大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2015年11月1日マタイによる福音書13章31~35、44~52節

2015-11-03 16:00:50 | マタイによる福音書

「まことの財宝」 説教 吉浦玲子

 本日、11月1日は日本基督教団においては「聖徒の日」とされています。すでに地上の生を終えられた方々のために祈る日です。ですので、この日やこの日の前後に墓前礼拝や逝去者記念礼拝を行う教会も多くあります。教区での合同墓前礼拝もこの11月に行われます。

 11月1日は、もともとローマ・カトリック教会では「諸聖人」と定められていました。「万聖節」(ばんせいせつ)という呼び方を昔はしたようです。すべての聖人と殉教者を記念する日です。これはローマ・カトリック教会においては、現代も大事にされている祝日です。聖公会やギリシャ正教などでも大事にされています。プロテスタントにおいては聖人への崇拝は廃止されましたので「諸聖人の日」や「万世節」ということでは記念いたしません。しかし、さきほど申し上げましたように、日本基督教団においてはすでに地上を去られた方々を覚える日としています。

 ちなみに、この「諸聖人の日」は、ハロウィンと少し関係があります。今年はことにハロウィンは日本においても盛大に行われましたので、皆さんもあちこちでその起源を聞かれてご存知の方も多いと思います。もちろん現代のハロウィンそのものはキリスト教とは関係ありません。7世紀頃、それまで自然崇拝をしていたキルト人がキリスト教に改宗する過程において、もともとケルト人が「死者の日」、あるいは「収穫祭」として祝っていた日をローマカトリック教会が「諸聖人の日」として定めたといわれています。

 ちなみに「諸聖人の日」をハロウといいます。その「諸聖人の日」の前の晩が、ハロウ・イブ、10月31日がハロウ・イブですが、そのハロウ・イブがハロウィンになまったという説があります。ハロウ・イブの日に、もともとの民間信仰的なお祭りがおこなわれていたのがハロウィンの起源で、そのハロウ・イブがアメリカにわたり、もともとの宗教的意味合いはなくなって、民間イベントになったのが現在のアメリカや日本のハロウィンです。

 クリスチャンによっては、このハロウィンを徹底的に否定される方もおられます。ハロウィンの起源である10月31日の行事に、死者の訪問、日本で言うお盆のような意味合いがあったり、魔よけみたいなことがらがあるのでハロウィンを一種の異教信仰の現れと考えられるのです。悪魔崇拝だとおっしゃる方もおられます。しかし、先ほど申しましたように基本的には、現代のハロウィンにはもともとの宗教的な要素はなくなっています。ですので、なにがなんでもいけないとはいえません。節度を持って季節の行事として楽しむのは悪くないと思います。ただ、昨今の日本の、機動隊まで出動したというような悪ふざけの過ぎる過熱状態を見ていますと、やはり神とは遠いところにあるものだと感じます。私たちはとりあえずハロウィンはキリスト教とは関係はないということはしっかりと覚え、深入りはしない、ゾンビとかおばけとか自然崇拝の偶像とかそういうものをお祭り気分で、表に引き出すようなことは慎みたいと思います。

 さてハロウィンとは関係なく「聖徒の日」ということで申しますと、日本基督教団大阪教区の服部墓地には「我らの国籍は天に在り」というフィリピ3章20節の言葉が刻まれています。わたしたちは、この地上で国籍をもっていますが、それはひとときのことです。まことの国籍は天にある、わたしたちはキリスト者としてそのことを覚えます。先に地上を去った人々も、私たちも聖霊によって国籍を天に与えられます。キリストのゆえに、私たちは天に場所を準備していただきますし、まだ地上にある今も、キリストのゆえに信仰のゆえに、すでに天にむすばれています。わたしたちは先に地上での生を終えられた人々といまは相まみえることはかないませんが、やがて神がすべてを完成されるそのとき、復活の体をいただいて天において神の祝宴に連ねていただきます。わたしたちは先人との別れをもちろん悲しみますが、天への希望があるゆえ、いまこの地上にあっても、希望を持って歩むことができます。

 ではこの天とは何なのでしょうか?神のご支配されるところが天です。いわゆる一般的に言われている天国とは違います。死後の世界でもありません。神の支配のなかにあるところです、神の国といってもいいでしょう、その天について、主イエスは本日の聖書箇所で、さまざまにたとえ話によって語ってくださっています。

 からし種のたとえ、パン種のたとえ、そして畑の中の宝や真珠のたとえ。

 からし種やパン種のたとえは、小さなものと見えていたものが、とてつもなく大きくなる、天の国もそのようだと、天の国がやがて大きく広がるのだ、神の支配もそのようになるのだということをお語りになっています。畑の中の宝や真珠については天の国の価値がとてつもなく高価であることが語られています。いずれにしても、今現在は、はっきりとそのことを知ることができない、ということが共通点です。

 目の前にあるのは、小さな小さなからし種であり、パン種です。からし種はごらんになったことありますでしょうか?ほんとうに小さな種です。ゴマ粒よりも小さな小さな種です、そこから鳥が宿れるほどの大きな木が育つ、天の国もそのようだとおっしゃいます。パン種のたとえもとてつもないものです。1サトンは13リットルほどですから3サトンというと40リットル近い量の小麦粉が膨れるほどになるというのです。だいたい百人くらいが食べることのできるパンの量になるということです。神の支配はそれほどに広まっていくということです。しかし、そのパン種はわずかのものです。また一説にはイスラエルではモーセの出エジプトの時に種のないパンを食べたということから、お祭りのときなどには種を入れないパンを食べたのです。ですからここでいうパン種というのは、お祭りの時には顧みられない価値のないものというニュアンスもあったのではないかと言われます。その顧みられない無視されているパン種が豊かにパンを膨らませるということなのです。

 そしてまたからし種やパン種は主イエスのお働きをあらわしているとも考えられます。主イエスの働きは聖書で読みますとすばらしく大きなことのように感じます。しかし、当時の世界的規模から見ますと、イスラエルというパレスチナの一地域で、名もない男性が伝道をしたということであって、世界を揺るがすような大きな出来事ではなかったのです。当時の文献にかろうじてイエスという人間が実在したことを確認できる程度です。地理的にも歴史的にも、パン種のように小さなことであり、パン種のように取るに足らない出来事だったのです。しかし、その出来事は2000年の歴史の中でかき消えることなく、むしろ世界に広がっています。まさに多くの鳥が宿れるほどの木、大きなパンのように膨らんだのです。しかし、最初はだれの目にも小さなものだったのです。

 畑の中の宝にしても真珠にしても、まだその価値は公にはされていないのです。しかし、その価値を知っている人にしてみたら途方もない高価なものなのです。新共同訳では高価な真珠と書いてありますが、これは原語の意味では、とても高価な、というニュアンスになります、とても価値のあるとか、たいへんすばらしいという言葉です。美しい真珠と訳してある場合もあります。それほど価値のあるもの、ということです。

 このようにたとえられている天の国ですが、その価値は多くの人には気づかれていないのです。なぜはっきりと神はその価値をみんなにわかるようになさらないのでしょうか。それは少し前の礼拝でも申し上げましたように、神の真理は論理的には説明できないからです。ただイエス・キリストを通じて、イエス・キリストによってのみ知りうるからです。35節に「わたしは口を開いてたとえを用い/天地創造の時から隠されていたことを告げる」とあります。これは詩編78編からの引用です。まさにキリストご自身が、隠されていた宝としての神の国のことがらをたとえとして語ってくださっている、そのイエス・キリストの言葉に聞く時私たちは天について悟ることができます。

 しかし、一方で、私たちはその価値をどうしてもこの世的にとられてしまいがちなところがあります。

 たとえば、神様を信じて病気が治りました、奇跡的に傾いていた会社が持ち直しました、離散していた家族が和解しました、そういうことがあれば、なんとなくその価値がわかります。もちろん、実際、現実にそういうこともあるのです。しかし、天の国の価値はそのような現実的な価値にとどまらないのです。しかし、だからといって単に精神的なものというわけでもありません。<現世利益ではなく、心の平安が与えられるのだ>と、そういうところにとどまるのではありません。

 この世の価値では測れない価値を与えられるということです。そして、それはまさに他のすべてのものを売り払っても手に入れる価値があると主イエスはおっしゃっているのです。

 実際、すべてのものを天の国のために捨てた人たちがいます。主イエスの弟子達もそうでしたし、パウロをはじめ、最初の教会を支えた人々もそうでした。海を越えて、世界中に宣教の旅に出たおびただしい伝道者たちもそうでした。財産をうちすて、すべてをすてて主イエスに従ったのです。それは修行とか徳を積むための訓練のためではなく、すべてを捨ててもなお余りある喜びがあったからです。天の国の価値を知っていたからです。

 以前にもお話ししましたが、ある方は家を建てたばかりで3800万の住宅ローン残高があり、学校に通っているお子さんが3人ある状態で牧師になるために仕事を辞めて献身されました。畑の中に宝を見つけたからです。かけがえのない真珠を見つけたからです。弟子達のように、パウロのように、2000年にわたってそれぞれに時代に生きた伝道者たちのように。

 その宝は、具体的には、主イエスという宝です。自分のために死んでくださる主イエスというとてつもない宝を見つけたからです。自分の命を投げ捨て、私たちに新しい命をあたえてくださる方、とこしえの命を与えてくださる方、天の父のもとに場所を用意してくださるお方を宝として見つけたからです。

 この大阪東教会の先人たちもそうです。へール宣教師をはじめ、主イエスという宝を見つけ、喜び、そのために身をささげてこられたおびただしい方々がおられました。大阪東教会130年史に名前が記載されている方も、また記載されていない多くの方々もキリストという宝を得てこの地上を生きぬかれました。

 しかし、一方で、130年史を手にとって読みます時、正直、わたしは自分にはこのような素晴らしい先人のような働きはできない、そう感じることがあります。

 みなさんもまた、ひょっとしたら、ご自身が先人たちと同じように働くことができるとは、献身できるとは思えない時も、おりになるのではないでしょうか。

 しかし、そんな私たちに主イエスは語られます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものとを取りだす一家の主人に似ている。」と。この言葉は弟子達に語られた言葉です。しかしまた、私たちにも語られた言葉です。

 ここで言われている学者は、聖書に精通した者という意味です。そしてすべての古いものから新しいものまでの知恵を自在に使いこなせるのだとおっしゃっています。学者というのはたしかにある学問分野のエキスパートですから、その分野においては精通しているわけです。

 またこれは、主イエスにおいて実現されるすべてのことが、けっして、新しいものだけではないということからも言われています。マタイによる福音書の第1章はアダムからイエスに至る系図でした。主イエスは、2000年前に、突然現れ、過去を否定して、まったく新しい教えを広められたわけではないのです。旧約聖書の成就として到来されました、そしてまた律法を完成させられました。

 そのことを踏まえて、古いことも新しいこともすべて自在に取り出せる主人のような学者だと主イエスはおっしゃっています。一般論として「学者は」、と学者の説明をしているようですが、弟子たちとの会話の中で、弟子達に向かって、主イエスは温かく「あなたたちは学者だ」とおっしゃっているニュアンスがあります。

 このとき弟子達はまだ主イエスのことをしっかりとは理解していませんでした。しかし、彼らは主イエスから「これらのことがみな分かったか」と聞かれて「わかりました」と答えています。でも、実際は、分かってはいなかったのです。しかし、そのような弟子達に主イエスは「天の国のことを学んだ学者は」と語りかけてくださっています。けっして学問があったわけでもない、主イエスの言葉の意味をしっかり理解していたわけでもない、そんな弟子達に、あなたたちは学者だとおっしゃられています。いま、わたしの言葉を聞いている、あなたたちはすでに学者だ、とおっしゃっています。

 わたしたちにもまた、古いものと新しいものを倉から取りだす主人のような学者だと主イエスはおっしゃっています。

 私たちはその主イエスによって成就され完成させられたものを倉から取りだし自在に使いこなせるのだと言われています。

 私たちは荒海を未知の大陸へと、東の果ての島国まで漕ぎ出していくわけでも、家を売り払うわけでもないかもしれません。しかしなお、キリストを信じ、いま、御言葉に聞いている、それはすでにキリストという宝を見つけているのだと主イエスはおっしゃっています。

 私たちは、その宝を見つけた者として、喜びながら生きていきます。とても陳腐なたとえになりますが、財布の中に1000円札だけがはいっているときと、一万円札がはいっているときでは気分が違いますね。実際に一万円を使わなくても、なんとなく気分が大きくなります。さらに百万円やら一千万円が入っていたらどうでしょうか。

 私たちはすでに信仰の財布の中にとてつもない大きな金額を得ているのです。そのことを信じて生きていくことが信仰生活です。そしてまた、その信じる生活の中に、ほんとうに宝が見えてきます。これまで見えていなかった豊かさや喜びが神によって与えられていることが見えてきます。

 私にはなにもできない、大きなことはできない、大したものではないと思うのではなく、すでに自分には宝が与えられていることを信じて生きていくとき、ほんとうに宝が見えてきます。既に自分に与えられている宝があることがわかります。そしてその宝にふさわしく生きていくことができます。そこに天につながる者の、天に国籍を持つ者のまことの豊かな生き方があります。

 


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