(1)
私の従兄(イトコ)は、かわいそうに、悪性の病いのため両足の自由を失った。彼はベッドの上がり降りにも、兵士上がりの不愛想な介添え人の助けを必要とした。
(2)
従兄(イトコ)は、評判のよい物書きで、心の中に絶えず想像がうごめいていた。しかし全身をさいなむ痛みのため、手も指も使えず、彼はもはや物が書けなかった。「ぼくはもうだめだ!もう創造のいとなみはあきらめる」と彼は言い、誰とも会わなくなった。
《感想》物書きであった従兄は、自分の「想像」の力を小説の営みに発揮した。だが今、身体の苦痛で小説が書けなくなり彼は絶望する。
(3)
やがてベルリンの市が立つ日、従兄が私と会うと言った。従兄は屋根裏部屋に居て、そこから外を見ることを慰めとしていた。「今はこの窓がある。ぼくの慰め・・・・この窓を通してぼくは片ときも休まないこの世の営みと友情を結んだような気がする。」
《感想》従兄は、自分の想像の力を発揮する新たな場所を見出した。彼に生きる希望が生れた。彼は屋根裏部屋の「隅の窓」から広場の人々の様子を望遠鏡で観察し、想像世界を展開した。
(4)
従兄は望遠鏡を使って、市場の一人一人を観察し、「作家魂」を発揮する。(※一時的に観察される人々の外見的事実から、それらの者の生活、個人誌、内的感情を想像する!)
①《派手な黄色いネッカチーフを巻いた女》:フランス女だ。先の戦争(ナポレオン戦争)の居残り者。こちら(ベルリン)で金づるにありついた。おそらく旦那はフランスの会社のご当地支配人。
②《押しあいへし合いの中で平然と両肘を突っ張っている女;がっちりした女中が二人おともしている》:さるお大尽の娘。わが世の春の石鹸製造業者の娘か?この娘は、しまりやで明けても暮れても台所に目を光らせている。
③《腰かけて並んだハンカチを売る婆さんと靴下を売る婆さん;ハンカチを買いに来た娘が金が足りないらしく逃げるように立ち去る》:娘はおやじの道楽と犯罪で落ちぶれた一家だ。婆さん二人は、うれしい話題と飛びつき互いに娘の悪口雑言を楽しむ。
(4)-2
私が従兄に言う。「全部が全部、君の空想なんだろう。出たらめにちがいないさ。それは十分わかっているんだが、描写がこまかいせいもあって・・・・(※君の)今の話のとおりのようにおもえてくる。」
《感想1》実は、世の中の事柄は、大部分がこのような想像世界で成り立つ。政治談議、政治的神話、自分に関係ない遠い時代のあるいは遠い場所の出来事の説明等々、これらは一切が想像世界として語られる。
《感想2》想像世界でないのは、物世界=現実世界のみだ。物と他者(他者も身体がある限り物世界に出現する)が、君(君も身体があるので物世界に出現する)に対し抵抗する物として出現する。この物世界=現実世界のみが、君の想像を打ち砕く。(あるいは君の想像が正しいか否かを証明する。)
(5)
従兄が市場の一人一人を観察し、想像力を働かせる営為が続く。
④《藤の腰かけに座り陶器など小間物を売る肥った女》:精神の平衡が備わり落ち着きはらっている。それをねたんで小悪魔が椅子の脚をこっそり挽いておいたら、女が腰を下ろすとポキント折れ、ガラス品や陶器の上に女は真っ逆さまに落ち、商売品はおじゃん。女は破産するだろう。
⑤《流行の着こなし、身ぶりそぶりから見て、れっきとした家の娘たち;小ざっぱりした服装の女中がお供する》:日常品の買い物で家計見習いをさせようとする数年前からおなじみの風景。高級官吏の家でも娘を買物にやるご時世。
⑥《赤いショールのお嬢さん;年を食った女中が一緒だ》:娘(枢密財務官のお嬢さん)が初めて自分で買い物をしてうれしげだ。ところが女中は底意地悪く、娘の見立てに小言をあびせる。
⑦《ものおじしない若いおチビの娘さん》:白い繻子の靴を履いているから、バレーの修業中だ。おチビの踊り子さん。
⑧《背が高くてすらりとした青年》:学生で寄宿舎に戻る所。おチビの踊り子さんに見とれる。彼女が赤いリンゴをわざと落とす。学生が拾う。かくてランデブーの約束が取り結ばれた。
⑨《花売り娘;熱心に本を読む》:作家の虚栄心で、「その本を書いたのはぼくだ」と娘に言う。娘はびっくりして「おや―まあ―でも―まるで―」とだけ言った。(※この出来事は従兄の想像で現実でない!)
《感想》従兄の想像力はなんと逞しい事か!僅かな一時的に観察される外見的事実(物世界の事実)から、人々の生活、個人誌、内的感情が想像される!さらに事実が想像的に付け加えられる。(事実による反証がなければ想像的事実の付加はいくらでも可能だ。)
(6)
市場の人々を観察しながら、従兄は想像的拡張・展開だけでなく、様々の感想・意見・価値判断も述べる。
⑩《財務官の娘さんが、手籠のサクランボをつまみ食いした》:悪しき市場の風習に染まっていくのが問題だ。
⑪《三角の小さな帽子を頭に載せたやけに背の高い男;市場でジャム・ニシン・パセリ・二羽の鴨・鵞鳥・子牛の腿肉を買う》:想像(1)ケチで根性曲がりの年寄りの絵の教師、やもめ暮らしで自分の口に合うよう料理する。この世は人さまざま。人間ほど変化に富んで面白いものはない。想像(2)引退し悠々自適のフランス人4人が一緒に快適な住居に暮らす。その賄い方役の元菓子職人が市場で買い物をする。
⑫《まっ白な羽根飾りの淑女;お供の女は汚いボロを着ている;大いそぎで盲目の乞食にカネを恵む;その後、歩調を落とす》: 一息つくため、ゆっくり歩いた。
⑬《予備兵だった盲目の乞食》:咎もなしに悲惨さを身に受け、神と運命に自分をゆだねて、敬虔な諦めのなかで生き、感動的だ。
⑬-2 《この盲目の乞食は、野菜売りの女に毎朝、重い駕籠を背負わされている;女は、市が終わると、空の籠を盲人に担がせていく》:あの女はとんでもない悪妻だ。男を痛めつけ、男が得た施しは一切合財ひっさらう。
《感想》従兄の感想・意見・価値判断:⑩上流の娘さんが悪しき市場の風習に染まってはいけない。⑪この世は人さまざま。人間ほど変化に富んで面白いものはない。⑫淑女が乞食にカネを恵む時は緊張する。⑬「咎もなしに悲惨さを身に受け、神と運命に自分をゆだねて、敬虔な諦めのなかで生きる」ことは、感動的だ。(※この世は憂世だ。)
(7)
⑭「市(イチ)の立つ日、あの元予備兵の盲人のおかげで、ベルリン人の慈悲心がためされている」と従兄が言う。(ア)田舎育ちの下女4-5人が、こともなげに小銭を盲人に恵む。うれしいじゃないか。(イ)裕福そうな金持ちの奥さんは、最小限の小銭しか与えない。(ウ)小さな娘さんが喜捨をして駆けて行った。(エ)実入りのいい市民なのに、涙銭をバカでかい金入れから探して出すだけにすぎない。
《感想》従兄の価値観では「慈悲心」は良いこととされる。(※「慈悲心」は日本の大乗的仏教でも核心的価値だ。それは人間にとって普遍的価値だ。人間は一人でなく類概念である。人間は、《相互に》のみ人間であり、相互に同価値だ。ここから「慈悲心」が生れる。他者の価値が認められ、他者も自分と同様に幸福に生きる資格・権利を持つ。)
(8)
⑮《炭焼人一家(a)おそろしく図体のでっかい粗野で乱暴な大男》:森の中で出くわしたら肝がちぢみあがる。親切にされたら地獄で仏にあったように嬉しく思う。
⑮-2《炭焼人一家(b)4フィートに足りない小男の剽軽者》:機知に富み洒落が上手で、おどけやふざけの才能がたっぷりある。奴がいないと洗礼式の祝いも結婚式の宴会も始まらない。
⑮-3《炭焼人一家(c)市(イチ)にくるのはほかに女が二人だけだ》:一家には子供たちも下女たちもいるだろうが森の家に居残りだ。
《感想》「炭焼人一家」の外的(物的)事実から、従兄が展開する想像世界が、面白いし、もっともらしく納得がいく。
(9)
⑯《野菜売りの女同士の喧嘩を仲裁人が割って入って納めた》:警察は無用。自分たちで解決する。
⑯-2《見知らぬ大男が肉屋の徒弟にいちゃもんをつけ、太い棒切れで打ちかかった。徒弟はひらりと身をかわして逃げ、肉切り用の斧を担ぎ出して来た。この二人を、果物売りの女たち、ブラシ売り・靴脱ぎ台を商う連中がそれぞれ取り囲み、流血の事態にしなかった》:かくて「警察ざた、裁判ざた」が防がれた。市(イチ)の人々、つまり民衆の中には「保持すべき秩序へのセンス」がある。
(9)-2
従兄の見解では、民衆の中に「保持すべき秩序へのセンス」があるのは、「ベルリン人がすっかり変わった」からだ。かつてのナポレオン軍の支配に抗し、「ドイツ魂があらたな力で跳びたった。」「うれしいじゃないか、しがない下女や日銭稼ぎの連中にも礼儀作法のわきまえが見てとれる」。ベルリン人は「倫理性を体得した」。
(9)-3
それまでのベルリン人は「粗暴で野蛮」だった。初めてベルリンの町に来た人が何か訊ねたりすると「がなり返すか鼻で笑うかが関の山、出たらめを教えておもしろがる」やつもいた。「巷の悪ガキども」がむやみに騒ぎまわる!また「市(イチ)の立つ日はひどいものだった。喧嘩、殴り合い、舌先三寸のちょろまかしや盗みが大手を振っていた。」「まともな家の女たち」は市に出てこない。「騒動を引き起こし、騒ぎに乗じてちょいと失敬しようなどの連中がどっさりいた。」「世界のあちこちからやってきて連隊にもぐりこんでいた流れ者」が跋扈していた。
(9)-4
それがどうだ、ベルリンの市(イチ)はすっかりさま変わりした。今、ここには「豊かさのもつこころよさ」、「秩序にもとづいた安らぎ」がある。
《感想1》ナポレオン軍によるドイツ支配は、1806年イエナの戦いでナポレオンがプロイセン軍を撃破、ベルリンを占領したことに始まる。1813年ライプツィヒの戦いでナポレオンが敗北し、彼のドイツ支配が終わる。この間、プロイセンなどドイツ諸国では、国制の近代化がなされた。
《感想2》「ドイツ国民に告ぐ」という連続講演(14回)を、哲学者フィヒテが1807-1808年、フランス軍占領下のベルリンで敢行した。民主主義的、共和主義的要素を強調しつつ、ドイツ国民文化の優秀性を説き、これを国民全体に広め国民精神を涵養することがドイツ再興の道だと説いた。この講演は精神的に解放戦争を準備する力となった。
《感想3》ホフマン『隅の窓』(1822)は、ナポレオン軍によるドイツ支配の前後で、ベルリン人の精神に大きな変化が生じたことを具体的に示す。ホフマン(1776-1822)はフランス革命(1789-99)とナポレオン戦争(1796-1815)の時代を自ら体験している。
(10)
市(イチ)の終わる時間が来た。従兄が言った。「この広場はまるきり人生の縮図だ。あわただしい生の営みがあり・・・・群衆がさんざめいていたかと思うと、にわかにあたりはひとけない。・・・・あとに残された荒涼な風景が時の経過を告げるのみだ。」
《感想》日本的仏教的な「諸行無常」の思想は、西洋にもある。中世キリスト教世界では「メメント・モリ(死を想え)」が語られ、18-19世紀欧州のロマン主義は「廃墟の美」に惹かれた。(「メメント・モリ」は、やがて死ぬのだから生きているうちにこの世を楽しめという意味でもある。)
(11)
一時の鐘がなって食事の時間となった。従兄は食欲が出てきたのだが、「ほんのひと口でも余計に食べると・・・・七転八倒の苦しみをしなくてはならない」。彼が小声で悲しげに言った。
(11)-2
従兄のベッドの天蓋には「タトエ今ハ酷(ムゴ)イトシテモ、イツマデモ酷イママニ続キハシナイ」とラテン語の言葉を書いた紙片がとめてあった。
《感想》現実的な事実(※厳密にはこれも意味世界に属す)を手掛かりに、想像的意味の世界に生きるとしても、従兄自身の身体は現実的な事実として「酷イ」。これが「酷イママニ続キハシナイ」とは2義ある。(1) 現実的な事実である死が「酷イ」状況を終わらす。(2)想像的意味の世界に生きることで、自身の身体が現実的な事実として「酷イ」状況を忘れさせる。
私の従兄(イトコ)は、かわいそうに、悪性の病いのため両足の自由を失った。彼はベッドの上がり降りにも、兵士上がりの不愛想な介添え人の助けを必要とした。
(2)
従兄(イトコ)は、評判のよい物書きで、心の中に絶えず想像がうごめいていた。しかし全身をさいなむ痛みのため、手も指も使えず、彼はもはや物が書けなかった。「ぼくはもうだめだ!もう創造のいとなみはあきらめる」と彼は言い、誰とも会わなくなった。
《感想》物書きであった従兄は、自分の「想像」の力を小説の営みに発揮した。だが今、身体の苦痛で小説が書けなくなり彼は絶望する。
(3)
やがてベルリンの市が立つ日、従兄が私と会うと言った。従兄は屋根裏部屋に居て、そこから外を見ることを慰めとしていた。「今はこの窓がある。ぼくの慰め・・・・この窓を通してぼくは片ときも休まないこの世の営みと友情を結んだような気がする。」
《感想》従兄は、自分の想像の力を発揮する新たな場所を見出した。彼に生きる希望が生れた。彼は屋根裏部屋の「隅の窓」から広場の人々の様子を望遠鏡で観察し、想像世界を展開した。
(4)
従兄は望遠鏡を使って、市場の一人一人を観察し、「作家魂」を発揮する。(※一時的に観察される人々の外見的事実から、それらの者の生活、個人誌、内的感情を想像する!)
①《派手な黄色いネッカチーフを巻いた女》:フランス女だ。先の戦争(ナポレオン戦争)の居残り者。こちら(ベルリン)で金づるにありついた。おそらく旦那はフランスの会社のご当地支配人。
②《押しあいへし合いの中で平然と両肘を突っ張っている女;がっちりした女中が二人おともしている》:さるお大尽の娘。わが世の春の石鹸製造業者の娘か?この娘は、しまりやで明けても暮れても台所に目を光らせている。
③《腰かけて並んだハンカチを売る婆さんと靴下を売る婆さん;ハンカチを買いに来た娘が金が足りないらしく逃げるように立ち去る》:娘はおやじの道楽と犯罪で落ちぶれた一家だ。婆さん二人は、うれしい話題と飛びつき互いに娘の悪口雑言を楽しむ。
(4)-2
私が従兄に言う。「全部が全部、君の空想なんだろう。出たらめにちがいないさ。それは十分わかっているんだが、描写がこまかいせいもあって・・・・(※君の)今の話のとおりのようにおもえてくる。」
《感想1》実は、世の中の事柄は、大部分がこのような想像世界で成り立つ。政治談議、政治的神話、自分に関係ない遠い時代のあるいは遠い場所の出来事の説明等々、これらは一切が想像世界として語られる。
《感想2》想像世界でないのは、物世界=現実世界のみだ。物と他者(他者も身体がある限り物世界に出現する)が、君(君も身体があるので物世界に出現する)に対し抵抗する物として出現する。この物世界=現実世界のみが、君の想像を打ち砕く。(あるいは君の想像が正しいか否かを証明する。)
(5)
従兄が市場の一人一人を観察し、想像力を働かせる営為が続く。
④《藤の腰かけに座り陶器など小間物を売る肥った女》:精神の平衡が備わり落ち着きはらっている。それをねたんで小悪魔が椅子の脚をこっそり挽いておいたら、女が腰を下ろすとポキント折れ、ガラス品や陶器の上に女は真っ逆さまに落ち、商売品はおじゃん。女は破産するだろう。
⑤《流行の着こなし、身ぶりそぶりから見て、れっきとした家の娘たち;小ざっぱりした服装の女中がお供する》:日常品の買い物で家計見習いをさせようとする数年前からおなじみの風景。高級官吏の家でも娘を買物にやるご時世。
⑥《赤いショールのお嬢さん;年を食った女中が一緒だ》:娘(枢密財務官のお嬢さん)が初めて自分で買い物をしてうれしげだ。ところが女中は底意地悪く、娘の見立てに小言をあびせる。
⑦《ものおじしない若いおチビの娘さん》:白い繻子の靴を履いているから、バレーの修業中だ。おチビの踊り子さん。
⑧《背が高くてすらりとした青年》:学生で寄宿舎に戻る所。おチビの踊り子さんに見とれる。彼女が赤いリンゴをわざと落とす。学生が拾う。かくてランデブーの約束が取り結ばれた。
⑨《花売り娘;熱心に本を読む》:作家の虚栄心で、「その本を書いたのはぼくだ」と娘に言う。娘はびっくりして「おや―まあ―でも―まるで―」とだけ言った。(※この出来事は従兄の想像で現実でない!)
《感想》従兄の想像力はなんと逞しい事か!僅かな一時的に観察される外見的事実(物世界の事実)から、人々の生活、個人誌、内的感情が想像される!さらに事実が想像的に付け加えられる。(事実による反証がなければ想像的事実の付加はいくらでも可能だ。)
(6)
市場の人々を観察しながら、従兄は想像的拡張・展開だけでなく、様々の感想・意見・価値判断も述べる。
⑩《財務官の娘さんが、手籠のサクランボをつまみ食いした》:悪しき市場の風習に染まっていくのが問題だ。
⑪《三角の小さな帽子を頭に載せたやけに背の高い男;市場でジャム・ニシン・パセリ・二羽の鴨・鵞鳥・子牛の腿肉を買う》:想像(1)ケチで根性曲がりの年寄りの絵の教師、やもめ暮らしで自分の口に合うよう料理する。この世は人さまざま。人間ほど変化に富んで面白いものはない。想像(2)引退し悠々自適のフランス人4人が一緒に快適な住居に暮らす。その賄い方役の元菓子職人が市場で買い物をする。
⑫《まっ白な羽根飾りの淑女;お供の女は汚いボロを着ている;大いそぎで盲目の乞食にカネを恵む;その後、歩調を落とす》: 一息つくため、ゆっくり歩いた。
⑬《予備兵だった盲目の乞食》:咎もなしに悲惨さを身に受け、神と運命に自分をゆだねて、敬虔な諦めのなかで生き、感動的だ。
⑬-2 《この盲目の乞食は、野菜売りの女に毎朝、重い駕籠を背負わされている;女は、市が終わると、空の籠を盲人に担がせていく》:あの女はとんでもない悪妻だ。男を痛めつけ、男が得た施しは一切合財ひっさらう。
《感想》従兄の感想・意見・価値判断:⑩上流の娘さんが悪しき市場の風習に染まってはいけない。⑪この世は人さまざま。人間ほど変化に富んで面白いものはない。⑫淑女が乞食にカネを恵む時は緊張する。⑬「咎もなしに悲惨さを身に受け、神と運命に自分をゆだねて、敬虔な諦めのなかで生きる」ことは、感動的だ。(※この世は憂世だ。)
(7)
⑭「市(イチ)の立つ日、あの元予備兵の盲人のおかげで、ベルリン人の慈悲心がためされている」と従兄が言う。(ア)田舎育ちの下女4-5人が、こともなげに小銭を盲人に恵む。うれしいじゃないか。(イ)裕福そうな金持ちの奥さんは、最小限の小銭しか与えない。(ウ)小さな娘さんが喜捨をして駆けて行った。(エ)実入りのいい市民なのに、涙銭をバカでかい金入れから探して出すだけにすぎない。
《感想》従兄の価値観では「慈悲心」は良いこととされる。(※「慈悲心」は日本の大乗的仏教でも核心的価値だ。それは人間にとって普遍的価値だ。人間は一人でなく類概念である。人間は、《相互に》のみ人間であり、相互に同価値だ。ここから「慈悲心」が生れる。他者の価値が認められ、他者も自分と同様に幸福に生きる資格・権利を持つ。)
(8)
⑮《炭焼人一家(a)おそろしく図体のでっかい粗野で乱暴な大男》:森の中で出くわしたら肝がちぢみあがる。親切にされたら地獄で仏にあったように嬉しく思う。
⑮-2《炭焼人一家(b)4フィートに足りない小男の剽軽者》:機知に富み洒落が上手で、おどけやふざけの才能がたっぷりある。奴がいないと洗礼式の祝いも結婚式の宴会も始まらない。
⑮-3《炭焼人一家(c)市(イチ)にくるのはほかに女が二人だけだ》:一家には子供たちも下女たちもいるだろうが森の家に居残りだ。
《感想》「炭焼人一家」の外的(物的)事実から、従兄が展開する想像世界が、面白いし、もっともらしく納得がいく。
(9)
⑯《野菜売りの女同士の喧嘩を仲裁人が割って入って納めた》:警察は無用。自分たちで解決する。
⑯-2《見知らぬ大男が肉屋の徒弟にいちゃもんをつけ、太い棒切れで打ちかかった。徒弟はひらりと身をかわして逃げ、肉切り用の斧を担ぎ出して来た。この二人を、果物売りの女たち、ブラシ売り・靴脱ぎ台を商う連中がそれぞれ取り囲み、流血の事態にしなかった》:かくて「警察ざた、裁判ざた」が防がれた。市(イチ)の人々、つまり民衆の中には「保持すべき秩序へのセンス」がある。
(9)-2
従兄の見解では、民衆の中に「保持すべき秩序へのセンス」があるのは、「ベルリン人がすっかり変わった」からだ。かつてのナポレオン軍の支配に抗し、「ドイツ魂があらたな力で跳びたった。」「うれしいじゃないか、しがない下女や日銭稼ぎの連中にも礼儀作法のわきまえが見てとれる」。ベルリン人は「倫理性を体得した」。
(9)-3
それまでのベルリン人は「粗暴で野蛮」だった。初めてベルリンの町に来た人が何か訊ねたりすると「がなり返すか鼻で笑うかが関の山、出たらめを教えておもしろがる」やつもいた。「巷の悪ガキども」がむやみに騒ぎまわる!また「市(イチ)の立つ日はひどいものだった。喧嘩、殴り合い、舌先三寸のちょろまかしや盗みが大手を振っていた。」「まともな家の女たち」は市に出てこない。「騒動を引き起こし、騒ぎに乗じてちょいと失敬しようなどの連中がどっさりいた。」「世界のあちこちからやってきて連隊にもぐりこんでいた流れ者」が跋扈していた。
(9)-4
それがどうだ、ベルリンの市(イチ)はすっかりさま変わりした。今、ここには「豊かさのもつこころよさ」、「秩序にもとづいた安らぎ」がある。
《感想1》ナポレオン軍によるドイツ支配は、1806年イエナの戦いでナポレオンがプロイセン軍を撃破、ベルリンを占領したことに始まる。1813年ライプツィヒの戦いでナポレオンが敗北し、彼のドイツ支配が終わる。この間、プロイセンなどドイツ諸国では、国制の近代化がなされた。
《感想2》「ドイツ国民に告ぐ」という連続講演(14回)を、哲学者フィヒテが1807-1808年、フランス軍占領下のベルリンで敢行した。民主主義的、共和主義的要素を強調しつつ、ドイツ国民文化の優秀性を説き、これを国民全体に広め国民精神を涵養することがドイツ再興の道だと説いた。この講演は精神的に解放戦争を準備する力となった。
《感想3》ホフマン『隅の窓』(1822)は、ナポレオン軍によるドイツ支配の前後で、ベルリン人の精神に大きな変化が生じたことを具体的に示す。ホフマン(1776-1822)はフランス革命(1789-99)とナポレオン戦争(1796-1815)の時代を自ら体験している。
(10)
市(イチ)の終わる時間が来た。従兄が言った。「この広場はまるきり人生の縮図だ。あわただしい生の営みがあり・・・・群衆がさんざめいていたかと思うと、にわかにあたりはひとけない。・・・・あとに残された荒涼な風景が時の経過を告げるのみだ。」
《感想》日本的仏教的な「諸行無常」の思想は、西洋にもある。中世キリスト教世界では「メメント・モリ(死を想え)」が語られ、18-19世紀欧州のロマン主義は「廃墟の美」に惹かれた。(「メメント・モリ」は、やがて死ぬのだから生きているうちにこの世を楽しめという意味でもある。)
(11)
一時の鐘がなって食事の時間となった。従兄は食欲が出てきたのだが、「ほんのひと口でも余計に食べると・・・・七転八倒の苦しみをしなくてはならない」。彼が小声で悲しげに言った。
(11)-2
従兄のベッドの天蓋には「タトエ今ハ酷(ムゴ)イトシテモ、イツマデモ酷イママニ続キハシナイ」とラテン語の言葉を書いた紙片がとめてあった。
《感想》現実的な事実(※厳密にはこれも意味世界に属す)を手掛かりに、想像的意味の世界に生きるとしても、従兄自身の身体は現実的な事実として「酷イ」。これが「酷イママニ続キハシナイ」とは2義ある。(1) 現実的な事実である死が「酷イ」状況を終わらす。(2)想像的意味の世界に生きることで、自身の身体が現実的な事実として「酷イ」状況を忘れさせる。