『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

大須山防空砲台(防空高角砲台)跡-2

2016年03月16日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり


大須山森林公園として整備された荒れ放題(砲台)から大須山頂、尾根筋を進んで行くと石積みの軍道や施設、防空壕、窪地跡などがみられ、探照灯や聴測装置などがあったものとみられる。
さらに尾根筋を進むと呉要塞第一区地帯標石が残されている。要塞第一区地帯は防御営造物から250間(約455m)の範囲であり、この標石は大須山防空砲台の周囲に建立されていたもののようである。
呉要塞地帯区域標石について

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大須山防空砲台(防空高角砲台)跡

2016年03月15日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり


江田島市にある大須山の防空砲台(防空高角砲台)跡を探訪した。大須山防空砲台は太平洋戦争時に以前紹介した厳島聴測照射所などと共に第4砲台群に所属して呉軍港などの軍事重要施設の防衛援護をしていた。
大須山に砲座、指揮所、兵舎、水槽、防空壕跡などが残る一帯は県の環境防災林整備事業で大須山森林公園として整備されたようであるが現在は荒れ放題(砲台)であった。

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洞雲寺末寺の宝持寺

2016年03月14日 | 廿日市関連


江田島市大原にある宝持寺で当寺の記録では洞雲寺15世骨岫玄的禅師が宝持寺開山で洞雲寺22世の円巌瑞明禅師が宝持寺2世となっているが、年代的にみて骨岫玄的禅師は勧請開山とみられる。
当寺は平成11年(1999)の土石流で本堂が倒壊したために他所に新しく再建されている。下画像は昭和60年代頃に訪れた時のもので山門は被害を免れて移築されているようである。(廿日市の文化第20集「洞雲寺特集」参照)

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可愛川の橋-榎浦橋

2016年03月13日 | 「廿日市地区」ぶらり


国道2号線の可愛川に架かる榎浦橋で昭和7年(1932)3月に完成しており宮島観光道路として築造された。橋の上流側と下流側には鉄骨の歩道橋が架けられている。
橋脚部分の一部に石積みがみられる部分は当初のもので後にコンクリート補強されている。親柱は石積みの藤掛橋のものと違っており橋名をみると左右の字体が違うので何度か改築されたのであろうか。

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可愛川の橋-中榎之浦橋

2016年03月12日 | 「廿日市地区」ぶらり


可愛川の河口から3つ目の橋である中榎之浦橋で昭和61年(1986)の国土地理院空中写真ではこの橋はみられず、昭和63年(1988)の同空中写真にみられるので昭和62年ごろに架橋されたものとみられる。
これまでみてきた橋名で読み方は同一であるが榎の浦、榎浦、榎之浦と表示してあった。昭和27年(1952)の国土地理院の地図をみると可愛川は速谷川と表示してあるがいつ頃呼称が変わったのであろろうか。

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可愛川の橋-下榎浦橋

2016年03月11日 | 「廿日市地区」ぶらり


市役所とゆめタウンの間の市道で可愛川に架かる下榎浦橋である。昭和37年(1962)の国土地理院空中写真ではこの橋はみられず昭和49年(1974)の住宅地図にみられるので昭和40年代に架橋されたものとみられる。
上画像の市道脇にみられるコンクリート護岸は榎の浦新開の土手に設けられたもので、これより南側は遠浅の海で当ブログ主が子供の頃には海水浴や貝堀りをしていたものである。

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可愛川の橋-榎の浦大橋

2016年03月10日 | 「廿日市地区」ぶらり


可愛川に架かる県道247号廿日市港線の榎の浦大橋で最も下流域にある橋であり、銘板によると昭和51年(1976)3月に竣工している。
かつてゆめタウンの地は県営の貯木場であり満潮時にはこの橋の下を潜って引き船が木材を運んでいた。広島南道路が整備されたら可愛川に架かる橋も変わっていくかもしれない。

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民家の桁鼻飾り

2016年03月09日 | 「廿日市地区」ぶらり


下平良地区にある民家で妻壁部分が下見板張りとしてあり壁面を飛び出た桁部分が洒落た化粧桁鼻としてある。
壁面から突出した桁の鼻は風雨で風化しやすいので実用と飾りを兼ねており、板で屋根型を作って桁鼻には家型の板が張ってある。

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住吉神社の玉垣

2016年03月08日 | 「廿日市地区」ぶらり


住吉神社に巡らせてある玉垣の中で親柱2本に「廿日市券番中」とあり、また「三味線、古と商・・・」と刻されたものもある。
明治・大正のころ廿日市には佐伯郡役所や警察署、区裁判所出張所などが置かれ、己斐以西の佐伯郡6町35ケ村の中心地として繁栄しており、これらは廿日市のよき時代の名残りである。

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住吉神社の石鳥居・石燈籠

2016年03月07日 | 「廿日市地区」ぶらり


昨日紹介した住吉神社の石鳥居と石燈籠で鳥居には「文政4年(1821)6月」の刻銘があり、燈籠には「文化7年(1810)11月、25世誓誉代」の刻銘がある。
刻銘年代から住吉神社が潮音寺境内にあった頃に石鳥居と石燈籠は建立されている。燈籠には潮音寺の住職25世誓誉の名が刻されており、廿日市港波戸の根に移転後も潮音寺支配であり神仏習合であったことが窺える。

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住吉神社

2016年03月06日 | 「廿日市地区」ぶらり


廿日市港の近くにある住吉神社で廿日市港に出入りする船舶の守護神として祀られており、江戸期には潮音寺境内にあった。
住吉新開の築造に伴って廿日市港も整備され安政6年(1859)頃には波戸の根に祀られている。絵葉書は大正期か昭和初期頃のもので廿日市港の入口に住吉神社がみられ、昭和58年(1983)頃木材港整備に伴って現在地に移設された。

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椎茸ホダ木に植菌

2016年03月05日 | その他


一昨日、伐採して置いていたドングリの木(クヌギか?)にドリルで穴をあけて椎茸の種菌を400個打ち込んだ。
伐採、植菌、植菌後の管理も全く自己流であるが2年位すると椎茸が生えてくるようになり我が家で消費するくらいは生えてくれる。
5~6年位でホダ木は腐食したりシロアリに食われて駄目になるので毎年少しずつの補充は欠かせないのである。

※ 昨日、当ブログを開設以来トータル閲覧数300万PVの大きな区切りを迎えることが出来ました。老化防止のために記しているつたないブログですが、多くの方々のご来訪閲覧に背を押され何とか継続することが出来ました。ネタ切れ気味であり次の大台まで頑張れるだろうか・・・

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雛祭り

2016年03月04日 | その他


昨日は雛祭りで当ブログ宅では雛人形が先月初め頃から飾ってあり娘が保育園時代に作った雛人形や孫娘が保育園時代に作った雛人形も一緒に飾ってあるようだ。

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住吉土手の桜の木が!

2016年03月03日 | 「廿日市地区」ぶらり


住吉土手は桜の名所でもう1ケ月位すると満開の桜並木で多くの花見客で賑わうのであろうが、老樹が多くみられ痛々しい姿となっているものもある。
桜の木には番号札付けてあり土手の北側に121本と南側に120本あるが老樹などの手入れのために番号札がつけてあるのだろうか。現在、東側付近の土手南側に植えられていた樹木が伐採されているが続けて緑地帯が伐採されるのであろうか。

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森宗八幡神社聖跡碑

2016年03月02日 | 「廿日市地区」ぶらり


ふれあいライフ原(旧国立原病院)の敷地内に建立されている森宗八幡神社聖跡碑で、この地に森宗八幡神社が祀られていたが、明治期に村社である伊勢神社に合祀された。
この碑は刻銘によると紀元2600年(昭和15年-1940)記念事業で旧氏子の人達によって建立されたようである。

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