを見たではないか」という言葉も切実なものです。
そもそも伝道者であれ、教会の奉仕のリーダーであれ、なにをもってその役職にふさわしいと判断するのかということを考えてみなければなりません。今日でいうところの牧師や伝道師や長老などに対しても同様です。高名な牧師の一族出身だからとか、留学経験や委員会の役職をしているから素晴らしいのか、長老も社会的地位が高い人だから、あるいは代々長老を輩出している家の人だから立派な長老なのか。もしそのような外的なあるいは付帯的な出自やスキルをもって、教会の役職にふさわしいと考える人が多くいるのであれば、その教会は早晩、衰退し、滅ぶしかありません。実際、長老教会においてもそういう実例は多くあるのです。
パウロの問いは、あなたは何をもって信仰を得たのか?という問いです。立派な役職についている牧師に勧められたから信仰を持ったのか?社会的地位の高い長老のいうことだから信用して信仰を持ったのか?あなたの信仰が本当の信仰であればそういうことではないでしょう。パウロは「わたしたちの主イエスを見たではないか」と語っています。
伝道者であれ長老であれ、主イエスへの導きをなし、求道者や信徒が主イエスと出会い、主イエスの言葉を聞くことができるように、教会を整え、奉仕し、務めます。もちろん人々を信仰へと導かれ養われるのは神御自身ですが、その道を整えるのが教会と教会の薬務を担う者の務めです。その務めゆえに、人々はキリストと出会い、信仰を得るのです。それを「主イエスを見た」とパウロは語っています。あなたがたはたしかに使徒である私の働きにより、主イエスを知り、主イエスと出会い、主イエスを見たではないか。あなたが主イエスを見たということ、そのこと自体が私が「使徒」として働きをしたことの証ではないか。それ以上の使徒としての働きがあろうか?そうパウロは語ります。
<伝道者と報酬>
パウロを使徒ではないという人々は、パウロは使徒だと自称して、教会から金を巻き上げようとしているとすら言っていたようです。パウロはお金が目的なのだというのです。ですから、3節以降には、伝道者と報酬ということについて書かれています。このあたりのことは、教会から報酬を得ている立場としては少々語りにくいところです。今日の聖書箇所を読みますと、基本的にはパウロは伝道者は相応な報酬を得るべきであることを主張しています。パウロは言います。「わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。」と。本来は、伝道者は生活の資を得るための仕事をすることなく伝道牧会に専念するべきではないかとパウロは語っているのです。「そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。」と粘り強く語ります。「脱穀する牛に口籠をはめてはならない」という律法の言葉も用いて語っています。
こう縷々語りながら、今日の聖書箇所の最後のところでは、パウロは結局のところ、教会から報酬を得ることを放棄しているのです。あれ?結局、パウロは報酬はいらないのかと思ってしまいます。実際、パウロはテント張りの仕事をしていたと言われます。その伝道生活において、伝道に専念している時期もあったようですが、別に働いて自給していることの方が多かったようです。そのパウロの姿勢から、ある教派では、専任の牧師や伝道者を置かず、それぞれ別に働き生計を立てて自給的に伝道していくことが正しいと考えています。それはかなり特殊な教派になりますが、そもそも、日本の伝道が始まった明治の時代から、日本の教会はほとんどのところが小さく貧しかったのです。実際、戦前から戦後、多くの牧師方はほんとうに貧しい中、伝道をされていました。昔、まだ自分が信徒であったとき、ある牧師家庭の晩ごはんに同席させていただいたのですが、牧師夫婦とお子さんの食事はコロッケ一個とみそ汁とお漬物でした。そういうあり方を清貧とし、牧師のあり方の見本とする空気は今もあります。牧師は貧しくあるべきという考えは根強くあります。
<自由と自由の放棄>
しかしパウロは、伝道者は自活すべきだから、あるいは、清貧であるべき貧しくあるべきだから報酬を受け取っていなかったわけではありません。今日の聖書箇所の前、8章では偶像に備えられた肉の話がありました。偶像に備えられた肉は汚れているから食べたくないという人々が教会にいたのですが、そもそも偶像には何の力もありませんからそこに備えられていた肉が汚されるなんてことはないのです。ですから偶像に備えられた肉を食べても問題はないのです。でもやはり食べたくない、抵抗があるという人々がいたのです。それを神学的な理解の弱い人々だと馬鹿にする人もいたのです。でもパウロは、その食べたくないという人々はたしかに神学的な理解は浅いかもしれないけれど、その人々が肉を食べる食べないという事柄で、結局、信仰生活が辛くなって離れてしまうことになるくらいなら、自分は肉を敢えて食べないと語っていました。
今日の聖書箇所の冒頭で「わたしは自由な者ではないか」とパウロは語っています。それはパウロだけでなくキリスト者には自由があるということです。イエス・キリストの十字架と復活によって、罪赦され、解放されたのがキリスト者です。古い律法から解放され、罪の奴隷から解放され、自由にされているのです。肉を食べる自由があるし、伝道をしてその報酬を得る自由、権利があるのです。その自由や権利は尊重されるべきものです。他の誰かから奪われてはならないものです。しかし一方で、キリスト者がその愛ゆえに、その自由を放棄する自由もあるのです。パウロは肉を食べて良かったし、報酬を得て良かったのです。それはパウロの自由であり権利でした。しかし、パウロはパウロの愛ゆえに、さらにいえば、伝道や牧会のためにその自由や当然の権利を放棄したのです。しかしそれはパウロ自身が抱えていた伝道上の課題や、教会の特性からの決断でした。コリントの教会には、パウロを批判する人々がいる、パウロは金をもうけようとして福音を語っているのだという人々がいる、そのコリントの教会の中には、まだしっかり信仰の確立していない人々がいて、そういう批判を聞いて、心揺れる人々もいたでしょう。ほんとうにあのパウロという人のいうことを信じてもいいのかと迷いだす人もいるでしょう。その結果、教会や信仰から離れていく人々がいるくらいなら、自分は報酬を得るという当然の自由と権利を放棄するとパウロは語っているのです。コリントの教会のなかで自分の報酬のことによって信仰につまずく人が出ないように、という愛の配慮だったのです。パウロが伝道をしていく中での、特別な背景による、パウロの愛の決断だったのです。
<ゆだねられている務め>
一方、伝道者が報酬を得るのは当然のことではあるけれど、そもそも伝道や教会の働きの本質は何かということをパウロは語ります。17節に「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。」とあります。専任の伝道者に限らず、教会の働きはすべて「自分からそうしている」わけではないのだとパウロは語ります。「強いられてする」ことなのだと言うのです。強いられる、というのは神に強いられているということです。
昨年の夏、神学生が実習に来られました。あの神学生さんは、自分から牧師になろう、神学生になろうと決めて、そうされたわけではありませんでした。職業選択として牧師を選択され、そのためのスキル習得のために神学校に入り、インターンシップとして大阪東教会に来られたわけではありませんでした。神に強いられたから牧師になることを志ざされたのです。そのためのプロセスとして実習に来られたのでした。神に強いられたということは神に召されたといえることです。神に召されたということは、就職をするとか、結婚をするとか、出産をするとか、スキルアップのために資格を取るといったこととはまったく違う次元のことなのです。パウロは「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう」と語っています。自分が選び、自分がやっていることであれば、当然、そのスキルなり、実績への対価を得ます。しかし、神に強いられ、神に召されたことはまったく違うことなのだとパウロは言います。ですから、伝道者の報酬というのは、報酬とはいっても、一般的な給料や手当、謝礼とは、まったく性質の異なるものなのです。伝道への対価とか、福音を語るスキルへ対しての報酬ではなく、あくまでも、伝道の働きへの感謝とその働きを健やかに十全に行うための生活基盤を支えるものなのです。
そもそも、神に強いられたこと、神に召されたことは、神にゆだねられている務めなのです。神にゆだねられた務めは専任の伝道者に限りません。長老や執事といった務めも本人が望んですることではありません。選挙で選ばれる以前に、神に召されたからその務めをなすのです。たいへんな職務を強いられているといえます。長老だけでなく奏楽や教会学校教師といった奉仕者もそうです。さらに教会の働きは皆、神に強いられ、神に召されて務めるものです。昨年末、皆で会堂の清掃をしましたが、あのような奉仕もまた神にゆだねられているのです。
クリスチャンでない人から見たら、神にゆだねられた務めというのは理解できないでしょう。時間や労力を使って、経済的には割に合わない働きをしているようにしか見えないでしょう。実際のところ、神にゆだねられた務めはけっして楽なものではありません。しかしパウロは「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」と冒頭で語っていました。私たちにも成果が与えられるのです。新しい信仰者と、教会全体の信仰の成長という成果が与えられます。それは教会の規模拡大や組織の強化ということではありません。信仰者、つまり救われた者が起こる時、天には大きな喜びがあります。天が揺り動かされるほどの喜びがあります。その喜びに私たちはあずかります。それが私たちの成果です。そしてまた私たち一人一人がキリストを深く知り、その恵みを知る時、そこにも大きな感謝と喜びがあります。そのためにゆだねられた者は教会を整えていきます。そして神に強いられるゆだねられる務めは大きな喜びという成果を与えられるのです。この世の喜び、楽しみを越えた、大きな喜びです。自己実現や承認欲求が満たされる喜びではありません。神がくださるまことの喜びです。その喜びに向かって、今年も私たちはそれぞれに神にゆだねられた務めをなしてきます。
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