上平良地区にあった民家土蔵が先日取壊されたようで以前に紹介したかと思われる蔵飾りが消滅した。
妻側のケラバ部分には三重の円文様内に富貴祈願の福槌を漆喰細工で表しており、窓廻りには漆喰で装飾窓縁が設けられていたのだが・・・
昨年収穫していた綿の種を蒔いたら大きく育ち毎朝きれいな花を付けているが日中には萎れて数日後に落ちてしまう。
黄色い花弁の先端部がスカーレット色に変化していくきれいな花である。綿が出来ても使い方がわからず昨年のものがまだそのままでありもっぱら観賞用となりそうである。
時折新春の速谷神社に奉納する注連縄用のモチ米栽培について紹介しているが、画像右側がもち米タンチョウモチ、左側はうるち米ヒノヒカリで天候が良いのでよく育っている。
9月末の落水まで水管理が必要で、早朝の散歩がてら速谷神社に参詣して田んぼの水廻りするのが日課である。
吉和田尻地区の高台に旧吉和村の忠魂碑が建立されていた。碑石が高所などに配置されているので建立年など確認することができなかった。
確認できた碑石には日清戦争、北清事変、日露戦争、欧州戦争、日支事変、大東亜戦争による戦没者と戦災死没者の名前が刻されているようである。
昨日は飛び鶴の懸魚を紹介したが民家土蔵の蔵飾りで飛び鶴の漆喰細工があり以前にも紹介したことがある。
この蔵飾りは市域のうちでは最高クラスの作品であるが、家の周囲をみると手入れがされてなく無住のようであり先行きが危惧されるのである。
吉和地区の民家屋根で妻側破風板が合掌した部分で棟木の鼻隠しともに妻飾りである懸魚(ゲギョ)に飛び鶴が彫刻されたものが設置されていた。
鶴は縁起物であり羽ばたく姿は当家の飛躍繁栄を祈念して設けられたものとみられる。屋根の反対側には雲紋懸魚が取り付けられていた。
吉和地区にある民家で外壁の造り方が見たことがないようなもので、柱間に三ヶ所の貫材が通してありそれに竪板が嵌め込まれているものである。
吉和地区の古い民家や納屋などにこのような板壁のものがみられ、中国地方の民家(昭和41年-1966発行)によると「山県郡の旧芸北町や旧戸河内町に板壁がみられ柱に貫を通し栗の板を嵌め込むのである」とある。かつて板壁の民家は多雪地域である西中国山地の民家ではよくみられたもののようである。
来週はお盆なので墓前に供える盆灯籠を例年の如く作ろうと準備を始めると!! なッなんと竹に虫がついてポキポキと折れてしまった。
何とか孫用の小さい燈籠だけは作ることができたが今年は手作り燈籠というわけにいかなくなった。竹に虫がつかないようにと冬場に切っていたのだか切り時が悪かったようである。
家庭用のトマトを少しばかり栽培しているが通常のものより少し変形したトマトが出来た。
ネットによると野菜は気温や日照条件や雨、カリウム不足や受粉状況などで奇形が出やすいとあったが、このトマトは可愛い形状であり奇形ではなく変型トマトである。
時折宮島SAスマートICへのアクセス道路工事について紹介しているが、宮島SA方面に向かう見通しの悪い峠部分は一車線がほぼ完了したようで峠道路も掘削されて拡幅されるものとみられる。
離合の難しかった画像向う部分も拡幅され二車線部分が仮舗装されて車の通行が出来るようになっているところもみられる。
毎日うだるような暑さが続いているのでチョット涼を。飯の山ダムから流れている野田川は飯の山集落東部を流れており、集落東北部にこの瀧の口滝がある。
江戸期の宇佐往還は滝の前面を横切っており、架かる橋から眺めると上の滝と下の滝があり涼を求めるために旅人はここで一休みしたものであろう。
昨日紹介した箱棟を載せた草葺き民家の周辺にはかつて草葺き屋根であったものが鉄板葺きに改修されている民家が数軒並んでみられた。
このような民家の家並みも田舎の風景にはよく似合うのでいつまでも残してもらいたいものである。
市域に残されている草葺き屋根の上に鉄板葺きで箱棟のある民家をこれまで数軒紹介してきた。
吉和地区に市域で唯一の草葺き屋根に瓦葺きの箱棟が載せてある民家が残されている。かつてはこのような箱棟を載せた民家がみられたものであるが・・・