津田八幡神社の拝殿内周囲に5種類の切り絵が張ってあった。拝殿内では秋祭りのヨゴロに津田神楽団が神楽を舞っているようであり、切り絵は魔除けとして飾られこの内を聖域とされているのであろうか。切り絵は各地方で色々な呼び方があるようで天蓋飾り、長押飾り、切り飾り、彫り物(えりもの)、切り紙(きりこ)などといわれているようである。
津田八幡神社の拝殿内周囲に5種類の切り絵が張ってあった。拝殿内では秋祭りのヨゴロに津田神楽団が神楽を舞っているようであり、切り絵は魔除けとして飾られこの内を聖域とされているのであろうか。切り絵は各地方で色々な呼び方があるようで天蓋飾り、長押飾り、切り飾り、彫り物(えりもの)、切り紙(きりこ)などといわれているようである。
津田地区に祀られている八幡神社の拝殿や向拝などそんなに古い時代のものではなさそうである。この向拝には手の込んだ彫刻がみられるのである。正面中央の蟇股の下段には複雑で繊細に彫られた龍が設けられており、両側の柱には装飾彫刻の木鼻で獅子頭と獏頭がみられる。
岩倉地区の作業場か倉庫であろうか軒下に相当以前のものとみられる大きな木の鎖のようなものが置いてあった。大きな木から作ったものかと思ったが板状に加工された痕跡がみられるのである。厚板をチェンソーで輪に加工したようであるがどのようにして繋いだのであろうか。ひび割れはみられるが継ぎ目は無さそうであるが・・・
昨日紹介した岩組速田神社・天王神社の拝殿に掲額されている絵馬で、太平記巻三十二(その一)の長山遠江守が赤松氏範との一騎討ちで斧術を駆使した場面が描かれているようである。この絵馬は慶応2年(1866)5月に奉納掲額されている。
岩組地区に祀られている速田神社で天王神社を合祀されている。江戸期の地誌には「鎮座年間等ハ相知不申」祭神飽速玉命とあり、古い時代に平良の速田神社(現速谷神社)を分祀して祀られたものとみられる。この地は田舎地帯であるが稲藁の入手が難しくなったのか、造り手がいなくなったのであろうか注連縄が藁風ビニール注連縄とされていた。
友田地区の田んぼで古代米の黒米が作付けされていた。大きな田んぼであり相当の収量があるとみられるが何に使用されるのであろうか。隣接のうるち米の田んぼに1株の黒米がみられ稲の背の高さの違いがわかるのである。
うだるような毎日、滝画像でちょっぴりの凉を・・・
川上地区を流れる吉末川で大峰山登山口付近にある七尋淵で看板表示によるとエンコウ(河童)伝説の地とあるが、どのような伝説があるのか定かでない。七尋淵は七ヒロの高さ又は大きさのある淵であるということであろうか。縄の長さを計るのに両手を広げた長さを一尋(ヒロ)と言っていたが・・・
うだるような毎日、滝画像でちょっぴりの凉を・・・
所山地区を流れる大虫川に形成された二段の滝と大きな甌穴のある渓谷で万古渓と称されている。上の滝の画像は撮れなかったが高さが10m位あるようで下の滝は高さが26m位あるようである。少し下流域に大きな甌穴があり孫渕と称されている。
うだるような毎日、滝画像でちょっぴりの凉を・・・
昨日紹介した夫婦滝の少し下流で国道186号線下を流れる鹿の打川が小瀬川(木野川)に合流している。合流地点より鹿の打川を少し遡ると主滝と滝壺から二股の滝になった三滝がみられる。国道186号線下のボックスカルバートを鹿の打川が流れており国道を走っていても橋とは気づかず、隣接して旧三滝橋の一部が残されているが樹木の繁茂で分かりにくい。
峠地区の最禅寺境内に浅浮彫合掌仏立像が移設建立され祀られている。板状石に浅浮彫りされたもので、顔面は平面的で頭部には肉髻珠がみられ衣文線が特徴的である。この合掌仏立像は以前不適切な状態であったものを当寺に移設し建立したものであると教えてもらったことがある。
旧山代街道分岐点付近
旧山代街道
亀尾川垰(県境)
亀尾川の街道名残り
山代街道亀尾川御番所跡・池の垰一里塚跡
昨日紹介した江戸期十王堂があったと思われる地付近の津和野街道から山代街道が分岐しておりその名残りの小路が残されている。上画像の町並みを通る県道30号(旧津和野街道)から左手に入る道が旧山代街道である。旧佐伯町内の旧山代街道についての調べは進んでいないようであるが山口県旧美和町方面の旧山代街道については調査がされ所々に説明表示がされている。
佐伯町中組の県道30号線津田口バス停前の三差路脇に建立されている旧津田村の境碑で、大正6年(1917)4月に建立されており、「従是西 津田村 廿日市町へ約四里余 十王堂へ約十八丁」と刻されている。この碑は以前数十メートル津田寄りの県道脇に建立されていたが、道路拡幅(?)によってか移設されたようである。
市佐伯支所の入口脇に建立されている花崗岩製のレトロな門柱(?)は表示によると旧津田町役場の玄関礎石であったようである。津田町役場は昭和7年(1932)に建築されたようであるが、当時の画像は見当たらない。この玄関礎石をみると津田町並みで威厳のある官庁建物であったものとみられるのである。