第Ⅰ部 歌仙・小野小町
(1)「六歌仙」、「三十六歌仙」
仁明(ニンミョウ)天皇(在位833-850)の時代に、小野小町は実在した。しかし伝記不詳の謎の人である。
歌仙として、歌が残る。小町は、平安初期の『古今和歌集』仮名序の「六歌仙」(僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主)、また平安中期の「三十六歌仙」の一人である。
小町の私家集に、『小町集』がある。(平安時代中期成立)
鎌倉時代に「三十六歌仙絵」が流行する。
室町時代には、「三十六歌仙絵」を扁額として神社に奉納するようになる。
一歌仙一額として小町を描いた扁額が、「花の色ハうつりにけりないたつらに我身世にふる詠せしまに」(古今和歌集)の歌を添えたりする。(※花は色褪せてしまった。何もせぬまま、雨降り年をとるのを眺めるうちに。)
(2)古今和歌集仮名序(紀貫之):「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり」
和歌三神(サンジン)は、普通、住吉明神、玉津島明神・衣通姫(ソトオリヒメ)、柿本人麻呂である。
衣通姫は、肌の美しさが衣を通して光輝くようだった。
紀貫之は古今和歌集仮名序で述べる。
「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。」
[古注]
思つつぬればや人の見えつらむゆめとしりせばさめざらましを。(※想いながら寝たので、あの人が夢に現れたのだろうか。夢と知っていたら覚めなかったろうに。)
いろ見えでうつろふものは世中の人の心の花にぞありける(※[草木や花なら色あせる様が目に見えるが]外には見えず色あせるものは、人の心に咲く花である。)
わびぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思。(※わび住まいの憂き身なので、浮草のように根を断ち、誘ってくれる水があれば、そのまま流れていくつもりです。)
そとほりひめのうた、わがせこがくべきよひ也ささがにのくものふるまひかねてしるしも。(※あの人が来るに違いない夜だ。笹の根元に蜘蛛が巣をかけているから、前もってわかる。)
(3)神泉苑での小町の雨乞い(「雨乞小町」伝説)
小町は、勅命により、平安京の神泉苑で雨乞いの和歌を詠み、雨を降らせたとの伝説がある。
「ことはりや日のもとなればてりもせめさりとてもまた天(アメ)が下とは」(※理屈の上では「日の本」だから日照りになる。しかし「天が下」とも言うのだから雨を降らせてほしい。)
(4)『古今和歌集』、『後撰和歌集』
小野小町の詠歌は、『古今和歌集』(905年)に18首、選ばれている。
また『後撰和歌集』(951年)には4首、選ばれる。
小町は、安倍清行(キヨユキ)との贈答、文屋康秀への返歌、僧正遍昭との贈答などがあり、彼らと同時代である。
第Ⅱ部 小町伝説
(5)『小町集』、『玉造(タマツクリ)小町壮衰書』、『江家次第』、『卒塔婆小町之図』
『小町集』は小町の私歌集。116首を収めるが、後半の増補部分は、小大君(コダイノキミ、コオオキミ)の歌との混淆、小町作と判定しかねる歌が多い。小町の美女驕慢(キョウマン)伝説や晩年の落魄(ラクハク)伝説は、『小町集』の詠歌をもとに説話化されたと言われる。
また、平安時代中期に成立した美女落魄(ラクハク)の仏教説話『玉造(タマツクリ)小町壮衰書』との混淆がある。
平安時代後期には、大江匡房(マサフサ)『江家次第』にみえる、在原業平が奥州下向の時、目穴から薄(ススキ)の生えた小町の髑髏と対面する説話も、生まれた。
『卒塔婆小町之図』(1367年、陽明文庫)は、老衰・落魄して流浪する小町の絵像で、最も早いとみられる作品である。
(6)『神代小町(カミヨコマチ)絵巻』(江戸時代中期、長瀬八幡宮・野田八幡宮)
室町時代後半に、御伽草子『神代小町(カミヨコマチ)』が成立。
それを絵巻にしたものが、『神代小町絵巻』である。小町落魄(ラクハク)伝説が語られる。
①小野小町が、恋死した深草少将(百夜通い)の怨念で、物乞いにまでおちぶれ、齢百歳の老女となって逢坂の関寺に隠棲する。
②この小町に、宮中の歌合せを前にした藤原中将が、玉津島明神のお告げで面会し、歌道の伝授を受けて、歌合せで面目をほどこす。
③その後、陸奥の小野の玉造の野で、都落ちした実方中将が、「秋風のふくにつけてもあなめあなめ(※ああ目が痛い)」と歌う、薄(ススキ)が目から生え出た小町の髑髏を見つけ、その供養のため玉造御堂を建てた。
④小町は実は、大日如来の化身であった。
(7)『玉造小町壮衰書』(1606年、叡山文庫)
諸本がある。すでに平安末期には流布していた。
絶世の美女が、老いとともに容色が衰え、生活も困窮を極める。我が身の罪業の深さに発心し、極楽浄土への往生を願うに至る。
主人公は小町でないが、平安末期以来、小町像形成に多大な影響を与えた。前掲の『卒塔婆小町之図』(1367年)等。
(8)『玉造物語』(陽明文庫)
中世に成立した小野小町の伝記的物語。他の小町伝説と異なり、知的求道的な小町の生涯を、優雅な文章で描いた、異色の作品。
①玉津島明神(衣通姫ソトオリヒメ)の夢告により、和歌の道を伝授された小町が、宮廷に仕える。
②弘法大師の教えにより、若くして儒教・仏教を体得。
③帝のすすめで結婚するが、一児をもうけて離別する。
④源融、深草少将、文屋康秀らの誘いに応じなかったが、在原業平とは恋に落ちる。しかし小町はこれを反省し、仏の国での再会を約し別れる。
⑤その後、小町は自らが月界の者と知る。また観音等諸仏の示現があり信仰を深めた。
⑥小町は、子とも別れ、関寺のほとりの草庵に隠棲する。
⑦勅使のもたらした帝の御歌に鸚鵡返しをして、帰らせる。
⑧やがて旅に出、東海道を経て、陸奥の玉造で生涯を終える。その跡には、薄の原に髑髏が残るだけであった。
(9)『小町のさうし』(元和期刊、天理大学附属天理図書館)
室町時代成立の御伽草子。
『江家次第』『古事談』『無名抄』等の小町の髑髏伝説などを素材に、仏教思想にもとづき、佳人の老衰落魄(ラクハク)の哀れさを描く。
陸奥の玉造の小野を訪れた業平が、最後に、一むらの薄のもとに小町の白骨を発見する。
小町は如意輪観音の、業平は十一面観音の化身であったと付け加え終わる
(10)『小町物かたり』(元禄・宝永頃刊、国立国会図書館)
小町の髑髏伝説、深草少将の百代通い伝説、謡曲の卒塔婆小町の伝説を素材にする。また西行を登場させる点が、他の小町を題材にした草紙類にない特色である。
(11)『小野小町一代記』(享和2年刊、国立国会図書館)
小町の諸伝説をまとめた説話集『小野小町行状記』(明和4(1767)年)を先行作とし、これに多くを依拠した読本。
①小町は、坂上田村麿の娘玉苗の生まれ変わりとされる。田村麿は、奥州征伐の際、塩竃明神の社前で青森の娼女(ウタメ)玉造の捨てた女児を拾い、玉苗と名付け娘として育てた。小町の落魄(ラクハク)伝説、髑髏伝説が、玉苗に置き換えて語られる。
②小町については、深草少将の百代通い伝説、神泉苑での雨乞い伝説、草紙洗い伝説(※後述)等が述べられる。
第3部 能と小町(七小町)
小町伝説の定着に大きな役割を果たしたのは、南北朝時代に始まる能であった。
(1)無名の男女の百代通いの説話を、深草少将と小野小町の逸話とした「通(カヨイ)小町」(観阿弥作か)。
(2)晩年の落魄伝説を普及させた「関寺小町」「卒塔婆小町」。
(3)小町の歌才の名を高めた「草紙洗(ソウシアライ)小町」「鸚鵡(オウム)小町」
能の小町物の普及は、上述の能の5曲に加え、江戸時代になると「雨乞小町」(※前述)「清水(キヨミズ)小町」(または「花見小町」)を加え、小町伝説の著名な7つの逸話として「七小町」と称され定着していく。
(12)『光悦本謡曲百番(鸚鵡小町・通小町・関寺小町・卒塔婆小町)』(江戸時代初期刊、北野天満宮)
現行の小町物の能5曲の内の4曲。いずれも老いた小町が描かれる。
①「鸚鵡小町」(作者不詳):老いた小町が関寺の辺りにわび住いする。伝え聞いた帝があわれみの一首を託し、新中納言行家を遣わす。「雲の上はありし昔に変わらねど見し玉簾(タマダレ)の内やゆかしき」。この歌に小町は「内ぞゆかしき」と一字のみ変えて返歌とする。これは「鸚鵡返し」という昔からの返歌の形式の一つだと、小町が行家に教える。
②「通(カヨイ)小町」(観阿弥作、世阿弥改作):四位少将(深草少将)の霊が、生前、小町に恋して百夜通ったが思いを果たせず死んだと恨みを語り、小町の成仏を妨げる。僧の弔いで、両者が成仏する。
③「関寺小町」(世阿弥作か):百歳を過ぎた小町が、関寺の近くに住む。小町は、関寺の住僧に、栄華の昔を懐かしみ、零落の身を嘆く。僧は、小町を七夕祭りに招く。小町は、舞いを披露するが、明け方、寂しく帰る。
④「卒塔婆小町」(観阿弥作):老後、落魄(ラクハク)し物乞いする小町が、卒塔婆に腰掛ける。四位少将の怨霊が小町に憑りつき、物狂いさせる。
(13)『観世流謡曲内外二百番(草紙洗小町)』(天和3(1863)年刊、大阪府立中之島図書館)
現行の小町物の能5曲のうち、若く美しい小町を描いた唯一のもの。
⑤「草紙洗小町」(作者不詳):宮中の歌合せのとき、小町の相手と決まった大友黒主に前日、自作の歌を盗み見られ、それを『万葉集』に書き加えられる。歌合せの場で、盗作と非難されるが、その草紙を小町が洗い、書入れを洗い流し、恥辱をそそぐ。歌人として小町が、名を成す物語。
(14)『番外謡本集(第2輯第一・二冊)』(江戸時代末期、天理大学附属天理図書館)
廃曲となっためずらしい小町物の能10曲が、収録されている。
(ア)「仮寝(ウタタネ)小町」:出羽の郡司小野良実(ヨシザネ)の娘・小町がうたた寝していたところ、夢の中に山王の神使の猿が現れ、小町の歌道の慢心を咎める。小町は、閻魔王宮に連れて行かれ、閻王の裁きを受けることになる。しかし、小町は許され、神仏への帰依を誓い、目が醒める。
(イ)「高安(タカヤス)小町」:小町は、月見の歌合で帝の御製を非難したとして、河内国高安の里へ籠居(ロウキョ)の身となる。しかし、石清水八幡宮の御利生により、無実の罪がはらされ、小町に帰路の綸旨が下る。(なお、在原業平が、高安の女のもとに通った話が『伊勢物語』にある。)
(ウ)「絵馬小町」:清水寺の堂内の絵馬に、小町の歌と老尼の姿を描いたものがあった。石見国浜田の僧が、それを見て落涙する。これを見た市原野に住む老尼が、小町の旧跡に案内する。僧は、その跡を弔うが、実はその老尼は小町の霊だった。(※京都市市原に小町寺(補陀落寺)がある。小町終焉の地。)
(エ)「市原小町」:出羽の国の僧が、市原野の物さびた寺を訪れる。出羽の郡司小野良実の娘・小野小町の旧跡である。小町の霊が現れ、今日は7月15日で魂祭の日なので、弔ってほしいと頼み、消える。
(オ)「俤(オモカゲ)小町」:高野山の僧が、摂津の国安部野(阿倍野)の原で物乞いの老女が卒塔婆に腰掛けているのに出会う。老女は、小町のなれの果てだと打ち明ける。「卒塔婆小町」とほぼ同じ。
(カ)「富士見小町」:富士山を見たことがなかった小町が、帝に一時の暇を願い、東海道を下る。浅間神社の神主が女人は登山できないと告げると、小町は摩耶夫人や天照大神の例をひいて反駁。神主は、知識に驚き、小町と知ると、和歌を詠み舞曲をなし法楽し、神慮をなぐさめるよう勧める。
(キ)「雲林院小町」:父良実(ヨシザネ)に先立たれた小町が、京都紫野の雲林院に仮の庵をかまえ、寂しく日を送る。文屋康秀が、これを慰めに、秋の一夜、訪れる。小町は、父が好きだった大和舞を舞う。
(ク)「山本小町」:草花が好きな山本の何某季長が、藁屋の庵に住む小町に会う。小町は老残の身を嘆くが、和歌の話を語らい、勧められて五節の舞をまう。
(ケ)「花小町」:紫野雲林院に在原業平の手植えの桜があり、小町の霊が現れる。小町の霊は、業平への恋の妄執を語り、妄執を晴らしてほしいと、住僧に頼む。
(コ)「清水(キヨミズ)小町」:陸奥の衣の関の僧が、清水寺に参詣すると、女が僧を、市原野の小野小町の墓所に案内する。小町の霊が現れ、深草少将の恋の妄執により死後も苦しんでいると告げるが、僧の弔いで、成仏する。
第4部 歌舞伎と小町
江戸時代になると、小町伝説は、元禄期頃から歌舞伎・浄瑠璃化され、いっそう普及した。
現行では「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」(※良岑宗貞(僧正遍照)と小町との恋に、大友黒主がからむ話)と「六歌仙容彩(ウタアワセスガタノイロドリ)」(※小町と六歌仙他の人物との色模様)の2曲の所作事(歌舞伎舞踊)を残すのみ。
(15)「大和歌五穀色紙(ヤマトウタゴコクノシキシ)」(1723)
小野小町と深草少将の恋に、大伴黒主の横恋慕がからむ。また小町家老の五大三郎妹うのはの、少将への恋と嫉妬がからむ筋立て。
(16)「小町村芝居正月(コマチムラシバイショウガツ)」(1789)
「芝居正月」は顔見世興行の意味。惟喬(コレタカ)親王(文徳天皇第1皇子)・惟仁(コレヒト)親王(清和天皇)の帝位争いに、小町伝説をからませ、各場に「七小町」(関寺小町、清水小町、草子洗小町、通小町、鸚鵡小町、雨乞小町、卒塔婆小町)をあてた趣向。
(17)「名歌徳三升玉垣(メイカノトクミマスノタマガキ)」(1801)
惟喬(コレタカ)親王・惟仁(コレヒト)親王の帝位争いの時、紀名虎(キノナトラ)の娘で大力のお力(リキ)が活躍する。(彼女は、四位少将貞宗の恋人で、のちに小野良実の養女小町姫となる。)
(18)「重重人重(ジュウニヒトエ)小町桜(コマチザクラ)」(1784)
天下を狙う八雲の王子の企みに、小野良実(小町姫の父)、四位の少将良岑(ヨシミネ)宗貞(小町姫の恋人、僧正遍照)、宗貞の弟五位之介良岑(ヨシミネ)安貞らが立ち向かう筋立て。
二番目大切の浄瑠璃(常磐津節)所作事(歌舞伎舞踊)に、「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」(初演)が付く。以後、独立した歌舞伎舞踊としても、上演される
(18)-2 「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」(1784)
四位の少将良岑(ヨシミネ)宗貞が、逢坂山に先帝遺愛の小町桜を植え、菩提を弔う。そこに小町姫が来る。そこに鷹が、血染めの片袖を運んできて、良岑(ヨシミネ)の弟宗貞の死が明らかとなる。小町姫は、味方に知らせに向かう。
傾城墨染(宗貞の恋人)が、関守関兵衛は天下を狙う大伴黒主であると、見破る。墨染は、実は小町桜の精であった。
(19)「六歌仙(ウタアワセ)容彩(スガタノイロドリ)」(天保2(1831)年)
現行の歌舞伎の小町物の数少ない一つ。所作事(歌舞伎舞踊)。
第1場・遍照:小町を口説くが断られる。
第2場・文屋:官女たちを相手にユーモラスに踊る。
第3場・業平小町:小町は十二単衣、業平は束帯。
第4場・喜撰:祇園の茶汲み女お梶と、俗っぽい色気の坊主喜撰法師が登場する。
第5場・黒主:小町が黒主と対決し草子洗いを演じ、天下を狙う黒主の陰謀を見破る。
第5部 「七小町」の見立絵
小町伝説は、江戸時代、浮世絵の画題となった。
六歌仙の一人として小町の歌仙絵もある。
しかし多くは「七小町」の説話を趣向とした見立絵だった。小町伝説の逸話を絵の中に隠す謎かけと、美人画の合体である。小町の見立て絵は、小町を、美人の代名詞として一般化させ、各地で美人が「〇〇小町」と呼ばれることになった。
(20)「[見立七小町]雨ごひ小町・あらひ小町・かよひ小町・はな見小町・あふむ小町・せき寺小町・そとは小町」歌川国芳画(弘化頃刊)
①「雨ごひ小町」:傘をさす女。(神泉苑での小町の雨乞の見立て。)
②「あらひ小町」:盥(タライ)で子供を行水させる女房。(草紙洗小町の見立て。)
③「かよひ小町」:手習いに通う娘。(深草の少将の百夜通いの見立て。)
④「はな見小町」:花見の若い娘。清水寺(「清水小町」の見立て)、満開の桜(「花小町」の在原業平の手植えの桜の見立て)、また「花の色ハうつりにけりないたつらに我身世にふる詠めせしまに」の小町の詠歌。
⑤「あふむ小町」:鸚鵡を飼う。(鸚鵡返しの返歌をした「鸚鵡小町」の見立て。)
⑥「せき寺小町」:枝折戸のそばに立つ、恋人のもとに忍んできたふうな女。(四位の少将良岑(ヨシミネ)宗貞のもとに小町姫が来る。「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」の見立て。)
⑦「そとは小町」:倒れた木の幹に腰掛けて煙草を吸う女。(「卒塔婆小町」の見立て。)
(1)「六歌仙」、「三十六歌仙」
仁明(ニンミョウ)天皇(在位833-850)の時代に、小野小町は実在した。しかし伝記不詳の謎の人である。
歌仙として、歌が残る。小町は、平安初期の『古今和歌集』仮名序の「六歌仙」(僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主)、また平安中期の「三十六歌仙」の一人である。
小町の私家集に、『小町集』がある。(平安時代中期成立)
鎌倉時代に「三十六歌仙絵」が流行する。
室町時代には、「三十六歌仙絵」を扁額として神社に奉納するようになる。
一歌仙一額として小町を描いた扁額が、「花の色ハうつりにけりないたつらに我身世にふる詠せしまに」(古今和歌集)の歌を添えたりする。(※花は色褪せてしまった。何もせぬまま、雨降り年をとるのを眺めるうちに。)
(2)古今和歌集仮名序(紀貫之):「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり」
和歌三神(サンジン)は、普通、住吉明神、玉津島明神・衣通姫(ソトオリヒメ)、柿本人麻呂である。
衣通姫は、肌の美しさが衣を通して光輝くようだった。
紀貫之は古今和歌集仮名序で述べる。
「をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。」
[古注]
思つつぬればや人の見えつらむゆめとしりせばさめざらましを。(※想いながら寝たので、あの人が夢に現れたのだろうか。夢と知っていたら覚めなかったろうに。)
いろ見えでうつろふものは世中の人の心の花にぞありける(※[草木や花なら色あせる様が目に見えるが]外には見えず色あせるものは、人の心に咲く花である。)
わびぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思。(※わび住まいの憂き身なので、浮草のように根を断ち、誘ってくれる水があれば、そのまま流れていくつもりです。)
そとほりひめのうた、わがせこがくべきよひ也ささがにのくものふるまひかねてしるしも。(※あの人が来るに違いない夜だ。笹の根元に蜘蛛が巣をかけているから、前もってわかる。)
(3)神泉苑での小町の雨乞い(「雨乞小町」伝説)
小町は、勅命により、平安京の神泉苑で雨乞いの和歌を詠み、雨を降らせたとの伝説がある。
「ことはりや日のもとなればてりもせめさりとてもまた天(アメ)が下とは」(※理屈の上では「日の本」だから日照りになる。しかし「天が下」とも言うのだから雨を降らせてほしい。)
(4)『古今和歌集』、『後撰和歌集』
小野小町の詠歌は、『古今和歌集』(905年)に18首、選ばれている。
また『後撰和歌集』(951年)には4首、選ばれる。
小町は、安倍清行(キヨユキ)との贈答、文屋康秀への返歌、僧正遍昭との贈答などがあり、彼らと同時代である。
第Ⅱ部 小町伝説
(5)『小町集』、『玉造(タマツクリ)小町壮衰書』、『江家次第』、『卒塔婆小町之図』
『小町集』は小町の私歌集。116首を収めるが、後半の増補部分は、小大君(コダイノキミ、コオオキミ)の歌との混淆、小町作と判定しかねる歌が多い。小町の美女驕慢(キョウマン)伝説や晩年の落魄(ラクハク)伝説は、『小町集』の詠歌をもとに説話化されたと言われる。
また、平安時代中期に成立した美女落魄(ラクハク)の仏教説話『玉造(タマツクリ)小町壮衰書』との混淆がある。
平安時代後期には、大江匡房(マサフサ)『江家次第』にみえる、在原業平が奥州下向の時、目穴から薄(ススキ)の生えた小町の髑髏と対面する説話も、生まれた。
『卒塔婆小町之図』(1367年、陽明文庫)は、老衰・落魄して流浪する小町の絵像で、最も早いとみられる作品である。
(6)『神代小町(カミヨコマチ)絵巻』(江戸時代中期、長瀬八幡宮・野田八幡宮)
室町時代後半に、御伽草子『神代小町(カミヨコマチ)』が成立。
それを絵巻にしたものが、『神代小町絵巻』である。小町落魄(ラクハク)伝説が語られる。
①小野小町が、恋死した深草少将(百夜通い)の怨念で、物乞いにまでおちぶれ、齢百歳の老女となって逢坂の関寺に隠棲する。
②この小町に、宮中の歌合せを前にした藤原中将が、玉津島明神のお告げで面会し、歌道の伝授を受けて、歌合せで面目をほどこす。
③その後、陸奥の小野の玉造の野で、都落ちした実方中将が、「秋風のふくにつけてもあなめあなめ(※ああ目が痛い)」と歌う、薄(ススキ)が目から生え出た小町の髑髏を見つけ、その供養のため玉造御堂を建てた。
④小町は実は、大日如来の化身であった。
(7)『玉造小町壮衰書』(1606年、叡山文庫)
諸本がある。すでに平安末期には流布していた。
絶世の美女が、老いとともに容色が衰え、生活も困窮を極める。我が身の罪業の深さに発心し、極楽浄土への往生を願うに至る。
主人公は小町でないが、平安末期以来、小町像形成に多大な影響を与えた。前掲の『卒塔婆小町之図』(1367年)等。
(8)『玉造物語』(陽明文庫)
中世に成立した小野小町の伝記的物語。他の小町伝説と異なり、知的求道的な小町の生涯を、優雅な文章で描いた、異色の作品。
①玉津島明神(衣通姫ソトオリヒメ)の夢告により、和歌の道を伝授された小町が、宮廷に仕える。
②弘法大師の教えにより、若くして儒教・仏教を体得。
③帝のすすめで結婚するが、一児をもうけて離別する。
④源融、深草少将、文屋康秀らの誘いに応じなかったが、在原業平とは恋に落ちる。しかし小町はこれを反省し、仏の国での再会を約し別れる。
⑤その後、小町は自らが月界の者と知る。また観音等諸仏の示現があり信仰を深めた。
⑥小町は、子とも別れ、関寺のほとりの草庵に隠棲する。
⑦勅使のもたらした帝の御歌に鸚鵡返しをして、帰らせる。
⑧やがて旅に出、東海道を経て、陸奥の玉造で生涯を終える。その跡には、薄の原に髑髏が残るだけであった。
(9)『小町のさうし』(元和期刊、天理大学附属天理図書館)
室町時代成立の御伽草子。
『江家次第』『古事談』『無名抄』等の小町の髑髏伝説などを素材に、仏教思想にもとづき、佳人の老衰落魄(ラクハク)の哀れさを描く。
陸奥の玉造の小野を訪れた業平が、最後に、一むらの薄のもとに小町の白骨を発見する。
小町は如意輪観音の、業平は十一面観音の化身であったと付け加え終わる
(10)『小町物かたり』(元禄・宝永頃刊、国立国会図書館)
小町の髑髏伝説、深草少将の百代通い伝説、謡曲の卒塔婆小町の伝説を素材にする。また西行を登場させる点が、他の小町を題材にした草紙類にない特色である。
(11)『小野小町一代記』(享和2年刊、国立国会図書館)
小町の諸伝説をまとめた説話集『小野小町行状記』(明和4(1767)年)を先行作とし、これに多くを依拠した読本。
①小町は、坂上田村麿の娘玉苗の生まれ変わりとされる。田村麿は、奥州征伐の際、塩竃明神の社前で青森の娼女(ウタメ)玉造の捨てた女児を拾い、玉苗と名付け娘として育てた。小町の落魄(ラクハク)伝説、髑髏伝説が、玉苗に置き換えて語られる。
②小町については、深草少将の百代通い伝説、神泉苑での雨乞い伝説、草紙洗い伝説(※後述)等が述べられる。
第3部 能と小町(七小町)
小町伝説の定着に大きな役割を果たしたのは、南北朝時代に始まる能であった。
(1)無名の男女の百代通いの説話を、深草少将と小野小町の逸話とした「通(カヨイ)小町」(観阿弥作か)。
(2)晩年の落魄伝説を普及させた「関寺小町」「卒塔婆小町」。
(3)小町の歌才の名を高めた「草紙洗(ソウシアライ)小町」「鸚鵡(オウム)小町」
能の小町物の普及は、上述の能の5曲に加え、江戸時代になると「雨乞小町」(※前述)「清水(キヨミズ)小町」(または「花見小町」)を加え、小町伝説の著名な7つの逸話として「七小町」と称され定着していく。
(12)『光悦本謡曲百番(鸚鵡小町・通小町・関寺小町・卒塔婆小町)』(江戸時代初期刊、北野天満宮)
現行の小町物の能5曲の内の4曲。いずれも老いた小町が描かれる。
①「鸚鵡小町」(作者不詳):老いた小町が関寺の辺りにわび住いする。伝え聞いた帝があわれみの一首を託し、新中納言行家を遣わす。「雲の上はありし昔に変わらねど見し玉簾(タマダレ)の内やゆかしき」。この歌に小町は「内ぞゆかしき」と一字のみ変えて返歌とする。これは「鸚鵡返し」という昔からの返歌の形式の一つだと、小町が行家に教える。
②「通(カヨイ)小町」(観阿弥作、世阿弥改作):四位少将(深草少将)の霊が、生前、小町に恋して百夜通ったが思いを果たせず死んだと恨みを語り、小町の成仏を妨げる。僧の弔いで、両者が成仏する。
③「関寺小町」(世阿弥作か):百歳を過ぎた小町が、関寺の近くに住む。小町は、関寺の住僧に、栄華の昔を懐かしみ、零落の身を嘆く。僧は、小町を七夕祭りに招く。小町は、舞いを披露するが、明け方、寂しく帰る。
④「卒塔婆小町」(観阿弥作):老後、落魄(ラクハク)し物乞いする小町が、卒塔婆に腰掛ける。四位少将の怨霊が小町に憑りつき、物狂いさせる。
(13)『観世流謡曲内外二百番(草紙洗小町)』(天和3(1863)年刊、大阪府立中之島図書館)
現行の小町物の能5曲のうち、若く美しい小町を描いた唯一のもの。
⑤「草紙洗小町」(作者不詳):宮中の歌合せのとき、小町の相手と決まった大友黒主に前日、自作の歌を盗み見られ、それを『万葉集』に書き加えられる。歌合せの場で、盗作と非難されるが、その草紙を小町が洗い、書入れを洗い流し、恥辱をそそぐ。歌人として小町が、名を成す物語。
(14)『番外謡本集(第2輯第一・二冊)』(江戸時代末期、天理大学附属天理図書館)
廃曲となっためずらしい小町物の能10曲が、収録されている。
(ア)「仮寝(ウタタネ)小町」:出羽の郡司小野良実(ヨシザネ)の娘・小町がうたた寝していたところ、夢の中に山王の神使の猿が現れ、小町の歌道の慢心を咎める。小町は、閻魔王宮に連れて行かれ、閻王の裁きを受けることになる。しかし、小町は許され、神仏への帰依を誓い、目が醒める。
(イ)「高安(タカヤス)小町」:小町は、月見の歌合で帝の御製を非難したとして、河内国高安の里へ籠居(ロウキョ)の身となる。しかし、石清水八幡宮の御利生により、無実の罪がはらされ、小町に帰路の綸旨が下る。(なお、在原業平が、高安の女のもとに通った話が『伊勢物語』にある。)
(ウ)「絵馬小町」:清水寺の堂内の絵馬に、小町の歌と老尼の姿を描いたものがあった。石見国浜田の僧が、それを見て落涙する。これを見た市原野に住む老尼が、小町の旧跡に案内する。僧は、その跡を弔うが、実はその老尼は小町の霊だった。(※京都市市原に小町寺(補陀落寺)がある。小町終焉の地。)
(エ)「市原小町」:出羽の国の僧が、市原野の物さびた寺を訪れる。出羽の郡司小野良実の娘・小野小町の旧跡である。小町の霊が現れ、今日は7月15日で魂祭の日なので、弔ってほしいと頼み、消える。
(オ)「俤(オモカゲ)小町」:高野山の僧が、摂津の国安部野(阿倍野)の原で物乞いの老女が卒塔婆に腰掛けているのに出会う。老女は、小町のなれの果てだと打ち明ける。「卒塔婆小町」とほぼ同じ。
(カ)「富士見小町」:富士山を見たことがなかった小町が、帝に一時の暇を願い、東海道を下る。浅間神社の神主が女人は登山できないと告げると、小町は摩耶夫人や天照大神の例をひいて反駁。神主は、知識に驚き、小町と知ると、和歌を詠み舞曲をなし法楽し、神慮をなぐさめるよう勧める。
(キ)「雲林院小町」:父良実(ヨシザネ)に先立たれた小町が、京都紫野の雲林院に仮の庵をかまえ、寂しく日を送る。文屋康秀が、これを慰めに、秋の一夜、訪れる。小町は、父が好きだった大和舞を舞う。
(ク)「山本小町」:草花が好きな山本の何某季長が、藁屋の庵に住む小町に会う。小町は老残の身を嘆くが、和歌の話を語らい、勧められて五節の舞をまう。
(ケ)「花小町」:紫野雲林院に在原業平の手植えの桜があり、小町の霊が現れる。小町の霊は、業平への恋の妄執を語り、妄執を晴らしてほしいと、住僧に頼む。
(コ)「清水(キヨミズ)小町」:陸奥の衣の関の僧が、清水寺に参詣すると、女が僧を、市原野の小野小町の墓所に案内する。小町の霊が現れ、深草少将の恋の妄執により死後も苦しんでいると告げるが、僧の弔いで、成仏する。
第4部 歌舞伎と小町
江戸時代になると、小町伝説は、元禄期頃から歌舞伎・浄瑠璃化され、いっそう普及した。
現行では「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」(※良岑宗貞(僧正遍照)と小町との恋に、大友黒主がからむ話)と「六歌仙容彩(ウタアワセスガタノイロドリ)」(※小町と六歌仙他の人物との色模様)の2曲の所作事(歌舞伎舞踊)を残すのみ。
(15)「大和歌五穀色紙(ヤマトウタゴコクノシキシ)」(1723)
小野小町と深草少将の恋に、大伴黒主の横恋慕がからむ。また小町家老の五大三郎妹うのはの、少将への恋と嫉妬がからむ筋立て。
(16)「小町村芝居正月(コマチムラシバイショウガツ)」(1789)
「芝居正月」は顔見世興行の意味。惟喬(コレタカ)親王(文徳天皇第1皇子)・惟仁(コレヒト)親王(清和天皇)の帝位争いに、小町伝説をからませ、各場に「七小町」(関寺小町、清水小町、草子洗小町、通小町、鸚鵡小町、雨乞小町、卒塔婆小町)をあてた趣向。
(17)「名歌徳三升玉垣(メイカノトクミマスノタマガキ)」(1801)
惟喬(コレタカ)親王・惟仁(コレヒト)親王の帝位争いの時、紀名虎(キノナトラ)の娘で大力のお力(リキ)が活躍する。(彼女は、四位少将貞宗の恋人で、のちに小野良実の養女小町姫となる。)
(18)「重重人重(ジュウニヒトエ)小町桜(コマチザクラ)」(1784)
天下を狙う八雲の王子の企みに、小野良実(小町姫の父)、四位の少将良岑(ヨシミネ)宗貞(小町姫の恋人、僧正遍照)、宗貞の弟五位之介良岑(ヨシミネ)安貞らが立ち向かう筋立て。
二番目大切の浄瑠璃(常磐津節)所作事(歌舞伎舞踊)に、「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」(初演)が付く。以後、独立した歌舞伎舞踊としても、上演される
(18)-2 「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」(1784)
四位の少将良岑(ヨシミネ)宗貞が、逢坂山に先帝遺愛の小町桜を植え、菩提を弔う。そこに小町姫が来る。そこに鷹が、血染めの片袖を運んできて、良岑(ヨシミネ)の弟宗貞の死が明らかとなる。小町姫は、味方に知らせに向かう。
傾城墨染(宗貞の恋人)が、関守関兵衛は天下を狙う大伴黒主であると、見破る。墨染は、実は小町桜の精であった。
(19)「六歌仙(ウタアワセ)容彩(スガタノイロドリ)」(天保2(1831)年)
現行の歌舞伎の小町物の数少ない一つ。所作事(歌舞伎舞踊)。
第1場・遍照:小町を口説くが断られる。
第2場・文屋:官女たちを相手にユーモラスに踊る。
第3場・業平小町:小町は十二単衣、業平は束帯。
第4場・喜撰:祇園の茶汲み女お梶と、俗っぽい色気の坊主喜撰法師が登場する。
第5場・黒主:小町が黒主と対決し草子洗いを演じ、天下を狙う黒主の陰謀を見破る。
第5部 「七小町」の見立絵
小町伝説は、江戸時代、浮世絵の画題となった。
六歌仙の一人として小町の歌仙絵もある。
しかし多くは「七小町」の説話を趣向とした見立絵だった。小町伝説の逸話を絵の中に隠す謎かけと、美人画の合体である。小町の見立て絵は、小町を、美人の代名詞として一般化させ、各地で美人が「〇〇小町」と呼ばれることになった。
(20)「[見立七小町]雨ごひ小町・あらひ小町・かよひ小町・はな見小町・あふむ小町・せき寺小町・そとは小町」歌川国芳画(弘化頃刊)
①「雨ごひ小町」:傘をさす女。(神泉苑での小町の雨乞の見立て。)
②「あらひ小町」:盥(タライ)で子供を行水させる女房。(草紙洗小町の見立て。)
③「かよひ小町」:手習いに通う娘。(深草の少将の百夜通いの見立て。)
④「はな見小町」:花見の若い娘。清水寺(「清水小町」の見立て)、満開の桜(「花小町」の在原業平の手植えの桜の見立て)、また「花の色ハうつりにけりないたつらに我身世にふる詠めせしまに」の小町の詠歌。
⑤「あふむ小町」:鸚鵡を飼う。(鸚鵡返しの返歌をした「鸚鵡小町」の見立て。)
⑥「せき寺小町」:枝折戸のそばに立つ、恋人のもとに忍んできたふうな女。(四位の少将良岑(ヨシミネ)宗貞のもとに小町姫が来る。「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」の見立て。)
⑦「そとは小町」:倒れた木の幹に腰掛けて煙草を吸う女。(「卒塔婆小町」の見立て。)