紀州・有田で田舎暮らし

思いつくままに野菜や果実や漬物を作ったり、時には青春する心を求めてさ迷ったり、気ままに田舎暮らしを楽しんでいます。

和歌山市の水道が復旧&「7・18大水害」が思い浮かんだ

2021年10月09日 | 旅行・街歩き・お店・写真

今月3日、紀の川にまたがった水道管が破損落下し、北岸地域への水道供給がストップ。市内の6万戸(住民の4割)で断水し、学校も臨時休校となった。

断水となった親戚の家では当面の水は確保したと聞いていたが、気になって、先日、車を走らせてきた。

料理するのが面倒だろうと、「みかん鶏」の唐揚げとフライドチキンを買って持って行った。

さつま芋も焼いてから持って行った。大秋柿やさつま芋や漬物も積み込んだ。

ポリタンクには給水車で汲んできたと思われる水もあった。風呂は使えていなかったが、トイレ・洗濯は何とか給水した水を使ってカバーしているみたいだった。我が家でのお風呂をとすすめたが、お湯を沸かして凌いでいるのでとのことだった。

この断水で、紀の川南岸地域のホテルは避難客で満室となった。銭湯も混み合っているとのことだった。子どもらがいる家庭では、親戚の家まで車で走ってお風呂を借りている人達も多いと知った。また南岸地域の多くのスーパーや量販店では、トイレの貸出協力をしているとも聞いた。

今日9日から水道の給水が再開され、飲料水以外には水道を使えるようになったとの電話があってホッとしている。

 

・・・紀の川北岸にある阪和自動車道の「紀の川SA」・・・

女子トイレは使用禁止だった。男子用トイレは使えたが手洗いはタンクの水だった。フードコートは休業していた。

断水を知らずに立ち寄ったドライバーは、ビックリしているはず。

 

・・・思い出した・・・

幼少の頃の昭和28年7月18日(7・18大水害)、有田川流域で死者・行方不明者359人・重傷者318人、流失・全壊家屋が約3700戸(「七・一八水害誌」有田タイムス社編より)の大水害があった。

我が家も2階で大人の腰まで水が上がってきたが、幸い流失は免れた。

屋根にまたがったまま濁流に流されていくご近所さんの光景は、今も忘れられない。(流されたご近所さんは鉄橋に飛びついて助かったと、後日、聞いた)

ただ泥水が引いて避難する時、階下が流木だらけで外に出られないため、2階の屋根から降りた記憶も残っている。

濁流が減ってきて避難する時、まだ濁流が流れていた箇所は、保安隊(現・自衛隊)の渡し船で対岸に渡り、トラックの荷台で避難所の小学校に着いた。そこで何日か避難生活した後、何か月間も親戚の家でお世話になった記憶も残っている。

<有難かった保安隊(「七・一八水害誌」有田タイムス社編より)>

保安隊(現・自衛隊)同様、全国から送られてきた救援物資の有難さは、今もなお、我が心に焼きついている。

両親や地域の人々がどれだけ大変な思いで復旧されたのかは、思いを馳せるしかないが・・・

 

一時期の断水や停電ならともかく、南海トラフの巨大地震による大津波や家屋倒壊、豪雨による河川氾濫には備えきれない。

大災害になったら、水だけでなく電気も止まる。それどころか、住む家まで失ったら途方にくれる。

想像すらしたくない光景が脳裏をよぎった。



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