お経を聞いた後お坊さんからこのお寺の歴史についてお話を聞きました。中世とくに南北朝時代は禅林寺がある大野郷に紀伊の国の守護所が置かれ山名氏・大内氏・畠山氏の歴代守護の加護を受け隆盛を誇っていたとの話であった。大内氏は義弘の時代明徳2年(1378)12月から応永6年(1399)まで守護をしておりここに守護代陶 弘宣が居城していた。このお寺には大内義弘の文書が4通、守護代陶 弘宣、郡代平井道助の古文書が9通残っていた。
このお寺の本尊は塑造の坐像で建武元年(1334)と天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めで太田左近等守る太田城や雑賀衆が防戦したが平定され炎上。寺領も没収されている。もちろん大野城も廃城となった。
薬師如来の塑造のものは国内では3・4体しかなく貴重なものであると。火災には2度以上あっており現存するのは首から上のみで胴体などはその後作られ、首とくっつけたものとなっている。平成17年に県の文化財に指定されている。
残念ながら30年ごとの開帳のため本尊の薬師如来は金ぴかの壇に入れられていた。この金ぴかの壇は開帳の時は組み解いて仏像を出すようになているが胴体は鉄骨と土で作られており非常に重たいとの話であった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます