原地区の民家土蔵の蔵飾りで鉞を脇に金太郎があぐらをかいて両手で宝珠を抱えている像が漆喰細工で表されている。通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵飾りと称している。
原地区の民家土蔵の蔵飾りで鉞を脇に金太郎があぐらをかいて両手で宝珠を抱えている像が漆喰細工で表されている。通常鏝絵と称されているが当ブログ主は蔵飾りと称している。
時折り紹介している原地区の氏神である伊勢神社の本来の参道に二基の石鳥居が建立されている。一の鳥居(上画像)は嘉永2年(1849)9月に国実氏子中が寄進建立しており、二の鳥居は宝暦14年(1764)9月に氏子により寄進建立されている。
昭和59年(1984)に後畑地区の農家の草葺き屋根(茅、麦藁、稲藁などで葺いた屋根)の骨組みを調べさせて貰った時の図面である。民俗学の専門の方の聞き取り調査によると軒桁までの骨組みは大工職が携わり、軒桁から上の合掌などは屋根葺き職の仕事であったようである。
後畑地区でみられる旧農家で母屋と納屋の屋根が薄鉄板葺きとされているが、草葺き屋根であったらかつての農家の佇まいを彷彿とさせる。納屋棟には農業用の物置と牛小屋又は馬小屋が併設されていたものと思われる。下画像は昭和59年(1984)頃の後畑地区の農家の間取りである。(廿日市町史通史編(下))
先日訪れることが出来なかった地獄の鼻を訪れた。上画像は原地区から遠望した似島の南部にある地獄の鼻(赤矢印)で標高76.9mの四等三角点があり点名は地獄山とある。三角点に隣接して石積みの遺構がみられ似島の遺構地図によると監視所跡(高射砲陣地)とあった。三角点カ所から廿日市方面を遠望すると市街地と西広島バイパスの廿日市高架橋が見えその左上側には山陽自動車道の速谷高架橋がみえる。その上側にはふれあいライフ原から原集落がみられ、以前にも紹介した泉水峠の法面がみえその上部遠くに標高1050mの大峰山がみられる。
原地区をウォーキングしていると古い物置に昔の納屋などによくみられた無双窓があった。窓に縦板をその板幅と同じ隙間を開け取付、その内側にこれと同じような引障子を溝に入れて障子を引くことにより隙間を全開、全閉する装置で無双窓という。
昨年末に切り取っていたドングリ(クヌギ)の木に椎茸の菌を植え付けた。少しずつ朽ちていくので毎年少しずつ補充をしているのである。キウイ棚の下にホダ木を並べているのであるが今時期は葉が落ちているので日差しが入り気味である。
原地区からの遠望
宇品港からの遠望
外方の鼻
箕浦の鼻
安芸の小富士がある似島の南半分を周回探訪した。上画像は原地区からの遠望で似島の主峰である安芸の小富士が遠望できる。江戸期の地誌に「形富士に似たり、俗に小富士とよぶ」とあり、江戸期から安芸の小富士と呼ばれていたようである。似島学園前桟橋から南端まで歩き外方の鼻、箕浦の鼻での探査でくたぶれ、似島港まで歩かないといけないので地獄の鼻の探査はあきらめた。島ではかつて農業用水の確保が難しかったものとみられ各所で下画像のようなコンクリート製タンクがみられた。
広島はつかいち大橋の橋脚部分で木材港南にある広島ガス廿日市工場から広島市内方面に供給配管されているものとみられる太いパイプが複雑に折れ曲がって配管されている。橋脚の右側部分は陸地側で左部分は橋梁部分であり地震などの様々な外力を吸収するためのエキスバンションジョイントが設けられているものとみられる。
通称早瀬砲台山にある早瀬第一堡塁跡を探訪してみた。早瀬堡塁は以前紹介した室浜砲台と同時期に築造されたものであり、早瀬第一堡塁は早瀬海峡を通過する敵艦を要撃し、早瀬第二堡塁は釣士田や先奥方面からの敵兵阻止、釣士田港を射撃するよう設置されたようである。画像のような状態であり第一堡塁のみの探訪で退却した。
高台から山陽自動車道の宮島サービスエリア上り線側を俯瞰、高い照明塔の脇に下り線側の公園にある赤い鳥居がみられる。鳥居のある下り線側の公園からは宮島の厳島神社が遥拝できるのである。鳥居には通常神額が掲げられているのであるが、NEXCOが設置したものであり額には交通安全と記されているのである。
先日紹介した早瀬砲台山の尾根筋に呉要塞第一区地帯標第一七号と呉要塞第二区地帯標第三三号、火山山系で呉要塞第二区地帯標第五五号の標石がみられた。これらの標石は防禦営造物から一区は250間(455m)、二区は750間(1365m)の範囲を示すもので、これらの区域内では様々な制限や禁止事項が定められていたのである。
昨日紹介した厳島神社の御座船が格納されている船屋の前の道路にあるマンホール蓋には遣唐使船がデザインされていた。倉橋は古くから造船で栄えた地であるようだが遣唐使船を建造したとの史料はみられないようである。平成元年に造船の地の船大工達が遣唐使船を復元し現在長門の造船歴史館にて展示されている。