霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

南妣庵(なんびあん)観音寺

2011-11-20 20:01:06 | 歴史/古文書
木々と緑に包まれた山の中腹にあります。かなりの距離を登っていきますがひんやりとすがすがしい空気となっていきます。南妣とは偉大な人の母を意味しているとのこと。楠木正行(くすのきまさつら)の母久子を祭っているお寺です。観音寺本堂正面です。本堂の前にある階段をのぼると南朝の武将で有名な楠木正成の妻久子の小さな墓があります。宝篋印塔型の墓でした。

楠木正成の妻の墓

2011-11-19 08:55:36 | 歴史/古文書
階段を登った奥にこの墓はあります。正成の妻はこの千早赤坂村の豪族南江備前正忠の妹・久子で元亨3年(1323)に結婚し6人の息子を生んでいる。正行・正時・正儀(まさのり)・正秀・正平・朝成(ともしげ)を育て戦に出ているとき家内の経営を助けたといわれている。
しょうへい3ねん(1348)に楠木正成が四条畷の戦いで討ち死にすると久子を出家して敗鏡尼(はいきょうに)と称し、観心寺から故郷に移って弔った。故郷の甘南備(かんなび)では正成が生前建立した観音殿を移し、仏像(小さな千手観音)を拝し過ごした。この奥にあるのが久子が祭った仏像です。観音殿のそばにあるのがこの草庵です。久子がここに住みながら正成の菩提を弔ったところといえます。その久子は1364年に死去しました。その墓地がこの地であるわけです。楠木正儀(まさのり)は亡母のために観音殿を改めて寺として再興したが足利方の山名氏・畠山氏に迫られて廃墟となりちいさな墓石のみが明治の末まで残っていたそれを岐阜の篤志家加藤鎮之助氏が現在のように復活させているのです。

金剛寺の大僧正

2011-11-17 19:49:31 | 歴史/古文書
我々の研修旅行に対しお別れのとき、わざわざ玄関のお出になりよくいらっしゃったと挨拶とこれからの道中の安全を祈られありがたく拝聴した。なんと御年92歳のご長老でした。こちらが自然と頭が下がる思いがしました。これからも長生きをしていただきたいお人でした。笑顔がなんと素敵な人でしょう。

観蔵院

2011-11-16 17:54:42 | 歴史/古文書
庭園から見た観蔵院です。南朝方に拉致されてこの金剛寺に住まいすること4年間であった。正平9年(1354)3月北朝の光厳・光明・崇光上皇が河内の東条から当院に移り4年間御座所として使われた。7か月後の正平9年10月28日後村上天皇が来山あんざいされ6年間この食堂で政治を執られた。いわゆる南・北朝の天皇上皇が一緒に住まいされたという不思議な場所である。

中世の枯山水

2011-11-14 10:23:55 | 歴史/古文書

宝物館に行く途中にこの庭園があります。室町時代に作庭されていますので苔むしています。枯山水で池泉はないのですが亀島・鶴島と呼ばれる石はあるのです。
 宝物館には重文の仏像や古文書が陳列されています。このお寺の特色は坊舎が小川に沿って立ち並び、山も水も空気も清くおのずと心まで浄化される天野川の水を使って作られたお酒「天野酒」が有名でこのお酒を販売して稼いでいるとのことです。昔から天野酒がこのお寺の経済を支えていたとの説明です。特に秀吉はこの天野酒が大好きで送ってほしいと手紙が届いており、その原文も陳列してありました。
この写真は観蔵院からの眺めである。600年を経た五葉松もあっていかにも歴史を感じられる。桃山時代には徳島の蜂須賀家が改修している。江戸時代には庭師雪舟流の谷千柳が改造している。