はじめに
A 倭の五王、讃・珍・済・興・武が、中国に遣使。(421-478年)
《感想》武の時代の約100年後、聖徳太子(574-622)が誕生した。小野妹子が隋に派遣されたのが607年。武の最後の中国遣使(478年)から、120年以上が空いている。
序章 四世紀後半の東アジア:倭国「空白」の時代
1.百済との対高句麗軍事同盟:372年百済が倭に七支刀を贈る!
B 高句麗の南下を百済が撃退(369、371年)。
B-2 372年百済が倭に七支刀を贈る。倭国と百済の対等な対高句麗同盟。
B-3 倭国は鉄を朝鮮半島(伽耶地域)に頼っていた。
C 倭国の前方後円墳の5地域:百舌鳥5C半ば(大阪)←馬見5C←古市4C末(372年七支刀の倭王、大阪)←佐紀4C←大和柳本古墳群。
D 新羅は、4C半ばに発展。初めて中国(前燕)に使者を送る(朝貢)。高句麗が仲介。
《感想》広開土王(位391-412)以前の高句麗、百済、新羅、倭の関係を見ると、新羅はまだ新興勢力だ。百済と倭が、高句麗に対抗し軍事同盟。倭国は朝鮮半島の鉄が必要だった。
2 高句麗の飛躍、倭国の渡海:広開土王(位391-412)碑の真実
E 376年、華北を統一した前秦が、383年淝水の戦い(ヒスイノタタカイ)で東晋に敗北後、高句麗の活動が活発化。(なお394年、前秦滅亡。)
E-2 広開土王(好太王)(位391-412)の時、高句麗が飛躍的に発展。好太王は新羅や百済に攻勢をかける。高句麗には、倭が、いつも不気味だった。
E-3 倭が百済・新羅を臣民化した事実はない。
E-4 400年、倭が新羅に侵攻。倭は、高句麗の騎馬軍に衝撃を受ける。(その後、5Cには日本でも馬を飼育。)404年、倭と高句麗が帯方郡沖で海戦。
F 高句麗好太王碑は414年、作られた。
《感想》広開土王(好太王)(位391-412)の時、高句麗が飛躍的に発展。新羅や百済に攻勢をかける。400年、倭が新羅侵攻。また404年、倭と高句麗が帯方郡沖で海戦。広開土王碑文によると広開土王は391年と399年の二度にわたり南下して、倭と百済の連合軍と戦ったとされている
第1章 讃の使節派遣(421年):150年ぶりの対中外交
G 3C西晋、266年が、倭(邪馬台国・壱与)の中国遣使の最後だ。4Cには、倭は中国に遣使しない。5C、倭の五王が宋に遣使する(421-478年)。
《感想》3C 邪馬台国以後、倭と中国との関係が、4C途絶するが、忘れられることは結局なかった。5Cに倭は中国への遣使を再開した。
1 高句麗による倭国偽使(413年):東晋の滅亡、宋の建国
H 413年、高句麗長寿王(位413-491)(広開土王の次の王)が東晋に遣使。この時、倭国も東晋に遣使する。
H-2 しかし、これは高句麗が倭国の偽使を仕立て、高句麗が東アジアの大国だと東晋に認識させようとしたものだ。
I 高句麗と対立する百済は、372年以来、東晋に数回朝貢する。(384、386、406年)
I-2 396年には、広開土王に百済が大敗する。倭国は、百済を軍事的に支援。
J 420年、東晋が滅亡し、宋建国。
《感想》倭は、百済と友好的であり、百済を支援して高句麗好太王(391、399年)と戦う。倭は朝鮮半島の鉄権益を守ろうとした。
2 421年、讃(位421-437)による宋への外交開始
K 宋は、高句麗と百済を、宋国内の将軍と同列に扱うことにした。倭は、高句麗、百済が宋と関係強化したことに刺激を受け、宋に遣使した。
《感想》倭は、東アジアの国際関係の中にいる。倭の行動は、宋、高句麗、百済等との相互関係の内で決まる。
3 倭国王冊封の意味:将軍府の開設と府官制の導入
L 讃は、倭国王安東将軍の中国官爵を獲得した。中国との関係の強さは、①高句麗、②百済、③倭国の順である。
L-2 将軍府・府官制という統治機構が整備され、倭国の権力機構が強化された。府官は、王を頂点とする支配機構そのものだ。なお高句麗、百済、倭国は、宋への朝貢に府官を派遣した。
《感想》宋から倭国王として冊封されたこと(421年、讃)は、外交的意味とともに、将軍府・府官制という統治機構が整備され、倭国の権力機構が強化されたことも意味する。
第2章 珍から済へ、そして興へ:宋への遣使の意図と王の権力
1 (讃の)弟・珍(位438-443)の遣使(438年)、官爵の要求:同盟国百済との競合意識
M 珍は、安東大将軍等の官爵を要求した。高句麗・百済が「大将軍」なのに、倭国が「将軍」なのが、不満だった。宋は却下した。
M-2 宋は、倭珍を安東将軍倭国王(東アジア、かつ日本の東を管轄)に任じた。
M-3 また倭珍の申請に基づき、王族(倭を名乗る)および豪族13人に将軍号を与えた。筆頭は倭隋で平西将軍(日本の西を管轄)。
M-4 当時、5C、大王となりうる王族集団が二つあった。古市古墳群と百舌鳥(モズ)古墳群。つまり讃珍系王族集団(倭珍)ともう一つの王族集団(倭隋)。
《感想》珍の宋への遣使(438年)の意味は2重だ。①国際関係上、高句麗・百済が「大将軍」なのに、倭国が「将軍」なのが不満。②国内統治上、中国官爵が国内的に持つ効能であり、王族(倭を名乗る)および豪族13人に与える将軍号を宋から得た。
2 高句麗が、435年、北魏に遣使
N 439年、北魏が華北統一。(※南北朝時代開始。隋が中国を再び統一する589年まで。南朝:宋、斉、梁、陳。)
N-2 高句麗長寿王(位413-491)が435年、初めて北魏に遣使。ただし北朝と南朝を天秤にかけ、439年、高句麗は南朝の宋にも馬800頭を送る。
《感想》高句麗長寿王(位413-491)の立場に立てば、対中国外交は、むずかしい。高句麗は、北朝と南朝の力関係を考慮しつつ、両者と友好関係を結ぶ必要があった。
2-2 428-461年、百済と日本の外交途絶:百済・新羅が和親し高句麗に対抗
O 百済が、毗有(ビユウ)王(位427-455)に変わる。百済が新羅に、433年、和親の使節を送る。(373年の外交決裂以来。)高句麗の圧迫が強くなり、百済・新羅が和親。
O-2 440年、百済が宋に遣使し、高句麗に対抗。
O-3 428-461年、百済と日本の外交途絶。
《感想》百済の毗有(ビユウ)王(位427-455)は、高句麗に対抗するため百済新羅同盟を重視。百済は、新羅と対抗する倭国との同盟をやめた。前王の時代と異なり、外交の大転換だ。
2-3 438年、珍の即位(位438-442)
P 438年即位の珍(位438-441)は、百済と新羅の連携を警戒。440、441年、倭国が新羅に侵攻。
P-2 珍の宋への遣使は、438年のみ。
《感想》北魏、宋、高句麗、百済、新羅、倭国の国際関係の中で、倭国の行動を見る必要がある。
2-4 443年、済の登場:讃・珍は兄弟だが、済(セイ)(位443-461)は近親でなく、王統の移動があった
Q 珍は在位、わずか5年で死ぬ。済(セイ)が継ぐ(443年)。この年、済は宋に遣使し、安東将軍倭国王に任じられる。
Q-2 当時、王統は、古市と百舌鳥の2大勢力があった。一方が倭讃・倭珍の勢力、他方が倭隋・倭済の勢力。
Q-3 444年、済が新羅に出兵。
Q-4 450年、宋(420-479)が北魏に大敗する。
《感想》倭国王の王統は、一方に倭讃(位421-437、421年宋への遣使、倭の5王の遣使の最初)・倭珍(位438-442)の勢力、他方に倭隋・倭済(セイ)の勢力があった。倭珍の次の倭国王は倭済(位443-461)で、王統の移動があった。
3 451年、済(セイ)の再遣使
R 451年済(セイ)が宋に再遣使する。宋は、対北魏包囲網のため、倭国を利用したい。かくて済は、倭国王として初めて使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事(※百済は含まない)に任命される。
R-2 済(位443-461)は前もって23人に官爵を仮授し、その正式任命を宋に要請した。そのための再遣使。王族・豪族は「将軍」、府官(渡来系)は「郡太守」。444年の新羅への侵攻に対する論功行賞が考えられる。
《感想》宋は、対北魏包囲網のため、倭国を利用したい。倭国王済は、444年新羅侵攻に対する論功行賞として、倭国内の王族・豪族への官爵の授与を、宋に要請する必要があった。宋と倭のウィンウィン関係として、両国の外交が成立している。
3-2 「任那」とはどこか?
S 伽耶地域の有力国「金官国」がもともとは「任那」と呼ばれていた。
S-3 倭国は「金官国」を通じ、伽耶地域の諸国と交流を深める。かくて「伽耶」地域全体(10各国)が「任那」と呼ばれるようになった。
S-4 伽耶地域の有力国は、金官国(任那)の外に、加羅国(大加耶)が勢力を伸ばしつつあった。
《感想》任那とは「伽耶」地域全体(10各国)のことだが、もともとは「金官国」を指した。(なお532年、金官国は新羅に征服される。)
3-3 461年、倭国(新羅と対立する)と百済の同盟復活(Cf. ただし対高句麗の百済新羅同盟あり)
T 倭国は、宋から認められた軍権(451年)(使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事)にもとづき、459(済),462(興),463年(興)に新羅を攻撃する。
T-2 428年以来、32年ぶりに、461年に、倭国(新羅と対立する)と百済の同盟が復活する。(Cf. 対高句麗のため百済と新羅の同盟はある。)
《感想》倭国が、百済・新羅を支配し臣下としたことはないだろう。ただし高句麗・百済を除く朝鮮半島における「倭国」の軍権は、宋が認めている。
《感想(続)》また「金官国」(任那)を中心に「伽耶」地域全体(10各国)(広義の任那)に対し「倭国」の影響力はあり、また「倭国」が出先機関を持ったはずで、これを「任那日本府」と呼んだのだろう。
3-4 462年、興(位462-477)の登場:不明瞭な王位継承
U 済と興は親子だが、「倭国王」の王位継承は不穏であった。というのも、462年、興の宋への遣使は、「倭王世子」からなされ、「倭国王」を名乗っていない。事情があって興は、まだ「倭国王」として即位していない。
U-2 宋は「安東将軍・倭国王」の爵位を興に授けた。
《感想》「讃」・「珍」は兄弟だが「済」(セイ)は近親でなく、王統の移動があった。また「済」と「興」は親子だが、王位継承は不穏であった。なお次の倭国王である「武」は興の弟だ。
第3章 倭王武の目指したもの:激動の東アジアのなかで
(1) 460年代-470年代前半:宋・北魏・高句麗・新羅・百済・倭国の国際関係
V 高句麗は宋に冷ややかで、北魏に接近する。(460年代-470年代前半)
V-2 同時期、高句麗の新羅への南下に対し、百済は、新羅と同盟し、高句麗を攻撃。
V-3 475年、高句麗が百済を攻撃し、漢城、落城。この時、倭国は、百済を支援せず。(Cf. 660年百済滅亡は、唐と連合した新羅による。)
《感想》
倭国王「済」の461年、(428年以来、32年ぶりに)倭国と百済の同盟が復活する。しかし「興」(位462-477)の時代になると、倭国は、百済を支援しない(Ex. 475年、百済の漢城陥落。)(Cf. 「武」の宋への最初の遣使は478年)
(2)478年「武」(位478-)が宋に遣使
W 興が477年に、再び宋に遣使する。しかし興は、急死。
X 478年、「武」が宋に遣使する。「武」は安東大将軍・倭国王に昇格する。これまでは安東将軍で、高句麗・百済が「大将軍」だったのに対し、格下だった。宋から官爵を得るにあたっての序列競争。
X-2 武による宋皇帝への上表文は5世紀後半の東アジア世界を描く。
X-3 武には高句麗征討計画があった。①476年、百済の宋への遣使(おそらく倭国も関与)を高句麗が妨害。②鉄をめぐる倭国の権益が侵される懸念。③百済が弱体化したので倭国中心に高句麗と対決する必要。
X-4 上表文の文化レベルは高く、府官に任命された渡来系の人々が書いたと思われる。(4-6世紀南北朝時代は六朝文化が栄えた。)
《感想1》
倭の五王、讃・珍・済・興・武が、中国に遣使したのは、421-478年である。つまり倭の五王は5世紀だ。
《感想2》
これに対し、卑弥呼・壱与(イヨ)は3世紀である。238年魏に遣使。266年に次の女王の壱与(イヨ)が晋に遣使。(このあと倭の五王・讃の遣使421年まで、約150年間、倭国から中国への遣使がない。)
《感想3》
「三韓征伐」の神功皇后は4世紀だろう。「三韓征伐」は神功皇后が新羅に出兵した戦争。(「三韓」は新羅、高句麗、百済。)神功皇后は、仲哀天皇后で応神天皇母。夫仲哀天皇の急死(320年)(or『日本書紀』では200年)の後、神功皇后が321-389年(or『日本書紀』では201-269年)まで治世。(Cf. 井上光貞は、『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼に比定し干支を120年繰り上げたと指摘する。)
《感想3-2》
広開土王碑には391年、399年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の広開土王(好太王)と戦ったとある。
《感想3-3》
「三韓征伐」では、新羅降伏後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったと、『日本書紀』は述べる。しかし新羅、百済、高句麗が、日本の支配下に入ったことはないだろう。
《感想3-4》
なお「三韓」とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示す場合もある。
第4章 倭の五王とは誰か:比定の歴史と記紀の呪縛
(1) 第10代崇神天皇がハツクニシラス・スメラミコト&讃珍グループと済興武グループ間の王朝交代
A これまで、「讃」は応神(15代)・仁徳(16代)・履中(リチュウ)(17代)、「珍」は反正(ハンゼイ)(18代)、「済」は允恭(インギョウ)(19代)、「興」は安康(アンコウ)(20代)、「武」は雄略(21代)と、比定されてきた。
A-2 倭の五王は、いずれも倭姓を名乗る同族。ただし権力委譲のダイナミクスは不明。
A-3 讃珍グループと、済興武グループ間の王朝交代があったと思われる。
A-4 第10代崇神天皇が、もともとハツクニシラス・スメラミコト。第1代~第9代開化までは『記紀』で、あとから付け加えられた。(ただし全くの創作ではないだろう。)
《感想》、第1代~第9代開化までは『記紀』において、あとから付け加えられ曖昧だ。第10代崇神天皇が、もともとハツクニシラス・スメラミコトだ。
(2)507年即位の継体天皇(26代)以前(あるいは5C以前)の大王の記憶は、あいまいだ!ゆえに『宋書』倭国伝(倭の五王)と『記紀』のすり合わせはあまり意味がない!
B 暴虐だったとされる武烈天皇(25代)で、王統が途絶える。
B-2 507年、継体天皇(26代)が、大伴金村らに越前国から迎えられ河内国で即位。(大和に入るのは20年後。)現皇室の祖である。
B-3 継体天皇も、倭姓を名乗る王族だ。
B-3 その子が欽明大王(天皇)(29代)。(『帝紀』は6C 半ば欽明大王の時できた。)
C 継体以前、つまり5C以前の大王の記憶はあいまいだ。
C-2第15代応神天皇は《倭姓を名乗る王族》の始祖王ホムタワケであり、その系譜であることが5Cの大王たち(倭の5王など)の統治の根拠だ。
D 『宋書』倭国伝(倭の五王:讃・珍・済・興・武)と『記紀』(8C)のすり合わせは、あまり意味がない。
《感想》継体天皇(26代)も、倭姓を名乗る王族であり、越前国から迎えられ507年即位し、現皇室の祖となる。継体大王の即位前、倭国内に、政治的混乱があったに違いない。
終章 「倭の五王」時代の終焉:世襲王権の確立&宋の滅亡(479年)
(1)507年、継体大王の即位後、大王の王位継承世襲化:中国から官爵授与されることが不要となる!
E 倭の五王の時代は、宋から授与された将軍号など官爵を、国内の王族・豪族に分配し、倭王権を強化した。
E-2 しかし、507年、継体大王の即位後、大王の王位継承が世襲化された。大兄制度の導入。王位継承候補者(大兄)を決定しておく制度だ。もはや宋から授与された官爵を国内の王族・豪族に分配する必要がなくなり、中国への遣使が不要だ。
E-3 武の最後の遣使(478年)の後、「倭の五王」の二つの王統、《百舌鳥古墳群、古市古墳群の両勢力》、あるいは《讃珍の王統と済興武の王統》の勢力が弱まった。
E-4 倭国は482年と486年には新羅を攻撃しているので、倭国内の政治的混乱は、その後の20年だろう。つまり継体大王の即位前、約20年間、倭国内に政治的混乱があったと思われる。
(2)倭国、高句麗、百済が、将軍号で序列意識を競う必要がなくなる:宋の滅亡(479年)
F 倭国王に権力の正統性の根拠(冊封)を与えた宋が479年、滅亡した。
F-2 宋の滅亡(479年)によって、倭国、高句麗、百済が、将軍号で序列意識を競う必要もなくなった。
《感想》一方で (1) 倭国内の政治的混乱の20年間の後、507年、継体大王の即位後、大王の王位継承世襲化、および他方で(2)宋の滅亡(479年)により倭国、高句麗、百済が序列意識を競う必要がなくなる。かくて(1)(2)により、中国(宋)への遣使の時代(5C)、つまり「倭の五王」の時代(521-578年)は終わった。
A 倭の五王、讃・珍・済・興・武が、中国に遣使。(421-478年)
《感想》武の時代の約100年後、聖徳太子(574-622)が誕生した。小野妹子が隋に派遣されたのが607年。武の最後の中国遣使(478年)から、120年以上が空いている。
序章 四世紀後半の東アジア:倭国「空白」の時代
1.百済との対高句麗軍事同盟:372年百済が倭に七支刀を贈る!
B 高句麗の南下を百済が撃退(369、371年)。
B-2 372年百済が倭に七支刀を贈る。倭国と百済の対等な対高句麗同盟。
B-3 倭国は鉄を朝鮮半島(伽耶地域)に頼っていた。
C 倭国の前方後円墳の5地域:百舌鳥5C半ば(大阪)←馬見5C←古市4C末(372年七支刀の倭王、大阪)←佐紀4C←大和柳本古墳群。
D 新羅は、4C半ばに発展。初めて中国(前燕)に使者を送る(朝貢)。高句麗が仲介。
《感想》広開土王(位391-412)以前の高句麗、百済、新羅、倭の関係を見ると、新羅はまだ新興勢力だ。百済と倭が、高句麗に対抗し軍事同盟。倭国は朝鮮半島の鉄が必要だった。
2 高句麗の飛躍、倭国の渡海:広開土王(位391-412)碑の真実
E 376年、華北を統一した前秦が、383年淝水の戦い(ヒスイノタタカイ)で東晋に敗北後、高句麗の活動が活発化。(なお394年、前秦滅亡。)
E-2 広開土王(好太王)(位391-412)の時、高句麗が飛躍的に発展。好太王は新羅や百済に攻勢をかける。高句麗には、倭が、いつも不気味だった。
E-3 倭が百済・新羅を臣民化した事実はない。
E-4 400年、倭が新羅に侵攻。倭は、高句麗の騎馬軍に衝撃を受ける。(その後、5Cには日本でも馬を飼育。)404年、倭と高句麗が帯方郡沖で海戦。
F 高句麗好太王碑は414年、作られた。
《感想》広開土王(好太王)(位391-412)の時、高句麗が飛躍的に発展。新羅や百済に攻勢をかける。400年、倭が新羅侵攻。また404年、倭と高句麗が帯方郡沖で海戦。広開土王碑文によると広開土王は391年と399年の二度にわたり南下して、倭と百済の連合軍と戦ったとされている
第1章 讃の使節派遣(421年):150年ぶりの対中外交
G 3C西晋、266年が、倭(邪馬台国・壱与)の中国遣使の最後だ。4Cには、倭は中国に遣使しない。5C、倭の五王が宋に遣使する(421-478年)。
《感想》3C 邪馬台国以後、倭と中国との関係が、4C途絶するが、忘れられることは結局なかった。5Cに倭は中国への遣使を再開した。
1 高句麗による倭国偽使(413年):東晋の滅亡、宋の建国
H 413年、高句麗長寿王(位413-491)(広開土王の次の王)が東晋に遣使。この時、倭国も東晋に遣使する。
H-2 しかし、これは高句麗が倭国の偽使を仕立て、高句麗が東アジアの大国だと東晋に認識させようとしたものだ。
I 高句麗と対立する百済は、372年以来、東晋に数回朝貢する。(384、386、406年)
I-2 396年には、広開土王に百済が大敗する。倭国は、百済を軍事的に支援。
J 420年、東晋が滅亡し、宋建国。
《感想》倭は、百済と友好的であり、百済を支援して高句麗好太王(391、399年)と戦う。倭は朝鮮半島の鉄権益を守ろうとした。
2 421年、讃(位421-437)による宋への外交開始
K 宋は、高句麗と百済を、宋国内の将軍と同列に扱うことにした。倭は、高句麗、百済が宋と関係強化したことに刺激を受け、宋に遣使した。
《感想》倭は、東アジアの国際関係の中にいる。倭の行動は、宋、高句麗、百済等との相互関係の内で決まる。
3 倭国王冊封の意味:将軍府の開設と府官制の導入
L 讃は、倭国王安東将軍の中国官爵を獲得した。中国との関係の強さは、①高句麗、②百済、③倭国の順である。
L-2 将軍府・府官制という統治機構が整備され、倭国の権力機構が強化された。府官は、王を頂点とする支配機構そのものだ。なお高句麗、百済、倭国は、宋への朝貢に府官を派遣した。
《感想》宋から倭国王として冊封されたこと(421年、讃)は、外交的意味とともに、将軍府・府官制という統治機構が整備され、倭国の権力機構が強化されたことも意味する。
第2章 珍から済へ、そして興へ:宋への遣使の意図と王の権力
1 (讃の)弟・珍(位438-443)の遣使(438年)、官爵の要求:同盟国百済との競合意識
M 珍は、安東大将軍等の官爵を要求した。高句麗・百済が「大将軍」なのに、倭国が「将軍」なのが、不満だった。宋は却下した。
M-2 宋は、倭珍を安東将軍倭国王(東アジア、かつ日本の東を管轄)に任じた。
M-3 また倭珍の申請に基づき、王族(倭を名乗る)および豪族13人に将軍号を与えた。筆頭は倭隋で平西将軍(日本の西を管轄)。
M-4 当時、5C、大王となりうる王族集団が二つあった。古市古墳群と百舌鳥(モズ)古墳群。つまり讃珍系王族集団(倭珍)ともう一つの王族集団(倭隋)。
《感想》珍の宋への遣使(438年)の意味は2重だ。①国際関係上、高句麗・百済が「大将軍」なのに、倭国が「将軍」なのが不満。②国内統治上、中国官爵が国内的に持つ効能であり、王族(倭を名乗る)および豪族13人に与える将軍号を宋から得た。
2 高句麗が、435年、北魏に遣使
N 439年、北魏が華北統一。(※南北朝時代開始。隋が中国を再び統一する589年まで。南朝:宋、斉、梁、陳。)
N-2 高句麗長寿王(位413-491)が435年、初めて北魏に遣使。ただし北朝と南朝を天秤にかけ、439年、高句麗は南朝の宋にも馬800頭を送る。
《感想》高句麗長寿王(位413-491)の立場に立てば、対中国外交は、むずかしい。高句麗は、北朝と南朝の力関係を考慮しつつ、両者と友好関係を結ぶ必要があった。
2-2 428-461年、百済と日本の外交途絶:百済・新羅が和親し高句麗に対抗
O 百済が、毗有(ビユウ)王(位427-455)に変わる。百済が新羅に、433年、和親の使節を送る。(373年の外交決裂以来。)高句麗の圧迫が強くなり、百済・新羅が和親。
O-2 440年、百済が宋に遣使し、高句麗に対抗。
O-3 428-461年、百済と日本の外交途絶。
《感想》百済の毗有(ビユウ)王(位427-455)は、高句麗に対抗するため百済新羅同盟を重視。百済は、新羅と対抗する倭国との同盟をやめた。前王の時代と異なり、外交の大転換だ。
2-3 438年、珍の即位(位438-442)
P 438年即位の珍(位438-441)は、百済と新羅の連携を警戒。440、441年、倭国が新羅に侵攻。
P-2 珍の宋への遣使は、438年のみ。
《感想》北魏、宋、高句麗、百済、新羅、倭国の国際関係の中で、倭国の行動を見る必要がある。
2-4 443年、済の登場:讃・珍は兄弟だが、済(セイ)(位443-461)は近親でなく、王統の移動があった
Q 珍は在位、わずか5年で死ぬ。済(セイ)が継ぐ(443年)。この年、済は宋に遣使し、安東将軍倭国王に任じられる。
Q-2 当時、王統は、古市と百舌鳥の2大勢力があった。一方が倭讃・倭珍の勢力、他方が倭隋・倭済の勢力。
Q-3 444年、済が新羅に出兵。
Q-4 450年、宋(420-479)が北魏に大敗する。
《感想》倭国王の王統は、一方に倭讃(位421-437、421年宋への遣使、倭の5王の遣使の最初)・倭珍(位438-442)の勢力、他方に倭隋・倭済(セイ)の勢力があった。倭珍の次の倭国王は倭済(位443-461)で、王統の移動があった。
3 451年、済(セイ)の再遣使
R 451年済(セイ)が宋に再遣使する。宋は、対北魏包囲網のため、倭国を利用したい。かくて済は、倭国王として初めて使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事(※百済は含まない)に任命される。
R-2 済(位443-461)は前もって23人に官爵を仮授し、その正式任命を宋に要請した。そのための再遣使。王族・豪族は「将軍」、府官(渡来系)は「郡太守」。444年の新羅への侵攻に対する論功行賞が考えられる。
《感想》宋は、対北魏包囲網のため、倭国を利用したい。倭国王済は、444年新羅侵攻に対する論功行賞として、倭国内の王族・豪族への官爵の授与を、宋に要請する必要があった。宋と倭のウィンウィン関係として、両国の外交が成立している。
3-2 「任那」とはどこか?
S 伽耶地域の有力国「金官国」がもともとは「任那」と呼ばれていた。
S-3 倭国は「金官国」を通じ、伽耶地域の諸国と交流を深める。かくて「伽耶」地域全体(10各国)が「任那」と呼ばれるようになった。
S-4 伽耶地域の有力国は、金官国(任那)の外に、加羅国(大加耶)が勢力を伸ばしつつあった。
《感想》任那とは「伽耶」地域全体(10各国)のことだが、もともとは「金官国」を指した。(なお532年、金官国は新羅に征服される。)
3-3 461年、倭国(新羅と対立する)と百済の同盟復活(Cf. ただし対高句麗の百済新羅同盟あり)
T 倭国は、宋から認められた軍権(451年)(使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事)にもとづき、459(済),462(興),463年(興)に新羅を攻撃する。
T-2 428年以来、32年ぶりに、461年に、倭国(新羅と対立する)と百済の同盟が復活する。(Cf. 対高句麗のため百済と新羅の同盟はある。)
《感想》倭国が、百済・新羅を支配し臣下としたことはないだろう。ただし高句麗・百済を除く朝鮮半島における「倭国」の軍権は、宋が認めている。
《感想(続)》また「金官国」(任那)を中心に「伽耶」地域全体(10各国)(広義の任那)に対し「倭国」の影響力はあり、また「倭国」が出先機関を持ったはずで、これを「任那日本府」と呼んだのだろう。
3-4 462年、興(位462-477)の登場:不明瞭な王位継承
U 済と興は親子だが、「倭国王」の王位継承は不穏であった。というのも、462年、興の宋への遣使は、「倭王世子」からなされ、「倭国王」を名乗っていない。事情があって興は、まだ「倭国王」として即位していない。
U-2 宋は「安東将軍・倭国王」の爵位を興に授けた。
《感想》「讃」・「珍」は兄弟だが「済」(セイ)は近親でなく、王統の移動があった。また「済」と「興」は親子だが、王位継承は不穏であった。なお次の倭国王である「武」は興の弟だ。
第3章 倭王武の目指したもの:激動の東アジアのなかで
(1) 460年代-470年代前半:宋・北魏・高句麗・新羅・百済・倭国の国際関係
V 高句麗は宋に冷ややかで、北魏に接近する。(460年代-470年代前半)
V-2 同時期、高句麗の新羅への南下に対し、百済は、新羅と同盟し、高句麗を攻撃。
V-3 475年、高句麗が百済を攻撃し、漢城、落城。この時、倭国は、百済を支援せず。(Cf. 660年百済滅亡は、唐と連合した新羅による。)
《感想》
倭国王「済」の461年、(428年以来、32年ぶりに)倭国と百済の同盟が復活する。しかし「興」(位462-477)の時代になると、倭国は、百済を支援しない(Ex. 475年、百済の漢城陥落。)(Cf. 「武」の宋への最初の遣使は478年)
(2)478年「武」(位478-)が宋に遣使
W 興が477年に、再び宋に遣使する。しかし興は、急死。
X 478年、「武」が宋に遣使する。「武」は安東大将軍・倭国王に昇格する。これまでは安東将軍で、高句麗・百済が「大将軍」だったのに対し、格下だった。宋から官爵を得るにあたっての序列競争。
X-2 武による宋皇帝への上表文は5世紀後半の東アジア世界を描く。
X-3 武には高句麗征討計画があった。①476年、百済の宋への遣使(おそらく倭国も関与)を高句麗が妨害。②鉄をめぐる倭国の権益が侵される懸念。③百済が弱体化したので倭国中心に高句麗と対決する必要。
X-4 上表文の文化レベルは高く、府官に任命された渡来系の人々が書いたと思われる。(4-6世紀南北朝時代は六朝文化が栄えた。)
《感想1》
倭の五王、讃・珍・済・興・武が、中国に遣使したのは、421-478年である。つまり倭の五王は5世紀だ。
《感想2》
これに対し、卑弥呼・壱与(イヨ)は3世紀である。238年魏に遣使。266年に次の女王の壱与(イヨ)が晋に遣使。(このあと倭の五王・讃の遣使421年まで、約150年間、倭国から中国への遣使がない。)
《感想3》
「三韓征伐」の神功皇后は4世紀だろう。「三韓征伐」は神功皇后が新羅に出兵した戦争。(「三韓」は新羅、高句麗、百済。)神功皇后は、仲哀天皇后で応神天皇母。夫仲哀天皇の急死(320年)(or『日本書紀』では200年)の後、神功皇后が321-389年(or『日本書紀』では201-269年)まで治世。(Cf. 井上光貞は、『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼に比定し干支を120年繰り上げたと指摘する。)
《感想3-2》
広開土王碑には391年、399年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の広開土王(好太王)と戦ったとある。
《感想3-3》
「三韓征伐」では、新羅降伏後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったと、『日本書紀』は述べる。しかし新羅、百済、高句麗が、日本の支配下に入ったことはないだろう。
《感想3-4》
なお「三韓」とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)を示す場合もある。
第4章 倭の五王とは誰か:比定の歴史と記紀の呪縛
(1) 第10代崇神天皇がハツクニシラス・スメラミコト&讃珍グループと済興武グループ間の王朝交代
A これまで、「讃」は応神(15代)・仁徳(16代)・履中(リチュウ)(17代)、「珍」は反正(ハンゼイ)(18代)、「済」は允恭(インギョウ)(19代)、「興」は安康(アンコウ)(20代)、「武」は雄略(21代)と、比定されてきた。
A-2 倭の五王は、いずれも倭姓を名乗る同族。ただし権力委譲のダイナミクスは不明。
A-3 讃珍グループと、済興武グループ間の王朝交代があったと思われる。
A-4 第10代崇神天皇が、もともとハツクニシラス・スメラミコト。第1代~第9代開化までは『記紀』で、あとから付け加えられた。(ただし全くの創作ではないだろう。)
《感想》、第1代~第9代開化までは『記紀』において、あとから付け加えられ曖昧だ。第10代崇神天皇が、もともとハツクニシラス・スメラミコトだ。
(2)507年即位の継体天皇(26代)以前(あるいは5C以前)の大王の記憶は、あいまいだ!ゆえに『宋書』倭国伝(倭の五王)と『記紀』のすり合わせはあまり意味がない!
B 暴虐だったとされる武烈天皇(25代)で、王統が途絶える。
B-2 507年、継体天皇(26代)が、大伴金村らに越前国から迎えられ河内国で即位。(大和に入るのは20年後。)現皇室の祖である。
B-3 継体天皇も、倭姓を名乗る王族だ。
B-3 その子が欽明大王(天皇)(29代)。(『帝紀』は6C 半ば欽明大王の時できた。)
C 継体以前、つまり5C以前の大王の記憶はあいまいだ。
C-2第15代応神天皇は《倭姓を名乗る王族》の始祖王ホムタワケであり、その系譜であることが5Cの大王たち(倭の5王など)の統治の根拠だ。
D 『宋書』倭国伝(倭の五王:讃・珍・済・興・武)と『記紀』(8C)のすり合わせは、あまり意味がない。
《感想》継体天皇(26代)も、倭姓を名乗る王族であり、越前国から迎えられ507年即位し、現皇室の祖となる。継体大王の即位前、倭国内に、政治的混乱があったに違いない。
終章 「倭の五王」時代の終焉:世襲王権の確立&宋の滅亡(479年)
(1)507年、継体大王の即位後、大王の王位継承世襲化:中国から官爵授与されることが不要となる!
E 倭の五王の時代は、宋から授与された将軍号など官爵を、国内の王族・豪族に分配し、倭王権を強化した。
E-2 しかし、507年、継体大王の即位後、大王の王位継承が世襲化された。大兄制度の導入。王位継承候補者(大兄)を決定しておく制度だ。もはや宋から授与された官爵を国内の王族・豪族に分配する必要がなくなり、中国への遣使が不要だ。
E-3 武の最後の遣使(478年)の後、「倭の五王」の二つの王統、《百舌鳥古墳群、古市古墳群の両勢力》、あるいは《讃珍の王統と済興武の王統》の勢力が弱まった。
E-4 倭国は482年と486年には新羅を攻撃しているので、倭国内の政治的混乱は、その後の20年だろう。つまり継体大王の即位前、約20年間、倭国内に政治的混乱があったと思われる。
(2)倭国、高句麗、百済が、将軍号で序列意識を競う必要がなくなる:宋の滅亡(479年)
F 倭国王に権力の正統性の根拠(冊封)を与えた宋が479年、滅亡した。
F-2 宋の滅亡(479年)によって、倭国、高句麗、百済が、将軍号で序列意識を競う必要もなくなった。
《感想》一方で (1) 倭国内の政治的混乱の20年間の後、507年、継体大王の即位後、大王の王位継承世襲化、および他方で(2)宋の滅亡(479年)により倭国、高句麗、百済が序列意識を競う必要がなくなる。かくて(1)(2)により、中国(宋)への遣使の時代(5C)、つまり「倭の五王」の時代(521-578年)は終わった。