霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

五仏堂

2011-11-10 09:53:02 | 歴史/古文書
五仏堂は今は金堂の代わりをしていました。最初にここへ案内され本尊を拝みそれから説明となります。金堂は300年ぶりの解体修理となり平成21年から29年まで大修理されるのです。このお寺は奈良時代の天平年間に創建されましたが永万元年に中興され後白河天皇の皇妹八条院は当時日本一の金持ちでしたのでその人の援助で中興したものです。その後女性の僧正が2代続いたことで女人高野と呼ばれるようになった。

多宝塔

2011-11-09 09:33:16 | 歴史/古文書


平安時代のつくりだそうですが年代は細かくわかっていません。金剛寺の多宝塔は日本で一番古い多宝塔と言われています。その形式が日本最古の形式をとどめているとのことです。昭和13年の解体修理で分かったとの説明でした。この写真は多宝塔の向こうに大杉がありましたこの場所から天野山八十八箇所めぐりの山道が始まっているとのことでした。慶長13年豊臣秀頼がこの塔を修理しています擬宝珠に修理年、秀頼の名、が刻まれており今でも鮮やかに読み取れます。説明では正面の2個の擬宝珠が盗まれたままで木造の仮のものになっておりさびしい気持ちになりました。

金剛寺

2011-11-07 07:55:20 | 歴史/古文書
何十年ぶりの金剛寺です。この場所は河内長野市天野町にあります。そのため天野山金剛寺と呼んでいます。今から38年位前のことですので拝観券を買ってザアート伽藍を見て帰った程度で、ガイドの説明もなく記憶に残るのは少ないですが山門前の小川と各坊の多くたちならんだ景観かすかに記憶として残っていました。写真は境内からの山門の眺めです。

和歌山城

2011-11-04 17:37:10 | 歴史/古文書

何年ぶりの和歌山城であろうか、そうだ昭和53年ころからの33年ぶりになるのかなー。何かなつかしく思いましたが、虎伏せ山の丘を利用して秀吉の弟の秀長が天正13年(1585)に築城したのが始まりといわれている。現在の城は最盛期の4分の1の広さであるがそれでも広く感じられた。この城の天守閣は戦災で焼失し昭和33年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。初めは若山と呼ばれたいたが秀吉が築城させたときに和歌山と改められて今日まで呼ばれている。
天正14年(1586)桑山重晴に3万石を与えう城代にして守らせた。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで桑山氏は東軍に属したため2万石で和歌山城の城主にされた。
間もなくして大和新庄藩に転封となり、その後同じく東軍に属した佐野幸長が37万6千石を与えられて紀州藩主となり和歌山城を預かった。
元和5年(1619)徳川家康の10男、頼宣が55万5千石を領し和歌山城主となり幕末まで徳川御三家の一角として栄えた。夕方4時半ごろバス駐車場に到着して城内の見学をはじめたのであるが日暮はつるべ落としのように早く暗くなった中をバスの駐車場へと下って行った。5時には一部の門が閉じられたりして遠回りして駐車場へ行くことになった。集合時間5時半を待っても3人が集まらず。4・5人が手分けして、暗い中探すも見つからず。うち二人はバスの駐車場が分からずお城公園を3回もまわったとのこと。40分も待ってようやくバスまで来ました。後の一人は宿泊のホテルへ着いたとの連絡が取れた。集団での行動の難しさがわかるので勉強になったというかほっとしたのである。

紀州大野城

2011-11-03 11:06:23 | 歴史/古文書
写真の竹藪の上にかすかに見える山が大野山でそこに大野城があります。建武元年ごろ、浅間覚心(南朝)により東の城が築かれる。畠山国清、細川氏(いずれも北朝)山名義理(北朝)が紀伊の守護を務める。山名氏の時代、曲輪が西方に拡張され支城ができる。明徳2年(1391)12月の明徳の乱で山名義理が大内義弘の1千騎の軍で攻められ、戦わず清水から和歌山の湊につき、髪を落として四国のほうに山名義理は落ち延びた。守護代として義弘の家臣、陶弘宣が居城する。応永6年(1399)12月応永の乱で大内義弘堺で自刃しこの城は畠山基国の城となった。さらに大野城は拡張され近世の縄張図に近いものとなったが豊臣秀吉の紀州攻めで廃城となっており今はその城跡が残るだけとなっているとの禅林寺の和尚さんのお話である。海南市にある中世の古城である。

禅林寺のお薬師さん

2011-11-02 09:40:56 | 歴史/古文書

お経を聞いた後お坊さんからこのお寺の歴史についてお話を聞きました。中世とくに南北朝時代は禅林寺がある大野郷に紀伊の国の守護所が置かれ山名氏・大内氏・畠山氏の歴代守護の加護を受け隆盛を誇っていたとの話であった。大内氏は義弘の時代明徳2年(1378)12月から応永6年(1399)まで守護をしておりここに守護代陶 弘宣が居城していた。このお寺には大内義弘の文書が4通、守護代陶 弘宣、郡代平井道助の古文書が9通残っていた。

 このお寺の本尊は塑造の坐像で建武元年(1334)と天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めで太田左近等守る太田城や雑賀衆が防戦したが平定され炎上。寺領も没収されている。もちろん大野城も廃城となった。

 薬師如来の塑造のものは国内では3・4体しかなく貴重なものであると。火災には2度以上あっており現存するのは首から上のみで胴体などはその後作られ、首とくっつけたものとなっている。平成17年に県の文化財に指定されている。

 残念ながら30年ごとの開帳のため本尊の薬師如来は金ぴかの壇に入れられていた。この金ぴかの壇は開帳の時は組み解いて仏像を出すようになているが胴体は鉄骨と土で作られており非常に重たいとの話であった。

禅林寺本堂

2011-11-01 09:26:17 | 歴史/古文書


このお寺は幡川のお薬師さんと言って和歌山県を中心に有名なお寺であった。高野山に近く真言宗である。聖武天皇の勅願寺であったとの古文書が残っており相当古いお寺であるといえます。寺領はこの谷一帯を領し仏聖8所、僧坊12坊承仕3か所あったといわれている。私たちはお坊さんと薬師如来の前で般若心経のお経を聞きながらお参りをしました。写真の本堂は天保3年(1832)に再建されたもの、鐘楼堂は宝暦4年(1754)に再建されたものです。