旧加計町の杉ノ泊地区にある大元神社に参詣した。南東端の安野地区では桜、桃、レンギョが満開であったが、標高の高い杉ノ泊大元神社では屋根から落ちた雪がうず高く積もっていた。旧石見国内に大元神社が560余社みられるのと同様に安芸厳島・大元神社を勧請したものとみられるが、どのように大元信仰がされていたのかは定かではない。
旧加計町の杉ノ泊地区にある大元神社に参詣した。南東端の安野地区では桜、桃、レンギョが満開であったが、標高の高い杉ノ泊大元神社では屋根から落ちた雪がうず高く積もっていた。旧石見国内に大元神社が560余社みられるのと同様に安芸厳島・大元神社を勧請したものとみられるが、どのように大元信仰がされていたのかは定かではない。
昨日紹介した江戸期広島藩主が入湯の旧湯治場裏手に祀られている湯之山神社で、本殿内に吊下げられている鉄燈籠は寛延3年(1750)5月に広島藩主浅野吉長が寄進しており、廿日市鋳物師の山田平左衛門が鋳造している。拝殿内に掲額されている当境勝景狂歌額には以前紹介した石州往還の柏木峠を詠った鬼窓の柏木噯鹿「秋の夜の 鹿は女三の 宮なれや こひこかれなく かしはきのたを」がみられる。(鉄燈籠 昭和59年撮影)
当ブログ主は探訪地に祀られている厳島神社を参詣するようにしており、山鹿市長坂にある厳島神社を参詣した。この地にどのようにして勧請され祀られたのかは定かでない。HPをみると厳島神社では毎年3月上旬に変わったネーミングの市無形民俗文化財に指定されている「なれなれなすび踊り」が開催されるようである。
熊本県には石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋などが沢山築造されているようで、厳島神社参道には文久2年(1862)に築造された小さな石造アーチ橋が架けられている。
財田厳島神社
三津屋厳島神社
養老厳島神社
当ブログ主は探訪地や道中に祀られている厳島神社を参詣するようにしており今回の探訪途中3社を訪れた。国道319号を通ってうだつの町並みに行く途中三豊市財田町の厳島神社に立ち寄った。旧財田町教委の看板表示によると近隣の宝光寺縁起に永正元年(1504)安芸国厳島神主佐長伊豆守道雅がこの地に勧請したと記されているようであるが、文献にはみられないような??厳島神主名である。
帰路はしまなみ海道経由で西条市三津屋の厳島神社を訪れた。かつて三津屋浦の船着場であったところで安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているようであり、近くには「こんぴら道」と刻された大きな道しるべが建立されていた。今治市波方町養老の厳島神社に参詣、厳島神社の地は看板表示によるとかつて来島村上氏の隠居屋敷である養老館跡(別名別台)ということであり、近世以降にこの地に祀られたようである。
浜田市旭町木田地区に祀られている大元神社で、石見地方を訪れた時には道中にある大元神社を訪ねている。
石見地方では明治初年頃564社位の大元神社が祀られていたようであるが、どのような信仰が行われ祀られていたのかは定かでない。大元神社は厳島より勧請と記されているものが複数みられるので、厳島神社摂社の大元神社が土地の開闢の元祖神として勧請され祀られていたものではなかろうか。
吉賀町六日市のみろく公園わきにある久保田大元神社で、江戸期吉賀地域には大元神社が12社、厳島神社が5社、速田(早田)神社が4社、地御前神社が1社みられ、廿日市地域の神社が多く勧請され祀られているのである。
これらをみると中世からの往来のあった津和野街道(石州街道)を介して廿日市地域との深い交流があったことが窺われるのである。拝殿脇に供えられている玉串の紙垂が色紙であるのが特徴的である。
江戸時代、津和野藩主は重要な勤めであった参勤交代などの往来には津和野街道を東上して廿日市の津和野藩御船屋敷に宿泊しここから海路をとって室津に上陸していた。
津和野から青野山南麓の元笹山地区に向かっていると県道脇から旧津和野街道が残されており笹山川に大きな石橋が架けられている。看板表示によると津和野街道時代の遺構「笹山の石橋」のようである。吉賀町の七日市交差点のバス停脇に「右つわの道」と刻された石碑がある。旧津和野街道のどこかに建立されていたのであろうがいつの時代かに現在地に移設されている。
一昨日紹介した須佐神社には境外摂社の厳島神社が祀られており、少し離れた所にある厳島神社を参詣した。厳島神社には市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命を祀っているようで、「洗度社」、「祓戸社」と称されているようである。
※ 昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数70万IPのご来訪をして頂き、今月中にはトータル閲覧数350万PVの閲覧をして頂けそうです。老化防止のためにあちこち徘徊して何とか更新している面白くもなく万人向きでない当ブログに多くの方々にご来訪して頂き大いに励みになります。老体鞭打って頑張りますのでお暇なときにご来訪頂ければ幸いです。
昨日紹介した須佐神社に隣接の出雲須佐温泉ゆかり館で貸切り状態の温泉を堪能し、ホールの壁面をみるとかつて出雲大社から宮島までの壮大な鉄道敷設計画(陰陽連絡鉄道)の大社宮島鉄道に関する資料・写真パネルが掲示してあった。
昭和7年(1932)に出雲今市駅から出雲須佐駅まで開通したが出雲須佐以南は着工に至らず、後に一畑電気鉄道立久恵線として営業していたが昭和40年(1965)に廃止されたようである。出雲須佐駅跡の一部は一畑バス須佐車庫となっており、神戸川岸には橋台の跡が残されていた。
当ブログ主は訪れた旅先に祀られている厳島神社を可能な限り参詣することにしており、JR丸亀駅近くにある市寸島神社を参詣した。何と一の鳥居から参道脇両側境内地にバラック建築がずらりと並んでおり、かつて店舗は繁栄していたものであろうが今は空き家となっている。若い頃広島市的場町の猿猴川岸に不法占拠で強制執行のバラック店舗があったことを思い出した。
ネットの地図などには一寸島神社、香川県神社誌(昭和13年刊)には市寸島神社、鳥居の神額・拝殿の神額には厳島神社・天満宮とあり、神社誌によると祭神は市寸島媛命・菅原道真公とある。
直地大元神社
上横道大元神社
津和野町直地地区に祀られている大元神社と上横道地区に祀られている大元神社を参詣した。上横道大元神社には下横道にあった厳島神社が合祀されているようである。
石見地方では明治初年頃564社位の大元神社が祀られていたようであるが、どのような信仰が行われ祀られていたのかは定かでない。大元神社は厳島より勧請と記されているものが複数みられるので、厳島神社摂社の大元神社が土地の開闢の元祖神として勧請され祀られていたものではなかろうか。
津和野町池村字石楠山にある大元神社跡の樟で目通り幹囲が12.5m、樹齢450年といわれ県の天然記念物に指定されており、島根で一番大きな木と看板表示があったが・・・
石見地方で多く祀られている大元神社の神木として古くから守られてきたものとみられるが、明治期の神社合併により大元神社は三渡八幡宮に合祀されたようである。
廿日市の津和野藩御船屋敷で生まれ幕府の天文方に仕えて蝦夷地測量図を作成した堀田仁助の墓所がある永明寺を参詣し、30数年前に訪れた記憶を頼りに堀田仁助の墓を探した。訪れる人が殆どないようで朽ちかけた案内板は雑草と雑木に隠れており、雑草をかき分けて雑木林内に無縁墓があちらこちらにある中でやっと堀田仁助の墓を見つけてお参りした。
堀田仁助に関する展示があるかと津和野町郷土館を訪れたが「從江都至東海蝦夷地針路之圖」のみの展示であり撮影禁止なので「トラベルjp」HPの画像を拝借し、堀田仁助の天球儀・地球儀の画像「太皷谷稲成神社」HPの画像を拝借した。
功山寺本堂
功山寺仏殿
笑山寺本堂
功山寺は関ヶ原の合戦後に移封された毛利秀元の帰依を受けた洞雲寺12世三庭龍達が荒廃していた長福寺(長福寺の遺構仏殿は国宝)を復興し曹洞宗に改め、自ら三世となり洞雲寺13世大雲守的が4世、洞雲寺17世基外嶺雄が5世となっている。秀元は父元清の位牌を安置して笑山寺と称していたが、秀元没後に法号巧山玄誉居士により巧山寺と改称した。
笑山寺は秀元の請いにより三庭龍達は荒廃していた潮音院に秀元母(妙寿寺殿松渓妙寿大姉)の位牌を安置して妙寿寺と改めて住持となっており、三庭龍達は師である洞雲寺11世天翁玄播を開山とし自らは中興2世となった。後に元清の位牌を安置して笑山寺と改称している。
三原市本町にある大島神社・厳島神社で江戸期の地誌によると稲荷・厳島大明神と言われていたようで三原七社のうちの神社のようである。
稲荷社は一昨日紹介した三原城天守台の地にあった大嶋に鎮座していたが、築城後は城の鎮守として祀っていたようである。厳島社は小早川隆景が九州陣中で日参祈願しており三原城築城の際に御広間庭へ建立していたが、福島正則の時代に両社ともに現在地へ遷座したようである。