※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」「第56節 良心の呼び声としての性格」
(7)「良心」によって、「世間的-自己(das Man-selbst)のうちの自己(das Selbst)だけが呼びとめられ・・・・世間(das Man、世人)の方は支えをなくして崩れ落ちる」!
L 「良心の呼び声において・・・・呼びかけられるものは・・・・現存在自身である。」(272頁)
L-2 「日常的=平均的な配慮(Besorgen)のなかでいつもすでにおのれを了解しているというありさまにおける現存在が、すなわち良心の呼び声にうたれる者である。」(272頁)
L-3 「ほかの人びととともに配慮的に共同存在している世間的-自己(das Man-selbst)が、良心の声に呼びとめられる。」(272頁)
L-4 その場合、「各自の自己(das eigene Selbst)へむかって」呼びかけられる。「現存在が公開的な相互存在のなかでもっている勢力や能力や職務へむかってではない。」(273頁)
L-5 「世間的-自己(das Man-selbst)のうちの自己(das Selbst)だけが呼びとめられ・・・・世間(das Man、世人)の方は支えをなくして崩れ落ちる。」(273頁)
《感想7》ハイデガーは「現存在」の《本来的自己》を「私自身(ich selbst)」(という役割)のみと考える。しかし私見では、そうでなく「現存在」の《本来的自己》は、「世間的-自己(Man-selbst)」と「私自身(ich selbst)」の全役割の束だ。(この場合、「私自身(ich selbst)」とは全役割間の調停者役割のことだ。)
(7)「良心」によって、「世間的-自己(das Man-selbst)のうちの自己(das Selbst)だけが呼びとめられ・・・・世間(das Man、世人)の方は支えをなくして崩れ落ちる」!
L 「良心の呼び声において・・・・呼びかけられるものは・・・・現存在自身である。」(272頁)
L-2 「日常的=平均的な配慮(Besorgen)のなかでいつもすでにおのれを了解しているというありさまにおける現存在が、すなわち良心の呼び声にうたれる者である。」(272頁)
L-3 「ほかの人びととともに配慮的に共同存在している世間的-自己(das Man-selbst)が、良心の声に呼びとめられる。」(272頁)
L-4 その場合、「各自の自己(das eigene Selbst)へむかって」呼びかけられる。「現存在が公開的な相互存在のなかでもっている勢力や能力や職務へむかってではない。」(273頁)
L-5 「世間的-自己(das Man-selbst)のうちの自己(das Selbst)だけが呼びとめられ・・・・世間(das Man、世人)の方は支えをなくして崩れ落ちる。」(273頁)
《感想7》ハイデガーは「現存在」の《本来的自己》を「私自身(ich selbst)」(という役割)のみと考える。しかし私見では、そうでなく「現存在」の《本来的自己》は、「世間的-自己(Man-selbst)」と「私自身(ich selbst)」の全役割の束だ。(この場合、「私自身(ich selbst)」とは全役割間の調停者役割のことだ。)