大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 11章11~24節

2017-10-30 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月29日 大阪東教会主日礼拝説教 「万人をすくわれる神」 吉浦玲子

<接ぎ木された私たち>

 今日の聖書箇所でパウロは異邦人のキリスト者に対して、思いきった言葉を語っています。あなたたちは、もともと聖なる根をもっていなかった野生のオリーブである、その野生のオリーブであるあなたがたは、聖なる根を持ったオリーブが折り取られた後に、接ぎ木をされたのだと言っています。折り取られたオリーブの枝ははイスラエルであり、接ぎ木されたのは異邦人のキリスト者です。

 これはパウロの時代の異邦人のキリスト者に言われたことですが、現代に生きるイスラエル人ではない私たちもまた異邦人キリスト者であり、接ぎ木をされた者だということになります。もともと聖なる根を持っていなかったにもかかわらず、神のくすしきご計画の内に、恵みのゆえに、自分とはもともとは関係のない根っこにつながれて、豊かな滋養をいただいている存在だということです。

 折り取られた枝というイメージは悲惨です。この枝はしばらくは青々としているかもしれません。しかし、栄養を吸い上げることができず、やがて枯れてしまうのです。滅んでいくのです。一方で、パウロの時代の異邦人キリスト者と同様、私たちが接ぎ木された枝であるということも驚くべき言葉です。私たちはイスラエルと基本的には何の関係もなく育ってきました。子供のころから教会に来ておられた方なら、まだ聖書にしるされたイスラエルについての知識はお持ちだったかもしれません。そして自分は神に選ばれていた民イスラエルとは異なる異邦人であるというイメージを持っておられたかもしれません。しかし、そうでなければ、イスラエルのことは、教会に来るまでは、テレビに出てくる遠い国であったのではないでしょうか?紛争地域の国際ニュースの話題としては聞いていても、私たちの生活とは直接は関係のない、私たちの人生と直接はまじわりのほぼない世界だと思って来た人が多いのではないでしょうか。私もそうでした。ですから、イスラエルの根に私たちが接ぎ木されていると言われても面喰います。しかし、それは聖書の歴史から見た真実なのです。私たちはアブラハムの昔からの旧約聖書の世界と遠く遠く隔たったところに根を持っていました。しかしいまや、その3000年以上も前からの聖書の歴史に私たちはつながっているのです。砂漠地帯をテント生活で旅をしていた族長たちの世界や、ダビデの王国、そしてバビロン捕囚やその後のローマに支配されたイスラエル、その数千年に渡る歴史に私たちは今つながっているのです。「いやいや私たちはこの日本という国に生きているキリスト者であり、イスラエルと関係はありません」といっても、その信仰の根はイスラエルにあるということです。主イエスが旧約聖書の成就としてイスラエル人としてイスラエルに生まれられた、そのことと私たちの信仰は切っても切り離せないとことなのです。そしてそれは歴史的事実であると同時に、そこにこそ私たちは神の慈しみを見るのです。

<思いあがってはなりません>

 その私たちにパウロは言います。「思い上がってはなりません。」厳しい言葉です。たしかにイスラエルは折り取られました。ずっと神の救いを待っていたはずのイスラエルが、主イエスが来られていよいよ救いが実現したそのときに、主イエスを拒み不信仰のゆえに折り取られたのです。その一方で、主イエスを信じた異邦人キリスト者は信仰によって立たされました。豊かに根から養分をいただいています。青々と茂っているのです。だからといってかたわらの折り取られて枯れようとしている枝をみて、自分たちの信仰を誇ってはならないとパウロは戒めているのです。まず第一に私たちには誇るべき理由は何もないからです。これはローマの信徒への手紙を通じて、ずっと語られてきていることでした。私たちは、ただ神の憐れみと恵みのゆえに救われました。接ぎ木をされました。私たちは自分で養分を吸い上げ成長してきたのではないのです。もともとは自分のものではなかった根から養分を得ています。そしてその養分は神が与えてくださるものです。私たちが立派だから与えられたものではありませんでした。

 「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」という言葉は、あなたも折り取られるかもしれないのだから恐れなさいということではありません。たしかに「自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。」という言葉は怖い言葉です。私たちもまた折り取られて枯れてしまうことがまったくあり得ないことではないということです。思いあがるというのは、自分を誇るということであり、他者を見下すということです。

 私たちはどうしてもついつい人と自分を比べるのです。キリスト者になってもそうです。あの人はクリスチャンのくせにあんなことをして、と心の中で思います。裁くつもりはなくても、見下すつもりはなくても、ついちらっと思ってしまう。いや、ちらっと心の中で思うだけではなく、現実に、2000年に渡って、教会の中ではたえず対立や分裂がありました。健全な議論や、愛のある諭しや自らの痛みを覚悟の上での戒めではなく、結局のところは、自分より相手が下だと思うことが根源にあって、対立や分裂にいたってしまうことが多かったのです。各個教会の中でもそうですし、キリスト教の世界全体でもそうです。

<新しい枝を求められる神>

 少し話がずれますが、教会の2000年の歴史の中で大きな分裂が何回かありました。最初のものは東西分裂です。現在、ギリシャ正教会、ロシア正教会等と呼ばれている東方教会と、現在のローマカトリック教会やプロテスタントなどの西方教会が分裂したのが11世紀です。実際には5世紀ごろから東西教会の交わりは少なくなって行っていたようです。そして、16世紀には西方教会がローマカトリックとプロテスタントに分裂をしました。今日は宗教改革記念礼拝ですが、このような大きな分裂は単純な意味で当事者が思い上がっていたから起きたということではないでしょう。16世紀の宗教改革についていえば、ルター自身、当初はローマカトリックから離れるつもりではなかったと言われています。あくまでもローマカトリックの中で神学的な議論がしたかったようです。しかし、当時のローマカトリックから受け入れらなかったという背景がありました。今日は宗教改革そのものについて語る時間はありませんが、しかし、ここにも神のくすしきご計画があったのだと私は思います。宗教改革によってヨーロッパの多くの地域がプロテスタントになったとき、カトリックの側も内部改革をしたのです。そして同時に、世界伝道を開始したのです。かつてパウロがパレスチナ地域からヨーロッパへキリスト教を伝えたように、宗教改革を機に、ローマカトリックは世界に伝道を開始したのです。この時期に、伝道者の一人フランシスコ・ザビエルが日本にやってきたことはみなさんも良くご存じでしょう。

 神は人間の側の思い上がりや分裂を越えて、それらをも利用して、たえず新しい枝を聖なる根に接ぎ木されることを願っておられ、実際にそうして来られました。神は万人の救いを望んでおられるのです。そのご計画は人間を越えたものです。

<慈しみにとどまる>

 ところで思い上っているとき私たちは神への恐れを失っています。私たちの根っこが私たちのものではないこと、養分を自分の力で得てはいないことを忘れています。神への恐れは、私たちが恐れてびくびくと生きるためのものではありません。逆に健全にいきいきと成長していくために必要なことなのです。神は私たちに養分を与えてくださり成長をさせてくださいます。そのことに固く立つ時私たちの心にはおのずと神への恐れも起こるのです。びくびくとするのではなく、むしろ神が私たちを慈しんでくださることを深く感謝する時、私たちはまことに神を恐れるのです。そして私たちはその神の慈しみにとどまるのです。私たちはどこか遠くへ行くのではありません。ただ、今、注がれている神の慈しみの内にとどまって生きるのです。

 ところで、<慈しみ深き>という有名な讃美歌があります。1954年の讃美歌集では312番として掲載されています。「いつくしみ深き 友なるイエスは 罪とが憂いを取り去りたもう 心の嘆きを 包まず述べて などかはおろさぬ 負える重荷を」多くの人が親しみ、多くの人が慰められてきた讃美歌です。この讃美歌の作詞者のジョセフ・スクライヴェンという方の逸話は有名で、ご存知の方もおられるかもしれません。この方は19世紀の方で、若き日に婚約者を結婚式の当日、事故で亡くされました。たいへんな悲劇を体験された方です。その後、ようやく新たに将来を誓い合う女性と婚約しますが、この女性も結婚する前に結核で亡くなってしまいます。通常ならそこで、日本的にいえば、「神も仏もあるものか」と憤り悲嘆にくれるところですが、このスクライヴァンという方は、その後、教会の牧師になられ、生涯、神の恵みを伝える働きをなさったそうなのです。そのスクライヴァンの心の内は分からないのですが、このような讃美歌を残されたことを思うと、本当に心から神の慈しみ、恵みを感じて、生涯をその伝道に捧げられたのだろうと思います。誰よりも深い悲しみや失意、残酷な運命を経験されたからこそ、なおその悲しみや失意を越える神の慈しみを感じられた方なのだと思います。この讃美歌「慈しみ深き」はもともとはスクライヴァンのお母様が病床にあった時、お母様を慰めるために送られた手紙に添えられていた詩であったそうです。その詩が讃美歌となり、日本にも伝わり、広く愛唱されるようになったのです。

 と、ここまで語ってきて、少し肩すかしなことを申し上げますと、スクライヴァンが書いた英語の歌詞には実は「慈しみ」という言葉は直接には出てこないようです。いくつかの英語の歌詞があって厳密には全部を確認できていないのですが、現在、良く歌われている英語の歌詞には「慈しみ」という言葉は直接出てこないのです。英語の題は「What a Friend we have in Jesusイエスよ何と言う我が友よ」であり、その歌詞は<私たちのすべての罪と悲しみを祈りの内に神に差し出す素晴らしさ>を描いています。これを聞くと、なんだ原曲は慈しみ深きではないんだとがっかりされるかもしれません。しかし、神の慈しみとは何でしょう?英語ではkindnessとかgoodnessと訳されることが多い言葉です。神の親切さ、優しさ、素晴らしさ、そんな言葉です。二度にわたる婚約者との死別、母の病、そのようななかでも、スクライヴァンは神の素晴らしさを知っていたのです。いえ、そのような困難の中であったからこそ、スクライヴァンには主イエスが親しく語りかけてくださる声が聞こえたのです。友である主イエスの語りかけの内にこそ、神の慈しみを感じたのです。それはただ優しいだけではなない、親切なだけではない、自分の罪のためにすべてを捧げてくださった御子イエスを通して現わされる神の慈しみでした。

<苦難の中でこそ知る神の慈しみ>

 昔、ホスピスでチャプレンとして働いておられる方のお話を聞いたことがあります。その方はホスピスにおられるもう余命いくばくもない方に神様のことを語ることがあるそうです。あるときその方は、ある患者さんに「神様は私たちを慈しんでくださっています。それはお母さんが自分の赤ん坊をかわいいかわいいと思って、赤ん坊の顔に自分の顔をくっつけたり、ほっぺたをなでたり触ったりするようになさるようなものなのです。」と語られたそうです。すると聞いた患者さんは、「ほんとにその通りですね。いま、私は神様がそばにおられて、ほんとうにわたしを撫でさすってくださっていることがわかりますよ。」と答えられたそうです。その患者さんは、自分が遠からず肉体の死を迎えるというときに、運命を呪うわけではなく、むしろ神の慈しみを深く感じておられたのです。その患者さんはその翌日、穏やかに神のみもとに旅立たれたそうです。

 私たちは普段、神様が私たちに頬ずりしたり撫でてくださるなどという感覚は持ちません。しかし、本当に困難の中におかれた時、とてつもない孤独の中にある時、神がそばにおられることを実感するのです。日本語の「慈しみ深き」の三節の歌詞は「いつくしみ深き 友なるイエスは かわらぬ愛もて 導きたもう 世の友われらを 棄て去るときも 祈りに応えて いたわりたもう」となっています。人々が私たちを棄て去って孤立したとしても労わってくださる方がいる、英語の歌詞とは少し違うとはいえ、スクライヴァン自身も困難の中で、イエス様が友としてそばにいてくださったことを実感していたのでしょう。

 弟子に捨てられ、人々に捨てられても、唾を吐きかけられ、ののしられてもなお一人、私たちの罪の贖いのために十字架にかかってくださったキリストであるがゆえに、まことの孤独の中に生きられたキリストであるがゆえに、私たちの困難や孤独を誰よりもわかってくだいます。ですから私たちがどのような困難にあっても苦しみの中にあっても、そして日々罪を犯している者であるにもかかわらず、なお友として親しく私たちと一緒にいてくださる、そのキリストを与えてくださった、そこに神の慈しみのすべてがあります。


ローマの信徒への手紙 11章1~10節

2017-10-23 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月22日 主日礼拝説教 「恵みによる選び」 吉浦玲子

<残りの者>

 今日お読みいただいた新約聖書箇所の標題は「イスラエルの残りの者」となっています。「残りの者」という言葉はローマ書9章27節でもイザヤ書からの引用として語られています。本来、神から選ばれていた特別な民が神から退けられ、もともとは選ばれていなかった残りの者が選ばれるということです。それはこのローマの信徒への手紙でいえば、異邦人であり、またイスラエルの中の少数者であるということです。

 ローマの信徒への手紙の10章でパウロは救いがイスラエルを越えて、広がって行ったことを語りました。「わたしはわたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と10章20節で語られているように、何百年も神を求めてきた民ではなく、異邦人に神はその救いを与えられたのです。それを受けて、11章では、「ではイスラエルは完全に神から見捨てられたのか?」という問いから話をはじめています。「では、尋ねよう。神はご自分の民を退けられたのであろうか。けっしてそうではない。」確かに救いはイスラエルの外に広がったけれども、神はイスラエルをお見捨てになったわけではないと語ります。それに続けて、自分自身がイスラエルの人間であることをパウロは語ります。つまり自分自身がイスラエルを神が見捨てておられないことの証しとしてパウロは上げているのです。

 さらに、イスラエルが見捨てられていないことの例として預言者エリアのことを上げて説明しています。エリヤは異教のバアルの預言者450人と一人で戦って歴史的勝利をおさめました。しかし、なお、当時のイスラエル王の妻であるイゼベルから憎まれ命を狙われます。エリヤは大きな戦いの後の燃え尽き症候群のような状態でもあったのでしょう。そこへ畳み掛けるようなイゼベルの呪いの言葉にエリアは恐れを覚えます。あれほど大胆に力強くバアルの預言者と戦ったエリヤは弱気になります。もう死にたいとすら思うようになります。それは単純にエリヤの信仰が弱かったということではありません。エリヤは十分すぎるぐらいの信仰を持って神の栄光を現わすために戦ったのです。しかし、人間である以上肉体的な疲弊、そして霊的な疲弊が起こるのです。その疲弊は物理的な疲労からもきますが、孤独からもきます。自分はたった一人で戦っている、そう考える時、人間は誰でも弱くなります。創世記2章に「人が一人でいるのは良くない」と神がお考えになったことが記されている通りです。信仰が強ければ、神様を信じていれば、大丈夫だ、そもそも神様がついておられるんだから一人で生きていける、それはもちろん真実なのですが、しかしやはり「人が一人でいるのは良くない」のです。共に祈り、共に闘う人を人間は必要とするのです。そんな孤独感にさいなまれ「わたしだけが残った」とエリアは絶望するのです。そのエリヤに対して、神は「バアルにひざまづかなかった7千人を自分のために残しておいた」と答えられます。エリヤが自分一人だけだと思っていたらそうではなかった。それはエリヤにとって驚きであり喜びでした、そしてまたそれは神のイスラエルへの愛でもありました。7千の7は聖書で良く使われます完全数です。祝福された数ということです。そしてたくさんということでもあります。

 どこにも信仰がないような世の中、だれもかれも神から遠のいているように見え、自分だけが取り残されているような世界に、実は祝福されたたくさんの人々が今自分の目には見えないけれど神が残してくださっている、すでに取り分けでくださっているのです。これはパウロ自身の苛酷な体験から絞り出されるように語られている言葉でもあります。イスラエルの同胞から鞭打たれ牢に入れられ侮辱され、自分だけが孤独にキリストを伝えているように見えながら、なお神は同胞から救いを取り去ってはおられない。なにより神は自分を救ってくださった、そして数は少ないながらイスラエル人のキリスト者も起こされている、パウロはそこに神のイスラエルへの愛を見ています。「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」とパウロは喜びを持って語っています。エリヤの時代に残された7千人と同様、パウロの時代にも残りの者としてイスラエル人キリスト者が起こされているのです。

<日本において>

 そしてこれは現代の日本においても言えることです。キリシタンの禁制が解かれてから、150年を経てもなお日本のキリスト教徒の人口は増えません。何回かキリスト教ブームと言われるような時期もありましたが、この国では依然としてキリスト教はマイナーな存在です。結婚式をキリスト教式で行う人は多いですが、そのほとんどは、キリスト教の教会ではなく、結婚式場に付設された雰囲気だけ教会に似せたチャペルでの結婚式です。その司式をするのもほとんどの場合、牧師や神父の衣装を着た職員やアルバイトです。これはキリスト教人口の高いお隣の韓国とは大きな違いです。また中国ではキリスト教は国が認めている教会以外は非合法ですが、それでも一説には地下教会に億の単位の信徒がいると言われます。そういうことから、日本にはキリスト教は根付かないと言われることもあります。

 たしかに現実に教会に通ってきている人々の多くも家族の中で一人だけのクリスチャンです。わたしもそうです。受洗している家族がいても、教会生活を守っているのは自分だけということも多くあります。そのような環境の中で、クリスチャンはどうしても孤立感や、あきらめの思いを持ってしまいがちです。そんな日本において「残りの者」は、まず私たちであると言えます。神の恵みによって私たちは「残りの者」とされました。しかしまた、いま、私たちの目にはみえていないけれども、さらなる「残りの者」を神は御自分のためにとっておられるとも言えます。

 繰り返し語っていることでありますが、プロテスタント日本宣教150年はまさにこの国の「残りの者」にかけた人々の戦いでもありました。ある開拓伝道をなさっていた牧師は、新興住宅地であの手この手で伝道をしてもなかなか教会に人が来ない状態が続きました。使徒言行録の中で神はパウロに「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と語られましたが、その牧師はなかなか進まない伝道に、「神様、あなたの民はどこにいるのですか?」と繰り返し嘆いたそうです。その教会は、その開拓から30年を経て、いまは、50名ほどの人々が礼拝を捧げる中規模の教会に成長しています。神がご自分の民として「残りの者」をとっておられたのです。

 現実の目で見る時、けっして状況は楽観はできません。しかし、いつの時代にもどこの国においても、神は「残りの者」を取っておられます。そこにかけて宣教をしていくのが教会の業であり、そのとき、教会は限りなく祝福をされるのです。

<恵みのみ>

 そして大事なことは、「恵みによって選ばれた者」ということです。現時点で、神に選ばれた者とそうでない者があるのは事実です。では選ばれている者は偉かったのか?それはまったくそうではないということなのです。あくまでも「神の恵み」によって選ばれたのです。なぜこの人が選ばれ、あの人が選ばれないのか?それは人間の側の問題では一切ないということです。

 受洗して間もないころ、祈祷会で、ある方が「先に救われた者として、まだ救われていない人を救えるように伝道する力を与えてください。」と熱心に毎週祈っておられました。その方は、純粋に伝道をしたいと思っておられたと思うのです。ほんとうに熱心に祈り、熱心に奉仕をされていました。でも意地悪な私は、どうも「先に救われた者として」という言い方がひっかかりました。なんとなくそこに、選民思想のようなものを勝手に感じてしまったのです。この世の中では、一般的に「先」のものがえらいような感覚があります。一番、トップバッター、それはすばらしいなという感じがあります。同期の中で最初に課長になった部長になった、出世頭だ、そういうことが自慢となります。もちろん、聖書の中でも、秩序、順番というのは大事にされます。繰り返しお話ししていますように、神がまず救うために選ばれたのはイスラエルの民でした。異邦人はそのあとでした。異邦人が「神様はイスラエルをえこひいきしてるではないか」と言っても、厳然として、神の順序というのはやはりあるのです。しかし、順序とか秩序、上下関係が大事にされると言っても、それはあくまでも、この世のある時点で切り取った範囲でのことがらです。異邦人であれ、イスラエルであれ、救いにおいて仮にあとさきはあっても平等なのです。私自身が「先に救われた者」という言葉に違和感を覚えたのは自分自身の方が、当時、世俗的な順番とかあとさきにこだわっていたからだと思います。

 そしてもうひとつは神の恵みの計画ということを理解していなかったことにもよると思います。先であることが、何か人間の側の優位性によるように感じていたからだと思います。しかし、神の恵みの計画の中で、恵みのゆえに選ばれるということにおいて、選ばれる側の優位性ということはまったくありません。それが理解できない時、「先に救われた者が」という言葉をなにか偉そうに言っているというように聞いてしまうようになります。

 聖書にはこういう言葉もあります。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある(ルカ13:30)」という言葉があります。今日の聖書箇所で言うなら、本来は先のものであったイスラエルが、異邦人の後となったということでもあります。私の知り合いで三人兄弟で上の二人がミッションスクールに通いましたが、末っ子は普通の学校に通ったという家庭があります。その末っ子はミッションスクールにいってないのでキリスト教や聖書に触れることは直接にはなかったのですが、たまたまお兄さんの本棚にあった聖書を読みました。そして聖書に興味を持ち、教会に行くようになり、やがて洗礼をうけました。ミッションスクールに通っていた兄弟たちは卒業後は聖書に触れることはなかったのにその末っ子はキリスト者になりました。さらに、その末っ子はいまは神学校に通っています。ですから最初に御言葉に接したであろうお兄さんたちはキリストを信じることにおいて、末っ子の後になったのです。末っ子が先になったのです。

 でももちろん、それは現時点でのことです。後になった者を神がお見捨てになるわけではないからです。残りの者である7千人以外を神が打ち捨てられるわけではありません。

 神の計画は進んでいくのです。神の恵みの計画は私たちの思いを越えてなお進んでいきます。神の恵みには限りがないからです。

<かたくなではなく>

 そして今日の聖書箇所の最後の部分には、救いからいったん退けられたイスラエルがかたくなにされたということが語られています。かたくなということは9章でも出てきた言葉です。信じない者はなおいっそうかたくなにされるのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えらえた」この言葉は不思議な言葉です。なぜ神がそのようなことをされるのでしょうか。9章ではイスラエルの民のエジプト脱出を拒んだエジプト王のファラオの心がかたくなにされたことが語られましたが、ファラオ自身がかたくなになったのなら分りますが、神がかたくなにされるというのは理解しがたい事がらです。今日の聖書箇所でも同様です。

 人間の側の神への思いがあまりに希薄であったり、反抗的であったり、身勝手であるとき、ひととき神はその心をかたくなにされます。鈍い心、これはもうろうとした心ということですが、そういう心を与えられるのです。神の恵みを恵みとして受け取れない、あくまでも自分中心で自分の行いに固執している時、人間はかたくなにされるのです。自分では賢いつもりでまじめなつもりで、結局自分自身で自分の罠に陥っていくのです。ダビデの詩から最後のところに引用されているように、人間が自分を誇るとき豊かな食卓を囲んでいてもそれがむしろ罠になり罰となるということです。

 しかし、かたくなな者も、それで神から捨てておかれるわけではないのです。そこにもやがて神の恵みの計画は及ぶのです。まさに神からかたくなにされているような者、それはパウロもそうでした、私たち自身もそうでした、しかし、そのような人が、やがて恵みに気づかされていく、そのような奇跡が起こるのです。2000年の歴史の中で起こり続け、日本の150年のプロテスタント宣教の歴史の中でも起こり続け、この大阪東教会の中でも起こり続けてきた、そしてこれからも起こり続けることです。神の恵みの奇跡です。


ローマの信徒への手紙 10章14~21節

2017-10-16 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月15日 主日礼拝説教 「手を差し伸べられる神」 吉浦玲子

<私たちは聞かされてきた>
 数年前、あるお子さんとお母さんが教会の前をたまたま通られました。当時そのお子さんが通っていた幼稚園がキリスト教系の幼稚園で、お子さんが、通りすがりに教会の建物を見て「あ、ここはチャペルだ!中を見てみたい」と叫びました。そして親子で教会の中に入って来られました。そのことがきっかけで、そのご家族は今、教会学校に集っておられます。また、あるとき、バイブルアワーに来られた女性はミッションスクールに20年前通っていたと言われました。その方は「学校のとき、クリスチャンではない自分にとって聖書の時間や礼拝の時間が退屈で退屈で嫌だった。それが学校を卒業して長い時間がたってみると、聖書や礼拝がとても懐かしい、教会に来ると心が落ち着きます。不思議です」とおっしゃいました。教会の前を通りかかったお子さんも、また昔、ミッションスクールに通っておられた方々も、それぞれに、「聞いて」こられたのです。信じるべき方のことを。


 本人の好むと好まざるとにかかわらず、人は「聞かされる」のです。神のことを。ここにいる私たちも聞かされてきました。わたしたちに宣べ伝える人たちがいたのです。それは人によっては、直接的に声をかけてくださる人間がいたわけではない場合もあったかもしれません。本や映画や音楽、絵画によって触発されたということもあるでしょう。なにげなく、ふらっと教会に行ってみたという方もあるかもしれません。ふらっと来てみたら、そこで宣べ伝えられた、聞かされたということもあるでしょう。
一方で、聞かされなかった人々もいたのです。キリシタン禁制が解かれた時代以前の日本人がそうだったでしょう。


 「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」こうパウロは語ります。これは本日の聖書箇所の直前の13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を受けた言葉です。主の名を呼び求めるためには信じることが必要である、信じるためには聞くことが必要であり、聞くためには聞くべきことを宣ベ伝える人がいる。宣べ伝えるためには遣わされなければならない。そうパウロは語ります。そして重要なことは、その宣ベ伝える人を派遣されるのはキリストご自身だということです。私たちが主の名を呼び求めるその源流にキリストご自身が宣べ伝える人を派遣されるという事実があるということです。逆にキリストの派遣がなければ何も始まらないということです。これはパウロ自身の立場でも言えることです。パウロはペトロやヨハネと言った他の使徒たちと異なり、主イエスの直接の弟子ではありませんでした。ですから、パウロ自身、なぜあなたが宣ベ伝えるのか?という批判を受けたり、他の使徒たちと比べ軽んじられたりしました。しかし、パウロは自分で勝手に宣ベ伝えているわけではありませんでした。明確にキリストによる派遣が自分自身の宣教の根拠と考えていました。それは今日においても同様です。宣ベ伝える人間はキリストによって派遣された者です。そしてキリストによって派遣された者が宣ベ伝える言葉は基本的に教会の言葉です。語っている個人の言葉ではなく、教会の言葉なのです。教会の言葉として語られる時、その言葉はまさにキリストご自身が語られている言葉となるのだといえます。


 さらに「良い知らせを伝えるの者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです、とパウロは語ります。これはイザヤ書からの引用です。良い知らせとは、宣べ伝えることの内容を指します。これはキリストの知らせです。福音のことです。それを知らせる者の足は美しい、そうイザヤの語る言葉をパウロは喜びに満ちて記しています。
 そもそもなぜ足なのか?手とか顔ではなく足なのか?これは古代における伝令をイメージしていたからでしょう。王の即位を町々に村々にしらせる喜びの伝令がいたのです。今のように、マスメディアやネットでたちまちにニュースが伝わるのではありません。伝令が走って知らせに行ったのです。ですから「美しい足」なのです。良い知らせとはキリストが私たちの王になってくださった、私たちを治めてくださることになったということにほかなりません。その新しい王の即位を知らせる伝令の足は美しいのです。私たち一人一人のところに、その伝令は走ってやって来ました。美しい足でオリンピック・ランナーのように素晴らしい走りでもってやってきたのです。
 しかしまた不思議なことではないでしょうか?全能の神がなぜ人間を派遣して宣べ伝えられるのでしょう。パウロ自身、コリントの信徒への手紙Ⅰ(1:21)で「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言っています。テレパシーのようなもので、ひとりひとりに伝えていくのではなく、神は宣べ伝える者を遣わされるのです。人が人に伝えていくというのは実に効率の悪いやり方です。しかし逆にそこに神の人間への愛にもとづいた信頼があります。神は愛をもって用いてくださるのです。パウロも最初はキリスト者を迫害する者でありながら用いられました。遣わされました。そのことを通じてパウロ自身、神の愛を深く知ったのです。
 私たちのそれぞれに神の御用のために遣わされ、用いられる者です。愛によって派遣されるものです。直接に働くべき内容はそれぞれに異なるかもしれません。ある人は職業生活において、ある人は家庭において、それぞれに愛によって派遣され主に用いられて喜びの業のなすのです。


<本当に聞くということ>
 一方でパウロは言います。「16節しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」ここでパウロのトーンは変わります。それまでのまさに走るような勢いの語り方から、重い感じに変わります。ここからパウロの意識の内にあるのは、これまでも繰り返し語って来たイスラエルのことです。「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか?」とパウロは再びイザヤ書を引用して問うています。イスラエルは信じなかったのです。イスラエル人であるパウロは胸を痛めながら、イスラエルを思いつつなお語るのです。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。」
 キリストの言葉を聞くということは、単に、聖書の言葉や、解説や、メッセージを耳で聞いたり頭で解釈するということではありません。聖霊によって聞くことです。聖書に限らず小説や映画などで、昔読んだり見たりしていたのに、時間を置いて改めて読んだり見たりすると、新しい良さを発見したり、以前とはまったく違う印象を持ったりすることがあると思います。それは、こちらの年齢が増したり生活経験が積み重なって以前は理解できなかった感覚が分かるようになることが理由の一つでしょう。もちろん、反対もあって、若い時だけ共感できる感覚というのもあります。


 聖書の御言葉でも以前は通りすぎていた言葉が急に生き生きと迫ってくることが起こります。しかしそれは単にこちらの人生経験が深まったからとか、聖書の解釈が深まったといった人間側の理由ではないのです。聖霊の働きの問題なのです。
聖霊が生き生きと働かれる時、私たちはキリストの言葉を良く聞き取ることができます。聖霊によって、キリストの言葉を、ほんとうに自分自身に語られている言葉として受け取らせていただきます。逆に、私たちが自分の思いや考えに固執してキリストの言葉を聞く時、私たちは本当の言葉を聞くことはできません。聖霊の働きを阻害するのです。
 私たちは一般的に、さまざまな情報に接したとき、それが自分にとって必要か不要か判断して取捨選択をします。ある本を読んだとき、その本の中で自分のためになりそうなところを参考にします。しかしキリストの言葉を聞くというのは、聞き手の側に取捨選択の主体があるわけではありません。これはクリスチャンであってもよく陥る間違いなのです。そしてそれはとても本質的な大きな間違いなのです。聖書の言葉の、語られるキリストの言葉の、ここは自分の考えにあう、ここは合わないと評価して合うところだけを受け入れましょうというのはキリストの言葉を聞くという姿勢ではありません。私たちは、自分の思いをひととき、わきに置き、ただキリストの言葉の前に静まる、静まっているとき、聖霊によって聞こえてくるのがキリストの言葉です。

 かつてのイスラエルもその言葉を聞くことができませんでした。彼らは神の言葉を聞かされなかったわけではありません。むしろ神から選ばれた民として、その神の声は響き渡るほどに響かされたのです。そしてパウロの時代にも、主イエスのことについては聞かされていたのです。彼らは耳ではたしかに聞いたのです。しかし、信じることはなかったのです。みずからがイスラエル人であるパウロにとって痛切なことです。


<手を差し伸べられる神>
 一方でイスラエルの頑なさのゆえに救われた民がありました。それが異邦人であるわたしたちです。「わたしは、わたしの民でない者のことで あなたがたにねたみを起こさせ
愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と申命記の言葉を引用してパウロは語っています。そもそも神に選ばれていたイスラエルが信じなかったゆえに、そのイスラエルにねたみを起こさせるために、用いられたのが、「愚かな民である異邦人」です。異邦人を救い、そのことによってイスラエルに妬みを起こさせ、神へと心をむけようとなさっている神の愛があります。
 一方で「愚かな民と言われた!」と異邦人である私たちは怒る必要はありません。たしかに私たちは、神から遠い民であったのです。神を神とせず、長く偶像崇拝、自然崇拝をしてきた民でした。現代でも朝の情報番組で<今日の星占い>などが流れている、まことの神から離れた状況です。その愚かな民を、神はイスラエルへの愛ゆえに、逆に選ばれたのです。そしてキリストの声を聞く者としてくださいました。そして救ってくださいました。何千年にもわたって神を求めて来た者ではない私たちにも神はその声を響かせてくださいました。そのために美しい足を持った伝令を使わしてくださいました。この教会にもかつてアメリカからやってきた宣教師がありました。雪道をわらじをはいて宣教をしてまわった美しい足の使者がありました。それにつづく多くの美しい足を持った人々がこの教会に教会の言葉をキリストの言葉を響かせました。それを静かに聞いた人々がありました。

「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、私を訪ねなかった者たちに自分を現わした。」
 神を探さなかった私たちのところへ、宣べ伝える者が遣わされてきました。しかし、私たちはまた、その宣べ伝える者の言葉を聞くことのおいても往々にして反抗的でした。いまでもそうです。聞くことにおいて、たえずキリストより自分を上に置く姿勢になりがちです。無意識のうちに自分に都合の良い神の像を自分の中で造る者です。
 しかし「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」とイザヤ書を引用してパウロは語ります。神は忍耐強く手を差し伸べてくださっています。この手は複数形です。両手です。神は両手を私たちに一日中差し伸べてくださっているのです。私たちが自己中心的に生きている時も、身勝手に聖書の言葉を読んでいる時も、しっかりと私たちへと向けて両手を差し伸べてくださっておられます。私たちが主の名を呼び求める者となるために、救われるために、そして聞くことができる者となるように。


ローマの信徒への手紙 10章5~13節

2017-10-09 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月8日 主日礼拝説教「御言葉はあなたの近くに」 吉浦玲子

<手足をバタバタさせて願う>

 洗礼を受けた頃、牧師に「お祈りはどういう風にしたらよいのですか?」とお聞きしたことがあります。すると、「子供がデパートの床に転がって、あれ買ってー!!と手足をばたばたさせて駄々をこねるように、何でも自由に祈ったら良いんですよ。参考になるのは旧約聖書の中の詩編ですね。詩編には神への感謝から助けを求める祈りから相手への怒りから、もうありとあらゆる人間からの神への訴えがありますよ。」と言われました。

 確かに詩編には、「主よ、わたしは貧しく身を屈めています。/わたしのためにお計らいください。/あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。/わたしの神よ、速やかに来てください。詩編40:18」のように苦しみの中から助けを願う祈りもあります。そうかと思うと、「あなたの憤りを彼らに注ぎ/激しい怒りで圧倒してください。/彼らの宿営は荒れ果て/天幕には住む者もなくなりますように。詩編69:26」というように敵を徹底的にやっつけてくださいという祈りもあります。ほんとうに詩編にはありとあらゆる祈りのパターンがあります。<彼らの宿営は荒れ果て天幕には住む者もなくなりますように。>などを読むと、え?ここまで言ってもいいのかと、とまどうくらいです。しかし、そのすべてを通して、現代の私たちに詩編から迫ってくるのは、神への切実な呼びかけの姿です。その言葉が喜びに満ちていようと、絶望の色合いを帯びていようと、敵への憎しみに絡め取られていようと、どの場合も、神への呼びかけの真摯さに、切実さに、詩編を読むとき、私たちは打たれます。

 今日の聖書箇所の最後に、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」というヨエル書からの引用があります。この言葉はたいへんに重い言葉です。<主の名を呼ぶ>ということは、詩編の詩人たちの切実さを伴うことがらです。最初にデパートでひっくり返ってあれ買って~と手足をばたばたさせる子供のことを言いましたが、これははた目にはこっけいなようであるかもしれません。あるいはその子どもがちゃんとしつけられていないわがままな子のせいであるかもしれません。しかしそうであっても、そこには子供なりの切実さというのがあります。一方で、わたしたちはそのデパートの子供のように切実に神に向かっているでしょうか?大人である私たちは手足をばたばたさせて神の前で訴えることはしません。それなりに自分で生きていく術を持っており、自分の願いを自分である程度は叶えることができます。仮に、自分ではどうにもならないことがあったとしても、大人はひっくり返って手足をバタバタなどはさせません。自分を抑えてあきらめようとします。もっとも、お子さんであっても、いまどきのお子さんは賢いので、ひっくりかえって手足をバタバタさせるなんてことはしないかもしれません。みんな賢くなって、力を持って、神への切実さが希薄になっているかもしれません。そのようななかで私たちは神に向かいながら型どおりの祈りをするだけのこともあるのではないでしょうか?個人もそうですし、教会もそうです。<主の名を呼ぶ>その真摯さが失われた時、個人も教会もまことの命の力を失ってしまいます。外側は仮に強く豊かであったとしても、内側から壊れていきます。

<救いは近い>

 さてローマ書の10章の5節からは救いというものについて踏み込んでパウロは語っています。モーセは「掟を守る人は掟によって生きる」と記しているとパウロは語ります。これはレビ記の18章5節からの引用です。「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。」とレビ記にあることをパウロは言っているのです。神の掟は、確かに人間を生かすものでした。神の掟は人間をがんじがらめにするものではなく、神と共に豊かに生き生きと生かすものとしてありました。掟は神と人間の関係、そして人間と人間の関係のあり方を示したものです。そもそもアダムとエバ以来、神と人間の関係は壊れていました。基本となる神と人間の関係が破たんしているのですから、当然、人間と人間の関係も破綻します。ですから、人間はその掟を守ることはできませんでした。その掟を守ることのできない、掟によって生きることのできない人間のために神が備えられたのがキリストでした。キリストの十字架による救いでした。今日、先にお読みいただきました申命記の30章では戒めはどこにあるのか?と問うています。しかしパウロは、キリストの救いが成就し、キリストのゆえに神と人間の関係が回復した今、申命記で言っていた戒めこそ、「信仰による義」のことなのだと語ります。申命記の「戒めはどこにあるのか」という問いはそのまま「いったいどこにいったら信仰による義があるのか」「いったいどこにいったら救いがあるのか」という問いになると語るのです。しかし、その問いすら今や不要なのです。天に昇って行ったら信仰による義が、救いは、あるのか?あるいは、底なしの淵に降ったらあるのか?そう問う必要はないと言っているのです。天まで探しに行けということはすでにキリストが成し遂げられたことを引き下げることになるからです。また底なしの淵に探しに行くことはキリストが十字架に死なれて陰府にまでくだってくださったことの意味を認めないことになるからです。

 パウロはさらに申命記を引用して語ります。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」信仰による義はすぐそばにある。御言葉なる神であるキリストの救いは近くにある、あなたの近くにある、わたしの近くにある、そして私の口に、私の心にある。そうパウロは語っています。

 皆、救いを探し求めていたのです、空しく。しかしそれは本当に近くにあるのだとパウロは言います。今年は宗教改革500周年ということを何度かお聞きになったことと思います。宗教改革の発端となった働きをしたルターは、端的に言って、御言葉が近くにあること、救いが自分の口、心にあることを<再発見>した人であると言えます。わたしたちが遠くに行くのではない、徳を積み上げるのではない、勉強をしつづけるのではない、ただ信仰によって、キリストを信じる信仰によって、救いが得られる、それはパウロが語ったことでした。そしてまた世々の信仰者が語り続けて来たことでした。そのことを、ルターは16世紀に新しく、そして再び発見したのだと言えます。学問としてではなく、自らの信仰体験として、恵みとして発見したのです。

 私たちも発見するのです。幾たびも聞いてきた。耳にたこができる程聞いてきた。十字架の贖いと復活の恵み、そして信仰義認、信じれば救われる、その言葉を幾たびも聞きながら、私たちは、離れて来たのではないでしょうか?救いがすぐそばにあるのに。私たちは、むしろ賢くなった私たちは、自分たちの足で、キリストから救いから離れていっているのではないでしょうか?しかし、信仰によって発見するとき、信仰による義はすぐそこにあり、救いはすでに来ているのです。

<信仰告白>

 さらにパウロは信仰告白について語ります。10節11節でパウロは口と心という言葉を使って繰り返しています。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11節」ここで「口でイエスは主であると公に言い表し」というのは、まず第一義的には教会における信仰告白、洗礼を指します。しかし、形式的に信仰告白をするだけでなく、心で信じることが必要だとパウロは言います。心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる、心と口、どちらも大事であり、そしてその心と口に御言葉が共にある、つまりキリストが共におられるとパウロは言っています。ここにいる多くの方は口で公に言い表した洗礼を受けました。ですからたしかに神はそれぞれの方を正しいと認められます。しかしなお心で信じていなければ救いはありません。逆に心でイエス様を信じているから口で言い表す必要はないということではありません。口と心、どちらも大事なのです。それは洗礼を受ける前もそうですし、洗礼をうけたのちも同様です。私たちは絶えず自分の心を吟味し、口で告白し続けるのです。

 改革長老教会は、ことに信仰告白を重んじます。洗礼の時のみならず、礼拝のたびに、教会として一つの信仰に立っていることを繰り返し告白するのです。大阪東教会では、通常は礼拝の中で使徒信条をもって信仰を告白し、月に一回は日本キリスト教団信仰告白によって私たちは信仰を告白します。わたしたちは繰り返し口で告白するのです。キリストへの信仰を。そしてそれは教会としての信仰でもあります。教会という救いの岩にたった信仰なのです。教会の信仰告白が私たち一人一人の信仰の告白であり、そしてまた口で告白する信仰を私たちはそれぞれに心で信じるのです。「告白」という言葉には「同じことを言う」という意味があるそうです。心と口でわたしたちは同じことを言うのです。そしてまた私たち一人一人と教会がまた同じことを言うのです。そこに信仰による義があり、救いの岩があるのです。信仰は個人的な考えを信じることや、個別の神秘体験ではありません。日本基督教団信仰告白の最後のところに「代々の聖徒と共に使徒信条を告白する」という言葉があります。この言葉で示されていることは、日本基督教団信仰告白はそれまでとは何か違う新しい告白をしているわけではないということです。3世紀から告白されてきた使徒信条と「同じこと」をいっているということです。さらにいえば、1890年の長老教会としての信仰告白とも同じことをいっているのです。2000年の教会の歴史の中で、繰り返し同じことが言われてきた、その同じことにつながっていくことが信仰です。

<私の主>

 ところで、ヨハネによる福音書20章にトマスという弟子の話が出てきます。<疑い深いトマス>の話として有名な箇所です。主イエスが十字架におかかりになり、死なれた後、復活されて、弟子たちの前に現れた時、トマスはその場にいませんでした。他の弟子達からキリストの復活の話を聞いてもトマスは信じようとしませんでした。この20章にはトマスの復活を信じようとしない有名な言葉があります。「あの方の手に釘のあとを見、この指を釘跡にいれてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」傷跡に指を入れるとか手を入れるというのはたいへん生々しい言葉です。それほどにトマスにとってキリストの死は衝撃的で、キリストを裏切った自分自身も傷ついていたのです。その悲しみと痛みのゆえにトマスは生々しく言ったのです。しかし、この言葉からトマスは「疑い深いトマス」と言われることになります。ある意味、トマスは不信仰者の象徴のようにも言われます。しかし、むしろだれでも復活のキリストと出会う前はトマスだったのだと思います。私たちも皆、トマスだった。トマスが極端に疑い深くて信仰がないというのではなく、むしろ復活のキリストと出会っていない者にとって、復活は信じ難く、ありえないものなので、トマスの言葉こそ、ある意味、正直なのです。キリストと出会っていない者には、十字架による救いの業は理解できないのです。釘の跡を見せろ、わき腹の傷を見せろ、手を入れさせろ、というのは、知識偏重主義の現代人が「神がいるならそのエビデンスを出せ」ということと変わりません。

 救いは体験をすることです。生けるキリストと出会うことです。

 トマスは出会いました。いえ、正確にはキリストが出会いに来てくださったのです。トマス一人のために、トマスが信じるものとなるために、まっすぐにトマスの方へキリストは来られた。トマスの前に現れたキリストは、他の弟子たちには声をかけず、ただトマスにだけお語りになっています。トマスのすぐ近くにキリストはおられたのです。トマスはもう指を傷に入れることも手を入れることもせず、ただ信じました。そして告白をしたのです。「わたしの主、私の神よ」と。これはとても短い、しかし端的な信仰告白です。使徒信条よりも短い、もっともシンプルな形の告白です。しかし、これこそが私たちの信仰の根本です。キリストこそわが主であり、私の神である、この告白は私たちの告白でもあります。

 私たちのすぐ近くにもキリストはおられます。ここにおられます。教会におられます。そしてまた祈る私たちと共におられます。聖書を読む私たちと共におられます。ですから、わたしたちもまた「わたしの主、私の神よ」と日々告白をします。キリストはすぐ近くにおられるのです。今ここに目には見えなくても共におられます。私たちの日々にもすぐ近くにおられます。私たちは折々にキリストを遠くにおられるように思ってしまいます。場合によっては、遠くにいてほしいとすら思います。逆に近くにおられるキリストに切実に求めようとせず諦めます。

 しかし、キリストは、救いは、近くにあるのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」私たちは呼び求めさえしたらよいのです。手足をバタバタさせる幼子のように。私たちの呼びかけは決して虚しくは終わりません。キリストが近くにおられることを信じて祈るとき、その祈りは切実な祈りとなり、詩編の詩人たちにつながる祈りとなり、私たちを生かす祈りとなります。


ローマの信徒への手紙 9章30~10章4節

2017-10-02 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月1日 主日礼拝説教「失望に終わらない」 吉浦玲子

<つまずく人>

 キリストは私たち一人一人の救いのために来られた。私たちはそのことを繰り返し、聞いてきました。救い主キリスト、十字架にかかられたキリスト、その十字架において人間の罪を贖われたキリスト、しかし、今日の聖書箇所ではそのほかならぬキリストご自身が人間にとって<つまずきの石>なのだと記されています。

 主イエスご自身がこの地上を歩まれた時代も、そののち、このローマの信徒への手紙が記された時代も、キリストはつまずきの石でありつづけました。人間はイエス・キリストという存在につまずくのです。

 神という概念であれば、まだ比較的受け入れやすいのです。全知全能の神、創造主なる神、もちろん無神論者は否定しますが、多くの人にとって聖書を読むとき比較的理解しやすいのです。信じるか信じないかは別として、イメージとしては分かりやすいのです。しかし、イエス・キリストには多くの人はつまづくのです。

 主イエスの時代であっても、パウロの時代であっても、現代でも、そうです。イエス・キリストに人々は必ず、つまずきます。それは、まじめすぎるからつまずくのです。一生懸命過ぎるから、つまずくのです。かつてのイスラエルの人々がそうでした。イエス・キリストにつまずいた代表格が福音書に出てくるファリサイ派や律法学者です。彼らは福音書においては悪役で、石頭で、人を裁き、冷たい人々だと感じられます。しかし、マタイによる福音書を共に読んでおりました時も、たびたび、語りましたように、実際の当時のファリサイ派や律法学者は一概に悪役のような存在とは言えません。まず第一には、まじめな人々だったのです。ひたすらに義、正しさを求めていたのです。パウロが「イスラエルは義の律法を追い求めていた」と31節に語っています。ほんとうにまじめだった、熱心だった。しかし、そのまじめなファリサイ派や律法学者に代表されるイスラエルは「その律法に達しませんでした。」「それは信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」とパウロは語ります。

 彼らが律法を守りながら、なお、律法に達することができなかったのは、彼らが行いによって義の律法に達せられるかのように考えたせいだとパウロは語ります。

<なぜ行いによろうとするのか>

 でも、考えていただきたいのです。私たちは私たちの行いがすべて正しいなどと思えるでしょうか?そうとうに傲慢な人であっても自分には一点の誤りもないなどとは言えないでしょう。まして長い人生の中で、自分は誤った行いは一度もしていないなどと言える人はいないはずです。普通に考えたら、だれでも自分たちの行いには限界があることは分かるように感じます。

 そんな限界のある私たちの行いを正しいと考えるためには、おおざっぱにいって二つの方法があるかもしれません。一つは、正しい正しくないを判断する範囲を限定するということです。たとえば、安息日にシナゴークにいけば正しい、食事の前に手を洗えば正しい、日に三度お祈りをしたら正しい、、、たくさんの正しくなるための行動のチェックリストがあって、そのチェックリストにもれなくチェックできれば、自分は正しいとするというようなやり方です。そうしますとこういうことがおこります。安息日にも羊の世話をするためにシナゴークに行けない労働者である羊飼いは正しくない、とみなす。あるいは自分は手を洗って食事をしているが、同じ町の中で飢えている貧しい人々には無関心になる、あるいは日に三度お祈りしているけれど、それはただ形だけで、神へむかう真摯な気持ちはない、そういったことが起こって来ます。つまり正しい正しくないを限定的にするとき、その限定から外れてくる人が出てきます。あるいはその限定的な行いの本質が神と隣人へのまことの愛から程遠いということが起こって来ます。もちろん律法は本来は行いを正当化するためのチェックリストではありませんでした。神と人間を愛するというというのが律法の根本にありました。しかしその根本を忘れた時、律法は行いの正当化に用いられるようになりました。

 行いを正しいと考えるもう一つのやり方は、正しくないことをしたときのその行為への代償を払って正しくないことをなかったことにするということです。実際、主イエスやパウロの時代、罪の贖いのための儀式と言うことが行われていました。大雑把な言い方になりますが、その儀式を行えば、正しくなかったこともなかったことになると考えられたのです。

でも、いずれにせよ、結局のところ、自分の行いに価値観を置いている限り、そこには真の平安や喜びはありません。行いに価値を置いている時、キリストは理解できず、つまずくのです。

<愛を乞う>

 ところで「愛を乞うひと」という題の映画がありました。乞うという字は物乞いの乞いです。題名だけで何となく辛い感じがする映画です。実際、この映画の主人公は幼いころ、母から折檻を受けて育ったのです。その娘が中年になっても、折檻を受けたという辛い過去に縛られ精神的にも母から縛られていたけど、最後には解き放たれるという話です。この映画に限らず、そもそも子供は「愛を乞う」のです。それは子供が生存していくために必要なことです。子供は生きていくために大人の力が必要です。しかし、普通の家庭であれば、子供が乞うまでもなく、親の方が子供を愛して子どもの必要を満たします。しかし、さきほどの映画のように歪んだ親子関係で育つ時、子供は歪んだ形で愛を乞うようになります。それは親に対してもそうですし、大人になってからの人間関係においても歪んだ形での人間関係を作ってしまいます。良く聞く話ですが、ひどい虐待をうけて保護された子どもがそれでも親のことを庇うことがあるらしいのです。ぶたれたのは自分が悪いからだ、お母さんは悪くない、そういうことがあるらしいです。それは子供が肉親の情として本当に親を愛しているからというより、歪んだ関係の中で、親を否定していては生きていけなかったからです。その結果、虐待されたのは自分が悪い、自分の行動が悪かったのだと思うようになるのです。

虐待と言った酷い関係ではなくても、親子関係において適切な愛の関係を築けなかった時、子供は無意識のうちに親の愛を乞う存在になります。無意識のうちに自分がこうしたら親に認められるだろう、こうなったら親が愛してくれるだろうと考えるようになります。そんな子供は大人になってもやはり愛を得るには自分の行動が必要だと感じるようになります。相手から愛してもらうためにあれもやりこれもやる、しかし愛してもらえない、まさに「愛を乞う」のです。そして空回りして疲弊して、結局愛を得ることができないのです。愛を乞うというのは、愛が自分の行動の見返りとして与えられると感じているということです。しかし、本来、愛は自然に与えられるものです。愛は乞うている限り、得られませんし、行動の見返りとして与えられるものは本当の愛ではありません。

<正しい認識のために>

しかし、実のところ、これは特別な生育環境にあった人間だけの問題ではありません。神の愛、キリストの十字架によって示される愛を知らない限り、すべての人間は、自分の行動によって愛を得られると考えるのです。この世界において人間の愛は限定的で、多くの場合、条件つきであるからです。

たとえば、パウロは回心をする以前はばりばりのファリサイ派でした。自分の行いによって律法の義を求めていた人の一人でした。そのパウロはキリストと出会い、キリストの愛を知って、変えられました。その愛はパウロの行いによって与えられたものではありませんでした。律法の義を求めていた正しい行いをしていたはずのパウロは「愛を乞う」人のように空しく、しかし熱心に生きていました。自分の行いの正しさを求めていました。自分の行いによって良い報いが与えられると思っていました。そしてまたそんな自分を誇っていました。それが当時のイスラエルのあり方でもありました。

しかし、それは本当の愛を知らず、自分の行いで愛を乞う人のようなものであったのです。自分の行いに基盤を置いている限り、キリストの姿は見えてきません。愛は見えてきません。キリストの愛の源である十字架は理解できません。イエスと言う男は、ただみじめな若死にした宗教グループのリーダーにしか見えません。そんなイエスを救い主だといわれると、多くの人はつまずきます。

キリストにつまずき、行いに価値を置いている限り、人間は自分の行いに誇りをもつようになります。善い行いをしてそのことを誇っていけないのか?そう感じる方もおられるかもしれません。その行いの動機が自分がそれによって何かを得ようとするものであるならば、行い自体が良いものであっても、やはりそれは良くないことなのです。イスラエルが行いによって自分を義としようとして傲慢になったように、行いは人間を思い上がらせるものになるのです。

 パウロはイスラエルがつまずいたのはその行いにおける熱心さが「正しい認識に基づくもの」ではなかったからだと10章3節で語ります。「正しい認識」というのは神の愛が自らの行いのゆえではなく、一方的に与えられるものであるという認識にほかなりません。

 それは現代に生きる私たちにもあてはまります。自分たちの正しさ、行動に基準を置いている限り、イエス・キリストは理解できません。つまずきます。十字架の贖いのことを頭では理解していても本当のキリストの愛はわかりません。自分の正しさが基準であるとき、私たちには十字架が理解できません。教会に集う私たちは、主イエスのことを聞いて知っています。だからキリストにつまずいていないと感じますが、往々にして私たちもまた自分の行動や価値に縛られて考えてしまいます。自分の側に愛される条件が必要だと感じてしまいます。キリストの愛はすでに与えられているのに、私たちは行動において往々にして愛を乞うのです。すでに愛が与えられていることを認識できず立派なクリスチャンになろうとして、疲れていきます。逆にすでに愛されているのだから何をしても良いのだという態度も「正しい認識」に基づいたものではありません。神の無条件の愛を本当に知ったとき、人間はそのときこそ、正しい行いができるようになるからです。キリストは律法の目標であるというのはそういうことです。神の愛をすでにいただいていることを正しく認識したとき、私たちは本当の意味で正しい者として生きていくことができます。神の愛の光の中で、神の愛に応えた生き方をする者と変えられていきます。

 しかし、人間の認識はどうしても弱いものです。神の愛を正しく認識できなくなります。

 その弱い人間のために与えらえたのが聖礼典です。洗礼と聖餐は、私たちがキリストの十字架に示された愛を正しく認識することができるために制定されたものです。聖礼典は霊験あらたかななんとなくありがたい儀式ではありません。私たちはこれから聖餐にあずかりますが、聖餐は、神の愛が、キリストの十字架の死によって、血を流され肉を裂かれた貴い犠牲によってわたしたちに示されたことを知らせるものです。わたしたちはつまずくことなく、神の愛に、キリストの光の中にすでにあることを感謝してあずかりましょう。そして聖餐と御言葉によって今日も、新しくキリストはつまずきの石ではなく、失望に終わらない希望の源であることを知らされます。